1980年明けて早々、ジュリーはニューウェーヴなテクノポップ「TOKIO」をリリースし、ヌルい歌謡界に強烈なインパクトを残した。次に何をしでかすかわからない、先の読めない俺様路線は日を追うごとに過激さを増していった。
同世代のGS卒業組の多くが、俳優またはミュージシャン専業に流れてゆく中、彼はメインストリームにとどまり続け、それでいて、どのカテゴリにも属さないオンリーワンのポジションを確立していた。もう少し器用に、それとなくフェードアウトしていって、安定したディナー歌手路線へ行くのも可能だったはずなのに、ジュリーはいつまでも尖った姿勢を崩さなかった。ある意味、いま現在だってそうだ。
音楽史的に1980年といえば、YMOやらシティ・ポップやらアイドル系やらが主流だったようになっているけど、実際は歌謡曲がまだまだ覇権を握っている時代だった。年間チャートを見てみると、「ダンシング・オールナイト」や「異邦人」など、ロック/ニューミュージック系のアーティストが上位にランクインしている反面、ベスト10圏内に五木ひろしや「別れても好きな人」も当たり前の顔で入っている。
当時小学生だった俺も、普通に「与作」や「北酒場」歌えたもんな。テレビの歌謡番組が絶大な影響力を持っていた、はるか遠い昔の日常だ。
もう2、3年経つとアイドル勢の存在感が増してきて、購買層の世代交代が爆速で進んでゆくのだけど、この時点ではまだ新旧世代が入り乱れている状況だった。さだまさしと八代亜紀とノーランズが同じベスト30位以内で入り乱れている、なんていうかもう、群雄割拠。
そんなカオスな状況なので、実はこの時代、ジュリーだけが突出して浮いていたわけではない。いま以上に奇をてらった一発屋や企画モノが、あの手この手で目立とうと一旗あげようとしていたため、彼のキャラクターもまた普通にお茶の間に受け入れられていた。
80年代に移ったとはいえ、当時はまだ70年代のエピローグの残り香が終わりきれずに漂っていた。歌謡曲に代表される旧態依然のメインカルチャーが鎮座してはいたけど、グロテスクななアングラ/サブカルチャーが、三面記事で紹介されることも多々あった。山海塾やスターリンも芸能ゴシップ的に、興味本位で取り上げられてたもんな。
パラシュート背負ってカラコン入れて、本人いわく「のちにタケちゃんマンにパクられた」電飾つけたド派手なコスチュームで挑んだ「TOKIO」は、80年明けて間もないお茶の間に強烈なインパクトを残した。スーパーマンのカリカチュアとリスペクトとパロディが入り混じった糸井重里の歌詞もまた、マンガチックなキャラクター造形に一役買い、幅広いお茶の間層に充分アピールした。
セールスにどこまで意識的だったのかは不明だけど、スターであることにはずっとこだわり続けていたジュリーゆえ、その裏付けとなるランキングや売上枚数は、常に気にかけていたと思われる。78年にレコード大賞を獲得していたことで、歌謡曲歌手としてはいわゆる「上がり」の状況ではあったけれど、アーティスト:ジュリーとしてのスタートは、80年代に入ってからとなる。
で、80年の元旦にリリースされた「TOKIO」だけど、当然制作はその前なので、厳密には80年代の作品ではない。前年11月にこの曲を含んだ同名アルバム『TOKIO』がリリースされており、レコーディングされたのはおそらく夏頃と思われる。あんまり重箱の隅突つきたくないけど、リアルな80年代の空気感が反映されるのは、次作『Bad Tuning』以降からとなる。
全然関係ないけど、80年代洋楽の重要アルバムには必ずランクインしているClash 『London Calling』もPink Floyd 『The Wall』も、リリース自体は79年末だったりする。ほんと関係ない余談だけど。
多くの芸能人の例に漏れず、この時期のジュリーも過密スケジュールの中で動いていた。ライブやレコーディング主体の音楽活動だけじゃなく、映画やテレビ出演も普通に行なっていた。
一日にいくつもテレビ局をハシゴしたり、コンサートだって昼夜2回公演が当たり前。ちょっとした隙間に取材や打ち合わせが入り、夜もスポンサーや業界人との接待があったり、ほぼ24時間「沢田研二orジュリー」でいなければならない。
