1987年リリース、ボウイ16枚目のスタジオ・アルバム。それまでの総売上を足しても及ばないほどバカ売れした大ヒット作『Let’s Dance』の2匹目のドジョウを狙って、1年足らずのブランクでリリースした前作『Tonight』から3年、ちょっと落ち着いた頃合いで、『Never Let Me Down』はリリースされた。
『Let’s Dance』の時点で「ボウイは終わった」とこき下ろされ、『Tonight』では「二番煎じのアルバム出しやがって」とメディアに叩かれたけど、『Never Let Me Down』に至っては、酷評どころか、まともに論じられることもなくなってしまう。「カルトの帝王」と崇められたかつての姿はどこにもなく、家庭を愛し礼節を重んじるロック・セレブと化してしまったボウイは、もはや一介のポップ・スターとして消費される存在だった。
ただ、「凡庸で無個性」と切り捨てられた当時の世評とは相反し、セールス実績はUK6位・US34位とそこそこ、世界各国でもゴールド・ディスクを獲得している。ここ日本でも、映画『ラビリンス』での好演が話題となったこともあって、オリコン最高6位、そこそこ健闘している。誰が買ってたんだろうね。謎だ。
ヒット・シングル狙いで安直に作られたのかといえば、そんなことはなく、きちんと明確なコンセプト、アンチ・ポップのサウンドを志向して製作に挑んでいる。『Let’s Dance』の勢いでチャチャっと仕上げてしまった『Tonight』の反省もあってか、盟友イギー・ポップを呼びつけて共同で作曲したり、旧友ピーター・フランプトンをバンド・メンバーに迎え入れたり、どうにかロック・アーティストの現役感を取り戻そうと、MIDI主体のポップ・シーンとは一線を画した環境に身を投じている。
でも傍目から見て、「生涯オルタナ」の姿勢を崩さないイギーはまだわかるとして、70年代でピークを迎え、それ以降は下り坂のフランプトンというキャスティングは、ちょっと微妙と思ってしまう。切れ味良く、鋭いソリッドなサウンドを求めるのなら、イキのいいUKバンド、例えばロバート・スミスあたりにオファーした方が、まだ良かったんじゃないね?と勝手に思ってしまうけど、まぁ多分断られただろうな。この時期のボウイは、すっかりロートル扱いだったし。
第一、ゲストにミッキー・ロークっていうのがひとつのウリだったみたいだけど、「だから何?」って印象しか残らない。
いわゆるポップ・スター期とされている、この時代のボウイの作品は、セールス的には大きく飛躍したのだけど、世間的な評価は良いものとは言えず、本人も基本、ネガティブなコメントしか残していない。「売れることが悪」という70年代的・極端な風潮の煽りを受け、その辺はちょっとボウイにも同情してしまう。
自分の安直な劣化コピーみたいな作品がそこそこ売れて、しかもそこそこの評価を得てしまう現状を理不尽と思っても、誰も責められやしない。フロンティア・スピリットといえば潔いけど、漁夫の利を掠め取られるだけの人生は、嘆こうにも涙すら出やしない。
常に「変容すること」を自らに課してきたボウイが、次なるステップとして、オーバーグラウンドへ向かったのは、ある意味自然の流れだったと言える。カルト・ヒーローとして崇拝されたヨーロッパ3部作以降、その路線を突き詰めるのではなく、敢えて逆張りのコンテンポラリー・サウンドへ転身することは、理にかなっていた。
アンチ・コマーシャルな存在であることのアンチテーゼとして、時代のポップ・イコンとしてステイタスを築き、ビッグ・マネーを稼ぐことは、旧来ボウイ信者のマゾヒスティックなニーズを満たしていた。YMOもそうだったけど、難解なアバンギャルドから刹那な大衆ポップへ大きく舵を切ることは、予見された裏切り行為として、ファンを驚かせ、ヤキモキさせた。
ただボウイの過ちとして、『Let’s Dance』路線は一回こっきりにして、またガラッと違うキャラ変更を行なっていれば、ここまで叩かれることもなかったんじゃないか、と今にして思う。もう少し譲ったとして、「ちょっと安直」と揶揄された『Tonight』の反省で、これをすっ飛ばしてティン・マシーン結成、というルートだったら、ここまで鬼っ子扱いされることもなかったんじゃないか、と勝手に思っている。
「実態がない」とか「カメレオン」だと言われてきたボウイだけど、ベースのコードやメロディはアンチ・ポップな傾向であることは、終始一貫していた。わかりやすい例えで言えば『Let’s Dance』だけど、あの曲もしつこくリフレインされるタイトル・コールと、パワー・ステーション特有のブーストされたリズムを取り払うと、残るのは至極素っ気ないメロディである。
