folder トーキング・ヘッズのアルバム中、最も知名度が高いのが『Remain in Light』であることに異論を唱える人は、多分少ない。スタジオ・アルバムに限定しなかったら、『Stop Making Sense』を推す意見もあるだろうけど、これまた多分、少数派だろう。
 アラフィフの俺のように『Little Creatures』から入った世代だと、『Remain in Light』は当時からすでに80年代ロックを代表する名盤扱いされていたため、別格扱いだった。MTVにもうまく馴染んだフォーク・テイストのポップ・ロック主体の『Little Creatures』に比べ、愛想のないミニマリズムで塗りつぶされた『Remain in Light』は、ちょっと敷居が高かった。
 デビュー~活動休止までを時系列で追っていくと、どんな角度・どんな視点で捉えたとしても、『Remain in Light』がひとつのターニング・ポイントとなるのは間違いない。好き/嫌いや好みの問題ではなく、『Remain in Light』をピークとして、以前/以後という座標軸ができあがってしまう。ていうか、それ以外の視点で語るのは、ちょっとこじつけが過ぎる。
 メンバー4人の思惑やポテンシャルを軽々と超え、制御不能の怪物として生み落とされた『Remain in Light』だけど、何も突然変異であんな感じになったわけではない。ディランを始祖として、ルー・リード→パティ・スミスから連綿と続く、パフォーミング・アートとしてのニューヨーク・パンクを正統に継承しているのがヘッズであり、このアルバムもまた、その時系列に組み込まれている。
 とはいえ『Remain in Light』、オーソドックスなニューヨーク・パンクのフォーマットからは大きくはみ出しており、やはり異彩を放っている。逆説的に、「既存価値の否定」という意味合いで行けば、正統なニューヨーク産のガレージ・パンクである、という見方もできる。あぁややこしや。

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 テクニックよりエモーション、熟練より初期衝動を優先し、ライブハウス直送のガレージ・バンドとしてデビューしたヘッズだったけれど、早々に下積み時代のスキルを使い果たしてしまい、壁にぶち当たることになる。単発契約でそのままフェードアウトしてしまう、数多の泡沫バンドと比べ、彼らのどこに期待する要素があったのか、その辺はちょっと不明だけど、外部プロデューサーによるテコ入れを入れる、という条件で2枚目のアルバム制作の目処が立つ。
 そこでプロデューサーとして抜擢されたのが、ご存知ブライアン・イーノ。ロキシー・ミュージック脱退以降、「枠に囚われない活動」といった言葉そのままに、ボウイのベルリン3部作で重要なファクターとして存在感を示し、偏屈で理屈っぽいロバート・フリップと組んで偏屈で理屈っぽいアルバムを作り、一方で「環境音楽」というカテゴリを創造するなど、もうあちこちから引く手あまた。要は、空気の読み具合にメチャメチャ長けて、メイン/サブ・カルチャーのニッチな隙間を右往左往することに悦に入っちゃう、そんな「意識高い人」である。
 曲も書けなければ、まともに歌うことも演奏することもできない、「自称」ミュージシャン時代は、もっぱら「変な音」担当として、派手なコスチュームと言動に明け暮れていたイーノだったけど、根拠不明な確信と意識高い系の振る舞いが、逆に純正ミュージシャンらの共感を得た。決して自分で手本を示さず、あくまで傍観者の視点から、確信を突くかのように錯覚させる、暗示めいた助言やアドバイスをつぶやくことが、彼の処世術といえば処世術だった。
 しかも、その言動に決して責任を持たない。彼こそ正しく、真の「意識高い系」である。

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 テクニカル面でのプロデュース能力はひとまず置いといて、アドバイザーとしてはすこぶる有能だったイーノの導きもあって、ヘッズはバンドとしての体裁を整え、2枚目『More Songs About Buildings and Food』のリリースに至る。大して欲もなければ野心もない、学生バンドに毛が生えた程度の存在だったバンドは、ここでささやかなブレイクを果たすこととなる。
 続く3枚目『Fear of Music』で、シンプルな8ビート+ファンクのハイブリッドを完成させたヘッズは、その後、イーノとデヴィッド・バーンによる合作『Bush of Ghosts』を経て、呪術的なミニマリズムとアフロティックなビートを取り込んでゆく。フェラ・クティやキング・サニー・アデへのオマージュが強く、厳密に言えばヘッズの発明ではないのだけれど、ポスト・パンクの枠を超えてメジャー・バンドとなっていた当時の彼らとしては、かなりの野心作である。
 思わせぶりなイーノの妄言や思いつきを、いちいち真に受けていたのがバーンであり、逆にどこか醒めたスタンスを崩さなかったのが、クリス・フランツ、ティナ・ウェイマス、ジェリー・ハリスンら他メンバー3名だった。「エイモス・チュツオーラの小説からインスパイアされて云々…」といったアカデミックなウンチクを聞き流し、「なんか良さげなノリのリズム教えてもらったから、レゲエもアフロもファンクも混ぜ込んじゃって、ダンス・ポップに仕上げちゃえ♡」と、軽い気持ちで作った「おしゃべり魔女」が大ヒットしちゃったのが、お遊びバンドのトム・トム・クラブである。
 バーンだけじゃなく、こういったセンスを持った彼ら3人の存在が、実のところヘッズ・サウンドの多様性に大きく作用している。イーノの場合、半製品に絶妙な茶々を入れて完成度を高めることはできるけど、ゼロから具現化することには向いていない。
 人にはそれぞれ、役割がある。

