好きなアルバムを自分勝手にダラダラ語る、そんなユルいコンセプトのブログです。

中島みゆき

最近のみゆきの騒動について、長いひとこと。それと『問題集』。- 中島みゆき 『問題集』

Folder もともと人見知りが激しく、うちに篭っている方が好きな人である。気心の知れたスタッフはいるけど、心の奥底までは、決して打ち明けることはない。
 ―言いたいことは、ぜんぶ歌の中にある。
 あれこれ後付けで解説する人ではない。言いたいことは全部書いてしまったし、歌ってしまった。
 世に出してしまった以上、人がどう受け取ろうが、それはそれ。付け足すことなんて、何もない。
 ラジオや対談なんかで見せるハイテンションな言動は、それはそれでみゆきの素顔のひとつであるけれど、単なる陰陽ではない。素顔なのかもしれないし、数ある仮面のひとつに過ぎないかもしれない。
 みゆきに限らず、人は二面性だけで推し量ることはできない。いくつもの仮面と共に、素顔だっていろいろある。
 旧いファンなら周知のように、これまでも多くを語る人ではなかった。おちゃらけたりはぐらかしたりする言葉の中に、フッと浮き彫りになる素顔の断片。ふいに出てしまう本音は薄く、よそ行きの言葉に埋もれてしまう。
 中途半端な弁解で誤解を生むのなら、いっそ何も語らない方がいい。伝えたいことは、作品や姿勢で語っているし、わかってもらえないのなら、いくら言葉を重ねても、それは同じだ。
 それはとても不器用な生き方だ。あらぬ誤解を受けることもあるし、思わぬところで敵を作っていたりもする。
 でも、身を削って作品を生みだすとは、そういうことなのだろう。大勢が納得する言葉、心動かされる旋律はあり得ないけど、でも究極のところ、創造者はそれを目指す。同時に、それは欺瞞であるけれど。
 みゆきの口からプライベートが語られることはほぼないため、今回の引退騒動もどこまでが真実なのか、確かなところはわからない。単なる飛ばし記事に躍らされて、慌ててコメントするのは、ちょっとどうかと思うし、多分しないだろうな。
 誰にも気づかれぬまま、ひっそりフェードアウトしてゆくことを、ひとつの美学と思っているのかもしれない。でも、ヤマハの経営陣として、もはや個人のポリシーだけで決められる立場ではない。それは、本人がよくわかっているはずだ。
 「ラスト・ツアー」(ラストとは言ってない)に続く言葉が、「結果オーライ」。どっちに転ぶかは、ほんとわからない。
 信じて待とう。ただ、それだけだ。

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 近年のみゆきのアルバムは、
 ① アルバム書き下ろし
 ② ドラマ・映画のタイアップ・シングル
 ③ 他アーティスト提供曲のセルフ・カバー
 ④ 夜会書き下ろし曲
 と、いった構成になっている。アルバムごとにその比率は変わるけど、おおむねこんな感じになっている。
 90年代以降にリリースされたアルバムのAmazonレビューを読んでみると、多くの意見で、「夜会曲が多く入っているかどうか」が、評価基準のひとつとなっている。①の割合が高いほど、また④の割合が低ければ低いほど、アルバムの評判は良い傾向にある。
 ソングライター:中島みゆきの中では、どの歌も手塩にかけた作品であり、優劣をつけているわけではないだろうけど、いわゆる通常曲と夜会曲とでは、若干方向性が違ってくる。曲単体で完結した世界観を持つ通常曲に対し、いわばコンセプト・アルバムの1ピースである夜会曲とでは、そもそもの成り立ちが違ってくる。
 もともとみゆきのアルバム収録曲は、それほど統一されたテーマでまとめられているわけではない。一曲一曲がひとつのテーマ・ひとつの世界観で収束しており、他の曲とのリンクもなければ、組曲形式にもなっていない。
 強い厭世観が支配する『生きていてもいいですか』のB面は、広義でのコンセプト・アルバムと言えなくもないけど、むしろあれが特殊であって、ほとんどのアルバムは、一曲完結型の短編集スタイルである。こちらもレアなケースとして、「アザミ嬢のララバイ」〜「ララバイSINGER」といった、何十年も時を隔てての事実上連作があるけど、まぁ強い関連性はない。過去曲にインスパイアされて書かれたのだろう。
 なので、長編/連作短編の一章のみを抜き書きした夜会曲というのは、単体で見ると、どうもイマイチ収まりどころが悪い。もちろん、アルバムに入れることを考慮して、ある程度自己完結性の強い楽曲が選ばれてはいるのだけれど、それもちょっと微妙である。
 書き下ろし曲との相性が優先されているからなのか、楽曲のクオリティ的には、無難なレベルに落ち着いてしまう。一公演通して聴くのなら、組曲としてレベルも上がるのだろうけど、抜粋されて通常曲とアルバム曲と並べると、どうにも分が悪い。
 いっそ公演ごとにベスト・テイク厳選して、ストーリー進行に準じて音源化しちゃった方が、アルバム・夜会双方の顔も立つんじゃないの?と思ってしまうけど、余計なお世話か。本来なら、DVD発売にも消極的だったし。

