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#歌謡曲

ヒデキのシティポップ期音源をまとめて聴くなら、このアルバム。 - 西城秀樹 『Private Lovers』


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 これまでリリースされたアルバムを可能な限り、発売当時の仕様で再現した紙ジャケ復刻プロジェクトが続いている西城秀樹。その対象はスタジオ録音作品だけではなく、数々のライブアルバムやコンピレーションまでをも対象としており、生前よりニッチにディープにもかかわらず、着実な売り上げを記録している。
 没後も新たなファンを獲得し続けてはいるのだけど、新たなアイテムを期待できない状況ゆえ、各メーカーとも膨大なアーカイブの整理・発掘が進行している。TwitterのTLをのぞくと、往年のファン有志によるメモラビリアがほぼ毎日、しかも大量にアップされており、その勢いは現役アイドルとも引けを取らない。
 キャリア末期は病魔に侵され、満足な活動ができずにいたけど、それも含めてレジェンド化が進んでおり、おそらく生前より情報の絶対数も密度も濃くなっている。プレスリーやマイケルみたいだよな。
 日本で同じスタンスのアーティストといえば、思い当たるのが尾崎豊やhideあたりで、彼らも夭折後はデビュー前の音源やら未発表テイクが乱発されたけど、活動期間も短かったため、お蔵出しといっても僅かなものだった。なので、最近は目新しいリリースもない。
 それに比べるとヒデキ、ザッツ芸能界のど真ん中で長く活動していたこともあって、手つかずの素材はまだ膨大に眠っている。音源もそうだけど、特に映像関係は歌番組中心に発掘が進んでいる。この方面は権利関係がいろいろめんどくさいため、法務面・実務面で障害も多い。なので、急かさず気長に待とう。
 昨年から徐々に公開イベントも増えてきて、今年もフィルムコンサートが全国各地で催されている。<



 -2022年に開催された画面のヒデキと生のバンドメンバーが熱い情熱で繰り広げるライブコンサート『THE 50』を映像化。
 いわゆるアテレコなのだけど、それでもファンだったら観に行っちゃうんだろうな。限られた条件下で最大限の臨場感を引き出すには、ベターな手法なんじゃないかと。一時、海外でロイ・オービソンやエイミー・ワインハウスの3D映像使ったコンサートがニュースになったけど、まだやってるのかな。

 テレビの懐メロ特集ではヒデキ、ほぼ高確率で「ヤングマン」や「ローラ」の映像がオンエアされている。そういえば、「走れ正直者」を歌ってる映像は見たことない。せいぜい「ブーメラン・ストリート」くらいかな、他にピックアップされるのって。
 代表曲以外はほぼ取り上げられることもなく、かなり偏ったフィーチャーのされ方ではあるけれど、同年代の歌手と比較すれば、若い世代にもそこそこ知られているはずだし、そういう意味で言えばヒデキ、恵まれている方だとは思う。彼以降にデビューした70年代の男性アイドルたちの多くは、曲はおろか、存在すら埋もれてる現状だし。
 単純にヒットシングルだけに絞っても、大して手間をかけることなく「ベスト選曲」になってしまうため、レコード会社的に「安定したコンテンツ」として、西城秀樹は重宝されていた。ただそのため、ほぼ変わり映えのしないベストアルバムが乱発されたことによって、「情熱的なシンガー」という一面的な評価しかされて来なかったのも、また事実である。
 前にも書いたけど、キャリア通して数々の洋楽カバーをレコーディングしてきた先駆者であるし、特に80年代のスタジオアルバム群はどれも質が高く、現在のシティポップの文脈で語られるべきクオリティなのだ。隠れ名曲や名演は数々あるのだけれど、その辺の再評価はまだ追いついていない。
 90年代に入ったあたりから、それまであまり顧みられず、まともに批評されることがなかった、70〜80年代アイドルのリイッシューが一瞬盛り上がった。この頃になると、洋邦問わずジャズ/ロック/ポップス系はあらかたCD化されてしまっていたため、新たな鉱脈として注目された。
 当初は有名どころの安直なヒット曲集が中心で、それはそれで安定した人気を保っていたのだけど、どんどん掘り下げてゆく日本人の性なのか、各メーカーとも次第にディープな企画を売りにするようになってゆく。シングル3枚程度で引退したB級女性アイドルや、セクシー女優のアイドル時代の音源を集めたコンピなどなど。
 本人的には黒歴史扱いのアイテムが、そこそこ人気を博していた。P-VINEが熱心だったよなこのジャンル。多分、その筋のマニアがディレクターだったんじゃないかと思われる。
 ディレクター陣の思い入れや熱量に左右されるけど、紙ジャケの細かな再現度や重箱の隅つついたようなボーナストラックなど、女性アイドルの方がクロノジカルかつマニアックな傾向にある―。って言い切るのは偏見かもしれないけど、当時の担当ディレクターの多くが男性であることから、まぁ趣味と実益と公私混同がごっちゃになったんじゃないかと。
 もう何回もリイッシューされ尽くされたキャンディーズや岩崎宏美なんて、近年では公式発表曲だけじゃなく、CM用のショートヴァージョンからラジオ番組のサウンドロゴまで、思い当たる限りの音源を収受選択せず、とにかくかき集めて収録している。どこまでニーズがあるかどうかは別として、こうして形にすることによって、ディープなマニアにとっては貴重な研究資料になる。
 海外ではすでにひとつの学問として成立しているディランやビートルズだって、当時は単なる流行り物でしかなかったわけだし。

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 ヒデキのリイッシュー事情を追ってみると、デビュー20周年を迎えた90年代に入ってから、アニバーサリー的なボックスセットが発売されている。この時期はもっぱらテレビ司会などタレント的な活動が多く、歌手としてはシングル中心、まとまったアルバム作品は少ないのだけど、同時期にリリースされたトリビュートアルバムでは、THE HIGH-LOWSを始め、ソフィアやGACKT、筋少やダイアモンド☆ユカイまで、中堅どころから当時の旬のアーティストまで、錚々たるメンツが参加している。
 テレビで歌う姿を見ることは少なくなったけど、パッショナブルなヴォーカルスタイルは全盛期から衰えを見せず、河村隆一をはじめビジュアル系からのリスペクトもハンパなかった。第一線とまではいかないけど、懐メロでもない、ファンからも同業者からも一定の敬意を持たれていたのが、この時期のヒデキだったと言える。
 ただ90年代のCDバブル期、全体売り上げにおける歌謡曲のシェアは縮小の一途、ロック/ポップス系のような丁寧なリイッシューは、費用対効果が見込めなかった面も否定できない。時系列に沿ったオリジナル復刻は手間がかかるので、正直、大して手をかけなくてもベストがそこそこ売れてしまうヒデキは、まとめ売りのボックスセット、ボリュームレベルをちょっと上げただけのリマスター復刻、しかも代表作を抜粋してのラインナップで済まされている。
 「現役バリバリじゃないんだから、この程度で十分だろ」臭が漂うリイッシューは、厳しい言い方をするとマーケティングの読み違え、または怠慢だったとも取れる。はたまたレコード会社、女性アイドルじゃなかったため、テンション上がらなかったか。
 それからさらに30年近くを経て、丁寧に編纂されたCD/DVDはもちろんのこと、フィルムコンサートから派生したメモリアルグッズの売れ行きも好調らしい。リアタイで追ってきたファンはおそらく50〜60代、子育ても終えて可処分所得に余裕を持ったユーザーも多いため、形の残るメディアでの販売スタイルはニーズに適っている。
 TVの懐メロ番組や特番が入り口的な役割を果たし、全盛期を知らない若い世代にも知られてはいるのだけど、そこから先、もっと深く知りたいとなると手軽な手段がないのが、今後の課題ではある。CDプレイヤーを持ってない世代にとって、ブルースペックだ高音質だというのは訴求力が薄く、行き着くところは非合法のYouTube動画しか選択肢がないのが現状だ。
 いまのところCD復刻は、第5弾まで順調に進んでいる。こういう長期プロジェクトって、最初にドカンと盛り上がって徐々にフェードアウトして、いつの間に企画自体がなくなっちゃうことも多いのだけど、堅調な売り上げに支えられて、どうやらこのまま完遂しそうである。
 可能な限りオリジナルの意匠を引き継ぐことで、後世の研究資料としても充分な価値はあるのだけど、ライトなビギナーが即購入するには、ちょっとハードルが高い。もっと気軽に聴ける環境整備が必要なのだ。
 アーティストへの配分還元比率など、まだまだ問題の残るサブスク配信だけど、広く浅く行き渡らせるためには、有効な手段ではある。せっかくのデジタルリマスター素材を最大活用した方が、さらにいろいろ展開できると思うのだけど。

