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  「良いものは売れる」とはいうけど、広く知らしめないと、売れるものも売れない。これも真理。
 作ったものを単に並べるだけではなく、より効果的な戦略やマーケティング調査を行なうことで、大衆は存在を知り、そして興味を持つ。本質だけではなく、イメージや情報を発信しなければ、その興味の段階にもたどり着けない。
 アーティストが作り、歌い演じる作品だけではなく、洗練されたモダンなイメージを前面に出すことが、他レコード会社に対するソニーの差別化戦略だった。音楽性に沿ったコンセプトに基づく、グラビア写真やPVによるビジュアル・イメージによって、オシャレでカッコいい対象に憧れる10代の少年少女のハートをガッチリ掴んでいた。
 おおよそ83年から88年くらいまで、ティーンエイジャーをメイン・ターゲットに、視覚・聴覚に訴えるイメージ戦略を推し進めていたのが、80年代のソニー(CBS・エピック)だった。当初は地道で草の根的な、アナログな手法ではあったけれど、ボディブローは確実に効果が上がる。
 CBSソニーの設立は1968年と歴史が浅く、多くの老舗レーベルと比べて所属アーティストも少なかった。そもそも設立の経緯が、社名が示すように、外資との合弁会社だったため、洋楽部門は平行輸入で事足りたけど、邦楽部門においてはほぼゼロからのスタートだった。
 邦楽のマネジメントはおろか、既存芸能プロとのコネクションも少なかったCBSソニーは、設立から10年経った81年にSD事業部を新設、新人の発掘・育成を強化してゆく。
 南沙織や山口百恵など、女性アイドル部門では70年代の早い段階から実績を残し、独自の営業戦略・方法論が確立されつつあった。ただ、ロックやポップス、ニューミュージック部門では、絶対的な稼ぎ頭を生み出せず、それは80年代まで持ち越されることとなる。
 まだ社内育成のシステムがなかった70年代、邦楽部門は主に外部からの移籍組が多くを占めていた。吉田拓郎や矢沢永吉など、すでに実績のあるアーティストを揃えていたのだけど、拓郎はフォーライフ設立で抜けてしまい、YAZAWAも海外進出に前向きなワーナーに移籍してしまったりで、みな腰掛け程度の短期間でソニーを去っている。
 実績の少ない新興レーベルのため、ベテランが在籍し続けるメリットは少ないし、引き止める手立ても、結局、情に訴えるくらいしかない。多分、他の中堅どころを引き抜いても、同じ結果になるだろうし。
 「それならもう、自分たちで足を使って汗かいて、有望な新人発掘して育てた方がイイんじゃね?」という社内の意見が多くなってくる。そんな経緯で専門事業部ができあがり、彼らが執り行なったのがSDオーデションだった。

