1988年リリース4枚目、3年振りのオリジナル・アルバム。ソニーの思惑以上にセンセーションを巻き起こしたOZAKIシンドロームに乗っかった形で、二十歳の誕生日前日に10代最後のアルバム『壊れた扉から』をリリース、どうにか滑り込みで3部作にひと区切りつけた尾崎。
さて、これからどうする。
取り敢えずはやり切ってしまった感が強く残り、すっかり抜け殻になっちゃった尾崎、ツアーを終えると活動休止を宣言し、単身ニューヨークへ向かうことになる。
特別、計画なんてない。「環境変えれば何とかなるんじゃね?」的な漠然とした動機だったのだけど、まぁそんな安易に答えなんて見つかるわけもない。
往々にして「自分探し」をする者は、いるはずもない「ほんとの自分」を探し続け、どうしたってしっくりこない自分にウンザリし、そのウンザリ感を抱えたまま、そのうち投げやりになって凡庸な人間になる。もっと足元を見つめればいいのに。
無為な日々を過ごしたニューヨークから半年ほどで帰国してからも虚脱感は抜けなかったけど、帰って来たら来たでバタバタした日常が彼を迎え入れた。彼の知らぬ間に、周囲の状況は勝手に動いていた。
事務所の移籍だソニーからの離脱だバックバンド「Heart of Klaxon」のメンバー入れ替えだと、様々な状況の変化は尾崎のストレスをさらに助長させた。いくらなんでもまだ二十歳をちょっと過ぎただけの、言ってしまえば青臭いガキだ。そのガキが放つ金の臭いに目ざとく反応した大人たちが、寄ってたかって彼を食い物にしようとあれこれ目論んでいた。
「大人なんて信用できない」というのは簡単だ。ただ、その大人たちの日々の生業や営みによって社会は動き、経済は循環している。言葉で罵倒することは誰でもできるけど、でもそんな大人たちの必死の営業努力や企画能力、または泥臭いコネによって、尾崎の芸能活動が支えられていたことも事実である。そんな彼らの姿を目の当たりにして、営業的に「大人や社会への反抗」を口にするのは、どこか割り切れない部分だって出てくる。自分もまた、その経済活動の歯車に組み込まれてしまっているのだから。
この『街路樹』というアルバム、新所属事務所が主宰する新興レーベル「マザー & チルドレン」からのリリースで、彼のディスコグラフィー上、唯一ソニー以外での制作アルバムとなっている。そんな事情もあって、リイシュー企画の際も別枠だし、何年かごとに訪れる再発キャンペーンにおいても、なんか扱いづらい感が強い。
『街路樹』リリース後、尾崎は事務所との意見の対立によって再度マネジメントを移籍、レコード会社もソニーに復帰した。この辺はドラッグによる逮捕も含め、いろいろきな臭いやり取りもあったっぽいけど、真相は闇の中。最終的な受け入れ先が浜田省吾の「ロード&スカイ」に決まったのは、業界内での調整がまとまったおかげもある。それにまつわる政治的な取り引きもあったんじゃないかと思われるけど、これ以上はゲスい週刊誌の領域。この辺もまた、大人たちの掌の上での出来事だ。
大人たちの暗躍によって話が二転三転し、契約切り替えに伴う調整期間によって、再び活動休止を余儀なくされた尾崎。一連の逮捕劇によってギラついたアクも幾分落ち、新たな創作意欲も沸いてきた頃だったというのに、また足踏みをしてしまうことになる。その溜まりに溜まった鬱憤を創作活動に集中させ、完成したのが2枚組の大作『誕生』に結実した、という次第。10代の疾走感と20代の達観、過去を背負うことへの覚悟と新たな路線へのわずかな希望とが混然一体となった意欲作である。
なので、この『街路樹』は『誕生』を生み出すための通過点、言ってしまえば過渡期の作品という位置付けになっている。実際、サウンド・プロダクションも地味だしね。
オーガニックなアメリカン・ロック色の強い初期3部作のサウンドを少年期の通過儀礼と捉えると、それ以降はビート感を抑えたソフト・サウンディングへ向かうのは、まぁ一種の必然ではある。アドレナリン出まくりのハイ・テンポなロック・サウンドから一転、ストリングスやピアノを主体とした柔らかな響き、スロー~ミディアムなリズムを求めるのは、選択肢として間違ってはいない。過去との差別化を図るのなら、プロデューサーとしては当然の舵取りだ。