誰にでも受け入れられる永遠のスタンダードみたいなメロディを、書かなかったのか書けなかったのか。どちらにしろ、時代に即したアレンジを剥ぎ取ると、それは明らかだ。弾き語りの簡素なデモ・テイクを聴いてみると、ほとんどの楽曲は、愛想のないアシッド・フォークみたいな曲ばかりである。
親しみやすいサビやフックを用いず、逆にコンセプトやサウンド・アプローチを駆使することによって、アーティスト:デヴィッド・ボウイはステイタスを築いていった。架空のキャラクターを創造しては憑依させ、信頼できるコラボレーターの力を借りて、オンリーワンの世界観を作り上げてきた。
軍人や自殺者、はたまたUMAなど、既存のロックにはないエキセントリックな人格を創り上げ、そのキャラクターになりきって曲を書き、歌う。それは万人受けするものではないけれど、ごく一部の層には深く刺さる。
深く影響を受けた者は、彼の一挙手一投足を凝視し、崇拝の対象として祀りあげた。そこまで深くない者にとっても、ボウイの次の動きは注目に値するものだった。「次は何やるんだろう?」と。
ちょっと考えてみれば、「変化し続ける」というのもなんか変な言い方で、それ自体がルーティンとなってしまっては、本末転倒になってしまう。シンプルに考えて、良い作品を作るために必要な変化はアリだけど、「変化そのもの」が目的になってしまっては、「それはちょっとどうなのよ」といった具合に。
ただ、回り回って、ある意味、無我の境地に達したボウイがすべてを丸投げし、素材の一部に徹して作られたのが『Let’s Dance』であり、素材が極上な分だけ、うまく時代にハマったことも、また事実。これまで「時代の二歩先・三歩先をリードしていた」と自負するボウイとしては、敢えてトレンドのど真ん中に飛び込むのは、それなりに覚悟があったんじゃないかと思われる。下手すりゃ、これまで築き上げてきたキャリアを棒に振ってしまうわけだし。ある意味、それは彼にとってのチャレンジであり、大きな変容だった。
で、結果は知っての通り。確かに、グラム時代からの原理主義者の支持は多少失ったけど、それ以上の売り上げと一般層からの幅広い支持を手に入れた。うるさ型の評論家からは「メジャーへ魂を売った」など、こき下ろされたりしたけど、結局はあふれ返るほどの地位と名声にかき消された。
ただ、そんな浮き足立った時期は、長くは続かない。つい勢いでやらかした『Tonight』の酷評が身にしみたボウイ、再び自身の置かれた立場を見直し、軌道修正を図ることになる。
ここでメディアの評判なんて、笑い飛ばしたり開き直ったりしていれば、今ごろエルトン・ジョンやロッド・スチュアートのポジションだったのだろうけど、まぁそういった人ではない。真正面からファンのニーズに沿うのではなく、ちょっと斜に構えた態度で、あさっての方角へボールを投げるのが、彼のメソッドなのだ。しかも、球筋が読めないと来ている。
ストレートど真ん中に2度続けて投げてしまい、この時点でボウイが投げられる球は、もはやストレートなロックンロールしか残されていなかった。それが『Never Let Me Down』。
変化球を投げたつもりだけど、きちんと曲がり切れてない―、そんな微妙な球筋だったことで、見事にスルーされたこのアルバムだけど、この時点のボウイ、そしてこの時代では、「ここまでが限界だったんじゃないか」と、今にして思う。ここから数年経つと、ラウドなオルタナ・ロックやディープ・ハウスが注目を浴びるようになり、実際、ボウイも『Black Tie White Noise』で面目躍如となるわけだけど、この時点では、そんな刺激的なネタもなかった。
汚名挽回を狙い、原初的なロックを志向して作られた『Never Let Me Down』だけど、やっぱちょっと気弱になってたんだろうな。じゃないと、ここまで大味に仕上がらないだろうし。
ボウイにしては珍しく、「もう一度やり直したい」とコメントしていたのが、唯一このアルバムである。実際、ラフなセッションも行なっていたようだけど、志半ばで夭折してしまい、プロジェクトは一旦流れた。
その後、彼の遺志を汲んでリミックス再録音が行なわれ、大筋は変わらないけど、意向が反映されたヴァージョンが2018年にリリースされた。
