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 80年代以前まで、女性アイドルは短期消費する単年度の季節商品と相場が決まっていた。歌手の成長に合わせてテーマ/コンセプトも変化させてゆく、そんな長期スパンで考える者はいなかった。
 70年代までは、鮮度の良い商材を短期で回転させるビジネス・モデルが最良とされていたのだけど、80年代に入ると、良質な素材を中期ペースで成長させ、固定ファンを広げてゆく戦略が主流となってゆく。一発大ヒットを狙って次々と新人デビューさせるより、伸びしろありそうな中堅に投資して、手堅く実績上げる方が、コスパ的にいいもんな。
 70年代までの女性アイドル・デビューといえば歌手一択だったのだけど、80年代に入ってからは、その線引きも曖昧になってゆく。芝居やグラビアからデビューして、その後に歌手デビュー、または同時デビューというパターンも多くなってゆく。
 単に歌だけじゃなく、映画やドラマ出演で印象付けてゆく手法は昔からあったのだけど、それを大掛かりなプロジェクトとして仕掛けたのが、角川春樹だった。あらゆる企業を巻き込んで、メディアミックスによる大規模プロモーションは、その後のアイドル販促のフォーマットとして確立される。
 父親の跡を継いで角川文庫の社長に就任した春樹は、文庫キャンペーンとしては前代未聞の、映画を活用した販促を思いつく。いま思えば「それって逆じゃね?」的な発想だけど、大量のテレビCMと大掛かりなプロモーションによって横溝正史『犬神家の一族』は大ヒット、それを機に、映像事業へ本格的に進出することになる。
 「映画と文庫、どっちも相乗効果で売れたんだから、さらに他の要素も足したら、もっと効果絶大じゃね?」というねずみ算的発想で着手したのが、主題歌。『人間の証明』の主要キャストだったジョー山中に主題歌を歌わせると、こちらも大ヒット。さらに、CM以外に歌番組という宣伝媒体が増えたことが、角川的にも大きなメリットだった。
 さらに発想は進んで、ムサい男より、若い女の子主演の方がファン層広がるし、ていうか、それ前提で原作選んだ方が、『復活の日』みたいな大規模スペクタクル大作より予算がかからない。さらにさらに、せっかく歌番組のルート開拓したんだから、アイドル要素入れた新人女優にテーマ曲歌わせたら、もっとすごくね?的な―。
 こうやって書き出してみると、まるで小学生の世界征服プランみたいな戦略だけど、これがまた全部うまく行っちゃったもんだから、当時の角川は無双状態だった。そんな経緯で女優/歌手デビューしたのが、薬師丸ひろ子・原田知世・渡辺典子、俗に言う「角川三人娘」。
 彼女たちのメインは映画女優であり、テレビを主戦場とする既存の女性アイドルとは、そもそも基本スタンスが違っていた。従来アイドルならレコード・セールスを上げることが最大目的になるけど、角川にとっては、あくまで映画がメイン、レコードはあくまで副産物という形となる。もはやこの時点で、文芸部門は後付けに過ぎない。
 彼女らの楽曲コンペでは、単にノリが良かったり、しっとりしたバラードという曖昧な基準ではなく、映画ストーリーとリンクした世界観を持つ楽曲でなければならなかった。いくらシングルが売れたとしても、映画と本が売れなければ、無意味とされた。
 優秀な実業家でありながら、同時に繊細な歌人でもあった春樹の美意識が強く反映されていたこともあって、80年代までの角川作品は、どのジャンルも高い品質を誇っていた。ギリギリ『天と地』とくらいまでは、どうにか映画としての体裁は整ってはいたはずなんだけど、多分アレだな『REX』。いまもカルト映画として、ある意味語り種になってるけど、「恐竜と少女の友情」ってコンセプトで製作しちゃったのは、ちょっと無謀だったよな。

