1981年リリース、4枚目のスタジオ・アルバム。当時の女性アイドルのリリース・ペースである、シングル3ヶ月:アルバム4〜5ヶ月ごとというルーティン通り、前作『Silhouette』から5ヶ月のインターバルとなっている。
70年代の女性アイドルだったら、この間に安直なシングル寄せ集めとボツ曲と洋楽カバーと自作ポエムの朗読を詰め込んだベスト・アルバムや、制作期間実質1日の、これまた安直なライブ・アルバムが出たりするのだけど、聖子の場合、あまりそういった企画アルバムは見当たらない。多分、グレー・ゾーン的なカセット企画はいくつかあったかもしれないけど、クリスマス・アルバム『金色のリボン』や、豪華化粧箱入り2枚組ベスト『Seiko Plaza』など、適当にチャチャっと作りました感はあまり見られない。
『Seiko Plaza』は初回限定でクリア・ヴィニールの7インチ・シングルが付属しており、そのレア感につられて買ってしまった中学生の俺。5,000円くらいしたはずだけど、どこからそんな大金捻出したんだ俺。謎だ。
ディスコグラフィーを見てみると、いわゆる企画ものと言えるのは『野菊の墓』のサントラくらいで、あとはレギュラー・オリジナルとコンセプチュアルなベストで占められている。アルバム楽曲も、洋楽や童謡、70年代アイドルのカバーは皆無で、特に松本隆が楽曲コンセプトに大きく関与した『風立ちぬ』以降は、既存アイドルの枠を超えたコンテンポラリーな楽曲で統一されている。
そんな中、ちょっと疑問に感じたのだけど、ティーン・アイドル期の聖子は、ライブ・アルバムを一枚もリリースしていない。超過密スケジュールの中、リリース・アイテムを増やす策として、実況録音盤は手っ取り早いはずなのだけど、シングルとは別路線のアルバム・アーティストというブランド形成の一環だったのか、はたまた当時から囁かれていたように、河合奈保子や柏原芳恵、岩崎良美と比べて歌唱力に難があるのを気に病んでいたのか。
上記3名と比べると、決して美声とは言えず、声量もかなり劣っていた聖子のキャラを立たせるためには、スタジオ作品の方が向いていたのだろう。ただ、少女→大人の女性への成長過程を記録に残すという意味合いにおいて、この時期のライブ作品がなかったことは、ちょっと惜しまれる。
年末の賞レースが終わって年が明け、次世代の新人デビュー・ラッシュを横目に、前年デビュー組はここでふるいにかけられることになる。このまま2年目を迎えるか、それとも路線変更するか、はたまた引退するか。
田原俊彦:トシちゃんには及ばなかったけど、賞レースもセールス実績も順調だった聖子は、そのままアイドル路線継続となった。そうなると、他の2年目アイドルとどんな差別化を行なってゆくのか、どんなキャラクターで推してゆくのか、大筋での方針が必要となってくる。
すでに19歳となっていた聖子に対して、ほぼ10代の間で短期消費されてしまうことを前提とする、従来の女性アイドルの手法はそぐわなかった。さらに加えて、80年に山口百恵が引退したことで、ソニーの女性アイドル部門はメイン不在となっていたため、ポスト百恵としての期待もかかっていた。
歌番組に映画にバラエティにグラビアに、とにかく多方面にあっちこっちで露出を増やし、物量攻勢で不特定多数のユーザーに刷り込みをかける手法は、非効率的になりつつあった。効果が絶大だからといって、みんながみんな同じ手を使うものだから、「もっともっと」のインフレが進み、当然コスパは悪くなる。
もう少し後になると、角川映画が大掛かりなメディア・ミックスを仕掛けることによって、薬師丸ひろ子や原田知世を売り出すようになるのだけど、それには大きな資本力と各メディアとの連携が必要になる。聖子の場合、映画やドラマ、バラエティも「そこそこ」こなしてはいたけど、あくまで歌手活動をメインとしていた。所属していたサン・ミュージックもソニーも、業界的には新参だったこともあって、ド派手な仕掛けより、実直な本業に重点を置いていたことが、その後の安定に繋がることになる。