本人が直接関わったわけではないので、そこに秘められた真意がきちんと具現化されているのか―、それこそ神の知るところだけど、少なくとも前向きの姿勢は感じられる。
ど真ん中だけど、予想よりちょっとはずれて打ちにくい。そんな音である。
1. Day-In Day-Out
アメリカの貧困問題を嘆いて書かれた、テーマはとてもシリアスだけど、サウンド自体は至ってポップ・チャート狙いのパワー・ポップ。それでもメッセージ性に合わせてか、サウンドの浮き足立ち振りには振り回されず、ヴォーカルはしっかりしている。
「弱きを助け、強きをくじく、ロック・シンガーの姿を借りた全能者」といった描かれ方のPVは、本人がほんとに満足してたのかどうかは不明だけど、初回ヴァージョンが発禁となったこともあって、自分の方が出鼻をくじかれちゃっている。まぁ話題作りでわざと過激に作る場合もあるので、その辺は何とも。
新旧ヴァージョンの違いは、正直、サラッと聴く分には大きな変化はないのだけど、ちゃんと聴くと歴然としているのが、ドラム。時代性を感じるデジタル・リヴァーヴ甚だしいオリジナルから、新ヴァージョンは生の響きを重視している。
2. Time Will Crawl
一聴して、日本人の誰もが島倉千代子を連想してしまうシンセ・イントロが印象的なポップ・バラード。一応調べてみると、この曲と「人生いろいろ」のリリース日はほぼ同時期で、どちらかがパクったのではなく、シンクロニシティが発生したということになる。
もしかして、もっと以前の元ネタがあって、たまたまシンクロしたのか。そういえば自分で元ネタ作ってたよな、「Ashes to Ashes」。いま気づいたわ。
軽く疾走感のある旧ヴァージョンに対し、新ヴァージョンではシンセ・イントロは取っ払われ、ガレージっぽい響きのギターに差し替えられている。ドラムも生音に差し替えられ、ストリングスも追加してしまう、なんとも豪華仕様。お手軽なシンセ・ポップからだいぶビルド・アップしている。
もともとこのリ=レコ・プロジェクト、この曲をやり直したいというボウイの要望から始まったもので、死後に行なわれたこのセッションも、かなり意向は反映されている。ただ時代的に、「ロック・サウンドとストリングスとの融合」というテーマは、1987年当時でも使い古されたテーゼであり、ニーズを考えれば、シンセを前面に出すことは、これはこれで最適解だったんではないか、と。
3. Beat of Your Drum
タイトル通り、ビートとドラムを前面に出し、キャッチ―とは言えないメロディを組み合わせた、いわゆる「Let’s Dance」タイプのナンバー。ロック本来のダイナミズムと初期衝動を表現しながら、それでいて単調な大味ではない、凝った構成は嫌いじゃないのだけど、あまり話題にはならなかった。
新ヴァージョンは一転して、当時ボウイが敬愛していたフィリップ・グラスのエッセンス、現代音楽っぽいSEやストリングスが追加されているのだけど、旧来ロックのスピード感は損なわれている。いるのだけれど、ストリングスを味付けとして使うのではなく、ビートとリズムとシンクロさせ、拮抗させるといったアプローチは、冒険的でもある。
俺的には最初に聴いた旧ヴァージョンも捨てがたいのだけど、「ポップ・スターじゃないボウイ」を求めるのなら、当然後者となる。その辺はその日の気分次第だな。
4. Never Let Me Down
一部では「最も過小評価されているボウイの曲」として位置づけられている、ポップ・ファンクのタイトル・チューン。ボウイ曰く、「ほぼ一日で大方のアレンジもできちゃった」くらい短期間で仕上げられたらしく、そういったパターンで作られた曲って、のちのち名曲として語り継がれることが多いのだけど、そうはならなかったところに、80年代のボウイの不運がある。
新ヴァージョンはリズムはシンプルな8ビートに差し替えられ、さらに常連カルロス・アロマーのメロウなギターが追加されている。比べてみると、柔和なヴォーカルとミスマッチだった旧ヴァージョンに対し、不安定なコード感を活かした新ヴァージョン・アレンジの方が、楽曲の本当の価値を際立たせている。
5. Zeroes
タイトルといい、ライブの歓声で始まるイントロといい、「Heroes」のアンサー・ソングと思っていたのだけど、どうやらまったく関係ないらしい。ピーター・フランプトンによるエレクトリック・シタールが印象的な、旧き良き日々を振り返る、それでいて感傷的じゃなく、若干のセルフ・パロディも含んでいる。