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 ちょっと大人びたキャラもあってか、アイドル的な売り方に沿わず、早々にフェードアウトしてしまった渡辺典子はともかく、薬師丸ひろ子と原田知世に共通しているのは、特別「女優」だ「歌手」だと割り切らず、どちらもバランス良くキャリアを積み上げている点にある。2人とも角川から独立以降、主役を張る機会は少なくなり、映画主題歌を担当することもなくなったけど、その後も映画や舞台、ドラマと並行して、音楽活動を続けている。
 変にキッチリ線引きせず、その時その時の自分の感情をダイレクトに表現できる手段として、演技と音楽、それぞれ種類の違うアウトプットを持てることは、幸福な状況である。そりゃうまく行く事ばかりじゃなく、表現者として行き詰まりを感じる時もあるんだろうけど、それすらもバネにしちゃうんだろうな、女優って生き物は。
 完全なひとり芝居でもない限り、映画やドラマは様々なノウハウを結集した集合芸術であるため、出演者もまた、構成パーツの一部に過ぎない。俳優独自の演技プランがあったとしても、全体像を把握する監督や演出家の意見が優先される。
 理解はするけど、納得はできない。見解の相違を呑み込み、指示には従うけど、アーティストとしてのエゴは心中に澱む。
 表現者としてのエゴを溜め込まず、違うベクトルで発散することで、演技者としての寿命は伸びるのかどうか、その辺は意見が分かれるところだけど、人としてのメンタル安定に役立つことは確かである。
 なので、演技で生ずるストレスへの代償作用として、別の趣味や作業に没頭することでバランスを取っているアーティストは多い。工藤静香なら油彩画だし、哀川翔ならカブトムシだし。そんな選択肢のひとつとして、音楽活動があるわけで。
 ここでやっと本題、斉藤由貴となる。長かったな、ここにたどり着くまで。

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 斉藤由貴は少年マガジン主催の「ミス・マガジン」コンテストでグランプリを受賞したことがきっかけで芸能界デビューしている。通常のアイドルとは違い、歌手やドラマではなかったのだ。
 決定的な看板作品がないことで、絶対王者「ジャンプ」はおろか、2位「サンデー」にも大きく引き離されていた80年代の「マガジン」は、マンガ雑誌なのにやたらグラビアに力を入れていた。発行部数も認知度も前2誌に比べて少なかったため、「受賞しても、大したアドバンテージじゃないんじゃね?」と勝手に思っていたのだけど、wikiで調べてみると、同年準グランプリが田中美奈子、初代グランプリは伊藤麻衣子と、案外、逸材が発掘されている。さとう珠緒や細川ふみえも受賞しているんだな。どうやら中高校生にウケの良い、水着映えするグラビア系アイドルを発掘していたようである。
 そう考えると、キャリア通して肌の露出度の少ない斉藤由貴は、この顔ぶれの中では異色である。ただ考えてみれば彼女、「ミス・マガジン」だけじゃなく、芸能界全般においても、ずっと異質のままだったことに気がついた。
 その後、「青春という名のラーメン」CMを経て、デビュー曲「卒業」に行き着くのだけど、「明るく元気でフレッシュな」ステレオタイプとは違うイメージが前面に出されていた。デフォルメされた「スケバン刑事」のキャラとは違う、歌番組で見る斉藤由貴は、いつも居心地悪そうにしていた。「余計なことは言っちゃいけないんだ」と釘を刺されているかのように、ちょっと挙動不審な溶け込めなさは、多くのアイドルたちとは明らかな隔たりがあった。
 特に歌番組のトーク・コーナーでの受け答えは、聞いてる方がもどかしくなってしまうことが多かった。思ってることをちゃんと伝えたいのに、いつも違う言葉ばかり出てしまう。もっとちゃんとしようとすると、緊張して、さらに会話が続かない。
 思ったことを忘れないうちに喋るため、つい性急な舌足らず口調になってしまう。会話を成立させることを諦め、司会者も適当に受け流してしまう。言葉のキャッチボールを続けるより、さっさと歌ってとっとと帰りたい感がずっと漂って、いつもぎこちない雰囲気になってしまう。
 ただ歌に入ると、その印象は一変する。清廉な少女の面影は一点の曇りもなく、たおやかな発声はどこまでも澄みきっている。
 その声はお茶の間のファンだけではなく、多くのクリエイターの創作意欲を掻き立てた。中途半端なテクニックに頼らない素直な発声を活かすため、彼らは斉藤由貴が魅力的に映えるメロディを生み出した。

