好きなアルバムを自分勝手にダラダラ語る、そんなユルいコンセプトのブログです。

沢田研二

80年代ジュリーの軌跡:その2 - 沢田研二 『Bad Tuning』


Folder

  1980年明けて早々、ジュリーはニューウェーヴなテクノポップ「TOKIO」をリリースし、ヌルい歌謡界に強烈なインパクトを残した。次に何をしでかすかわからない、先の読めない俺様路線は日を追うごとに過激さを増していった。
 同世代のGS卒業組の多くが、俳優またはミュージシャン専業に流れてゆく中、彼はメインストリームにとどまり続け、それでいて、どのカテゴリにも属さないオンリーワンのポジションを確立していた。もう少し器用に、それとなくフェードアウトしていって、安定したディナー歌手路線へ行くのも可能だったはずなのに、ジュリーはいつまでも尖った姿勢を崩さなかった。ある意味、いま現在だってそうだ。
 音楽史的に1980年といえば、YMOやらシティ・ポップやらアイドル系やらが主流だったようになっているけど、実際は歌謡曲がまだまだ覇権を握っている時代だった。年間チャートを見てみると、「ダンシング・オールナイト」や「異邦人」など、ロック/ニューミュージック系のアーティストが上位にランクインしている反面、ベスト10圏内に五木ひろしや「別れても好きな人」も当たり前の顔で入っている。
 当時小学生だった俺も、普通に「与作」や「北酒場」歌えたもんな。テレビの歌謡番組が絶大な影響力を持っていた、はるか遠い昔の日常だ。
 もう2、3年経つとアイドル勢の存在感が増してきて、購買層の世代交代が爆速で進んでゆくのだけど、この時点ではまだ新旧世代が入り乱れている状況だった。さだまさしと八代亜紀とノーランズが同じベスト30位以内で入り乱れている、なんていうかもう、群雄割拠。
 そんなカオスな状況なので、実はこの時代、ジュリーだけが突出して浮いていたわけではない。いま以上に奇をてらった一発屋や企画モノが、あの手この手で目立とうと一旗あげようとしていたため、彼のキャラクターもまた普通にお茶の間に受け入れられていた。
 80年代に移ったとはいえ、当時はまだ70年代のエピローグの残り香が終わりきれずに漂っていた。歌謡曲に代表される旧態依然のメインカルチャーが鎮座してはいたけど、グロテスクななアングラ/サブカルチャーが、三面記事で紹介されることも多々あった。山海塾やスターリンも芸能ゴシップ的に、興味本位で取り上げられてたもんな。

 パラシュート背負ってカラコン入れて、本人いわく「のちにタケちゃんマンにパクられた」電飾つけたド派手なコスチュームで挑んだ「TOKIO」は、80年明けて間もないお茶の間に強烈なインパクトを残した。スーパーマンのカリカチュアとリスペクトとパロディが入り混じった糸井重里の歌詞もまた、マンガチックなキャラクター造形に一役買い、幅広いお茶の間層に充分アピールした。
 セールスにどこまで意識的だったのかは不明だけど、スターであることにはずっとこだわり続けていたジュリーゆえ、その裏付けとなるランキングや売上枚数は、常に気にかけていたと思われる。78年にレコード大賞を獲得していたことで、歌謡曲歌手としてはいわゆる「上がり」の状況ではあったけれど、アーティスト:ジュリーとしてのスタートは、80年代に入ってからとなる。
 で、80年の元旦にリリースされた「TOKIO」だけど、当然制作はその前なので、厳密には80年代の作品ではない。前年11月にこの曲を含んだ同名アルバム『TOKIO』がリリースされており、レコーディングされたのはおそらく夏頃と思われる。あんまり重箱の隅突つきたくないけど、リアルな80年代の空気感が反映されるのは、次作『Bad Tuning』以降からとなる。
 全然関係ないけど、80年代洋楽の重要アルバムには必ずランクインしているClash 『London Calling』もPink Floyd 『The Wall』も、リリース自体は79年末だったりする。ほんと関係ない余談だけど。

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 多くの芸能人の例に漏れず、この時期のジュリーも過密スケジュールの中で動いていた。ライブやレコーディング主体の音楽活動だけじゃなく、映画やテレビ出演も普通に行なっていた。
 一日にいくつもテレビ局をハシゴしたり、コンサートだって昼夜2回公演が当たり前。ちょっとした隙間に取材や打ち合わせが入り、夜もスポンサーや業界人との接待があったり、ほぼ24時間「沢田研二orジュリー」でいなければならない。
 そんな年中鉄火場状態の中でもジュリー、年にシングル3〜4枚、オリジナル・アルバムも1〜2枚、全国ツアーも年1ペースで必ず行なっている。そりゃ休みは欲しかっただろうけど、でも芸能人でトップであり続けるためには、それが当たり前の時代だったのだ。
 ちょっと気を緩めたら、すぐ先頭集団から引き離されてしまう。みんながみんな全力疾走ゆえ、足を止めるわけにはいかないのだ。
 その80年の全国ツアー日程を見ると、特に7月はとんでもないスケジューリング。1〜5日は北海道を回り、8日名古屋→9日金沢→10・11日で神戸・京都と南下して九州に下り、そこから折り返して北上、21日から4日間、大阪でファイナル。移動日以外、余裕もなく、ほぼ1ヶ月で日本縦断させられる罰ゲーム振り。
 この80年のツアーで特筆すべき点として、バックバンドの一新が挙げられる。長年行動を共にしていた井上堯之バンドは1月24日に解散し、新たに結成されたオールウェイズが後を引き継ぐこととなった。
 前身バンドPYGから、ほぼすべてのレコーディング/ライブでサポートを担っていた井上の存在は大きく、ジュリーとしても苦渋の決断だった。方向性の違いの溝は埋まらず、ほんとに険悪になる前に発展的解消することによって、八方丸く収まった。
 「過激さを増してゆくジュリーのビジュアル路線に、井上をはじめとしたメンバーたちが着いてゆけなくなった」というのが通説となっているけど、ほんとのところは、本人たちにしか知り得ないことだ。ただ、70年代ロックをベースとした井上バンドのアンサンブルが、ジュリーや制作スタッフが求めていたUKニューウェイヴ/ニュー・ロマンティック志向と噛み合わなかったことが、パートナーシップ解消の要因のひとつではある。

