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#歌謡曲

80年代の岩崎宏美をちゃんと聴いてみないか。 - 岩崎宏美 『戯夜曼』


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  1985年リリース15枚目のオリジナルアルバム。オリコン最高13位は決して高い数字ではないけど、総合ランキングとは別に、この時代は別枠でCDランキングが設けられており、そっちでは最高5位。まだレコード生産枚数が上回っていた時代なので、CD出荷数自体が少ないのだけど、そんな中、歌謡曲としては結構高めのランクインとなっている。
 世界初のCDプレイヤー/ソフトが発売されたのが82年10月だったのだけど、しばらくはオーオタ御用達のレアガジェットの域を出ず、10万・20万が当たり前の殿様商売だった。北海道の中途半端な田舎の中学生だった俺の周りにも、持っているのは誰もいなかった。
 それからしばらくして84年、ソニーが手のひらサイズの普及型プレイヤーD-50を5万円切る価格で発売し、同業他社も右ならえで廉価版プレイヤーを販売し始めたあたりから、ようやく普及し始めた。ソフトはまだ高かったけどね。
 プレイヤーは徐々に普及し始めたけど、一枚3,200〜3,800円もするソフトを若年層が気軽に何枚も買えるはずもなく、この時代でもメインユーザーはジャズやクラシックファンが中心だった。レコード店もまた、売り場の2割程度を占めるに過ぎないCDコーナーに、ニーズの少ないアイドルや歌謡曲を並べることに積極的ではなかった。
 すでにアイドルという括りから脱皮していた岩崎宏美のファン層は、おおよそ彼女と同世代かちょっと上、20〜30代中心だったと考えられる。就職して可処分所得が多めの年代が多かったことから、CDセールスが好調だったことは想像できる。

 1985年の歌謡界において、岩崎宏美はトップグループに属しており、お茶の間の認知度も高い人気歌手だった。アイドルというにはちょっと苦しいけど、卓越した歌唱力と親しみやすいキャラクターによって、安定した人気を保っていた。
 80年代に入ってからは、メガヒットは少なくなったけど、当時のアイドルの通常ペースである3ヶ月ごとのシングルリリースは続いていた。ベスト10上位に入る確率は減ったけど、ランキング形式以外の歌番組では、顔を見る機会が多かった。
 80年代前半くらいまでの歌謡界において、紅白出場かレコ大大賞を獲ることが、いわゆる「上がり」とされていた。前者の究極的な理想は大トリなのだけど、重鎮から大御所に加え、何で出てるのか知らんけど芸歴が長かったり、事務所のパワーバランスによるゴリ押しがいたりで、中堅クラスでそこに食い込むのは、現実的には難しい。なので、出場し続けることが目的となる。
 81年「すみれ色の涙」で最優秀歌唱賞を受賞し、順当にいけば次期大賞候補だった岩崎宏美、当時の歌謡界のセオリーとルーティン、または各事務所間の持ちつ持たれつで、翌82年の「聖母たちのララバイ」で大賞獲得していたはずなのだけど、この年は細川たかし「北酒場」に軍配が上がった。すでにこの曲で、日本歌謡大賞と有線大賞を受賞していたこともあって、おそらくトップの間で何らかの調整が行なわれた、っていうのは穿ち過ぎか。イヤ、あり得るな。

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 80年代に入ってから女性アイドルの世代交代が急速に進み、特にこの82年はいまも語り継がれるように、新人女性アイドルが大豊作だった。新陳代謝のペースが爆上がりして、70年代デビュー組をプッシュする動きはフェードアウトしてゆく。
 まだまだ男尊女卑がまかり通っていた時代、「女性の年齢=クリスマスケーキ」という例えがあった。「24まではみんな競って買い求めるけど、25になると売れ残ってしまう」。今だったら炎上間違いなしだけど、アラフィフ世代くらいまでなら、聞いたことあると思う。
 女性アイドルはさらに賞味期限が短く、どれだけ結果を残していようとも、大抵3年程度で肩を叩かれた。芸能事務所やレコード会社、他メディアもおおよそそんな認識だったし、本人たちも当たり前のように受け入れていた。
 そこそこヒット曲があれば「ミュージックフェア」には出られるけど、ヤングアイドル中心の「ヤンヤン歌うスタジオ」からは、声がかからなくなる。フレッシュで初々しい82年組と同列に扱うわけにもいかないし、周囲もちょっとイジりづらいし。
 なので、多くの女性アイドルは3年を機に進退を迫られた。進学するか結婚するかで芸能界を引退、事務所に残る場合は、ドラマに出るかそれともヌードになるか。
 今だったら、歌わなくてもテレビに出られるバラエティという場所が用意されているけど、当時は需要が少なかったし、何より「歌を捨てた」という格落ち感が強かった。逆に言えば、残る人はそれだけの覚悟があったということなのだけど。

 デビュー当初から歌唱力を売りにし、「キュートでファニーで歌は二の次」な従来アイドルの要素を排除してきた岩崎宏美もまた、その例外ではなかった。20代前半は無理に演出しなくても、ほのかな蒼さとあどけなさが親しみやすさを醸し出していたのだけれど、中盤に差しかかると、それも薄れてゆく。
 艶やかで長い黒髪と整った顔立ちは、「アイドル」としては充分だけど、「女性歌手」としては物足りない。「アイドル」というエクスキューズを抜きにした「女性歌手」へステップアップするためには、違う要素が必要なのだ。
 それが人によってはセクシャリティであり、また、自ら作詞作曲するアーティストになったり。手っ取り早く日銭を稼ぐため、演歌に転向するルートも、あるにはある。
 「聖母たちのララバイ」が大きなヒットになったことで、歌謡界における岩崎宏美のポジションは、取り敢えず落ち着いたように見えた。大きな賞も獲得できたしアイドル歌手からの脱皮と言うにふさわしい代表曲ができたことで、とりあえずはひと安心。
 変に迷走して、畑違いの路線に走ったりせず、王道から逸れないまま、「アイドル→女性歌手」への移行も、自然な形で済んだ。そりゃ裏では賞レース絡みで、密約やら談合やらの類はあったはずだけど、表面的にはソフトランディングできた。
 あくまで事務所サイドとしては。
 周囲の大人たちの思惑としては、このまま「聖母たちのララバイ」路線の踏襲と深化を狙っていたのだと思う。その後、続けて「火曜サスペンス劇場」主題歌に起用された「家路」(4位)も「橋」(31位)も、テーマや曲調は似たようなテイストで統一されている。
 さすがに「聖母~」ほどの大ヒットには及ばないにしても、同年代女性歌手と比べると格段のセールスだし、どれも崇高なテーマでチャラついてない楽曲なので、箔もつく。この路線だったら年齢を重ねても、紅白出場は安泰だろうし。

