聴いてみたよ、『Blue』。これまで意図的に避けてきてたけど、話題になったんで聴いてみた。
先日、2020年度版が更新された、ローリング・ストーン誌「500 Greatest Albums of All Time」にて、大方の予想を裏切って、ていうか誰も気に留めていなかったにもかかわらず、堂々の3位。
もともと玄人筋に評判の良かったアルバムで、初版の2003年版でも30位にチャート・インしている。流行り廃りに囚われない硬派老舗雑誌の沽券が窺え、ビギナー/マニア双方納得でき、信頼できるランキングではあったのだけれど、イヤこれはちょっとポジション的に高すぎる。
1位の『What’s Going On』、2位の『Pet Sounds』はまぁわかるとして、スティーヴィー・ワンダーやビートルズを抑えての3位だもの。まず「誰?」という印象が先立っても不思議はない。
こういったランキングのアンケートの際、定番のアルバムの中に1つくらい、みんなが選びそうにない、ちょっと地味なモノを入れちゃうことがよくあるけど、その最大公約数が『Blue』だったということなのだろう。
1位 Marvin Gaye 『What's Going On』 1971
2位 The Beach Boys 『Pet Sounds』 1966
3位 Joni Mitchell 『Blue』 1971
4位 Stevie Wonder 『Songs in the Key of Life』 1976
5位 The Beatles 『Abbey Road』 1969
6位 Nirvana 『Nevermind』 1991
7位 Fleetwood Mac 『Rumours』 1977
8位 Prince and the Revolution 『Purple Rain』 1984
9位 Bob Dylan 『Blood on the Tracks』 1975
10位 Lauryn Hill 『The Miseducation of Lauryn Hill』 1998
以上がベスト10。あくまで平均値なので、万人を納得させるのは、とても難しい。そりゃみんな、「アレが入ってない」「コレはどうした」、突っ込みどころはあるだろうけど、後世に与えた影響や当時のセールスを鑑みても、まぁまぁ納得の行くランキング。
この中ではニルヴァーナとローリン・ヒルが新しめだけど、これらも既に四半世紀前、もはや歴史だ。あと、当時バカ売れしたけど、何でコレが入ってるのか、多くの日本人がピンと来ないのが、フリートウッド・マック。イデオロギーやメッセージ性の入ったロックがダサくなった70年代後半という時代にうまくフィットした以外、特筆するところが見当たらないのだけど、これが中流アメリカンの感性なんだろうか。
また別の視点、当世のポリティカルな見方をすれば、マックのような男女混成グループ、それとローリン・ヒルのような黒人女性がランキング上位になるよう配慮した、加えて投票者の選考基準も、その辺が考慮されたんじゃないか、と。先日のアカデミー賞選考基準でも、マイノリティやLGBTにも配慮したキャスティング云々で紛糾したように、アメリカのエンタメ業界は、何かとデリケートになっている。
そんな配慮や忖度も含めて、「自立した女性」枠として、ジョニがチャート上位にランクインしているのはわかるんだけど、「イヤでもちょっと高くね?」と思ってるファンは俺だけじゃないはず。彼女同様、セールス・知名度共に大きなものではないけれど、ミュージシャンズ・ミュージシャン、いわゆる玄人ウケするアーティストにヴァン・モリソンがいるけど、彼の最高位は『Astral Weeks』の60位。高すぎでも低すぎもでもなく、絶妙のポジションだ。
すでにキャリアのピークを過ぎ、熱狂的なファンはそこまでいないと思われるヴァンもジョニも、ベスト100位に1作くらい入っていれば、「良心的なランキングだな」の一言で済む話なのだけど、『Blue』のポジションはちょっと引っかかる。それとも、俺が知らないだけで、世間では「ジョニ・ミッチェル」という存在がエモい、と持て囃されているのだろうか。
