キャリア的にミュージック・シーンの中堅どころとなっていたこの時期の元春は、スマッシュ・ヒット『Someday』で定着しつつあった「ライトなポップ・ロック」というイメージを振り払うかのように、シングルごとに装い新たなサウンドを提示している。ジャズからレゲエ、ファンクのエッセンスをこれでもかとぶち込んだ、『Cafe Bohemia』収録のシングル群は、コア・ユーザーをも翻弄させる変幻自在ぶりだった。
日増しにラジカルな傾向を強めてゆく元春は、その後、単なる表面的なサウンド・アプローチの変化にとどまらず、チェルノブイリの原発事故に触発されて書いた「警告どおり 計画どおり」を、初のピクチャー・7インチ・シングルとして緊急リリースする。すでにこの時点で、「強い信念とこだわりを持つアーティスト」というイメージは確立していたけれど、当時の佐野元春が時事性の強いメッセージを打ち出したことは、業界内外に衝撃を与えた。
ブルーハーツ(シングル「チェルノブイリ」)やRCサクセション(アルバム『Covers』)など、体制へのアンチ表明がひとつのアイデンティティであったロック・バンドとは違い、いわばファンにとって、物分かりのいい兄貴的な存在だった元春が、明確な社会批判を口にしたのは予想外だった。逆に言えば、そういった立場であることを自覚していた元春が、そう口にせざるを得なかったほど、「原発問題というのは深刻なんだ」という問題提起のきっかけになった。
炭鉱のカナリアよろしく、硬直化した世論へ警笛を鳴らした元春の行動は、潔いものではあるけれど、正直、メインストリームのアーティストにとっては、デメリットの方が多い。当然、エピックとしては前向きではなかったはずなのだけど、元春の強い意向に押し切られる形で、リリースは敢行された。
RCやブルーハーツと違い、元春のシングルが発売中止や放送禁止に追い込まれなかったのは、エピック内における彼のポジション、また、バービーボーイズ:いまみちともたかの客演というセールス・ポイントの高さが前提にあるのだけれど、それとはまた別に、親会社:ソニーの企業体質も大きく起因していると思われる。
ちょっと穿った見方だけど、RCが所属していた東芝=東芝EMIもそうだけど、ブルーハーツが所属していたメルダックは、三菱が親会社である。東芝・三菱ともいわゆる重電系、電力設備や工場施設が収益の柱となっている。そうなると当然、原発施設にも大きく関わっているため、子会社の暴走にはめっぽう厳しくなる。多少のおいたは聞き流すことができるけど、基幹事業に影響がある発言となると、受注や入札に影響してくるので、看過することはできない。思わぬところで、企業の論理というのは発動されるものだ。
対してソニーはといえば、AV機器や家電を主力とした、いわば弱電系、原発関連への関与は極めて薄い。お上の意向に沿わないテーマのため、決して手放しで認めたわけじゃなかったはずだけど、アーティストの表現の自由や創作意欲を重んじる80年代ソニー独特の社風が、そんな主張を後押ししていた。少なくとも、現場では盛り上がっていたはずだし。
以前のレビューで、「元春の音楽遍歴では『Visitors』のみポッカリ浮いており、前後とのリンクがなくて突出している」とかなんとか、そんな内容のことを書いた。サウンド・プロダクションのプロットに日本側スタッフの関与が薄いこと、コミュニケーションの齟齬もあって、アメリカ側スタッフの意向が強く働いているため、結果的に異質かつストレンジなサウンドとなった、というのが俺の私見。
日常会話ならともかく、技術面での意思の疎通は、専門用語に明るくない通訳を介してでは、限界がある。当時の状況では、細かなアンサンブルの修正やミックス・ダウンのニュアンスを伝えきれず、現場スタッフの判断に委ねる部分も、多かれ少なかれあったんじゃないかと思われる。
「80年代初頭のニューヨーク・カルチャーの空気を余すところなく詰め込んだ」という意味合いでは、『Visitors』という作品は歴史的な名盤であるけれど、一方で、「元春のビジョンが完全に反映されたわけではない」という意味で言えば、過渡期の作品だった、という見方もできる。