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 周囲の大人の言うことに疑問を持たず、まっすぐなレーンを歩んでいた優等生の岩崎宏美も、デビューから10年も経つと、いろいろ思い悩むようになる。普通の社会人だって、中堅クラスになると、先行きを考える。当然っちゃ当然のことだ。
 このまま歌手であり続けることに不満はなかったけど、なぜ歌うのか・何を歌うべきなのか。それを考えるようになった。
 最初はただ、歌えるだけで幸せだった。自分のために作られた楽曲を自分なりに解釈し、難しい旋律を歌いこなす。スポットライトとは縁のなかった10代の少女にとって、それは充分身に余る光栄だった。
 歌番組への露出が、お茶の間の知名度に直結した時代、3ヶ月スパンでリリースされるシングルのセールスは、すなわち歌謡界でのランク付けに大きく影響した。なので、レコード会社はあの手この手を使って売れっ子ライターを押さえ、リスクヘッジに努めた。
 多くの大人たちの思惑が絡むシングル選定コンペでは、営業の発言力が強く、製作サイドの意見が通ることは少なかったけど、アルバム制作ではまだ自由裁量が黙認されていた。岩崎宏美もまた、全作詞とアートディレクションを手掛けた異色コンセプトアルバム『Love Letter』や、オールLAレコーディングの『I WON'T BREAK YOUR HEART』をリリースしている。
 同時代にデビューした女性歌手の多くが路線変更を迫られたり引退したりしている中、彼女はわりと恵まれた方ではあった。大ヒットは少なくなったけど、レコーディング契約は続いているし、このままスキャンダルでも起こさない限り、歌謡界でのポジションは安泰だろう。周囲もおそらく自分自身も、そんな風に思っていたんじゃないか、と。

 1984年、岩崎宏美はデビュー時から所属していた芸映との契約を終了、個人事務所を設立する。この前年に西城秀樹が退社・独立したのに触発されたのか、販促計画が82年組の石川秀美中心にシフトしていったことに危機感を抱いたのか。




 当時の芸能週刊誌記事をアップしているブログがあり、興味深い記事がいろいろ書かれているのだけれど、「ピンクレディーみたいにはなりたくない」と書いてあったりする。心身ボロボロの状態で過密スケジュールをこなすだけの毎日、モチベーションの低下に伴うパフォーマンスの劣化、そして人気の急降下。
 プライベートな時間を削って休みなくこき使われ、挙句の果てに使い捨て。昔からある芸能界の栄枯盛衰は、誰にとっても他人ごとではなかった。後に引けない状況を避けることができるのは、最終的に自分の判断だ。
 利権やしがらみが複雑に絡み合うため、一朝一夕でまとまったものではないだろうけど、過密スケジュールや長期ビジョンの相違が、主だった独立事由だったんじゃないか、と推察できる。ほんとのところはもっと複雑なのだろうけど、主因のひとつであることは間違いない。
 近年も芸能人の独立となると、いろいろ騒がれることが多いけど、この頃の芸能界は魑魅魍魎、大手事務所からの独立は、かなりリスキーだった。よく言われる「干される」という制裁。
 当時の芸能界は独立した場合、「約2年は目立った芸能活動ができない」というしきたりがあった。おそらく所属歌手とのバッティングを避けるため、テレビの出演枠確保のためだと思うのだけど、要はペナルティみたいなもの。
 当時もおそらく、出るとこに出て訴えれば勝てる案件だったのだろうけど、金と時間ばかりかかって、むしろデメリットの方が大きい。こういう場合、あまり要求が多すぎると、事務所が故意にネガティヴな情報をリークしたりするので、立場的にはとても弱い。

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 こういった独立劇となると、環境もガラリと変わって心機一転、一からのスタートになるはずで、岩崎宏美も歌番組からしばらく遠ざかることになるのだけれど、ビクターとのレコーディング契約はそのまま続くことになった。デビュー時からのプロデューサー:飯田久彦はじめ、慣れ親しんだスタッフとの継続は、歌をメインとした活動のためには必須だった。
 これまでのスタッフが敷いた「大人の歌手」という方向性は間違っていなかったのだけど、そのベクトルが彼女の思惑とは別の方向に向き始めた。独りになってまずすべきことは、その軌道修正だった。
 刻一刻と成長し続ける岩崎宏美の歌を求める固定ファンは、そんな彼女の奮闘ぶりを控えめに後押しした。単なる歌手から脱皮して、サウンドプロデュースにも深く関わるアーティスティックな進化を見守り続けた。
 自ら納得ゆく楽曲を探し求め、気になったクリエイターには自らコンタクトを取った。従来の歌謡曲フォーマットのアレンジや歌詞テーマではなく、当時のシンガーソングライター系、今で言うシティポップ系のサウンドをモチーフとして、アルバム制作を進めていった。
 2年のブランクを経てリリースされた『戯夜曼』は、そんな彼女のこだわり、そして今後の方向性が強く打ち出された、コンセプチュアルな構成となった。全編当て字も含んだ漢字タイトルで統一され、それに伴ってビジュアルイメージも一新、トレードマークの長い黒髪は白い帽子の中にまとめられた。
 これが正しい路線なのか、まだちょっと自信はない。ないけど、今までとは違う自分であることには、自信ある。
 ちょっとおどけた感のあるジャケットからは、そんな肩の力の抜けた軽みが伝わってくる。




1. 恋孔雀(こいくじゃく)
 テレサ・テンが歌ってもしっくり馴染んでしまう、歌謡曲寄りのメロだけど、キャッチーなポイントを押さえた職人芸:大村雅朗のアレンジが秀逸。正直、松井五郎の歌詞はベタな職業作家感が拭えないのだけど、岩崎宏美のヴォーカル力によって説得力が増している。

2. 星遊劇(ほしあそび)
 この後、結婚前のアルバム『Me Too』までブレーン的な立場で関わり続ける奥慶一アレンジ、オリエンタル音階を巧みに使ったポップチューン。ニューウェイヴに目覚めた太田裕美のテイストとも共通点を感じる。あそこまでぶっ飛んでいないけど。
 
3. 唇未遂(くちびるみすい)
 リズムセクションが心地よくアンサンブルも凝っている、変にディープでどマイナーな方向へ向かっている近年のえせシティポップと比べて、段違いの高レベル。やっぱ歌がうまくないと、どうにもならない。
 タイトルが安っぽいため、つい聴き飛ばしてしまいそうだけど、テクノファンクなイントロとコーラスアレンジは絶品。多分、歌いこなすの難しかったんだろうな。
 カラオケだとアプローチがちょっと難しい曲でもある。ただメロディをなぞるだけだと、高確率で失敗する。そんな曲。

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4. 夏物語
 リヴァーヴの深いアルペジオとDX7をメインとした、浮遊感漂う緩やかなポップバラード。抒情的な晩夏を描写した歌詞の内容やアレンジからすると、もう少しヴォーカル抑えてもよかったんじゃね?と勝手に思ってしまう。歌い上げる曲調ではないのはわかっていたはずだけど、当時はこういったアプローチが精いっぱいだった、ってことだと思う。
 そりゃそうだ、この時点でまだ27歳だったんだもの。