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 年1のオリジナル・アルバム制作、2、3年ペースで執り行なわれる夜会を軸として、90年代以降のみゆきは活動してきた。ラジオ・パーソナリティもライフ・ワークではあったけれど、まぁメインではないよな。あくまで副次的なものであって。
 「継続は力なり」で、膨大な質・量の作品を残してきたみゆきだけど、長く続けてきた事で徐々にあらわになってきたのが、いわゆるマンネリ化である。作品のことじゃないよ、あくまで作業工程のことであって。
 サウンド・メイキングの理解者:瀬尾一三と出逢ったことによって、みゆきのスタジオ・ワークへのはスタンスは、大きく変化する。理想のサウンドを求めてコロコロ作風を変え、プロデューサーやミュージシャンを取っ替え引っ替えしていた80年代中盤のご乱心期は、創作者:中島みゆきの成長のあらわれであり、また同時に試練でもあった。今となっては考えられないことだけど、布袋寅泰が参加したセッションもあったくらいだから、その試行錯誤ぶりは窺える。
 言葉と旋律を最優先に考え、過度なアレンジを排して持ち味を活かす―、そんな瀬尾のサウンド・アプローチは、みゆきとうまくシンクロした。
 その後は、スタジオ・ワークの多くを瀬尾が仕切るようになり、そこからまた右往左往試行錯誤しながら、スタンダードな体制が形作られてゆく。シュアーなリズムと躍動感を求めて、LAでのレコーディングが多くなり、思いのほか攻めのアプローチを指向している。
 ある程度のリテイクや編集によって、レコーディング作品は、高いクオリティを実現できるようになった。単発的なセッションで終わるのではなく、何作にも渡る長いスパンによって築いてきた信頼関係が、アンサンブルの熟成を促したのだろう。
 音楽は国境を超えるけど、超えるまでは言葉の障壁があったりコミュニケーションの齟齬があったりして、一筋縄でいくものではない。みゆき自身は英会話は不得手だし若干コミュ障だしで、苦労したんだろうな現地コーディネーターと瀬尾一三。
 そうやってカッチリ作り込まれたレコーディング作品とライブ・パフォーマンスとでは、どうしてもズレが生じてくる。どれだけ完パケ・テイクをなぞろうとも、外人と日本人とではニュアンスは違ってくるし、特にライブの場合だと、オーディエンスのリアクションによって、クオリティは左右される。
 そもそも大前提として、海外ミュージシャンによるスタジオ演奏と、日本人ミュージシャンによるライブ演奏とを比較すること自体、無理がある。あるのだけれど、常に良質のエンタテイメントを追及すると、どうしても生じてくるジレンマである。
 いっそのこと、カラオケでやればブレは少なくなるのだけど、それならそれで、パフォーマンスの意味がズレてくる。会場の音響システムや広さによっても違ってくるだろうし。