動向を見守り続けていたファン目線で言えば、初期元春サウンドの完成形となったシングル「Someday」を経て、基本構造はそのままに、ニューヨークの荒々しい空気感が際立った「Tonight」。これまでと一転して、無骨で愛想もない、勢いにあふれたサウンドだけど、メロディ・ラインはこれまでの延長線上のポップ・テイストが基調となっている。まぁこれはわかる。
ただそこから、人力ヒップホップ・リズムとスクラッチ・ノイズが飛び交う「Complication Shakedown」となると、そのギャップはかなり大きい。『No Damage』からファンになった俺のようなビギナーでは、その振り幅に翻弄されてしまう。
とはいえ、そこは北海道の中途半端な田舎の中学生、「なんかよぉわからんけど、新しくてナウい」といった風に、順応性もまた高い。「ラップってカッケー」と、すぐマネしてみたりする。
ニューヨークの狂騒的なカルチャー・ムーヴメントに触発された元春の熱はその後も冷めやらず、雑誌「this」の出版やポエトリー・リーディングなど、多岐に渡った活動を繰り広げている。単なるポップ・ミュージックの供給にとどまらず、当時の先鋭的なアングラ・カルチャーの紹介にも積極的に取り組んでいた。
よく言及されるように、この時期の元春の一挙一動は、同時代のイギリス熱血代表:ポール・ウェラーとの相似点が多い。現状に満足せず、新たな音楽の創造という点において、当時の彼らは似たような道程をたどっている。
自己模倣と様式美に染まりつつあった80年代パンク/ニュー・ウェイヴ・シーンに辟易していたウェラーは、人気絶頂の最中にあったジャムを解散し、いち早く既存のロック・サウンドからの脱却を図る。モッズ・スーツからDCブランドのサマー・セーターに衣替えした彼は、新ユニット:スタイル・カウンシルで、ジャズやボサノバ、ファンクやソウルまで、「とにかく、ロックじゃなければ何でもいい」と言いたげに、それこそシングルごとに新たなアプローチを提示し続けた。
スタカンの『Our Favorite Shop』と元春の『Cafe Bohemia』とのコンセプトの相似や、「Shout to the Top」と「ヤングブラッズ」のサウンドの酷似など、心ない人による意見も多い。ただ、ひいき目を抜きにして、同時代を生きた真摯なアーティスト同士によるシンクロニシティというのが、リアルな見方なんじゃないか、というのが俺の私見。
単純に考えて、ロックのスピリットを持ったアーティストが、既存のロックの文法を用いずに、新たなロックのスタイルを模索すると、行き着くところはどうしても似通ってしまう。どちらかが意識して寄せてきたのではなく、あくまで同時多発的なものだった、と。
そういうことにしとこうよ。
で、新たなロック・サウンドの追求という行為において、異ジャンルとのミクスチャーとはあくまで手段であり、それ自体が目的ではない。ロックにヒップホップのエッセンスを取り込むことは、着眼点として新鮮だけど、だからといってそれ一辺倒のアルバムになると、そりゃまた話が違ってくる。
『Visitors』のその先にある音が何だったのか、さらにラップ/ヒップホップに特化したサウンドの可能性とは―。
秒進分歩で刻々と変化してゆく80年代のミュージック・シーンは、「深化」より「進化」が善しとされていた。ていうか、アーティストもユーザーも、ついてゆくことだけで必死だった。
ニッチなジャンルを深く掘り下げてゆくより、あらゆるジャンルとの異業種交流、予測不能の化学反応を期待し、期待されてもいた。ヒップホップ一辺倒になるのではなく、新たな可能性を模索してゆくメソッドは、何も元春だけではなかったし。
あらゆる音楽ジャンルの見本市となった「Cafe Bohemia」プロジェクト終了に伴い、ある種の達成感を得た元春が次に志向したのが、原点回帰とも言うべき、バンド・アンサンブルによるロックンロール・サウンドだった。
渡米以降に得た自信と確信のもと、熟成されたサウンドとミュージシャン・スキルを求め、元春は単身、海外レコーディングへ出向く。
