folder 2003年リリース、ウォルター・ベッカー最後の参加作として、またスティーリー・ダンとしても事実上のラスト・アルバム。リリース当時はみな「これが最後」と思うはずもなく、それもあってか、前作『Two Against Nature』ほどの注目を集めることはなかった。
 「20年ぶりの復活作」という触れ込みで、大々的にプロモーション攻勢がかけられ、本国USではプラチナ獲得、加えてグラミー授賞というオマケもついた前作と比べて、『Everything Must Go』は影の薄いポジションに甘んじている。ベッカー逝去の際も、遺作であるにもかかわらず、圧倒的な『Aja』と『Gaucho』推しによって隅に追いやられ、いまだ地味な扱いである。
 US9位・UK21位というセールス実績は、決して低いものではないのだけれど、世間的には「記録」よりは「記憶」、加えて累計売上でも圧倒的に末期2作のインパクトが強い。そんな2トップが、いわばダンの代名詞となっていることもあって、逆に言えば『Everything Must Go』だけが、不当な扱いを受けているわけではない。
 すごく乱暴な偏見で言い切ってしまうと、『Aja』『Gaucho』以外で知られているダンの作品といえば、せいぜい「Do it Again」くらいのもので、その他の作品の知名度は圧倒的に劣る。そんな俺も、「『Katy Lied』と『Royal Scam』、先にリリースされたのはどっち?」って聞かれたら、即答できない。答えられなくても誰も困らないので、別に覚える必要もない。

 末期ダンのエピソードとして語り継がれているのは、主にレコーディングにまつわるものが多い。終わりの見えぬリテイクの嵐、次々と首をすげ替えられるセッション・ミュージシャンたち、膨大に積み上げられたまま、手つかずの未編集テープ群。
 ミキサー卓の前を定位置として陣取り、OKテイクのテープを切っては貼り、繋いではやり直しの無限ループ。深い霞の奥に潜む最適解を求めて、フェイゲンとベッカー、そして実質「第3のメンバー」と称されたプロデューサー:ゲイリー・カッツらによって共有される、居心地の悪い沈黙。
 作品クオリティの追求のため、それらは必要不可欠な工程ではあれど、その積み重ねは確実に強いストレスを生む。膠着した人間関係は次第に崩壊の過程をたどり、そしてほんの僅かな綻びから「パンッ」と弾ける。
 発展的解消とはお世辞にも言えぬ、グダグダのフェード・アウトを迎え、ちゃんとした公式声明もなく、スティーリー・ダンはその幕を閉じた。ここまでが、いわば第1期。

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 数々の歴史的名盤を生み出す代償として、ベッカーは重度のアルコール中毒を病み、フェイゲンもまたプライベートな問題を抱え、再び腰を上げるまでには、およそ10年の歳月が必要だった。ソロ・アルバム『Kamakiriad』制作のため、フェイゲンがベッカーに声をかけることでタッグが復活し、そのままダン再結成へとプロジェクトは移行する。
 ただ大方の予想と大きくはずれ、再結成ダンはライブ活動からスタートした。一度聞いただけでは、ちょっとなに言ってるかわかんない、ぶっ飛んだ近未来的コンセプト・アルバム『Kamakiriad』でウォーミング・アップを済ませ、「次はいよいよ、ダン名義の本格的なスタジオ作品か?」と誰もが思っていたにもかかわらず、まったく音沙汰なしだった。
 80年代に入ってから顕著となった、往年のグループの再結成といえば、その多くはレコード会社主導でコーディネートされたものだった。グループ解散後、パッとしないアーティスト側と、ある程度、評価の定まった銘柄に投資したいレコード会社側、双方の思惑をすり合わせるため、有象無象の自称コーディネーターやブローカーが暗躍した時代である。
 大々的にグループ復活を謳い、ニュー・アルバムをリリースしてワールド・ツアー、勢いの冷めやらぬうちにライブ・アルバムかビデオのリリース―、ここまでが一連の流れだった。こういったシステムを作ったのは、多分ストーンズが最初だったと思う。
 ダンの場合、どの段階からエージェントが絡んだのか、またレコード会社のA&Rが接触してきたのかは不明だけど、アルバム制作をスタートとしなかったことは、結果的に正解だった。フェイゲン主導の『Kamakiriad』ならまだしも、正式な再結成アナウンスを経てニュー・アルバム制作ともなれば、あの終わりなきスタジオ・ワークが繰り返されることは目に見えていた。