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 通算40枚目のオリジナル・アルバムとなった『問題集』は、久しぶりの全編日本国内でのレコーディングとなっている。どれくらい久しぶりかと調べてみたら、なんと1990年の『夜を往け』以来だから、ほぼ四半世紀ぶりか。
 まだバブルの残り香漂う90年代だったら、海外レコーディングのコスパも良かったけど、CDセールスが急激な右肩下がりとなる2010年代以降になると、ちょっとやりづらくなってくる。いくらヤマハの稼ぎ頭であるとはいえ、近年のみゆきのセールス推移でLAレコーディングを継続するのは、ちょっとムリ筋じゃね?というのは素人でも察せられる。
 正面切って物申すスタッフが社内にいるとは思えないけど、それでも近しい人づてながら、社内からの声が聞こえたりはするはず。すべてがすべて、みゆきマンセーじゃないことくらい、何となく察してはいるだろうし、穏やかながら、風当たりも感じてはいただろうし。
 谷山浩子なら言えるのかな、「あんた、ちょっと経費使いすぎよ」とかなんとか。
 多分に、この『問題集』製作と前後してだと思うのだけど、時系列的に実母の健康状態もあって、プライベートは何かとゴタゴタしていたはずである。そんな環境と心境の揺らぎ、加えて前述の社内事情も相まって、制作方針の転換があったんじゃないか、と。
 ここまで書いてなんだけど、あくまで推測だからね。そういう事を切々と語る人じゃないし。





1. 愛詞(あいことば)
 2013年、中島美嘉に提供したシングルのセルフ・カバー。みゆきヴァージョンは何回も聴いているので、試しに美嘉ヴァージョンから先に聴いてみたら…、なんだコレ。ピッチもひどいし、全体的に雑。ものの1分くらいで、YouTube閉じちゃった。
 多分、みゆき自身の仮歌をもとに、美嘉は美嘉なりに解釈付け加えて歌っているんだろうけど、想いが先走ってテクニックが空転しまくっている。多少の歌唱指導はしたんだろうけど、ここまでが手いっぱいだったんだろうな。オートチューンさえモノともしない暴走振り、美嘉、なんて恐ろしい子。
 そんな美嘉の後を受けて、サラッと歌いながら、明らかに地力の力を見せつけるみゆきの佇まいといったらもう。「あら、この歌だっらこれ以外、歌い方ってあるのかしら?」とシレッと澄まし顔が、垣間見えてくる。



2. 麦の唄
 『マッサン』。知っての通り、『マッサン』。ウィスキーが主題だからと、取ってつけたようなバグパイプのイントロは、ちょっとやり過ぎじゃね?とも思うけど、朝ドラ視聴者にはこのくらいベタな方が伝わりやすいんだろうな。
 「あきらめない日本人への応援歌」というNHKからのオファーにより書き下ろされたこの曲、あんまりひねた見方はしたくないのだけど、「この曲って、麦ってかなりこじつけだよな」と、いつも思ってしまう。何かのメタファーや暗喩ではない、力強く大地に根付く麦の穂たち。まぁNHKだし朝ドラだしな。あんまり面白くはない。



3. ジョークにしないか
 話題性を集めた2曲が続いた後で、タイアップも何もこの曲がポツンと置かれているのだけど、静かでいながらとんでもない名曲。2000年代以降の作品への思い入れが薄く、どうしても辛口になってしまう俺だけど、この曲は数あるみゆき楽曲の中でも、確実にベスト5に入れてしまっている。
 吉田拓郎オマージュを思わせる、それでいて拓郎には歌えないし作れない、みゆき独自の世界。インパクトの強いアレンジでもないし、メロディも単調だ。懐かしくて新しい、とでも言いたいけど、そんな次元を飛び越えたスッピンのみゆき。

 海へ行こう 眺めに行こう
 無理に語らず 無理に笑わず
 伝える言葉から 伝えたい言葉へ
 きりのない願いは ジョークにしてしまおう

 「愛」とか「恋」を言いそびれたまま、それでいて付かず離れず、何となく気になったりならなかったり。そんな風に年を取った2人。
 2人とも、どこかのタイミングでちゃんとしなくちゃと思いつつ、程良い距離感が心地よくて肩が凝らなくて、何となく、そのまんまでいて。
 当時のツアー「一会」では、最後にこの曲が歌われていた。後味サッパリで締めるのにちょうどいい曲でもある。

4. 病院童
 大味な歌謡ハード・ロック、と例えるとちょっと古臭いけど、まぁ古参が多いみゆきファンにはちょうどいい。今さらオルタナなアプローチは誰も望んでないし。
 そんな古参ファンたちにとって、病院というのは至極リアルな空間である。自身の健康状態だけじゃなく、親の介護や通院なんかで、どうしても向き合わざるを得ない。そんなネガティヴなイメージを吹き飛ばすかのように、重いギター・リフとちょっとハイテンションなヴォーカルが炸裂する。

