初期の総決算とも言える歴史的ライブ・アルバム(『Live』)に加え、盟友ロバータ・フラックとのデュエット・アルバムがバカ売れし、一挙に知名度もポジションも爆上げした後にリリースされたのだけど、新規ファンにはちょっと不親切な内容だった。針を落としたらいきなり、なんか思ってたのと違うオーケストラ演奏だもの。それに続くのが、深刻なモノローグのような歌で、なんか違う感がさらに募る。
もう少しひいき目に見ると、「内省的な黒人青年の葛藤と、彼による社会問題への告発」といった、70年代初頭にはふさわしいテーマではあるのだけれど、わかりやすく拳を振り上げたりシャウトするのではなく、「…こんな世の中は間違ってる」と、静かに諭すだけなので、ちょっと地味過ぎる。まぁ「俺が俺が」と前に出る人ではなかったし。
社会を変えるのなら、もっと先頭に立って民衆を鼓舞するようなリズムとサウンドが必要なはずで、イヤそりゃ言いたいことはわかるんだけど、崇高で汚れなきシンフォニーとメロディは、ちょっと拳を振り上げずらい。誠実に静かに嘆くのではなく、オーバーに泣き叫んだりしないと、広く大衆には伝わりづらいのだ。
さらにさらにひいき目で、オリジナル・スタジオ・アルバムの系譜で、端正に仕上げた2枚目『Donny Hathaway』の発展形として見るのなら、そこまで違和感はない。スマートなグルーヴ感を通底音とした『Live』と、好セールスを記録した『Roberta Flack & Donny Hathaway』を挟んじゃったから地味さが際立つわけで、きちんと学んだ楽理に則った、洗練されたメロディと控えめなリズムは、むしろ磨きがかかっている。
そういった経緯で考えれば、ブレイク前の落ち着いた状態に戻っただけで、ダニー本人は何ら劣化した点は見受けられない。セールス実績もガタ減りしたわけではないし、旧来ソウルの枠を外せば、むしろ野心的なコンセプトでもある。
この時点ではリリース契約も残っていたと思われるし、周囲の雑音に動ぜず、地道に次回作に向けての準備を進めてればよかったんじゃないの?と勝手に思ってしまう。でも、そう開き直るにはダニー、線が細かったのだろう。
この後、ダニーはアーティスト活動を停止する。ていうか、隠遁して表舞台から身を引いてしまう。
ここまで散々「地味っ」と言ってしまったけど、実際のところ、しょっぱなのシンフォニーを乗り越えると、それ以降はユルいグルーヴ感が心地よい、いつものダニーである。思っているほどスロー・ナンバー一辺倒でもなく、それなりにユルいスロー・ファンクもあったりして、きちんとトータルのバランスを考えた構成になっている。
サウンド面のコンセプトもしっかりして、均整も取れている。いわば組曲形式の小品集といった趣きだけど、どの曲もきちんと独立した世界観を有しており、コンセプト・アルバムにありがちな寄せ集め感もない。
アーティスト:ダニー・ハサウェイを第三者目線でプロデュースするコンポーザーの視点で、隅々まで丁寧に作り込まれており、創作者としての意向は、可能な限り反映されている。緻密過ぎるゆえか、通して聴くのには、それなりの心構えがいるけど。
その点、気心の知れたメンバーによって、リラックスしたムードでレコーディングされた『Live』は、俺個人的に聴く機会も多い。「ジェラス・ガイ」や「君の友だち」など、聴き慣れ親しんだ曲が収録されているおかげもあるけど、ライブゆえの間口の広さ、楽しんでプレイしている感じが伝わってくる。
実際、彼の代表作として真っ先に思い浮かぶのは『Live』であり、それは多分俺だけじゃないと思う。緻密に作り込まれた渾身のスタジオ作品は、言ってることはわかるんだけど、もうちょっと肩の力抜いた方が親しみやすいんじゃね?と、第三者は勝手に思ってしまう。
そういったアドバイスの意味も含めて、ロバータは「一緒に曲を書こう」と誘ってくれたのだろうし、そしてそれは、死の直前も変わらず同じ想いだった。だったのだけど。
二度目は、ちょっと遅かった。