ごくたまにある、ちゃんとフックの利いたメロディ・タイプの楽曲であり、ほどほどの憂いも含まれていることもあって、正直、このアルバムじゃなければもう少し目立ったんじゃないかと思われる。ついでに、なんか70年代を思わせぶりなタイトルがちょっと紛らわしいし、あらゆる意味で損しちゃってる楽曲である。
新ヴァージョンはさらに先祖返りしたような、ヴォーカルのピッチも若干高め、グラム以前のボウイを連想させるノスタルジーな演出。こっちもいいな。
6. Glass Spider
ワールド・ツアーのタイトルにもなった、冒頭からシアトリカルなムードのモノローグが延々と続くナンバー。2分近くなってからやっとAメロがスタート、その後もストリングスとフランプトンのギター、ボウイとのコール&レスポンスが続く。ライブでもクライマックスとなるシーンで効果的にプレイされているので、言ってしまえばシチュエーションが限定された楽曲でもある。
新ヴァージョンは、イントロの勿体ぶりに拍車がかかり、さらに1分程度追加。ロック・テイストは大幅に削られ、リミックス・ヴァージョンみたいな作りになっている。大仰な演劇性を強調するのなら、これくらいクドくしつこい方がいいんだろうけど、聴く側としてはちょっとお腹いっぱい。
7. Shining Star (Makin' My Love)
ラップというにはおこがましい、素人だからまぁ仕方ないけど、だったら何でミッキー・ロークをスタジオに入れちゃったのか、単なるノリなのかEMIからの押し付けだったのか。どちらにせよ、お手軽なシーケンスでチャチャっと仕上げちゃった感が否めないポップ・チューン。ボウイ的には、この曲をシングル・カットするつもりだったけど、EMIに拒否された、との逸話が残っている。そりゃミッキー・ロークの名前があれば、プロモーションもしやすいだろうけど、「だったらもっとちゃんと作れよ」と、誰が言ったのか言わなかったのか。
新ヴァージョンの実作業を行なったプロデューサー:Mario J. McNultyも、オリジナルのひどさに嘆いており、ローリー・アンダーソンを引っ張り出して、まったく別のトラックに仕上げている。ヴォーカル以外はほとんど差し替えられ、クールな仕上がりとなっている。イヤこれはカッコいい。
本文でも書いたけど、ハード・テクノ/ハウスをを通過したリズム・アプローチを施すには、オリジナルのリリースがちょっと早すぎたのだ。
8. New York's in Love
やはりちょっと浮き足立っていたのか、はたまた過剰に同時代性を意識過ぎちゃったのか、こんな大味な曲を作ってしまう。ニューヨークを恋愛ドラマの舞台として描くこと自体、ボウイがやるにはそもそも無理があるのだ。
なので、新ヴァージョンでは面目躍如しようとしたのか、重いバンド・サウンドにリメイクされているけど、そもそものテーマが激軽なので、あんまり響かない。グラム時代を彷彿させる、グリッターなアプローチが垣間見える瞬間もあるのだけれど、もうちょっと皮肉を効かせてもよかったんじゃないか、と。
9. '87 and Cry
当時、UKエンタメ界隈では、サッチャー首相をボロクソにけなす風潮が強くはびこっており、当然、ボウイもまたその空気に乗じることになる。まぁ確かに、サッチャーを支持していたミュージシャンって、聴いたことないな。
ソリッドなロック・チューンであることは新・旧ともに大きな変化はなく、まぁ構想の通り仕上がった、ということなのだろう。スタジアム・ロックの対極にある、少しザラついたテイストは、あまりいじりようがないし。
10. Bang Bang
ラストはイギー・ポップ1981年リリースのアルバム『Party』収録曲のカバー。オリジナルはクールなジャーマン・ディスコとソリッドなニュー・ウェイヴ・テイストが混在した、淫靡な雰囲気を醸し出した佳曲で、ボウイもほぼそのヴァージョン・アップといったアプローチで、基本構造はそんなにいじっていない。ただ、その淫靡さがちょっと足りないので、オリジナルを聴いちゃうと物足りなさが残る。
対して新ヴァージョン、いきなりフィリップ・グラス調のリズミカルなストリングスが大きくフィーチャーされている。旧ヴァージョンとはヴォーカル・テイクも違い、ミュージカル調にリアレンジされている。
イギーの真似をしたってイギーにかなわないことはわかっていたはずなのに、引き出しもなかったし、そういったブレーンもいなかったんだろうな。EMI的にはわかりやすい「なんちゃってハード・ロック」の方が売りやすかっただろうし。