前回の流れから、近年のビーチ・ボーイズのリリース状況を調べてみたのだけど、1969〜1971年のセッションやアウトテイクをまとめた5枚組ボックス『Feel Flows』が8月にリリースされるとのこと。アルバムでいえば『Sunflower』から『Surf's Up』の製作期にあたり、全135曲中108曲が未発表だって。ただラインナップを見てみると、カラオケのみとかアカペラのみ、またはライブ音源が多くを占めており、純粋な未発表曲はそれほどなさそう。まぁマニアにとっちゃ、未発表なら何だっていいんだよ。
これまで濫造されてきたベスト盤やボックス・セットのたび、またリイッシューごとに発掘・追加収録されてきたビーチ・ボーイズの未発表音源。さすがにネタも尽きかけているのか、よくわからない別ミックスやスタジオ内の雑談があったりして、とにかくテープに残ってるモノは全部公式音源化してしまえ的なヤケクソ感も漂っている。
ただ見方を変えると、60年に及ぶキャリアを持つビーチ・ボーイズの著作物をクロノジカルに分析する為には、こういった基礎資料の発掘・分類作業は欠かせない。同類の検証作業は、特にジャズの分野では盛んであり、マイルス・デイヴィスやコルトレーンなんかは、世界中のファン有志によって、世界中の放送音源から起こした発掘ライブがリリースされ続けている。
キャピトルの倉庫には、まだまだビーチ・ボーイズの没テイクや詳細不明のデモ音源なんかが眠ってそうなので、今後のリリース計画も目処は立っているんだろうけど、問題はテープの劣化。ある程度仕分け済みの音源なら、すでにデジタルへのトランスファーは済んでいると思われるけど、まだ積み上げられたままのテープなんかは、さすがにそろそろヤバそう。
CBSと契約更新しなかった(できなかった)ビーチ・ボーイズは、戻り戻って古巣キャピタルに復帰することになる。そのキャピトル契約前のほんのすき間の時期、日本でもヒットしたトム・クルーズ主演映画『カクテル』の主題歌として、「ココモ」がシングル・リリースされている。
当時、アイドル的人気を誇っていたトム・クルーズの魅力だけにフォーカスした映画だったため、内容なんてあってないようなものだし、見た覚えのある俺でさえ、どんな映画だったかなんて、さっぱり覚えてない。アカデミー賞に引っ掛かるような映画ではないけど、トムのブランド・パワーによって映画は大ヒット、相乗効果で「ココモ」も大ヒット、「Good Vibrations」以来、実に22年振りの全米No.1を獲得することになる。
ただ「ココモ」、いわば映画のテーマに沿った企画モノであり、ブライアンがスケジュールの都合で参加していないこともあって、通常のビーチ・ボーイズ・サウンドとは別路線である。ブライアンの不在もあって、彼ら本来のウリである、繊細かつ流麗なハーモニー・ワークはなく、ラフなユニゾン・コーラスに取って替わられている。
サウンドトラックという都合もあって、プリプロもレコーディングも充分な時間が取れず、差し迫ったスケジュールに追われての安直な作りだけど、リゾートっぽさを演出するためフィーチャーされたスティール・ドラムの音色は、パーティ・バンドである彼らの本質をうまく突いている。トム・クルーズ様さま、いわば棚ボタ的なヒットではあるけれど、これで彼らの再評価の機運が高まり、キャピトルがその勢いをうまく引き継いだ。今も続く『Pet Sounds』商法の礎となっている。
初期の「サーフィン・U.S.A」に象徴される、「夏だ!」「海だ!」「ビーチ・ボーイズ!」といったステレオ・タイプのブランド・イメージを踏襲しつつ、シンセ中心の80年代モダン・サウンドにコーディネートするのが、CBSの基本戦略だった。コンセプトとしては間違ってはいないのだけど、プロデューサーのテイストが強すぎて、彼らのパーソナリティが不透明な楽曲も少なからずあった。
