前回の続き。
一応、円満な発展的解消に落ち着いたビューティフル・サウス解散を経て、ポール・ヒートンはソロ活動を再開する。2006年サウス最終作『Superbi 』リリース以降、バンドは開店休業だったため、時間だけはたっぷりあった。
2007年、正式に解散が発表され、翌2008年にはソロ再デビュー作『The Cross Eyed Rambler』をリリースする。相変わらず立ち直り早いし切り替え早いし、尽きない量産ぶりはコステロ並みだなヒートン。
細かい変遷はあったけど、基本はオーソドックスなアコースティック/フォークポップだったサウス〜ビスケット・ボーイに対し、独りになって思うところがあったのか、ここでは大胆なイメージチェンジを図っている。
どこから引っ張ってきたのかヒートン、ひと回り世代の違う若手ミュージシャンを集め、新たにバンドを結成した。その名も「The Sound of Paul Heaton」。有名どころはヒートンしかいないので、ほぼバックバンドみたいなものである。しかしダセェネーミングだよな。
Mark E. Smith率いるFallに一瞬いたSteven Trafford以外、ほぼ無名の若手中心で、インディーポップ/ロックバンド的なアプローチが展開されている。ガレージロックに触発されたラウドめのサウンドに触発されたのか、メロディもシンプルに抑えられ、ヴォーカルも心なしか前のめり気味になっている。
わざわざバンド名義にするくらいだから、それなりに気合い入れてたはずだし、原点回帰でマメにUKツアーも行なったのだけど、チャートはUK最高43位に終わっている。まっさらの新人バンドならともかく、ヒートンのネームバリューがまったく通用しなかったのは、スタートとしてはちょっと肩透かしだった。
「まぁロック界隈ではそんなに知名度なかったし、そんなにプロモーションもしてなかったし」と、第2弾『Acid Country』でも引き続き、ギターメインのパワーポップで押し通してみたのだけど、前作よりさらに低い最高51位という結果に終わる。明らかに固定ファン離れてるな。
ポップなメロディとガレージロックは決して相性が悪いわけではなく、ハードめならメロコア、ソフトに振れてもパワーポップというフォーマットがあるのだけど、そのどちらともリンクせず中途半端だったのは、やっぱ向いてないんじゃなかろうか。かつては英国の標準家庭に一枚はあったサウスのアルバム、そんな保守層が荒ぶるヒートンを求めているとは、とても思えないわけで。
山下達郎だって、ほんとはAC/DCみたいなハードなサウンドが大好きなんだけど、自分の声質には合わないから、ソフトサウンド路線を選択したわけだし。今はもう無理だろうけど、ヘドバンする達郎も見てみたかった気もする。イヤやっぱいいわ、なんか怖いし。
さすがに2作続けてコケたことで懲りたのか、バンドは解散、ロック路線にさっさと見切りをつける。多分、周辺スタッフも「そろそろサウス路線に戻った方がいいんじゃね?」と口添えしていたはずだけど、そう言われると逆張りに行ってしまう英国人気質。元メンバー残党で結成されたThe Southの手前、同じ路線は歩みたくない。
そんな矢先、ちょっと違う方面からオファーが舞い込む。アーティストとしてではなく、サウンドプロデューサーとして。
「世界で初めて新作の委託製作のみに特化した国際フェスティバル。2007年に第一回を開催。舞台芸術、ビジュアルアート、ポップカルチャーを融合した作品が特徴的」という趣旨のマンチェスター国際フェスティバル。隔年で約2週間の開催期間中、演劇からオペラ、映画から現代美術からパフォーミングアートまで、世界中さまざまなジャンルのアーティストが参加している。
過去のラインナップを見ると、スティーヴ・ライヒとクラフトワークのコラボ、マッシヴ・アタックによる映像と音楽のパフォーマンス、デヴィッド・リンチ:プロデュースの舞台パフォーマンスなど、斜め上のサブカル好きには垂涎のプログラムが並んでいる。今年も草間彌生が新作提供していたり映画『マトリックス』をテーマとしたダンスパフォーマンスがあったりして、興味なくても行けば虜になってしまうイベントが盛りだくさんである。
