2010年リリース、37枚目のオリジナル・アルバム。この当時のオリコン最高5位は、決してバカ売れというレベルではないけれど、だからどうしたというわけでもない。何が何でもチャートのトップをねらった風でもない。
この時期のオリコン・チャートは、EXILEやらAKBやらジャニーズやらの独壇場であり、みゆき世代が出しゃばるフィールドではなくなっていた。
いや、そんな時期はずっと昔に過ぎ去っていた。大御所と呼ばれて久しく、そんな些事にこだわるポジションではない。
数少ない顧客囲い込みに汲々するほど、切羽詰まった立場でもない。同世代は、ほぼリタイアしているか宗旨替え、はたまた過去の再生産で食いつなぐかしている。
そしてみゆきはずっと変わらず、ほぼ年1ペースで、オリジナル・アルバムをリリースし続けている。創作意欲だけじゃなく、それを可能とするポジションであり続けているのは、もうみゆきだけになった。
パーソナルな恋愛を綴っていたかつてと違い、みゆきの言葉にささくれは見えなくなった。吐き出すような嗚咽混じりの心情吐露は、内向きの棘と化して自身を傷つけた。
満身創痍になりながら、それを業として受け止め、前を向き、凛として歩みを止めないその様は、ぼんやりした空虚を抱える多くの若者らの共感を呼んだ。みゆきがみゆき自身のために歌ったはずなのに、その言葉たちは彼らの空虚にすっぽりはまり、強い自己投影を喚起させた。
キャリアを重ねるにつれ、その負のオーラは減っていった。内向きだった視点は外へ、そして高みに上り、毀誉褒貶に囚われない女神として、色恋沙汰に捉われない、普遍的なテーマを取り扱うようになった。
その境目となったのが、夜会プロジェクトだったと言える。
もう少し遡れば、いまも続く瀬尾一三とのパートナー・シップが始まったことも、作風の変化に大きく影響した。どれだけ奇矯なアプローチやリクエストにも、あ・うんの呼吸でサラッと応じてしまう瀬尾のプロデュース・ワークは、80年代のご乱心期に拘泥していたみゆきが探し求めていたものだった。瀬尾がチームに加わったことによって、みゆきは長く構想段階で止まっていた夜会プロジェクトに本腰を入れることになる。
毎年末(近年は1年おき)に行なわれる夜会の公演期間は、おおよそ2~3週間程度。目に見える実働はそれほど長期ではないけれど、準備期間を含めれば、そこにかける労働力は膨大になる。
実作業に当たる関係者スタッフはもちろんのこと、みゆき自身も原案から楽曲制作、演出にも深く関わっているため、投入されるエネルギー量はハンパない。その年の夜会が執り行なわれている最中に、すでに次の夜会のラフ・スケッチは描かれているのだ。いや、いろんな候補案が同時進行しているのかもしれないし。
じゃあこれまで行なわれた夜会のラインナップって、どんなんなってるのかしら、と調べてみると、これが案外少なかった。まとまったストーリー構成ではない初期夜会を除き、起承転結に沿った作品は12本である。
再演や再構成モノをはずし、純粋な書き下ろし作品となると、こんな風になる。
1991 KAN(邯鄲)TAN
1992 金環蝕
1993 花の色はうつりにけりないたづらにわが身世にふるながめせし間に
1994 シャングリラ
1995 2/2
1996 問う女
1998 海嘯
2000 ウィンター・ガーデン
2004 24時着 0時発
2008 〜夜物語〜元祖・今晩屋
2014 橋の下のアルカディア
2019 リトル・トーキョー
おおよそ30年で12本。商業演劇には詳しくないので、この興行ペースが多いのか少ないのかはちょっと不明だけど、この他にもアルバム制作や楽曲提供も行なったりしてのコレだから、普通に考えればかなりの多作である。
思えば『East Asia』くらいまで、夜会とは、あくまでみゆきのサブ・プロジェクトという位置付けだった。
「コンサートでもない、演劇でもない、ミュージカルでもない、言葉の実験劇場」という前例のないコンセプトは、良く言えば無限の可能性を秘めている感はあるけど、返して言えば初期衝動のまま突っ走った感が強かった。継続的なプロジェクトになるのかどうか、それもまた「やってみて決めていこう」という、フレキシブルなものだった。
「やり遂げることに意味がある」的な初期の夜会は、いわば通常コンサートの幕間劇を拡大したようなものだった。
緩やかなストーリー構成に沿ったひとり芝居、そして、アクセントのようにシーンをつなぐ楽曲たち。説明的なモノローグや演技ではなく、これまで書いてきた歌たちの世界観がそれぞれに語りだし、その相乗効果で新たな価値観を創造する―、みゆきの描いたビジョンは、そういったものだったはずだ。
