好きなアルバムを自分勝手にダラダラ語る、そんなユルいコンセプトのブログです。

松田聖子

81年の女性アイドル事情と、ちょっぴりナイアガラの話 - 松田聖子 『風立ちぬ』


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 1981年リリース、4枚目のスタジオ・アルバム。当時の女性アイドルのリリース・ペースである、シングル3ヶ月:アルバム4〜5ヶ月ごとというルーティン通り、前作『Silhouette』から5ヶ月のインターバルとなっている。
 70年代の女性アイドルだったら、この間に安直なシングル寄せ集めとボツ曲と洋楽カバーと自作ポエムの朗読を詰め込んだベスト・アルバムや、制作期間実質1日の、これまた安直なライブ・アルバムが出たりするのだけど、聖子の場合、あまりそういった企画アルバムは見当たらない。多分、グレー・ゾーン的なカセット企画はいくつかあったかもしれないけど、クリスマス・アルバム『金色のリボン』や、豪華化粧箱入り2枚組ベスト『Seiko Plaza』など、適当にチャチャっと作りました感はあまり見られない。
 『Seiko Plaza』は初回限定でクリア・ヴィニールの7インチ・シングルが付属しており、そのレア感につられて買ってしまった中学生の俺。5,000円くらいしたはずだけど、どこからそんな大金捻出したんだ俺。謎だ。
 ディスコグラフィーを見てみると、いわゆる企画ものと言えるのは『野菊の墓』のサントラくらいで、あとはレギュラー・オリジナルとコンセプチュアルなベストで占められている。アルバム楽曲も、洋楽や童謡、70年代アイドルのカバーは皆無で、特に松本隆が楽曲コンセプトに大きく関与した『風立ちぬ』以降は、既存アイドルの枠を超えたコンテンポラリーな楽曲で統一されている。
 そんな中、ちょっと疑問に感じたのだけど、ティーン・アイドル期の聖子は、ライブ・アルバムを一枚もリリースしていない。超過密スケジュールの中、リリース・アイテムを増やす策として、実況録音盤は手っ取り早いはずなのだけど、シングルとは別路線のアルバム・アーティストというブランド形成の一環だったのか、はたまた当時から囁かれていたように、河合奈保子や柏原芳恵、岩崎良美と比べて歌唱力に難があるのを気に病んでいたのか。
 上記3名と比べると、決して美声とは言えず、声量もかなり劣っていた聖子のキャラを立たせるためには、スタジオ作品の方が向いていたのだろう。ただ、少女→大人の女性への成長過程を記録に残すという意味合いにおいて、この時期のライブ作品がなかったことは、ちょっと惜しまれる。

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 年末の賞レースが終わって年が明け、次世代の新人デビュー・ラッシュを横目に、前年デビュー組はここでふるいにかけられることになる。このまま2年目を迎えるか、それとも路線変更するか、はたまた引退するか。
 田原俊彦:トシちゃんには及ばなかったけど、賞レースもセールス実績も順調だった聖子は、そのままアイドル路線継続となった。そうなると、他の2年目アイドルとどんな差別化を行なってゆくのか、どんなキャラクターで推してゆくのか、大筋での方針が必要となってくる。
 すでに19歳となっていた聖子に対して、ほぼ10代の間で短期消費されてしまうことを前提とする、従来の女性アイドルの手法はそぐわなかった。さらに加えて、80年に山口百恵が引退したことで、ソニーの女性アイドル部門はメイン不在となっていたため、ポスト百恵としての期待もかかっていた。
 歌番組に映画にバラエティにグラビアに、とにかく多方面にあっちこっちで露出を増やし、物量攻勢で不特定多数のユーザーに刷り込みをかける手法は、非効率的になりつつあった。効果が絶大だからといって、みんながみんな同じ手を使うものだから、「もっともっと」のインフレが進み、当然コスパは悪くなる。
 もう少し後になると、角川映画が大掛かりなメディア・ミックスを仕掛けることによって、薬師丸ひろ子や原田知世を売り出すようになるのだけど、それには大きな資本力と各メディアとの連携が必要になる。聖子の場合、映画やドラマ、バラエティも「そこそこ」こなしてはいたけど、あくまで歌手活動をメインとしていた。所属していたサン・ミュージックもソニーも、業界的には新参だったこともあって、ド派手な仕掛けより、実直な本業に重点を置いていたことが、その後の安定に繋がることになる。

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 聖子がデビューした80年と、中森明菜やキョンキョン、早見優や松本伊代・堀ちえみら82年組は、女性アイドル史的に豊作とされているのだけど、一転して81年は不作とされている。この年はほぼ近藤真彦:マッチの圧勝で、彼を上回るキャラやインパクトを持つ女性アイドルがいなかった。
 一応、ここのリストでは、伊藤つかさや松本伊代、薬師丸ひろ子など、錚々たるメンツがそろってはいるのだけれど、彼女たちはいずれも秋以降のデビューだったため、82年組と同じ括りで語られることが多い。アイドルのデビュー・ラッシュは通常、春先が多いのだけれど、81年の春デビュー組はほぼすべて、単年度の活動で終わっている。



 各芸能事務所とも、新人デビューにはそれなりに力をいれていたはずなのだけど、この81年は思っていたほどの反響が得られなかった。なので80年デビュー組、次年度はメディア露出もリリース計画も極端に抑えられるはずなのだけど、そんな事情もあって、そこそこデビュー時と同じくらいのペースで活動できる女性アイドルが多かった。
 この時点での女性アイドル相関図を勝手に構成してみると、シングル連続1位継続中だった聖子がレコード・セールス面で独走状態だったけど、アイドルとしての総合力では、まだ絶対的な存在ではなかった。80年デビュー組の中では、女優方面へシフトしつつあった三原順子と、姉:岩崎宏美の強いオーラで燻っていた岩崎良美が失速しつつあったけど、「西城秀樹の妹」キャラを巧みに利用しながら、着実にヒット曲を積み重ねている河合奈保子、ヒット曲はちょっと出遅れたけど、「ハロー・グッバイ」で一気に巻き返した柏原芳恵とが、聖子のすぐ後ろに控えていた。
 ちなみにトップ・グループではなかったけど、80年代デビュー組でそこそこ実績を残したのが、甲斐智恵美と浜田朱里、あと日高のり子。ちなみに新人賞レース有力候補とされていたのが、あの三味線民謡の松村和子。ついでに、突然段ボールと佐野元春とジャンボ鶴田も同期デビューだ。どうだこのムダ知識。

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 女性アイドルのHPを測る基準として、レコード・セールスとはまた別に、測定しづらいプラスアルファとして挙げられるのが、水着グラビアの存在である。昔も今も、これは変わらない。
 ティーン・アイドルの通過儀礼として、芸能人水泳大会や水着をメインとしたグラビア写真集は、避けて通れない存在だった。河合と柏原は、共通して、今で言う「ぽっちゃり体型」であったけれど、セクシャリティを排した健康的なビキニ・グラビアは、当時の中高校生から絶大な支持を集めた。
 対して聖子は「ほっそり/スレンダー体型」であったため、ドレスアップした歌番組では映える存在だったけど、肌の露出の多いグラビア方面では、圧倒的に分が悪かった。
 はっきり言ってしまうと、どの年代の男も「巨乳には弱い」
 そういうことだ。
 計測時期がバラバラなので、当時の正確なデータとは言い難いけど、3人の3サイズをネットで調べてみた。すると、こんな感じ。
 松田聖子 B80・W57・H83
 河合奈保子 B84・W60・H84
 柏原芳恵 B86・W58・H88
 あくまで公称なので、数字はいくらか盛ってる部分はあるだろうけど、アイドル=偶像という存在を形成するにあたり、ひとつの見解としては成立するんじゃないか、とここまで書き出して気がついた。
 …なに書いてんだ俺。
 50過ぎてアイドルの3サイズ調べているその姿は、ちょっと恥ずかしい。