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 厳密には79年から始まり、80年代に大きく花開いたこのオーディション、古くは尾崎豊やハウンド・ドッグ、レベッカや渡辺美里、バービーやTMなど、錚々たるメンツがこの門をくぐっている。ちなみにストリート・スライダーズや聖飢魔IIも、ここ出身である。閣下はまだわかるとして、よくオーディション受ける気になったよな、あのハリーが。
 プロ野球で言えば育成枠、契約金も給料もそれほど出せるはずもない。まだ無名だけど、伸びしろだけはたっぷりある人材を確保した。
 まずは認知度アップ、そのためにはメディアへの露出を多くする。当時、テレビの歌番組は歌謡曲中心で、ニューミュージック系はラジオや雑誌媒体を主体としていた。
 「新譜ジャーナル」や「音楽専科」など、70年代から続く邦楽専門の音楽雑誌は、主にニューミュージック/フォーク系を取り扱うことが多く、パンク〜ニューウェイヴ以降のアーティストへの対応が不十分だった。また、雑誌で取り上げられるためにはギブ・アンド・テイク、いわば広告の出稿がセットになっており、ページ数や評価の良し悪しも、要は金次第だった。
 雑誌のカラーとフィットする、ふきのとうや村下孝蔵の出稿はまだいいとして、渡辺美里やTMネットワークを同列で掲載させるには、あまりにミスマッチだし、それにダサい。まだ70年代と地続きだった80年代初頭、サブカルほど尖ってない、ポップでライトな感性を持つ雑誌メディアは存在していなかった。
 「ないんだったら、作っちゃえばいいんじゃね?」と言うのは簡単だけど、それをどうにかなしてしまったのが、ソニー・グループの守備範囲の広さ。実は持ってたんだよ出版部門。
 フォーク/ニューミュージック系に強い『GB』を既に持っていたCBSソニー出版と組んで創刊されたのが、伝説の雑誌『PATi PATi』。主にアーティスト・グラビアをメインとし、のちに総合音楽情報誌として『WHAT's IN?』も立ち上げた。
 モノクロの小さい写真と純文学タッチの印象批評、漫然としたインタビュー記事が無造作に並べられていた既存雑誌を反面教師とし、カラーグラビアをメインとしたのが『PATi PATi』だった。グラビアを効果的に見せるため、光沢のある上質紙を使い、レイアウトも丁寧に行なった。味もそっけもない新聞記事の見出しではなく、アーティストが発する生のメッセージを、シンプルにコピーライト的に演出した。
 業界慣れした熟練ライターより、アーティストの目線に近い、同世代の若手ライターを重宝した。漫然とした雑談の延長線のようなインタビュー記事とは違って、ファンとアーティストと同じ目線から書かれた言葉は、ティーン読者の共感を呼んだ。
 アーティストの言葉を無理に文章化せず、親しげな友人同士の会話として演出し、さらに親近感を強めていた。きちんとお金と時間をかけたグラビアに、それっぽいキャッチコピーを被せることで、ブランド・イメージの向上に貢献した。
 そんな『PATi PATi』マジックによって、並みのアーティストでも1.5流くらいには見映え良く演出することができる。手段はどうであれ、形から入ってクオリティが上がるんだったら、それはそれで結果オーライ。

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 イメージ戦略と並行して、肝心の作品普及について。
 店に置いて、それっぽいキャッチコピーつけて特典ポスターつけてBGMで流してもらう。いまと違ってSNSもないので、もっと広めるためには、ライブ実演が効果的だ。
 まだライブ経験が浅く、ワンマンでは集客も見込めない場合、何組かまとめて合同イベントを行なった。『PATi PATi』で取り上げたアーティストを中心に、誌上でイベント告知を行ない、格安の料金、または無料で招待するケースもあった。
 当時のレコード会社主催のコンサートやイベントは、いまと違って新譜リリースのプロモーション的意味合いが強かったため、予算もふんだんに使ってチケット価格の高騰を抑えていた。新人イベントの場合はマーケティング調査も兼ねており、ギャラも安く済んだため、主要都市中心に頻繁に行なわれていた。
 ファンや読者の立場からすれば、相対的に高価だったレコードをそう頻繁に買えるはずもなく、ジャケ買い・イメージ買いするのは、相当の勇気が必要だった。なので、まだ聴いたことのない複数のアーティストが入れ替わりでステージに立つ、ショーケース・スタイルのライブは、ブレイク前の先物買い的な楽しみがあり、おおむね好評だった。
 ただこの手法、移動距離の少ない都内近郊、地方なら政令指定都市クラスだと有効だけど、中小都市で行なうとなるとコストがかかりすぎる。『PATi PATi』の好調・イベントの成功によって、ソニー独自のブランド手法が確立されつつはあったのだけど、アーティストの他、関係者スタッフをゾロゾロ引き連れて、日本全国くまなく回るのは、物理的に土台ムリだった。