だったのだけど、その試みは、思っていた以上に化学反応をもたらさなかった。歌は歌であり、芝居は芝居。演劇パートは独りよがりとなり、新たなアプローチでリアレンジされた歌たちも、目新しさはあったけど、でもただそれだけだった。
みゆき自身、実際に演じてみて軌道修正が必要と感じたのか、3回目 『KAN(邯鄲)TAN』以降は、起承転結を持ったストーリーを柱として立てている。敢えて制約を設けず、散文的なユルいステージ進行は、基本シンガーであるみゆきとの相性が良くなかった。これがコンボ・スタイルなら、予測不能なジャム・セッションに発展できるのだけど、まぁ狙ってたのはソコじゃないだろうし。
次に問題となったのが、肝心の楽曲ラインナップだった。強い世界観をもったストーリーを新たに作ると、これまでの既発表曲だけで構成するには、何かと無理が生じてくるようになった。
そもそも、すでに単体で成立してしまっている楽曲たちをストーリー仕立てで並べること自体に無理がある。それでも強引に新たな世界観でまとめるのなら、そりゃあもう、長大かつ重厚な物語、さらに多くのキャストや舞台装置が必要になる。
もしほんとにやろうとするならば、それこそ採算度外視、しかも一般的な2時間のステージで収まるものではない。無理やり収めたとしても、多分とっ散らかったモノになるだろうし、どちらにせよ現実的なプランではない。
そんな事情もあってかどうか、7回目の夜会『2/2』では、既発表曲の割合が激減、ほぼ20曲以上が書き下ろしオリジナルで構成されていた。その後も、再演・再々演によってストーリーに修正が施された、さらに新曲が追加されたり削られたりなどしている。なので、この『2/2』の関連楽曲は、膨大な量にのぼる。
強烈な吸引力とイマジネーションを必要とする、そんな物語の貪欲な力は、悠然たる女神:みゆきさえをも振り回し、そして翻弄させた。『2/2』の世界観にせっつかれるように、彼女は物語が希求する楽曲を書き続けた。
その後、夜会のために生み出された歌たちは、それぞれのストーリー/コンセプトにフィットするよう、その世界観に沿って書き上げられた。言葉と歌とがチグハグだった初期とは見ちがえり、その後の夜会はスムーズで違和感ない舞台進行となった。一般的な商業舞台とも引けを取らず、動員数・クオリティとも、国内有数のコンテンツとなった。
ただこれらの夜会楽曲、いわば壮大な組曲の一構成要素として生まれてきたため、単体での存在感が希薄であることも、また事実である。1シーンの心理描写を演技で説明せず、メロディを介したモノローグで表現するために作られたものが多いため、夜会未見のユーザーにとっては、そこだけ切り取られても、ちょっと分かりづらい。
せっかく生み出した歌たちを独り立ちさせようと、みゆきは不定期に夜会楽曲をスタジオ・レコーディングし直し、新たな命を吹き込んでいる。
「歌を自由にしてあげようとはじめた夜会だが、オリジナル曲は物語の場面に閉じ込められてしまった。それらを一曲の楽曲としても(翼で羽ばたくように)自由に聴いてほしかった」(『10wings』リリース時のコメント)。
単なる劇中歌としてではなく、キッチリしたイントロと間奏、そしてアウトロをくっつけて体裁が整えられ、他の書き下ろし曲と並べられる。ひとつのアルバムの構成曲として、それらは新たな表情を浮き上がらせる―。
でも、
やっぱ、なんか違う。
大きなリンゴから切り分けられた1ピースは、いくら切り口を揃えても、他のリンゴと重なり合うことはない。どこかいびつで、どこか味わいが違ってくる。
夜会から育ったリンゴの味は、他の畑のリンゴとは、決して交じり合わないのだ。
『真夜中の動物園』は、この時期にしては珍しく、夜会楽曲を入れず、ほぼ書き下ろし新曲で構成されている。すごく厳密に言えば、楽曲提供やセルフ・カバーは入っているけど、シンガー・ソングライター:中島みゆきとして書いた楽曲をメインとしている。
一応、フワッとではあるけど、「動物」をテーマとした楽曲が中心となっており、ユルいコンセプト・アルバムといった見方もできるけど、でも動物と全然関係ない曲も含まれている。何となく叩き台として、「動物がテーマ!」って設定してはみたけれど、いろいろ足したり削ったりしてみた末、こんな感じで収まっちゃったのだろう。
なので、どの曲も相互的な関連性はなく、一話完結の独立した世界観で構成されている。要するに、「いつものみゆきのアルバム」ということなのだけど、その「いつも」が久しぶりと感じてしまうのは、やっぱ夜会楽曲の影響なんだろうな。
