最初の解散から3年後にリリースされた、甲斐バンド6枚目のライブ・アルバム。すでに解散していたとはいえ、ネームバリューはまだ充分あったはずだけど、オリコン最高31位と地味目のセールスに終わっている。
メンバー4人がそれぞれ制作したミニ・アルバムをまとめたラスト作『REPEAT & FADE』から始まった解散プロジェクトは、当時のミュージシャンのステイタスだった武道館5日連続公演でファイナルを迎え、足掛け12年の歴史に終止符を打った。打ったのだけど、その2日後、マスコミや業界関係者、応募総数24万通の中から選ばれた幸運なファンら1500人を招待して、ごく小規模のライブ・パーティが開催された。
甲斐バンドとして、“ほんと”の「最後」の『最後』となった演奏を収録したのが、この『シークレット・ギグ』。その後、事あるごとに何度も再結成するとは夢にも思ってなかった俺は、その貴重な音源を何度も繰り返し聴き込んだのだった。まだウブだったんだよな、当時の俺。
会場となった黒澤フィルムスタジオは、名称から察しがつくように、主に映画やTVドラマの収録に使用されており、コンサート会場として使われた例はなかった。調べてみると、この少し後にユニコーンがPV収録しているのだけど、それ以外の使用例は見当たらない。
大掛かりな舞台装置と緻密に構成されたアンサンブルを柱とした、大規模ステージでの甲斐バンドは、最後の武道館で終止符を打った。前を向いて突っ走り、決して後ろを振り向かなかったバンドのフィナーレとして、最後にたった一度だけ、原点を振り返るー。
バンドの原点をテーマとして据えるなら、本来は最初にステージに立った福岡のライブハウス「照和」を会場とするべきだったのだけど、すでに時代の役割を終えて閉店していた。いわばその代替案として候補のひとつに挙がっていたのが、都内からアクセスしやすい黒澤フィルムスタジオだった。
ちなみにこの「照和」、78年に一旦閉店してから91年に営業を再開している。その後、(多分) 再再再結成(くらい)した甲斐バンドは2010年、デビュー35周年を記念して、3日間5回のライブステージを敢行している。彼ら的にも「収まり悪い」って感じてたんだろうな、長らく。
確かに「きれいなバンド・ストーリー」としてまとめるなら、「照和」をラストに持ってくるのが正解なのだけど、当時の彼らの勢いからして、正味60席程度のライブ喫茶を会場に選ぶのは現実的ではない。東京から遠いし狭いし、いくら盛ったって音響クオリティは望むべくもないし。
いわば「照和」の代替案としてスタートしたのが、黒澤フィルムスタジオ・プランだった。その後も類例を見ない立食パーティ形式も、言っちゃえば後付けだけど、結果的には良い方向へ作用した。
普段とは勝手が違う会場の仕様、客席もステージも全員フォーマル・スタイルという異質のライブ空間を演出・記録するためには、映像撮影スタジオは当時の最適解だったのでは、といまにして思う。もし「照和」で撮影できていたとしても、当時の機材・技術スペックでは、ざっくりした記録用以上のクオリティには仕上がらなかったろうし。
もともと映像前提の企画だったにもかかわらず、ちょっと忘れかけた頃にこの音源が先に出たきり、長らく映像が発表されることはなかった。解散プロジェクトの記録映画として制作された『HERE WE COME THE 4 SOUNDS』でその一部が収録されていたため、いつか完全版がリリースされることが待望されていた。
2008年のDVD『DIRTY WORK』にて拡大版が収録されはしたけど、完全版ではない上、他ライブ映像との抱き合わせだった。なんでこんなはしょった形で、しかもお得な詰め合わせ形式でリリースしてしまったのか。
ぶっちゃけた話、「どうせコアなファンしか買わねぇんだから、完全版で単体リリースした方がよかったんじゃね?」とボヤきたくなってしまう。安直な企画盤乱発するくらいなら、映像アーカイブ整理しとこうよ。そっちの方が需要多いはずだし。
なぜ、20年の長きに渡って、映像素材が手つかずのままだったのか。あくまで推測だけど、もっと早い段階で何らかの形、タイミング的には解散から1年後あたりで、映画orテレビでの映像公開→ビデオ発売という素案があったんじゃないか、と。
ゲストの権利関係や、メンバーのスケジュール調整が進まなかったりその他もろもろで、映像プロジェクトが進まなかったんじゃないか、という仮説。そんなこんなで3年引っ張ったけど見通し立たなかったため、比較的軽微な作業で進められる音源リリースをもって、フェードアウトしちゃったんじゃないか、と。