 時系列を整理すると、井上バンドが1月末に解散が決まっており、その前からオールウェイズ結成の段取りは進んでいた。バンドの人選は、80年代に向けてイメチェンを図りたいジュリー自身と、プロデューサー加瀬邦彦の意向が大きく働いている。
 泉谷しげるのバックを務めていた吉田健をバンマスに据え、さらに制作チームの意向を汲んで、柴山和彦・西平彰が召集されている。これがのちのエキゾティックスの母体となる。
 引継ぎ作業は極力スムーズに行なわれたはずだけど、相変わらずジュリーは多忙だし、いくら吉田健周辺で揃えたとはいえ、そうすぐに打ち解けるはずもない。事前に決まっていた4月からの全国ツアーで、オールウェイズが初お披露目となったのだけど、さすがにストレスでやられちゃったのかジュリー、開始間もなく胃潰瘍を患い、1ヶ月ほど入院療養する事態となってしまう。
 そこまで気心知れず、音合わせやリハーサルも充分行なえないまま、ほぼぶっつけ本番で鍛えていくしかなかったのだけど、そんな思惑通り行くはずもない。仲間うちのライブハウス程度ならともかく、ジュリーのハコは主に1000〜2000人のホール・クラスで、不慣れなメンバーが緊張しまくるのも無理はない。さらにPA設備も満足にない時代、ファンのラウドな嬌声は自分のプレイする音も聴き取れず、いくらバカテクでも呼吸を合わせるのは至難の業だ。
 ニューウェイヴ以降のサウンドも飲み込んだ、それなりに現場対応スキルの高いメンツを揃えてはいるのだけれど、あれこれ重なって環境は劣悪だった。それでもフロントマンとして、極上のエンタメを提供しなければならない。そんな責任感の重圧が、一回休みという顛末となった。

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 そんなしっちゃかめっちゃかな状況ゆえ、『Bad Tuning』がスタジオ&ライブ録音を織り交ぜた変則的な構成になったのは、致し方なかった。営業的に考えれば、スタジオとライブと2枚に分けた方が、リリース・スケジュールも埋めやすいし、ジュリーも余裕を持った仕事ができたはずなのに。
 多くの歌謡曲歌手同様、ジュリーもまた、70年代~80年代初頭までは、ほぼ年1ペースでライブ・アルバムをリリースしている。リリース契約を効率よく消化できるアイテムとして、低コストで製作できるライブ・アルバムや、キラー・チューン以外は適当に取り繕ったベスト・アルバムを市場に放つことで、リリースのブランクを最小限に抑えていた。
 この80年は、ていうかこれ以降、毎年恒例だったライブ・アルバムは制作されなくなる。ジュリーに限らず、この頃くらいから、安直なリサイタル完全収録アルバムのニーズが減った、ということなのだろう。
 数回程度の単発ライブにも大型ツアーにも共通して、レコード会社が主催・協賛となっている場合、多くはニュー・アルバムのプロモーションが主目的となる。ライブのみの音源も多い米米や清志郎は別として、ほとんどはアルバム発売後に収録曲中心にセットリストを組むのがセオリーである。
 で『Bad Tuning』、録音クレジットを見ると、5/24横浜スタジアムと5/31大阪万博会場の音源が使用されている。で、アルバム発売が7/21。当時のアルバム製作状況がどうだったのかは不明だけど、普通に考えても、制作進行はかなり切羽詰まっていたことは察せられる。
 多分、制作チームは早い段階からスタジオ録音に見切りをつけていたと思われる。従来の井上バンドだったら、最悪楽曲さえ揃っていれば、ジュリーがいなくてもチャチャッと最終オケまで作っておくことも可能だったはずだけど、急造のオールウェイズにそれを求めるのは、ちょっとムズい。
 で、ツアー回ってるうちにアンサンブルもどうにかこなれてきて、頃合いを見て短期集中でスタジオに入る手筈だったのだろうけど、あいにくジュリーがダウンしてしまった。すべての段取りは、これで崩れてしまう。
 どうにかブランクはひと月程度で抑えられたけど、他の仕事も詰まっていたため、レコーディングを最優先するわけにはいかない。でも、リリース・スケジュールはそう簡単に動かせない。さぁ、どうする。
 もしかして、ひと通りのスタジオ録音は行なわれたのかもしれないけど、互いに不慣れな状況ゆえ、出来不出来が激しかったのかもしれない。それならいっそ、ラフな部分もあるけど、勢いはあるライブ音源に差し替えた方が、と判断したんじゃなかろうか。
 ちなみにこのアルバム、ほかにも何かと不明な点が多い。クレジットには、上記2ヶ所のライブ音源に加え、リハーサル・スタジオやなぜか大阪のホテルのルーム・ナンバーも明記されている。セッティングする余裕もなく、空いた時間に無理やりテレコ持ち込んで録ったんだろうか。
 「とにかく、どうにか形にして帳尻合わせちまえ」的な勢いは、確かに感じられる。こういった不埒な熱気、近年は感じられなくなっちゃったな。




1. 恋のバッド・チューニング
 4/21に先行シングルカットされた30枚目のシングル。なので、こちらはスタジオ録音。作詞:糸井重里=作曲:加瀬邦彦と、前作「TOKIO」と同じ布陣で挑んだにもかかわらず、オリコンでは最高13位、ベスト10入りは逃している。ただその「TOKIO」も、実は最高8位止まりだったため、取り敢えず平均値はクリアしている。
 「TOKIO」同様、随所でチープな音色のシンセを効果的に使ってはいるのだけど、こっちの方がロックテイストは強い。アレンジャー:後藤次利の仕切りで、スタジオ・ミュージシャン中心に作られているため、きちんとした職人の仕事で収まっている。
 バウ・ワウ・ワウやブロンディからインスパイアされた、ちょっとラフなガレージ・ポップは、ジュリーのビジョンに適っていたんじゃないかと思われる。オールウェイズのサウンド・コンセプトの叩き台として、その後のキャリアの指針となった重要曲でもある。

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2. どうして朝
 ここからオールウェイズ演奏によるライブ・ヴァージョン。のちに「スシ食いねェ!」や「ロンリーチャプリン」も手掛ける岡田冨美子:作詞、鈴木キサブロー:作曲、両者ともジュリーとは初手合わせとなる。
 歌謡テイストの少ないストレートなロック・チューンに仕上げられており、アンサンブルはこなれている。ただ演奏スタイルは70年代っぽさが強く出ており、ニューウェイヴ臭は薄い。井上バンドでも充分まかなえるサウンドではあるけど、でも練り上げる時間がなかったから、こうするしかなかったんだろうな。
 「したくないことしたくない」
 「コペルニクスよ あんたがあんたが憎い」
 「エジソン ニュートン 考えて考えてくれ」
 大風呂敷広げるトリックスターとしてのジュリーの特徴を見事に捉えた、ていうかジュリーじゃないとサマにならない歌詞世界は、もっと評価されてもいいんじゃないかと思う。