聖子がデビューした80年と、中森明菜やキョンキョン、早見優や松本伊代・堀ちえみら82年組は、女性アイドル史的に豊作とされているのだけど、一転して81年は不作とされている。この年はほぼ近藤真彦:マッチの圧勝で、彼を上回るキャラやインパクトを持つ女性アイドルがいなかった。
一応、ここのリストでは、伊藤つかさや松本伊代、薬師丸ひろ子など、錚々たるメンツがそろってはいるのだけれど、彼女たちはいずれも秋以降のデビューだったため、82年組と同じ括りで語られることが多い。アイドルのデビュー・ラッシュは通常、春先が多いのだけれど、81年の春デビュー組はほぼすべて、単年度の活動で終わっている。
各芸能事務所とも、新人デビューにはそれなりに力をいれていたはずなのだけど、この81年は思っていたほどの反響が得られなかった。なので80年デビュー組、次年度はメディア露出もリリース計画も極端に抑えられるはずなのだけど、そんな事情もあって、そこそこデビュー時と同じくらいのペースで活動できる女性アイドルが多かった。
この時点での女性アイドル相関図を勝手に構成してみると、シングル連続1位継続中だった聖子がレコード・セールス面で独走状態だったけど、アイドルとしての総合力では、まだ絶対的な存在ではなかった。80年デビュー組の中では、女優方面へシフトしつつあった三原順子と、姉:岩崎宏美の強いオーラで燻っていた岩崎良美が失速しつつあったけど、「西城秀樹の妹」キャラを巧みに利用しながら、着実にヒット曲を積み重ねている河合奈保子、ヒット曲はちょっと出遅れたけど、「ハロー・グッバイ」で一気に巻き返した柏原芳恵とが、聖子のすぐ後ろに控えていた。
ちなみにトップ・グループではなかったけど、80年代デビュー組でそこそこ実績を残したのが、甲斐智恵美と浜田朱里、あと日高のり子。ちなみに新人賞レース有力候補とされていたのが、あの三味線民謡の松村和子。ついでに、突然段ボールと佐野元春とジャンボ鶴田も同期デビューだ。どうだこのムダ知識。
女性アイドルのHPを測る基準として、レコード・セールスとはまた別に、測定しづらいプラスアルファとして挙げられるのが、水着グラビアの存在である。昔も今も、これは変わらない。
ティーン・アイドルの通過儀礼として、芸能人水泳大会や水着をメインとしたグラビア写真集は、避けて通れない存在だった。河合と柏原は、共通して、今で言う「ぽっちゃり体型」であったけれど、セクシャリティを排した健康的なビキニ・グラビアは、当時の中高校生から絶大な支持を集めた。
対して聖子は「ほっそり/スレンダー体型」であったため、ドレスアップした歌番組では映える存在だったけど、肌の露出の多いグラビア方面では、圧倒的に分が悪かった。
はっきり言ってしまうと、どの年代の男も「巨乳には弱い」。
そういうことだ。
計測時期がバラバラなので、当時の正確なデータとは言い難いけど、3人の3サイズをネットで調べてみた。すると、こんな感じ。
松田聖子 B80・W57・H83
河合奈保子 B84・W60・H84
柏原芳恵 B86・W58・H88
あくまで公称なので、数字はいくらか盛ってる部分はあるだろうけど、アイドル=偶像という存在を形成するにあたり、ひとつの見解としては成立するんじゃないか、とここまで書き出して気がついた。
…なに書いてんだ俺。
50過ぎてアイドルの3サイズ調べているその姿は、ちょっと恥ずかしい。
さらに付け加えるとこの2人、巨乳だけじゃなく、歌唱力も標準以上のものを持っていた。「ナイスバディー」で「歌うま」と来れば、アイドル適性は申し分ない2人である。