白人アーティストとの差別化として、性急かつ躍動的なファンクのリズムをJBが発明し、ほぼ同時進行でスライが殴り込みをかけ、狂騒的なビートと享楽的なグルーヴがディスコになだれ込んだ―。すごく大雑把だけど、一行で書けば、こんな感じになる。
公民権運動などの社会問題も含め、白人文化へのカウンターというスタンスで進化していったソウル・ミュージックに対し、ダニーのアプローチはちょっと異色だった。強い問題意識という部分では共通していたけど、彼の書く曲はいわゆるソウル色が薄く、むしろ細やかで端正なメロディが特徴だった。
ソウル・バラードというには熱量が低く、凝ったハーモニーやカウンター・メロディを駆使する彼の曲は、取り敢えずソウルにカテゴライズされてはいるけど、本人的にも居心地が悪そうだった。シャウト一発で沸点を上げて、そのままノリと勢いで全力疾走する同世代のソウル・グループ/アーティストに対し、そういった常套手段に頼らないグルーヴを創り出していたのが、ダニーだった。
だったのだけど、他と比べるとちょっと地味過ぎるよな。また「地味っ」って言っちゃった。
同じくニュー・ソウルにカテゴライズされるカーティス・メイフィールドに見出されてこの世界に入り、着実にキャリアを積み上げていったダニーだけど、それほど相似点があったわけではない。ていうか、「ニュー・ソウル」ってひとくくりにされることが得てして多いけど、実際のところ、それぞれの音楽性はバラバラである。
代表的なアーティストを思いつくそばから挙げてみると、マーヴィン・ゲイやスティーヴィー・ワンダー、カーティスやアイザック・ヘイズといったところだけど、こうして並べてもわかるように、みんな方向性はバラバラである。ほぼ同じタイミングで既存ソウルやファンクでは括れない、いわば「じゃない方」ソウルと言った意味合いで、ユーザーへの配慮でまとめられていただけであり、実は曖昧な定義である。
ヘイズなんてジャズの方に入れられることもある人だし、マーヴィンとスティーヴィーだって、一応モータウン繋がりではあるけれど、世代が違うこともあって、あまり絡むこともなかったようだし。しかもこの2人、音楽性だってバラバラだ。
縁あってカーティスつながりだったダニーもまた、むしろ交流が多かったのは、大学時代の盟友ロバータやリロイ・ハトソンだった。音楽の名門:ハワード大学で時を同じく学んだ3人は、それぞれ歩んだ道は違えど、どうにかこうにかプロ・デビューするに至った。
本格的に学理を学び、進取の気性に富んだ彼らは、これまでの粗野なファンクやポップ・ソウルをなぞるのではなく、新たなアプローチへ果敢に挑んでいた。ダニー同様、カーティスに見込まれてインプレッションズの後釜として見染められ、その後はプレ・R&Bの先鞭を切ったリロイ、案外いそうでいなかった、黒人女性シンガー・ソングライターの先達となり、「やさしく歌って」の大ヒット以降はデュエット御用達となったロバータ。
彼ら2人に共通するように、ダニーもまた、無理に声を張り上げない、または「不似合いなディスコに走らない」路線を確立しつつあった。あまり泥臭くない、洗練された新世代のブラック・ミュージックを担うひとりとして、堅実に歩んでいたと思うのだけど。
話は飛ぶのだけど、今年3月、ビル。ウィザーズが心臓の合併症で亡くなった。微妙に音楽性は違うけど、彼もまたダニー同様、ソウル・シーンにおいては「じゃない方」的なポジションの人だった。
時にジャジーに、ある時はフォーキーなシンガー・ソングライター的佇まいは、既存のソウル/ファンク・シーンではカテゴライズしづらく、次第にスポイルされ、人知れず引退していった。
決してシーンのトップに躍り出る音楽ではなかったけど、目立たぬところで微かな光を放ち続ける、何年かに一度、ふと思い出して棚から引っ張り出してしまう、そんな歌だった。 大それた再評価ブームまでは盛り上がらなかったけど、映画やドラマ、CMで効果的な使われ方をされることが多かったため、なんとなく耳にしたことのある、趣味の良い音楽。
彼が亡くなった頃、こんな記事が出た。その中で、すっかり業界ご意見番的存在となったルーツのクエストラブは、生前の彼について、こう語っている。