3. WOMAN WOMAN
 前曲に引き続いて演奏される、やや歌謡テイストの入ったロックンロール。制作も再び岡田=鈴木コンビによるもの。
 全体的に「Honky Tonk Women」っぽいメロやギターリフだけど、この頃の日本のロック界は、ストーンズ神話がまだ強かったことが窺える。結成してまだ日も浅かったため、ライブでは破綻しないことを最優先し、こういったシンプルなアレンジになったのだろうけど、スタジオだったらもうちょっとリズムに凝ったりしたんだろうか。その辺がちょっと気になる。
 
4. PRETENDER
 初参加となる宇崎竜童が作曲、当時はプラスチックスにいた島武実:作詞による、エモーショナルなバラード。激しいロックチューンから正統派バラードまでこなせる引き出しの多さ、そして、どう転んだってセクシーになってしまう声質は、ジュリーの魅力の中でも大きな割合を占める。
 オールウェイズによる演奏なので、こちらもライブだけど、観衆の気配が薄い臨場感のなさと演奏の音の悪さから、どうやらリハーサル・スタジオで録音されたものと思われる。ジュリーのヴォーカルも変な響きだし、当時はこれがベストテイクという判断だったのだろうか。

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5. マダムX
 再び普通のライブ・テイク。作詞の浅野裕子は女優・モデルを経て、作詞・エッセイストと、幅広く活動していたらしい。ちなみに作曲は後藤次利。この頃からフックの効いたメロディを作っている。
 「自分の歌だけど嫌い」と公言して憚らない「OH!ギャル」みたいな歌詞だけど、いわゆるセミプロ作詞家の手による世紀末的な散文は、常に既存の価値観をひっくり返したいと目論んでいたジュリーの思惑と、結果的にシンクロしている。

6. アンドロメダ
 岡田=鈴木コンビによる、キャッチ―なロック・チューン。正直、「恋のバッド・チューニング」よりもシングル向きだったんじゃね?と思ってしまう。
 ジュリー特有のキザなダンディズムとデカダン風味、それを彩るAメロ・サビもすごくいいんだけど。70年代なら、間違いなくシングル候補だったんだろうな。それがちょっと惜しい。




7. 世紀末ブルース
 「恋のバッド・チューニング」のB面が初出だったため、こちらはスタジオ録音。旧知の大野克夫が作曲を手掛けているため、ジュリーのキーとツボを押さえた歌謡ロック。
 ライブでは、極力シングルを歌いたくなかったジュリーゆえ、こういった盛り上がる曲は必要で、その役目を十分果たしている。大風呂敷広げた態度のデカい歌詞もまた、虚構としてのスター・ジュリーを巧みに描いている。




8. みんないい娘
 「恋のバッド・チューニング」と同じプロダクトでレコーディングされた、こちらもスタジオ録音。糸井:加瀬コンビによるミディアムなパワー・ポップ。
 シングルとしてはちょっとインパクト弱いけど、親しみやすいメロディは口ずさみやすく、ほのかなGSテイストも感じたりする。こういう良質な曲がこんな地味なポジションで収録されているので、ジュリーのアルバムは侮れない。シングルだけ押さえておけばいいシンガーではないのだ。

9. お月さん万才!
 ちょっとミステリアス、またはオリエンタルな風味も漂うイントロに導かれる、セクシャルなバラード。アルバム・コンセプトとはちょっとはずれているけど、これも切ない美メロが耳を惹く。
 感傷的なギターソロやストリングスなど、退廃的なムードが郷愁を誘うのだけど、ジュリーはもっとずっと先を見据えていた。この路線は手堅くはあるけど、求めているのは違う世界なのだ。

10. 今夜の雨はいい奴
 ラストは直球の感傷的なバラード。イヤくさいほどキザなんだけど、ここまで聴き進めてきて、改めて感じてしまうのは、ジュリーのヴォーカルの巧さ。ピッチやリズム感ではなく、ハミングするだけで空気に彩りを与えてしまう存在感。シンプルな演奏であるからこそ、彼の底知れぬポテンシャルが浮き出ている。






80年代ジュリーの軌跡:その1 - 沢田研二 『TOKIO』

Folder 改めて80年代のジュリーの活動を洗い直してみようと思い、wikiでシングルの系譜を見ていたところ、気になった箇所を見つけた。80年の前年、27枚目のシングルとしてリリースされた「OH! ギャル」についての記述。

 -”ゴールデン・コンビ”とも称された阿久・大野による沢田のシングルA面(メイン)への楽曲提供は、この曲をもって一旦終了となった。
 -「沢田研二本人は「最も嫌いな歌」と言っている。理由は、阿久の女性を賛美する歌詞と、「ギャル」という言葉に新しくないイメージがあったと、デビュー25周年特番で沢田は語っている。その25周年特番の翌年、『Beautiful World』ツアーで久々にプレイされたが、歌い終わるや「大嫌いなこの歌!」と叫んだ。



 リアルタイムでは聴いていたため、サビの部分はうっすら覚えていたのだけど、改めて聴いてみた。みたのだけれど。
 アレ、こんなひどかったっけ?タイトルが象徴するように、何とも即物的な歌詞と安直なオケ、正直、手抜き感がハンパない。
 ちなみに、これの前のシングルが「カサブランカ・ダンディ」で、どちらかといえば、こっちの方が懐メロ番組で聴く機会が多いんじゃないかと思われる。ウイスキーを口に含んでプーッと吹き出すイントロの演出がサマになっており、テンポの速いラグタイム・ブルース風のアレンジも、ジュリーのヴォーカル・スタイルにマッチしている。
 この時期のジュリーはシングルごとにコンセプトを変えており、曲調からコスチューム、パフォーマンスに至るまで、いい意味で一貫性はないのだけど、シングルを時系列で聴いていくと、悪い意味での落差がハンパない。なんでここまで、クオリティ落ちちゃったのかね。
 多分に、「シンプルなロックンロール」というコンセプトのもと、70年代ストーンズのダルなグルーヴ感と、ロッド・スチュワートのポップな要素をブレンドしてみたんだろうけど、ここに阿久悠成分が入ると、途端にダサくなってしまう。無鉄砲な男の美学を描写した「カサブランカ・ダンディ」の次だから、わかりやすい女性賛美を持ってくるのは、対比として間違ってはいないんだけどでも、この時点ですでに使い古されていた「ギャル」ってワードを前面に押し出すのは、ちょっとしくじったんじゃね?と思ってしまう。
 「一言一句、書き直すなどまかりならん」主義の阿久悠の作品なので、誰も「書き直してください」って言えなかったことは想像できる。こんな場合、ズレた大御所って、ほんと扱いが面倒だ。
 まぁストーンズの歌詞だって、正直そんな凝ったモノじゃないし、多分、レコーディング中は「シンプルでワイルドなロックンロールだぜ」って盛り上がったのだろう。で、いざテレビで歌うために、振り付け考えたりコスチューム考えたりしているうち、「なんか思ってたのよりダサくね?」ってなっちゃったんじゃないかと。