5. 夢狩人(Version Ⅱ)
 ちょうどご乱心期真っただ中だった中島みゆきを連想してしまうのだけど、シンクロニシティ?ていうか、こういうリズム・アレンジ流行ってたんだろうな。シンセの使い方も『36.5℃』と似てるもの。
 「決心」のB面として先行リリースされたシングルヴァージョンは、ややテンポを落としたスパニッシュなアレンジだったのだけど、俺的にはシンセ・ドラムの音が心地よいアルバムの方が好み。
 歌のうまさ・表現力の豊かさという点において、中島みゆきとは相性良かったと思うのだけど、2005年:デビュー30周年記念シングル「ただ・愛のためにだけ」まで、コラボは実現しなかった。柏原芳恵とバッティングするの避けてたのかね、みゆきの方から。


6. 偽終止(ぎしゅうし)
 かなり強引な3字熟語と思っていたのだけど、ちゃんとした音楽用語だった。「終わりそうでいて終わらない、最後に盛り上がる」コード進行のことらしい。楽理は詳しくないのでよく知らんけど、曲を聴けば、「あぁそういうことね」と何となくわかる。
 お約束な流れじゃないメロディなので、そのクセ強感は好き嫌いが分かれるかもしれない。こういったギミック、俺は好きだけど。

7. 横浜嬢(よこはまモガ)
 歌詞を読むと「あぶない刑事」を彷彿させる、モダンでトレンディな世界観。ジルバやBMW、本牧バーなど、俺が10代の頃に憧れた心象風景が活写されている。敢えてヤンチャっぽくせず、素直なヴォイシングなのは正解。こういうのを下品に歌っちゃうとヤボったくなる。

8. 射麗女(しゃれいど)
 ここだけカタカナやアルファベットにしちゃうのも興覚目なのはわかるけど、でもかなり苦しい当て字。夜露死苦や愛羅武勇なんて、Z世代には通じないんだろうな。
 イージーリスニング的なストリングシンセのオープニングがちょっとチープだけど、歌に入ると80年代モダンクラシックなダンスポップチューン。もっとリズミカルに歌えばWinkみたいになるんだろうけど、そこまでダンサブルに踏み込まないのが、彼女の品の良さなのだ。


9. 決心
 カメリアダイアモンドのCM曲として広く知られた、オリエンタルなアレンジとアダルトな歌唱が話題を呼んだ、80年代を代表するヒットチューン。芸能ゴシップやキャラに頼らず、歌一本でアイドル以降の道筋を切り開いた意味において、ひとつのメルクマールとなる楽曲、って言ったら言い過ぎかもしれないけど、歌謡界からアーティスト路線へ移行する先例として、彼女の存在は大きい。

10. 風関係
 やや歌謡ロック的なテイストも漂う、ギターソロがほど良く泣いているロッカバラード。ライブでは洋楽カバーでロックっぽい曲を歌うことはあったけど、ここまでロックテイストの強い楽曲をスタジオヴァージョンで歌うことはなかったはず。
 そう考えると、これまでの岩崎宏美的イメージから最もはずれた楽曲なのかもしれない。明菜が歌ったらもっと荒れそうなので、やっぱ枠にはきちんと収める彼女の方がふさわしい。

11. 誘惑雨(さそいあめ)
 そういえばこのアルバム、ほぼ彼女の座付き作家と言っても過言ではない筒美京平は一切参加していない。していないのだけど、このラストは筒美テイストを隠さないでいる。
 いわば過去との決別として、また、独立に伴うあれやこれやで、恩師である筒美とは一旦縁遠くなってしまうのだけど、ヴォーカル技法は明らかに従来の岩崎宏美である。過去をすべて否定するのではなく、ひとつの過程として受け止め、礎としてゆく。そんな決意を窺わせる楽曲。
 心なしか、そういう意味での熱がこもっている。







80年代ジュリーの軌跡:その2 - 沢田研二 『Bad Tuning』


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  1980年明けて早々、ジュリーはニューウェーヴなテクノポップ「TOKIO」をリリースし、ヌルい歌謡界に強烈なインパクトを残した。次に何をしでかすかわからない、先の読めない俺様路線は日を追うごとに過激さを増していった。
 同世代のGS卒業組の多くが、俳優またはミュージシャン専業に流れてゆく中、彼はメインストリームにとどまり続け、それでいて、どのカテゴリにも属さないオンリーワンのポジションを確立していた。もう少し器用に、それとなくフェードアウトしていって、安定したディナー歌手路線へ行くのも可能だったはずなのに、ジュリーはいつまでも尖った姿勢を崩さなかった。ある意味、いま現在だってそうだ。
 音楽史的に1980年といえば、YMOやらシティ・ポップやらアイドル系やらが主流だったようになっているけど、実際は歌謡曲がまだまだ覇権を握っている時代だった。年間チャートを見てみると、「ダンシング・オールナイト」や「異邦人」など、ロック/ニューミュージック系のアーティストが上位にランクインしている反面、ベスト10圏内に五木ひろしや「別れても好きな人」も当たり前の顔で入っている。
 当時小学生だった俺も、普通に「与作」や「北酒場」歌えたもんな。テレビの歌謡番組が絶大な影響力を持っていた、はるか遠い昔の日常だ。
 もう2、3年経つとアイドル勢の存在感が増してきて、購買層の世代交代が爆速で進んでゆくのだけど、この時点ではまだ新旧世代が入り乱れている状況だった。さだまさしと八代亜紀とノーランズが同じベスト30位以内で入り乱れている、なんていうかもう、群雄割拠。
 そんなカオスな状況なので、実はこの時代、ジュリーだけが突出して浮いていたわけではない。いま以上に奇をてらった一発屋や企画モノが、あの手この手で目立とうと一旗あげようとしていたため、彼のキャラクターもまた普通にお茶の間に受け入れられていた。
 80年代に移ったとはいえ、当時はまだ70年代のエピローグの残り香が終わりきれずに漂っていた。歌謡曲に代表される旧態依然のメインカルチャーが鎮座してはいたけど、グロテスクななアングラ/サブカルチャーが、三面記事で紹介されることも多々あった。山海塾やスターリンも芸能ゴシップ的に、興味本位で取り上げられてたもんな。

 パラシュート背負ってカラコン入れて、本人いわく「のちにタケちゃんマンにパクられた」電飾つけたド派手なコスチュームで挑んだ「TOKIO」は、80年明けて間もないお茶の間に強烈なインパクトを残した。スーパーマンのカリカチュアとリスペクトとパロディが入り混じった糸井重里の歌詞もまた、マンガチックなキャラクター造形に一役買い、幅広いお茶の間層に充分アピールした。
 セールスにどこまで意識的だったのかは不明だけど、スターであることにはずっとこだわり続けていたジュリーゆえ、その裏付けとなるランキングや売上枚数は、常に気にかけていたと思われる。78年にレコード大賞を獲得していたことで、歌謡曲歌手としてはいわゆる「上がり」の状況ではあったけれど、アーティスト:ジュリーとしてのスタートは、80年代に入ってからとなる。
 で、80年の元旦にリリースされた「TOKIO」だけど、当然制作はその前なので、厳密には80年代の作品ではない。前年11月にこの曲を含んだ同名アルバム『TOKIO』がリリースされており、レコーディングされたのはおそらく夏頃と思われる。あんまり重箱の隅突つきたくないけど、リアルな80年代の空気感が反映されるのは、次作『Bad Tuning』以降からとなる。
 全然関係ないけど、80年代洋楽の重要アルバムには必ずランクインしているClash 『London Calling』もPink Floyd 『The Wall』も、リリース自体は79年末だったりする。ほんと関係ない余談だけど。