ただ、そのサウンドが当時の尾崎の楽曲に対して必然だったのかといえば、そうとも言い切れない。以前から定評のあったバラード系ナンバーでは、『街路樹』サウンドはフィットしているけど、ポップ系ナンバーでは逆にソニー時代サウンドの方に分がある。過度に感情を込め過ぎた尾崎のヴォーカル・スタイルは、時にサウンド全体から浮いてしまい、ミスマッチ感ばかりが印象強い楽曲もある。
「もっと言葉を大切にして歌えば良いの」「もうちょっと何とかならなかったの?」。ソニー時代との最大の違いはプロデューサーの不在。単なるアレンジャーやエンジニアの延長線上のスタッフではなく、もっと親身になって、時には尾崎と主観をぶつけ合わせることのできるキャラクターが必要なのだ。
なのでこの『街路樹』、逆説的に須藤晃の存在感の強さを感じさせてしまうアルバムでもある。
Bruce Springsteenを彷彿させるバンド・サウンドは、この頃からすでにJポップの基盤を地道に固めていたソニー主導によるものである。尾崎自身はさだまさしを聴いてから音楽に興味を持ち始めたというバックボーンを持ち、実際、当時のデモテープを聴いてみると、その影響の強さが窺える。タイトルからして「弱くてバカげてて」や「酔いどれ」など、70年代フォークからインスパイアされた、またはまんまコピーしたような楽曲で、抒情的な心情吐露のテイストが色濃く表れている。少なくとも、80年代前半のティーンエイジャーに広くアピールできる音楽ではない。
レーベル・カラーの特性上、「若きフォーク界の旗手」ではなく、佐野元春に続く「新世代ロッカー」を求めていたソニーの意向もあって、素朴な感性が持ち味だったはずの原石は反抗心ややるせなさのエッセンスを加味して「尾崎豊」という一種のフィクション的キャラクターに変貌してゆく。
後にソニー・サウンドのスタンダードとなるシンセ多用アレンジ、テンション上げまくりのサビ・フレーズに付け加え、社会のルールから少し外れた10代の少年によるリアルな主張とが合わさって、最初は草の根的に口コミで、そして「卒業」のヒットによって、特に年齢の近い10代には爆発的な支持を得るようになった。フォークの文法をベースとした歌詞ながらも、緻密に構築されたサウンド・プロダクションと強い音圧の8ビートは、80年代のティーンエイジャーにとっては受け入れやすく、自己投影も容易だった。
享楽的なバブル時代を迎える直前の80年代前半は70年代の延長線上だったため、社会情勢を象徴する閉塞した空気が蔓延していた。それを肌で感じていたのは大人だけではなく、まだ社会に出ていない中高校生も同様だった。行き過ぎた管理教育によって、既定のレールからはみ出してしまった、または投げ出してしまいそうになる少年少女たちにとって、初期尾崎の歌や言葉、そして行動や思想は理想であり、そして崇拝の対象にまでなった。
闇雲に十代を駆け抜けた尾崎。二十歳になった尾崎が何を歌うのか?
それまで彼の一挙手一投足を見つめていたファン、そして冷笑混じりで遠巻きで傍観していた大人たちもまた、次の動きに注目していた。
ここでの尾崎が選んだのは、これまでのロック・バンド・スタイルではなく、きちんとスタジオでアレンジメントされたシックなサウンドである。一部、ロック的なサウンドも選択されているけど、以前の「Heart of Klaxon」らによって生み出されたグルーヴ感はない。スタジオ・ミュージシャンによるプレイが多いため、正確で確実な仕事ではある。けれど、その演奏にかつてのファンが心踊らされることはない。そういった狙いの音ではないのだ。
前述したように、もともとは兄の影響からさだまさしの作風に憧れて作曲やギターを始めたため、根っこの部分は叙情派フォークの作風が強い。3部作においても、ポップス調のライトな作品は、ソニー特有のアレンジを外すと、フォーク特有のメロディ・ラインや節回しが顔を覗かせている。デビュー前の習作のデモテープなんかを聴くと、日常的なテーマを題材としたものが多い。世間のアジテートとは無縁の作風だ。もともと「十五の夜」だって「十七歳の地図」だって、テーマとしては極めて個人的である。不特定多数のティーンエイジャーへ向けて拳を振り上げる類の歌ではない。それがどこかでねじ曲がって伝えられているけど、彼が歌っているのは自分のためであり、大勢へ向けて歌っているのではない。届けたいのは「誰か」、たった一人の「誰か」なのだ。その「誰か」とは、曲を聴いてくれるファンも含んでいる。