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 アウト・オブ・デイトなマッチョイズムと、下卑たセックス・アピールがデフォルメされた「OH! ギャル」は、それでもオリコン最高5位・ベストテン最高2位と、充分アベレージはクリアする売り上げとなった。ジュリーのブランド・パワーに依る部分もあったんだろうけど、まぁ売れれば結果オーライである。
 ただ、「ステレオタイプの女性賛美」というテーマは、自他ともに認める硬派であったジュリーの美学とは相反するものだった。もちろん、これだけが原因じゃないんだろうけど、迫り来る80年代を迎えるためにも、制作陣の交代と軌道修正は急がなければならなかった。
 で、この時点でアルバム『TOKIO』の制作は進んでおり、ある程度、楽曲も揃いつつあった。当初はキャッチーでド派手でヒット性も高い「TOKIO」をリード・シングルとする予定だったのだけど、何しろジュリーがごねる始末。
 「もうあんなチャラい歌はやりたくねぇ」と、シングル・カットを拒否したのだった。それほど「OH! ギャル」のトラウマは深かった。
 手っ取り早くイメチェンしたかったジュリーがシングルに選んだのは、「ロンリー・ウルフ」だった。ヒットしている間、また次のシングルがリリースされるまでは、イヤでも「OH! ギャル」を歌い続けなければならない。当時、シングルごとに意匠を変えていたジュリーだったこともあって、まったく真逆の曲調を選ぶことは、特別不自然なことではないはずだった。
 ただジュリー、自分でも言っているように、「僕が推す歌は売れない」というジンクスがある。その法則に漏れず、「ロンリー・ウルフ」はオリコン最高18位・ベストテン最高13位と大コケしてしまう。
 「出せば必ずヒットする」無双状態だった当時のジュリーとして、これはセールス的に大きな汚点だったのだけど、楽曲自体が悪かったわけじゃないことは言っておきたい。明快なサビのない、地味でナルシスティック要素の強いバラードではあるけれど、後藤次利のアレンジ・センスと百戦錬磨の井上堯之バンドとの相性は、決して悪くない。むしろそのサウンドは、21世紀に聴いても古びていないくらいである。
 「カサブランカ・ダンディ」で増えたファンが「OH! ギャル」で肩透かしを食い、その煽りで「ロンリー・ウルフ」がコケた、というのが冷静な見方だと思う。思うのだけど、でもこの後の「TOKIO」がバカ売れしているため、結局は前後関係なく、楽曲のクオリティ次第という結論に行き着いてしまう。

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 で、ジュリーの79年は「カサブランカ・ダンディ」が代表曲となり、年末の賞レースや紅白はこの曲で戦うことになった。その年で一番ヒットしたし知名度もあったし、妥当と言えば妥当だった。
 ただこの曲、リリースされたのは2月であり、賞レース開始時には、すでに半年以上経っていた。当時の歌謡曲のリリース・サイクルはほぼ3ヶ月だったため、2つ前のシングルとなれば、演歌でもない限り、とっくに昔の曲扱いだった。
 そこまで極端ではないにしても、常に時代の先端を走るジュリーが最新シングルで戦えないという事実は、制作スタッフに危機感を植えつけた。そして、その事態を最も深刻に捉えていたのが、ジュリー本人だった。
 硬派な男のバラードで勝負したいジュリーの思惑に反し、「ロンリー・ウルフ」はスマッシュ・ヒットと言うにも微妙な売り上げ・知名度だった。沢田研二としてのミュージシャン・シップは守られたけど、トリックスター:ジュリーとしては、明らかに後退だった。
 自己プロデュース能力の軌道修正と、制作ブレーンの助言もあって、再び路線変更、「TOKIO」をメイン・トラックとし、80年にプッシュしてゆくことに同意する。
 この時点でジュリーは三十路、シンガーとして転期を迎える頃合いでもあった。バックボーンとしてあるストーンズ直系のロックンロールと並行して、大人路線のバラードをもっと歌っていきたい意向もあった。
 しつこいようだけど、やはり「OH! ギャル」が鬼門だったと思うのだ。アレがもうちょっとソリッドなロック・テイストで収まっていれば、ジュリーもそこまで意固地にならなかったんじゃないかと。

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 80年代に入ったからといって、いきなり世の中が軽薄短小・ライトでポップでナウくなったわけではなく、82年ごろくらいまでは、70年代の延長線上に過ぎなかった。80年に入り、元旦一発目のシングルが「TOKIO」だったわけだけど、考えてみれば、もっと前からプロジェクトは始まっていたわけで、単純に時代・年代で区切ってしまうのは、ちょっとナンセンスである。
 とは言っても、以前のレビューで俺、そんな感じで言い切っちゃってる。ゴメン、アレからいろいろ調べてみて、不勉強だった自分に気づいたんだ。
 ただこれを機に、ジュリーやプロデューサー:加瀬邦彦が大幅なシフト・チェンジを考え始めていたことは確かである。そんなジュリーのバランス感覚と時流とがシンクロしていたのが、ちょうど80年代に差し掛かるところだった。
 実際、「ロンリー・ウルフ」とカップリングの「アムネジア」では、後藤次利がアレンジャーとして初参加している。日本で初めてチョッパー・ベースを広めた男として、また中島みゆきや原田真二のアレンジを手掛けたことで、業界内で頭角をあらわしていたのが、この頃である。最近、「貴ちゃんねる」で久々に健在ぶりを拝見したけど、普段は温和でありながら、ベース・プレイとなると顔つきが全然違ってくるところなど、やはりこの人はただモノではない。
 後藤のコネクションと加瀬邦彦の強い意向もあって、レコーディングではいつもの井上堯之バンドの出番は少なく、鈴木茂や斉藤ノブ、佐藤準など、スタジオ・ミュージシャン系の人選が目立っている。固定したバンドでバリエーションを出すのではなく、楽曲に応じてセッション・メンバーを使い分ける手法は、新たなバンド・キャリアを築くための試験期間だったからこそ、と言える。

