Folder 改めて80年代のジュリーの活動を洗い直してみようと思い、wikiでシングルの系譜を見ていたところ、気になった箇所を見つけた。80年の前年、27枚目のシングルとしてリリースされた「OH! ギャル」についての記述。

 -”ゴールデン・コンビ”とも称された阿久・大野による沢田のシングルA面(メイン)への楽曲提供は、この曲をもって一旦終了となった。
 -「沢田研二本人は「最も嫌いな歌」と言っている。理由は、阿久の女性を賛美する歌詞と、「ギャル」という言葉に新しくないイメージがあったと、デビュー25周年特番で沢田は語っている。その25周年特番の翌年、『Beautiful World』ツアーで久々にプレイされたが、歌い終わるや「大嫌いなこの歌!」と叫んだ。



 リアルタイムでは聴いていたため、サビの部分はうっすら覚えていたのだけど、改めて聴いてみた。みたのだけれど。
 アレ、こんなひどかったっけ?タイトルが象徴するように、何とも即物的な歌詞と安直なオケ、正直、手抜き感がハンパない。
 ちなみに、これの前のシングルが「カサブランカ・ダンディ」で、どちらかといえば、こっちの方が懐メロ番組で聴く機会が多いんじゃないかと思われる。ウイスキーを口に含んでプーッと吹き出すイントロの演出がサマになっており、テンポの速いラグタイム・ブルース風のアレンジも、ジュリーのヴォーカル・スタイルにマッチしている。
 この時期のジュリーはシングルごとにコンセプトを変えており、曲調からコスチューム、パフォーマンスに至るまで、いい意味で一貫性はないのだけど、シングルを時系列で聴いていくと、悪い意味での落差がハンパない。なんでここまで、クオリティ落ちちゃったのかね。
 多分に、「シンプルなロックンロール」というコンセプトのもと、70年代ストーンズのダルなグルーヴ感と、ロッド・スチュワートのポップな要素をブレンドしてみたんだろうけど、ここに阿久悠成分が入ると、途端にダサくなってしまう。無鉄砲な男の美学を描写した「カサブランカ・ダンディ」の次だから、わかりやすい女性賛美を持ってくるのは、対比として間違ってはいないんだけどでも、この時点ですでに使い古されていた「ギャル」ってワードを前面に押し出すのは、ちょっとしくじったんじゃね?と思ってしまう。
 「一言一句、書き直すなどまかりならん」主義の阿久悠の作品なので、誰も「書き直してください」って言えなかったことは想像できる。こんな場合、ズレた大御所って、ほんと扱いが面倒だ。
 まぁストーンズの歌詞だって、正直そんな凝ったモノじゃないし、多分、レコーディング中は「シンプルでワイルドなロックンロールだぜ」って盛り上がったのだろう。で、いざテレビで歌うために、振り付け考えたりコスチューム考えたりしているうち、「なんか思ってたのよりダサくね?」ってなっちゃったんじゃないかと。

90be0143def1a8c944b94e9b2e07dacd

 アウト・オブ・デイトなマッチョイズムと、下卑たセックス・アピールがデフォルメされた「OH! ギャル」は、それでもオリコン最高5位・ベストテン最高2位と、充分アベレージはクリアする売り上げとなった。ジュリーのブランド・パワーに依る部分もあったんだろうけど、まぁ売れれば結果オーライである。
 ただ、「ステレオタイプの女性賛美」というテーマは、自他ともに認める硬派であったジュリーの美学とは相反するものだった。もちろん、これだけが原因じゃないんだろうけど、迫り来る80年代を迎えるためにも、制作陣の交代と軌道修正は急がなければならなかった。
 で、この時点でアルバム『TOKIO』の制作は進んでおり、ある程度、楽曲も揃いつつあった。当初はキャッチーでド派手でヒット性も高い「TOKIO」をリード・シングルとする予定だったのだけど、何しろジュリーがごねる始末。
 「もうあんなチャラい歌はやりたくねぇ」と、シングル・カットを拒否したのだった。それほど「OH! ギャル」のトラウマは深かった。
 手っ取り早くイメチェンしたかったジュリーがシングルに選んだのは、「ロンリー・ウルフ」だった。ヒットしている間、また次のシングルがリリースされるまでは、イヤでも「OH! ギャル」を歌い続けなければならない。当時、シングルごとに意匠を変えていたジュリーだったこともあって、まったく真逆の曲調を選ぶことは、特別不自然なことではないはずだった。
 ただジュリー、自分でも言っているように、「僕が推す歌は売れない」というジンクスがある。その法則に漏れず、「ロンリー・ウルフ」はオリコン最高18位・ベストテン最高13位と大コケしてしまう。
 「出せば必ずヒットする」無双状態だった当時のジュリーとして、これはセールス的に大きな汚点だったのだけど、楽曲自体が悪かったわけじゃないことは言っておきたい。明快なサビのない、地味でナルシスティック要素の強いバラードではあるけれど、後藤次利のアレンジ・センスと百戦錬磨の井上堯之バンドとの相性は、決して悪くない。むしろそのサウンドは、21世紀に聴いても古びていないくらいである。
 「カサブランカ・ダンディ」で増えたファンが「OH! ギャル」で肩透かしを食い、その煽りで「ロンリー・ウルフ」がコケた、というのが冷静な見方だと思う。思うのだけど、でもこの後の「TOKIO」がバカ売れしているため、結局は前後関係なく、楽曲のクオリティ次第という結論に行き着いてしまう。