 2023年5月時点での西城秀樹のサブスク配信事情を調べてみると、代表的なAmazonもAppleも共通してオリジナルアルバムはなく、しかも最もニーズの高い70~80年代の楽曲がゴッソリ抜けている。90年代以降を中心に全32曲、うちカラオケが7曲・別ヴァージョン4曲を含んでいるため、実質はたった21曲。Spotifyなんてほんとやる気ないのか、たった5曲しかねぇ。
 せっかくなのでダウンロード系も調べてみると、レコチョクはなぜかデビューアルバム『ワイルドな17才』が入ってる。他に70年代・80年代のシングルA面コレクションが入ってる分、一歩抜きんでているけど、でもそれだけ。iTunesとmoraは、サブスクと大差なし。
 年季の入ったファンならレコードやCDで持ってるだろうけど、若年層にとって試し聴きができないのは、ちょっと親切心が足りなすぎる。古参ユーザーの中にも、レコードもプレーヤーもずいぶん昔に処分しちゃったから、スマホで手軽に聴いてみたい人もいるだろうし。

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 現在、ヒデキの音源・映像関連の販売はほぼソニーが担っているのだけど、どうにも腰が重い気がするのは、俺だけではないはず。賛否両論飛び交うサブスクに対して、明確なポリシーを表明している山下達郎や、権利関係が複雑そうなブルハやチャゲアスと比べれば、ハードルはそう高くないはずなのだけど、いまのところ解禁される話も聞かない。
 ちなみに同じ御三家括りで見てみると、
(郷ひろみ)
 シングル代表曲はもちろんのこと、デビューから最新シングルまで、ほぼすべての音源が配信済み。2021年、デビュー50周年を機に、全555曲を配信・ダウンロード共に解禁している。とにかく「5」にこだわるのが彼らしい。
(野口五郎)
 Amazonではデビュー曲「博多みれん」から今までの全シングル、アルバムは「シングルコレクション」のみ。iTunesとSpotifyはそれに加え、近年のカバー/セルフカバーアルバムが6枚。
 ロックポップス指向が強い前者2人と比べて歌謡曲寄りのイメージが強いけど、昨年の桑田佳祐らとのコラボで片鱗を見せていたように、実はミュージシャン気質の強い人である。中学時代から年齢詐称して、キャバレーのハコバンでギターの腕を磨いていたくらいだから、「自称」ロック程度のレベルでは、足元にも及ばないポテンシャルを秘めている。
 人気絶頂の勢いで、トニー・レヴィンやワディ・ワクテルをバックに従えたライブ実況盤や、ラリー・カールトンをリスペクトしたギターインストアルバムなど、洋楽ファンにも充分アピールできるアイテムが、実はまだ数多く眠っている。単なるオヤジギャグの人ではないのだ。

 決算期に無作為に適当にまとめたディレクター主導のベストはともかく、このアルバムのようにシティポップ・テイストで統一するため、一部新録も追加したコンセプチュアルなベストは、今後再発されるのだろうか。ビートルズも初CD化のおり、世界各国の独自ベストや、入門編の役割を果たしていた『Oldies』が廃盤になった。今回のプロジェクトも、包括的なオールタイムベスト以外は、そんな扱いになるのだろうか。
 まだアイドル以降のキャリア選択肢が少なかった時代、20代でポップス歌手を続けてゆくのは、今よりずっとハードルが高かった。ヒデキも独立以降、基本路線を歌手に据えたはいいけど、まずは事務所経営を軌道に乗せるため、来た仕事はなんでも拒まず受けざるを得なかった。
 シックで青臭さの抜けたヴォーカルスタイルと落ち着いたサウンドで統一された『Private Lovers』は、同時代のニューミュージックの作品と比べても遜色なく、アルバムアーティストとして成立している。ただ、この時代のヒデキの音源は、なぜか日本では正当に評価されていないのが惜しまれる。
 っていうか、広く行き渡ってないから、そもそも知られてないんだよ。もうちょっと考えようよ関係者各位殿。




1. ラストシーン

 76年にリリースされたシングルのリメイクヴァージョン。オリジナルはストリングスと女性コーラスによるムーディなアレンジで、この86年ヴァージョンもシンセの柔らかな響きにコンバートしただけで、基本構造は変わっていない。
 別離の迫ったカップルの対話を、松本隆は印象的なワンカットを時系列に沿って「木綿のハンカチーフ」を書いた。ユーザーそれぞれ、思い思いの映像を喚起させることで、ステレオタイプな歌謡曲との差別化を図ることができた。
 もともと作家志望でもあった阿久悠の書く歌詞は、すでに確固たるひとつの世界観で染められている。そのまま歌詞カードを読むだけで、すでにひとつのドラマとして成立している。
 人それぞれ解釈があるだろうけど、どんなテーマにおいても強いパーソナリティを放ち、「昭和」という時代通して痕跡を残してきた彼の刻む言葉は、とても重い。ほんと、「書く」というより「刻む」という表現が似合う人だ。

 にぎやかな 街の通りの中で 夢をみたように ぼくは泣いていた

 強い物語を求める昭和の大衆は、阿久悠の紡ぐ言葉を求め、幅広い支持を得た。流行り歌でありながら、強い筆圧を感じられる言葉と刹那に流されない物語、そして、それに応える歌手とのせめぎ合い。
 真剣に向き合わないと飲み込まれてしまう。書く方も演じる方も、そして聴く方も真面目だった、そんな時代。
 この歌を託された当時、まだ二十歳たらずだったヒデキの歌を聴いてみる。ハデな大サビもない曲構成なので、肩に入る力を無理に抑え込んでいる感が伝わってくる。いくら大人びていたとはいえ、そんなもんだ。
 それから10年、経験を積み視野を広げたことで、バラードへの向き合い方が明らかに変わっている。肩の力を抜いた穏やかな歌声からは、相手を思いやる包容力が漂っている。