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 もともとジュリー、遡ればタイガース時代から、バンド単位での音作りにこだわってきた。短期間で自然消滅してしまったPYG→井上堯之バンドと続くのだけど、加瀬邦彦も含め、その多くはGS時代に培った人脈に基づくものである。
 オフ・ステージの沢田研二の素顔は、トリックスター:ジュリーとは正反対で、「生真面目だけど頑固」という声を聞くことが多い。それほど社交的でもなく、愛想も良くないけど、一旦心を許すと、長く大切に付き合ってゆく、という昔気質の人柄らしい。
 考えてみれば、いまのジュリーをマネジメントしているのは盟友:岸部一徳だし、近年のレコーディングとライブ・メンバーは、ギター:柴山和彦ただ1人、彼もまた40年来の長い長い付き合いである。
 そんな人なので、逆に「ジュリー」という虚像の仮面をかぶることで、80年代前半までは、あれだけエキセントリックなパフォーマンスができたのだろう、と推測できる。時々見せるナイーヴな一面も、実は「ジュリー」としての横顔であって、ほんとの「沢田研二」の素顔は、田中裕子にしか知り得ないものだ。
 80年代幕開けの景気づけとして、ギンギラギンの「TOKIO」のコスチュームやパフォーマンスは、確実にファンやお茶の間の度肝を抜いた。「イギリスのジュリー」の位置付けであるデヴィッド・ボウイがテレビを見ていたら、「してやられた」と思ったことだろう。…ちょっと盛り過ぎたな。
 ただその衝撃は、長く連れ添った井上堯之らにも大きく影響し、「こりゃやっとれんわ」と、これを最期にパートナーシップを解消してしまう。
 -世代交代とは、ある種の痛みを伴う。そんなわかりやすい例である。




1. TOKIO
 シングルとは違って、スペイシーなインタープレイが、来たるべき未来感を煽っている。いつもの井上堯之バンドでは出せない、チャラくカラフルなアンサンブルは、時代を象徴する名曲となるのは必然だった。



 作詞した糸井重里によると、もともと「アルバム用のタイトルを考えてくれ」というオファーに対し、それまでのジュリーの持ち味に近未来感を味付けしたタイトルを、収録曲数分作って提示した。イトイ的には仕事はそこで終わったはずだったのだけど、続けて「タイトル曲は自分で作詞してくれ」という無茶ぶりが舞い込み、まったくの初心者だったイトイが手掛けたのが、これ。

 空を飛ぶ 街が飛ぶ
 雲を突きぬけ 星になる
 火を吹いて 闇を裂き
 スーパーシティが舞いあがる
 TOKIO TOKIOが二人を抱いたまま
 TOKIO TOKIOが空を飛ぶ

 本人曰く、「アニメ的なビジュアル・イメージを思い浮かべて書き上げた」とのことだけど、まぁ確かに文字だけ目で追っていけば荒唐無稽、ていうか子供向けのベタなスーパーヒーローみたい。締め切り間近で殴り書きしちゃった感もしないではないけど、コスチュームやアレンジのベースとなった世界観の形成には成功している。
 ただ、当時のジュリーというのは、単なる歌手にとどまらない、映画やドラマ、舞台やコントまで、あらゆるジャンルでトップ・グループを疾走していたスーパーヒーローだったわけで、まったく見当違いだったわけではない。芸能界のスターという存在が、雲の上の人だった時代の産物である。



2. MITSUKO
 そんな常人を突き抜けた存在であるため、二流の芸能人が歌うとなると、「光子」や「満子」になってしまうところを、ジュリーが歌うとローマ字表記になる。架空の女性の「MITSUKO」とゲランの香水「MITSUKO」とのダブル・ミーニングを想起させる歌詞は、これも糸井重里。でも、「TOKIO」と比べてちょっと技巧が過ぎるかな。
 ヒューチャー感演出のためのシンセがちょっと80年代歌謡曲っぽいよな、と思ったけど、考えてみればここで後藤次利が導入したことがルーツになっているので、むしろ先駆者だったと言える。

3. ロンリー・ウルフ
 本文であらかた書いちゃったけど、ナルシスティックなロッカバラードとしては、この時代では突出したクオリティだと思う。アナログ・セッションで録られたギターもドラムも、持ち味を壊さぬ程度にエフェクトされており、それぞれの音のボトムが太い。
 特にシングル候補曲だったおかげもあるけど、潤沢な予算と時間、そして手間をかけたことによって、刹那的な流行歌だったはずのこの時代の楽曲が、逆に今よりクオリティ高いサウンドに仕上げられている。やっぱり、コストのかけ方如何で、結果が違ってくるということか。



4. KNOCK TURN
 俺世代だったら誰でも知ってるBORO、「大阪で生まれた女」を歌ってた人である。ショーケンが歌ってたことで有名になったけど、オリジナルはこの人。
 いわゆる一発屋カテゴリに入る人だけど、思ってたよりストレートなロックンロールを書くんだな、というのが受けた印象。歌謡ロックという括りで言えば、確かにジュリーとは相性がいいはず。
 「MITSUKO」同様、こちらも「ノクターン」と「ノック・ターン」のダブル・ミーニングとなっている。タイトルを決めたのは糸井重里なので、その辺からインスパイアされて歌詞が書かれたのか。

5. ミュータント
 デジ・ロックの先駆けとも言える、オーソドックスなギターロックと、シーケンス・ビートをハイブリットさせた楽曲。当時、こういったアプローチはなかなかなかったろうし、また、その後もBOOWYがやるまではメジャーではなかった。
 そう考えると、やはりここでの後藤次利のサウンド・プロデュース能力は、同世代と比べて頭抜けていたとしか言いようがない。俺世代にとっては「とんねるずとツルむことが多い業界人」という印象が強いけど、そもそものミュージシャン・スキルの高さあってのものなのだ。