aad94c3dd82dafe45cfa2bd55f6324ea

 で、ジュリーの79年は「カサブランカ・ダンディ」が代表曲となり、年末の賞レースや紅白はこの曲で戦うことになった。その年で一番ヒットしたし知名度もあったし、妥当と言えば妥当だった。
 ただこの曲、リリースされたのは2月であり、賞レース開始時には、すでに半年以上経っていた。当時の歌謡曲のリリース・サイクルはほぼ3ヶ月だったため、2つ前のシングルとなれば、演歌でもない限り、とっくに昔の曲扱いだった。
 そこまで極端ではないにしても、常に時代の先端を走るジュリーが最新シングルで戦えないという事実は、制作スタッフに危機感を植えつけた。そして、その事態を最も深刻に捉えていたのが、ジュリー本人だった。
 硬派な男のバラードで勝負したいジュリーの思惑に反し、「ロンリー・ウルフ」はスマッシュ・ヒットと言うにも微妙な売り上げ・知名度だった。沢田研二としてのミュージシャン・シップは守られたけど、トリックスター:ジュリーとしては、明らかに後退だった。
 自己プロデュース能力の軌道修正と、制作ブレーンの助言もあって、再び路線変更、「TOKIO」をメイン・トラックとし、80年にプッシュしてゆくことに同意する。
 この時点でジュリーは三十路、シンガーとして転期を迎える頃合いでもあった。バックボーンとしてあるストーンズ直系のロックンロールと並行して、大人路線のバラードをもっと歌っていきたい意向もあった。
 しつこいようだけど、やはり「OH! ギャル」が鬼門だったと思うのだ。アレがもうちょっとソリッドなロック・テイストで収まっていれば、ジュリーもそこまで意固地にならなかったんじゃないかと。

Cx3LbXaUQAE3ZXk

 80年代に入ったからといって、いきなり世の中が軽薄短小・ライトでポップでナウくなったわけではなく、82年ごろくらいまでは、70年代の延長線上に過ぎなかった。80年に入り、元旦一発目のシングルが「TOKIO」だったわけだけど、考えてみれば、もっと前からプロジェクトは始まっていたわけで、単純に時代・年代で区切ってしまうのは、ちょっとナンセンスである。
 とは言っても、以前のレビューで俺、そんな感じで言い切っちゃってる。ゴメン、アレからいろいろ調べてみて、不勉強だった自分に気づいたんだ。
 ただこれを機に、ジュリーやプロデューサー:加瀬邦彦が大幅なシフト・チェンジを考え始めていたことは確かである。そんなジュリーのバランス感覚と時流とがシンクロしていたのが、ちょうど80年代に差し掛かるところだった。
 実際、「ロンリー・ウルフ」とカップリングの「アムネジア」では、後藤次利がアレンジャーとして初参加している。日本で初めてチョッパー・ベースを広めた男として、また中島みゆきや原田真二のアレンジを手掛けたことで、業界内で頭角をあらわしていたのが、この頃である。最近、「貴ちゃんねる」で久々に健在ぶりを拝見したけど、普段は温和でありながら、ベース・プレイとなると顔つきが全然違ってくるところなど、やはりこの人はただモノではない。
 後藤のコネクションと加瀬邦彦の強い意向もあって、レコーディングではいつもの井上堯之バンドの出番は少なく、鈴木茂や斉藤ノブ、佐藤準など、スタジオ・ミュージシャン系の人選が目立っている。固定したバンドでバリエーションを出すのではなく、楽曲に応じてセッション・メンバーを使い分ける手法は、新たなバンド・キャリアを築くための試験期間だったからこそ、と言える。