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2. 青になれ

 アルバム用に書き下ろされた新曲。シティポップなミディアムバラードからは、稲垣潤一テイストを感じさせる。歌謡曲テイストを含むメロディは程よいウェット感があって、30代以上には充分アピールできたんじゃなかろうか。
 2時間サスペンスドラマや刑事ドラマの主題歌としてシングル切れば、スマッシュヒットは狙えたんだろうけど、まだそこまでの営業力がなかったか個人事務所ゆえ。

3. You Are the Love of My Life

 初出は前年にリリースされた洋楽カバーアルバム『Strangers in the Night』。ジャズの帝王マイルス・デイヴィスのレコーディングに参加するくらいガチのジャズギタリストだったにもかかわらず、70年代に入ってからフュージョンに転身、80年代はもっぱらムーディーなブラコン職人として名を馳せていたジョージ・ベンソンのカバー。当時はチャラくて甘ったるいバラードと下に見てたけど、いまは一周回って大好物のR&B/クワイエットストームナンバー。
 クレジットがないのでデュエットの相手は不明だけど、多分、当時のレコーディングやライブでの常連メンバーだった、チバチャカこと鈴木晶子と思われる。同じく洋楽カバーに力を入れていた岩崎宏美とコラボしていれば、もうちょっと話題になったんじゃないかと勝手に思ってしまうけど、そういう機会はなかったのかね。「ミュージックフェア」あたりで共演済みかもしれないけど。

4. 君を三日間待っていた

 当時も美麗な王子様キャラではあったけど、まだネタっぽさがなくアーティスト臭が漂っていた、アルフィー高見沢による書き下ろし新曲。まだ研ナオコのバックバンドだった時代から親交があったらしく、ちょっと意外。まぁタカミーもビジュアル系だし元祖の部類に入るし、接点あっても不思議じゃないか。
 TOTOみたいなピアノバラードなアレンジは難波弘之。ストリングスを絡めたゴージャスなアレンジに対し、ややセンチでスケール感の小さい歌詞世界とのギャップを感じてしまう。もうちょっとポップなアレンジで良かったんじゃね?っていうのは大きなお世話か。

5. 悲しみのStill

 1983年にリリースされた46枚目のシングル。当時、スタジオワークでノリに乗っていた後藤次利による作曲・アレンジの歌謡ロック。
 ソリッドなロックビートとジャジーなフリューゲルホーン、要所要所で効果的なシンセワークなど、当時の最先端をバランスよく詰め込んだサウンドなのだけど、無難な歌謡ロックで終わってしまっているのが惜しい。うまく言えないけど、引っかかりが欲しい。
 シンガーとして脂の乗っている時期の作品なのだけど、いわゆる売れ線を狙った曲調がフィットしづらくなっているのがわかる。5年前くらいだったら、このコンセプトで充分通用していたと思う。

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6. レイクサイド

 なので、変にチャートを意識した、テレビ映えを意識した派手なアレンジより、むしろこういったしっとり歌い上げる楽曲の方が合っている。従来の激しくワイルドなヒデキからアーティスト西城秀樹へ移行する過渡期のバラード。
 前述バラード「You Are the Love of My Life」とアプローチ自体は同じなのだけど、ここでは盟友芳野藤丸がアレンジャーとして全面参加しているため、ヴォーカルの引き立て方は絶妙。クドくなる寸前でサッと引くギターソロを聴くと、良き理解者として接してきた彼のスタンスが見えてくる。

7. 抱きしめてジルバ

 オリコン最高18位のスマッシュヒットを記録した、ご存知ワム!「ケアレス・ウィスパー」の日本語カバー。以前『Myself』のレビューでも書いてるけど、同時期に郷ひろみも同曲をカバー、こちらは最高20位と僅差でヒデキに軍配が上がっている。まぁ大した差ではないんだけど。
 そこそこ意訳も入ってはいるけど、比較的オリジナルに忠実な日本語詞は、歌謡曲とも共通点の多いシンプルなハートブレイクストーリーのため、日本人も感情移入しやすい。蒼さの抜けた年齢になってこそ、リアルな情感を込めて歌えるテーマなので、ある意味、ベストなタイミングで巡り会えたんじゃないかと。




8. パシフィック

 初出は84年、48枚目のシングル「背中からI Love You」のB面としてリリース。タイトルから連想するように、穏やかなリゾート感あふれるAORバラードとして仕上げられている。
 山下達郎というよりはむしろ村田一人っぽい、グルーヴ感薄めなアンサンブルが、強いインパクトのヒデキのヴォーカルと好対照なコントラストを作り出している。手がけたのは後藤次利。やればできるじゃん、こういうのも。

9. うたかたのリッツ

 アルバムリリースの時点で最新シングルだった「約束の旅〜帰港〜」のB面。この時期のヒデキのシングルは、歌謡曲でよく見られるB面感、取って付け足した感が薄く、A面にも匹敵するクオリティの楽曲が多い。ひいき目抜きにして、ほんとそう思う。
 異国情緒満載の歌詞世界はちょっとマイナーで、マスへの訴求には大きく欠けるけど、サウンドやメロディはしっかり作られている。おそらくビギナーには地味に聴こえてしまうだろうけど、ヒット曲一巡してから隠れ名曲としてだったら、アリかもしれない。

10. 約束の旅〜帰港〜

 で、こちらがA面。もともとは84年リリース『GENTLE・A MAN』収録曲のリメイク。朝ドラ主題歌に起用されたため、再度アレンジも練り直しヴォーカルも録り直されているのだけど、近年の朝ドラ感はまったくない、むしろ日9日曜劇場のエンディングの方がふさわしい、そんな壮大な直球バラード。
 書き下ろしの新曲じゃなくて既存曲を大きなドラマで使うのは、現在でも異例であり、NHKが気に入ったのかヒデキの強い意向だったのか、そっちが少し気になる。いい曲であるのは間違いないんだけど、朝8時台に合ってるかといえば、ちょっと微妙。

11. ポートレイト

 再び『GENTLE・A MAN』より。歌謡曲のフィールドを超えて、「西城秀樹」というシンガーを自己分析、最良の楽曲とアンサンブル、そして歌詞との有機的結合を目指したアルバムとして、また俺が彼に再注目するきっかけとなったアルバムのラストを飾るバラード。
 西城秀樹という、日本を代表するシンガーの成長過程を辿ってゆくと、いくつかのターニングポイントがあるのだけど、サウンドアプローチとヴォーカルスタイルの幸福な邂逅が見られるのが、このアルバムだった、と俺的に思ってる。安易なシンクラヴィアでは太刀打ちできない、精緻なアンサンブルと大胆不敵な歌声。
 硬軟取り混ぜた歌声の妙は、天性の感覚と地道に積み上げられたキャリアに基づいている。こういった歌を歌える経験と環境を手に入れるため、彼は努力を惜しまなかった。