6. DEAR
 ここで初登場、80年代に活躍した作詞家の中でも有数の知名度・売り上げを誇る康珍化によるバラード。繊細かつ流麗な旋律は、普通にいい曲ではあるのだけれど、やはり70年代っぽさ、要は新味にはかけている。
 「ヤマトより愛をこめて」タイプの楽曲なので、いわゆる王道感はあるのだけれど、ちょっと古臭く聴こえてしまうよな、このラインナップだと。

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7. コインに任せて
 続けて、70年代っぽい歌謡ロックチューン。作曲が井上堯之バンドのギタリストなので、3年くらい前にリリースされていれば、普通に評価されたんじゃないかと思われる。ていうか、その当時のアウトテイクっぽさが感じられる。
 このアルバムじゃなくて、「サムライ」のようなバラードのB面としてリリースしていた方が、バランス的にも良かったんじゃないか、と勝手に思う。

8. 捨てぜりふ
 康珍化=BOROのコンビによる、ジュリーの男臭さを効果的に引き出したロッカバラード。こちらもタイプ的には古めの楽曲だけど、ジュリーの力の入りようがハンパない。
 やや字余りで叩きつけるように、それでいて感情たっぷりな咆哮は、スーパースターの表情とは明らかに違っている。ここで歌っているのは、すべてを失った後、宛てもなく彷徨い歩く男の背中だ。

9. アムネジア
 シングル「TOKIO」のB面としてリリースされた、新進アレンジャー:後藤次利の渾身のベース・プレイが光るナンバー。この時代ではまだ歌謡曲では一般的ではなかったチョッパー・ベースが炸裂しまくっている。彼が在籍していたサディスティックス後期のサウンドとシンクロしてる部分が多く、ジュリーと真っ向から対峙しようと奮起している。
 ちなみに作詞・作曲はりりぃ。あの「りりぃ」である。古くは「私は泣いています」のヒット曲だけど、むしろ近年は俳優業として、あの「半沢直樹」にも出演していたりなど、名バイプレイヤーとしての評価が高かった。
 こういった曲も書けるんだ、という印象が強かったけど、考えてみればこの時期のりりィ、伝説のバックバンド:「バイ・バイ・セッション・バンド」を率いていたくらいだから、男どもを手なずけるのは慣れていた。ジュリーもまた、その一人だった、ということか。

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10. 夢を語れる相手がいれば
 ただこの流れでずっと聴いていると、ジュリーの腰の座らなさが徐々に気になってくる。いくら新時代へ向かうと言っても、そういきなり、人は変われるものではない。
 変わるべきところと、変わらずにいるべきところ。その指針となったのが、実はこの曲だったんじゃないかと思うのだ。
 ここで登場、やはりシメは阿久悠。
 
 ざわめきの後の静けさがきらいで
 にぎやかな祭りに 背を向けてきた
 孤独が好きなわけじゃない
 今より孤独になりたくないだけさ

 この一節だけで、過去も未来も、そして現在に至る、ジュリーの本質をズバッと言い当ててしまっている。
 スーパースターであることの孤独、そして苦悩。
 ただ、今さらそこを降りるわけにはいかない。降りてしまうと、存在価値そのものがなくなってしまう。
 ジュリー=沢田研二であること、そしてそれはまた、阿久悠自身の言葉でもある。
 相容れず袂を分かったとして、昭和を生きてきた2人の男のまなざしは、どちらも同じ輝きを秘めている。





80年代歌謡曲のアルバムをちゃんと聴いてみる その6 - 沢田研二 『G.S.I LOVE YOU』

Folder 80年代の華麗な幕切れを象徴する、ジュリー29枚目のシングル「TOKIO」は、1980年1月1日にリリースされた。曲調もコスチュームも演出も、シングルごとにガラリと変え、その都度、センセーショナルな反響を巻き起こしていたのだけど、この曲が与えたインパクトは特に、それまでのイメチェンを軽く超えていた。
 ひとつのロール・モデルとしていたと思われる70年代のデヴィッド・ボウイが、「トム少佐」やら「ジギー・スターダスト」やら「シン・ホワイト・デューク」やら、アルバムごとにキャラクターを変えていたのに対し、ジュリーはさらに速いペース、3ヶ月ごとにイメージチェンジを繰り返していた。一般的に歌手やタレントを売り込む場合、キャラクター・イメージが浸透するまで、あまり路線変更しないのが常だけど、そんな常套手段を当時のジュリーは選ばなかった。
 「常に変化し続ける」ことが規定路線となり、「次はどんなスタイルでビックリさせるんだ?」と、逆に期待感を煽らせたのが、結果的に作戦勝ちだった、ということである。バラードからシャンソン、オールディーズまで、あらゆるジャンルを取り込んだ唯一無二の歌謡ロックと、軍服をモチーフにしたり上半身シースルーだったりと、常にお茶の間の意表をついたコスチュームは、北海道の中途半端な田舎の小学生にも、強烈なインパクトを与え続けたのだった。
 近年の平井堅が、そんなジュリーのメソッドをなぞっているのか、シングルごとに曲調や演出を変えているけど、いまいちインパクトは弱い。ジュリーのように、楽曲コンセプトから希求されたビジュアルではないので、「単なる変わり者」で終わってしまっているのが、ちょっと惜しい。