5. 産声
 夜会楽曲からのセレクトで構成されたライブ『夜会工場 Vol.1』のために書き下ろされた、力強さと希望にあふれた壮大なバラード。あまりに真っ向勝負なので、茶化したりツッコミどころはない。
 慈愛の女神という役割を引き受けるみゆきは、とても強くしたたかである。周囲の期待と使命感とが、彼女の後押しとなっている。

 誰か私のために あの日々を教えてください
 何度でも歌が始まる 始まりの音が思い出せたら

 始まりの音は、誰しも心の中にある。でも、ひとつ取り戻すには、何かひとつ捨てなければならないのだ。

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6. 問題集
 日本のベテラン・ミュージシャンで固めたことに起因しているのか、まるで70年代ロックのようなアレンジ。近年ではほぼ聴く機会の少ない、弾きまくるギター・ソロ、また泥臭いブラス・アレンジ。
 男と女の恋愛観の違いの比喩として、問題集というテーマが設けられているけど、あまり裏も感じられないストレートな表現。行間を読むといった見方をしなくても、言葉通りの意味がスッキリ伝わってくる。舞台劇ならこれでいいんだけど、アルバム収録なら、もうひと捻り欲しかったよな、と思うのはマニアのめんどくさい要望。

7. 身体の中を流れる涙
 6.同様、こちらも『夜会 Vol.18 橋の下のアルカディア』の曲だけど、きちんと個別の世界観として成立しているため、アルバム書き下ろし曲との違和感は少ない。厭世観と諦念がうごめく歌詞は、70年代の作品群を思い起こさせるけど、正しくそれが狙い何だろうな。確かに夢も希望もない、ネガティヴな歌なんだけど、古参ファンとしてはむしろ、ホッと安心さえしてしまうのだ。
 そうだよ、無理して「糸」が好きって言わなくてもいいんだよ、俺たちは。応援歌よりもむしろ、こういった無常観に惹かれてるんだから、古参ファンたちって。

8. ペルシャ
 近年のアルバムには必ず一曲くらい仕込まれている、オリエンタル調アレンジの楽曲。夜会のシチュエーションに使うには最適なんだろうけど、まぁアルバムの流れとしても、バリエーションがあった方がいい。
 なんとなく、坂本冬美が歌ったらバシッとはまるんじゃないか、とふと思ってしまった。劇中歌っぽい歌詞は、まぁ夜会ってことで。

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9. 一夜草
 ちょっと古めのフォーク・サウンドは、ソフトにデリケートに歌うのが常だけど、ここでは劇中歌ということもあって朗々とした歌い方。でもフィットしてるんだよな。
 
10. India Goose
 夜会楽曲としては珍しく、テレビ東京『美の巨人たち』のエンディング・テーマとして起用された、かなり独立性の強い楽曲。近年のみゆきのヴォーカルは、力強く歌うとガナリ調になって繊細さが失われることが多かったのだけど、ここでは感情をコントロールして丁寧な仕上がりとなっている。終盤はちょっと暴走しちゃうけど。
 「ファイト!」~「地上の星」の系譜に属する、前向きだけじゃない応援歌。「麦の歌」に足りないものが、ここには込められている。弱き者が逆境や困難に立ち向かい、ある者は乗り越え、ある者は力尽きて、崩れ落ちる。
 どれだけ頑張っても、皆が同じハッピー・エンドになるわけではない。ただ結果はどうであれ、そのひたむきな姿勢は、きっと誰かが見てくれている。
 馴れ馴れしく声をかけるわけではないけど、ちゃんと見てる。あなたのことを気にしている誰かは、きっといる―。
 みゆきは、繰り返しそう歌っている。






 