12. 夢の囁き
 86年のアルバム『FROM TOKYO』収録のジャジーなバラード。ここまで「生楽器メイン+フワッと味つけ程度のシンセ」主体だったサウンドに比べ、ストリングスが大きくフィーチャーされており、ちょっと重厚感がある。
 この時期のエモーショナルなヴォーカルを聴くことができる貴重なトラックという見方もできるけど、せっかくなら書き下ろしでミディアムバラード入れた方が収まり良かったんじゃね?と勝手に思ってしまう。むしろこのコンセプトで曲数増やしてミニアルバム作った方が、また別の魅力が伝わったんじゃないか、と。
 CD復刻一巡したら、新たな視点で、こういったテイストの曲集めたコンピ作るのもアリかもしれない。普通にバラードベストだったら、ニーズはあると思う。










80年代の岩崎宏美をちゃんと聴いてみないか。 - 岩崎宏美 『戯夜曼』


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  1985年リリース15枚目のオリジナルアルバム。オリコン最高13位は決して高い数字ではないけど、総合ランキングとは別に、この時代は別枠でCDランキングが設けられており、そっちでは最高5位。まだレコード生産枚数が上回っていた時代なので、CD出荷数自体が少ないのだけど、そんな中、歌謡曲としては結構高めのランクインとなっている。
 世界初のCDプレイヤー/ソフトが発売されたのが82年10月だったのだけど、しばらくはオーオタ御用達のレアガジェットの域を出ず、10万・20万が当たり前の殿様商売だった。北海道の中途半端な田舎の中学生だった俺の周りにも、持っているのは誰もいなかった。
 それからしばらくして84年、ソニーが手のひらサイズの普及型プレイヤーD-50を5万円切る価格で発売し、同業他社も右ならえで廉価版プレイヤーを販売し始めたあたりから、ようやく普及し始めた。ソフトはまだ高かったけどね。
 プレイヤーは徐々に普及し始めたけど、一枚3,200〜3,800円もするソフトを若年層が気軽に何枚も買えるはずもなく、この時代でもメインユーザーはジャズやクラシックファンが中心だった。レコード店もまた、売り場の2割程度を占めるに過ぎないCDコーナーに、ニーズの少ないアイドルや歌謡曲を並べることに積極的ではなかった。
 すでにアイドルという括りから脱皮していた岩崎宏美のファン層は、おおよそ彼女と同世代かちょっと上、20〜30代中心だったと考えられる。就職して可処分所得が多めの年代が多かったことから、CDセールスが好調だったことは想像できる。

 1985年の歌謡界において、岩崎宏美はトップグループに属しており、お茶の間の認知度も高い人気歌手だった。アイドルというにはちょっと苦しいけど、卓越した歌唱力と親しみやすいキャラクターによって、安定した人気を保っていた。
 80年代に入ってからは、メガヒットは少なくなったけど、当時のアイドルの通常ペースである3ヶ月ごとのシングルリリースは続いていた。ベスト10上位に入る確率は減ったけど、ランキング形式以外の歌番組では、顔を見る機会が多かった。
 80年代前半くらいまでの歌謡界において、紅白出場かレコ大大賞を獲ることが、いわゆる「上がり」とされていた。前者の究極的な理想は大トリなのだけど、重鎮から大御所に加え、何で出てるのか知らんけど芸歴が長かったり、事務所のパワーバランスによるゴリ押しがいたりで、中堅クラスでそこに食い込むのは、現実的には難しい。なので、出場し続けることが目的となる。
 81年「すみれ色の涙」で最優秀歌唱賞を受賞し、順当にいけば次期大賞候補だった岩崎宏美、当時の歌謡界のセオリーとルーティン、または各事務所間の持ちつ持たれつで、翌82年の「聖母たちのララバイ」で大賞獲得していたはずなのだけど、この年は細川たかし「北酒場」に軍配が上がった。すでにこの曲で、日本歌謡大賞と有線大賞を受賞していたこともあって、おそらくトップの間で何らかの調整が行なわれた、っていうのは穿ち過ぎか。イヤ、あり得るな。

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 80年代に入ってから女性アイドルの世代交代が急速に進み、特にこの82年はいまも語り継がれるように、新人女性アイドルが大豊作だった。新陳代謝のペースが爆上がりして、70年代デビュー組をプッシュする動きはフェードアウトしてゆく。
 まだまだ男尊女卑がまかり通っていた時代、「女性の年齢=クリスマスケーキ」という例えがあった。「24まではみんな競って買い求めるけど、25になると売れ残ってしまう」。今だったら炎上間違いなしだけど、アラフィフ世代くらいまでなら、聞いたことあると思う。
 女性アイドルはさらに賞味期限が短く、どれだけ結果を残していようとも、大抵3年程度で肩を叩かれた。芸能事務所やレコード会社、他メディアもおおよそそんな認識だったし、本人たちも当たり前のように受け入れていた。
 そこそこヒット曲があれば「ミュージックフェア」には出られるけど、ヤングアイドル中心の「ヤンヤン歌うスタジオ」からは、声がかからなくなる。フレッシュで初々しい82年組と同列に扱うわけにもいかないし、周囲もちょっとイジりづらいし。
 なので、多くの女性アイドルは3年を機に進退を迫られた。進学するか結婚するかで芸能界を引退、事務所に残る場合は、ドラマに出るかそれともヌードになるか。
 今だったら、歌わなくてもテレビに出られるバラエティという場所が用意されているけど、当時は需要が少なかったし、何より「歌を捨てた」という格落ち感が強かった。逆に言えば、残る人はそれだけの覚悟があったということなのだけど。

 デビュー当初から歌唱力を売りにし、「キュートでファニーで歌は二の次」な従来アイドルの要素を排除してきた岩崎宏美もまた、その例外ではなかった。20代前半は無理に演出しなくても、ほのかな蒼さとあどけなさが親しみやすさを醸し出していたのだけれど、中盤に差しかかると、それも薄れてゆく。
 艶やかで長い黒髪と整った顔立ちは、「アイドル」としては充分だけど、「女性歌手」としては物足りない。「アイドル」というエクスキューズを抜きにした「女性歌手」へステップアップするためには、違う要素が必要なのだ。
 それが人によってはセクシャリティであり、また、自ら作詞作曲するアーティストになったり。手っ取り早く日銭を稼ぐため、演歌に転向するルートも、あるにはある。
 「聖母たちのララバイ」が大きなヒットになったことで、歌謡界における岩崎宏美のポジションは、取り敢えず落ち着いたように見えた。大きな賞も獲得できたしアイドル歌手からの脱皮と言うにふさわしい代表曲ができたことで、とりあえずはひと安心。
 変に迷走して、畑違いの路線に走ったりせず、王道から逸れないまま、「アイドル→女性歌手」への移行も、自然な形で済んだ。そりゃ裏では賞レース絡みで、密約やら談合やらの類はあったはずだけど、表面的にはソフトランディングできた。
 あくまで事務所サイドとしては。
 周囲の大人たちの思惑としては、このまま「聖母たちのララバイ」路線の踏襲と深化を狙っていたのだと思う。その後、続けて「火曜サスペンス劇場」主題歌に起用された「家路」(4位)も「橋」(31位)も、テーマや曲調は似たようなテイストで統一されている。
 さすがに「聖母~」ほどの大ヒットには及ばないにしても、同年代女性歌手と比べると格段のセールスだし、どれも崇高なテーマでチャラついてない楽曲なので、箔もつく。この路線だったら年齢を重ねても、紅白出場は安泰だろうし。

