―言いたいことは、ぜんぶ歌の中にある。
あれこれ後付けで解説する人ではない。言いたいことは全部書いてしまったし、歌ってしまった。
世に出してしまった以上、人がどう受け取ろうが、それはそれ。付け足すことなんて、何もない。
ラジオや対談なんかで見せるハイテンションな言動は、それはそれでみゆきの素顔のひとつであるけれど、単なる陰陽ではない。素顔なのかもしれないし、数ある仮面のひとつに過ぎないかもしれない。
みゆきに限らず、人は二面性だけで推し量ることはできない。いくつもの仮面と共に、素顔だっていろいろある。
旧いファンなら周知のように、これまでも多くを語る人ではなかった。おちゃらけたりはぐらかしたりする言葉の中に、フッと浮き彫りになる素顔の断片。ふいに出てしまう本音は薄く、よそ行きの言葉に埋もれてしまう。
中途半端な弁解で誤解を生むのなら、いっそ何も語らない方がいい。伝えたいことは、作品や姿勢で語っているし、わかってもらえないのなら、いくら言葉を重ねても、それは同じだ。
それはとても不器用な生き方だ。あらぬ誤解を受けることもあるし、思わぬところで敵を作っていたりもする。
でも、身を削って作品を生みだすとは、そういうことなのだろう。大勢が納得する言葉、心動かされる旋律はあり得ないけど、でも究極のところ、創造者はそれを目指す。同時に、それは欺瞞であるけれど。
みゆきの口からプライベートが語られることはほぼないため、今回の引退騒動もどこまでが真実なのか、確かなところはわからない。単なる飛ばし記事に躍らされて、慌ててコメントするのは、ちょっとどうかと思うし、多分しないだろうな。
誰にも気づかれぬまま、ひっそりフェードアウトしてゆくことを、ひとつの美学と思っているのかもしれない。でも、ヤマハの経営陣として、もはや個人のポリシーだけで決められる立場ではない。それは、本人がよくわかっているはずだ。
「ラスト・ツアー」(ラストとは言ってない)に続く言葉が、「結果オーライ」。どっちに転ぶかは、ほんとわからない。
信じて待とう。ただ、それだけだ。
近年のみゆきのアルバムは、
① アルバム書き下ろし
② ドラマ・映画のタイアップ・シングル
③ 他アーティスト提供曲のセルフ・カバー
④ 夜会書き下ろし曲
と、いった構成になっている。アルバムごとにその比率は変わるけど、おおむねこんな感じになっている。
90年代以降にリリースされたアルバムのAmazonレビューを読んでみると、多くの意見で、「夜会曲が多く入っているかどうか」が、評価基準のひとつとなっている。①の割合が高いほど、また④の割合が低ければ低いほど、アルバムの評判は良い傾向にある。
ソングライター:中島みゆきの中では、どの歌も手塩にかけた作品であり、優劣をつけているわけではないだろうけど、いわゆる通常曲と夜会曲とでは、若干方向性が違ってくる。曲単体で完結した世界観を持つ通常曲に対し、いわばコンセプト・アルバムの1ピースである夜会曲とでは、そもそもの成り立ちが違ってくる。
もともとみゆきのアルバム収録曲は、それほど統一されたテーマでまとめられているわけではない。一曲一曲がひとつのテーマ・ひとつの世界観で収束しており、他の曲とのリンクもなければ、組曲形式にもなっていない。
強い厭世観が支配する『生きていてもいいですか』のB面は、広義でのコンセプト・アルバムと言えなくもないけど、むしろあれが特殊であって、ほとんどのアルバムは、一曲完結型の短編集スタイルである。こちらもレアなケースとして、「アザミ嬢のララバイ」〜「ララバイSINGER」といった、何十年も時を隔てての事実上連作があるけど、まぁ強い関連性はない。過去曲にインスパイアされて書かれたのだろう。