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 多くの芸能人の例に漏れず、この時期のジュリーも過密スケジュールの中で動いていた。ライブやレコーディング主体の音楽活動だけじゃなく、映画やテレビ出演も普通に行なっていた。
 一日にいくつもテレビ局をハシゴしたり、コンサートだって昼夜2回公演が当たり前。ちょっとした隙間に取材や打ち合わせが入り、夜もスポンサーや業界人との接待があったり、ほぼ24時間「沢田研二orジュリー」でいなければならない。
 そんな年中鉄火場状態の中でもジュリー、年にシングル3〜4枚、オリジナル・アルバムも1〜2枚、全国ツアーも年1ペースで必ず行なっている。そりゃ休みは欲しかっただろうけど、でも芸能人でトップであり続けるためには、それが当たり前の時代だったのだ。
 ちょっと気を緩めたら、すぐ先頭集団から引き離されてしまう。みんながみんな全力疾走ゆえ、足を止めるわけにはいかないのだ。
 その80年の全国ツアー日程を見ると、特に7月はとんでもないスケジューリング。1〜5日は北海道を回り、8日名古屋→9日金沢→10・11日で神戸・京都と南下して九州に下り、そこから折り返して北上、21日から4日間、大阪でファイナル。移動日以外、余裕もなく、ほぼ1ヶ月で日本縦断させられる罰ゲーム振り。
 この80年のツアーで特筆すべき点として、バックバンドの一新が挙げられる。長年行動を共にしていた井上堯之バンドは1月24日に解散し、新たに結成されたオールウェイズが後を引き継ぐこととなった。
 前身バンドPYGから、ほぼすべてのレコーディング/ライブでサポートを担っていた井上の存在は大きく、ジュリーとしても苦渋の決断だった。方向性の違いの溝は埋まらず、ほんとに険悪になる前に発展的解消することによって、八方丸く収まった。
 「過激さを増してゆくジュリーのビジュアル路線に、井上をはじめとしたメンバーたちが着いてゆけなくなった」というのが通説となっているけど、ほんとのところは、本人たちにしか知り得ないことだ。ただ、70年代ロックをベースとした井上バンドのアンサンブルが、ジュリーや制作スタッフが求めていたUKニューウェイヴ/ニュー・ロマンティック志向と噛み合わなかったことが、パートナーシップ解消の要因のひとつではある。

 時系列を整理すると、井上バンドが1月末に解散が決まっており、その前からオールウェイズ結成の段取りは進んでいた。バンドの人選は、80年代に向けてイメチェンを図りたいジュリー自身と、プロデューサー加瀬邦彦の意向が大きく働いている。
 泉谷しげるのバックを務めていた吉田健をバンマスに据え、さらに制作チームの意向を汲んで、柴山和彦・西平彰が召集されている。これがのちのエキゾティックスの母体となる。
 引継ぎ作業は極力スムーズに行なわれたはずだけど、相変わらずジュリーは多忙だし、いくら吉田健周辺で揃えたとはいえ、そうすぐに打ち解けるはずもない。事前に決まっていた4月からの全国ツアーで、オールウェイズが初お披露目となったのだけど、さすがにストレスでやられちゃったのかジュリー、開始間もなく胃潰瘍を患い、1ヶ月ほど入院療養する事態となってしまう。
 そこまで気心知れず、音合わせやリハーサルも充分行なえないまま、ほぼぶっつけ本番で鍛えていくしかなかったのだけど、そんな思惑通り行くはずもない。仲間うちのライブハウス程度ならともかく、ジュリーのハコは主に1000〜2000人のホール・クラスで、不慣れなメンバーが緊張しまくるのも無理はない。さらにPA設備も満足にない時代、ファンのラウドな嬌声は自分のプレイする音も聴き取れず、いくらバカテクでも呼吸を合わせるのは至難の業だ。
 ニューウェイヴ以降のサウンドも飲み込んだ、それなりに現場対応スキルの高いメンツを揃えてはいるのだけれど、あれこれ重なって環境は劣悪だった。それでもフロントマンとして、極上のエンタメを提供しなければならない。そんな責任感の重圧が、一回休みという顛末となった。

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 そんなしっちゃかめっちゃかな状況ゆえ、『Bad Tuning』がスタジオ&ライブ録音を織り交ぜた変則的な構成になったのは、致し方なかった。営業的に考えれば、スタジオとライブと2枚に分けた方が、リリース・スケジュールも埋めやすいし、ジュリーも余裕を持った仕事ができたはずなのに。
 多くの歌謡曲歌手同様、ジュリーもまた、70年代~80年代初頭までは、ほぼ年1ペースでライブ・アルバムをリリースしている。リリース契約を効率よく消化できるアイテムとして、低コストで製作できるライブ・アルバムや、キラー・チューン以外は適当に取り繕ったベスト・アルバムを市場に放つことで、リリースのブランクを最小限に抑えていた。
 この80年は、ていうかこれ以降、毎年恒例だったライブ・アルバムは制作されなくなる。ジュリーに限らず、この頃くらいから、安直なリサイタル完全収録アルバムのニーズが減った、ということなのだろう。
 数回程度の単発ライブにも大型ツアーにも共通して、レコード会社が主催・協賛となっている場合、多くはニュー・アルバムのプロモーションが主目的となる。ライブのみの音源も多い米米や清志郎は別として、ほとんどはアルバム発売後に収録曲中心にセットリストを組むのがセオリーである。
 で『Bad Tuning』、録音クレジットを見ると、5/24横浜スタジアムと5/31大阪万博会場の音源が使用されている。で、アルバム発売が7/21。当時のアルバム製作状況がどうだったのかは不明だけど、普通に考えても、制作進行はかなり切羽詰まっていたことは察せられる。
 多分、制作チームは早い段階からスタジオ録音に見切りをつけていたと思われる。従来の井上バンドだったら、最悪楽曲さえ揃っていれば、ジュリーがいなくてもチャチャッと最終オケまで作っておくことも可能だったはずだけど、急造のオールウェイズにそれを求めるのは、ちょっとムズい。
 で、ツアー回ってるうちにアンサンブルもどうにかこなれてきて、頃合いを見て短期集中でスタジオに入る手筈だったのだろうけど、あいにくジュリーがダウンしてしまった。すべての段取りは、これで崩れてしまう。
 どうにかブランクはひと月程度で抑えられたけど、他の仕事も詰まっていたため、レコーディングを最優先するわけにはいかない。でも、リリース・スケジュールはそう簡単に動かせない。さぁ、どうする。
 もしかして、ひと通りのスタジオ録音は行なわれたのかもしれないけど、互いに不慣れな状況ゆえ、出来不出来が激しかったのかもしれない。それならいっそ、ラフな部分もあるけど、勢いはあるライブ音源に差し替えた方が、と判断したんじゃなかろうか。
 ちなみにこのアルバム、ほかにも何かと不明な点が多い。クレジットには、上記2ヶ所のライブ音源に加え、リハーサル・スタジオやなぜか大阪のホテルのルーム・ナンバーも明記されている。セッティングする余裕もなく、空いた時間に無理やりテレコ持ち込んで録ったんだろうか。
 「とにかく、どうにか形にして帳尻合わせちまえ」的な勢いは、確かに感じられる。こういった不埒な熱気、近年は感じられなくなっちゃったな。