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 周囲の大人の言うことに疑問を持たず、まっすぐなレーンを歩んでいた優等生の岩崎宏美も、デビューから10年も経つと、いろいろ思い悩むようになる。普通の社会人だって、中堅クラスになると、先行きを考える。当然っちゃ当然のことだ。
 このまま歌手であり続けることに不満はなかったけど、なぜ歌うのか・何を歌うべきなのか。それを考えるようになった。
 最初はただ、歌えるだけで幸せだった。自分のために作られた楽曲を自分なりに解釈し、難しい旋律を歌いこなす。スポットライトとは縁のなかった10代の少女にとって、それは充分身に余る光栄だった。
 歌番組への露出が、お茶の間の知名度に直結した時代、3ヶ月スパンでリリースされるシングルのセールスは、すなわち歌謡界でのランク付けに大きく影響した。なので、レコード会社はあの手この手を使って売れっ子ライターを押さえ、リスクヘッジに努めた。
 多くの大人たちの思惑が絡むシングル選定コンペでは、営業の発言力が強く、製作サイドの意見が通ることは少なかったけど、アルバム制作ではまだ自由裁量が黙認されていた。岩崎宏美もまた、全作詞とアートディレクションを手掛けた異色コンセプトアルバム『Love Letter』や、オールLAレコーディングの『I WON'T BREAK YOUR HEART』をリリースしている。
 同時代にデビューした女性歌手の多くが路線変更を迫られたり引退したりしている中、彼女はわりと恵まれた方ではあった。大ヒットは少なくなったけど、レコーディング契約は続いているし、このままスキャンダルでも起こさない限り、歌謡界でのポジションは安泰だろう。周囲もおそらく自分自身も、そんな風に思っていたんじゃないか、と。

 1984年、岩崎宏美はデビュー時から所属していた芸映との契約を終了、個人事務所を設立する。この前年に西城秀樹が退社・独立したのに触発されたのか、販促計画が82年組の石川秀美中心にシフトしていったことに危機感を抱いたのか。




 当時の芸能週刊誌記事をアップしているブログがあり、興味深い記事がいろいろ書かれているのだけれど、「ピンクレディーみたいにはなりたくない」と書いてあったりする。心身ボロボロの状態で過密スケジュールをこなすだけの毎日、モチベーションの低下に伴うパフォーマンスの劣化、そして人気の急降下。
 プライベートな時間を削って休みなくこき使われ、挙句の果てに使い捨て。昔からある芸能界の栄枯盛衰は、誰にとっても他人ごとではなかった。後に引けない状況を避けることができるのは、最終的に自分の判断だ。
 利権やしがらみが複雑に絡み合うため、一朝一夕でまとまったものではないだろうけど、過密スケジュールや長期ビジョンの相違が、主だった独立事由だったんじゃないか、と推察できる。ほんとのところはもっと複雑なのだろうけど、主因のひとつであることは間違いない。
 近年も芸能人の独立となると、いろいろ騒がれることが多いけど、この頃の芸能界は魑魅魍魎、大手事務所からの独立は、かなりリスキーだった。よく言われる「干される」という制裁。
 当時の芸能界は独立した場合、「約2年は目立った芸能活動ができない」というしきたりがあった。おそらく所属歌手とのバッティングを避けるため、テレビの出演枠確保のためだと思うのだけど、要はペナルティみたいなもの。
 当時もおそらく、出るとこに出て訴えれば勝てる案件だったのだろうけど、金と時間ばかりかかって、むしろデメリットの方が大きい。こういう場合、あまり要求が多すぎると、事務所が故意にネガティヴな情報をリークしたりするので、立場的にはとても弱い。

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 こういった独立劇となると、環境もガラリと変わって心機一転、一からのスタートになるはずで、岩崎宏美も歌番組からしばらく遠ざかることになるのだけれど、ビクターとのレコーディング契約はそのまま続くことになった。デビュー時からのプロデューサー:飯田久彦はじめ、慣れ親しんだスタッフとの継続は、歌をメインとした活動のためには必須だった。
 これまでのスタッフが敷いた「大人の歌手」という方向性は間違っていなかったのだけど、そのベクトルが彼女の思惑とは別の方向に向き始めた。独りになってまずすべきことは、その軌道修正だった。
 刻一刻と成長し続ける岩崎宏美の歌を求める固定ファンは、そんな彼女の奮闘ぶりを控えめに後押しした。単なる歌手から脱皮して、サウンドプロデュースにも深く関わるアーティスティックな進化を見守り続けた。
 自ら納得ゆく楽曲を探し求め、気になったクリエイターには自らコンタクトを取った。従来の歌謡曲フォーマットのアレンジや歌詞テーマではなく、当時のシンガーソングライター系、今で言うシティポップ系のサウンドをモチーフとして、アルバム制作を進めていった。
 2年のブランクを経てリリースされた『戯夜曼』は、そんな彼女のこだわり、そして今後の方向性が強く打ち出された、コンセプチュアルな構成となった。全編当て字も含んだ漢字タイトルで統一され、それに伴ってビジュアルイメージも一新、トレードマークの長い黒髪は白い帽子の中にまとめられた。
 これが正しい路線なのか、まだちょっと自信はない。ないけど、今までとは違う自分であることには、自信ある。
 ちょっとおどけた感のあるジャケットからは、そんな肩の力の抜けた軽みが伝わってくる。




1. 恋孔雀(こいくじゃく)
 テレサ・テンが歌ってもしっくり馴染んでしまう、歌謡曲寄りのメロだけど、キャッチーなポイントを押さえた職人芸:大村雅朗のアレンジが秀逸。正直、松井五郎の歌詞はベタな職業作家感が拭えないのだけど、岩崎宏美のヴォーカル力によって説得力が増している。

2. 星遊劇(ほしあそび)
 この後、結婚前のアルバム『Me Too』までブレーン的な立場で関わり続ける奥慶一アレンジ、オリエンタル音階を巧みに使ったポップチューン。ニューウェイヴに目覚めた太田裕美のテイストとも共通点を感じる。あそこまでぶっ飛んでいないけど。
 
3. 唇未遂(くちびるみすい)
 リズムセクションが心地よくアンサンブルも凝っている、変にディープでどマイナーな方向へ向かっている近年のえせシティポップと比べて、段違いの高レベル。やっぱ歌がうまくないと、どうにもならない。
 タイトルが安っぽいため、つい聴き飛ばしてしまいそうだけど、テクノファンクなイントロとコーラスアレンジは絶品。多分、歌いこなすの難しかったんだろうな。
 カラオケだとアプローチがちょっと難しい曲でもある。ただメロディをなぞるだけだと、高確率で失敗する。そんな曲。