デビュー作は何も考えず、ただ歌いたいことを歌うだけだった。それを受け止めてくれる人は少なかったけど、確実に何人かは存在した。アーティストにとって、少数ではあるけれど認められるというのは励みになる。それは次回作への原動力へとつながる。2枚目では外部へ向けての歌作りとなる。求められてる尾崎像をなぞり、できるだけ忠実に期待に応えられる「怒り」を「演出」する。ただ、それが3枚目ともなると、辟易してしまう自分がいる。人ひとりが歌いたいことなんて、所詮限られている。そんなにネタが続くはずもないのだ。でも、ファンは尾崎の言葉を待っている。その言葉はできる限り棘をもたなくてはならない。凡庸なメッセージはあってはならない。常に攻撃的な姿勢が求められる。なので、「怒り」の対象を無理やり探さなければならない。大して気にも留めていないことを、さも仰々しく語らなければならない。こんなことを言いたいわけじゃないのに。
10代の3部作は虚像としての尾崎豊である―、とまでは言わないけど、10代のカリスマとして、「常に何かに怒っていなければならない」というのはプレッシャーである。そのプレッシャーが彼の感性を蝕み、そして擦り減らしていったのは事実である。そんなそんな人は癇癪持ちでいられないし、もともと尾崎自身にそんな特性はない。
ただ、作品に対してはどこまでも真摯であった尾崎、ファンの期待に応えてゆかねば、という使命感から来るプレッシャーは相当なもので、どこかいびつな構造のアルバムであることは、本人も後に認めている。
ただ、アーティストの生み出す作品が時代を反映するドキュメントとするのなら、苦悩や試行錯誤の跡が克明に記録されているこのアルバムは、尾崎のマイルストーンともなるべき作品である。
周囲スタッフに演出された初期の作品、そして20代ですでに老成の域に達したような後期の作品、どちらともリンクはしない。どこか居場所のない、どこにも嵌めるところのないパズルのピースは浮いたままだ。
でも、尾崎のファンだったら決して通り過ぎることのできないアルバムである。
尾崎豊 本多俊之 樫原伸彦
イーストウエスト・ジャパン (1996-08-20)
売り上げランキング: 11,006
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1. 核 (CORE)
1987年に12インチ・シングルの形態でリリースされた、2年ぶりのシングル。オリコン最高2位にチャートインしてるくらいだから、かなり期待値が高かったことが窺える。とは言っても、この頃はまだ方向性を決めかねていたため曲が書けず、3年前のストックをベースにして制作されており、完全な新曲とは言いがたい。
反核フェスで歌われたのが初お披露目だったこともあって、タイトル通りAtomicとCoreのダブル・ミーニングになっているのだけど、歌詞は初期の色彩を色濃く残している。「愛なら救うかもしれない~」からのくだりは10代の尾崎のストレートな叫びが如実に表れているけど、二十歳になった尾崎に期待される言葉ではない。
真夜中 盛り場 人ごみを歩いていると
日常がすり替えた叫びに 誰もが気を失う
殺意に満ちた視線が 俺を包む
持たれる心を探す人は 誰も自分を語れない
むしろこういった日常観察・人間観察的な部分に尾崎の本質が強く表れている。
もう少し落ち着いたアレンジ、ハードなロック・サウンド以外で聴いてみたかった。ピアノ・バラードとブルース・ハープを合わせた導入部は新機軸と期待しちゃったのだけど。押しの強いサウンドに負けじと、尾崎も声を枯らしながらシャウトしており、言葉のニュアンスが伝わりづらくなっている。
と思ったけど、その言葉に自信がなくなっていたから、敢えてこういったサウンドにしたのだろうか?疑問の尽きないナンバーである。
2. ・ISM
ソニー時代のバック・バンド「Heart Of Klaxon」との共同アレンジとなっているけど、前述したように大幅なメンバー・チェンジが行なわれており、ギターとサックス以外は新メンバーとなっている。なので、ほぼ別バンドと言っても良い。WANDSみたいだな。
シンセを排したダルなロック・ナンバーはアダルト・サウンドへ向かうひとつのバリエーションと思われるけど、肝心の尾崎の声が出ていない。伸びが悪く、シャウトとコーラスで乗り切っているけど、どこか流して聴いてしまう印象が拭えない。
3. LIFE