1. 恋のバッド・チューニング
 4/21に先行シングルカットされた30枚目のシングル。なので、こちらはスタジオ録音。作詞:糸井重里=作曲:加瀬邦彦と、前作「TOKIO」と同じ布陣で挑んだにもかかわらず、オリコンでは最高13位、ベスト10入りは逃している。ただその「TOKIO」も、実は最高8位止まりだったため、取り敢えず平均値はクリアしている。
 「TOKIO」同様、随所でチープな音色のシンセを効果的に使ってはいるのだけど、こっちの方がロックテイストは強い。アレンジャー:後藤次利の仕切りで、スタジオ・ミュージシャン中心に作られているため、きちんとした職人の仕事で収まっている。
 バウ・ワウ・ワウやブロンディからインスパイアされた、ちょっとラフなガレージ・ポップは、ジュリーのビジョンに適っていたんじゃないかと思われる。オールウェイズのサウンド・コンセプトの叩き台として、その後のキャリアの指針となった重要曲でもある。

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2. どうして朝
 ここからオールウェイズ演奏によるライブ・ヴァージョン。のちに「スシ食いねェ!」や「ロンリーチャプリン」も手掛ける岡田冨美子:作詞、鈴木キサブロー:作曲、両者ともジュリーとは初手合わせとなる。
 歌謡テイストの少ないストレートなロック・チューンに仕上げられており、アンサンブルはこなれている。ただ演奏スタイルは70年代っぽさが強く出ており、ニューウェイヴ臭は薄い。井上バンドでも充分まかなえるサウンドではあるけど、でも練り上げる時間がなかったから、こうするしかなかったんだろうな。
 「したくないことしたくない」
 「コペルニクスよ あんたがあんたが憎い」
 「エジソン ニュートン 考えて考えてくれ」
 大風呂敷広げるトリックスターとしてのジュリーの特徴を見事に捉えた、ていうかジュリーじゃないとサマにならない歌詞世界は、もっと評価されてもいいんじゃないかと思う。

3. WOMAN WOMAN
 前曲に引き続いて演奏される、やや歌謡テイストの入ったロックンロール。制作も再び岡田=鈴木コンビによるもの。
 全体的に「Honky Tonk Women」っぽいメロやギターリフだけど、この頃の日本のロック界は、ストーンズ神話がまだ強かったことが窺える。結成してまだ日も浅かったため、ライブでは破綻しないことを最優先し、こういったシンプルなアレンジになったのだろうけど、スタジオだったらもうちょっとリズムに凝ったりしたんだろうか。その辺がちょっと気になる。
 
4. PRETENDER
 初参加となる宇崎竜童が作曲、当時はプラスチックスにいた島武実:作詞による、エモーショナルなバラード。激しいロックチューンから正統派バラードまでこなせる引き出しの多さ、そして、どう転んだってセクシーになってしまう声質は、ジュリーの魅力の中でも大きな割合を占める。
 オールウェイズによる演奏なので、こちらもライブだけど、観衆の気配が薄い臨場感のなさと演奏の音の悪さから、どうやらリハーサル・スタジオで録音されたものと思われる。ジュリーのヴォーカルも変な響きだし、当時はこれがベストテイクという判断だったのだろうか。

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5. マダムX
 再び普通のライブ・テイク。作詞の浅野裕子は女優・モデルを経て、作詞・エッセイストと、幅広く活動していたらしい。ちなみに作曲は後藤次利。この頃からフックの効いたメロディを作っている。
 「自分の歌だけど嫌い」と公言して憚らない「OH!ギャル」みたいな歌詞だけど、いわゆるセミプロ作詞家の手による世紀末的な散文は、常に既存の価値観をひっくり返したいと目論んでいたジュリーの思惑と、結果的にシンクロしている。

6. アンドロメダ
 岡田=鈴木コンビによる、キャッチ―なロック・チューン。正直、「恋のバッド・チューニング」よりもシングル向きだったんじゃね?と思ってしまう。
 ジュリー特有のキザなダンディズムとデカダン風味、それを彩るAメロ・サビもすごくいいんだけど。70年代なら、間違いなくシングル候補だったんだろうな。それがちょっと惜しい。




7. 世紀末ブルース
 「恋のバッド・チューニング」のB面が初出だったため、こちらはスタジオ録音。旧知の大野克夫が作曲を手掛けているため、ジュリーのキーとツボを押さえた歌謡ロック。
 ライブでは、極力シングルを歌いたくなかったジュリーゆえ、こういった盛り上がる曲は必要で、その役目を十分果たしている。大風呂敷広げた態度のデカい歌詞もまた、虚構としてのスター・ジュリーを巧みに描いている。




8. みんないい娘
 「恋のバッド・チューニング」と同じプロダクトでレコーディングされた、こちらもスタジオ録音。糸井:加瀬コンビによるミディアムなパワー・ポップ。
 シングルとしてはちょっとインパクト弱いけど、親しみやすいメロディは口ずさみやすく、ほのかなGSテイストも感じたりする。こういう良質な曲がこんな地味なポジションで収録されているので、ジュリーのアルバムは侮れない。シングルだけ押さえておけばいいシンガーではないのだ。

9. お月さん万才!
 ちょっとミステリアス、またはオリエンタルな風味も漂うイントロに導かれる、セクシャルなバラード。アルバム・コンセプトとはちょっとはずれているけど、これも切ない美メロが耳を惹く。
 感傷的なギターソロやストリングスなど、退廃的なムードが郷愁を誘うのだけど、ジュリーはもっとずっと先を見据えていた。この路線は手堅くはあるけど、求めているのは違う世界なのだ。

10. 今夜の雨はいい奴
 ラストは直球の感傷的なバラード。イヤくさいほどキザなんだけど、ここまで聴き進めてきて、改めて感じてしまうのは、ジュリーのヴォーカルの巧さ。ピッチやリズム感ではなく、ハミングするだけで空気に彩りを与えてしまう存在感。シンプルな演奏であるからこそ、彼の底知れぬポテンシャルが浮き出ている。