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 結果的に再結成のプロローグという位置づけとなった『Kamakiriad』を経て、フェイゲンとベッカーはスタジオを後にすると、その後しばらく欧米を中心にマイペースなライブ活動を続けた。単発のシングル・リリースもなければ、スタジオ入りした情報もなく、彼らはひたすらアリーナ・クラスの大会場を小まめに回り、そして多くの収益を得た。
 活動再開を喜んだ世界中のファンは、「きっと」「近い将来」リリースされる「であろう」新生スティーリー・ダンのニュー・アルバムを、首を長くして待ち望んだ。そんなファンの心境を知らぬはずはないのに、彼らは我関せずといった風にステージに立ち続け、スタジオ入りするのを先延ばしにした。
 音源リリースを前提としない再結成は、彼らの心理的負担やプレッシャーの軽減に大きく作用した。彼らの立場に立ってみれば、緻密にこだわり抜いた渾身のスタジオ作品で酷評されるよりは、すでに確立したネーム・バリューをぶら下げて、世界各地で喝采を浴びる方を選ぶに決まってる。往々にして再結成アルバムというのは、リスクが高いのだ。
 思えば『Gaucho』も『Aja』も、アナログ・レコーディング技術が頂点に達した時代の産物である。アーティスト単体だけではなく、ゲイリー・カッツを始めとした制作チーム、そして優秀なプレイヤーをふんだんに使うことができる環境。それらすべてのタイミングが奇跡的にシンクロしたことによって、作品クオリティとして結実した。
 いくら新:ダンの期待値が高く、それなりのバジェットが組まれていたとしても、20年前と同じ環境は望むべくもない。アナログ・レコーディング可能なスタジオ自体がほとんど残されていないし、もし仮にあったとしても、以前と同じメソッドで作業できるほどの時間も予算もない。
 かといって、ライブのテンションで一発録り強行するタイプの音楽性でもない。作業効率を重視して、従来の生音セッションからプロトゥールスへ移行するのも、またちょっと違うし。
 ていうか、それって、もうスティーリー・ダンじゃなくなるし。

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 そんな試行錯誤があったのかどうかは不明だけど、新:ダンはなかなか新作アルバムに取りかかる気配を見せなかった。2人とも壮年に差し掛かり、かつてのような集中力を維持することが困難になってきたこと、報われることの少ないスタジオ・ワークより、1日2時間前後のステージで喝采を浴びる方が、精神衛生上のメリットが大きかった。
 かつて創造に注いでいた労力は、アーカイブの忠実な再現に向けられた。テイク3のギター・ソロの3小節目を、テイク21と継ぎ直しては戻したり、といった悶々とした作業より、イントロだけでオーディエンスが狂喜乱舞する「Hey Nineteen」のライブ演奏の方が、彼らとしてはカタルシスを得ることができた。
 そんな風に自然に培われたバンド・グルーヴとアンサンブルの妙が徐々にバンド内のテンションを上げ、その時点での新:ダンのマイルストーンとして制作されたのが、『Two Against Nature』だった。曲ごとにセッション・ミュージシャンを取っ替え引っ替えし、無数のテイクから数フレーズだけ抜き出して張り合わせる、言ってしまえば非効率的だった既存の手法を取らず、固定メンバーによるコンパクトなセッションを、あまりいじらずにまとめることで、平均的に高いクオリティの演奏となっている。
 『Two Against Nature』と『Everything Must Go』に共通しているのは、プレイヤビリティの尊重であり、返して言えば、旧:ダン3トップ独裁体制の崩壊である。旧:ダン・サウンドのコンセプト面を司っていた、フェイゲン:ベッカー:カッツのエゴは大きく後退し、各プレイヤーによる自由な解釈に委ねられているパートも多い。
 旧:ダンの魅力のひとつだった、アンチ・ポピュラーなコード進行や、無国籍性・時代性を超越したサウンド・アプローチは不変だけど、偏執的なアーティスト・エゴやパーソナリティは薄められている。末期2作がカスタム・オーダーメイドとすれば、新:ダンによる2作は、「忠実に再現された汎用タイプ」と例えれば、何となく理解してくれるんじゃないかと思われる。

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 手を抜くわけでなく、時代のニーズに応じつつクオリティも維持しつつとなれば、この手法が新:ダンの最適解だった、と今にして思う。順列組み合わせを目的としたマテリアル収集でしかなかった旧:ダンのバンド・セッションを経て、新:ダンで得たバンドの一体感は、スタジオ仙人と揶揄されていたフェイゲン:ベッカー両名にとって、新鮮な体験だった。
 長い長いキャリアを経て、やっと居心地の良い環境を獲得したことでテンション上がっちゃったのか、『Everything Must Go』は前作からわずか3年のインターバルでリリースされた。この間にワールド・ツアーを敢行し、さらにその合間を縫って、数々の取材やらイベントやらも出席しているので、ベテラン・バンドとしては驚異的なハイ・ペースである。
 内容的には『Two Against Nature』の続編のようなもので、正直、そんなに大差はない。この2枚のトラックをシャッフルして聴いても、多分、気づく人はそんなにいないはず。
 際立つほどキャッチーなキラー・チューンや、迫真のインプロビゼーションが収録されているわけではないけど、プレイヤー側がそんなに気負ってないこともあって、聴く側としても気楽に聴くことができる。ムダをそぎ落としてゆくのではなく、最初からある程度の帰結点を想定して形作られているので、コスパ的にも優秀である。
 いい意味でシステム化された新:ダンのレコーディング・プロセスの確立によって、その後もコンスタントにスタジオ新録アルバムがリリースされるのでは、とファンの期待はふくらんだ。今さら「Peg」「Black Cow」クラスの楽曲は望むべくもないけど、少なくとも大コケする作品を作ることもないだろう。3割程度の打率でコツコツ続けてもらえれば、それでもう充分だ。

