1980年リリース、7枚目のオリジナル・アルバム。前作『My Generation』を最後に、デビューからのベーシスト:長岡和弘が脱退し、甲斐・大森・松藤の3人体制で作られた初めてのアルバムでもある。
時系列でアルバムリリースをたどってゆくと、
79年10月『My Generation』
80年3月ライブ『100万$ナイト』
80年10月『地下室のメロディー』
81年6月ライブ『流民の歌』
81年11月『破れたハートを売り物に』
という流れになる。まるでアイドル並み、ほぼ半年ペースでアルバムがリリースされているのは驚きだけど、当時はこれが当たり前だったのだ。
シングル「HERO」の大ヒットを受けて、本格的なロック・サウンドへ大きく舵を切ったのが『My Generation』から、というのが、大まかな流れとなっている。デビュー以降、長らく「フォーク」または「歌謡」という注釈付きだったサウンドは、地道なライブ演奏によって鍛えられ、強いビート感を獲得している。
長いロードを経て自信と確信を得た彼らが、70年代の総決算とした『100万$ナイト』には、骨太なマッチョイズムとセンチメンタルな郷愁とが、混在して刻まれている。この2年前にリリースされているライブ『サーカス&サーカス』では、まだ蒼く情緒的なメロディが勝っていたのだけど、ここでは強靭なリズムの成長が著しい。
『流民の歌』は以前レビューしているけど、解き放たれた野性のギラつき、急激に変化せざるを得ないアンサンブルの荒々しさが、克明に記録されている。荒々しくザラついた音の礫は、洗練より混沌に収斂され、予定調和を拒む当時の彼らのスタンスを象徴している。
そんなライブ演奏に比肩するカタルシスを追求するため、彼らはスタジオ・レコーディングのグルーヴを強化するため、試行錯誤の袋小路にはまり込む。その過渡期に産み落とされたのが「破れたハートを売り物に」だった。
同名アルバムもあるけど、この一曲だけで、それまでのフル・アルバム以上の密度と暗中模索が詰まっている。このトラックをあるべき姿に仕上げること、それが彼らの大きなターニング・ポイントとなり、またバンド・ストーリーのエピローグの幕開けとなる。
「HERO」以降からNY3部作までを辿ってゆくと、おおよそこんな感じになる。どのアルバムもベクトルが明快だし、プロセスの連続性は保たれている。
で、敢えてすっ飛ばしちゃったのが、本題の『地下室のメロディー』。ここまで一気に書いてみたけど、どうにもハマらない。
スタジオ作品としては「明確なロック路線を打ち出した『マイジェネ』と、NY3部作の糸口となる『破れた~』との橋渡し的アルバム」と言いたいところだけど、2作との連続性はほぼ感じられない。前作の『マイジェネ』で歌謡ロック・テイストは払底したはずなのに、ここでは再びメロディが立つアレンジが多くなっている。言っちゃえば番外編、まるで寄り道しちゃったような立場のアルバムである。
その上、前後をライブ・アルバムに挟まれているため、ますます印象に残りづらい。まるでエアポケットみたいな場所に突っ込まれていることもあって、地味さ加減がハンパない。
サウンドの変遷で言えば、むしろ『マイジェネ』の前にリリースされていた方が収まりがいいくらいである。リリースから40年以上経った現在なら、順番なんか気にせずランダムに聴き進めてゆけるけど、リアタイで聴いてたファンなら多分、ちょっと戸惑ったんじゃないかと思えてしまう。
このアルバムがリリースされた頃、俺はまだ小学生で、甲斐バンドは「ヒーロー歌っている人たち」程度の存在でしかなかった。少年ジャンプとガンダムこそ至高だった俺が『地下室のメロディー』を聴くのは、もっと後の話である。
日本のロックに興味を持ち始めたのが中学生になってからで、甲斐バンドの存在を意識するようになったのが『Gold』からだった。なので、リアタイで聴くようになったのはキャリアも末期の頃で、それ以前のアルバムは後追いである。
チャチャっとネットで調べられる時代ではなかった80年代前半、詳しい情報を得るには、雑誌やラジオを細かくチェックするしかなかった。レベッカやBOOWYを聴く同級生は多かったけど、甲斐バンドを聴いてる者は周囲にいなかった。北海道の中途半端な田舎なんて、そんなもんだ。