秀樹のCD復刻プロジェクトについて、今後の要望やら疑問やら、その他もろもろ。 - 西城秀樹 『Myself』


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 秀樹ファンにはとっくに周知されているはずだけど、今年から大々的なCD復刻企画がスタートした。オリジナル・アルバムはもちろん、これまで完全な形でのリイッシューがなかったライブ・アルバムも含め、順次紙ジャケ仕様でリリースされている。
 マニアックなリイッシュー企画だと、カセット・オンリーの音源やファンクラブ限定のソノシート音源など、とにかく声が入ってるアイテムをかき集めて、ボーナス・トラックに収録するケースもあるのだけど、今回の秀樹は、そういうのはなし。オリジナル意匠の忠実な再現をコンセプトとしているらしい。
 第3期まで発表された現時点では、1・2期がデビューから70年代のオリジナル、3期がライブ5枚と、緩やかな時系列に沿って、それぞれテーマ別で編纂されている。安直なベストやカセット企画は除外されるようだけど、おおよそ50枚を2年かけて復刻してゆく壮大なプロジェクトとなっている。
 Twitterのタイムラインの盛り上がりから見て、売れ行きも上々らしく、デアゴスティーニみたいにフェードアウトしてしまうことはなさそうである。デビュー50周年を迎え、本人不在は残念なことだけど、映像方面の発掘も進んでおり、結構な波及効果を生んでいる。
 熱狂的なファン層の厚みがそこそこあったにもかかわらず、他の同世代アイドルや歌謡曲シンガーと比べて、秀樹のリイッシュー状況は大幅に遅れている。サブスク界隈だと、iTunesでは70・80年代のシングル・コレクションとデビュー・アルバムは配信されているのに、Amazon Musicは後期のシングルが少しだけ。
 今回のリイッシュー音源が配信されそうな気配は、今のところなさそうである。何でだろ。

 iTunesのラインナップが象徴するように、秀樹のアーカイブのニーズは基本、全盛期とされる70年代の作品に集中している。あとは「ギャランドゥ」までの80年代シングル、「走れ正直者」、付け加えてターンAガンダムの主題歌、ってところか。
 多少の差異はあるにせよ、近年流通している秀樹のベストは、概ねこの辺の楽曲を中心に構成されている。リリース状況が活発だった80年代のシングルまでは、どうにかコンパイルされているけど、90年代以降はリリースも不定期だったため、アルバム単位でのパッケージが難しかった。この辺をどうまとめるかが、今後の課題だろうな。
 wikiのディスコグラフィーを参照してみると、94年のボックスセット『HIDEKI SAIJO EXCITING AGE '72-'79』にて、現時点まで復刻されたオリジナルがCD再発されている。99年には、そのうち初期4枚が分売、さらに、70〜80年代のライブ・アルバムを6枚組にダイジェストした『HIDEKI SUPER LIVE BOX』がリリースされている。
 94年と99年に何がしかのアニバーサリーがあったのかは、ちょっと不明。多分に、94年は10年ぶりの紅白出場、99年はレコード会社の移籍があったので、その辺がちょっと絡んでいたと思われる。
 前述したように、コンセプト色の薄い、レコード会社のリリース計画の穴埋めで制作されたようなベスト・アルバムは、リイッシュー予定から除外しているらしい。現時点で復刻されたベストは、79年の『YOUNG MAN/HIDEKI FLYING UP』のみ。
 収録内容を見てみると、タイトルが象徴するように「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」大ヒットにあやかった、70年代後半のシングル中心のベストであり、すごいレア音源が収録されている風でもない。なんでコレだけ復刻されたんだろ。。謎だ。しかも、95年にもベストでは唯一、コレだけCD再発されている。

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 これまでの再発ラインナップからわかるように、70年代の秀樹のアルバム・リリースは、そりゃもうとんでもないペースだった。秀樹に限らず、トップグループはみんな、年間シングル4枚、アルバム3〜4枚リリースがデフォルトだった。
 ほぼ毎月、何らかのニュー・アイテムによって、レコード店の売れ筋エリアを死守することが、レコード会社の営業戦略の柱だった。とは言っても、過密スケジュールの彼らがレコーディングに避ける時間は限られており、オリジナル・アルバムは2枚が限界で、残りはライブやベスト盤で埋め合わせるのが実情だった。
 極端な話、一発録音でどうにかなってしまうライブ盤は、制作期間も短くて、リリース計画の埋め合わせとして好都合だった。70年代アイドルはやたらライブ盤が多いのだけど、そういう事情もある。
 80年代に入ると、案外ニーズがなかったのか、どのアイドルもライブ盤のリリースは少なくなってゆく。言っちゃ悪いけど、リリース点数を稼ぐためには、製作コストも少ないライブ盤は適しているはずなのだけど、これがちょっと疑問。誰か知ってる人いたら教えて。
 で、秀樹に話を戻すと、80年代に入ってからは世代交代もあって、リリース・ペースはだいぶ落ち着いた。レコード会社による企画ベストやコンピは相変わらずだったけど、オリジナル・アルバムには自身の意向が強く反映されるようになった。
 シングルの楽曲コンペでの発言権も増し、カバーする楽曲についてのプレゼンも自ら行なうようになってゆく。アルバム制作においても、自らコンセプト立案して企画書を作り、時にクリエイターを自ら指名したり、積極的にプロデュース活動を行なっている。
 そうなると、アルバムごとに手間暇がかかり、いきおい制作期間は長くならざるを得ない。ディレクターのお膳立てに沿って、スケジュールをこなすだけのレコーディングならともかく、それなりのベテランになると、自己プロデュース能力が求められるし、ディテールへのこだわりも、挙げればキリがない。

 ビートルズのアルバムが初CD化される際、EMIとアップルはアーカイブの抜本的な見直しを断行した。それまで世界各国、本社未公認で乱発していたベスト盤やコンピレーションを廃盤にし、UK仕様オリジナルに統一した。
 当時、定番ベストとされていた『Oldies』や赤盤・青盤がその煽りを食らい、市場から回収された。入門編の役割を果たす赤盤・青盤は、のちにリイッシューされたけど、各国で意匠を凝らした未公認盤の多くは、一部を除き未CD化のままだ。
 今回の秀樹のプロジェクトも、ビートルズ同様、アーカイブを時系列で整理し、カタログを一本化することでスタンダードとする構想が見えてくる。秀樹亡き後に立ち上がった企画ゆえ、遅きに失した感は否めないけど、一歩前に進んだだけでも良しとしなければならない。
 今後のリリース計画としては、カバー・アルバムも対象としているようだけど、こういうのって許諾関係が最大の障壁なので、こっちは時間がかかりそう。70年代の音源も、オリジナル・アルバムだけではすべてを補完できないはずなので、今後、何がしかの形でオリジナル・コンピの企画が控えているんじゃないかと思われる。
 ここで微妙なポジションとなってくるのが、80年代以降のベスト・アルバム。スーパーやホームセンターのワゴンに並んでいたカセット企画なんかは論外として、ある程度、秀樹の意向が反映されていると思われるコンピはどうなるのか。