対して聖子、グラビア力は2人に及ばない上、しかも同世代の中で「歌唱力はちょっと劣る」とされていた。デビュー年の楽曲をいま聴いてみると、音域的にちょっと苦しいのか、拙い部分があるのは否定できない。
プロポーション面や歌唱面において、2人の後塵を排していた聖子ではあったけど、いち早くインパクトの強い「ぶりっ子キャラ」、そして数多くのエピゴーネンを生み出した「聖子ちゃんカット」がお茶の間に広く認知された点は、他2名を大きく上回っていた。
楽曲や歌唱力など、女性アイドル本流のアピール・ポイントからは大きくはずれてはいたけど、80年代ではそもそも、「歌」が大きな要素ではなくなっていたことの証左でもある。
ただ、こういったキャラ付けだけでは、長く保つものではない。お茶の間へさらに浸透し、80年組からさらに一歩抜きん出るためには、中・長期的なビジョンに基づいた戦略が必要だった。
刹那的な短期消費型ではない、「アイドル以降」を見据えたスタンダード化を目指した楽曲レベルの向上。キャッチーなシングルと並行して、歌謡曲以外の音楽ユーザーをもターゲットにした、コンセプチュアルなアルバム制作。
そんな音楽面でのトータル・コーディネートを推し進めるため、抜擢されたのが松本隆だった。
ざっくり時系列で書いてゆくと、松本が聖子プロジェクト初参加となったのは、アルバム『風立ちぬ』にも収録されている7月のシングル「白いパラソル」から。当然、企画はもっと早い段階から動いているため、少なくとも半年くらい前から打診はあったと思われる。
81年のシングル作曲は財津和夫に集中しており、「チェリー・ブラッサム」「夏の扉」、そして「白いパラソル」。いずれもチャート1位を獲得している。70年代にデビューした中堅バンドとして、コンスタントなアルバム・セールスと圧倒的な知名度を得ていたチューリップ:財津和夫は、当時、ソロ活動に加え、女性アイドルへの楽曲提供も盛んに行なっていた。ソロ・シングル「Wake Up」はスマッシュ・ヒットするわ聖子提供曲は大ヒットするわ、もう何をやってもうまく行っちゃう確変状態にあった。
「白いパラソル」での財津の起用は、聖子プロジェクトが本格始動する前にキャスティングされたものであり、松本もソニーの意向に沿ったものと思われる。
無難な路線で行くのなら、その後も財津固定で進んだのだろうけど、自分のビジョンを反映させたい松本としては、既存路線の繰り返しは意に沿わなかった。名の知れたヒットメイカーに続けて発注するのは、営業的には安パイであるけれど、1人のソングライターではバリエーションも限られて、次第にマンネリ化する。
取り敢えずは松本、「白いパラソル」を無難にまとめ、ここからソニー側ディレクター若松宗雄との双頭体制による「聖子プロジェクト」がスタートすることになる。そして、本業の作詞以外で松本が起こした行動が、作曲陣の一新だった。
7月「白いパラソル」から逆算して、企画制作が4月開始、ほぼ同時期に前アルバム『Silhouette』が制作中、並行して、次回アルバムの企画が立ち上がったと思われる。アルバム・コンセプトに沿ったサウンド・コーディネートについてのミーティングが重ねられ、最終的に抜擢されたのが大滝詠一だった。
こうやって書きながら考えてみると、まだ目に見える形での実績がなかった大滝のキャスティングは、そこそこ議論があったんじゃないかと思われる。いくら知己の間柄だったとはいえ、参加して間もない松本がねじ込んだというのは考えづらく、直近の松本の履歴を見ての若松側のプッシュだったんじゃないか、と。
81年3月に『ロンバケ』はリリースされたのだけど、何しろ知名度のない大滝ゆえ、最初からバカ売れしたわけではなかった。テレビ出演は頑なに拒否したけど、ソニー営業ががんばってブッキングしてきたラジオ出演や雑誌取材を片っぱしから受けまくり、どうにか地道にコツコツ、夏を迎えてから最高2位に到達した。