そんな1985年、甲斐バンドの歴史を網羅した一冊の本が上梓された。音楽評論家:田家秀樹による「ポップコーンをほおばって」。
エンボス加工を施された表紙カバーに映るのは、濃いサングラスをかけた甲斐の虚ろな横顔。荒い粒子のモノクロ写真とザラついた手触りは、無骨さとダンディズムを強く打ち出している。カバーをはずした表紙は眩いゴールド一色で覆われ、余計な装飾は排除されている。シンプルだけどこだわりの強いレイアウトと装丁は、静的なインテリアとしても遜色ない。
基本は甲斐の発言を中心に、バンドの歴史を年代別で追ってゆくオーソドックスな内容なのだけど、関係者や周辺スタッフのインタビュー・エピソードに紙幅を多く割いており、この手のアーティスト本ではあまり見ないスタイルである。なのでニュアンス的に、「甲斐バンド」じゃなくて「甲斐よしひろ」、彼を素材に多角的に捉えたノンフィクション・ノベルという意味合いが強く出ている。
サイド・ストーリーを丁寧に組み立ててメインを引き立たせる手法は、当時、ノンフィクションの主流だった沢木耕太郎の流れを汲んでおり、タレント本のセオリーとは一線を画している。このメソッドをストレートに用いると、もっと傍観者的視点が強くなるはずなのだけど、それより田家の甲斐バンドへの思い入れが強いため、結局は熱心なファンもビギナーも共感できる作品になっている。
久しぶりに読み返してみると、おおむね事実関係に沿ったプロットになってはいるのだけど、熱心なファンである田家の主観、「俺の見解=甲斐の主張」というバイアスが強くかかっていることに気づかされる。対象への過度な感情移入は、ノンフィクション的にはNGなのだけど、甲斐バンドのブランド・イメージ形成という目的は達せられている。
この本が上梓された80年代、音楽雑誌のレビューはこういった文体が善しとされていたのだった。当時のロキノンの読者レビューなんて、おおむねこんな感じだったしもっと赤裸々な感情吐露も多かったし。
で、「ポップコーンをほおばって」、書籍版は早々に絶版、のちに加筆訂正された文庫版も、絶版になってから随分経つ。よくある話だけど、引っ越した時に無くしちゃったんだよな書籍版。なので、いま俺の手元にあるのは文庫版のみである。
話は戻って、北海道の中途半端な田舎の高校生の時に初版を入手した俺はその後、巻末の全アルバム・レビューを頼りに、『GOLD』以前のアルバムを追っていった。200字程度のシンプルな文章ではあったけれど、予備知識ゼロの状態だった俺にとっては、貴重な情報の宝庫だった。
当時、廃盤扱いだったことから、おそらく甲斐的にも黒歴史だった『らいむらいと』と並んで、なかなか食指が動かなかったのが、『地下室のメロディー』だった。そのアルバム・レビューをちょっと引用してみる。
「甲斐よしひろの私生活を感じ取りたいという人は、このLPを聴けばよいのかもしれない。男と女の別離の痛みが、そこここににじみ出ている。歌詞カードに、レコーディングの時期を明記してあるのは、もしかすると「この時期だった」という時間的なことを残しておきたかったのかもしれない。このLPで一番意味を持っているのはそこなのかもしれない」。
取材対象への深いリスペクトが伝わってくる文章ではあるけれど、内容についてはまるで触れてない。プライベートな色彩の濃い内容なのだろうな、というのはフワッと感じるけど、どんな音なのかは、これを読んでもさっぱり掴めない。
「じゃあ」と本文に戻って1980年の章を見ても、「漂泊者(アウトロー)」がドラマ主題歌に採用された経緯しか書かれておらず、アルバムについては一切触れていない。そんなに田家、『地下室のメロディー』に関心がないのか、はたまた書きようがないほど印象薄いアルバムなのか。
レコーディングに至る経緯や状況を事細かく綴っている『マイジェネ』や『破れた~』と比べ、ひどくぞんざいな扱いの『地下室のメロディー』。投下された熱量がまるで違っているのは、当時の俺にも感じ取れた。
その後ずいぶん経って、CD借りたのか買ったのか、それすら判然としないのだけど、結構後追いで聴いたのは確かである。こんな書き方でわかるように、初めて聴いた時はあんまり印象に残らなかった。