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 で、『Myself』。思いっきりベストである。
 83年から84年のシングル中心にコンパイルされており、B面曲やアルバム楽曲も収録されている。当時の秀樹が志向していた、アイドル以降のAORテイストのサウンドで統一されており、トータル性を考慮した選曲になっている。
 ただレア曲や目新しさには欠けているため、リイッシューの基準としてはボーダーぎりぎりなんじゃないかと思われる。はっきり言っちゃえば80年代シングル・コンピで間に合っちゃうわけだし。
 84年のコンピレーションはもうひとつ、『背中からI Love You』があるのだけど、こっちは「ローラ」や「情熱の嵐」など、全方位的な選曲となっており、統一感はちょっと薄い。「ギャランドゥ」だけではインパクトが弱いので、保険として70年代ヒットを入れたんだろうけど、それが災いして散漫な作りなんだよな。こっちも再発は微妙だ。
 コンセプチュアルなベストという意味合いで『Myself』を取り上げたのだけど、でもコレ、ジャケットは地味なんだよな。シングル「抱きしめてジルバ」をそのまま引き延ばした、正直、あまり売る気が感じられないデザインである。
 85年のオリジナル『TWILIGHT MADE …HIDEKI』は、「西城秀樹」というアイドルの先入観を払底するため、ジャケットから名前やポートレイトを排除した。そんな意向の延長線上でのアートワークだったんじゃないかと思うのだけど、でももうちょっと飾り立ててもよかったんじゃね?とも思ってしまう。

 ニューミュージックのアーティストにも見劣りしない、強いこだわりを持って作られた80年代のアルバムと並行して、秀樹はシングルにも同様の熱量を込めて製作にあたっていた。シングル・リリースにおいては、ある程度の商業的成功が前提としてあり、多くの場合はアベレージをクリアしていたと思われる。
 80年代に入ってからは、松田聖子が先鞭をつけたことで、それまで存在が薄かったアイドル/歌謡曲のアルバムにも注目が集まるようになった。ただ、70年代デビューの秀樹がその恩恵を受けることはなく、ほぼ黙殺されていた。
 人的時間的コストに見合う対価が得られなかったことで、80年代中盤以降、秀樹のリリース・ペースは緩やかになってゆく。オリジナルの製作コストを補填するかのように、70年代中心のベストは、絶えず市場に供給されていた。
 その間もシングルはコンスタントにリリースしていたのだけど、セールスは想定以上に伸びず、過去のヒット曲ばかり流通する状況が、しばらく続くことになる。この時代の音源を聴いてみると、ハンパな自称アーティストと比べて、そのクオリティの高さにビックリしてしまうのだけど、当時は気づかなかったんだよな。
 なので、80年代のリイッシューは、オリジナルだけを単純に復刻しても、その全貌はつかみづらい。ある程度、テイストの近い楽曲を中心に編纂したテーマ別ベスト、『Myself』と『HIDEKI SAIJO』をラインナップに入れることで、初めて「時系列で補完できた」と言える。
 アルバムとアルバムの間のミッシング・リンクを繋ぐこの2枚は、80年代秀樹を知るにおいて、はずせないアイテムである。だからお願い、復刻してください。よろしくお願いします。





1. 抱きしめてジルバ - Careless Whisper -
 1984年にリリースされた49枚目のシングル。世間的には、この次の50枚目のシングル「一万光年の愛」の方がアニバーサリー的な盛り上がりだったため、あまり印象に残りづらかったかもしれない。
 時系列を調べてみると、本家ジョージ・マイケルのシングル発売が7月で、秀樹が10月なので、発売前から音源を入手し、即断即決でレコーディングに踏み切ったんじゃないかと思われる。かなりディープな洋楽マニアだった秀樹、おそるべし。
 ちなみに盟友:郷ひろみも11月に両A面シングル「ケアレス・ウィスパー」をリリースしており、ごく一部でカバー対決として盛り上がりを見せたらしい。実際に「夜ヒット」でそんな企画で2人が出演したらしいけど、まぁ優劣がどうというものでもない。この頃になると、もはや2人とも別路線だし、たまたまカバー曲がかぶっただけのことだし。
 オリジナルについては、誰でも一回くらいは聴いたことがあるはずなので割愛するとして、2つのカバーの特徴について。
 秀樹:うまく緩急使い分けた、ソウルフルなジョージのヴォーカルに対し、バラード・パートはほぼ同じだけど、力のこもる大サビ・パートでは、もともとのロックの熱くたぎる血がほとばしる。当時、常連スタッフだった森田由美による訳詞は、アダルティな秀樹のアーティスト・イメージに寄せつつ、オリジナルにほぼ忠実。
 GO:作詞クレジットの「ヘンリー浜口」は、彼のペンネーム。怪しげな日系三世みたいで、センスが疑われる。御三家の中では歌唱力はやや劣るとされていたGOも、アダルト路線の楽曲が中心だったこの頃は、普通に歌いこなしている。ただ、高音パートやファルセットがちょっと弱いかな。
 オリジナルのストーリーに縛られず、比較的自身の解釈を多めに入れた歌詞になっているのだけど、「一人でいい あなたの子供 産んでみたいの」やら「死ぬほど愛した女は お前だけなのさ」というフレーズは、旧来の歌謡曲の作詞作法をそのまま持ち込んだ感があって、ちょっとミスマッチだな。誰か言ってやれるスタッフいなかったのか。
 ちなみにオリコン・チャートでは、秀樹が18位でGOが20位。まぁそんなに変わらない。




2. 哀しみのStill
 83年リリースの46枚目シングル。オリコン最高29位、デビュー以来、初めて売り上げ5万枚に届かなかったシングルという、不名誉な称号がある。この時期の「ベストテン」は、圧倒的に女性アイドルとジャニーズの力が強く、中堅どころである秀樹もGOもチャート的には奮わなかった。
 アダルトでAORなテイストのサックスと、ブイブイ響くチョッパー・ベースの連打のミスマッチ感は、いま聴くとキッチュでオツだね~ってところなのだけど、まぁこの時代だとお茶の間では受け入れられづらい。それをわかって我流を通しているんだから、ある意味、確信犯だよな後藤次利。

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3. ジェラシー
 「抱きしめてジルバ」のB面としてリリースされた、こちらも後藤次利による楽曲。正直、「悲しみのStill」より、こっちの方がシングルっぽい。基本の歌謡ロック・サウンドに森田由美によるドライな歌詞、ハードロック・テイストのギター・ソロは、多分吉野藤丸だと思うけど、短いサイズながらここぞとばかり、強烈なインパクトのプレイ。
 その辺の詳しいクレジットも知りたいから、『Myself』を復刻してほしいのだ。安直なシングル・コレクションだったら、そういうのって端折られるからね。