伝えたい想いを、わかりやすく。時々、わかりにくくもあり。 - 中島みゆき 『コントラアルト』

folder 2020年にリリース、中島みゆき通算43枚目のオリジナル・アルバム。近年の傾向である、夜会曲やセルフ・カバーは収録されていないため、アルバム・コンセプトとは明らかに浮いた曲はない。倉本聡脚本のドラマ・シリーズ『やすらぎの刻〜道』に書き下ろされた主題歌・挿入歌が4曲収録されていることから、他の曲も同様のトーンで統一されており、非公式のサウンドトラックといった見方もできる。
 老人ホームで起こる悲喜交々の人間模様を、いつもの倉本聰タッチで描いたドラマなので、いわゆる達観した老人が出ることはない。―とっくの昔に不惑を迎えたはずなのに、それぞれ事情を抱え、煩悩もそこそこ持った老人たちが、あぁだこうだ思い悩んだりぶつかり合ったりで―、と書いてみたけど、実はこのドラマ、見たことない。
 なので、見当違いのこと書いてるかもしれないけど、そこまで調べる気もない。知りたい人は、それぞれ調べようよ。
 倉本聰のドラマ性に触発されたのか、はたまた、みゆきの歌が物語のトーンに影響を与えたのか。どちらも負けず劣らず、筋金入りの頑固さで通っているため、安易なリスペクトなんて絶対口にしなさそうだけど、通い合う部分があるのは、なんとなく理解できる。
 さだまさしだったら二番煎じになっちゃうし、かと言って、近年のアーティストで倉本聰の重量感を受け止められる人って、そういえばなかなか見当たらない。ちゃんとした大人のドラマの熱量と拮抗できる、強いパーソナリティを持つ歌い手は、どの時代も限られる。

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 デビューから40年を超え、もはや大御所という肩書さえ超越しちゃった感のあるみゆき、コアな固定ファン以外にも知名度が高いため、いわば「安全パイ」として、タイアップのオファーはいまだ多い。「時代」や「糸」、「ファイト!」など、スタンダードとして定着した曲も多いため、若い層からの支持も高い。
 コアな古参ファンからすれば、「イヤイヤもっと響く曲はいっぱいあるんだよ」と言いたくなってしまうけど、こだわりの強い人が多いため、大抵収拾がつかない。ちなみに最近、これまでファンの間では人気の高かった隠れ名曲「ホームにて」がCMに起用され、古参ファンからすれば複雑な想い、何となく痛しかゆしといったところ。
 そんな按配なので、他の同世代アーティストと比べて、現在のみゆきの立ち位置はかなり恵まれたものではある。自分から無理に売り込まなくても、過去曲の再評価は周囲で勝手に行なわれている。ヤマハ役員待遇というポジションから、リリース契約も安泰のため、コンスタントな新譜制作も行なわれている。
 現在のみゆきのポジションは、坂道系やジャニーズ中心の音楽シーンからは、大きく外れたところにある。あるのだけれど、いま現在は、年齢相応のテーマとスタンスに沿った作品を発表し、それは一定の支持を得ている。今のところ、iTunesには解禁していないし、サブスクにもそれほど積極的ではないけれど、その辺の客層を無理に取り込む気はないのだろう。聴き流すことを許容する音楽ではないし。
 みゆき個人に限って言えば、著作権印税なりヤマハの役員報酬なりで、あくせく働かなくてもいいはずである。おそらくみゆきの本意である、じっくり下準備をかけた「夜会」を活動の軸に据え、3年程度のペースでのオリジナル・アルバム制作、それに伴う大都市圏中心の小ツアー。
 気力・体力的にも、その程度なら無理もないし、ファンだって、そんなブーブー言うはずもない。ブーたれるほど無分別なファンは、もうずいぶん前にいなくなってしまった。

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 ラスト・ツアーを宣言したことで大きな話題となり、さらにコロナの影響で中止や延期が相次いだ今年だけど、今後どうなることやら。ちなみに俺、札幌公演申し込んだけど、見事にハズれたよ。
 みゆきの本意としては、地方公演をスッパリやめるのではなく、「中小都市を細かく回ることをやめる」ということらしい。主要都市を中心に、大きめのホールでの複数回公演を行なうことは継続するようなので、むやみに大騒ぎするのは、ちょっと報道の仕方もどうなのよ、と思ってしまう。
 地方在住のファンにとってはハードルが高くなるけど、でもみゆきのコンディションを考えれば、そんなに無理も言えない。40代ならまだしも、60代の女性が長期の全国ツアーを敢行するのは、はたから見てもちょっとキツいのが目に見える。
 これはみゆきだけじゃなく、近年の演奏陣にも言えることで、主要メンバーはみな還暦を迎えている。いくら余裕を設けたツアー日程とはいえ、あちこち枕が変わることは、肉体的にも精神的にも徐々にストレスがかかってくる。気力だけで乗り切れるほど、みゆきもメンバーも若くはないのだ。
 スタジオ・ワークと同じ熱意で、みゆきはライブにも力を注いできた。自身のヴォーカル・ワークのレベル・アップ同様、アンサンブルやメンバー選定にも試行錯誤を繰り返した。
 そんな経緯によって、みゆきサウンドのアンサンブルは成長し、そして円熟の段階に達した。メンバーも固定化して、やっと満足のゆくスタイルに辿り着き、形として残せるレベルになった。
 今世紀に入ってライブ・アルバムのリリースが増えたのは、そんな事情もある。