ていうか、聴く前から負のバイアスがかかっていたせいもある。まぁ、そんな先入観を吹き飛ばすほどのインパクトには欠けていた、ってことなのかもしれない。
借り物の歌謡ロックから脱却して、彼らオリジナルのロック・サウンドの追求、揺るぎないスターダムを確立し、純音楽路線へ突き進んでゆくプロセスの流れでは、このアルバムはうまくハマりづらい。だからこそ「ポップコーンをほおばって」でも、軽く流さざるを得なかったわけで。
変な先入観抜きで聴いてみても、確かに地味だった。ただ最近、アナログで入手して聴き直してみると、思い込んでたのと印象が変わったので、取り上げてみたわけで。
ロックだけどメロディアス、歌謡曲っぽさもありながらドライな質感。「ロックの」「歌謡フォークの」という注釈から自由になった、甲斐よしひろの素直な音楽性がストレートに反映されている。特に甲斐のヴォーカルからは甘さや粗雑さが抜け、大人の色気と憂いを漂わせている。
ストレートなロック・チューン「漂泊者」がオープニングだけど、他の曲はバラエティ豊かに多彩なアレンジを施されている。曲ごとにアプローチを変えて丁寧に歌うことで、ヴォーカリスト:甲斐よしひろの可能性を引き立たせている。
甲斐バンド独自のロック・サウンド確立の発露となったのが『マイジェネ』で、その実践→迷走が『破れた~』という位置づけになる。サウンド括りではなく、楽曲の解釈やアプローチの変化に意識的になったのが、この『地下室のメロディー』だったと捉えればすっきりする。横道に逸れたんじゃなくて、フロントマン:甲斐のアイデンティティ確認という、併行した流れだった、と。
一様なバンド・アレンジに限定せず、楽曲に合わせてアレンジを変えたりヴォーカル・スタイルを変えることに躊躇いを感じなくなったことも、甲斐の覚悟のあらわれのひとつである。前に進むために、余計な気遣いをやめた、というべきか。
なので『地下室のメロディー』、楽曲ごとに多くのゲスト・ミュージシャンが参加しており、どの曲のサウンド・メイキングにも、甲斐の意向が強く反映されている。急速に変容してゆくバンド・サウンド、そして自身のアイデンティの確立のため、甲斐はクリエイティブな前進を選択した。
バンドを取り巻く状況はのぼり調子でありながら、当時の内情はゴタゴタしていた。混乱した状況を取りまとめるためには、とにかく前に進むしかなかったのだ。
まだ見えぬ理想を想いながら、甲斐は80年代へ進む覚悟を決めた。行き先は不確かだけれど、前向きに倒れることさえ厭わなかった。後ろを振り返るには、まだ若く頑なだったから。
1. 漂泊者(アウトロー)
当初、発売未定のままテレビドラマ『土曜ナナハン学園危機一髪』主題歌として採用され、番組プレゼント用に片面シングルを制作したところ、60万通の応募があったため、急遽発売となったエピソードを持つ。ただこのドラマ、「ポップコーンをほおばって」によると平均視聴率は10~15%、当時の基準としては良かったわけではない。
なので、60万人が関心持ってたのか、当時からちょっと疑問だった。まぁこういう数字って大抵盛ってるんだろうけど、一定の支持はあったことは事実なのだろう。
クラッシュとボブ・マーリーからインスパイアされたと思われる歌詞はパンクで、楽曲もロックのフォーマットなんだけど、アレンジがちょっとお茶の間に媚びちゃってるよな、というのが俺の私見。ハードな歌謡ロック、っていうか歌謡曲のアイドル歌手がロック歌ってるっていうか。
ブラスとピアノがミスマッチなんだよな。なんでこんな中途半端なアレンジ組んじゃったんだろ星勝。
2. 一世紀前のセックス・シンボル
星勝はそんなにブラス・アレンジが好きなのか、それともこれも甲斐の意向だったのか。そんなアレンジの甘さが目立ってしまう曲。なんでホンキートンクなんだろ、難波弘之のピアノ。引き出し多い人だけど、そんな技使う曲調じゃないのに。
ベーシックなアンサンブルはファンキーで、甲斐のヴォーカルも程よいルーズさが引き立っている。「ソフィア・ローレン」や「ラクエル・ウェルチ」なんて人名、当時でも古くて伝わらなかっただろうに。
3. ダイヤル4を廻せ
松藤ヴォーカルによるミステリアスなロック・チューン。あまり目立つポジションではないけれど、時に甲斐よりもキャッチ―なフレーズを繰り出す、寡作だけど優秀なメロディー・メーカーでもある。