そんな年中鉄火場状態の中でもジュリー、年にシングル3〜4枚、オリジナル・アルバムも1〜2枚、全国ツアーも年1ペースで必ず行なっている。そりゃ休みは欲しかっただろうけど、でも芸能人でトップであり続けるためには、それが当たり前の時代だったのだ。
ちょっと気を緩めたら、すぐ先頭集団から引き離されてしまう。みんながみんな全力疾走ゆえ、足を止めるわけにはいかないのだ。
その80年の全国ツアー日程を見ると、特に7月はとんでもないスケジューリング。1〜5日は北海道を回り、8日名古屋→9日金沢→10・11日で神戸・京都と南下して九州に下り、そこから折り返して北上、21日から4日間、大阪でファイナル。移動日以外、余裕もなく、ほぼ1ヶ月で日本縦断させられる罰ゲーム振り。
この80年のツアーで特筆すべき点として、バックバンドの一新が挙げられる。長年行動を共にしていた井上堯之バンドは1月24日に解散し、新たに結成されたオールウェイズが後を引き継ぐこととなった。
前身バンドPYGから、ほぼすべてのレコーディング/ライブでサポートを担っていた井上の存在は大きく、ジュリーとしても苦渋の決断だった。方向性の違いの溝は埋まらず、ほんとに険悪になる前に発展的解消することによって、八方丸く収まった。
「過激さを増してゆくジュリーのビジュアル路線に、井上をはじめとしたメンバーたちが着いてゆけなくなった」というのが通説となっているけど、ほんとのところは、本人たちにしか知り得ないことだ。ただ、70年代ロックをベースとした井上バンドのアンサンブルが、ジュリーや制作スタッフが求めていたUKニューウェイヴ/ニュー・ロマンティック志向と噛み合わなかったことが、パートナーシップ解消の要因のひとつではある。
時系列を整理すると、井上バンドが1月末に解散が決まっており、その前からオールウェイズ結成の段取りは進んでいた。バンドの人選は、80年代に向けてイメチェンを図りたいジュリー自身と、プロデューサー加瀬邦彦の意向が大きく働いている。
泉谷しげるのバックを務めていた吉田健をバンマスに据え、さらに制作チームの意向を汲んで、柴山和彦・西平彰が召集されている。これがのちのエキゾティックスの母体となる。
引継ぎ作業は極力スムーズに行なわれたはずだけど、相変わらずジュリーは多忙だし、いくら吉田健周辺で揃えたとはいえ、そうすぐに打ち解けるはずもない。事前に決まっていた4月からの全国ツアーで、オールウェイズが初お披露目となったのだけど、さすがにストレスでやられちゃったのかジュリー、開始間もなく胃潰瘍を患い、1ヶ月ほど入院療養する事態となってしまう。
そこまで気心知れず、音合わせやリハーサルも充分行なえないまま、ほぼぶっつけ本番で鍛えていくしかなかったのだけど、そんな思惑通り行くはずもない。仲間うちのライブハウス程度ならともかく、ジュリーのハコは主に1000〜2000人のホール・クラスで、不慣れなメンバーが緊張しまくるのも無理はない。さらにPA設備も満足にない時代、ファンのラウドな嬌声は自分のプレイする音も聴き取れず、いくらバカテクでも呼吸を合わせるのは至難の業だ。
ニューウェイヴ以降のサウンドも飲み込んだ、それなりに現場対応スキルの高いメンツを揃えてはいるのだけれど、あれこれ重なって環境は劣悪だった。それでもフロントマンとして、極上のエンタメを提供しなければならない。そんな責任感の重圧が、一回休みという顛末となった。
そんなしっちゃかめっちゃかな状況ゆえ、『Bad Tuning』がスタジオ&ライブ録音を織り交ぜた変則的な構成になったのは、致し方なかった。営業的に考えれば、スタジオとライブと2枚に分けた方が、リリース・スケジュールも埋めやすいし、ジュリーも余裕を持った仕事ができたはずなのに。
多くの歌謡曲歌手同様、ジュリーもまた、70年代~80年代初頭までは、ほぼ年1ペースでライブ・アルバムをリリースしている。リリース契約を効率よく消化できるアイテムとして、低コストで製作できるライブ・アルバムや、キラー・チューン以外は適当に取り繕ったベスト・アルバムを市場に放つことで、リリースのブランクを最小限に抑えていた。