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 ジュリー史的に、この「TOKIO」はキャリアの大きな節目となっている。これ以降も歌謡界のルーティンに則って、3ヶ月ペースのシングル・リリースを続けてゆくのだけど、次第に歌謡ロックの範疇からはみ出すことが多くなってゆく。
 いち早くニュー・ウェイヴ・テイストを取り込んだ先見性、過激さを増してゆくビジュアル・センスなど、様々な要素が絡み合っての結果なのだけど、その大元となったのが、この時期に行なわれた制作ブレーンの大幅改革であることは、意外と知られていない。ていうか俺も今回、初めて知ったことだけど。
 ソロ転向後のジュリーの制作ブレーンは、プロデューサー:加瀬邦彦と井上堯之バンドが中核となっていた。キーボード:大野克夫による作曲と、作詞家:阿久悠のタッグによる楽曲を、歌謡ロックのフォーマットでアレンジするのが黄金パターンとなっていた。「勝手にしやがれ」も「時の過ぎゆくままに」も、その手法でシングル・ヒットにつながった。
 とはいえ、さすがに10年も同じ顔ぶれでやっていれば、引き出しも少なくなってくるし、ネタだって尽きてくる。安定した演奏テクニックに裏づけされた、盤石のアンサンブルを誇る井上堯之バンドは、ジュリーの大抵のオーダーに応えてはいた。いたのだけれど、熟年夫婦のような倦怠感が漂うのは、もう避けようがない。
 そんなルーティンをちょっとはずして新鮮味を加えようと、「TOKIO」の作詞は、ここ数作での常連だった阿久悠から、新進コピーライターとしてイケイケだった、糸井重里を起用している。無骨でありながら、繊細な男の美学を追求した世界観を捨て、ポップでチャラい浮き足立った言葉は、プラスチックな質感のパワー・ポップを希求した。そういう意味で、フットワークの軽い加瀬邦彦の起用は、「TOKIO」の世界観に見事にフィットしていた。
 のちに軽薄短小と形容される、80年代初頭の空気感を内包したテクノ風味の歌謡ロックは、70年代の旧タイプ:歌謡ロック・ジュリーを見事に一掃した。GSサウンドの延長線上で完成度を高めていったジュリーの歌謡ロックは、「TOKIO」を経ることによって、新たなステージへと移行した。
 ただ、ジュリーまたは加瀬邦彦によるコンセプトが先行し過ぎたのか、バンド・メンバーとの乖離が広がり、その破綻は瞬く間に訪れた。電飾が散りばめられた軍服風のコスチュームに加え、パラシュートは背負うわ当時としては珍しかったカラコンを装着するわ、一連のド派手で奇矯なパフォーマンスは、基本、オーソドックスなロック・サウンドを志向する井上堯之らの意に沿うものではなかった。
 「TOKIO」のヒットで沸く世評をよそに、彼らはジュリーのバックを続けることを拒否、長年続いたパートナーシップは解消、同時にバンドも解散となる。

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 そんな舞台裏のゴタゴタが当時のお茶の間に伝わるはずもなく、ジュリーはほぼ毎日のようにテレビに出ずっぱり、歌にバラエティに芝居にで、喝采を浴びていた。正直、バック・バンドの面々が変わっていても、ほぼ誰も気にならなかった。
 GS人脈で固められていた井上堯之バンドから一新、のちに「エキゾティックス」と改名する新バンド・メンバーたちは、これまでとはベクトルの違う音楽性にあふれていた。歌謡ロックの延長線上のサウンド・アプローチから、UKニュー・ウェイヴ/ニュー・ロマ的なサウンドの導入を構想していたジュリーにとって、メンバーの刷新は必然だった。
 従来の職業作家や、いわば身内のGS人脈による楽曲制作スタイルの固定をやめ、トレンドに沿ったニュー・ウェイヴ以降の若手ソングライターを積極起用、時流やコンセプトの流動化にも即時対応できるバンド・アンサンブルの強化。これらが、ジュリー:80年代の基本コンセプトだった。
 これまでとは毛色の違った人脈形成を進めることができたのは、ソロ・シンガーであり芸能人である前に、生粋のバンドマンだったジュリーの意向が強かったと思われる。加えて、当時の所属先だったナベプロは、ロック/ニュー・ミュージックの専門部署「ノンストップ」を手掛けており、そこには有名無名のクリエイターが多数在籍していた。当時はまだ無名だった山下久美子や大沢誉志幸をはじめ、新進気鋭のアーティストやソングライターが凌ぎを削っており、その後のジュリーのアルバム制作にも関与してくることになる。

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 セルフ・パロディのようなジャケットといいコンセプトといい、『G.S.I LOVE YOU』は後ろ向きな企画に思えてしまうけど、先入観抜きで聴いてみれば、そんな疑念は一掃される。単なるノスタルジーではない、ニュー・ウェイヴのフィルターを通した80年代仕様のサウンド・プロデュースによって、非・歌謡曲ユーザーにもアピールする内容に仕上がっている。
 当時、サウンド・プロデューサーとして頭角をあらわしていた伊藤銀次、また、その彼の強いプッシュによって、ブレイク前の佐野元春が参加していることも、世代交代を強く印象づけている。2人に共通していたのは、様式化しつつあった70年代日本のロック・シーンに馴染めず、独自の路線を模索していた点にあった。
 そう考えると、同様にロック・シーンからは「GS上がりが」とつまはじきにされ、歌謡界でも、どのグループ派閥にも属さず、独立独歩の姿勢を貫いていたジュリーもまた、似たようなものだった。

 1981年のオリコン年間アルバム・ランキングを見てみると、寺尾聡の「リフレクションズ」がぶっちぎりのトップで、次が「ロンバケ」、3位がアラベスク、といった布陣。中島みゆきやオフコースなど、フォーク/ニュー・ミュージックが全盛の頃であり、日本のロックは上位に入っていない。
 辛うじてロックと言えるのは横浜銀蠅くらいで、あとひねり出すとしたら、「キッスは目にして」のヴィーナスだけ、といった体たらく。いずれも、直球のロック・サウンドとは言いがたい。
 『G.S.I LOVE YOU』はオリコン最高23位、年間チャートには顔を出していない。職業作家が手掛けたロック「っぽい」サウンドはお茶の間でも認知されていたけど、「ちゃんとした」ロックの需要はまだごく少数だった、というのが窺える。
 当時の歌謡界のセオリーとして、テレビの歌番組出演でシングル認知→ヒットの余韻で地方営業というのが定番だった。アルバムとはヒット・シングルを集めたベスト盤であり、コンペに落ちたシングル候補曲や、あり合わせのカバー曲で曲数の帳尻を埋めるのが、これまた定石だった。
 当時のナベプロの稼ぎ頭であり、キャリアも重ねていたこともあって、ジュリーのアルバム制作環境は、比較的恵まれた方だった。バンドマン上がりということで、サウンドやコンセプトへのこだわりも強かったため、どのアルバムも丁寧に作られている。それにもかかわらず、シングル偏重の歌謡曲の論理が強かったせいで、まともなアルバム・プロモーションは行なわれなかった。それが当時のチャート・アクションに如実にあらわれている。
 丁寧にコンセプトを練り、新進気鋭のスタッフ/ブレーンの英知を結集した作品が、「歌謡曲だから」という偏見で見過ごされてしまったのは、その後の日本のロックの方向性において、大きな損失だった。ま、そこまではちょっと言い過ぎだけど。
 でも、ヒデキのレビューでも書いてきたように、シングルの埋め草・寄せ集めで構成されたアルバムではなく、ポリシーを持って手間ヒマかけて作られたモノが、固定ファン以外には、存在すら知られなかった―。それは、「歌謡曲だから」とまともに論評しなかった当時の音楽メディアの偏向ぶりが起因しているんじゃないかと思われる。