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4. 夏物語
 リヴァーヴの深いアルペジオとDX7をメインとした、浮遊感漂う緩やかなポップバラード。抒情的な晩夏を描写した歌詞の内容やアレンジからすると、もう少しヴォーカル抑えてもよかったんじゃね?と勝手に思ってしまう。歌い上げる曲調ではないのはわかっていたはずだけど、当時はこういったアプローチが精いっぱいだった、ってことだと思う。
 そりゃそうだ、この時点でまだ27歳だったんだもの。

5. 夢狩人(Version Ⅱ)
 ちょうどご乱心期真っただ中だった中島みゆきを連想してしまうのだけど、シンクロニシティ?ていうか、こういうリズム・アレンジ流行ってたんだろうな。シンセの使い方も『36.5℃』と似てるもの。
 「決心」のB面として先行リリースされたシングルヴァージョンは、ややテンポを落としたスパニッシュなアレンジだったのだけど、俺的にはシンセ・ドラムの音が心地よいアルバムの方が好み。
 歌のうまさ・表現力の豊かさという点において、中島みゆきとは相性良かったと思うのだけど、2005年:デビュー30周年記念シングル「ただ・愛のためにだけ」まで、コラボは実現しなかった。柏原芳恵とバッティングするの避けてたのかね、みゆきの方から。


6. 偽終止(ぎしゅうし)
 かなり強引な3字熟語と思っていたのだけど、ちゃんとした音楽用語だった。「終わりそうでいて終わらない、最後に盛り上がる」コード進行のことらしい。楽理は詳しくないのでよく知らんけど、曲を聴けば、「あぁそういうことね」と何となくわかる。
 お約束な流れじゃないメロディなので、そのクセ強感は好き嫌いが分かれるかもしれない。こういったギミック、俺は好きだけど。

7. 横浜嬢(よこはまモガ)
 歌詞を読むと「あぶない刑事」を彷彿させる、モダンでトレンディな世界観。ジルバやBMW、本牧バーなど、俺が10代の頃に憧れた心象風景が活写されている。敢えてヤンチャっぽくせず、素直なヴォイシングなのは正解。こういうのを下品に歌っちゃうとヤボったくなる。

8. 射麗女(しゃれいど)
 ここだけカタカナやアルファベットにしちゃうのも興覚目なのはわかるけど、でもかなり苦しい当て字。夜露死苦や愛羅武勇なんて、Z世代には通じないんだろうな。
 イージーリスニング的なストリングシンセのオープニングがちょっとチープだけど、歌に入ると80年代モダンクラシックなダンスポップチューン。もっとリズミカルに歌えばWinkみたいになるんだろうけど、そこまでダンサブルに踏み込まないのが、彼女の品の良さなのだ。


9. 決心
 カメリアダイアモンドのCM曲として広く知られた、オリエンタルなアレンジとアダルトな歌唱が話題を呼んだ、80年代を代表するヒットチューン。芸能ゴシップやキャラに頼らず、歌一本でアイドル以降の道筋を切り開いた意味において、ひとつのメルクマールとなる楽曲、って言ったら言い過ぎかもしれないけど、歌謡界からアーティスト路線へ移行する先例として、彼女の存在は大きい。

10. 風関係
 やや歌謡ロック的なテイストも漂う、ギターソロがほど良く泣いているロッカバラード。ライブでは洋楽カバーでロックっぽい曲を歌うことはあったけど、ここまでロックテイストの強い楽曲をスタジオヴァージョンで歌うことはなかったはず。
 そう考えると、これまでの岩崎宏美的イメージから最もはずれた楽曲なのかもしれない。明菜が歌ったらもっと荒れそうなので、やっぱ枠にはきちんと収める彼女の方がふさわしい。

11. 誘惑雨(さそいあめ)
 そういえばこのアルバム、ほぼ彼女の座付き作家と言っても過言ではない筒美京平は一切参加していない。していないのだけど、このラストは筒美テイストを隠さないでいる。
 いわば過去との決別として、また、独立に伴うあれやこれやで、恩師である筒美とは一旦縁遠くなってしまうのだけど、ヴォーカル技法は明らかに従来の岩崎宏美である。過去をすべて否定するのではなく、ひとつの過程として受け止め、礎としてゆく。そんな決意を窺わせる楽曲。
 心なしか、そういう意味での熱がこもっている。







80年代ジュリーの軌跡:その2 - 沢田研二 『Bad Tuning』


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  1980年明けて早々、ジュリーはニューウェーヴなテクノポップ「TOKIO」をリリースし、ヌルい歌謡界に強烈なインパクトを残した。次に何をしでかすかわからない、先の読めない俺様路線は日を追うごとに過激さを増していった。
 同世代のGS卒業組の多くが、俳優またはミュージシャン専業に流れてゆく中、彼はメインストリームにとどまり続け、それでいて、どのカテゴリにも属さないオンリーワンのポジションを確立していた。もう少し器用に、それとなくフェードアウトしていって、安定したディナー歌手路線へ行くのも可能だったはずなのに、ジュリーはいつまでも尖った姿勢を崩さなかった。ある意味、いま現在だってそうだ。
 音楽史的に1980年といえば、YMOやらシティ・ポップやらアイドル系やらが主流だったようになっているけど、実際は歌謡曲がまだまだ覇権を握っている時代だった。年間チャートを見てみると、「ダンシング・オールナイト」や「異邦人」など、ロック/ニューミュージック系のアーティストが上位にランクインしている反面、ベスト10圏内に五木ひろしや「別れても好きな人」も当たり前の顔で入っている。
 当時小学生だった俺も、普通に「与作」や「北酒場」歌えたもんな。テレビの歌謡番組が絶大な影響力を持っていた、はるか遠い昔の日常だ。
 もう2、3年経つとアイドル勢の存在感が増してきて、購買層の世代交代が爆速で進んでゆくのだけど、この時点ではまだ新旧世代が入り乱れている状況だった。さだまさしと八代亜紀とノーランズが同じベスト30位以内で入り乱れている、なんていうかもう、群雄割拠。
 そんなカオスな状況なので、実はこの時代、ジュリーだけが突出して浮いていたわけではない。いま以上に奇をてらった一発屋や企画モノが、あの手この手で目立とうと一旗あげようとしていたため、彼のキャラクターもまた普通にお茶の間に受け入れられていた。
 80年代に移ったとはいえ、当時はまだ70年代のエピローグの残り香が終わりきれずに漂っていた。歌謡曲に代表される旧態依然のメインカルチャーが鎮座してはいたけど、グロテスクななアングラ/サブカルチャーが、三面記事で紹介されることも多々あった。山海塾やスターリンも芸能ゴシップ的に、興味本位で取り上げられてたもんな。