聖子の時系列に戻ると、アルバム『風立ちぬ』の発売が10月で、レコーディングは8月から9月に断続的に行なわれた、とされている。そこから逆算してゆくと、楽曲コンペやらジャケット製作、その他もろもろの段取りを開始するのが、だいたい5月から6月。
この時点での『ロンバケ』のチャート・アクションは、「まぁそこそこ」と言ったところ。まだお茶の間的には「大滝詠一って誰?」というレベルであり、当時の彼がプロデュースしたことがセールス・ポイントになったとは考えづらい。大滝側にメリットは大きいけど、聖子側のメリットは少なかったはずである。
シングルの楽曲コンペで「風立ちぬ」が最有力候補になったのはまだ理解できるとして、アルバムのサウンド・プロデュースまで一任するのは、さすがにリスクが大きかった。過去の実績だけ見れば財津が適任のはずだけど、さすがにバンド活動と兼任するのはスケジュール的に無理があったし、さらに単なるライター契約以上となると、東芝EMI所属だったチューリップ的に、ちょっと難があったし。
大滝的にも、数年ぶりに気合を入れて『ロンバケ』を作ったこともあって、クリエイティブ面ではすっかり抜けがらになっていた。もともと、あらゆるタイプの楽曲を書き分けられるほどの職人肌ではないし、在庫放出によって引き出しは空っぽ。この状態でさらにアルバム1枚分を書き下ろすのは、ちょっと無理すぎた。
第1期ナイアガラ時代、3年で12枚のアルバムを制作した過去はあったけど、さすがに松田聖子では状況が違いすぎる。『Go! Go! Niagara』が締め切りに間に合わず、新作披露コンサートをお詫びのDJパーティでごまかしたことはあったけど、聖子でそれやっちゃうと、さすがにシャレにならない。
いろいろ骨折ってくれたソニー・スタッフへの義理もあるし、後押ししてくれた松本隆の顔をつぶすわけにもいかず、大きなプロジェクトなので声をかけてくれて悪い気はしないし、さりとて今の自分の器量で、3ヶ月程度で一からアルバム丸ごと作るのは無理ゲーだし…。
そんな葛藤と協議の中で生まれたのが、片面だけのプロデュースという折衷案だった。これならなんとか『ロンバケ』素材や既存スキルの使い回しで行けそうだし、まだあまり前例がなかった「60年代オールディーズ/ガールズ・ポップの80年代的解釈」でまとまりそうだし。
ナイアガラ史的考察では、「「あの」大滝詠一がプロデュース参加したアルバム」『風立ちぬ』というポジションになっているけど、80年代アイドル・ポップス史の観点で見れば、既存の職業作家を使わず、ジャンルを超えたシンガー・ソングライターを中心に起用した先駆けが松田聖子であり、大滝詠一はその一人に過ぎない。この後も、ユーミンや佐野元春、尾崎亜美や細野晴臣、多彩な顔ぶれがこぞって聖子プロジェクトに参加しており、その中で先鞭をつけたのが、大滝詠一だった、というわけで。
今でこそ「ナイアガラ・サウンドをガールズ・ポップに移植した作品」と捉えられているけど、リアルタイムで聴いてきた俺的には、「今回の聖子の新曲、切ない感じでイイよな」程度の印象で、ナイアガラ・ブランドで聴いたわけではない。多分、聖子ファンの多くがそんな印象だったと思われる。
ただ逆に言えば、大滝の威光がまだそれほどじゃなかった分だけ、変なブランド力や色眼鏡で見られることなく、純粋な楽曲のみの魅力で聴かれていたのは、結果的に良かったのかもしれない。それだけ『風立ちぬ』は、魅力的なアルバムである。
1. 冬の妖精
「君は天然色」をモチーフとして作られたオールディーズ・テイストのガールズ・ポップ。ギターの音色の重さが歌謡ロック風。北欧ギター・インスト風のアウトロのソロに、大滝の本気度が見え隠れしている。
とにかく、使えるモノは全部使う。そんな気概が感じられる。
2. ガラスの入江
骨格はほぼ「スピーチ・バルーン」。このゆったり加減は、聴いてる分にはすごく和んじゃうんだけど、歌うにはかなり難しそう。難しいんだけど、うまく歌いこなしている。