この80年は、ていうかこれ以降、毎年恒例だったライブ・アルバムは制作されなくなる。ジュリーに限らず、この頃くらいから、安直なリサイタル完全収録アルバムのニーズが減った、ということなのだろう。
数回程度の単発ライブにも大型ツアーにも共通して、レコード会社が主催・協賛となっている場合、多くはニュー・アルバムのプロモーションが主目的となる。ライブのみの音源も多い米米や清志郎は別として、ほとんどはアルバム発売後に収録曲中心にセットリストを組むのがセオリーである。
で『Bad Tuning』、録音クレジットを見ると、5/24横浜スタジアムと5/31大阪万博会場の音源が使用されている。で、アルバム発売が7/21。当時のアルバム製作状況がどうだったのかは不明だけど、普通に考えても、制作進行はかなり切羽詰まっていたことは察せられる。
多分、制作チームは早い段階からスタジオ録音に見切りをつけていたと思われる。従来の井上バンドだったら、最悪楽曲さえ揃っていれば、ジュリーがいなくてもチャチャッと最終オケまで作っておくことも可能だったはずだけど、急造のオールウェイズにそれを求めるのは、ちょっとムズい。
で、ツアー回ってるうちにアンサンブルもどうにかこなれてきて、頃合いを見て短期集中でスタジオに入る手筈だったのだろうけど、あいにくジュリーがダウンしてしまった。すべての段取りは、これで崩れてしまう。
どうにかブランクはひと月程度で抑えられたけど、他の仕事も詰まっていたため、レコーディングを最優先するわけにはいかない。でも、リリース・スケジュールはそう簡単に動かせない。さぁ、どうする。
もしかして、ひと通りのスタジオ録音は行なわれたのかもしれないけど、互いに不慣れな状況ゆえ、出来不出来が激しかったのかもしれない。それならいっそ、ラフな部分もあるけど、勢いはあるライブ音源に差し替えた方が、と判断したんじゃなかろうか。
ちなみにこのアルバム、ほかにも何かと不明な点が多い。クレジットには、上記2ヶ所のライブ音源に加え、リハーサル・スタジオやなぜか大阪のホテルのルーム・ナンバーも明記されている。セッティングする余裕もなく、空いた時間に無理やりテレコ持ち込んで録ったんだろうか。
「とにかく、どうにか形にして帳尻合わせちまえ」的な勢いは、確かに感じられる。こういった不埒な熱気、近年は感じられなくなっちゃったな。
1. 恋のバッド・チューニング
4/21に先行シングルカットされた30枚目のシングル。なので、こちらはスタジオ録音。作詞:糸井重里=作曲:加瀬邦彦と、前作「TOKIO」と同じ布陣で挑んだにもかかわらず、オリコンでは最高13位、ベスト10入りは逃している。ただその「TOKIO」も、実は最高8位止まりだったため、取り敢えず平均値はクリアしている。
「TOKIO」同様、随所でチープな音色のシンセを効果的に使ってはいるのだけど、こっちの方がロックテイストは強い。アレンジャー:後藤次利の仕切りで、スタジオ・ミュージシャン中心に作られているため、きちんとした職人の仕事で収まっている。
バウ・ワウ・ワウやブロンディからインスパイアされた、ちょっとラフなガレージ・ポップは、ジュリーのビジョンに適っていたんじゃないかと思われる。オールウェイズのサウンド・コンセプトの叩き台として、その後のキャリアの指針となった重要曲でもある。
2. どうして朝
ここからオールウェイズ演奏によるライブ・ヴァージョン。のちに「スシ食いねェ!」や「ロンリーチャプリン」も手掛ける岡田冨美子:作詞、鈴木キサブロー:作曲、両者ともジュリーとは初手合わせとなる。
歌謡テイストの少ないストレートなロック・チューンに仕上げられており、アンサンブルはこなれている。ただ演奏スタイルは70年代っぽさが強く出ており、ニューウェイヴ臭は薄い。井上バンドでも充分まかなえるサウンドではあるけど、でも練り上げる時間がなかったから、こうするしかなかったんだろうな。
「したくないことしたくない」
「コペルニクスよ あんたがあんたが憎い」