 代替案として、全国のラジオ局を回ってプロモ盤をばら撒き、地元のローカル番組にゲストとしてねじ込む手も使われたけど、効率は大して良くない。出演できる番組は限られるし、各レコード会社から毎日大量に送られてくるプロモ盤の山の中から、『PATi PATi』系を選んでくれる確率は、絶望的に低くなってしまう。
 音源がもっとも大事だけれど、それだけじゃ伝わらない。イメージ戦略に手応えを感じたSD事業部は、映像メディアに注力する。
 シンプルに、まずはとにかく動く姿を見せるため、ライブ映像やPVを大量に作成した。ここでもグループ企業の強み、ていうか本体がベータマックスやトリニトロンなど、次々と新たなAVアイテムを打ち出していたのが、ちょうどこの時期。最先端の技術をふんだんに、しかも格安、時には無料で使うことができたのだから、他メーカーとのクオリティ差はハンパない。
 言い方は悪いけど、湯水のように使える販促費を「未来の投資」として注ぎ込むことで、多くの映像クリエイターたちにチャンスが生まれ、裾野が広がる要因となった。まだPV制作に力を入れるアーティストも少ない黎明期だったこともあり、いま見返すと出来不出来はあるのだけど、先駆者であったことに意味がある。と思いたい。
 そうやって作られた映像をおおよそ2時間程度にまとめ、「ビデオ・コンサート」と称して、全国各地の公民館やライブハウスで行なった。要はスペシャのPV特集の上映会なのだけど、これなら地方支社のスタッフだけで賄えるし、しかも一回作っちゃえば、ダビングして全国いつでもどこでも開催可能なので、経費も大幅に抑えられる。
 俺も行ったよビデオ・コンサート。確か土曜の半ドンで、放課後にライブハウスで見た記憶がある。

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 主にクローズな場所での公開が多かったPV映像だけど、それなりにコストもかかっているので、せっかくならもっと広範囲に、『PATi PATi』読者以外にも触れられるようにしたくなる。当時のVHSなどの映像ソフトは1万円台が相場で、手軽に買えるものではなかった。なので、テレビ一択となる。
 前述したように、当時のテレビ歌番組は歌謡曲・演歌が中心だったため、よほどヒットしない限り、出演の機会はないに等しかった。さらに加えて、当時のロック/ニューミュージック系のアーティストは、出演依頼があっても辞退する傾向が強かった。
 当初は上から目線での出演依頼だったテレビ局も、80年代に入ってからはニューミュージック系の社会的影響力が大きくなったため、むしろ頭を下げてお願いするようになっていた。ただセールス実績の少ないアーティストにオファーが来るはずもなく、ましてや生放送中心の歌番組では、ビデオを流すという発想自体ががなかった。
 どんなに頑張ってもベストテンや夜ヒット出演は難しそうなので、「じゃあいっそ、深夜の割安な番組枠買い取っちゃって、自前で番組作った方がいいんじゃね?」という発想に行き着いた。すでにアメリカでは、ラジオにとって代わってMTVが主流になっており、日本でも「ミュートマJAPAN」が静かに人気を集めていた。
 そんな流れで始まったのが、ソニー系アーティストPVを専門とした番組「ビデオ・ジャム」。いま調べて初めて知ったけど、初期は北海道ローカルだったんだな。
 まだ地球でデビューしたてのデーモン木暮閣下や、同じくブレイク前のプリプリ:奥居香が司会だった。それにしても閣下、この頃からすでにキャラ完成しており、いまだまったくブレていない。その辺の徹底ぶりは尊敬に値する。
 ソニー提供によるプロモーション主体の番組なので、中高生への刷り込みの影響は、そりゃハンパない。また、グループ本体のソニー製品のCMで、アーティストをイメージキャラとして起用したり楽曲使用したり、考えられる様々なマルチメディア戦略を駆使していた。
 アーティスト側からすれば、ありとあらゆる形でグループ総出で後押ししてくれるし、ソニー的にも系列会社内で循環システムが機能してくれているため、経費もギャラも最小限に抑えられる。
 システム構築までには膨大な手間がかかり、面倒ごとは多々あるけど、一度確立してしまえば、あとは勝手に動いてくれる。ソニー邦楽部門が生み出したマルチメディア展開は、その後のビーイングやハロプロのビジネス・モデルの先駆けとなった。