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 『Remain in Light』制作の準備段階ではイーノ、スケジュールの都合上、不参加を表明していた。イーノの過干渉でストレスフルとなっていたバンド内人間関係を考慮してか、バーンもメンバーのみの製作を了承する。
 『Fear of Music』で手応えを掴んだファンク/ミニマル・ビートの沼にさらに一歩踏み込み、リハーサルではワン・コードを基調とした長時間セッションが繰り返し行なわれている。現行の最新リマスター・エディションでは、当時の未発表セッションがボーナス・トラックとして収録されており、現場の雰囲気を感じ取ることができる。
 決してテクニカルを売りにしたバンドではないため、強烈なグルーヴ感を生み出すほどではないけど、ポスト・パンクから見たアフロ・ファンクのフェイク/リスペクトというアプローチは、案外前例がなく、強い記名性を放っている。
 そうなると、新しもの好きの鼻が嗅ぎつけてくる。ひょんなきっかけでデモ・テープを耳にしたイーノがしゃしゃり出てくるのを止められる者はいなかった。
 既存ロックの「破壊」という意味合いで、ファンクのリズムを借用したPILやポップ・グループと違って、ヘッズの場合、彼らよりはずっと、ミュージシャン・シップに溢れていた。初期衝動のみで、既存のロックを「破壊したつもり」になって、その後を手持ち無沙汰に過ごすのではなく、基本の4ピース・ロックに他ジャンルの要素を取り込んでゆく。
 「破壊」の後、空虚な高笑いを放つ輩には目もくれず、ただ愚直に異ジャンルの音楽性を取り込み、完成度を高めてゆく彼らの姿勢は、ロック・バンドの理想形である。安直な自己模倣を拒み、常に「その先」を追い求めるその姿は、真の意味でのプログレッシヴである。
 なんか持ち上げ過ぎちゃったけど、この時期のヘッズの勢いは、それだけ突出していた。あぁ、リアルタイムで聴きたかった。

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 イーノにそそのかされて、暴走に拍車がかかったバーンと、不本意ながらその煽りで火事場のクソ力を引き出されたメンバー3名の異様なテンションの高まりによって、ベーシック・トラックが完成する。そこでイーノが、テープを切った貼ったの鬼編集を加え、流浪のギター芸人:エイドリアン・ブリューをぶっ込んだり、そんなカオスな経緯の末、『Remain in Light』は完パケに至る。この時期のブリューって、イーノやロバート・フリップにいいように使われてたよな、「変な音」担当として。
 そこで産み落とされたのは、バンド自身では制御不能の怪物だった。狂騒状態のセッション/スタジオ・ワークを経て排出されたのは、彼らのポテンシャルを遥かに超えた、カテゴライズ不能の音の礫だった。
 テープ編集と人力セッションとが混在して編み出された呪術的ビートは、冷徹でありながら、強烈な中毒性と強制的な代謝を促す。張り詰めたミニマリズムは、強迫的な緊張感を誘発し、ヴォーカルは神経をすり減らしながら、嗚咽と見紛う雄叫びを上げる。その声は弱々しくかすれ、そして時に裏返る。
 強力にブーストされた暴力的なリズムに対し、線の細いヴォーカルは翻弄されながらも、一歩手前で踏みとどまり、ミスマッチな存在感を示す。本来、このようなリズム・メインのサウンドでは、グルーヴに飲み込まれない声質、またはシンクロするリズム感が必須なのだけど、ヘッズはそんな予定調和へNONを突きつける。
 強烈なミスマッチを対峙させることで、ヘッズとイーノは80年代の音楽シーンに深い傷痕を刻みつけた。
 その痕跡はいまだ尾を引き、多かれ少なかれ彼らの足かせとなっている。