ここまで書いてきて、まるで俺が「ジョニは嫌いだ『Blue』は駄作だ」と言ってるみたいだけど、そういうことではない。このブログでも、彼女のアルバムは何枚も取り上げてきているし、決してヘビロテしてるわけではないけど、『Court & Spark』と『Hejira』は忘れえぬ心のベスト30だ。イヤ50くらいかな。
で、『Blue』はこれまで全然聴いてないわけではなく、おそらく俺が初めて買った彼女のアルバムである。「おそらく」と言うのは、当時、そこまでハマらなくてすぐ売っ払っちゃったから。
俺が初めてレンタルして聴いたアルバムは『Dog Eat Dog』で、ファンとしてはだいぶ後続である。そこから遡って、並行してリアルタイムでリリースされたアルバムを聴いてきて、現在に至る。
一番聴き倒したのが前述の2枚、フュージョン期のアルバム群だった。英詞の細かなニュアンスはわからないけど、百戦錬磨のミュージシャンたちを従えて、時に厳しく、時に手玉に取ったり懇ろになったりしながら、絶妙のアンサンブルを作り上げてゆくその姿は、凛としたものだった。実際に見たわけじゃないけどさ。
ただ、フォーク期のサウンドとなると、どうにも受け付けない。前も他のレビューで書いたけど、初期のローラ・ニーロ同様、どうにもピンと来ない。
一般的に、シンプルなバンド・セット、またはギターやピアノ1本による弾き語りスタイルは、余計な虚飾や演出を排しているため、音楽に対しての真摯な姿勢が強く出るとされている。過剰なアレンジがない分だけ、ごまかしのない楽曲の良さ、強いメッセージ性の照射が浮き出てくる。
で、そんなスタイルが共通している初期のこの2人だけど、イヤわかるんだよ、切実なメッセージや表現欲求のほとばしりは。理性では制御しきれないパッションの放出や感情の澱が生々しく、それでいて静謐な音の礫。
逆に言えば、その高まりが激しければ激しいほど、何か触れちゃいけないものを見た感が、男の俺からすれば、距離を感じているのかもしれない。多分、そう思っている男性は俺だけじゃないはずで―、と途中まで書いたのだけど、考えてみれば、世代の違いもあるのかね。俺よりもっと若い世代からすれば、そういったこだわりも少ないだろうし、そういっためんどくさい聴き方しないだろうし。
ローラと並んでジョニとよく比較されていたのがキャロル・キングであるけれど、2人と比べて彼女の場合、ちょっと立ち位置が違ってくる。もともとオールディーズ時代から職業作曲家として自立していたキャロル、発表された作品に共通しているのは、万人向けの最大公約数を考えて作られている点だ。
第三者のパフォーマーを想定しての創作スタイルが染み込んだ彼女ゆえ、どれだけ自身の感情を剥き出しで吐露しようとも、そこには、わかりやすいフックとサビが介在する。共感を受け入れやすい歌詞やパフォーマンスは、多くの支持を受け、『つづれおり』は大衆性とアーティストエゴが共存した作品となった。
ちなみに前述ランキングでも25位に入っている。うん、納得できる。
ジョニもローラも、扱うテーマはパーソナルなものが多く、一部の共感は産むだろうけど、万人向けのものではない。ある種、個人的な恋愛観にフォーカスを当てているため、それは普遍的なものであるのかもしれないけど、でもそれだけじゃ、広く行き渡らせることは難しい。
2人とも、キャロルほどの一般性を獲得することはなかったけれど、そもそも「女性シンガー・ソングライター」という共通項以外、3人とも音楽性も生き様もバラバラなので、考えてみれば、比較する方が逆に乱暴ではある。2人とも、チャート・アクションなんてまるで考えていなかっただろうし。
で、話は戻って『Blue』。キャロル無双だった70年代初頭のシンガー・ソングライター事情ではあったけれど、ジョニもまた、キャロルほどではないにせよ、CSNYやジェイムス・テイラーらとの交流もあって、知名度はそこそこあったらしい。