『ナポレオンフィッシュと泳ぐ日』というアルバムは、ミッシング・リンクである『Visitors』と『Cafe Bohemia』をすっ飛ばし、初期3部作に直結した作品、といった位置づけである。あるのだけれど、元春がデビュー前に影響を受けた音楽の蓄積で作られたのが『Someday』以前とすると、それ以降の能動的なインプットの成果が『Visitors』以降であり、『ナポレオンフィッシュと泳ぐ日』にもその影響は確実に及んでいる。
「ふたりの理由」のような曲調は、以前のボキャブラリーでは書かれなかったはずだし、また表層的なサウンド面だけではなく、「おれは最低」とシャウトするアプローチもまた然り。かつての元春なら、同じシチュエーションならもっとウェットに、もっとナルシシズムの色彩が濃いピアノ・バラードに仕上げていたはずである。
『Visitors』『Cafe Bohemia』とのリンクは少ない『ナポレオンフィッシュと泳ぐ日』だけど、曲ごとのコンセプトやアプローチは、初期とは確実に違っている。『Someday』リリース後に、同じ環境でレコーディングしたとしても、おそらくこのような形にはならなかっただろうし。
同じ道筋をたどりながら、その足取りはかつてとは違う。履いてる靴も違えば、茫漠としていた目標も、少しずつ見えてきている。どうであれ、確実に前へ進む一歩であることに変わりはないのだ。
人は、それを成長と呼ぶ。
1. ナポレオンフィッシュと泳ぐ日
1948年に上梓されたアメリカの作家サリンジャーの短編「バナナフィッシュにうってつけの日」からインスパイアされた、オープニングを飾るタイトル・チューン。「ナポレオンフィッシュって、どんな魚?」と画像検索してみると、多くの人はガッカリする。そのサリンジャーの短編とタイトルがまったくリンクしていない様に、元春もまた、何となく字面とフィーリングで選んだじゃないかと思われる。
不条理な結末を迎えるサリンジャーの短編とは違い、ここでの元春はUKレコーディングというブーストを得てか、どの音にも強い確信と自信があふれ返っている。歌詞はどこか危うげでメランコリックな言い回しが多いのだけど、「そんなニュアンスわかんねぇ」と言いたげに、UKパブ・ロック勢の出す音の濃さと言ったらもう。
驚いたことに、この曲のプレイ・タイムは、ほんの3分程度。良い曲は、時間軸を超えたスケール感を自然と有している。
2. 陽気にいこうぜ
考えてみれば、これまでの元春の歌詞は「君」という言葉を使うことが多かった。一人称を好んで使わず、第三者としての観察者目線での情景描写・心情吐露が多かった。
それは表現者として、どこかで照れ、または自信の弱さがあったのかもしれない。「健全な精神は健全な身体に宿る」とは言うけど、この場合、健全なサウンドを求めていた、ということか。
確信の強いアンサンブルに支えられ、ここに来てやっと「俺はくたばりはしない」と言い放つことができた。また違う目線で見れば、そんな風に自分に言い聞かせることで、均衡を保っているのか。俺は前者と思いたいけどね。
3. 雨の日のバタフライ
サウンド自体はメロウでシックなのだけど、テンポの速い8ビートによって、ウェットさをだいぶ抑えている。これがもっとスローになれば、大滝詠一「雨のウェンズディ」みたいになるのだけど、その境地に達するには元春、そこまで達観していない。
リフレインされる「いつか新しい日が」と歌うその声は、どこか憂いに満ちている。決して100%前向きではない。ただ、後ろを振り向いてはいない。そんなヴォーカルだ。
4. ボリビア―野性的で冴えてる連中
「99ブルース」からリズム・トラックのみ抜き出したようなイントロで始まる、攻撃的なファンク・ロック。「ボリビア」という語感からインスパイアされて一気呵成に書かれたような、勢いを優先して書かれたと思われる。
ゴチャゴチャ理屈は抜きにして、ギターとリズムのコンビネーションにクローズアップした演奏が、ソリッドでカッコいい。こういったベーシック・トラックを創り上げるまで、元春は多くの試練を乗り越え、また克服してきたのだ。
5. おれは最低
イラつきを抑えきれない、焦燥感と渇望があふれ返った演奏とヴォーカル。東京でハートランドと行なったセッションは、ザラついた触感をむき出しにしている。
仲のいいわかりあえる 友達のふりしてただけさ