前回レビューした『Beach Boys '85』は、いま聴くと、レトロ・ポップからAORバラードまで、バラエティ感あふれる良質なポップ・アルバムなのだけど、当時は「ロートルが必死こいて媚びてる」印象の方が強く、そんなにヒットしなかった。曲によってシカゴっぽくなったり、まんまカルチャー・クラブやスティーヴィー・ワンダーになっちゃったり、そんな節操のなさが、結局、どの層にもアピールしなかったわけで。
多分契約上のしがらみがあったと思われるけど、CBSのアーカイブ/リイッシュー方針が、主に『Pet Sounds』以前の初期楽曲中心で、オールディーズの範疇を出なかったこと、なので新鮮な切り口や方向性に欠けていたことが、いまいちブレイクできなかった要因のひとつだったんじゃないかと。ホムセンやコンビニで叩き売りされている、特価CDレベルの企画しか出せなかったCBSを反面教師としたのか、キャピトルは全盛期以降の作品群にフォーカスしたことで、ディープなマニアだけじゃなく、広範な音楽ユーザーを獲得するに至った。
細かくコツコツ、無限ループで続くと思われていた『Pet Sounds』『Smile』関連のリイッシューがひと段落し、今後のキャピトルは時系列に則った50周年エディション中心のリリース計画に移行してゆくと思われる。ただ『Surf's Up』以降のオリジナル・リリースは、ブライアン不在でマイク・ラブ主導だったり、安直なカバー・アルバムだったりで、正直、あまり面白みがない。
何しろブライアン絶不調の時期なだけあって、アウトテイク自体少ないだろうし、セールス・ポイントも、かなりこじつけないと出てこない。なので、ちょっと間が空いてしまうけど、ブライアンが全面復帰した1977年『Love You』周辺のセッションを、無理やり45周年でまとめるんじゃないか、と勝手に予想している。
結果的に放棄しちゃった『Smile』セッション以来、ややメンタル回復したブライアンが、本腰入れて全曲プロデュースしたアルバムであり、来年のネタはそれくらいしか思い浮かばない。5年後となると、多くのコア・ユーザーが鬼籍に入ってる可能性だってある。ビジネス・チャンスは待っててはくれないのだ。
で、『Love You』で一旦、社会復帰を果たすことになるブライアンだけど、この時期、公私すみずみに渡ってサポートに当たっていたのが、「あの」精神科医ユージン・ランディ。この辺から関わってたのか。
当時、豆腐メンタルのブライアンに取り入って、「思うままの洗脳で操り人形に仕立て上げた」というエピソードから、いまだ絶対的な悪役というポジションのランディ。2014年に公開されたブライアンの伝記映画『Love & Mercy』においても、悪徳医師のカリカチュアとして、露悪的に描かれている。よく承諾したよな、こんな切り取られ方されて。
いわゆる開業医とは違う、ランディは固定のクリニックを持たず、主にクライアントに24時間つきっきりのパーソナル・セラピーを主としていた。アリス・クーパーを始め、芸能界に多くの顧客を持つランディの評判は良く、新進気鋭の精神科医として業界内で知れ渡っていた。
日常生活のルーティンを自力で行なえるよう管理し、心身ともリフレッシュさせて社会復帰へ導く。朝、目覚めと共に起きて適度な運動、腹八分目の食事のあと、歯を磨いて顔を洗う。ストレスのない行動と、充分な睡眠。
こうやって書き出してみると、至極当たり前の日常なのだけど、そんなことさえ自発的に行なえないくらい、当時のブライアンが追い詰められていた、ということである。「規律正しい生活パターンを体に覚え込ませることで、メンタルも快方に向かう」というメソッド自体は、間違ってない。ただ、「医師:患者」という立場を超えた関係性は、新たな問題が生じたりする。