なので、長編/連作短編の一章のみを抜き書きした夜会曲というのは、単体で見ると、どうもイマイチ収まりどころが悪い。もちろん、アルバムに入れることを考慮して、ある程度自己完結性の強い楽曲が選ばれてはいるのだけれど、それもちょっと微妙である。
書き下ろし曲との相性が優先されているからなのか、楽曲のクオリティ的には、無難なレベルに落ち着いてしまう。一公演通して聴くのなら、組曲としてレベルも上がるのだろうけど、抜粋されて通常曲とアルバム曲と並べると、どうにも分が悪い。
いっそ公演ごとにベスト・テイク厳選して、ストーリー進行に準じて音源化しちゃった方が、アルバム・夜会双方の顔も立つんじゃないの?と思ってしまうけど、余計なお世話か。本来なら、DVD発売にも消極的だったし。
年1のオリジナル・アルバム制作、2、3年ペースで執り行なわれる夜会を軸として、90年代以降のみゆきは活動してきた。ラジオ・パーソナリティもライフ・ワークではあったけれど、まぁメインではないよな。あくまで副次的なものであって。
「継続は力なり」で、膨大な質・量の作品を残してきたみゆきだけど、長く続けてきた事で徐々にあらわになってきたのが、いわゆるマンネリ化である。作品のことじゃないよ、あくまで作業工程のことであって。
サウンド・メイキングの理解者:瀬尾一三と出逢ったことによって、みゆきのスタジオ・ワークへのはスタンスは、大きく変化する。理想のサウンドを求めてコロコロ作風を変え、プロデューサーやミュージシャンを取っ替え引っ替えしていた80年代中盤のご乱心期は、創作者:中島みゆきの成長のあらわれであり、また同時に試練でもあった。今となっては考えられないことだけど、布袋寅泰が参加したセッションもあったくらいだから、その試行錯誤ぶりは窺える。
言葉と旋律を最優先に考え、過度なアレンジを排して持ち味を活かす―、そんな瀬尾のサウンド・アプローチは、みゆきとうまくシンクロした。
その後は、スタジオ・ワークの多くを瀬尾が仕切るようになり、そこからまた右往左往試行錯誤しながら、スタンダードな体制が形作られてゆく。シュアーなリズムと躍動感を求めて、LAでのレコーディングが多くなり、思いのほか攻めのアプローチを指向している。
ある程度のリテイクや編集によって、レコーディング作品は、高いクオリティを実現できるようになった。単発的なセッションで終わるのではなく、何作にも渡る長いスパンによって築いてきた信頼関係が、アンサンブルの熟成を促したのだろう。
音楽は国境を超えるけど、超えるまでは言葉の障壁があったりコミュニケーションの齟齬があったりして、一筋縄でいくものではない。みゆき自身は英会話は不得手だし若干コミュ障だしで、苦労したんだろうな現地コーディネーターと瀬尾一三。
そうやってカッチリ作り込まれたレコーディング作品とライブ・パフォーマンスとでは、どうしてもズレが生じてくる。どれだけ完パケ・テイクをなぞろうとも、外人と日本人とではニュアンスは違ってくるし、特にライブの場合だと、オーディエンスのリアクションによって、クオリティは左右される。
そもそも大前提として、海外ミュージシャンによるスタジオ演奏と、日本人ミュージシャンによるライブ演奏とを比較すること自体、無理がある。あるのだけれど、常に良質のエンタテイメントを追及すると、どうしても生じてくるジレンマである。
いっそのこと、カラオケでやればブレは少なくなるのだけど、それならそれで、パフォーマンスの意味がズレてくる。会場の音響システムや広さによっても違ってくるだろうし。
通算40枚目のオリジナル・アルバムとなった『問題集』は、久しぶりの全編日本国内でのレコーディングとなっている。どれくらい久しぶりかと調べてみたら、なんと1990年の『夜を往け』以来だから、ほぼ四半世紀ぶりか。