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 一応斉藤由貴、ここまでの軌跡を辿れば、様々なすったもんだや紆余曲折があったはずなのだけど、これまで関わってきた作品には、そういったネガティヴさは反映されていない。周囲の嘲笑や批判もなんのその、女優として歌手として、マイペースに着実にキャリアを積み上げている。
 ゴシップ的なところは調べてもらえればわかるはずなので割愛するけど、普通、これだけ恋愛遍歴を重ねてきた女性なら、もっと「魔性の女」的キャラに鞍替えしているはずなのだけど、斉藤由貴の場合、そんなキャラ変ぶりはちっとも見られない。恋愛を芸の肥やしにする女優はいくらでもいるはずだけど、近年は母親キャラが多くなったくらいで、天然さをベースとした斉藤由貴の芸風に変化はない。
 もしかして本人的には、絶え間ない努力を惜しまず、演技の鍛錬に切磋琢磨しているのかもしれないけど、少なくとも表面的に大きな変化は見られない。「変わらないこと」を自らに課しているのかもしれないけど、多分、感ずるまま・赴くがままに歩んでいるのだろうな。
 そんな傍若無人ぶりに振り回されたのが、これまで付き合ってきた男たちであって。考えてみればみんな、彼女と出逢って以降は、何やっても空回りっぽいしな。
 90年代以降の彼女しか知らない世代にはわかりづらいだろうけど、俺のようなアラフィフ世代にとって、斉藤由貴とは特別な存在である。どれほど不倫だスキャンダルだでまみれようとも、10代の斉藤由貴をリアルタイムで知り、そして互いに走り抜けてきた俺たち世代は、彼女の透明感を信じてきた。50を過ぎてなお、凛とした彼女の姿を見、そして歌声を聴くと、コロッと翻弄されてしまうのだ。
 ほんと男って、いくつになってもバカだ。
 でも、「バカでいいのだ」と思っている自分も、大好きだ。

 そんな斉藤由貴が、デビュー35周年を記念して、セルフカバー・アルバム『水響曲』をリリースした。「あぁ、まだ歌ってるんだ」っていうのが、正直な感想だった。過去を振り返る現在の斉藤由貴に、どれだけ需要があるのか?穿った見方しかできない俺がいた。
 なので、すごい適当な気持ちで、ほぼ好奇心だけで、ほんとお試しでAmazon Musicでニュー・アレンジの「卒業」を聴いてみたのだった。みたのだけれど…。
 ナメてたわ、
 一撃だった。
 心を持ってかれる声は、ほんと久しぶりだった。もう、止まらない。
 「10代だった」頃の斉藤由貴をなぞっているのではない。かといって、50代になった斉藤由貴が、「ありのまま」をさらけ出しているのでもない。
 俺たちが「こうあってほしい」斉藤由貴の理想像を構築するため、プロデューサー武部聡志が巧みに、最大限の効果が発揮できるようにお膳立てをしている。彼女の歌声にフォーカスするよう、アレンジはごくシンプルに、それでいて、贅沢に丁寧に仕上げられている。
 音楽に対して真摯な気持ちで向かい合い、歌い手に寄り添って書き上げられた、言葉と旋律。楽曲を引き立たせるため素直に、そして丹精に組み上げられた演奏。
 そして、歌声-。
 すべてのパーツを時間をかけて磨き上げ、そしてシンプルに組み上げれば、これだけの作品ができるのだ。
 なんていうかもう、今年のベスト・アルバムはコレで決まり。俺世代のツボをピンポイントで突いちゃったな。





1. 卒業
 19歳の時のデビュー曲を、まったく違うシチュエーションでありながら、どうやって歌えばいいのか、って考えるのは無粋なことで、誰も斉藤由貴にそんなことを求めているはずがない。ただシンプルに、いまの想いを込めて丁寧に歌えば、それで成立してしまうのだ。
 当初から完成されていた歌唱のオリジナルに対し、53歳の斉藤由貴はムリに過去に寄せようとせず、「俺たちが思うところの」斉藤由貴を見事に演じている。感情の抑揚はヴァージョン・アップしているけど、変に技巧的にならず、ナチュラルなテイストが醸し出されているのは、本人だけじゃなく、効果的なストリングス・カルテットを配した武部の精緻なアレンジメントが大きくかかわっている。