「治療」と称した共同生活が長引くにつれ、2人の関係性は次第に変化してゆく。ウィルソン兄弟の長兄であるブライアンにとって、8歳年上のランディは、兄のような存在となっていった。常にリーダーシップを取らなければならなかったストレス、加えて、クリエイティブ面の行き詰まりでクラッシュしてしまった当時の彼は、近親以上の慈愛を与えてくれるランディの支配下にあった。
そんなランディもまた、いくらビジネスとはいえ、自分のプライベートを犠牲にしているわけだから、いくら医師とはいえ人間だし、ストレスだってハンパない。同じ時間にメシを食い、同じテレビを見て同じ時間に寝て。そんな生活を続けるうち、「あくまで医療行為」といった適度な距離感は次第に狭まってゆく。個々の人格の境界線は曖昧となって溶け合い、共に精神依存する関係になってゆく。
なので、この2人の場合、あっちがこっちを「洗脳した」という見方は、ちょっとニュアンス違うんじゃないか、と思ってしまう。本当のところは当事者しか知り得ないことだけど、孤高の天才:ブライアンと、上昇志向むき出しの凡庸な医師:ランディとの間では、いわば「人格の相互補完」が行なわれていたんじゃないかと。
互いの弱い面を補い、そして人格や思想は相似性を帯びてくる。他者への依存はブライアンの方が強く、精神的に優位なランディが、彼の一挙手一投足を管理する。
鏡に映る虚像は、忠実に、そして思い通りに、自分の動きをなぞる。次第に、自分の意思で手を上げているのか、はたまた虚像の動作をなぞっているのか、判断がつかなくなる。個々のアイデンティティは、どっちがどっちかわからなくなる。
どうにか自分でシャツのボタンもはめられるようになり、少しずつ創作活動にも意欲的になったブライアン。それは間違いなく、ランディの尽力によるものだ。ただクリエイティブな作業まで、自分の功績と取り違えてしまったのは、ちょっとやりすぎた。
音楽の素養はなかったランディゆえ、実際に楽譜を書いたりピアノを弾いたりすることはなかった。延々続く創作作業に、興味もないのにずっと付き合ってゆくうち、次第に「自分も大いに貢献した」って思い込んじゃったのだろうか。
客観的に見れば、セラピストの職分を超えた主張であるのだけれど、当時は双方納得していたんじゃないか、と。だってこの時期、ブライアンはランディであり、ランディはブライアンだったんだから。
あまりの越権ぶりに、さすがにメンバーや家族もブチ切れ、ランディは解雇、ブライアンとの接見禁止命令が出されることになる。互いに言い分はあるんだろうけど、さすがに共作クレジットはやり過ぎだよな。
一旦は回復に向かったブライアンだけど、望まなかった環境の変化も相まって、メンタルは悪化、再度ランディが呼び戻されることになる。結局、家族やメンバーは、ブライアンの強い支えにはならなかった。これは悲しいけど、現実だ。
キャピトルへ移籍したビーチ・ボーイズを横目に、ブライアンはソロ・プロジェクトを進めていた。「治療の一環」とかなんとか適当言って、ランディはメンバーや家族を遠ざけ、再び作品のクレジットを共同名義に書き換えていった。懲りねぇな。
そんな経緯を辿って完成したのが、この初のソロ・アルバム。「どうにかリリースできたね良かったね」「今まで辛かったろうけど、社会復帰を果たせて良かったね、ブライアン」といった論調が強く、「クオリティがどうした」っていう声は、ほぼ聞かれなかった。
生きながら伝説となったアーティストの新譜ということもあって、ワーナーもメチャメチャ気合を入れ、こちらもある意味、「生きる伝説」となっていた大物プロデューサー:レニー・ワロンカーとラス・タイトルマンが制作に関わっている。ただ、そんなレジェンド同士がタッグを組んだからといって、前人未到の音楽ができるかと言えば、当然そんな事もなく、記名性の高いブライアンのメロディと、80年代サウンドのトレンドに沿ったエレ・ポップに仕上がっている。まぁ、予想の範疇の仕上がりではある。