f4d7a200be6b30756f021a29f7485427

 もともとジュリー、遡ればタイガース時代から、バンド単位での音作りにこだわってきた。短期間で自然消滅してしまったPYG→井上堯之バンドと続くのだけど、加瀬邦彦も含め、その多くはGS時代に培った人脈に基づくものである。
 オフ・ステージの沢田研二の素顔は、トリックスター:ジュリーとは正反対で、「生真面目だけど頑固」という声を聞くことが多い。それほど社交的でもなく、愛想も良くないけど、一旦心を許すと、長く大切に付き合ってゆく、という昔気質の人柄らしい。
 考えてみれば、いまのジュリーをマネジメントしているのは盟友:岸部一徳だし、近年のレコーディングとライブ・メンバーは、ギター:柴山和彦ただ1人、彼もまた40年来の長い長い付き合いである。
 そんな人なので、逆に「ジュリー」という虚像の仮面をかぶることで、80年代前半までは、あれだけエキセントリックなパフォーマンスができたのだろう、と推測できる。時々見せるナイーヴな一面も、実は「ジュリー」としての横顔であって、ほんとの「沢田研二」の素顔は、田中裕子にしか知り得ないものだ。
 80年代幕開けの景気づけとして、ギンギラギンの「TOKIO」のコスチュームやパフォーマンスは、確実にファンやお茶の間の度肝を抜いた。「イギリスのジュリー」の位置付けであるデヴィッド・ボウイがテレビを見ていたら、「してやられた」と思ったことだろう。…ちょっと盛り過ぎたな。
 ただその衝撃は、長く連れ添った井上堯之らにも大きく影響し、「こりゃやっとれんわ」と、これを最期にパートナーシップを解消してしまう。
 -世代交代とは、ある種の痛みを伴う。そんなわかりやすい例である。




1. TOKIO
 シングルとは違って、スペイシーなインタープレイが、来たるべき未来感を煽っている。いつもの井上堯之バンドでは出せない、チャラくカラフルなアンサンブルは、時代を象徴する名曲となるのは必然だった。



 作詞した糸井重里によると、もともと「アルバム用のタイトルを考えてくれ」というオファーに対し、それまでのジュリーの持ち味に近未来感を味付けしたタイトルを、収録曲数分作って提示した。イトイ的には仕事はそこで終わったはずだったのだけど、続けて「タイトル曲は自分で作詞してくれ」という無茶ぶりが舞い込み、まったくの初心者だったイトイが手掛けたのが、これ。

 空を飛ぶ 街が飛ぶ
 雲を突きぬけ 星になる
 火を吹いて 闇を裂き
 スーパーシティが舞いあがる
 TOKIO TOKIOが二人を抱いたまま
 TOKIO TOKIOが空を飛ぶ

 本人曰く、「アニメ的なビジュアル・イメージを思い浮かべて書き上げた」とのことだけど、まぁ確かに文字だけ目で追っていけば荒唐無稽、ていうか子供向けのベタなスーパーヒーローみたい。締め切り間近で殴り書きしちゃった感もしないではないけど、コスチュームやアレンジのベースとなった世界観の形成には成功している。
 ただ、当時のジュリーというのは、単なる歌手にとどまらない、映画やドラマ、舞台やコントまで、あらゆるジャンルでトップ・グループを疾走していたスーパーヒーローだったわけで、まったく見当違いだったわけではない。芸能界のスターという存在が、雲の上の人だった時代の産物である。



2. MITSUKO
 そんな常人を突き抜けた存在であるため、二流の芸能人が歌うとなると、「光子」や「満子」になってしまうところを、ジュリーが歌うとローマ字表記になる。架空の女性の「MITSUKO」とゲランの香水「MITSUKO」とのダブル・ミーニングを想起させる歌詞は、これも糸井重里。でも、「TOKIO」と比べてちょっと技巧が過ぎるかな。
 ヒューチャー感演出のためのシンセがちょっと80年代歌謡曲っぽいよな、と思ったけど、考えてみればここで後藤次利が導入したことがルーツになっているので、むしろ先駆者だったと言える。

3. ロンリー・ウルフ
 本文であらかた書いちゃったけど、ナルシスティックなロッカバラードとしては、この時代では突出したクオリティだと思う。アナログ・セッションで録られたギターもドラムも、持ち味を壊さぬ程度にエフェクトされており、それぞれの音のボトムが太い。
 特にシングル候補曲だったおかげもあるけど、潤沢な予算と時間、そして手間をかけたことによって、刹那的な流行歌だったはずのこの時代の楽曲が、逆に今よりクオリティ高いサウンドに仕上げられている。やっぱり、コストのかけ方如何で、結果が違ってくるということか。