2. 白い炎
 まだちゃんとしていた頃の安全地帯:玉置浩二が提供した、ドラマ「スケバン刑事」主題歌としてリリースされた2枚目のシングル。ホンワカしたガールズ・ポップ調だった「卒業」とは一転、ドラマのテーマに合わせてロック・アレンジだったのは、当時からミスマッチだと思っていた。
 対して『水響曲』ヴァージョンは、荘厳としたストリングスを全篇に使った重厚なバラード。このアレンジをバックに、10代の斉藤由貴なら歌いこなせなかっただろうけど、年齢を経ることでサウンドに対峙できるようになった。
 単なる歌というより、劇中歌のようなアプローチを取っており、ある意味、抽象的で暗喩の多い松本隆の世界観が、ここでは説得力を持つストーリーとして昇華している。女優:斉藤由貴の凄みが最も反映されている曲。

3. AXIA 〜かなしいことり〜
 シングル・カットはされていないけど、デビュー・アルバム『AXIA』のタイトル・トラックであり、当時、富士フィルムがカセットテープの新ブランド「AXIA」を設立した際、CMソングとして起用されたため、ファンの間では定番曲として人気が高い。
 「ぜひ斉藤由貴に歌ってほしい」と、銀色夏生が自ら売り込んできた歌詞は、これまでのティーン・アイドルの作風とは違い、メランコリックで刹那的な印象。いま思えば、CMソング向けの歌詞じゃないよな、これ。
 「二股かけてたけどどっちとも別れられなくて、そんなふたりは「かなしいことり」だねって受け流して、優しい言葉とため息でそっと私を責めないで」って、まぁいろいろシャレにならない内容を、オリジナルはただ言葉を追うように素直に歌っているのだけど、じゃあ53歳になって、酸いも甘いも噛み分けて、どんな顔して歌っているのかと言えば。
 何も変わってねぇ。斉藤由貴は、斉藤由貴のままだった。もともと変にすれたアプローチの合わない曲調ではあるけれど、53歳の斉藤由貴は、変わらぬ表情で歌っている。
 でも、これこそが「俺たちが思うところの」斉藤由貴なのだろう。その想いは武部聡志も同様である。
 
4. 初戀
 オリコン最高3位を記録した3枚目のシングル。デビュー1年弱でノン・タイアップでこの成績だから、既に安定した人気を保っていたことが窺える。
 オリジナルは「卒業」タイプの切なくアップテンポのシンセ・ポップだったけど、ここではしっとり丁寧なピアノ・バラードと装い新たにしている。やや上滑り気味だったオリジナルと比べ、切々と歌い上げることで、「決して成就しない初恋」を描き続ける松本隆の世界観が浮かび上がってくる。

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5. 情熱
 初主演映画『雪の断章 -情熱-』の主題歌としてリリースされた、4枚目のシングル。地味な原作のせいもあって俺は未見だけど、厳しい演技指導で定評のある相米慎二との出逢いは、その後の女優キャリアの形成には役立ったと思われる。
 初期の中島みゆきのような歌詞を書いたのは松本隆だけど、多分、映画の世界観に合わせたんだろうな。あまりに作風が違うもの。「子供のように泣きじゃくるわ」とか「多分一生恨むでしょうね」って言葉は、彼にとっては黒歴史だな。
 独り芝居というか朗読劇を聞いているかのように、セリフを噛み締めるかのように歌う、53歳の斉藤由貴。特にサビのパート、あらゆるスタイルで歌われる「情熱」の言葉。「女は生まれながらの女優」という言葉があるけど、それも斉藤由貴の前では霞んでしまう。