4. 背中からI Love You
 この時期は後藤次利がお気に入りだったのか、また登場。シャッフル・ビートで歌う秀樹は、なんか尾崎豊みたい。ほどよい歌謡テイストとパーティ・ソウルのアレンジは相性がいいんだけど、オリコン最高30位。もうちょっと売れてもよかったはずなんだけどな。
 前のめりなアップテンポ・ナンバーに森田由美は馴染まなかったのか、当時、チェッカーズで上り調子だった売野雅勇を起用しており、このキャスティングは正解だったと思う。時代を超えたサウンドとは言い難いけど、少なくとも80年代の享楽感を味わうには程よいトラック。

5. パシフィック
 「背中からI Love You」のB面で、作詞・作曲とも同じコンビでのトラック。一転してリゾート・テイストなバラードで、タイプは全然違うけど、これも味わい深い。
 こういった80年代LAサウンドも守備範囲だったのが当時の秀樹の特質であり、歌謡曲畑では異色の取り組みだったと言える。先入観抜きで聴けば上質のシティ・ポップなんだけど、彼の試みを受け入れる環境がなかったのが悔やまれる。

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6. Winter Blue
 47枚目のシングル「Do You Know」のB面収録曲。なんと作曲は秀樹本人。
 A面がオールディーズのリメイクだけど、普通なら裏表逆なんじゃね?って思ってしまうのだけど、何か思うところでもあったのだろうか?多くのアーティストがカバーしてきた「Do You Know」、確かにそこそこ知名度はあるけど、正直、地味なバラードだし、「秀樹初の自作曲シングル」って名目でA面リリースすれば、そこそこ話題にもなったはずだけど。
 ただ、実際に聴いてみると、際立った特徴も見当たらない、いわば置きにいったようなポップ・バラ―ドなので、その辺で秀樹が遠慮しちゃったのかもしれない。

7. Do You Know
 で、こっちがA面。「そこそこ知名度がある」ってさっき書いちゃったけど、実は秀樹ヴァージョンを聴くまで知らない曲だった。尾崎紀世彦がカバーしてヒットしたらしいけど、さすがに彼までは俺、フォローしてない。
 もともとは、オリジナル・アルバム『GENTLE・A MAN』の先行シングルとしてリリースされたこの曲、オリコン最高30位と地味なアクションだった。イヤいい曲ではあるんだけど、でももっといい曲があるんだよ、このアルバム。
 それについては以前書いてるので、どうぞこちらで。




8. ギャランドゥ
 言わずと知れた秀樹80年代最大のヒット曲。オリコンは最高14位だったけど、もんたよしのりによるファンク・テイストを交えた軽快な歌謡ロックは、唯一無二の存在感をアピールし、そして「ギャランドゥ」という隠微な代名詞の普及にも大きく貢献した。
 ちなみにギャランドゥ、語感とフレーズが一致しただけで何の意味も由来もないらしいけど、それが何でかあんな俗語に発展してしまったのか。いろいろな説が流布しているけど、考現学・現代風俗の考証としては、興味深い題材ではある。
 秀樹自身のことを言えば、ちょうど芸映から独立後、初のシングルであり、何が何でもヒットさせる必要があった。あったのだけど、変に時代におもねったり媚びたりするのではなく、あくまで自分のやりたい音楽にこだわったことが、結果的に大きな成功につながったと言える。
 正直、アーティスト・パワーとしてはピークを過ぎていたもんたに楽曲を依頼するのはリスキーだったはずだけど、彼もまた、秀樹の心意気に打たれて、一世一代の名曲を書き下ろすことができた、と解釈すべきだろう。強烈なパーソナリティを持つ2人のコラボレーションが化学反応を作り出し、類似例のない楽曲が生まれた。
 確かにこんな曲、後にも先にも似た例がない。

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9. ナイトゲーム
 去年、アナログ再発で大いに盛り上がった、秀樹45枚目のシングル。オリジナルは、80年代、アルカトラスやマイケル・シェンカー・グループで名を馳せたグラハム・ボネットによるもので、ヘヴィメタはとんと明るくない俺でも知ってた有名曲。といっても洋楽ファンだけだけど。
 オリジナルはベテラン前田憲男による、ブラスも入れた歌謡ロック・アレンジだけど、2020年ヴァージョンは未発表ヴォーカルに加え、バック・トラックは日本のメタルバンド:アンセムが担当、さらにオリジネイターのボネット本人がコーラス参加という、めちゃめちゃ濃い豪華仕様。でも、初回分は完売で、気軽に聴ける手段がもうないんだよな。
 『Myself』復刻時に追加トラックで収録されるのか、はたまた別枠で準備中なのか。その辺も今のところ不透明なんだよな。まぁ期待しよう。

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10. Love・Together
 『GENTLE・A MAN』収録曲より。珍しく女性とのデュエット曲で、歌うはチバチャカこと鈴木晶子。この時期のレコーディングやライブでの常連メンバーなので、気心知れて息も合っている。
 歌謡界のベテランとして、これまでもデュエットのオファーはあったはずだし、また、秀樹ならもっとネーム・バリューのある歌手とのコラボも可能だったはずなのだけど、敢えてツアー・メンバーとのデュエットを選んでいるところから、楽曲との相性やクオリティを優先していることが窺える。ヒット性を考慮するならあり得ない選択なんだけど、そのこだわり具合が秀樹たる所以なんだろうな。

11. 陽炎物語
 「ナイトゲーム」のB面収録曲。ロック調の楽曲で抜擢されるのは後藤次利と決まっており、こちらもヘヴィ・ロックのテイストで、しかもバラード。こうやって書いちゃうと食い合わせ悪そうだけど、そこを強引にまとめてしまうのが、80年代ヒットメイカーだった後藤の力技。
 和のテイスト漂う森雪之丞の歌詞は、正直、サウンドとの相性はイマイチなんだけど、そんな逆境をさらに強引にまとめてしまう秀樹のヴォーカルの力。そう考えると、秀樹がすごく頑張っている作品と言える。

12. ロマンス - 禁じられた遊び 
 ラストは「ギャランドゥ」のB面収録曲。なんかこの曲だけ、異常に古く際。70年代と錯覚してしまうような、それでいてあからさまなオーケストラ・ヒットがアクセントで入っていたり、なんか「ヤングマン」のパロディみたいなアレンジがあったりして。
 って思いながらクレジットを見ると作詞作曲にJ.lglesiasの名が。フリオ・イグレシアスだ。この頃は世界を股にかけたディナー歌手として、また各国に多くの愛人を持つジゴロとして女ったらしとして、楽曲よりもそういったゴシップ関連の方が有名だった、あのフリオ・イグレシアス。
 彼の肩を持つわけじゃないけど、なんでこんな変な人生応援歌みたいなアレンジにしちゃったんだろう。ていうか、「ギャランドゥ」に見合う楽曲、他になかったのか。
 さらにさらに、何もこのコンピレーションに入れる必要があったのか。それなら『GENTLE・A MAN』からもう一曲くらい入れてくれよ、と言いたい。






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北海道の中途半端な田舎に住むアラフィフ男。不定期で音楽ブログ『俺の好きなアルバムたち』更新中。今年は久しぶりに古本屋めぐりにハマってるところ。
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