途方も無くくだらない街の聖者 気取っていただけさ
ある意味、盟友とも言えるメンバーとのセッションで、ここまで自身を露呈する表現は、一聴すると何かしらのフラストレーションが溜まっていた、と思われがちだけど、歌ってる内容をそのまんま正面から受け取る必要はない。これまでのフォーマット化した「佐野元春」からの脱皮として、別の形の表現として見た方がいい。
6. ブルーの見解
疲れた声色のポエトリー・リーディング。ここまで創り上げてきたパブリック・イメージの打開は、ここでもあらわれている。
リフレインされる「俺は君からはみ出している」という言葉からは、トリックスターとしての「佐野元春」を背負ってゆくことへの疲弊、そして誤解を解くための徒労。
吐き出したことで、ちょっとは楽になれたのだろうか。
7. ジュジュ
カントリー・テイストの入ったフォーク・ロック。歌詞は元春流のプロテスト・ソング。曲調はすごく柔らかなのだけど、世界からの疎外感と諦念が、少し枯れた風情で歌われている。
中堅アーティストとしてのポジションを築いたはいいけど、明確な目標が失われて、ペシミストに寄ってしまった30代中盤のリアルな男の叫びが、ここには刻まれている。それは、若い時よりむしろ、ちょうどこの世代になった時に聴き返した方が、むしろ染みる。
もうちょっと前に聴いときゃよかったな。アラフィフになると、また意味合いが違ってくるし。
8. 約束の橋
前曲の終盤で、バタンッとドアを閉めるSEの後、バンド・メンバーと息を合わせ、「約束の橋」はスタートする。ちょっとひねた感情から一新して、ポジティヴ感あふれる感覚は、アルバムを通して聴かないと味わえない。やはり、この曲はこのヴァージョンに限る。
まさかリリースから3年も経ってから、月9主題歌に抜擢され、最大のヒット曲になるだなんて、誰が予想しただろうか。
9. 愛のシステム
「システム」というワードを詞に取り込めるのは、この当時は元春くらいしかいなかっただろうな。ストリングス・シンセのフレーズが当時のUKポップを象徴しているのと、UKのわりにリズムが重くてアメリカっぽいアンサンブルだよな、というのは昔から思っていたのだけど、まぁポエトリー・リーディングにも転用できそうな恣意的な内容なので、ここまで大味な演奏の方がいいのかな、とは今になって思ったこと。
10. 雪―あぁ世界は美しい
サウンドもそうだけど、この時期の元春は日本語の響きに強くこだわりを見せており、シンプルなワードの組み合わせによって、これまでのボキャブラリーとは違うアングルを試行錯誤している。
この曲が特にそれを象徴しているのだけど、異言語コミュニケーションを重ねると、やはりこういったシンプルなテーマの方が伝わりやすいのかな、とも思ったり。
ただそんな中でも、「今夜は俺は王になる ただ一日だけの 今夜は俺は王になる」という一節に、表現者としての「ここだけは譲れない」エゴが表出したりしている。
11. 新しい航海
E.ストリート・バンド・スタイルのおおらかな演奏は、従来ファンにとってはやはり聴いてて心地よかったりする。抽象的な単語の羅列も、ポップでチャラい頃の元春像が見えてくるのだけど、「こういうのもできるけど、もうこういうのだけじゃないんだ」という元春の強い意志表明とも取れる。
求められているアーティスト像として、そして進むべきラジカルな作風との狭間。どちらかに大きく傾くのではなく、テーマによってどちらかの作風を使い分けるまでは、もう少しの時間が必要となる。
12. シティチャイルド
で、そんなアッパーなナンバーの続き。アナログで言えばB面に相当する流れだけど、11~12をA面に持ってこなかったことに、これまでの元春像との決別が感じられる。
13. ふたりの理由
大抵、元春のアルバムはハッピーエンド的なアッパーなチューンがラスト曲だったのだけど、これは肩の力の抜けたミドル・バラード。ポエトリー・リーディングと歌とが交差する、独自の元春ワールドが展開されている。
ちょっと「Heartbeat」っぽさもあるよなと思ってたけど、いまになって思えば、これが「Heartbeat」の発展形、ていうか、当時の元春は「Heartbeat」をこんな構成にしたかったんじゃないか、とも。