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 さらに付け加えるとこの2人、巨乳だけじゃなく、歌唱力も標準以上のものを持っていた。「ナイスバディー」で「歌うま」と来れば、アイドル適性は申し分ない2人である。
 対して聖子、グラビア力は2人に及ばない上、しかも同世代の中で「歌唱力はちょっと劣る」とされていた。デビュー年の楽曲をいま聴いてみると、音域的にちょっと苦しいのか、拙い部分があるのは否定できない。
 プロポーション面や歌唱面において、2人の後塵を排していた聖子ではあったけど、いち早くインパクトの強い「ぶりっ子キャラ」、そして数多くのエピゴーネンを生み出した「聖子ちゃんカット」がお茶の間に広く認知された点は、他2名を大きく上回っていた。
 楽曲や歌唱力など、女性アイドル本流のアピール・ポイントからは大きくはずれてはいたけど、80年代ではそもそも、「歌」が大きな要素ではなくなっていたことの証左でもある。
 ただ、こういったキャラ付けだけでは、長く保つものではない。お茶の間へさらに浸透し、80年組からさらに一歩抜きん出るためには、中・長期的なビジョンに基づいた戦略が必要だった。
 刹那的な短期消費型ではない、「アイドル以降」を見据えたスタンダード化を目指した楽曲レベルの向上。キャッチーなシングルと並行して、歌謡曲以外の音楽ユーザーをもターゲットにした、コンセプチュアルなアルバム制作。
 そんな音楽面でのトータル・コーディネートを推し進めるため、抜擢されたのが松本隆だった。

 ざっくり時系列で書いてゆくと、松本が聖子プロジェクト初参加となったのは、アルバム『風立ちぬ』にも収録されている7月のシングル「白いパラソル」から。当然、企画はもっと早い段階から動いているため、少なくとも半年くらい前から打診はあったと思われる。
 81年のシングル作曲は財津和夫に集中しており、「チェリー・ブラッサム」「夏の扉」、そして「白いパラソル」。いずれもチャート1位を獲得している。70年代にデビューした中堅バンドとして、コンスタントなアルバム・セールスと圧倒的な知名度を得ていたチューリップ:財津和夫は、当時、ソロ活動に加え、女性アイドルへの楽曲提供も盛んに行なっていた。ソロ・シングル「Wake Up」はスマッシュ・ヒットするわ聖子提供曲は大ヒットするわ、もう何をやってもうまく行っちゃう確変状態にあった。
 「白いパラソル」での財津の起用は、聖子プロジェクトが本格始動する前にキャスティングされたものであり、松本もソニーの意向に沿ったものと思われる。
 無難な路線で行くのなら、その後も財津固定で進んだのだろうけど、自分のビジョンを反映させたい松本としては、既存路線の繰り返しは意に沿わなかった。名の知れたヒットメイカーに続けて発注するのは、営業的には安パイであるけれど、1人のソングライターではバリエーションも限られて、次第にマンネリ化する。
 取り敢えずは松本、「白いパラソル」を無難にまとめ、ここからソニー側ディレクター若松宗雄との双頭体制による「聖子プロジェクト」がスタートすることになる。そして、本業の作詞以外で松本が起こした行動が、作曲陣の一新だった。

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 7月「白いパラソル」から逆算して、企画制作が4月開始、ほぼ同時期に前アルバム『Silhouette』が制作中、並行して、次回アルバムの企画が立ち上がったと思われる。アルバム・コンセプトに沿ったサウンド・コーディネートについてのミーティングが重ねられ、最終的に抜擢されたのが大滝詠一だった。
 こうやって書きながら考えてみると、まだ目に見える形での実績がなかった大滝のキャスティングは、そこそこ議論があったんじゃないかと思われる。いくら知己の間柄だったとはいえ、参加して間もない松本がねじ込んだというのは考えづらく、直近の松本の履歴を見ての若松側のプッシュだったんじゃないか、と。
 81年3月に『ロンバケ』はリリースされたのだけど、何しろ知名度のない大滝ゆえ、最初からバカ売れしたわけではなかった。テレビ出演は頑なに拒否したけど、ソニー営業ががんばってブッキングしてきたラジオ出演や雑誌取材を片っぱしから受けまくり、どうにか地道にコツコツ、夏を迎えてから最高2位に到達した。
 聖子の時系列に戻ると、アルバム『風立ちぬ』の発売が10月で、レコーディングは8月から9月に断続的に行なわれた、とされている。そこから逆算してゆくと、楽曲コンペやらジャケット製作、その他もろもろの段取りを開始するのが、だいたい5月から6月。
 この時点での『ロンバケ』のチャート・アクションは、「まぁそこそこ」と言ったところ。まだお茶の間的には「大滝詠一って誰?」というレベルであり、当時の彼がプロデュースしたことがセールス・ポイントになったとは考えづらい。大滝側にメリットは大きいけど、聖子側のメリットは少なかったはずである。
 シングルの楽曲コンペで「風立ちぬ」が最有力候補になったのはまだ理解できるとして、アルバムのサウンド・プロデュースまで一任するのは、さすがにリスクが大きかった。過去の実績だけ見れば財津が適任のはずだけど、さすがにバンド活動と兼任するのはスケジュール的に無理があったし、さらに単なるライター契約以上となると、東芝EMI所属だったチューリップ的に、ちょっと難があったし。
 大滝的にも、数年ぶりに気合を入れて『ロンバケ』を作ったこともあって、クリエイティブ面ではすっかり抜けがらになっていた。もともと、あらゆるタイプの楽曲を書き分けられるほどの職人肌ではないし、在庫放出によって引き出しは空っぽ。この状態でさらにアルバム1枚分を書き下ろすのは、ちょっと無理すぎた。
 第1期ナイアガラ時代、3年で12枚のアルバムを制作した過去はあったけど、さすがに松田聖子では状況が違いすぎる。『Go! Go! Niagara』が締め切りに間に合わず、新作披露コンサートをお詫びのDJパーティでごまかしたことはあったけど、聖子でそれやっちゃうと、さすがにシャレにならない。
 いろいろ骨折ってくれたソニー・スタッフへの義理もあるし、後押ししてくれた松本隆の顔をつぶすわけにもいかず、大きなプロジェクトなので声をかけてくれて悪い気はしないし、さりとて今の自分の器量で、3ヶ月程度で一からアルバム丸ごと作るのは無理ゲーだし…。
 そんな葛藤と協議の中で生まれたのが、片面だけのプロデュースという折衷案だった。これならなんとか『ロンバケ』素材や既存スキルの使い回しで行けそうだし、まだあまり前例がなかった「60年代オールディーズ/ガールズ・ポップの80年代的解釈」でまとまりそうだし。