なので、こういったポップなミディアム・バラードの方がしっくり来る。こちらの方が尾崎も丁寧に歌っている。もはやノリ一発のロックンロールにシンパシーを感じられなくなった尾崎の素顔が垣間見えてくる。
君を信じてみた 夢を見るために
耳を澄ましていた 嘘を消すために
不安の上に 君を重ねて抱いた
意味を無くした僕の思い かき消し
僕に背負わせる愛 その罪を
裁くのが 君という神ならば
何を捨て 何のため愛すのが 生きること
「君」という存在にあらゆる意味を込めており、迷いや不信感などネガティヴな感情を吐き出すように紡ぐ尾崎。かつては全面的に信頼していた「君」とただ過ごしたいだけだったのに、その「君」との距離を感じ、そしてわからなくなる。
それは「大人」へ向かう過程のひとつなのだけど、それをわかっていながらすべてを受け止める域に達するのは『誕生』から。そこに至るまでは、まだ尚早だ。
4. 時
レコードではA面ラスト。1.が8分を超える大作だったせいもあるけど、どの曲も長尺であるのが特徴と言えば特徴。この曲も5分弱と、当時の基準で言えば長い方。
ヴォーカルとしては、これが一番声の伸びも良く、無理なシャウトもない。今後の方向性としてはこの路線が良かったと思われる。こうして聴いてみると、彼のヴォーカルとディストーション・ギターとの相性はあまり良くなかった、というのがわかる。過剰なエモーションが2つ並ぶとクドイんだな、やっぱり。
何を話せばいい 僕はあの頃より
少し大人に 憧れているだけさ
当時まだ二十歳を超えたばかり。すぐに大人として扱うには、まだ若すぎる。大人になるというのは「決意」だけではなく、「経験」も必要だ。成人になってすぐに大人扱いしてしまう周囲も悪いけど、変に分別ぶった二十歳もなんかイヤだ。
5. COLD WIND
『回帰線』期のサウンドを彷彿とさせる、Heart Of Klaxonとのロック・ナンバー。ニューヨーク滞在時に着想を得た歌詞は疾走感あふれ、バンドとのアンサンブルもしっくり来ている。変にメッセージ性を込めるより、こういったノリ一発のシンプルな歌詞の方が、サウンドにはフィットしている。情景描写の卓越さは衰えていない。
6. 紙切れとバイブル
なので、こちらもオールド・スタイルのロックンロール、あんまり深い意味は込められていない。アルバム構成的には、こういったアップテンポもありだし、そこに過剰なメッセージを織り込まない方が流れ的にも良い。
ちょっと上から目線的になってしまったけど、やっぱA面の流れだよな、これって。
7. 遠い空
「街の風景」の続編的な、日常の他愛ない心象風景を自分なりの視点で切り取った、ライト・テイストのポップ・ナンバー。攻撃的だった10代と比べて、二十歳を迎えた尾崎の視点はどこか優し気。
シングル「太陽の破片」B面曲としてが初出だけど、ここでは別ヴァージョン。俺的にはアルバムの方が好み。
8. 理由 (わけ)
当時の尾崎が、そして周囲のスタッフも志向していたサウンドがこれ。壮大なストリングスと控えめなピアノ。オーケストレーションをメインとしたアダルトなサウンドが、果たして尾崎の特性を存分に活かしたものだったのかといえば、「う~ん…」といった印象。
僕は 君を守るのに
僕は君の 理由を奪う
この一節だけで、尾崎の健在ぶりは充分窺える。言葉の礫はなまっちゃいない。ほんとは全部書き出したいくらいだけど、実際聴いて読んでもらいたい。3分程度の小品だけど、ここにこれまでの尾崎が凝縮されている。
9. 街路樹
ラストはタイトル・ナンバー。シンプルなピアノ・バラードは、徐々にストリングスが入り、最後は大編成コーラスによる大団円。これまでのロック・サウンドとは一線を画した、スケール感あふれる響きはラストに相応しい。
キャリアをとおしてもヴォーカライズは絶品で、時にシャウトしながら、そして時に言葉を噛みしめるように、強弱がついていてストーリー性を感じさせる。
足音に降り注ぐ心もよう
つかめて 街路樹たちの歌を
見えるだろ 降りそそぐ雨たちは
ずぶ濡れで 夢抱きしめている君さ
同世代でここまで書けるアーティストがいただろうか?多分いないはず。どんな苦境であろうと、それが漏れ出てしまうのが尾崎であり、生来の詩人でもあったのだ。
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