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 体調不良を機に、吉田拓郎はずいぶん前から活動ペースを落とし、つい先日は高橋真梨子がみゆき同様、ツアーからの引退を宣言した。さだまさしはなかなか衰えないけど、考えてみりゃステージの半分以上はMCだって言うし、まだしばらく大丈夫だな。
 ちなみに海外へ目を移すと、ベテラン・アーティストのツアー引退というニュースは、今世紀に入ってから、わりと聞く話である。ポール・サイモンやエルトン・ジョンは、「家族との時間を大切にしたい」との理由から、大規模ツアーからの撤退を表明している。
 こういった現象は、若いうちにスターダムの階段を駆け上がったアーティストによく見られ、例えば先日レビューしたビリー・ジョエルも、ここ数年はニューヨーク郊外での静かなプライベートを重視しており、人前に出るのは月一のMSGライブのみとなっている。
 近年のベテラン・アーティストの主戦場は、ワールド・ツアーからラスベガスのホテルへとシフトしており、一か所に一定期間滞在して、週に数度コンサートを行う「レジデンシー公演」がトレンドとなっている。ホテルでの公演といえば、いわゆるディナー・ショー的なものを想像してしまいがちだけど、そこはさすがスケールのデカいアメリカ、どの会場も4,000〜10,000人クラスと、収容力がハンパない。
 今年のラインナップを見てみると、エアロスミスやスティング、レディー・ガガなど、アリーナ/スタジアム・クラスのメンツが名を連ねている。過去にはロッド・スチュアートやセリーヌ・ディオン、スプリングスティーンも出演しており、そんな大物アーティストがホール・クラスで間近に見ることができるのも、レジデンシー公演の魅力のひとつである。
 新作アルバムのプロモーション的意味合いが強かったワールド・ツアーも、近年は音源売り上げの低迷によって、レーベルからのバックアップも少なくなった。収益の柱がライブ・パフォーマンスに移行したことによって、新作リリースが捗らないベテラン懐メロ勢にとっては都合が良くなったけど、世界を股にかけたドサ周りは、気力・体力共に大きく消耗する。
 集客力のある大規模ショーやアトラクションを確保したいホテル側と、最小限のリスクで効率的な収益を望むアーティスト側。そんな双方の利害の一致を結びつけたのが、このシステムである。まぁベガスだから、何かと裏のしがらみもあるんだろうけど、少なくとも誰も傷つくことはない。
 そう考えると、常設公演である夜会も、このシステムに近い形ではあるのだけれど、あいにくコクーン・シアターもBunkamuraも、大会場とは言えないキャパのため、収益性はベガスとは比べものにならない。夜会単体で採算を取るには、チケット代金を上げるか、それとも企業スポンサーをつけるか、そのどちらかだけど、まぁどっちも難しいご時勢だな。

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 で、『コントラアルト』。倉本聰の世界観を代弁するかのごとく、静かで、それでいながら拳はしっかり握られている。そんな作品である。
 腹に力を入れ、声を張り上げる曲はない。言葉ひとつひとつを噛みしめるように、柔和な問題提起を、聴く者に投げかける。言葉を受け取り、自己と照らし合わせることで、みゆきの歌は、心のすき間にすっぽり収まる。
 収まらない言葉だって、もちろんある。みゆきの歌も例外ではない。深く入り込めない言葉は、これまでいくつもあった。
 ただ、そんな歌たちも、長く聴き続けていると、ふとした瞬間、すき間を埋めることがある。
 ―あぁ、あれはそういったことだったのか。
 無理に伝えようとせず、ただ、言葉をそっと置いて去る。ここ数年のみゆきの歌は、そんな風に変化している。
 過剰な励ましや憤りをがなり立てるのではなく、世界観に引きずられる一歩手前で踏みとどまる。
 伝えたいことは、言葉の中にある。
 無理に気負って声を上げること、そうすることで、伝えたい言葉は濁る。
 ヴォーカルやアレンジのテクニックを最小限に抑え、複雑な言い回しや、思わせぶりな暗喩をやめる。
 伝えたい想いを、わかりやすく。時々、わかりにくくもあり。
 気になった言葉を、何度も聴き返すことで、想いは染み込んでゆく。聴き流せる言葉は、ただそれだけのものなのだ。
 『コントラアルト』は、特にそんなことを思わせるアルバムである。