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 ナイアガラ史的考察では、「「あの」大滝詠一がプロデュース参加したアルバム」『風立ちぬ』というポジションになっているけど、80年代アイドル・ポップス史の観点で見れば、既存の職業作家を使わず、ジャンルを超えたシンガー・ソングライターを中心に起用した先駆けが松田聖子であり、大滝詠一はその一人に過ぎない。この後も、ユーミンや佐野元春、尾崎亜美や細野晴臣、多彩な顔ぶれがこぞって聖子プロジェクトに参加しており、その中で先鞭をつけたのが、大滝詠一だった、というわけで。
 今でこそ「ナイアガラ・サウンドをガールズ・ポップに移植した作品」と捉えられているけど、リアルタイムで聴いてきた俺的には、「今回の聖子の新曲、切ない感じでイイよな」程度の印象で、ナイアガラ・ブランドで聴いたわけではない。多分、聖子ファンの多くがそんな印象だったと思われる。
 ただ逆に言えば、大滝の威光がまだそれほどじゃなかった分だけ、変なブランド力や色眼鏡で見られることなく、純粋な楽曲のみの魅力で聴かれていたのは、結果的に良かったのかもしれない。それだけ『風立ちぬ』は、魅力的なアルバムである。





1. 冬の妖精
 「君は天然色」をモチーフとして作られたオールディーズ・テイストのガールズ・ポップ。ギターの音色の重さが歌謡ロック風。北欧ギター・インスト風のアウトロのソロに、大滝の本気度が見え隠れしている。
 とにかく、使えるモノは全部使う。そんな気概が感じられる。

2. ガラスの入江
 骨格はほぼ「スピーチ・バルーン」。このゆったり加減は、聴いてる分にはすごく和んじゃうんだけど、歌うにはかなり難しそう。難しいんだけど、うまく歌いこなしている。
 当時、大滝の歌唱指導はかなり熱が入っていたらしく、聖子も結構へこんだりしたらしいのだけど、結果としてはうまく仕上がっている。まぁ当時はそんなことも思わず、単に「めんどくさいオヤジだな」程度しか思ってなかったんだろうけど。

3. 一千一秒物語 
 この曲に限った話ではないけど、まだ『ロンバケ』の余韻が残っていたからこそ、『風立ちぬ』はエヴァーグリーンなガールズ・ポップの金字塔として成立しているのかもしれない。多分、82年に入ると『Each Time』モードに入って、シックさが増し増し、悪く言えばドンヨリした方向性に代わっていたかもしれない。
 そう考えると、このタイミングでの大滝の起用は、まさしくジャストなタイミングだったんじゃないか、と。

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4. いちご畑でつかまえて
 「FUN×4」との関連性はさんざん語られているので、今さら書くこともないけど、19歳の女の子をファニーかつコケティッシュに映える瞬間をうまくすくい取り、固着化したことは、称賛に値する。
 終盤のくしゃみのフェイクもあざとさを超え、当時の聖子のキャラにぴったりマッチしている。だって、こういうったの求められてたんだもの、需要と供給のバランスだよバランス。

5. 風立ちぬ
 いま聴くと、ゴージャスなサウンドだよな。アナログ・レコーディング技術が頂点に達していた頃の録音であり、潤沢なストリングスと女性コーラス、そして盤石のリズム・アンサンブル。
 フィル・スペクター言うところの「ポケット・シンフォニー」の80年代版アップデートと言うべきか。ていうか、昔かそういう風に言われてたか。この前のシングル「白いパラソル」と聴き比べてみるとわかるはずだけど、ヴォーカル・パフォーマンスの格段の進歩が窺える。人に教えるの得意だものな、大滝って。



6. 流星ナイト
 ここからがアナログではB面、大滝パートは終了。「白いパラソル」以外は鈴木茂がアレンジを務めている。一応、バンド・メンバーはナイアガラ・セッションと大差ないのだけど、リーダーが変わると雰囲気もちょっと変わる。
 財津和夫作曲なのだけど、彼もやはりアレだな、ちょっと歌謡曲のフォーマットに慣れ過ぎたのか、キャッチ―なサビ以外はちょっとパンチが弱い。

7. 黄昏はオレンジ・ライム
 でも鈴木茂作曲のこの歌を聴くと、メロディ・メーカー:財津和夫の引き出しの多さに感服してしまうことになる。リゾート・ミュージックをイメージしたアイドル・ポップスなのだけど、やっぱ鈴木茂、ギター・ソロが入ってない曲だと、ちょっとボヤけた印象。

8. 白いパラソル
 さんざん聴き倒した曲なので、今さら初めて聴いた印象も残っていないのだけど、こうして聴いてみると、安定したメロディの秀逸さは映える。でも財津和夫、ちゃんと歌唱指導したのか?と勘ぐってしまう。
 もうちょっと丁寧に歌ってもよかったんじゃね?とアラが目立つ気がする。って思うのは歳食った証拠だな俺。
 
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9. 雨のリゾート
 杉真理の場合、オールディーズ・ポップっていうかマージー・ビートの人なのだけど、うまくコンセプトを消化しており、リズムはまんま「Be My Baby」。
 こういったもろリスペクトをやってもイヤミにならないのが、杉真理の人徳なんじゃないかと。もともとキーの高い人だから、セルフ・カバーしてもうまく行ったんじゃないか、とも思ってしまう。してるのかな?

10. December Morning
 で、大滝詠一の厳しいミッションをどうにか乗り越え、ヴォーカル的に最も完成度が高いのが、この曲。正直、「風立ちぬ」はさんざん聴き倒しているので、逆にあまり聴く機会の少ないこの曲の方が、俺的には好み。
 シングルとしてはちょっと地味すぎて厳しいけど、リリース当時、この曲の存在がもし知られていれば、歌唱力の評価もまた違っていたんじゃないだろうか。それくらい引き込まれるパフォーマンス。






80年代アイドル・ポップス、ひとつの頂点。 - 松田聖子 『ユートピア』

Folder ちょっと前の話になるけど、それほど人も来ないこのブログのアクセス数が、爆発的に伸びたことがあった。これがよく聞くバズるという現象なのかと調べてみたところ、発信源はTwitterだった。
 このユーザーさんに、以前書いた松田聖子『Candy』のレビューを紹介していただき、それをさらに松本隆さんにリツイートしていただいていた。ありがとうございます。
 そうなるともうこっちは大騒ぎ、アクセスが伸びるわ伸びるわ、逆に怖くなっちゃったくらい。すごいよな、有名人パワーって。
 ちょっと遅くなったけど、その波に乗っかる形で、今回は松田聖子。

 1983年リリース、7枚目のオリジナル・アルバム。チャートはもちろん最高1位、当時で63万枚を売り上げおり、年間チャートでも堂々3位にランクインしている。
 先日の山下達郎『メロディーズ』のレビューでも触れたけど、この年は映画『フラッシュダンス』のサントラと、当時、世界を股にかけたディナー・ショー歌手だったフリオ・イグレシアスら洋楽勢が1、2位を独占しており、邦楽ではこのアルバムがトップとなっている。サザンやマイケル『スリラー』、達郎を抑えての成績なので、固定ファン以外への訴求力も強かったことが、結果としてあらわれている。

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 聖子以降の女性アイドル勢力図としては、目立ったところでは河合奈保子と柏原芳恵が中堅ポジションに落ち着き、その後、大豊作となった82年組の台頭、明菜をトップにキョンキョン、松本伊代が後に続いている。これが明けて83年になると状況は一転、のちに「女性アイドル不作の年」として語り継がれている。
 多少なりとも知名度のあったアイドルをピックアップしてみても、シングル・ヒットを放ったのは伊藤麻衣子と岩井小百合くらい、しかも、お世辞にも大ヒットとは言えなかった。のちにバラエティやドラマで注目を浴びることになる松本明子や森尾由美も、当時はその他大勢、行ってしまえば泡沫アイドル扱いだった。
 あまりいい目を見てなかった83年組だけど、今年に入ってから何か吹っ切れたのか、そんな鳴かず飛ばずぶりを自虐的にアピールした「お神セブン」というユニットで活動している。あまりに地味なくくりのため、単発的な小規模イベントくらいでしか需要がないのが現状だけど、長く生き残ってきた面々だけあってトークはそこそこ面白そうだし、生暖かい目で見るには肩も凝らなくていいんじゃないかと思う。なんか俺、すごく適当に書いてるな。
 ちなみに84年になると、菊池桃子や荻野目洋子、岡田有希子らがデビューしており、一気に華々しくなる。ますます谷間が際立つよな。