 ―と思っていたのだけど、これ以降、フェイゲンとベッカーが揃ってスタジオに入ることはなかった。もしかしてリハーサルくらいはやってたかもしれないけど、世に出せるほどの作品を生み出すには至らなかった。
 そして、それはもう2度と巡ってこなかった。





1. The Last Mall
 アタック音の強いドライな質感のドラミングを得意とするキース・カーロックがグルーヴ・マスターを務め、それに引っ張られてかフェイゲンのヴォーカルも力強い。まぁ声は出ている。
 やたらフィーチャーされるベッカーのギター・プレイは賛否両論あるけど、俺的にはあんまり好きじゃない。手数は多いんだけど、あんまり印象に残らないというか、旧:ダンのプレイをなぞってるだけっていうか。
 逆に言えば、他のパートはきちんと仕事をしている印象。あ、そんな役回りなのか、ベッカー。

2. Things I Miss the Most
 ブルース・ベースのギター・プレイがやっぱウザい、それでもヴォーカル的にはアルバム中ベストの仕上がりという、何とも評価しづらいナンバー。わかりやすいダン流メロディなので、旧:ダン信者にも評判は良さそうだけど、「それならオリジナル聴いた方がいいや」という意見はちょっとひねくれ過ぎ。

3. Blues Beach
 ピアノ・パートが大きくフィーチャーされ、対してベッカーの存在感は薄いので、その分、「らしさ」が強く浮き出たシングル・カット・チューン。今さらシングル・ヒットを狙うとは思えないけど、ちょっとはキャッチ―な面を意識したんだろうな。でも、もっとソリッドに仕上げてもよかったんじゃね?付け足したような女性ヴォーカルのパートは、あんまりグッと来ない。

4. Godwhacker
 やや不穏な香りの漂う16ビート。ここまでと風合いの違う、それでいて新機軸の兆しも窺えるダン特有の世界観。ちょっとファンク・テイストが強めのダン楽曲が好きな俺としては、このアルバム中のベスト・トラック。恐らく、同じ想いのファンも多いんじゃないかと思われ。



5. Slang of Ages
 ここに来て、ベッカーによるヴォーカル曲。ここまで強引なベッカー推しは、一体なにがあった。どこかのレビューで「リンゴ・スターっぽい」というコメントを見たけど、そこまで味があるわけではない。でも、なんかクセになる。そんな声質。そして歌い方。
 でもこれ、別にフェイゲンが歌っても別に良かったんじゃね?といつも思う。ホーン・セクションも健闘してはいるんだけど、やっぱブレッカー兄弟と比べちゃうと、見劣りしちゃうのは致し方ないか。

6. Green Book
 ここまでやたらベッカー推し、ソロイスト推しなアレンジが多かったけど、ここに来てやっとバンドらしいグルーヴが堪能できるナンバーの登場。ちょっとフェイゲン・ソロっぽさが強いけど、鍵盤のアレンジ・センスなんかはまだまだ衰え知らず。
 足したり引いたりするのではなく、あるべき音を最小限に置くことができるのは、彼ならでは。



7. Pixeleen
 「FM」のベーシック・トラックのピッチをちょっぴり上げて、キャロリン・レオンハートとデュエットすると、こんな感じに仕上がる。R&Bでもスムース・ジャズでもない、スティーリー・ダンとしか形容しがたいオリジナリティ。ヒットの方程式からははずれているけど、やっぱ俺、この世界観は大好きなことに今さらながら気づいた。

8. Lunch with Gina
 彼らにしてはスタジオ・セッション感を強く打ち出したトラック。軽快な16ビート、ホーン・プレイに肉薄したフェイゲンのシンセ・ソロ、各パートが隙あらばぶっ込んでくるアドリブ・パートなど、やたらバッキングの聴きどころが多い。この辺は新:ダンの可能性が見られる。

9. Everything Must Go
 「閉店売り尽くし」という意味を持つ、タイトル・チューンにしてラスト・トラック。Walt Weiskopf(t.sax)によるジャジー・ソロに続き、漂白脱臭されたスロウ・ブルースからは、感傷的な香りが漂う。
 リズム・アプローチにひねりがないためか、凡庸なAORに聴こえてしまうけど、この後の沈黙を思えば、それもまだ許せるか。ていうか、ダン・ナンバーを素直にストレートに解釈して演奏すると、こんな感じになっちゃうんだな。
 多くのフォロワーが求めて得難いモノ、それが彼らの持つオリジナリティ、「毒」であるのか。