当時、大滝の歌唱指導はかなり熱が入っていたらしく、聖子も結構へこんだりしたらしいのだけど、結果としてはうまく仕上がっている。まぁ当時はそんなことも思わず、単に「めんどくさいオヤジだな」程度しか思ってなかったんだろうけど。
3. 一千一秒物語
この曲に限った話ではないけど、まだ『ロンバケ』の余韻が残っていたからこそ、『風立ちぬ』はエヴァーグリーンなガールズ・ポップの金字塔として成立しているのかもしれない。多分、82年に入ると『Each Time』モードに入って、シックさが増し増し、悪く言えばドンヨリした方向性に代わっていたかもしれない。
そう考えると、このタイミングでの大滝の起用は、まさしくジャストなタイミングだったんじゃないか、と。
4. いちご畑でつかまえて
「FUN×4」との関連性はさんざん語られているので、今さら書くこともないけど、19歳の女の子をファニーかつコケティッシュに映える瞬間をうまくすくい取り、固着化したことは、称賛に値する。
終盤のくしゃみのフェイクもあざとさを超え、当時の聖子のキャラにぴったりマッチしている。だって、こういうったの求められてたんだもの、需要と供給のバランスだよバランス。
5. 風立ちぬ
いま聴くと、ゴージャスなサウンドだよな。アナログ・レコーディング技術が頂点に達していた頃の録音であり、潤沢なストリングスと女性コーラス、そして盤石のリズム・アンサンブル。
フィル・スペクター言うところの「ポケット・シンフォニー」の80年代版アップデートと言うべきか。ていうか、昔かそういう風に言われてたか。この前のシングル「白いパラソル」と聴き比べてみるとわかるはずだけど、ヴォーカル・パフォーマンスの格段の進歩が窺える。人に教えるの得意だものな、大滝って。
6. 流星ナイト
ここからがアナログではB面、大滝パートは終了。「白いパラソル」以外は鈴木茂がアレンジを務めている。一応、バンド・メンバーはナイアガラ・セッションと大差ないのだけど、リーダーが変わると雰囲気もちょっと変わる。
財津和夫作曲なのだけど、彼もやはりアレだな、ちょっと歌謡曲のフォーマットに慣れ過ぎたのか、キャッチ―なサビ以外はちょっとパンチが弱い。
7. 黄昏はオレンジ・ライム
でも鈴木茂作曲のこの歌を聴くと、メロディ・メーカー:財津和夫の引き出しの多さに感服してしまうことになる。リゾート・ミュージックをイメージしたアイドル・ポップスなのだけど、やっぱ鈴木茂、ギター・ソロが入ってない曲だと、ちょっとボヤけた印象。
8. 白いパラソル
さんざん聴き倒した曲なので、今さら初めて聴いた印象も残っていないのだけど、こうして聴いてみると、安定したメロディの秀逸さは映える。でも財津和夫、ちゃんと歌唱指導したのか?と勘ぐってしまう。
もうちょっと丁寧に歌ってもよかったんじゃね?とアラが目立つ気がする。って思うのは歳食った証拠だな俺。
9. 雨のリゾート
杉真理の場合、オールディーズ・ポップっていうかマージー・ビートの人なのだけど、うまくコンセプトを消化しており、リズムはまんま「Be My Baby」。
こういったもろリスペクトをやってもイヤミにならないのが、杉真理の人徳なんじゃないかと。もともとキーの高い人だから、セルフ・カバーしてもうまく行ったんじゃないか、とも思ってしまう。してるのかな?
10. December Morning
で、大滝詠一の厳しいミッションをどうにか乗り越え、ヴォーカル的に最も完成度が高いのが、この曲。正直、「風立ちぬ」はさんざん聴き倒しているので、逆にあまり聴く機会の少ないこの曲の方が、俺的には好み。
シングルとしてはちょっと地味すぎて厳しいけど、リリース当時、この曲の存在がもし知られていれば、歌唱力の評価もまた違っていたんじゃないだろうか。それくらい引き込まれるパフォーマンス。