 70年代の女性アイドルにおけるビジネス戦略は、総じて長期ビジョンに基づいたものではなかった。演歌やムード歌謡以外の女性歌手は消費サイクルが早く、基本、季節商品として一定期間に売り切り、次のシーズンに新たなモデルを導入してゆくという、ファストファッション的な方法論がセオリーとされていた。
 ひとつの楽曲・ひとりの歌手に手間と時間をかけて育ててゆく手法は、草の根的に全国をくまなく巡る演歌や歌謡曲の歌手向けとされ、女性アイドルに応用されるものではなかった。地道なドサ回りで一枚一枚手売りするより、鮮度の良いうちに大量のテレビ出演で認知度を引き上げ、あとは全国キャンペーンで短期回収を図ることが、賢いやり方だとされていた。
 今でこそ、30過ぎで堂々アイドルを名乗ったりで、相対的に寿命は長くなっているけれど、当時は二十歳を過ぎるとアイドル路線は終了、女優に転身するかはたまた結婚・引退するか、道は二択しか残されていなかった。応援する側も演じる側も、そして供給する側も、「アイドル=十代限定」という共通認識を持っていた。ほんのごく一部のトップ以外は、年が明けると、賞味期限切れのレッテルを貼られた。本人の意向が受け入れられることはまずなく、無言のプレッシャーによってフェードアウトを余儀なくされた。
 ビジネスモデルとしては、それほどイレギュラーなものではない。アイドルを演じる方だって、若いうちの想い出作りとして、ある程度は折り込み済みだったはずだ。女優やムード歌謡へのステップとして割り切らない限り、そんなに長く続けられる稼業ではない。
 -アイドルとは、成長してゆくもの、そして、ファンも同様に成長してゆく。
 そんなビジョンを描ける製作者は、まだ少数派だった。鮮度のいいうちにチャチャッと売り逃げることこそ、美徳とされていた時代だったのだ。

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 そんな非生産的な消費サイクルに一石を投じたのが、聖子と同じCBSソニー、山口百恵のリリース戦略だった。
 十代少女の美しく儚い瞬間を拡大再生産するのではなく、それまで未開拓だった「成長するアイドル」という概念を持ち込んだのが、ソニーのプロデューサー酒井正利だった。うら若き少女が、ひとりの女として脱皮してゆくプロセス、アイドルとしてNGだった恋愛→結婚という過程を経て、華々しく引退してゆくフィナーレまでのビジョンを描き切ることができたのは、百恵という素材ももちろんだけど、酒井をリーダーとしたCBSソニー制作陣の功績が大きい。
 その百恵不在後、バトンを引き継いだのが聖子だった、という次第。

 とはいえ、最初から聖子が百恵の後継者とされていたわけではない。デビュー時は他の有象無象のアイドル同様、同じ場所からのスタートだった。
 当時、同じCBSソニーの同期に、浜田朱里というアイドルがいた。元気いっぱいでコケティッシュなムードの聖子とは対照的に、浜田は少し背伸びした大人の女性路線を志向しており、ポスト百恵としては、彼女の方が近いところにいた。楽曲の傾向も、後期百恵路線を踏襲したシックなテイストのものが多く、カワイ子ちゃんタイプの女性アイドルとは一線を画していた。
 ただ、百恵のフォロワーとして売り出された浜田だったけど、そのシックさが仇となり、聖子と比べるとアイドルっぽさが薄く、華がないことは致命的だった。女性アイドルのメインユーザーである、イカ臭い中高校生男子にとって、浜田で妄想を掻き立てるのは難しかった。当時、ブリッ子ポジションだった聖子に人気が集中するのは、ある意味理にかなっていた。

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 浜田の失速によって、結果的にポスト百恵の座は、聖子が鎮座することになる。俺が思い出す限り、その後、CBSソニーからは三田寛子や河合その子が続いてデビューしているけど、百恵や聖子ほどの勢いはなかった。南野陽子が取って代わるまで、聖子の長期政権が続くことになる。
 そんなシフトチェンジが明確になったのが、6枚目のシングル「白いパラソル」だった。作詞家として松本隆が初めて起用され、ここからしばらく全盛期の世界観を演出することになる。

 「聖子プロジェクト」における松本の役割は、単なる一作詞家の守備範囲を大きく飛び越え、中・長期的なビジョンに基づいた総合プロデュースを担っていた。歌謡曲の職業作家をあえてはずしたキャスティング、アーティスティックなビジュアル・イメージの演出など、その業務は多岐に渡っていた。
 ソニー・サイドとしても、定番のプロ歌謡曲作家より、新鮮味のあるニュー・ミュージック系アーティスト、特にソニー所属の若手の発掘に力を入れていた。例えば大江千里や楠瀬誠志郎も、キャリアの初期に聖子への楽曲提供を行なっている。知名度も少ない彼らにとっては、ネームバリューにも寄与するし小遣い稼ぎにもなるし、ソニー的にも外部へ委託するより安く上げられるので、互いにwin-winだったんじゃないかと思われる。

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 -シングルだけではなく、アルバムでも高いクオリティを維持する。
 かつて太田裕美で行なった、アーティストとアイドルのハイブリッドという壮大な実験が「聖子プロジェクト」であり、その最初の成果が、初期の名盤『風立ちぬ』である。
 松本の盟友大滝詠一と鈴木茂とをサウンド・プロデューサーに迎え、「ほぼ」はっぴいえんどのメンバーが総力を挙げて作り込んだシンフォニーは、同世代アイドルのクオリティを軽々と超えていた。特に「ロンバケ」フィーバーの余韻をそのまんま移植したA面は、60年代ガールズ・ポップをモダンにビルドアップさせたゴージャスなサウンドで構成されており、聖子ファン以外のうるさ型音楽マニアをもうならせた。

 逆説的に言えば、「聖子であって聖子にあらず」、俺的には「これってやっぱ、大滝詠一の作品だよな」感が強い。誤解を恐れずに言えば、ほぼオケはロンバケなので、大滝のカラーが強すぎる。当時のヴォーカル録りはなかなか難航したらしく、聖子も天性のカンの良さでどうにか歌いこなしている。大滝思うところの女性アイドル像はうまく具現化されているのだろうけど、聖子ファンの立場からすると、ちょっとデフォルメされ過ぎなんじゃね?感が相まっている。
 デビューしてまだ2年足らず、まだ百恵ほどキャラクターを確立していなかった聖子に対し、記名性の強いナイアガラ・サウンドは、ちょっとアクが強すぎた。大滝のプロデュース力は見事ではあるけれど、でもこのサウンドだったら聖子である必然性はない。
 そんな反省を踏まえたのか、単独のサウンド・プロデュースというスタイルはこれ一回のみで終わる。その後は松本とCBSソニー若松宗雄ディレクターがコンセプト立案、カラーに合ったコンポーザーをその都度起用してバラエティを持たせる方針に起動修正される。変にナイアガラ一色で染めてしまうより、多種多様なタイプの楽曲を歌いこなしてシンガーの経験値を上げてゆく方が、育成戦略としては得策だった。