 ただ、どんな優秀なシステムも、過剰に消費されると、鮮度は落ちる。80年代末期、平成に入るとソニーの勢いに翳りが見え始める。
 ソニーの場合、SDオーディションに合格しても、すぐデビューできるわけではなく、ある程度の育成期間が設けられていた。発声レッスンや楽曲コンペ、アンサンブルの強化など、何らかのスキルアップを得るまで、デビューは据え置きにされた。
 それが平成に入るか入らないかの頃、『イカ天』を始めとするバンドブームが台頭してきた。ブランキーやたま、BEGINなど、こういったポテンシャルの高いバンドを世に出した功績は評価に値するけど、正直、ピンよりキリの方が無数にいたことも、また事実。
 番組出演のために結成し、ノリとウケ狙いでやってたら変に人気が出ちゃって、あれよあれよと勝ち抜いてイカ天キング、そのままメジャー・デビューする者もいた。大して下積みもなく、持ち歌だってそんなにあるはずもないのに、なぜか武道館でライブできちゃったり、もうバブル絶好調。
 とにかく、楽器を持って歌ってキャラが立っていれば、ブームの追い風で売れる時代だった。各レコード会社のディレクターは、大小問わず全国津々浦々のライブハウスを回って、目ぼしいバンドの青田買いを行なっていた。
 本来ならソニーが行なっていたように、それなりの育成期間が必要なのだけど、何しろブームのまっただ中、スピードが優先された。演奏の多少の拙さは若さとフレッシュさで押し切るとして、箸にも棒にもかからないレベルだと、ヴォーカル以外はスタジオ・ミュージシャンに切り替えた。とにかく形にしてレコード・デビューさせるまでが、彼らディレクターの仕事だった。

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 多くのベテラン・アーティストを擁する老舗メーカーに対し、ソニーは積極的に新人を登用していった。視覚聴覚に訴えるビジュアル戦略、系列グループ活用によるマルチメディア展開によって、寡占状態のマーケットに風穴を開けた。
 ただ、システマティックに構築されたヒット・システムが主流になったことによって、ソニーがひとつの権威となってしまったのは皮肉だった。サブ・カルチャーであったものがメイン・カルチャーに押し上げられると、打倒される側に立たされる。
 綿密なマーケティングの上、商品としてパッケージングされたソニー・ブランドに対し、初期衝動をそのまま真空パックした、勢い優先のラフなサウンドのバンドブーム勢は、稚拙ではあったけれど、妙な熱気が強い求心力を生んだ。ほぼ5年で世代交代したティーンエイジャーの関心は、すでにイカ天バンドに向かっていた。
 10年前と比べて大所帯となっていたソニーも、ただ受け身の姿勢でいたわけではなく、ブームで頭角をあらわしていたXやTHE BOOMと契約し、ヒットに導いていた。ただ、両者ともインディーズ時代からそれなりの実績を残しており、メジャー加入はあくまで流通だけの問題だった。
 彼らはソニーじゃなくても、充分成功できるポテンシャルの持ち主だった。たまたま声をかけてくれて、条件が良かったのがソニーだっただけで、極端な話、ソニーじゃなくてもよかったのだ。
 その後、90年代に入ってからも、マルチメディアとグループ系列を駆使した営業戦略は続けられ、ドリカムのブレイクなど、一定の結果は残すのだけど、彼らの場合、リーダー中村正人のプロデュース力に拠る部分が大きい。レーベル内のアーティストとの交流もほとんどなく、ソニー在籍時の彼らは独自路線を貫いていた。
 彼らもまた、ソニーじゃなくてもよかったのだ。

 そう考えると、ソニーが真の意味でクリエイティヴな制作集団だったのは、ほんの5年程度だった、ということになる。短い期間ではあったけれど、メジャーの手法に囚われない独自のメソッドは、当時のティーンエイジャーのハートをガッチリ掴んだし、この頃にデビューして、未だ活動し続けているアーティストも数多い。
 21世紀になってからもSDオーディションは続けられ、King Gnuや岡崎体育など、個性的なアーティストを輩出している。いるのだけれど、あの頃のような熱気は感じられない。
 よく知らない新人だけど、ソニーが推してるんだから大丈夫と思わせてしまう、レーベル買いを喚起させるあの熱気は、もう戻ってこないのだろうか。
 -多分ないな。あれはあの時代、あのメンツ、あの状況だったからこそ、可能だったのだ。