1. Born Under Punches (The Heat Goes On) 
 1曲目からこんなインパクト充分なアフロ・ファンクをぶっ込んじゃうあたり、仕上がりにかなりの自信があったことのだろう。リズムとノイズとエフェクトを一緒くたに混ぜ込んでいながら、ちゃんと分離も良くてディテールも明快だし、それでいて妙なグルーヴ感があるし。
 このアルバムのどの曲でも言えることだけど、全篇バーンは狂言回しのようなポジションに徹しており、リズムに飲み込まれまいと必死に足掻くその様が、妙にリアル。ヒット・チャートやキャッチ―さもまるで無視していながら、それでいてきちんと商業音楽にまとめ上げてしまうイーノの手腕は、悔しいけど見事。



2. Crosseyed and Painless
 ほぼ終始ワンコードで展開される、こちらはロックなギターがフィーチャーされているので、もう少し開かれた音作りなのかね。いや、間奏のブリューの変なギター・シンセは、やっぱ未知のスパイスとして機能している。
 乱れ飛ぶパーカッションとシンセ・エフェクトがサウンドのメインではあるけれど、ちょっと深く聴き込むと、手数は少ないけどポイントを突いたティナのベース・プレイに耳が行ってしまったりする。バカテクという感じでもないんだけど、ツボを得たシンコペーションはいいアクセントとして作用している。

3. The Great Curve
 またまた延々と連なるパーカッション、またまたワンコード・ファンクの無限ループ。レコードで言えばA面ラストだけど、全篇こればっかり。ここまで畳みかけられると、いやでも虜になる。ていうか、ここまでダメ押ししないと伝わらない音なのだ。
 流暢とは言えぬ朴訥なバーンのヴォーカルに対し、やたらソウルフルなノナ・ヘンドリックスのコーラスとは相性が合わなさそうだけど、これもリズムの洪水によるグルーヴ感が成せる技。このリズムがないと、多分噛み合わない。
 「象の雄叫び」と評されたブリューのギター・プレイは、やはりいつ聴いてもカッチリ音世界にハマっている。もともとはこれが「素」なんだから、ボロクソに言われながらクリムゾンやることなかったのに。ブリューの世間のニーズは、ここにあったはずなのに、当時は気づかなかったのかね。

4. Once in a Lifetime
 アフロ・ファンクとエレクトロの融合。シャーマニックなバーンのヴォーカル。ほぼ素材コラージュのような方法論で制作された『Bush oh Ghosts』から進化して、アフリカン・リズムを咀嚼してヘッズのメロウな部分をちょっと足して創り上げられたのが、コレ。
 シングル・カットもされて、今ではほぼ彼らの代名詞的な有名曲でありながら、当時のUSでは100位前後とパッとしなかった。UKでは最高14位にチャート・インしており、この辺は英米の嗜好の違いが見て取れる。いや、いい悪いじゃなくてね。
 今回初めて知ったのだけど、なぜかロバート・パーマーがギターとパーカッションで参加している。コーラス参加とかならまだわかるけど、なんでギター?贅沢な、っていうか、もったいない使い方だよな。



5. Houses in Motion
 パーカッションがあまり前面に出ておらず、バーンのダブル・ヴォーカルとオリエンタルなギター・リフが主役の、メロディとコードは従来のヘッズを踏襲している。ここでもまた、ブリューの象の雄叫びが聴こえる。
 ボウイ成分がちょっと強いかな。彼なら多分、こんな感じになるんじゃないか、と何となく思う。

6. Seen and Not Seen
 ダウナーなヴォーカルを抜いたら、あらアンビエント・テクノ。リズム・メインのわかりやすいアフロティックではなく、漆黒の密林を想起させる、底知れぬ闇が広がっている。
 思わせぶりな散文的な暗示をつぶやくバーンは、ひたすら俯き加減で言葉を探り、そして紡ぐ。

7. Listening Wind
 漆黒の密林は、まだ続く。闇夜を切り裂く猛禽類の雄叫びは、どこから響くのか。
 ブリューもイーノも、ここではシャーマニックなバーンに跪く。ここまでずっと張り詰めた緊張感を維持しており、ここでもサウンドは妖しげな獣の芳香に満ちているのだけど、バーンは静かに狂い、そして正気を保とうとする。
 少なくとも、ここでのバーンの声は、これまでと比べて最も「素」だ。

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8. The Overload
 裏ジャケのグラマン戦闘機を思わせる、静かなプロペラ音。執拗なリズムは嘘のように引き、虚無感にあふれるダークで重い空間。救いの見えぬ深淵は、ポップでライトな80年代とは相反し、けっして交じり合おうとしない。
 能天気なアメリカ人:ブリューの出番もなく、ここではイーノの存在感も薄い。これがヘッズの素顔だとしたら、それはちょっと斜め上過ぎるしペシミズムが強すぎる。
 ちょっとはブリューの爪のアカでも煎じて飲めばよかったのだろうかね。肩が凝っちゃうよ。