激動の60年代が夢破れる形で幕を閉じ、「歌で世界を変えられる」という想いで集っていた者たちは、絶望の末、ひっそり離散していった。70年代に入り、生き残った者たちは、ごく小さなコミュニティの中で、それぞれ独り私的なテーマへ向かうことになる。
それは聴き手の側も、同じ想いだったのだろう。「歌は世に連れるけど、世は絶対歌に連れない」。かつて山下達郎も、そう言っていた。
そんな、右を向いても左を向いても弾き語りシンガーだらけの中、当時から才女と崇められていたジョニもまた、プライベートな恋愛観を歌ったアルバムを制作する。それが『Blue』だった。
「自我をさらけ出すことがシリアスである」といった風潮もあって、シンプルかつダウナーな世界観が滲み出ている。そういった視点で見れば、基本構造は『つづれおり』と変わらないのだけど、むせ返るほどのパーソナリティは、高揚感とは真逆のものだ。
1971年リリース当時はビルボード最高15位、本国カナダでは9位、イギリスではなんと3位にチャート・インしている。それだけ自己探求/自分探しに膠着していた若者が、当時は多かったのだろう。
ただ、そんなネガティヴな先入観を抜きにして、まっさらの状態で聴いてみると、歌と並んで高く評価されたギター・プレイの方に耳が行く。シンプルなアルペジオも注意深く聴いてみると、どこか位相のズレた違和感が残る。
「曲ごとにあらゆる変速チューニングを試していた」というマニアックな探求振りが、ここでは如何なく発揮されている。単に聴き流してしまうメンヘラの独白とは違って、高度にひねりを加えた歌とバッキングが、ジョニの持ち味である。
―歌で世界を変えることは、ちょっと難しいし興味もないけど、自分と近しい周りの人を変えることくらいはできる。
その近しい範囲が、当時はちょっと広かっただけの話で。
なので、2020年現在、『Blue』が注目を浴びることは、果たしていい時代になったと言い切れるのかどうか。単なる再評価ではなく、純粋な音楽クオリティ以外の不穏な力が働いているのではないか。
人生も50を過ぎると、そんな穿ったことを思ったりする。
あぁ、我ながらめんどくせぇ。
1. All I Want
当時付き合っていたジェイムス・テイラーがギターを弾いており、ジョニはアパラチアン・ダルシマーなる不可思議な楽器を手にしている。サウンドだけ聴いてるとメンヘラっぽい弾き語りでどこか不安定、どこか壊れてる風情が漂っているのだけど、和訳を読んでみると、そのまんまだった。
「好き」と呟いてすぐ「ちょっと嫌い」とスネてみたり、「あなたと一緒に楽しみたいの」と想いながら、それが届くことはない。2人で互いを高め合う関係でいたいけど、私はあなたに尽くしたい。そうよ、どうせ私は孤独が好きなの。
一見めんどくさそうだけど、こういう女性って、ある種の男は惹かれちゃうんで、男が切れることないんだよな。恒久的な関係築くのは、ちょっど難しいけど。
2. My Old Man
弾き語りによるピアノ・バラード。ピアノなんだけど、ピアノのメロディとは微妙にずれる、ギター譜を見ながら弾いてるような、ルーティンとは違う譜割りが、人にはちょっと気持ち悪く感ずるかもしれない。
「正式な婚姻届けに縛られなくても、私たちは愛し合ってるのよ」という自由恋愛賛歌である反面、それはすでに過ぎ去った過去であることを、切々と歌うジョニ。重いよな、こういう関係って。
3. Little Green
かつて、ジョニは若くして結婚し、そして女の子を産んだ。ただ、まだ無名のフォーク・シンガーだった彼女に子供を育てることはできず、養子縁組にて手放すことになる。
オープンGのギターで爪弾かれる調べは、淡々としていながら、時々、熱を帯びる。『Blue』の収録曲の中で、最もプライベートなテーマを持つ「Little Green」。優しく諭すように言葉を紡ぐジョニの歌声は、他の曲と比べてとても穏やかだ。
4. Carey