 パラシュート背負ってカラコン入れて、本人いわく「のちにタケちゃんマンにパクられた」電飾つけたド派手なコスチュームで挑んだ「TOKIO」は、80年明けて間もないお茶の間に強烈なインパクトを残した。スーパーマンのカリカチュアとリスペクトとパロディが入り混じった糸井重里の歌詞もまた、マンガチックなキャラクター造形に一役買い、幅広いお茶の間層に充分アピールした。
 セールスにどこまで意識的だったのかは不明だけど、スターであることにはずっとこだわり続けていたジュリーゆえ、その裏付けとなるランキングや売上枚数は、常に気にかけていたと思われる。78年にレコード大賞を獲得していたことで、歌謡曲歌手としてはいわゆる「上がり」の状況ではあったけれど、アーティスト:ジュリーとしてのスタートは、80年代に入ってからとなる。
 で、80年の元旦にリリースされた「TOKIO」だけど、当然制作はその前なので、厳密には80年代の作品ではない。前年11月にこの曲を含んだ同名アルバム『TOKIO』がリリースされており、レコーディングされたのはおそらく夏頃と思われる。あんまり重箱の隅突つきたくないけど、リアルな80年代の空気感が反映されるのは、次作『Bad Tuning』以降からとなる。
 全然関係ないけど、80年代洋楽の重要アルバムには必ずランクインしているClash 『London Calling』もPink Floyd 『The Wall』も、リリース自体は79年末だったりする。ほんと関係ない余談だけど。

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 多くの芸能人の例に漏れず、この時期のジュリーも過密スケジュールの中で動いていた。ライブやレコーディング主体の音楽活動だけじゃなく、映画やテレビ出演も普通に行なっていた。
 一日にいくつもテレビ局をハシゴしたり、コンサートだって昼夜2回公演が当たり前。ちょっとした隙間に取材や打ち合わせが入り、夜もスポンサーや業界人との接待があったり、ほぼ24時間「沢田研二orジュリー」でいなければならない。
 そんな年中鉄火場状態の中でもジュリー、年にシングル3〜4枚、オリジナル・アルバムも1〜2枚、全国ツアーも年1ペースで必ず行なっている。そりゃ休みは欲しかっただろうけど、でも芸能人でトップであり続けるためには、それが当たり前の時代だったのだ。
 ちょっと気を緩めたら、すぐ先頭集団から引き離されてしまう。みんながみんな全力疾走ゆえ、足を止めるわけにはいかないのだ。
 その80年の全国ツアー日程を見ると、特に7月はとんでもないスケジューリング。1〜5日は北海道を回り、8日名古屋→9日金沢→10・11日で神戸・京都と南下して九州に下り、そこから折り返して北上、21日から4日間、大阪でファイナル。移動日以外、余裕もなく、ほぼ1ヶ月で日本縦断させられる罰ゲーム振り。
 この80年のツアーで特筆すべき点として、バックバンドの一新が挙げられる。長年行動を共にしていた井上堯之バンドは1月24日に解散し、新たに結成されたオールウェイズが後を引き継ぐこととなった。
 前身バンドPYGから、ほぼすべてのレコーディング/ライブでサポートを担っていた井上の存在は大きく、ジュリーとしても苦渋の決断だった。方向性の違いの溝は埋まらず、ほんとに険悪になる前に発展的解消することによって、八方丸く収まった。
 「過激さを増してゆくジュリーのビジュアル路線に、井上をはじめとしたメンバーたちが着いてゆけなくなった」というのが通説となっているけど、ほんとのところは、本人たちにしか知り得ないことだ。ただ、70年代ロックをベースとした井上バンドのアンサンブルが、ジュリーや制作スタッフが求めていたUKニューウェイヴ/ニュー・ロマンティック志向と噛み合わなかったことが、パートナーシップ解消の要因のひとつではある。

 時系列を整理すると、井上バンドが1月末に解散が決まっており、その前からオールウェイズ結成の段取りは進んでいた。バンドの人選は、80年代に向けてイメチェンを図りたいジュリー自身と、プロデューサー加瀬邦彦の意向が大きく働いている。
 泉谷しげるのバックを務めていた吉田健をバンマスに据え、さらに制作チームの意向を汲んで、柴山和彦・西平彰が召集されている。これがのちのエキゾティックスの母体となる。
 引継ぎ作業は極力スムーズに行なわれたはずだけど、相変わらずジュリーは多忙だし、いくら吉田健周辺で揃えたとはいえ、そうすぐに打ち解けるはずもない。事前に決まっていた4月からの全国ツアーで、オールウェイズが初お披露目となったのだけど、さすがにストレスでやられちゃったのかジュリー、開始間もなく胃潰瘍を患い、1ヶ月ほど入院療養する事態となってしまう。
 そこまで気心知れず、音合わせやリハーサルも充分行なえないまま、ほぼぶっつけ本番で鍛えていくしかなかったのだけど、そんな思惑通り行くはずもない。仲間うちのライブハウス程度ならともかく、ジュリーのハコは主に1000〜2000人のホール・クラスで、不慣れなメンバーが緊張しまくるのも無理はない。さらにPA設備も満足にない時代、ファンのラウドな嬌声は自分のプレイする音も聴き取れず、いくらバカテクでも呼吸を合わせるのは至難の業だ。
 ニューウェイヴ以降のサウンドも飲み込んだ、それなりに現場対応スキルの高いメンツを揃えてはいるのだけれど、あれこれ重なって環境は劣悪だった。それでもフロントマンとして、極上のエンタメを提供しなければならない。そんな責任感の重圧が、一回休みという顛末となった。

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 そんなしっちゃかめっちゃかな状況ゆえ、『Bad Tuning』がスタジオ&ライブ録音を織り交ぜた変則的な構成になったのは、致し方なかった。営業的に考えれば、スタジオとライブと2枚に分けた方が、リリース・スケジュールも埋めやすいし、ジュリーも余裕を持った仕事ができたはずなのに。
 多くの歌謡曲歌手同様、ジュリーもまた、70年代~80年代初頭までは、ほぼ年1ペースでライブ・アルバムをリリースしている。リリース契約を効率よく消化できるアイテムとして、低コストで製作できるライブ・アルバムや、キラー・チューン以外は適当に取り繕ったベスト・アルバムを市場に放つことで、リリースのブランクを最小限に抑えていた。
 この80年は、ていうかこれ以降、毎年恒例だったライブ・アルバムは制作されなくなる。ジュリーに限らず、この頃くらいから、安直なリサイタル完全収録アルバムのニーズが減った、ということなのだろう。
 数回程度の単発ライブにも大型ツアーにも共通して、レコード会社が主催・協賛となっている場合、多くはニュー・アルバムのプロモーションが主目的となる。ライブのみの音源も多い米米や清志郎は別として、ほとんどはアルバム発売後に収録曲中心にセットリストを組むのがセオリーである。
 で『Bad Tuning』、録音クレジットを見ると、5/24横浜スタジアムと5/31大阪万博会場の音源が使用されている。で、アルバム発売が7/21。当時のアルバム製作状況がどうだったのかは不明だけど、普通に考えても、制作進行はかなり切羽詰まっていたことは察せられる。
 多分、制作チームは早い段階からスタジオ録音に見切りをつけていたと思われる。従来の井上バンドだったら、最悪楽曲さえ揃っていれば、ジュリーがいなくてもチャチャッと最終オケまで作っておくことも可能だったはずだけど、急造のオールウェイズにそれを求めるのは、ちょっとムズい。
 で、ツアー回ってるうちにアンサンブルもどうにかこなれてきて、頃合いを見て短期集中でスタジオに入る手筈だったのだろうけど、あいにくジュリーがダウンしてしまった。すべての段取りは、これで崩れてしまう。
 どうにかブランクはひと月程度で抑えられたけど、他の仕事も詰まっていたため、レコーディングを最優先するわけにはいかない。でも、リリース・スケジュールはそう簡単に動かせない。さぁ、どうする。
 もしかして、ひと通りのスタジオ録音は行なわれたのかもしれないけど、互いに不慣れな状況ゆえ、出来不出来が激しかったのかもしれない。それならいっそ、ラフな部分もあるけど、勢いはあるライブ音源に差し替えた方が、と判断したんじゃなかろうか。
 ちなみにこのアルバム、ほかにも何かと不明な点が多い。クレジットには、上記2ヶ所のライブ音源に加え、リハーサル・スタジオやなぜか大阪のホテルのルーム・ナンバーも明記されている。セッティングする余裕もなく、空いた時間に無理やりテレコ持ち込んで録ったんだろうか。
 「とにかく、どうにか形にして帳尻合わせちまえ」的な勢いは、確かに感じられる。こういった不埒な熱気、近年は感じられなくなっちゃったな。