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 で、そんなメソッドと聖子のポテンシャルとがうまくシンクロし、一曲ごとのクオリティの高さとトータル・コンセプトが具現化されたのが、この『ユートピア』ということになる。やっと辿り着いた。
 『風立ちぬ』が「大滝詠一プロデュース」という明確なサウンド志向をアピールしているのに対し、『ユートピア』は個々の楽曲レベルが高いこと、また聖子自身の歌唱反射神経がピークに達しているため、特にコンセプトで縛らなくても統一感が醸し出されている。一貫した美意識に基づいた松本の世界観、そして聖子同様、どのジャンルの楽曲にも対応できる現場スタッフらの連携がうまく噛み合ったことによって、芸術性だけでなく、セールス面でも大きく貢献している。

 作曲クレジットを見ると、財津和夫や 細野さんはいわゆるレギュラー、これまでの実績も含め、登板率は高い。杉真理なんかは同じCBSソニーの絡みだろうけど、そんなメンツの中でちょっと異色なのが、甲斐よしひろ。レコード会社も違えば、楽曲提供に力を入れていた時期でもないのに、なぜか2曲も書き下ろしている。
 甲斐自身がソニーへ売り込んだとは考えづらく、恐らく松本か若松かがオファーしたのだろうけど、ニューヨーク3部作の製作中でハードボイルド・モードだった彼にアイドル・ポップの発注をかけるとは、なかなかの英断である。しかも、仕上がってきたのが「ハートをRock」、シングル以外の人気投票では上位に入る隠れ名曲である。60年代ロックだけではなく、古い歌謡曲をも幅広いバックボーンとしていた甲斐のソングライティング力はもちろんだけど、多分、そんな背景を知らずにオファーをかけた松本らの慧眼ぶりも、なかなかのものである。

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 そんな選び抜かれた猛者たちが、「松田聖子」というアイドル=偶像をモチーフとして、メロディを作る。甲斐も細野さんも、自作自演のシンガー・ソングライターである。なので彼ら、普段は自身が歌うために曲を作る。他人に向けてメロディを書くには、違う角度からのアプローチが必要になる。
 極力、聖子の歌唱スキルやキーに応じたメロディを書く者もいれば、頑として我流を崩さない者だっている。松本とレコーディング・スタッフによるトータル・コーディネートを通すことによって、ある程度の平準化は成されるけど、それぞれ固有のクセはどうしたって出てくる。
 ヴォーカル録りや解釈に時間はかけられない。睡眠時間すら大幅に削られた過密スケジュールの中、求められるのは瞬発力だ。
 仕事の合間を縫ってスタジオに飛び込み、仮ヴォーカル入りのオケを聴きながら、歌詞を頭に叩き込む。何回もテイクを重ねる時間もないし、第一、喉がそんなに保たない。
 必要なのは、脊髄反射と洞察力、そして度胸。
 80年代を通して、それらの要素が最も秀でていたのが、松田聖子という存在である。


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 甘くてキュートでそれでいてちょっぴり背伸びした大人の女性に憧れてでもどこかあどけなさの残る爽やかなカップルの様子を、敢えてベタなストーリーに仕上げている。「Sexy」なんてコーラス、まるで身もフタもない。1曲目なんだから、紋切り型でもいいんだよ。
 ちょっとオールディーズ風味なメロディを書いたのは杉真理。同時期に、堀ちえみ出演のセシルチョコレートCMソング「バカンスはいつも雨」によって、一気に知名度を上げている。この時期の彼は、ノリに乗っていた。
 ステレオタイプな歌詞とメロディということは、女性アイドルの話法に則って作られているため、表現力が試されるのだけど、ここでの聖子のヴォーカルは、ほんと神がかっている。こんな風に歌われちゃ、当時の中高校生男子は、一気に心が持ってかれてしまう。

2. マイアミ午前5時
 地味ながらも正統派のメロディを書く職人来生たかおによる、リリース当初から人気の高かった隠れ名曲。当時、アイドルのアルバム収録曲は世間的にも重要視されておらず、ヒット曲以外は穴埋め曲で構成された乱造品も珍しくなかった。そんな中、聖子のアルバムはどれも高いクオリティで維持され、ラジオで紹介されることも多かった。そういったアイドルは、多分聖子が最初だったはず。
 語感と直感で「マイアミ午前5時」って決めちゃったんだろうけど、この曲も1.同様、なかなかクセの強い楽曲。軽快なアレンジとは裏腹に、描かれるストーリーは別れをテーマとしており、そのギャップ感がちょっと異様。

 初めて出逢った瞬間に 傷つく日を予感した

 こんなアップテンポで、普通乗せるか?こんなフレーズ。

 マイアミの午前5時
 街に帰る私を やさしく引き止めたら
 鞄を投げ出すのに

 「まちにかえるわしを やさしくひきとたら」。
 わかりやすく強調部分を太字で表現してみた。ちょっとハスキーで甘え調の聖子のヴォーカルをより効果的にするため、発語感まで緻密に計算している松本の歌詞。ヴォーカルを引き立たせるためには、時にソングライティングのエゴも抑え込んでしまう。それだけ松本が強く肩入れしていたことがわかる楽曲でもある。



3. セイシェルの夕陽
 もう35年も前の曲なのに、今も幅広い年齢層から熱い支持を得ている、大村雅朗作曲の名バラード。これの前の『Candy』収録「真冬の恋人たち」も、大人びた切ない少女の憂いを引き出すメロディ・ラインだったけど、それがさらにヴァージョン・アップ、普通ならあり得ない南海のリゾートというシチュエーションを、違和感なく演出している。いや、やっぱ強引だよな、二十歳前後の女の子が傷心旅行で海外へ、しかも当時マイナーだったセイシェルへ行くなんて、普通ありえない。
 そんな非現実的な設定で歌詞を書き、ポンと聖子に丸投げしてしまう、まるで千本ノックのような鬼しごき振り。いや、非現実=偶像、すなわちそれってアイドルの必須条件か。じゃあいいか。
 で、35年前の楽曲だし、それなりに打ち込みも使われているのに、あんまり古臭い感じがしないのは、俺の好きなAORテイストがたっぷり盛り込まれているおかげか。こうして聴いてると、聖子の表現力の豊かさがたっぷり詰まっている曲として、特筆しておきたい。考えてみれば、アイドルも含めた今の女性シンガーで、こんな風に細やかなテクニックと情感とを兼ね備えて歌う人って、もういなくなったよな。

4. 小さなラブソング
 聖子本人の作詞による、タイトル通りステレオタイプのアイドル・ソング。聖子とは相性の良い財津和夫のメロディは、破たんもなく安心して聴き通すことができる。まぁ無難な出来なんだけど。でも聖子のヴォーカルだけは尋常じゃないレベル。甘さの中に変幻自在のテクニックをぶち込んでいる。聴き流すこともできる箸休めの曲だけど、この時期の聖子は油断できない。

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5. 天国のキッス
 4月に先行リリースされた、13枚目のシングル。もちろん最高1位、年間チャートでも16位にランクイン、初期のバラードの代表曲が「赤いスイートピー」なら、アップテンポにおけるひとつの頂点である。細野さん作曲・アレンジのため、ほぼ同時期に制作された「君に、胸キュン。」とオケがまんまなのは仕方がない。
 