4. KNOCK TURN
 俺世代だったら誰でも知ってるBORO、「大阪で生まれた女」を歌ってた人である。ショーケンが歌ってたことで有名になったけど、オリジナルはこの人。
 いわゆる一発屋カテゴリに入る人だけど、思ってたよりストレートなロックンロールを書くんだな、というのが受けた印象。歌謡ロックという括りで言えば、確かにジュリーとは相性がいいはず。
 「MITSUKO」同様、こちらも「ノクターン」と「ノック・ターン」のダブル・ミーニングとなっている。タイトルを決めたのは糸井重里なので、その辺からインスパイアされて歌詞が書かれたのか。

5. ミュータント
 デジ・ロックの先駆けとも言える、オーソドックスなギターロックと、シーケンス・ビートをハイブリットさせた楽曲。当時、こういったアプローチはなかなかなかったろうし、また、その後もBOOWYがやるまではメジャーではなかった。
 そう考えると、やはりここでの後藤次利のサウンド・プロデュース能力は、同世代と比べて頭抜けていたとしか言いようがない。俺世代にとっては「とんねるずとツルむことが多い業界人」という印象が強いけど、そもそものミュージシャン・スキルの高さあってのものなのだ。

6. DEAR
 ここで初登場、80年代に活躍した作詞家の中でも有数の知名度・売り上げを誇る康珍化によるバラード。繊細かつ流麗な旋律は、普通にいい曲ではあるのだけれど、やはり70年代っぽさ、要は新味にはかけている。
 「ヤマトより愛をこめて」タイプの楽曲なので、いわゆる王道感はあるのだけれど、ちょっと古臭く聴こえてしまうよな、このラインナップだと。

o0614085814818798183

7. コインに任せて
 続けて、70年代っぽい歌謡ロックチューン。作曲が井上堯之バンドのギタリストなので、3年くらい前にリリースされていれば、普通に評価されたんじゃないかと思われる。ていうか、その当時のアウトテイクっぽさが感じられる。
 このアルバムじゃなくて、「サムライ」のようなバラードのB面としてリリースしていた方が、バランス的にも良かったんじゃないか、と勝手に思う。

8. 捨てぜりふ
 康珍化=BOROのコンビによる、ジュリーの男臭さを効果的に引き出したロッカバラード。こちらもタイプ的には古めの楽曲だけど、ジュリーの力の入りようがハンパない。
 やや字余りで叩きつけるように、それでいて感情たっぷりな咆哮は、スーパースターの表情とは明らかに違っている。ここで歌っているのは、すべてを失った後、宛てもなく彷徨い歩く男の背中だ。

9. アムネジア
 シングル「TOKIO」のB面としてリリースされた、新進アレンジャー:後藤次利の渾身のベース・プレイが光るナンバー。この時代ではまだ歌謡曲では一般的ではなかったチョッパー・ベースが炸裂しまくっている。彼が在籍していたサディスティックス後期のサウンドとシンクロしてる部分が多く、ジュリーと真っ向から対峙しようと奮起している。
 ちなみに作詞・作曲はりりぃ。あの「りりぃ」である。古くは「私は泣いています」のヒット曲だけど、むしろ近年は俳優業として、あの「半沢直樹」にも出演していたりなど、名バイプレイヤーとしての評価が高かった。
 こういった曲も書けるんだ、という印象が強かったけど、考えてみればこの時期のりりィ、伝説のバックバンド:「バイ・バイ・セッション・バンド」を率いていたくらいだから、男どもを手なずけるのは慣れていた。ジュリーもまた、その一人だった、ということか。

unnamed

10. 夢を語れる相手がいれば
 ただこの流れでずっと聴いていると、ジュリーの腰の座らなさが徐々に気になってくる。いくら新時代へ向かうと言っても、そういきなり、人は変われるものではない。
 変わるべきところと、変わらずにいるべきところ。その指針となったのが、実はこの曲だったんじゃないかと思うのだ。
 ここで登場、やはりシメは阿久悠。
 
 ざわめきの後の静けさがきらいで
 にぎやかな祭りに 背を向けてきた
 孤独が好きなわけじゃない
 今より孤独になりたくないだけさ

 この一節だけで、過去も未来も、そして現在に至る、ジュリーの本質をズバッと言い当ててしまっている。
 スーパースターであることの孤独、そして苦悩。
 ただ、今さらそこを降りるわけにはいかない。降りてしまうと、存在価値そのものがなくなってしまう。
 ジュリー=沢田研二であること、そしてそれはまた、阿久悠自身の言葉でもある。
 相容れず袂を分かったとして、昭和を生きてきた2人の男のまなざしは、どちらも同じ輝きを秘めている。