そんな2011年のラインナップのひとつとして、「七つの大罪」をテーマとしたショウが企画された。マンガや映画『セブン』でも取り上げられた、カトリック由来のテーマである。そのサウンドプロデューサーとして「なぜか」ヒートンが指名された。
高潔でアーティスティックで先鋭的なフェスティバルに対し、場末のアイリッシュパブでサッカー中継を横目にクダを巻く労働者階級のヒートンは、控えめに見ても場違いである。彼の作風である「市井の一般庶民のドタバタ悲喜劇」と新約聖書とのギャップ萌えを狙ったー、イヤ強引すぎるな、どう好意的に見ても。やっぱ何かの間違いだったとしか思えない。
地元の強力なコネでもあったのか、はたまたキュレーターが誰かと勘違いしたのか。ヒートン自身も「なんで俺?」って思わなかったんだろうか。
ただショウのすべてを取り仕切ったわけではなく、大筋のコンセプトは著名劇作家のChe Walkerがシノプシスを書き、舞台演出も実績のあるGeorge Perrinが腕を奮った。そりゃそうだ。
ヒートンの役割は、シノプシス/テーマに沿った、8楽章から成る組曲を制作することだった。嫉妬や強欲など、テーマにフィットしたシンガーの選出・構成も、彼のミッションだった。強引に1人で歌い分けることも可能っちゃ可能だけど、それじゃただのソロライブだもんな、サエない中年男だけじゃ華もないし。
これまでとは趣きの違う不慣れな仕事ゆえ、いろいろ苦心惨憺だったことは察せられる。いろいろダメ出し食らったりボツにされたりもしたんだろうな。
おそらく敬虔なクリスチャンとは思えないヒートン、これまで宗教を揶揄したり遠回しに小バカにしたような楽曲は書いてきたけど、パロディ抜きのシリアスな表現はしたことがなかった。今回はさすがにシニカルな視点は傍に置いて、真摯かつエンタテインメントとして成立してなければならない。
きちんとしたシナリオがある分、まだ救われたと言える。じゃないと、ヒートン成分が入りすぎてキンクスみたいになっちゃってただろうし。
世界的には無名だけど、堅実な仕事をするスタッフやアーティストによって、『The 8th』は格調高いエンタテイメントとして演じられた。キリスト教由来のテーマなので、無宗教の俺がどうこう言えるものではないけど、トータル的にはちゃんとしている。ヒートンのくせに。
ていうかヒートン、この本編ではほぼモノローグのみの役割で、基本的には裏方である。なので、彼目当てだとちょっと肩透かしを喰らってしまう。
のちにこのプログラム、CD/DVDにまとめられたのだけど、実際の公演では後半でヒートンのソロライブもあり、むしろそっちの方が堅苦しくなくて好評だったらしい。大衆的なアーティストの箔づけとしては有効なんだけど、本人的にもお呼びじゃない感が先立って集中できなかったんじゃなかろうか。
ちなみにこの年のマンチェスター国際フェスティバル、他のプログラムがやたら充実しており、デーモン・アルバーン制作の京劇オペラやビョークのライブなど、ヒートンが霞んでしまうラインナップが目白押しとなっていた。そりゃ世間の注目はそっちに行くし、そこまで興味のない俺でさえ、やっぱ生ビョークは見たいもの。
なのでこの『8th』、これまでのヒートンのキャリア中、CDセールスは最低ランクだった。まぁ本人歌ってるわけじゃないしね。
収益性はともかく、クリエイティヴ面で手ごたえを感じていたら、その後も地道に続けているはずだけど、いまのところそんな動きもない。当時の劇評に目を通すと、それほど批判的な意見は見受けられないのだけど、だからと言って絶賛もない。
ヒートンにしてみれば、たまたまスケジュールが空いてた時に舞い込んだ請け負い仕事であり、評判良ければ、そっち方面へ行くのもアリかな?と思ってはいたけど、リアクションの薄さと作業の煩雑さに辟易しちゃったんじゃなかろうか。いつもの自作自演と違って、お題はガチガチに決まってるし、そもそも長編小説的な組曲を書くタイプではなく、短編小説の作風だし。