メジャーの予算と時間と人材をたっぷり使い、ある程度のセールスを見込んだコンテンポラリーなサウンドではあるのだけれど、肝心のブライアンのヴォーカルが、…ね。まだ本調子じゃない、「心ここに在らず」の虚ろな歌声は、この時代においても時代遅れだったシンセの響きに埋もれてしまっている。
「あの」「ブライアン」が「復活」ということで、ここ日本でもプロモーションは大がかりだったし、それに煽られた俺も、タワレコで速攻入手したのだけど、「伝説のソングライター」というバイアスがかかりすぎて、ちょっと肩透かしだった印象。雑誌レビューは、大体手放しで絶賛だったもんだから、どうにかいい所を探そうと、がんばって聴き込んだんだけど、当時は結局よくわかんなくて、そのうち聴かなくなってしまった。そういう経緯をたどったのは多分、俺だけじゃないはずだ。
サウンド・プロダクションの古さは抜きにして、いまフラットな視点で聴いてみると、メロディやコーラス・アレンジのセンスは、独創的かつポピュラー・ミュージックの伝統に沿ったもので、そこからさらに一歩踏み込んで、高みを目指した作りになっている。商業音楽として「うまくまとめました」感はあるんだけど、でもまとまってない。創造者:ブライアンのアイデンティティは、深いモヤの向こうに隠されている。
その曖昧なモヤに心地よく包まれながら、ブライアンはランディの導くまま、メロディを書き、機材を操り、張りついた笑顔でもって、たどたどしい旋律を奏でた。実生活はとことん不器用な男は、それでもどうにか一歩踏み出した。
まずは、それだけで充分だ。多くを求めず、焦らず、ゆっくり待てば、そのうちいい風は吹いてくる。
歳をとると、いろいろ寛容になれる。
1. Love and Mercy
のちの伝記映画のタイトルにも冠せられた、「復活!」を宣言するにはぴったりのポップ・ソング。声はたどたどしく、マジックは失われてしまっている。ただ、それ以外のサウンド・メイキングは衰えちゃいない。
1分半過ぎあたりから始まる、かなり作り込まれた荘厳なコーラス・ワークは、やはりいつ聴いても「おっ」って耳を引いてしまう。でも、シンセのダビングはちょっと余計だったよな。
2. Walkin' the Line
お気楽だった初期のパーティ・ソングを、中期のサウンド・スキルでコーディネイトすると、こんなハッピーなサウンドに仕上がったんだろうな、っていうお手本。ポップ職人として、また、ファンのニーズに可能な限り応じる、エンタテイメントとしての両面がうまくハイブリッドされている。
一周回って、どうにかこの境地にたどり着いた。ここに至るまで、ひと休みしたり回り道したりを余儀なくされた、天才の苦悩は巧妙に隠されている。
ちなみにこの曲、Nick Laird-Clowesというアーティストとの共作で、聴いたことない人なので調べてみると、ドリーム・アカデミーのリーダーだった。「Life in a Northern Town」の人か。まぁリスペクトはしてそうだな。
さらに、これは豪華って言っていいのかどうか微妙だけど、コーラスにテレンス・トレント・ダービーが参加している。いるのだけれど、キャラは薄い。ていうかテレンス、ビーチ・ボーイズ好きだっけ?あんまり聴いたことないんだけど。謎だ。
3. Melt Away
「God Only Knows」を彷彿させる、オーケストラ・サウンドとコーラス・ワークの絡みが絶妙な、ある意味、このアルバムのメイン・トラック。ブライアンのソロ・ヴォーカルも、全盛期のマジックには及ばないけど、張りのあるパワーを感じさせる。
きちんとプロデュースされると、このくらいはできちゃうんだよな、この人。なんでも自分でやろうとせず、ちゃんとした理解者に丸投げしちゃった方が、うまくまとまる。関わってる人みんな、「俺が思うところのビーチ・ボーイズ」的なビジョン持ってるんだから。
4. Baby Let Your Hair Grow Long