「エジソン ニュートン 考えて考えてくれ」
大風呂敷広げるトリックスターとしてのジュリーの特徴を見事に捉えた、ていうかジュリーじゃないとサマにならない歌詞世界は、もっと評価されてもいいんじゃないかと思う。
3. WOMAN WOMAN
前曲に引き続いて演奏される、やや歌謡テイストの入ったロックンロール。制作も再び岡田=鈴木コンビによるもの。
全体的に「Honky Tonk Women」っぽいメロやギターリフだけど、この頃の日本のロック界は、ストーンズ神話がまだ強かったことが窺える。結成してまだ日も浅かったため、ライブでは破綻しないことを最優先し、こういったシンプルなアレンジになったのだろうけど、スタジオだったらもうちょっとリズムに凝ったりしたんだろうか。その辺がちょっと気になる。
4. PRETENDER
初参加となる宇崎竜童が作曲、当時はプラスチックスにいた島武実:作詞による、エモーショナルなバラード。激しいロックチューンから正統派バラードまでこなせる引き出しの多さ、そして、どう転んだってセクシーになってしまう声質は、ジュリーの魅力の中でも大きな割合を占める。
オールウェイズによる演奏なので、こちらもライブだけど、観衆の気配が薄い臨場感のなさと演奏の音の悪さから、どうやらリハーサル・スタジオで録音されたものと思われる。ジュリーのヴォーカルも変な響きだし、当時はこれがベストテイクという判断だったのだろうか。
5. マダムX
再び普通のライブ・テイク。作詞の浅野裕子は女優・モデルを経て、作詞・エッセイストと、幅広く活動していたらしい。ちなみに作曲は後藤次利。この頃からフックの効いたメロディを作っている。
「自分の歌だけど嫌い」と公言して憚らない「OH!ギャル」みたいな歌詞だけど、いわゆるセミプロ作詞家の手による世紀末的な散文は、常に既存の価値観をひっくり返したいと目論んでいたジュリーの思惑と、結果的にシンクロしている。
6. アンドロメダ
岡田=鈴木コンビによる、キャッチ―なロック・チューン。正直、「恋のバッド・チューニング」よりもシングル向きだったんじゃね?と思ってしまう。
ジュリー特有のキザなダンディズムとデカダン風味、それを彩るAメロ・サビもすごくいいんだけど。70年代なら、間違いなくシングル候補だったんだろうな。それがちょっと惜しい。
7. 世紀末ブルース
「恋のバッド・チューニング」のB面が初出だったため、こちらはスタジオ録音。旧知の大野克夫が作曲を手掛けているため、ジュリーのキーとツボを押さえた歌謡ロック。
ライブでは、極力シングルを歌いたくなかったジュリーゆえ、こういった盛り上がる曲は必要で、その役目を十分果たしている。大風呂敷広げた態度のデカい歌詞もまた、虚構としてのスター・ジュリーを巧みに描いている。
8. みんないい娘
「恋のバッド・チューニング」と同じプロダクトでレコーディングされた、こちらもスタジオ録音。糸井:加瀬コンビによるミディアムなパワー・ポップ。
シングルとしてはちょっとインパクト弱いけど、親しみやすいメロディは口ずさみやすく、ほのかなGSテイストも感じたりする。こういう良質な曲がこんな地味なポジションで収録されているので、ジュリーのアルバムは侮れない。シングルだけ押さえておけばいいシンガーではないのだ。
9. お月さん万才!
ちょっとミステリアス、またはオリエンタルな風味も漂うイントロに導かれる、セクシャルなバラード。アルバム・コンセプトとはちょっとはずれているけど、これも切ない美メロが耳を惹く。
感傷的なギターソロやストリングスなど、退廃的なムードが郷愁を誘うのだけど、ジュリーはもっとずっと先を見据えていた。この路線は手堅くはあるけど、求めているのは違う世界なのだ。
10. 今夜の雨はいい奴
ラストは直球の感傷的なバラード。イヤくさいほどキザなんだけど、ここまで聴き進めてきて、改めて感じてしまうのは、ジュリーのヴォーカルの巧さ。ピッチやリズム感ではなく、ハミングするだけで空気に彩りを与えてしまう存在感。シンプルな演奏であるからこそ、彼の底知れぬポテンシャルが浮き出ている。