なので、ヒートンのキャリア中、ほぼなかったことにされているこの『8th』。セールス面でもクリエイティヴ面でも、ほぼ得るものはなかったのだけど、大きな出逢いがひとつあったため、重要なターニングポイントとなっている。
プロジェクトに参加したシンガーの多くは初顔合わせだったのだけど、おそらくヒートンの強い希望だったのか、旧知のジャッキー・アボットが参加していた。
「もうこんな下品な歌は歌いたくない」という理由で脱退したブリアナ・コリガンの後釜として、アボットはサウスの2代目女性ヴォーカリストに就任した。脱退後、ソロデビューを経て、学校の先生になったコリガン。もともとまともなキャリアを歩んできた人だから、相当我慢してたんだろうな。
そんな反省もあったのかヒートン、アボット加入以降、あからさまで下品なエロを表現することは減ってゆく。チマチマした小市民のソープオペラは相変わらずだったけど、クセの少ないアルトヴォイスはヒートンの声質とも相性が良く、数々のヒット曲を生み出す名パートナーとなった。
そんなサウスの黄金期を支えていたアボットだけど、2000年に脱退を表明することになる。幼い息子が自閉症と診断され、多忙なツアーに帯同することが困難になったのが理由だった。
事情が事情なため、脱退はスムーズに受け入れられるのだけど、思えばこの辺からサウスの凋落が始まっている。三代目女性ヴォーカリスト:アリソン・ウィーラーを加入させて建て直しを図るのだけど、一度止まった勢いはもとに戻らなかった。フェードアウトするように解散したサウス以降、彼女もまたThe Southに合流することになる。
ソロ活動も行なわず、ほぼ引退状態だったアボットに声をかけたのは、偶然だったのか何か意図があったのか。多分、どっちもだろう。
ほぼ10年、表舞台に出ていなかったにもかかわらず、彼女の歌はヒートンの書いた曲にすっぽり収まった。たった一曲だけだけど、彼女の歌う「Envy」は、ヒートンの世界観を巧みにかつ自然に表現していた。
「彼女はは私が一緒に仕事をした中で最高の歌手の 1 人であり、私の過去の一部でもあります」とヒートンはアボットを絶賛している。「私はいつもジャッキーを念頭に置いて曲を書きました」。ここまで言うと調子良すぎるけど、実際、彼のメロディに最適なハーモニーを合わせられる/メロディに選ばれたのが、彼女だった。
大げさな表現ではない。実際、2人のハーモニーを待ち望んでいた音楽ファンが多かったのだ。
最初のコラボアルバム『What Have We Been?』は、発売間もなくUKチャート3位、たちまちゴールド認定された。この週のトップがマイケル・ジャクソンの遺作『Xscape』、2位がコールドプレイという、ビッグネームに続いての3位だから、発売週によってはトップだった可能性もある。
ライブはどこもソールドアウト、テレビ出演も引っ張りだこで、これまでの迷走はなんだったのやら。盟友アボットの力を借りながら、ヒートンは再びトップシーンに躍り出る。といっても、相変わらずの普段着ファッションは変わらなかったけど。
その後もマイペースを守りつつ、コンスタントにコラボは継続しており、今年も3枚目のアルバムがリリースされた。こちらはUK1位。天下獲ったなヒートン。
もう過去の人ではない。ちゃんとしたメインストリームを歩む真っ当なアーティスト。それが現在のポール・ヒートンだ。
ただ、キャリア総括ベストに『The Last King Of Pop』ってタイトルつけちゃう茶目っ気残ってるけど。
1. Moulding of a Fool
直訳すれば「愚か者の形」だけど、Mold=カビのダブルミーニングにかけてるっぽい。だってヒートンだもん。
リーディングトラックだけあって、爽やかで軽快なポップソングだけど、歌ってる内容はひねくれた視点で相変わらず性格悪い。間奏でなぜかギターが荒ぶってるけど、こういう曲調ならアクセントとして機能している。