「彼は最後のアフリカ系の普通の人なんです」。
「マイケル・ジョーダンの垂直跳びは、誰よりも高くなければならない。
マイケル・ジャクソンは、重力に逆らわなければならない。
その一方で、(アフリカ系の)私たちは、しばしば原始的な動物としても見られている。
私たちは真ん中に、普通にいられることはないんです。
(その中で)ビル・ウィザースは黒人にとって、ブルース・スプリングスティーンに最も近い普通の存在なんです」
黒人とか白人とかじゃなく、単に書き上げた作品を純粋に聴いてほしいだけだったのに。ダンスをうまく踊れるわけじゃないけど、少しでも良い曲を書こうと、いつも努力している。
シャウトもビートもグルーヴも取っ払った先にある、ただ普通に、みんなに愛される曲。ただ、それだけを求めていたのに。
持って生まれたレッテルを笑い飛ばすには、繊細過ぎたのだろう。そんな彼による、声にならない悲痛な叫びが、『Extension Of A Man』には端正に刻み込まれている。
1. I Love the Lord; He Heard My Cry (Parts I & II)
壮大なオーケストレーションによる、5分に渡る映画音楽のようなインストがオープニングと、ソウルのアルバムとしてはのっけから破天荒な構成。ていうか、制作する時点ですでにソウルだポップだクラシックだ、など細かなジャンル分けは頭になかったのだろう。
4分近く経ってから曲調が変化し、ここでダニーによるエレピが登場。ストリングスとのコンビネーションが心地よい。ドビュッシーやラヴェル、サティらクラシックからのインプットだけではなく、もうちょっと新しめのガーシュインなんかからもインスパイされたらしいけど、どちらにせよ70年代のポップ・シーンとは大きく乖離したところで、この音は鳴っている。
この1曲のために大編成のオーケストラがスタジオ入りし、ダニーによる細かなサジェスチョンでレコーディングは行なわれたのだけど、考えてみればダニーのセールス推移で見れば、かなり大きな投資ではある。手間も時間もかかっただろうに、こんな大きなプランにGOサインを出したプロデューサー:アリフ・マーディンの懐の深さと言ったらもう。
2. Someday We'll All Be Free
シームレスで続く、ダニー末期の代表曲。ウィリー・ウィークスのベースと、コーネル・デュプリー&デヴィッド・スピノザによるギター・プレイ、それにレイ・ルーカスのドラム。ダニーのフェンダー・ローズとヴォーカル。ただ羅列してみただけど、これでもう充分、名セッションに必要なすべてが、ここに詰まっている。
程よく抑制されたバッキングに対し、熱くエモーショナルなダニーの声。「いつか自由に」という邦題の通り、ある種のアンセム的な扱いとなっているため、曲名で検索すると、カバー曲の多いこと。いつもはクールなアリシア・キーズの熱情的なヴァージョンが個人的には好きなのだけど、有名なのはやっぱりアレサ、映画『マルコムX』でもフィーチャーされたゴスペル・ヴァージョン。いや鳥肌モノだから、どのヴァージョンも。
3. Flying Easy
冒頭からテンションの高い曲が続いたので、ここで箸休め的なポップ・チューン。う~ん、やっぱりビル・ウィザーズっぽいよな、アンサンブルが。ビートに頼らず、ローズの旋律で引っ張るグルーヴ感は、古今東西この人が一番うまいと思う。
同時代のディスコやファンクと比べても、っていうか比べようがないくらい立ち位置が違う。カーペンターズやポール・サイモンなんかと同列で語られるべきだったのだ。単に良いポップス・良いメロディを書く、というその一点で。
4. Valdez in the Country
センスの塊のような、ソウル色はほとんどない、むしろ白人ジャズ・ミュージシャンのような肌触りのオルガン・インスト。「軽妙で洒脱で」といった形容がぴったりな、上品でいながら嫌みのないグルーヴ・チューン。後半で割り込んでくるバス・クラリネットの存在感が、単純なシャレオツに陥らせないよう、ブレーキをかけているのが、秀でたバランス感覚。