 愛していると 言わせたいから
 瞳をじっと 見つめたりして
 誘惑される ポーズの裏で
 誘惑している ちょっと悪い子

 他愛ない恋の駆け引きを簡潔に描写している。あまり説明口調にならないのが松本の歌詞の特徴であり、だからこそ、シンガーによる解釈と表現力とが問われる。彼の意図を最も深く理解していたのが、当時の聖子だった。

6. ハートをRock
 聖子以外にも明石家さんまやTOKIOにも楽曲提供している甲斐、ここではなぜか本名甲斐祥弘名義でクレジットされている。なんか感じだと微妙な気がするのは、俺だけじゃないはず。
 大村雅朗アレンジによるモータウン・ビートは、ある意味、70年代から続くアイドル・カバーの伝統に則っており、そのマナーに従って、聖子も可愛くキュートなアイドルとして、この曲を料理している。
 なので、甲斐もステージでこの曲をセルフ・カバーしているのだけど、それはやっぱちょっと無理やり感が強い。まぁファン・サービスみたいなものだけど、やらかしちゃったよな。



7. Bye-bye playboy
 初期はシングル楽曲を多く書き下ろしていた財津和夫だったけど、この時期になると彼の曲がシングル候補に挙がることもなくなり、ほぼアルバム楽曲専門となっている。とはいえ、ムラの少ない安定した楽曲制作力は得難い存在であり、聖子プロジェクトにおける彼の登板率は、恐ろしく高い。特別、松本隆と近しい存在でもなさそうだけど、大きくはずすことのない安心感は、何かと便利な存在だったのだろう。なんか抑えの投手みたいなポジションだよな。
 ちょっとキーを高めに設定した、旧タイプのアイドル・ソング。ちょっと苦しめの高音部分が、声の魅力を最大限に引き出している。

8. 赤い靴のバレリーナ
 甲斐よしひろ2曲目、今度は瀬尾一三アレンジによる正統派バラード。歌詞もそれに呼応してか、センチメンタルの極致をこれでもかと抉るように掘り下げている。恋をするとネガティヴになってしまう女の子の憂いを巧みに表現している。前髪という小道具を使うところなんて、そりゃもう技巧的。

9. 秘密の花園
 「天国のキッス」からさかのぼること2か月前、12枚目のシングルとしてリリースされた。もちろん最高1位、TV出演時のタイトな白のマイクロミニが、世の男子の妄想をさらに搔き立てた。
 リリースされるまで紆余曲折があったことは、よほどのファンでも知らないはず。俺も調べてみて初めて知ったくらい。
 もともとシングル向けの楽曲を財津和夫にオファーしていたのだけど、締め切りまでにプロデューサーのOKが出ず、財津は辞退する。リリース日が迫る中、急遽、ユーミンが引き継いで、どうにか間に合った、という逸話が残っている。
 スケジュールの都合上、先に仕上がった詞に曲が後付けされる、なかなか珍しいケースだけど、そこをどうにかねじ伏せて形にしてしまうのは、さすがユーミン。でもユーミンのことだから、この甘ったるい寓話的な歌詞だったら、鼻で笑ってたんだろうな、という気がしてならない。

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10. メディテーション
 ラストはこれが初登場、上田知華作曲による変則リズムのミディアム・スロー。松武秀樹参加による影響もあって、ゴリゴリのシンセ・ベースが全篇流れており、それでいてクラシックがバックボーンの上田特有のつかみづらいメロディは、このアルバムの中でも異色の存在。これまでのセオリーと違うリズムとメロディに、さすがの聖子もついてゆくのが精いっぱいといった感じ。
 後年再評価されることを前提としているならともかく、通常のアイドル・ポップスとしてはちょっと異色すぎるかな。松本の歌詞にしては珍しく抽象的でスピリチュアル風味も漂っており、なかなか捉えどころのない曲。だから面白いんだけど。



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80年代ソニー・アーティスト列伝 その7 - 松田聖子 『Candy』

folder 以前、「ソニーというレーベル・カラーを最も象徴しているのが米米クラブだ」と書いたのだけど、あくまで一面を担うものであって、レーベル総体を代表したものかと言えば、「それもちょっとどうか」と自分でも思う。セールスやキャリアの面だけで見ると堂々とした実績ではあるのだけれど、多分そんなポジションとは最も遠いキャラだし、第一米米自身も「イヤイヤそんな大役を仰せつかるなんて恐縮っすよ」と尻込みしてしまうことだろう。立ち位置的にはプロのひな壇芸人であって、メインMCを張る柄ではないのだ。
 そうなると、80年代ソニーの持てるポテンシャルをすべて結集し、しかもそれがきちんと結果として表れ、誰もが「あぁそう考えるとそうかもしれないね」と納得してしまうアーティストとなると、松田聖子という結果に落ち着く。もちろん聖子という類いまれなる素材があってこそだけど、初期ブレーンとしてトータル・プロデュースの任にあった松本隆の存在は欠かせない。この2人の奇跡的な出会いによって、80年代のソニーは大きく躍進したと言ってもよい。

 このアルバムがリリースされたのは1982年、80年デビューなのに、すでにもうオリジナル・アルバムとしては6枚目である。もちろんオリコン1位を獲得、翌年の年間チャートでも堂々12位、40万枚オーバーという記録を残している。この時期の女性アイドルは聖子と中森明菜の2トップ時代にあたり、トップ20に2人で2枚ずつチャートに送り込んでいる。
 ちなみに聖子のアルバムとして代表的なのは、大滝詠一がプロデューサーとして一枚噛んでいる名作『風立ちぬ』であり、一般的にはそちらの方の評価が高い。俺的にも大滝詠一はこのブログでも何度か取り上げているくらいだから、流れで行けばそっちを取り上げるところなのだけど、なぜこのアルバムを取り上げたのかといえば、俺が最初に買った聖子のアルバムだから、という単純な理由による。だって俺、『風立ちぬ』ってちゃんと聴いたことないんだもん。

 80年代アイドルのリリース・スケジュールとして、3ヶ月ごとのシングル、半年ごとのアルバム・リリースは定番の流れだった。それに加えて、コンサートだテレビ出演だ取材だ写真集だ映画撮影だサイン会だエッセイ集だと、とにかくてんこ盛りのスケジュールが組まれるので、ほんと寝る暇もないくらい、レコーディングだってスタジオに入ってすぐ歌わされてワン・テイクかツー・テイクでオッケーというのが日常茶飯事だった。
 アイドルに限らず歌謡界全般において、当時のアルバムというのはベスト盤的な意味合いが強く、ある程度シングルが集まったら、そこにカバー曲やシングル候補のボツ曲を足し、カサ増ししてリリースするというのが一般的だった。何しろハード・スケジュールだったため、レコーディングにそんなに時間をかけるわけにもいかない。曲をひとつレコーディングするくらいなら、その時間で地方営業に行った方が利益も上がるし知名度も上がる、という考え方である。
 そう考えるとこれって、今のJポップ事情と何ら変わらない状況でもある。わざわざアルバム1枚丸ごと聴くという行為が廃れてしまって、市場自体が尻つぼみになってしまうようになるとは、誰も思いもしなかったけど。