2. D.I.Y.
アボットがリードを取る、ロカビリータッチのトラック。こちらも軽やかでメリハリの効いた小品なのだけど、「自分より若い娘に彼氏を取られた」って内容なので、やはりスパイスが効いている。アメリカ人を小バカにしたような脳天気なコーラスも小気味よい。
3. Some Dancing to Do
ファズ入ったギターから始まる、やや大仰なサウンドプロダクトのデュエットソング。2人とも、彼らにしては情感込めてドラマティックに歌い上げているのだけど、内容は「レストランや映画館、病院、高速道路出口など、とにかく行列でテンションガタ落ち」って、どうでもいいこと。そんな他愛もないことをわざわざ歌にしてしまうところが、ヒートンの個性でもある。
4. One Man's England
センテンスを目いっぱい詰め込んだ、全盛期のサウス節全開のフォーク・ポップ。古き良き大英帝国から現在までの風刺を盛り込んだ内容になってるっぽいけど、ネイティヴじゃないとわかりづらい歌詞。でもこのポップさは嫌いじゃない。
5. What Have We Become
5曲目と言う地味な配置のタイトルチューン。こちらも全盛期サウスを彷彿させる、時代が時代だったらシングルヒットしていたはずのナンバー。アボットのヴォーカルに幅があり、時々、上品なスティーヴィー・ニックスみたいに聴こえたりもする。
こうしてここまで聴いてみると、確かにサウスの演奏スキルじゃ望めないアイディアやアレンジがあったりして、やっぱこの2人でやるのが正解だったと、改めて思う。
6. The Snowman
DeepLで翻訳したのを読んだだけだけど、比較的皮肉も暗喩もなさそうな、ストレートな寓話調のポップバラード。もしかして裏があるのかもしれないけど、俺の英語力じゃ無理だ。
なので、普通に楽しもう。メロディとハーモニーは文句のつけようがない。
7. Costa del Sombre
サウンドこそハードめだけど、昔のメキシコ歌謡っぽさ漂うレトロ風味のメロディは、案外日本人にもヒットするんじゃないかと思う。橋幸夫もメキシカンロックって歌ってたし、我々日本人はもともと、こういった異国情緒エキスの濃いサウンドやメロディを好む傾向にあるのだ。
いわゆるパロディなのだけど、サウンドもメロディもしっかり作り込まれており、2人とも巻き舌多用したりしている。
8. The Right in Me
このアルバムの中では異彩を放つ、ボトムの効いたガレージポップ。ていうかどの曲も統一性なく、結構曲調ばらけてるか。何もコレだけが特別じゃない。
9. When It Was Ours
「Some Dancing to Do」同様、大げさなアレンジ・凝ったアンサンブル・ドラマティックなヴォーカルと3つ揃ってるけど、相変わらず歌ってるのはどうでもいいことばかり。「再び墓地やパブ、クラブへ行こう」なんてイミフで中身がないことを、全力で歌う2人。いい年してコレをやることに、一つの意味がある。
10. I Am Not a Muse
珍しくリズムループを使った、ヒートンにしては「今風」のトラック。「俺は音楽の女神なんかじゃない」ってどういう意味?
「俺はジャズにもヒップホップにも興味なければ、ブルースにだって関心ないんだ」とモノローグ調で語ってるけど、要は「饅頭怖い」みたいなもの。全編DTMなのも、逆説的に「好き」っていってるようなもので。
11. Stupid Tears
彼らのレパートリーの中では数少ない、ストレートなラブソング。歌詞がノーマルな分だけ、せめてサウンドでアクセントをつけようという意図なのか、The Sound of Paul Heatonみたいなガレージ・ロック。ただアボットのヴォーカルがある分、ヒートンだけでは単調になるのをうまく回避している。
12. When I Get Back to Blighty
サザンが往年の歌謡曲にインスパイアされたような、ドリーミーなバラードポップ。ドライな声質のアボットのヴォーカルによって、甘さがほどほどに抑えられており、そこがいい塩梅。これも日本ウケしそうなんだけどな。