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 活動歴の長いジュリーのキャリアには、大きな転換点がいくつか存在する。当初は、シングル・チャートで大きくランクを落とした井上陽水との「背中まで45分」・『MIS CAST』を中心に書こうと思っていたのだけど、それはまた次回。


G.S.I LOVE YOU
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沢田研二
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1. HEY! MR. MONKEY
 ジュリー作曲によるGSテイストのロックンロール。全体的にこのアルバム、伊藤銀次の嗜好によりビートルズっぽいアレンジが多いのだけど、ここはジュリーのルーツであるストーンズらしさが強く打ち出されている。60年代を意識したのか、初期ステレオっぽい位相のミックスも、曲調にフィットしている。

2. NOISE
 「Satisfaction」に思いっきり寄せた、ストレートなロック・チューン。実際に街で録られたSEオープニングやスナッピーの効いたスネア、ドスの入ったコーラスといい、ミックスの遊びがかなり前に出ている。ポスト・パンクを意識したサウンド・メイキングは凝りに凝っており、ストレートなバンド・サウンドじゃ古臭くなっちゃうことを回避しているんだろうけど、あれこれいじる前のネイキッド・ヴァージョンも聴いてみたいところ。

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3. 彼女はデリケート
 佐野元春作による、こちらもマージー・ビート色の濃いロックンロール。ジュリーのヴォーカルも、正統R&Rに準じたバディ・ホリー・スタイルで臨んでいるけど、これは元春のデモ・テープからインスパイアされたんじゃないか、と。
 俺がこの曲を知ったのは、多くの人同様、元春のセルフ・カバーで、そちらの方が基準になっているのだけど、E. Street Band色の強かったハートランドの演奏がアメリカン・テイストだったのに対し、ジュリー・ヴァージョンはUK色が強い。どっちがいい・悪いはないけど、こなれた演奏・ヴォーカルの元春ヴァージョンより、未完成でレアな味わいのジュリー・ヴァージョンの方が、曲のコンセプトに沿っているんじゃないかと、最近は思う。

4. 午前3時のエレベーター
 「Be My Baby」の黄金リズム・パターンを使った、ムッシュかまやつ作の三連ロッカバラード。ムッシュという人は、正直、あんまり詳しくなかったのだけど、こんな色気のあるメロディをかける人だった、と改めて気づかされた。もしかして、多くの音楽ユーザーは、ムッシュというソングライターの凄さを、充分にわかっていないのかもしれない。
 万人向けの大名曲ではないけれど、ふとラジオからかかると、つい耳が惹かれてしまう、そんな曲。それを狙っていたのかな。



5. MAYBE TONIGHT
 プレスリーの「冷たくしないで」を80年代にヴァージョン・アップさせたような、オールディーズ・タイプのロックンロール。ややゆったり目の、ベース・ラインが引っ張るアンサンブル、レトロなオルガンの響きでほっこりしてしまう。

6. CAFÉビァンカ
 伊藤銀次いわく、「ビートルズ『Till There Was You』を意識したアレンジ」と言ってしまっている、ほんとまんまのサウンド。週末夜更けのAMラジオから流れてきそうな、まったりした優しい響き。ニュー・ウェイヴだ80年代だ、って飾り文句を必要としない、エヴァーグリーンのカフェ・ビアンカ。

7. おまえがパラダイス
 アルバムと同時発売された、32枚目のシングル。オリコン最高16位、後期ビートルズっぽいテイストが、シングル候補として挙げられたのかね。メロディはオールディーズっぽく大人しめなのだけど、当時の歌番組の映像では、かなり気合の入った演奏とヴォーカルを見ることができる。
 海老茶のレザー・スーツを腕まくりし、スタンド・マイクでのオーバー・アクションは、お茶の間サイズを軽く飛び越えている。こんなのを毎週やっていたジュリーと、番組制作スタッフの気概がバシバシ伝わってくる。こんな熱気があったんだな、80年代って。



8. I'M IN BLUE
 のちに佐野元春がセルフ・カバーしており、そのヴァージョンは『Someday』に収録されているのだけど、改めて聴き返すまで、その存在を忘れていた。正直、俺の中ではあんまり印象に残らない、中庸な曲だったのだけど、これを聴いて印象が変わった。『Rubber Soul』期のフォーク・タッチを取り入れたアレンジ、声質的には元春より艶のあるジュリーのヴォーカルによって、レベルが確実に一段上がっている。

9. I'LL BE ON MAY WAY
 他の曲のアレンジ作業中に沸き上がった発想をモチーフとして、その場で収録が決まった、伊藤銀次作曲のフォーク・ロック。アコギの絡め方はKinks、コーラスなんかはBeach Boysなど、まぁいろんな要素が突っ込まれているけど、そんなミスマッチ感をジュリーのヴォーカルで強引にまとめてしまう、そんな力技が発揮された投入カロリーの高い曲。
 逆に言えば、これってジュリー以外には、歌いこなすのムリだな、きっと。

10. SHE SAID……
 自作曲ではないけど、ひそかに元春がバックコーラスで参加。まだ変声期前のような若々しい声。こうやって並べて聴いてみると、甘さとワイルドネスが同居した、色気のある声質は、唯一無二のものだよな。

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11. THE VANITY FACTORY
 ちょっとGSテイストからははずれた、ストーンズ・タイプのダークな味わいのロックンロール。テンポを上げれば、「My Generation」も入ってるかな、ギターのリフなんかは。
 元春ヴァージョンはテンポが上がり、ソリッドな仕上がり。ちなみにジュリーがコーラスで参加している。俺的にはこっちの方がオリジナルだけど、ジュリー・ヴァージョンの方が奔放なヴォーカルで「ロック」なんだよな。

12. G.S.I LOVE YOU
 ラストを飾るにふさわしい、ジュリー作のひっそりしたバラード。大仰なものではない、軽やかに、そしてそっと寄り添うかのような優しさにあふれている。まるで讃美歌のように、そのたおやかな響きは、聴く者の心を癒す。
 ―懐かしい宴はもう終わり、そろそろ現代へ帰る時間だよ、と。



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北海道の中途半端な田舎に住むアラフィフ男。不定期で音楽ブログ『俺の好きなアルバムたち』更新中。今年は久しぶりに古本屋めぐりにハマってるところ。
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