スティーヴン・スティルス参加、このアルバムの中では最もアクティヴでポップなナンバー。ピンと張りつめた緊張感が続くセッションの中、共同作業が息抜きとなったのか、自ら重ねたコーラス&ダブル・ヴォーカルも軽やか。
そういう意味で考えれば、比較的ノーマルなメロディがジョニにしては凡庸に聴こえるのかもしれない。もっと予測不能じゃないと、彼女らしくない。でも、シングル・リリースされてるんだよな。人気あったのかね。
5. Blue
レコードで言えばA面ラスト、取り敢えずラストを飾るタイトル・チューンは、アルバムのトーンを象徴する重厚なピアノ・バラード。重い。ひたすら重い。
かつて恋心を寄せていたシンガー・ソングライター:デヴィッド・ブルーのことを歌った、とされており、本人は否定しているようだけど、その辺はまぁ濁しちゃっても良かったんじゃないかと思う。あまりに私的なその重さは、当時の多くの文系男子・女子の共感を呼び、そして彼らはそれぞれ、物思いに耽ったのだろうか。
誰もが、『Blue』に憑りつかれていた。そんな時代だったのだ。
6. California
「Carry」に続き、シングル・カットされた(比較的)ポップ・チューン。かつてのカリフォルニアへの郷愁を駆り立てる、ノスタルジックなペダル・スティールと、時にリズミカルなジェイムス・テイラーのギター・プレイ。歌だけじゃなく、そういったアクセント的なプレイも、出しゃばり過ぎずに抑制が効いてて、多分、この中では一番好きな曲。
7. This Flight Tonight
アコギのストロークが美しい、ややジャズっぽさの芽生えが窺えるナンバー。ジョニの場合、いつも思うのだけど、こういったストローク・プレイで低音の鳴らせ方がとても巧いのだ。反響させ過ぎでダンゴにならず、弦一本一本をきちんと分離して鳴らし、それでいてきれいにハーモニーさせる技術。やっぱ重度のギターオタクなんだろうな。
ただ、ギターを深く知ることが目的ではなく、あくまで曲を作り、歌うことが重要であり、テクニックを磨くことに重きを置いてはいない。最初っから、そこが一貫しているのが、彼女の凄みなのだ。
8. River
「ジングルベル」からインスパイアされた、ジョニ初期の楽曲の中で最も有名で、数多くカバーされたクリスマス・ソング。「Happy Christmas」とは対照的に、孤独で裕綱クリスマス。
誰もが、家族と友人と恋人と過ごすわけではない。独りで過ごす時もある。それを切々と呟いているのだけど、考えてみれば21世紀に入って「個」の時代が進み、それもまた日常になった。コロナ禍が進んで「孤独」が日常となると、この曲もまたリアリティを失ってしまうのかもしれない。
それはそれで、悲しいことではあるけれど。
9. A Case of You
グラハム・ナッシュとの別れを歌った、という説もあれば、レナード・コーエンのことだ、という説も飛び交う、当時のジョニ周辺の混沌とした男女関係が歌われている。ただここでジョニは、歌詞の中でシェイクスピアをサラッと引用したりで、生々しさは取り払われ、文学的な味わいが加味されている。
数多くのカバー曲が存在するのだけれど、珍しいところでは殿下ことプリンスのヴァージョン。殿下としては珍しくトリビュート企画に参加しており、ほぼストレートなピアノ・バラードのスタイルでカバーしている。ちょっと甘いんだけど、こちらも必聴。
10. The Last Time I Saw Richard
ラストのピアノバラードは、最初の夫チャックとの短い蜜月を歌った、とされている。つまりは、「Little Green」との深いリンクによって、アルバムは幕を閉じる。そういう視点で見れば、非常に個人的なアルバムである。
ここでパーソナルな部分、いわば弱みをさらけ出してしまったことで、ジョニのその後の作品は、ストレートな感情吐露が少なくなってゆく。言葉も大事だけれど、むしろサウンド・アプローチの方へ重点を置くようになってゆく。
ちなみに、次回がレビュー400回目。通常企画とはまた違ったものを考え中。