まだバブルの残り香漂う90年代だったら、海外レコーディングのコスパも良かったけど、CDセールスが急激な右肩下がりとなる2010年代以降になると、ちょっとやりづらくなってくる。いくらヤマハの稼ぎ頭であるとはいえ、近年のみゆきのセールス推移でLAレコーディングを継続するのは、ちょっとムリ筋じゃね?というのは素人でも察せられる。
正面切って物申すスタッフが社内にいるとは思えないけど、それでも近しい人づてながら、社内からの声が聞こえたりはするはず。すべてがすべて、みゆきマンセーじゃないことくらい、何となく察してはいるだろうし、穏やかながら、風当たりも感じてはいただろうし。
谷山浩子なら言えるのかな、「あんた、ちょっと経費使いすぎよ」とかなんとか。
多分に、この『問題集』製作と前後してだと思うのだけど、時系列的に実母の健康状態もあって、プライベートは何かとゴタゴタしていたはずである。そんな環境と心境の揺らぎ、加えて前述の社内事情も相まって、制作方針の転換があったんじゃないか、と。
ここまで書いてなんだけど、あくまで推測だからね。そういう事を切々と語る人じゃないし。
1. 愛詞(あいことば)
2013年、中島美嘉に提供したシングルのセルフ・カバー。みゆきヴァージョンは何回も聴いているので、試しに美嘉ヴァージョンから先に聴いてみたら…、なんだコレ。ピッチもひどいし、全体的に雑。ものの1分くらいで、YouTube閉じちゃった。
多分、みゆき自身の仮歌をもとに、美嘉は美嘉なりに解釈付け加えて歌っているんだろうけど、想いが先走ってテクニックが空転しまくっている。多少の歌唱指導はしたんだろうけど、ここまでが手いっぱいだったんだろうな。オートチューンさえモノともしない暴走振り、美嘉、なんて恐ろしい子。
そんな美嘉の後を受けて、サラッと歌いながら、明らかに地力の力を見せつけるみゆきの佇まいといったらもう。「あら、この歌だっらこれ以外、歌い方ってあるのかしら?」とシレッと澄まし顔が、垣間見えてくる。
2. 麦の唄
『マッサン』。知っての通り、『マッサン』。ウィスキーが主題だからと、取ってつけたようなバグパイプのイントロは、ちょっとやり過ぎじゃね?とも思うけど、朝ドラ視聴者にはこのくらいベタな方が伝わりやすいんだろうな。
「あきらめない日本人への応援歌」というNHKからのオファーにより書き下ろされたこの曲、あんまりひねた見方はしたくないのだけど、「この曲って、麦ってかなりこじつけだよな」と、いつも思ってしまう。何かのメタファーや暗喩ではない、力強く大地に根付く麦の穂たち。まぁNHKだし朝ドラだしな。あんまり面白くはない。
3. ジョークにしないか
話題性を集めた2曲が続いた後で、タイアップも何もこの曲がポツンと置かれているのだけど、静かでいながらとんでもない名曲。2000年代以降の作品への思い入れが薄く、どうしても辛口になってしまう俺だけど、この曲は数あるみゆき楽曲の中でも、確実にベスト5に入れてしまっている。
吉田拓郎オマージュを思わせる、それでいて拓郎には歌えないし作れない、みゆき独自の世界。インパクトの強いアレンジでもないし、メロディも単調だ。懐かしくて新しい、とでも言いたいけど、そんな次元を飛び越えたスッピンのみゆき。
海へ行こう 眺めに行こう
無理に語らず 無理に笑わず
伝える言葉から 伝えたい言葉へ
きりのない願いは ジョークにしてしまおう
「愛」とか「恋」を言いそびれたまま、それでいて付かず離れず、何となく気になったりならなかったり。そんな風に年を取った2人。
2人とも、どこかのタイミングでちゃんとしなくちゃと思いつつ、程良い距離感が心地よくて肩が凝らなくて、何となく、そのまんまでいて。
当時のツアー「一会」では、最後にこの曲が歌われていた。後味サッパリで締めるのにちょうどいい曲でもある。
4. 病院童