もうひとつの可能性として、前述『HERE WE COME THE 4 SOUNDS』を予告編として、CD/ビデオ同時発売もアリだったんじゃね?というのも。83年リリースのライブ『Big Gig』が同様の販売形態だったため、前例がなかったわけではない。
ちなみにこの『Big Gig』、現在の東京都庁建設前空き地で行なわれ、TVとFMでも特番が組まれている。しかもそのメディア素材すべてがミックス違いという、過剰に力入れ過ぎた企画なのだけど、そんな意気込みがお茶の間やライトユーザーには届かなかった。そりゃそうだよな。
そんな『Big Gig』の前例が逆に仇となって、同時発売に二の足踏んじゃったのかもしれない。
黒澤フィルムスタジオ収録から間もなく、最後の武道館ライブを収録した『Party』がリリースされた。6/29ライブ終了→7/31発売だから、入念な前準備があったにしても、相当の突貫作業があったと予想される。
感動の余韻冷めやらぬうちに、怒涛の人海戦術で『Party』は店頭に並べられ、オリコン最高4位と、スタジオ作品と遜色ないセールスを記録した。LPとシングルEPの袋詰めだけでも充分な手間なのに加え、特製ギターピックを表ジャケットに1枚1枚貼り付ける作業は、パン工場のライン作業にも匹敵する苦行だったことだろう。
その後も『HERE WE COME THE 4 SOUNDS』の編集やら何やら、細かな付随作業はあったのだけど、それと並行して甲斐よしひろがソロ活動準備に入ってしまう。バンド末期からすでに「ポスト甲斐バンド」的なサウンド・アプローチに傾いていた彼にとって、目線の先はもうずっと先にあった。
潔いほど前向きだったゆえ、過去の栄光を懐かしむ言葉を放つには、まだ早すぎた。幕は下りてしまったけど、ノスタルジーと言い切るには、まだ生々しかったー。
それから時を経て、1989年。甲斐をはじめ、他メンバーのソロ活動も順調だった頃に『シークレット・ギグ』はリリースされた。
一応リリースはされたけど、メンバー誰も積極的ではなく、目立ったプロモーションは行なわれなかった。フロントマンである甲斐が取材を受けていたかもしれないけど、そんな前のめりではなかったはず。
無理にこじつければデビュー15周年と言い切ることもできたかもしれないけど、それもちょっと強引過ぎた。要するに、エラい中途半端なタイミング。
ゲストを招いてのデュエットもあるし、カメラ配置や照明プランの兼ね合いもあって、まったくのノープランだったとは思えないけど、ある程度融通のきく、フワッとしたセットリストに基づいて、ライブは進められた。往年のナイトクラブの再現を狙ったシチュエーションでありながら、カバー曲やゲストとのデュエットも織り交ぜたりして、彼らにしては肩の力が抜けたラフなムードが伝わってくる。
とはいえ冗長なインプロやMCがあるわけでもなく、どの曲もきっちりした事前リハの上、吟味された構成で演奏されている。その辺は妥協しないし、アドリブかますタイプじゃないんだよな、このバンド。
このライブに限った話ではないけど、NY3部作以降の楽曲はレコード音源と大差ないため、意外性はそんなにない。まだライブ優先だった初期と違い、末期はレコーディングで練られたアンサンブルの再現となっていたため、ライブ用リアレンジの余地が少なくなっていたせいもある。
70年代ロック/フォークの定番であるニール・ヤングはまだ予想の範囲として、一貫してストーンズ派とされていた裏をかいてのビートルズ、接点が見えずまったくノーマークだった柳ジョージ&レイニーウッドなど、カバーの人選も多岐に渡っている。「Helpless」はともかく、「Two of Us」のカバーは古今東西かなりレアだし、そういう意味においても範囲は広い。
オリジナルのアレンジがシンプルだった初〜中期の楽曲の方が、解釈のスキルが上がったこと、単純に演奏回数が多かったことでヴァージョン・アップしていたりして、聴きどころは多い。後期楽曲も打ち込み主体の楽曲ではなく、バンド・アレンジと相性の良い「キラー・ストリート」を選ぶあたりは、ライブのコンセプトとを考慮したはず。
多くのサポート・ミュージシャンに支えられているとはいえ、ライブバンドとしてのポテンシャルが落ちていたわけではない。単純な洋楽コピーを超えて、まだ日本には根づいていなかった「ハードボイルド」という視点コンセプトを加えたことで、バンドのオリジナリティは強靭さを増していった。そのドライな質感をサウンドで表現するためには、相応のテクニックを有する職人の才覚が必要だったわけで。
この時点での甲斐バンドは、緻密なスタジオワーク/肉感的なライブ・パフォーマンスとも、高い水準に達していた。「キャリアのピークで潔く散る」という選択肢以外に、2、3年ほど活動休止してリフレッシュの上、再結集するのもアリだったんじゃなかろうか。