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 聖子よりひとつ前の世代、ピンク・レディーや榊原郁恵、石野真子あたりはシングル中心の営業戦略で展開されていたので、これといった代表的アルバムがない。ごくまれに、吉田拓郎が石野真子やキャンディーズに楽曲提供したりなどのアクションはあったものの、そのほとんどはシングルのみ、話題性を集めることが難しいアルバムへの提供はほとんどなかった。社員ディレクターがルーティンでこなす流れ作業的な仕上がりは、お世辞にも凝った作りではなく、ていうか出来不出来を問うレベルの商品ではなかった。大判のブロマイドにおまけでビニール盤が付いてきたようなものである。なんだ、それこそ今と変わんないじゃん。
 その風向きが変わったのが聖子から、と言いたかったのだけど、もうちょっと前に遡る。

 それまではコンセプトもへったくれもない、寄せ集め的な作りだったアイドルのアルバムに変化をもたらしたのが、聖子と同じCBSソニーの先輩にあたる山口百恵である。彼女もアイドル中のアイドル、王道をひた走っていた人だったけど、70年代末辺りから文化人界隈で「山口百恵は菩薩である」という斜め上の風潮が持ち上がってからは、アーティスティックな側面を見せるようになる。
 自らライターとして指名した宇崎竜童・阿木燿子のゴールデン・コンビによる一連のシングル・ヒットを軸として、さだまさしや谷村新司など、主にフォーク系のシンガー・ソングライターを積極的に起用していった。いわゆる職業作曲家によるお仕着せのアイドル・ソングに満足せず、まだ十代ながら「こういった歌を歌いたい」というはっきりしたビジョンを持っていたこと、そしてまた指名を受けた作家陣も、自演曲にも劣らぬクオリティの作品を惜しみなく提供していったことが、百恵の神格化をさらに裏付けしていった。

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 で、もうひとつの方向性、「アーティスティックなアイドル」として展開していたのが百恵だけど、そこから発想の転換、「アイドル性を持ったアーティスト」を志向していたのが、同じくCBSソニー所属の太田裕美である。
 スクールメイツというキャリアのスタート、同期にキャンディーズのメンバーがいたことから、そのまま行けばど真ん中のアイドル路線を歩むはずだったのが、シンガー・ソングライターとしての適性と「ザ・芸能界」ナベプロの方針によって、ニューミュージックと歌謡曲とのボーダー・ラインで活動するようになる。
 当初はフォーク調のサウンドがメインだったのが、松本隆稀代の傑作”木綿のハンカチーフ”の大ヒットによってお茶の間での知名度が高まり、次第にアイドル的活動の方がメインになってゆく。本人的には自作自演アーティストとしてのアイデンティティを重視したかったのだけど、自作曲が採用される機会も少なく、現役当時はそれがストレスになっていたようである。
 80年代に入る頃からアイドル活動をセーブして、次第にアーティスト活動をメインにシフトさせてゆくのだけど、当時はまだソニーにも彼女のようなタイプのアーティストを育ててゆくノウハウがなく、一貫した方針を立てられなかったことは不幸でもある。
 この年代で同傾向のアーティストとして、代表的なのが竹内まりやと杏里が挙げられる。この2人も太田同様、当初はアイドル的活動が中心だったのだけど、うまくアーティスティックな方向性へシフトできたのは、長期的ビジョンを持ったブレーン・スタッフの存在に尽きる。消費期限の短いアイドルより、マイペースで息の長い活動ができるアーティスト路線を選択できたことが、彼女らの命運を分けた。てことは、悪いのはナベプロか、やっぱ。

 で、聖子の場合だけど、今でこそ彼女も作詞・作曲・プロデュースもこなすようになっているけど、当時は類型的なアイドルのひとりでしかなく、自作といえば簡単なポエムくらい(とは言ってもそれすら怪しいのだけど)、太田のようにピアノで弾き語りするスタイルでもなく、またそういった需要もなかった。なので、方向性としては百恵にかなり近い。
 百恵と聖子に共通するのは、「まだ何物でもないひとりの少女が、たゆまない努力と修練を経ることによって、ひとりの女性として磨きをかけ、そしてひとりの人格として成長してゆく過程」をドラマティックな演出のもと、リアルなドキュメントとして見せていったことである。デビューして間もない垢抜けない少女が、スポットライトと観衆の洗礼を受けてスターとしての人格を形成し、そして次第にに洗練されてゆく様を、悲喜劇を交えたサクセス・ストーリーとして成立させた。明快な起承転結を思わせるそのストーリーは、第三者の感情移入を容易にさせる。刻一刻と変化するアイドル=女性の成長ストーリーは、一度ハマると第三者的な視点では見れなくなり、時にそれは家族よりも、恋人よりも近しい存在になりうる。
 この頃はまだマーケティング理論もおそまつなものだったので、現代の視点からするとそのストーリー展開にもツメの甘い部分が見受けられるのだけど、そのハンドメイド感、手探りでの演出は親近感をより密にさせる。今どきのあざとい感じが少ないのだ。

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 とはいえ百恵の時代はまだ歌謡曲的なテーゼが強く支配しており、結局のところはヒット・チャート至上主義、シングルを軸にしたコンセプトで進行していたため、アルバムまで徹底していたかといえば、ちょっと微妙になってくる。いま振り返ってみると、個々の楽曲のクオリティは高いのだけど、アルバムに即したプロモーションが行なわれることはなかったため、本格的な再評価はいまだ行なわれていない。
 で、その辺の反省から転じてビジネス・チャンスを見いだしたのか、高いクオリティの楽曲をシングルだけじゃなく、アルバムにおいても等価値で練り上げてゆき、既存のアイドルとはひと味違ったイメージ戦略で演出されていたのが松田聖子であり、その総監督的ポジションについたのが松本隆だった、という構図。

 この松本主導による「聖子プロジェクト」概要については、松本本人以外でもさんざん語られているので、ここではサラッと流しておく。単なる一作家に収まらず、前述した大人への成長ストーリーをディテールまできっちり描いた上、スタッフの思惑以上に伸びしろのあった聖子の急成長に伴って、随時コンセプトをブラッシュ・アップさせていたことは特筆に値する。
 このアルバムでは、その松本とのコラボレーションも順調に進行していたこともあって、これまでとは少し方向性を変えて、収録シングル曲は”野ばらのエチュード”のみという地味な構成になっている。数多のアイドルのアルバムとは一世を画し、キャッチーな曲の寄せ集めではなく、20歳を迎えつつある女性の虚ろな心境をうまくパッケージングした、シックな味わいで統一されている。
 この後ももう少し「聖子プロジェクト」は遂行されてゆくのだけど、彼女の結婚が報じられると共に、それは突然の終焉となる。松本にとって聖子とは、白いキャンバスのごとく無色無地の素材であり、自身の思い描く「普通の少女の成長ストーリー」を投影してゆくには格好の対象だった。ただ、成長とは自我の形成であり、自意識は日増しに強くなってゆく。松本のビジョンと聖子のそれとでは次第にズレが生じるようになり、それは少女時代の終わり、一方的な恋から相互的な恋愛を知ることによって、切実さは失われてしまう。
 蜜月は終わってしまったのだ。


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1. 星空のドライブ
 タイトルから想起させるスペイシーなエフェクトからスタートする財津和夫作品。シングル曲8.もそうだけど、この頃は財津メロディとの相性が良く、”白いパラソル”などシングルの採用率も高い。母体のチューリップも1000回記念ライブを行なったりなど、キャリア的にも脂の乗っていた時代でもある。
 いま聴いてみると、思ってたよりヴォーカルのハスキー感が強調されている。この少し前に喉を痛めたせいもあって、デビュー当時と比べると声質が微妙に変わっている。アイドル然とした初期のファニー・ヴォイスが一般的な印象だけど、ややかすれ気味に変化することによって細やかな「憂い」を表現することも可能になった。それを受けた松本の歌詞も、以前より年齢設定を上げることによって、「少女」目線の世界観が少し広がっている。
 ここでの聖子は、彼氏に対して少し上から目線。異性が単なる憧れの対象ではなく、対等に近い立場からの視点で描かれている。