6. 悲しみよこんにちは
 テレビアニメ「めぞん一刻」のオープニング・テーマとしてリリースされた、玉置浩二作曲による5枚目のシングル。伸びやかなアルト・ヴォイスと、オリジナルのシンセ主体のパワー・ポップ・アレンジとの相性は良い。まぁバラード主体だったら、本人も飽きちゃうだろうし。
 ちなみに、『水響曲』リリース時に受けたインタビューにて彼女、当時はプログレ好きの兄の影響で洋楽に興味があり、シネイド・オコナーやアニー・レノックス、マドンナやスザンヌ・ヴェガと、手広く聴いていた、とのこと。このメンツではマドンナが異色に見えてしまうけど、当時は誰もがマドンナを聴いていたのだ。今よりずっと洋楽が身近だった時代の話。
 しっとりした切なげなヴォーカル・アレンジが多い『水響曲』だけど、オリジナルのテンポに準じたこともあって、ここは少し軽快に、語り掛けるような歌い方。イヤやっぱカワイイんだよな、斉藤由貴。
 年齢なんて、関係ない。カワイイはやっぱり、正義だ。



7. 青空のかけら
 ここまでの路線と大きく変化した、ダンス・ポップに寄せた7枚目のシングル。調べてみて初めて知ったけど、これが斉藤由貴唯一のオリコン1位獲得シングル。ちょっと意外。多分、俺だけじゃなく、80年代アイドルに詳しい人も、意外に思うだろう。
 でも久しぶりにオリジナルを聴いてみて、ついでに当時のテレビ出演映像も見てみて、洗練されたメロディとリズム・アレンジに、ちょっと引きつけられた。シティ・ポップとして、今も充分に通用するんじゃないか、と本気で思う。
 導入部が難しい、ちょっと歌いづらい出だしのコード進行を、53歳の斉藤由貴は22歳の時と変わらず、きちんと歌いこなしている。でもゴメン、この曲だけはオリジナルの方が惹かれてしまう。なんでも手放しで絶賛するわけではないのだ。そこら辺はわかってほしい。



8. MAY
 主演映画『恋する女たち』の主題歌としてリリースされた、8枚目のシングル。デビューして3年目、アイドル以降の路線を確立したこの時期の斉藤由貴の楽曲は、地味ではあるけれど佳曲揃いとなっている。地味とはいっても、オリコン2位と充分な成績なんだけど。
 ある意味、斉藤由貴とエモーショナルな部分でのリンクが多い谷山浩子が詞を書いた時点で、この曲の完成度は高まったんじゃないかと思う。松本隆は映像的なシーン情景を描くのは向いてるんだけど、女の子目線で「そんなにふくれないでよ」とは書けないんだよな。
 で、この辺になると「アイドル以降」を想定して書かれた曲なので、2021年の斉藤由貴が歌っても、なんら違和感はない。なので、意外性はない。ただその分、言葉を聴かせるため・伝えるための感情移入のコントロールは、オリジナルを当然上回っている。

9. 砂の城
 オリコン最高2位をマークした9枚目のシングル。アイドル的な楽曲よりも、後年のガールズ・ポップに準じた楽曲がシングル・カットされることが多くなってゆく。オリジナルはスペクター・サウンドのオマージュ的な、凝ったアレンジの目立ったポップ・チューンだったけど、ここではアカペラを効果的に使った意外なアプローチ。
 ストリングス中心の重厚もしくはシンプルなアレンジが多い『水響曲』の中でも、いい意味で浮きだってて、ラス前にはちょうどいい軽やかさ。ちょっとゲスい見方だけど、「嘘をついて大人になるより 夢見る迷い子で 旅を続けていたいの」というフレーズは、斉藤由貴のブレないスタンスを示している、と勝手に思っているのだった。

10. 「さよなら」
 主演映画『「さよなら」の女たち』主題歌としてリリースされた、10枚目のシングル。10枚目でもオリコン最高4位なんだから、もう「女優兼業だから」とか、「元アイドルだから」という揶揄は通用しない。
 シングルでは、はじめて斉藤由貴自身が手掛けた歌詞であり、オリジナルももちろん初々しさがあっていいんだけど、ここまでオリジナル⇔『水響曲』と交互に聴いてきて、やっと気がついた。
 「これを歌いたかったんだ」と。
 「卒業」に始まり、そして、「さよなら」で占める。もしかして偶然なのかもしれないけど、この完璧な流れによって、『水響曲』は名盤となった。