まぁ当時のスタッフも、そんなプランで踏みとどまらせようとしたのだろうし、頑なに首を縦に降らなかった甲斐の覚悟も想像できる。「その先」を見て聴いてみたかった気はするけど。
なので、このアルバムも『Party』同様、あまりブランクを置かずにリリースしていれば、また評価も変わっていたのでは、と勝手に思う。まぁ年内だったら『HERE WE COME THE 4 SOUNDS』とかぶるし、そこを外したとしても、年明けてすぐに甲斐のソロデビューが控えているし、そんなこんなでタイミングを逸した末、3年後となったわけだけど、微妙な今さら感は否めない。
『シークレット・ギグ』がリリースされた89年、ロック/ポップスのバリエーションが一巡した海外では、やたら枚数の多いボックス・セットや未発表ライブの発掘など、アーカイブ・ビジネスが確立しつつあった。対して、歴史もリスナー層もまだ充分育っていなかった日本では、まだ時期尚早だったし、ノウハウを持つ者もいなかった。現在進行形で消費する/させることで、いっぱいいっぱいだったし。あ、1人いたわ、大滝詠一。
3年なんて中途半端じゃなく、頃合い見て10年くらい経ってからの方が、その後の扱いも違ってたんじゃないだろうか。今後再発するんだったら、やっぱCD/Blu-rayのセット売りしかないな。もちろん完全版で。
1. キラー・ストリート
実質的に甲斐バンド最後のアルバム『Love Minus Zero』収録曲からスタート。実際のライブでもオープニングナンバーとなっている。
前述したように、ほぼCD音源と同じアレンジ・構成なので、そんなに意外性はない。ただ、この時期の日本のメジャーなロックバンドで、ファンク・テイストを盛り込みながら、こういった洗練されたスタイルのサウンドは、唯一無二だったんじゃないか、と思う。
土着的なスワンプか、クラプトン・リスペクトなブルースの二択しかなかったファンク+ロックから一皮むけた、甲斐言うところのハードボイルド・ロックの完成形。ひとつの到達点というべきサウンドなので、再構築するには時間が足りなかった。
2. SLEEPY CITY
『Gold』に収録されていた、ちょっとマイルドなストーンズタイプのロックチューン。全体的にポップ路線に傾倒した時期の作品なので、ディスコグラフィーの中ではやや地味めの扱いだけど、コンテンポラリー=王道を志向していると言う視点で見ると、バラエティ感もあって飽きないアルバムでもある。
おそらく極力『Party』とかぶらないように選曲されているんだろうけど、ライブではやっぱ地味なんだよな、この曲に限らずだけど。
3. 東京の冷たい壁にもたれて
実質的なデビュー・アルバム『英雄と悪漢』収録、初期の人気ナンバー。初めて聴いた時は気づかなかったけど、イントロがゾンビーズ「ふたりのシーズン」そっくりだな。歳を経るごとに気づくことって多い。
一夜のアバンチュールを真に受けた、未練タラタラな男は、まだ都会に馴染めず虚ろな表情を隠しきれなかった。それから12年を経て、強靭な精神と肉体を獲得した男の声から、曖昧な響きは聴こえない。
人はそれを、成熟と呼ぶ。
4. ジャンキーズ・ロックン・ロール
ホンキートンク・スタイルで泥臭い、タイトル通りの直球ロックンロール。下世話一歩手前で踏みとどまるアンサンブルは、初期エアロスミスを彷彿させる。
ライブで盛り上げやすく遊びも入れやすい、いろいろと便利なチューンではあるけど、ライブのメインとするには、クセが足りない。こういったサウンドを突き詰めてゆく方向性もあるにはあったけど、彼らが目指していたのはそこじゃなかった。
5. HELPLESS
海外ではディランと肩を並べる知名度・ポジションであるにもかかわらず、日本ではイマイチ知られていない、そんなニール・ヤングの代表曲を弾き語りスタイルでカバー。アレンジが「天国の扉」っぽいけど、こういう曲って、どうしてもこんな感じに落ち着いてしまうのはやむを得ない。
アルバムのプロモーション・ツアーという性質上、これまでのライブは持ち歌中心だったけど、いわばアンオフィシャルな場であるがゆえ、ここではプライベートな顔で好きな歌を披露している。冒険するシーンは当然ないけど、演奏はきっちり仕上がっている。
6. 港からやって来た女
このライブのハイライトであり、いまだベスト・バウトと語り継がれている、「今夜最高のクイーン」中島みゆきが登場。薄手のパーティドレスに真紅のローヒールで颯爽と登場、クリスタルのエレキギターをかき鳴らしながら、堂々としたヴォーカルを聴かせている。
このみゆきのテイクについてはさんざん語り尽くされているので、今さらつけ加えることもないけど、敢えて言うならアレンジのボトムアップ感が飛び抜けている。全般的に音圧薄めだった初出スタジオ音源に比べ、気迫のこもった演奏ぶり。