2. 四月のラブレター
 いま聴いてみると、"恋のナックルボール”をそのまんまマイナー展開した、大滝詠一作オールディーズ・タッチのスロー・ナンバー。この時期はまだ『Each Time』のレコーディング前だけど、すでにある程度の構想が固まっていたことが窺えるナンバー。
 しっかし歌いこなすのが難しいサビだなこりゃ。これをきちんと解釈して歌いこなす聖子もそうだけど、まるっきり自分のキーで作った大滝も大瀧で。

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3. 未来の花嫁
 当時隆盛だったテクノポップ歌謡的なイントロで始まる、ノリの良いポップ・チューン。財津和夫が書いた聖子ナンバーの中では1、2を争うクオリティのメロディで、調べてみると実際今でも人気の高いナンバー。そう、初期聖子はシングルB面やアルバム収録曲にも名曲が山ほどある。”制服”だって”Sweet Memories”だって、最初はB面扱いだったし。
 友達の結婚式にカップルで出席するというシチュエーションから、実年齢よりもう少し上の設定になっている。

 あなたはネクタイを ゆるめながら
 退屈な顔
 私たちの場合 ゴールは通そうね

 プロポーズはまだなの
 ねぇ その気はあるの
 瞳で私 聞いてるのよ

 強くたくましくなった女性のように見えるけど、すべては心の中の声であって、彼に対してはっきり言葉にしてるわけではない。
 まだそこまで強くなってはいないことを暗示させる、松本隆ならではの陰陽の世界。



4. モッキンバード
 聖子プロジェクトでは初登場の南佳孝によるミディアム・ポップ・ナンバー。思えばデビュー作プロデュース以来、松本とは旧知の仲なので、遅まきながらの登場といった感じ。冒頭いきなりアカペラのサビメロが、いかにも南といったメロディ・ライン。この頃の南はシティ・ポップの先陣を切った活躍ぶりで、自身のアルバムでも名曲を連発していた。
 ちなみにモッキンバード、俺が知ってたのはギターのブランドだけど、歌詞の内容からして、それとは関係ないよなぁと思って調べてみると、マネシツグミというスズメに似た鳥のことだった。多分、語感で選んだとものと思われる。だって、何の変哲もない普通の鳥だもん。

5. ブルージュの鐘
 後に傑作”ガラスの林檎”を生み出すことになるmはっぴいえんど時代からの盟友、細野晴臣が初登場。ここでは大滝詠一に対抗したのか、壮大なスケールを持つスペクター・サウンドを披露。
 ちなみにブルージュとは、運河が張り巡らされたベルギーの古都。古い石造りの建物がロマンティックな郷愁を誘う、ってなんか観光ガイドみたいだな。

6. Rock`n`roll Good-bye
 再び大滝詠一作による、タイトル通りのロックンロール・ナンバー。もともとはElvisをルーツとした人なので、こういったサウンドならいくらでも作れちゃうんだろうな、きっと。でも自身のジャッジが厳しすぎて、なかなかOKテイクを出せないのも、この人ならでは。
 後の"魔法の瞳”を思わせるエフェクト、テープ逆回転など、いろいろスタジオで遊んでいるのだけど、これが『Each Time』へとつながる実験として考えると、なかなか興味深い。



7. 電話でデート
 再び南によるしっとりしたミディアム・ナンバー。4.では少し聖子サイドに気遣いすぎた感もあったけど、この曲の方が聖子との相性が良い。地味だけどね。うっすらとバックで鳴るレゲエ・ビートとライトなブルース・ギターとのマッチングが絶妙。大村雅朗の神アレンジである。
 やや年齢が後退して、ちょっとしたケンカ中の高校生の電話中というシチュエーション。ママが心配してるというくだりなど、今では成立しない歌詞の世界は同世代の共感を誘う。そうなんだよ、長電話するとプレッシャーがすごいんだよ。しかもうち、電話は茶の間だったんで、コードを長く引っ張って自分の部屋で喋ってたもの。

8. 野ばらのエチュード
 財津3曲目。11枚目のシングルで、オリコン1位。やはりシングル向けということで、Aメロ→Bメロ→サビというパターンを踏襲しており、アルバムの中に入ると少し地味な印象になってしまう。ヒット・シングルをこんな地味なポジションに配置してしまうことは普通ありえないのだけど、アルバムとしてのコンセプトをきっちり固めていたことによって、ここに入れるしかなかったのだろう。
 聖子の名前が入れば何でも売れた時代だし、それなりにクオリティは高いのだけど、同年にリリースされた"赤いスイートピー”のインパクトが強すぎて、シングルとしても地味な印象。そろそろ財津との蜜月も終わりに近づいていたのだ。

ダウンロード

9. 黄色いカーディガン
 再び細野。久しぶりに聴いてみると、なかなかソリッドなテクノポップ歌謡だったのでビックリ。いいじゃん、これ。
 再び大滝詠一にとどめを刺そうとしたのか気まぐれなのか、モダン・テイストのスペクター・サウンドに仕上がっている。これもなかなか難しいヴォーカライズだけど、よく歌えたよなこんなの。細野の仮歌って、音域狭そうで参考にならなさそうだし。

10. 真冬の恋人たち
 ほぼ全編でアレンジを務めている大村雅朗作曲による、ラストを飾るに相応しいバラード・ナンバー。実はコーラスに杉真理が参加しているので、てっきり杉作曲だと思っていた。メロディなんてビートルズ・オマージュに満ちあふれたポップ・チューンだし。
 あまり仰々しくならないところが、この曲の魅力だと思う。初期聖子のバラードとして有名なのが”Only My Loveで、確かにあれはあれでメルクマール的な名曲なのだけど、あまりに名曲然とし過ぎて時にクドイ感じになってしまうのも事実。このくらい肩の力が抜けた小品の方が、この時期の聖子には合っている。






 松田聖子=松本隆がアイドルの新たな方向性を切り開いたことによって、「アーティスティックな方向性のアイドル」が存在することも可能になり、それはのちに森高に引き継がれ、現代のももクロまで続くことになる。
 それまで一元的だったアイドルという存在が多様化し、様々な解釈が可能になったことは、ソニーの功績大である。
 ただ、しかし。ソニーとしては、まだ未解決の問題が残っていた。
 発想の転換である「アイドルっぽいアーティスト」の路線について、ソニーはまだ諦めていなかった。前述のまりやや杏里が好評を記したように、その路線にニーズがあることは間違いがなかった。
 太田裕美の成長戦略が消化不良だった反省を踏まえ、今度はもっとコンパクトに、小さなバジェットから始めることにした。松本のコネクションを活用した既存のシンガー・ソングライターではなく、自前のソニー所属若手アーティストを積極的に登用することによって、予算の抑制と共に新世代の育成も兼ねる方針を取った。前例に捉われない自由な感性のもと、彼らの実験的なサウンドは先入観の薄いティーンエイジャーらの心をつかむようになる。
 その研究成果の実践として世に出たのが渡辺美里である。
 長くなり過ぎたので、次回に続く。



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北海道の中途半端な田舎に住むアラフィフ男。不定期で音楽ブログ『俺の好きなアルバムたち』更新中。今年は久しぶりに古本屋めぐりにハマってるところ。
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