ブライアン曰く、「Caroline, No」の続編的な意味合いで書かれた、とのことで、言われてみれば「あぁ…」って思う。まだ終わってないんだよな、この頃のブライアンの中では。どうにか「あの時のあのサウンド」を再現しようと、まだもがいていた時期なんだよな。
いい曲だし、『Pet Sounds』の焼き直しっていうアプローチは、レーベル的にもすごくプッシュしやすいんだろうけど、本人的にはそれって、呪縛なんだよな。先はもうちょっと長い。
5. Little Children
80年代のテクノロジーを駆使して作られた、ひとりビーチ・ボーイズ・リスペクト的なナンバーだけど、考えてみれば全盛期もブライアン、バック・トラックはほぼ自分ひとりで作っていたのだった。やってることは変わんないか。
多分、こんなんだったら、いくらでもできちゃうんだろうな、ブライアン。いわば古参ファンに向けたサービス・トラックみたいなもので、あんまり前向きなモノじゃないけど、入ってたらまぁ安心はするんだろう。
「古いよな」とは思うけど、確信的に「古く」作ってるんだから、ネガティヴな見方はちょっとお門違い。なんだかんだ言って、サラッと聴けちゃうし。
6. One for the Boys
カウントから始まる、2分弱のアカペラ・ナンバー。曲として発展させるため、素材として録ったのか、はたまた、最初から「これで完成形」のつもりで作ったのかは不明だけど、どちらにせよ、これだけでちゃんと「みんなが思うところのビーチ・ボーイズ」になっている。「ココモ」と比べちゃうと、やっぱこっちが本家って思っちゃうよな。
7. There's So Many
ラス・タイトルマンが仕切ったトラックは基本、「ブライアンの多重コーラス + 小編成オーケストラ」に適度にシンセをかぶせたプロダクションなのだけど、ベテランだけあって均整の取れた仕上がりになっている。いるのだけれど、シンセの音が古いんだよな。1988年という時代にしても。
8. Night Time
「伝説のアーティスト」としてのバイアスが強かったこのアルバムの中では、最も現場感が強い、80年代ポップにきちっと対峙した楽曲だよな、って思ってたら、Andy Paleyという人との共作だった。ちなみに初リリース時は、ランディも名を連ねていた。なんだそりゃ。
9. Let it Shine
一時、ディランやジョージ・ハリスンなど、盛りを過ぎたベテランとの仕事が多く、いわば若年寄扱いされていたジェフ・リンのプロデュースによるナンバー。彼のサウンド・メイキングのパターンとして、メイン・ヴォーカルに強いコンプをかけることが多く、ここでのブライアンのヴォーカルも、薄いコンプにノン・エコー処理を施している。
全盛期とは明らかに声量が落ちてるブライアンゆえ、この処理はちょっと方向性違うんじゃないか、と今でも個人的に思っている。逆に分厚く盛ってやった方が、キャラが活きると思うんだけど。
10. Meet Me in My Dreams Tonight
「素敵じゃないか」っぽさがハンパない、イヤ進化形の「素敵じゃないか」って言った方がいいのかもしれない。20年以上経って、ブライアンの脳内に流れる音楽ビジョンに対し、ようやくテクノロジが―追いついたというべきか。
11. Rio Grande
ラストは全6部から成る8分強のオムニバス組曲。架空の西部劇をテーマに、ゆるいストーリー仕立てとなっており、いわば『Smile』のリベンジ的なナンバーという位置づけなんだろうけど、まぁよほどのマニアでもない限り、面白いものではない。ここまでの曲はほぼ3分台でまとめられており、いくらラストとはいえ、ここで8分オーバーだから、ちょっとダルい。
全盛期にはあったはずだけど、ここでは失われているもの。それは悪意。闇や毒がない分、刺激は薄く、真意はモヤの向こうにある。