俺的には夜会楽曲、「好きでも嫌いでもない」といった程度のもので、要はあんまり思い入れも少ない。あってもなくてもいいけど、でもやっぱ、いつものリンゴ畑の味を求めてしまう。
中島みゆき
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1. 今日以来
ずっと思っていたのだけど、これって曲調といいテーマといい、吉田拓郎「今日までそして明日から」からのインスパイア、またはアンサー・ソングなんじゃないだろうか。ザックリしたバンド・アンサンブルや歌い方も、拓郎リスペクトっぽい。
「私は今日まで生きてみました」と、かつて拓郎は歌った。「時には誰かをあざ笑って 時には誰かにおびやかされ」。
40年近く経って、みゆきは歌う。
「失敗ばかりの人生でした やることなすこと ヘマばかり
後悔ばかりの人生でした 迷惑ばかりを散らかしました」
40年経っても、人はそんなに変われない。結局、同じ失敗ばかりを繰り返す堂々巡り。
「わからないまま生きて行く 明日からの そんな私です」
わかりはしないけど、でも生きて行くしかない。拓郎はそう言っている。
そして、みゆき。
「もう愛します 今日以来
愛されたがりは罪作り
もう愛します 今日以来
愛したがりになれるかな」
最後が疑問形、それか希望。これだけ人生を重ねたって、強く言い切れない自分がいる。
人なんて、そんなに変わらない。所詮、人もまた動物だもの。
みゆきはそう言っている。
2. 真夜中の動物園
終業ベルと共にスタートする、荘厳としたタイトル・ナンバー。
「逢えない相手に逢えるまで 逢えない相手が逢いに来る」
「夜」同様、みゆきにとっては永遠のライフワークとも言えるテーマを、正面から歌っている。アップテンポ時の力づくでもなく、かといって近年のバラード・スタイルとも違う、そう、80年代以前のご乱心期前のスタイルに近い。
呪術的なカノン形式のダブル/トリプル・ヴォーカルは、漆黒の闇を浮き立たせる。
「誰だい ヒトなんか呼んだのは
流氷に座ってる
あれは シロクマの親代わりだったヒトさ」
この曲が発表されるちょっと前、ドイツの動物園で母熊から育児放棄されたホッキョクグマの人工飼育が世界的なニュースとなった。飼育係トーマス・デルフラインの献身的な介護により、子熊クヌートは無事成長したが、『真夜中の動物園』リリース後の2011年、池に落ちて溺死した。なお、トーマスは先立つ2008年、心臓発作で亡くなっている。
時期的に、このエピソードからインスパイアされて製作されたものとされており、実際その通りなんだろうけど、何かと一筋縄ではいかない曲である。
動物園とヒト、それらを象徴しているもの、または暗示しているものは何なのか?深読みしようと思えば、どこまでもできてしまう。
3. まるで高速電車のようにあたしたちは擦れ違う
ダブル・ヴォーカルの上、ハーモナイザーを強くかけた歌声、投げかけるようなスタイルは、流麗さとは別次元にある。アコースティック・セット中心のコンパクトな演奏がラフなヴォーカル・スタイルとマッチしている。
「笑うことも 泣くことも その場限りのあたしたちだけど
思うことも しゃべることも その場限りのあたしたちだけど」
刹那的なメッセージはそこまで深読みするほどの濃さはない。なので、俺的な解釈だけど、俺世代よりもっと下、それこそモノノフ世代に向けて書かれたんじゃないか、と。何となく、ギャルっぽい歌い方って見方もできるし。
4. ハリネズミだって恋をする
昔から文学でも音楽でも、「ヤマアラシ(ハリネズミ)のジレンマ」というのはアーティストにとって格好の素材であり、実際、手垢がつきまくっているので、今さら新たなアプローチというのは難しい。どうしても悲観的なアプローチになりかねないところを、ここではみゆき、カラッとしたラテン・スタイルのアレンジで過剰な悲壮感を回避している。
まぁでも、みゆきがやる歌じゃないよな、このテーマって。
5. 小さき負傷者たちの為に
回りくどい比喩や暗喩もなく、この上なくストレートなプロテスト・ソング。
「言葉しか持たない命よりも 言葉しかない命どもが
そんなに偉いか 確かに偉いか 本当に偉いか 遥かに偉いか」
その言葉は、みゆき自身にブーメランとして返ってくる。自分はどっちの側だろうか。
誰もが傷つかない言葉なんて、あるはずがない。あったとしても、それは誰の心にも響かない。そしてその言葉は、みゆき自身の心に最も深く刺さる。
これからも誰かを傷つけるかもしれない。でも、言葉を持たない者のため、自分のために、これからも歌い続ける。そんな決意表明が、強く刻まれている。