5. I Love You More Than You'll Ever Know
アメリカのブラス・ロック・バンド:ブラッド・スエット&ティアーズの1968年にリリースした楽曲のカバー。名前は聞いたことあったけど、よく知らなかったので、この機会にYouTubeで聴いてみたところ、レオン・ラッセルっぽいなぁと思ったけど、ただそれだけだった。まぁ俺が惹かれるタイプの人たちではない。
俺的にはダニーで初めて知った曲のため、当然、こっちの方が思い入れが深い。偏見かもしれないけど、60年代末~70年代初頭までのアメリカのバンドって、総じて雑な先入観があるので、どうにも入り込めないのだ。
かなり気合の入ったセッション風のアンサンブルをバックに、時に切なく、時にエモーショナルなヴォーカルを聴かせるダニー。全体的にちょっとブルース・テイストが濃く、ソウルのカテゴリーではとても推し量れない。
6. Come Little Children
で、あまりイメージがないのだけど、ほとんど見られない泥臭いファンク/スワンプ・ロックのサウンド・アプローチ。いやぁ埃っぽいしソウルっぽい。
こういったタイプもこなせるんだ、と勘違いしてはいけない。あくまでアルバム構成を考えた上で、こういったアッパー系も入れた方がバランスが良い、という判断で作られただけで、多分、これで全篇は作れない。
ある意味、器用な人なので、こういった曲を書くこともできる。ただスタイルが書けるだけであって、そこにエモーションはない。そこにこだわっちゃうから、難しいのだ。
7. Love, Love, Love
ポップでありながら、ソウルの熱さもバランス良く混ぜ込まれたミドル・バラード。「What’s Going On」との相似性が語られることが多いこの曲だけど、俺もそう思う。まぁライブでカバーもしてたくらいだし、マーヴィンという存在は、彼の中でおおよその理想形でもあったのだろう。
跳ねるリズム・セクションは彼の奔放さが最も発揮される空間であり、歌っててとても楽しそう。なので、別に無理に進歩しようとせず、この路線を深化させてゆくだけでもよかったんじゃね?といつも思ってしまうのだけど、そういうことじゃないんだろうな。
天才ゆえの苦悩なのだろうけど、凡人には知る由もない。
その音の先に、何があったのか。
8. The Slums
軽快にやろうとしてるけど、どこかノリ切れないコール&レスポンスが印象的な、またまたインスト、今度はセッション風のジャズ・ファンク。オールド・スクールっぽさも感じ取れる、和やかなラップ・バトルがバックグラウンドで演じられ、ちょっとこじつけだけどシーンの行く末、先見性も感じられる。
どこを切り取ってもそれなりにサマになってしまう、名プレイ・名フレーズが散りばめられているので、サンプリング素材としても優秀なんじゃないかと思われる。多分、誰かしら使ってるのかね。
9. Magdalena
多分、アリフ・マーディンつながりと思われる、アメリカのシンガー・ソングライター:ダニー・オキーフの1973年楽曲のカバー。オリジナルを聴いてみて、まぁカントリーっぽいよなぁ、と思いつつ、エレピがいい音出すよなぁ、とも思っていたら、なんとダニー自身がバッキングに参加していた。あらら。
ホンワカしたオリジナルよりピッチを上げて、ロックンロール以前のポップスっぽく仕上げているのは、ちょっとしたお遊びか、それとも「この曲はこうあるべき」という解釈の相違か。
10. I Know It's You
ラストはレオン・ウェア作の正調バラード。この頃、彼はまだモータウン・スタッフだったはずだけど、レーベルの枠を超えてまで、彼の歌を歌いたかったのかね。そtれともマーヴィンへの間接的なリスペクトか。
荘厳かつ控えめなストリングスに対し、歪むほどの根城的なヴォーカルのダニー。これが最後と力を振り絞ったのか、その先の音が見えたことで、前へ進もうとしているのか。
珠玉のバラードと言っても過言ではない、結果的にこれ以降、能動的な歌を作ることがなかったダニー・ハサウェイの悲痛な叫び。
もっと歌えたはずなのに。
もっと歌えたはずなのに。