当時の甲斐はあまり使わなかったリズム・ボックスやシンセ・エフェクトを多用しており、声質も含めてライトに寄り過ぎてしまうところを、大森の重いギターがボトムを支えることでバランスを取っている。「ハイウェイはハリケーン」という無国籍観は、ある意味、甲斐のハードボイルド志向への同調と思われる。
4. スローなブギにしてくれ
南佳孝と同題の曲だけど、リリースされたのはこっちの方が先。主題歌がリリースされたのが81年1月で、片岡義男原作の映画公開が81年3月、『地下室のメロディー』が前年10月で、時期的には近い。
楽曲選考コンペで負けちゃったのかしら、と思っていたのだけど、考えてみれば、ボツになった曲をそのまんま発表するのは、当時の甲斐のプライド的に、ちょっと考えづらい。原作小説は75年発表なので、タイトルからインスパイアされて歌詞を書いた、と考えた方が自然。
小説のあらすじは、ティーンエイジャーを主人公に、ひと夏の無為な同棲生活を描いた青春ストーリーなのだけど、甲斐バンド・ヴァージョンは夜のバーを舞台としたハードボイルド・タッチなので、映像とは明らかにミスマッチ。爽やかさのかけらもないシリアスなストーリーテリングは、まったく別ものと考えた方がよい。
5. 聖夜
デビュー間もなくから、キーボードでライブ・サポート参加していた豊島修一作曲によるバラード・ナンバー。タイトルから察せられるように、一応クリスマスをテーマとしているのだけれど、かなりダウナーな内容で、あんまりクリスマス・ソングっぽくない。
独り淋しいプライベートの赤裸々な告白は痛々しい。それをウェットになりすぎず、ありのままをさらけ出すのは、少年から青年へ、そしてちゃんとした大人の男への成長過程でもある。
6. 地下室のメロディー
アルバム・リリース後にシングル・カットされて、オリコン最高75位にチャートインしたタイトル・チューン。一応、アルバムのメイン・トラックという位置づけだからシングル切ったのだろうけど、適当な宣材写真を適当にレイアウトしたようなジャケットが物語るように、あんまり売る気が感じられないデザインであり、曲調である。
ダルシマーやマリンバなど、ロックとはあんまり相性の良くない楽器をフィーチャーしたり、ある意味実験作ではあるのだけれど、これ以降、同様のアプローチでの楽曲は発表されていないので、果敢な失敗作という見方もできる。あくまでサウンド的には。
ただ「妖しいマダム」や「いなせなジゴロ」など、オールド・スタイルな無国籍感漂う歌詞のワード・センスは、これまでとは違うステージに立とうとする甲斐のビジョンを強く打ち出している。古めかしい映画のフォーマットを用いることによって、日本のロックに「ハードボイルド」という新たな語彙を根づかせようとする試みは、この時点では先駆的なものだった。
7. 街灯
シングルとしては地味だけど、ファンの間では根強い人気を保つ、趣き深い正統派バラード。しんみり落ち着いた「聖夜」より、ドラマティックなサビが印象的な「街灯」の方が、俺も好みではある。
今夜むくわれない 恋人たちのように
あの人は 涙を流している
一緒の景色を見ているはずなのに、彼女との隔たりはとても深い。肩をそっと抱きしめても、その先に進めない。
ハードボイルドと背中合わせのペシミズムは、大人の苦みを伴っている。
8. マリーへの伝言
この曲のみ、元メンバーの長岡が参加していることから、おそらく『マイジェネ』のアウトテイクだろうか。妙に歌謡ロックなホーン・セクションも女性コーラスも後付けっぽいし、直情的な歌詞も蒼さが残っている。
「男のダンディズム」を主題としたアルバム・コンセプトとは趣きが異なるので、流れとしてもちょっと浮いている。独立したシングル・オンリーだったら、まだアリだったかもしれない。
9. 涙の十番街
ちょっとスワンプ入ったファンキーなロック・チューン。ほど良いキャッチーなメロと練られたアンサンブルは秀逸で、こういった路線もアリだったんじゃね?と思わせてしまう。
もっとアレンジをシンプルにして、ベーシックなバンド・サウンドだけでも充分イケたと思うのだけど、なんでいろいろ足しちゃうんだか。いらないってば雷のSEなんて。