冷静に考えれば現実感希薄な世界観にリアリティを与えるには、やはりアタック強めの音の壁が必須だった、ということか。っていうか、これくらいじゃないとみゆきには勝てないし。
7. 青い瞳のステラ、1962年 夏
おそらく観客の多くが「こんな曲あったっけ?」と、少し戸惑ってしまったと思われる、柳ジョージ&レイニーウッドのカバー。1980年にリリースされたシングルだけど、それほどヒットしたわけでもなく、俺も知らなかった。カバー曲のみのソロアルバム「翼あるもの」でもそうだったように、甲斐は隠れ名曲を察知する能力がおそろしく高い。
カバーの方を先に聴いてるため、ちょっとひいき目になってしまうけど、ハスキーな声質で雰囲気あるけどやや押し弱めなオリジナルより、ザラっとした質感を持つ甲斐のヴォーカルに引き寄せられてしまう。真摯なロックバンドの終焉を飾る、ひと息抜いた一コマとして、アレンジも演奏もヴォーカルも申し分ないんだけど、シティポップ的な軽やかさは、オリジナルが優っている。
8. ランデヴー
『破れたハートを売り物に』に収録されたロックチューン。一聴すると普通のロックサウンドで、演奏もオーソドックスなんだけど、メロディの譜割りが独特で、ちょっと引き込まれてしまう。
この時代あたりから歌謡ロック・テイストが薄くなり、キャッチーで覚えやすいメロディラインは後退してゆく。そんな曲調の変化を促したのが、ハードボイルドを志向した、ドライで現実味の薄い歌詞世界。
まだステレオタイプな書き割り感がにじみ出てはいるけど、これ以降、カタカナ多用のフェイクさは薄れ、逆に起承転結がはっきりしたストーリー性が前に出てくるようになる。「カンナの花の香り甘く漂い」と歌い出す日本語のロックは、新たな切り口だった。
9. TWO OF US
最後に選んだカバー曲は、ストーンズじゃなくてビートルズだったのは、意外っちゃ意外。ロックの危うく儚い側面を体現するため、わかりやすいストーンズをモデルケースとしていたのだけど、キャラが認知されて以降は、あまり言わなくなった。
ロックバンド的なアプローチとしては、ポール・マッカートニーよりジョン・レノン楽曲を聴きたかった気もするけど、多分、やりやすかったのかね。全国ツアー〜武道館ファイナルと来て、そんなに音合わせする時間もなさそうだったし。
なので、選曲的には意外なところついてるけど、演奏プレイは比較的完コピに近い。
10. 悪いうわさ
オリジナルは3枚目『ガラスの動物園』なので、1976年のリリース。ほぼミック・テイラー期ストーンズのパクリみたいな演奏と歌謡ロックなメロディが貧相に感じられるオリジナルから10年後、音圧も演奏力も、そして甲斐のヴォーカルも段違いにレベルが上がっている。
同郷の先輩バンド:チューリップとの差別化を明確にするため、ストーンズのダーティなスタイル取り込みに加え、サウンドもまたロック色の濃いアプローチとして、オリジナルはなんと8分調。ギターソロもなかなかの長尺で、その奮闘ぶりは伝わってはくるのだけど、とにかくリズム・セクションを小さく絞ったミックスがたたって、楽曲の良さがスポイルされている。
ここでのヴァージョンはギター・パートもタイトに的確に絞られ、もちろん音圧も充分。ソロ・パートをどうにか埋めるため、苦心惨憺の結果だったギター・プレイも、リラックスかつ引き出しが多くなっている。
11. 25時の追跡
ある意味、ラスト・アルバム『REPEAT & FADE』のメイントラックである、ギター大森によるインスト・チューン。実際のライブではもう少し前に演奏されているのだけど、CDではラス前に移動されている。
アルバム構成的に、ラスト曲のインタールードに適しているため、ベストな編集だったんじゃないかと思う。当時、常夏リゾートの象徴だった高中正義とは対照的に、タイトル通り、人気の少ない深夜のハイウェイを想起させる硬質な響きは、バンドの影の部分を具現化していた。
ちなみに後年、甲斐が歌詞を後付けしてヴォーカルを入れているのだけど、逆にその雄弁さが暗闇を薄れさせている。影を形容するのに、多くの言葉は必要ないのだ。
12. 破れたハートを売り物に
実際のライブでも、これがラスト。メンバー全員楽器を持たず一列に並び、ユニゾン・コーラスで歌い切って幕を閉じる。
テープ演奏が続く中、1人また1人、手を振りながらステージを降りてゆく演出は、潔さを信条とした彼らにとってふさわしかった。変にウェットなメッセージを残すこともなく、いつもと変わらぬテンションでステージに立ち、そして、散る。
最後であるはずなのに、『Hero』も『安奈』もない。でも、確実にファンのニーズを捉えている。