1. 恋のバッド・チューニング
 4/21に先行シングルカットされた30枚目のシングル。なので、こちらはスタジオ録音。作詞:糸井重里=作曲:加瀬邦彦と、前作「TOKIO」と同じ布陣で挑んだにもかかわらず、オリコンでは最高13位、ベスト10入りは逃している。ただその「TOKIO」も、実は最高8位止まりだったため、取り敢えず平均値はクリアしている。
 「TOKIO」同様、随所でチープな音色のシンセを効果的に使ってはいるのだけど、こっちの方がロックテイストは強い。アレンジャー:後藤次利の仕切りで、スタジオ・ミュージシャン中心に作られているため、きちんとした職人の仕事で収まっている。
 バウ・ワウ・ワウやブロンディからインスパイアされた、ちょっとラフなガレージ・ポップは、ジュリーのビジョンに適っていたんじゃないかと思われる。オールウェイズのサウンド・コンセプトの叩き台として、その後のキャリアの指針となった重要曲でもある。

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2. どうして朝
 ここからオールウェイズ演奏によるライブ・ヴァージョン。のちに「スシ食いねェ!」や「ロンリーチャプリン」も手掛ける岡田冨美子:作詞、鈴木キサブロー:作曲、両者ともジュリーとは初手合わせとなる。
 歌謡テイストの少ないストレートなロック・チューンに仕上げられており、アンサンブルはこなれている。ただ演奏スタイルは70年代っぽさが強く出ており、ニューウェイヴ臭は薄い。井上バンドでも充分まかなえるサウンドではあるけど、でも練り上げる時間がなかったから、こうするしかなかったんだろうな。
 「したくないことしたくない」
 「コペルニクスよ あんたがあんたが憎い」
 「エジソン ニュートン 考えて考えてくれ」
 大風呂敷広げるトリックスターとしてのジュリーの特徴を見事に捉えた、ていうかジュリーじゃないとサマにならない歌詞世界は、もっと評価されてもいいんじゃないかと思う。

3. WOMAN WOMAN
 前曲に引き続いて演奏される、やや歌謡テイストの入ったロックンロール。制作も再び岡田=鈴木コンビによるもの。
 全体的に「Honky Tonk Women」っぽいメロやギターリフだけど、この頃の日本のロック界は、ストーンズ神話がまだ強かったことが窺える。結成してまだ日も浅かったため、ライブでは破綻しないことを最優先し、こういったシンプルなアレンジになったのだろうけど、スタジオだったらもうちょっとリズムに凝ったりしたんだろうか。その辺がちょっと気になる。
 
4. PRETENDER
 初参加となる宇崎竜童が作曲、当時はプラスチックスにいた島武実:作詞による、エモーショナルなバラード。激しいロックチューンから正統派バラードまでこなせる引き出しの多さ、そして、どう転んだってセクシーになってしまう声質は、ジュリーの魅力の中でも大きな割合を占める。
 オールウェイズによる演奏なので、こちらもライブだけど、観衆の気配が薄い臨場感のなさと演奏の音の悪さから、どうやらリハーサル・スタジオで録音されたものと思われる。ジュリーのヴォーカルも変な響きだし、当時はこれがベストテイクという判断だったのだろうか。

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5. マダムX
 再び普通のライブ・テイク。作詞の浅野裕子は女優・モデルを経て、作詞・エッセイストと、幅広く活動していたらしい。ちなみに作曲は後藤次利。この頃からフックの効いたメロディを作っている。
 「自分の歌だけど嫌い」と公言して憚らない「OH!ギャル」みたいな歌詞だけど、いわゆるセミプロ作詞家の手による世紀末的な散文は、常に既存の価値観をひっくり返したいと目論んでいたジュリーの思惑と、結果的にシンクロしている。

6. アンドロメダ
 岡田=鈴木コンビによる、キャッチ―なロック・チューン。正直、「恋のバッド・チューニング」よりもシングル向きだったんじゃね?と思ってしまう。
 ジュリー特有のキザなダンディズムとデカダン風味、それを彩るAメロ・サビもすごくいいんだけど。70年代なら、間違いなくシングル候補だったんだろうな。それがちょっと惜しい。




7. 世紀末ブルース
 「恋のバッド・チューニング」のB面が初出だったため、こちらはスタジオ録音。旧知の大野克夫が作曲を手掛けているため、ジュリーのキーとツボを押さえた歌謡ロック。
 ライブでは、極力シングルを歌いたくなかったジュリーゆえ、こういった盛り上がる曲は必要で、その役目を十分果たしている。大風呂敷広げた態度のデカい歌詞もまた、虚構としてのスター・ジュリーを巧みに描いている。




8. みんないい娘
 「恋のバッド・チューニング」と同じプロダクトでレコーディングされた、こちらもスタジオ録音。糸井:加瀬コンビによるミディアムなパワー・ポップ。
 シングルとしてはちょっとインパクト弱いけど、親しみやすいメロディは口ずさみやすく、ほのかなGSテイストも感じたりする。こういう良質な曲がこんな地味なポジションで収録されているので、ジュリーのアルバムは侮れない。シングルだけ押さえておけばいいシンガーではないのだ。

9. お月さん万才!
 ちょっとミステリアス、またはオリエンタルな風味も漂うイントロに導かれる、セクシャルなバラード。アルバム・コンセプトとはちょっとはずれているけど、これも切ない美メロが耳を惹く。
 感傷的なギターソロやストリングスなど、退廃的なムードが郷愁を誘うのだけど、ジュリーはもっとずっと先を見据えていた。この路線は手堅くはあるけど、求めているのは違う世界なのだ。

10. 今夜の雨はいい奴
 ラストは直球の感傷的なバラード。イヤくさいほどキザなんだけど、ここまで聴き進めてきて、改めて感じてしまうのは、ジュリーのヴォーカルの巧さ。ピッチやリズム感ではなく、ハミングするだけで空気に彩りを与えてしまう存在感。シンプルな演奏であるからこそ、彼の底知れぬポテンシャルが浮き出ている。






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北海道の中途半端な田舎に住むアラフィフ男。不定期で音楽ブログ『俺の好きなアルバムたち』更新中。今年は久しぶりに古本屋めぐりにハマってるところ。
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