大味な歌謡ハード・ロック、と例えるとちょっと古臭いけど、まぁ古参が多いみゆきファンにはちょうどいい。今さらオルタナなアプローチは誰も望んでないし。
そんな古参ファンたちにとって、病院というのは至極リアルな空間である。自身の健康状態だけじゃなく、親の介護や通院なんかで、どうしても向き合わざるを得ない。そんなネガティヴなイメージを吹き飛ばすかのように、重いギター・リフとちょっとハイテンションなヴォーカルが炸裂する。
5. 産声
夜会楽曲からのセレクトで構成されたライブ『夜会工場 Vol.1』のために書き下ろされた、力強さと希望にあふれた壮大なバラード。あまりに真っ向勝負なので、茶化したりツッコミどころはない。
慈愛の女神という役割を引き受けるみゆきは、とても強くしたたかである。周囲の期待と使命感とが、彼女の後押しとなっている。
誰か私のために あの日々を教えてください
何度でも歌が始まる 始まりの音が思い出せたら
始まりの音は、誰しも心の中にある。でも、ひとつ取り戻すには、何かひとつ捨てなければならないのだ。
6. 問題集
日本のベテラン・ミュージシャンで固めたことに起因しているのか、まるで70年代ロックのようなアレンジ。近年ではほぼ聴く機会の少ない、弾きまくるギター・ソロ、また泥臭いブラス・アレンジ。
男と女の恋愛観の違いの比喩として、問題集というテーマが設けられているけど、あまり裏も感じられないストレートな表現。行間を読むといった見方をしなくても、言葉通りの意味がスッキリ伝わってくる。舞台劇ならこれでいいんだけど、アルバム収録なら、もうひと捻り欲しかったよな、と思うのはマニアのめんどくさい要望。
7. 身体の中を流れる涙
6.同様、こちらも『夜会 Vol.18 橋の下のアルカディア』の曲だけど、きちんと個別の世界観として成立しているため、アルバム書き下ろし曲との違和感は少ない。厭世観と諦念がうごめく歌詞は、70年代の作品群を思い起こさせるけど、正しくそれが狙い何だろうな。確かに夢も希望もない、ネガティヴな歌なんだけど、古参ファンとしてはむしろ、ホッと安心さえしてしまうのだ。
そうだよ、無理して「糸」が好きって言わなくてもいいんだよ、俺たちは。応援歌よりもむしろ、こういった無常観に惹かれてるんだから、古参ファンたちって。
8. ペルシャ
近年のアルバムには必ず一曲くらい仕込まれている、オリエンタル調アレンジの楽曲。夜会のシチュエーションに使うには最適なんだろうけど、まぁアルバムの流れとしても、バリエーションがあった方がいい。
なんとなく、坂本冬美が歌ったらバシッとはまるんじゃないか、とふと思ってしまった。劇中歌っぽい歌詞は、まぁ夜会ってことで。
9. 一夜草
ちょっと古めのフォーク・サウンドは、ソフトにデリケートに歌うのが常だけど、ここでは劇中歌ということもあって朗々とした歌い方。でもフィットしてるんだよな。
10. India Goose
夜会楽曲としては珍しく、テレビ東京『美の巨人たち』のエンディング・テーマとして起用された、かなり独立性の強い楽曲。近年のみゆきのヴォーカルは、力強く歌うとガナリ調になって繊細さが失われることが多かったのだけど、ここでは感情をコントロールして丁寧な仕上がりとなっている。終盤はちょっと暴走しちゃうけど。
「ファイト!」~「地上の星」の系譜に属する、前向きだけじゃない応援歌。「麦の歌」に足りないものが、ここには込められている。弱き者が逆境や困難に立ち向かい、ある者は乗り越え、ある者は力尽きて、崩れ落ちる。
どれだけ頑張っても、皆が同じハッピー・エンドになるわけではない。ただ結果はどうであれ、そのひたむきな姿勢は、きっと誰かが見てくれている。
馴れ馴れしく声をかけるわけではないけど、ちゃんと見てる。あなたのことを気にしている誰かは、きっといる―。
みゆきは、繰り返しそう歌っている。