6. 夢だもの
サビメロがはっきりした、ちょっと歌謡曲っぽいテイストのポップ・チューン。アウトロがちょっぴりスペクター・サウンドっぽいのも、どこかしら80年代。
こじらせ女子の妄想が連綿と描かれ、ちょっとコミカルな歌い方なのは、真剣に歌っちゃうと泣いてしまうから、というのは聴き手側の妄想。こういったストレートな恋愛モノは、近年では貴重となった。
7. サメの歌
ソリッドな歌謡ロッカバラード。サメの泳ぎを表現しているのか、演奏も躍動感があってライブ向き。
「可笑しいことに なまものは後ろへ進めない
なりふりを構いもせず 前へ向くようできている
サメよ サメよ 落とし物の多い人生だけど」
いちいち振り返るヒマもなく、こんなところまで来てしまった。とにかくがむしゃらに、前へ前へ進むしかない人生。多かれ少なかれ、誰だってそうだ。
「人が落としていったモノを、ずっと後から拾い集めてゆく」。
かつて、みゆきは言っていた。いまもそうなんだろうか。
8. ごまめの歯ぎしり
「ごまめは小さなカタクチイワシを素干しにしたもので、この句では実力のない者のたとえとして使われている。 実力のない者が、やたらと憤慨して悔しがったり、いきりたつことをいう。 また、その行為が無駄であるということのたとえにも使われる」(故事ことわざ辞典より)
知らない言葉だったので、一応。普段使うことわざじゃないよな。
シャッフル・ビートに投げやりなヴォーカル、自虐的な歌詞ということで、「サーチライト」を連想する人も多いと思われる。
人生も恋愛も何もかも、うがった見方とはすっぱな視点。皮肉と自虐にまみれた生き方に、満足してるはずがない。でも、どこにも行けない。そんなこじれた若さを活写した歌詞。
昔は、これが中島みゆきの真骨頂だった。やろうと思えば、これくらいのはいつだって書ける。古いファンにとっても、すごく居心地がいいんだよ。
でも、今はそれだけじゃない。みゆきはそう言っている。
9. 鷹の歌
かなり肩に力の入った、スケール感の大きいバラード。「フジテレビ開局55周年記念スペシャル・ドラマ『東京にオリンピックを呼んだ男』の主題歌として使用された」とwikiにはある。
いや直球ストレートでいいんだけど、いわゆる「メディアが求める中島みゆき」「重厚感あふれるドラマ・映画のラストシーンに効果的に流れる楽曲」って感じなので、正直おなかいっぱい。ただでさえ近年の「糸」尽くしでファンは食傷気味なので、こういったバラードはあんまり受け付けなくなっている。
10. 負けんもんね
アレンジのクレジットから見て、多分、1.と同じセッションでレコーディングされたと思われる、一応のラスト・ナンバー。ここで拓郎テイストはさらに強くなり、ていうか拓郎をみゆきが取り込んで、ハイブリッド化している。なんか笑っちゃうくらいノリにノッたみゆきのヴォーカルが印象的。転調の「ンがっ」とか「ンなっ」って力が有り余ってしまうところに、周到な計算と予測不能のライブ感がにじみ出ている。
多分、拓郎なら「負けんもんね」とは言わないけど、みゆきなら言える。優劣ではなく、これが男と女の違いなんじゃないのかな、と思う。
11. 雪傘
ここからはボーナス・トラック。別に海外仕様とかじゃないのに、CDでわざわざ明記するのは珍しい。みゆきとヤマハとの間で、何かしら駆け引きがあったのかしら。
オリジナルは工藤静香、2008年リリースのシングルのカップリング。みゆきのセルフ・カバーの場合、大抵はオリジナルよりクオリティが高いことが多いのだけど、静香の場合になると、その評価は逆転する。
俺的な好みもあるけど、ほとんどの静香提供曲は静香ヴォーカルの方に分がある。まぁクライアントに合わせてるわけだから、当たり前っちゃ当たり前なんだけど。なんでか「黄砂に吹かれて」も静香の方が好きなんだよな、俺。
12. 愛だけを残せ
続くボーナス・トラックは、2009年の映画『ゼロの焦点』の主題歌。41枚目のシングルとして先行リリースされており、オリコン最高15位をマーク。9.のようにこぶしを握り締めて高く掲げている風ではないけど、これもまた「みんなが望む中島みゆき」の女神の面を強く出している。
いい曲ではある。警句的フレーズは万人の心に刺さり、印象を残す。
でも、それは決して深くは刺さらない。
古くからのファンは、えぐり取るような言葉の棘を知ってしまっている。そういうことだ。
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