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1. 終り初物
 倉本聰に「また一歩、僕より先に行ってくれた感じがした」と言わしめた、ドラマ書き下ろしにもかかわらず、少しも歩み寄らず、それでいてバチっと世界観にはまった、そんな曲。まるで倉本ワールドに対する挑戦状のごとく、揺るぎない存在感をぶつけて来ている。こういったヘヴィー級の威力を受け止められる作家である、という信頼の上ではあるけれど。
 
 ひとり娘のあの子が 遠い国へゆくらしい
 いろんなわけが それぞれあって
 かけうる言葉が 足りない

 事情があって追われる立場の女を、決して主観ではなく、傍観者/観察者の視点で描いていたのが、かつてのみゆきだった。「遠い国」にネガティヴな暗喩を含ませていたのも、かつてのみゆきだった。
 多分、その視点は昔と変わってはいない。ただ、思わせぶりな言い回しは少なくなった。ストレートに捉えていいのかどうか。古いファンであるほど、そんな深読みに慣れてしまっている。 

2. おはよう
 ブロウしまくるサックスや重いギター・リフに煽られて、ついシャウトしちゃいそうなところを、寸前で抑え込んだアップテンポ。こういう曲も昔だったら、ブルースっぽくダルな感じで歌い流していたところを、比較的素直なアプローチで歌っている。
 40年近く前、みゆきは「傾斜」の中で、想像で「腰の曲がった老婆」を歌った。

 年を取るのは素敵なことです そうじゃないですか
 
 悲しい記憶の数ばかり 飽和の量より増えたなら 
 忘れるよりほか ないじゃありませんか

 まだ想像と観察の中で描かれた、「こうなるはずだった」老齢に差し掛かった、いまのみゆき。いや元気だわ。ちょっと恍惚感も見え隠れするけど、背筋はシャンとしている。「傾斜」から「おはよう」を経て、伝えたいことは一貫して変わっていないのだけど、いろいろ通り抜け、乗り越えてきた自信が、強いバックボーンとして楽曲に反映されている。
 ややのん気な感じの「おはよう」からスタートして、次第に興が乗ってテンションが上がり、最後の「おはよう」はやたらドスが効いているのが、創作者としてのみゆきの強さを反映している。

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3. ルチル(Rutile Quartz)
 アレンジメントが楽曲にかなり肉薄した、瀬尾一三のポテンシャルがいかんなく発揮されたナンバー。本人曰く、「鉱物の歌って難しい」とコメントしているように、抽象性の高い歌詞で捉えどころが難しいのだけど、シンプルかつ効果的なアレンジが、楽曲のグレードを上げている。
 ややアプローチに悩んでる風な、ちょっと揺れ気味のヴォーカルが、うまくフィットしている。

4. 歌うことが許されなければ
 みゆき曰く、「難民問題をテーマに、少しずつ書き綴っていった」歌ということで、オリエンタルなアレンジとコンセプトから、「East Asia」との関連性もちょっとあるんではないか、と。夜会楽曲と似たテイストもあるので、かなり以前からの構想だったのかもしれない。

 歌うことが許されなければ わたしは何処へゆこう
 歌うことが許されなければ わたしは何処へゆこう
  
 単に「難民がかわいそう」「戦争はイヤだ」と大局的に訴えるのではない。みゆきの視点はもっと生活や庶民に根差した、生きる場所を追われる民、そんな彼らの声にならない叫びを、憑依させることによって言葉を紡いでいる。

5. 齢寿天任せ
 野太い掛け声と箏の音や、コブシの入りまくったみゆきのヴォーカルといい、モダンにアレンジされた邦楽テイストが濃い。現代民謡って形容もアリかな。
 かなり野放図で無鉄砲で、「細けぇことはいいんだよ」的な開き直りと豪快さに溢れかえっている。前述の「傾斜」のくだりでも書いたけど、老いて枯れるのではなく、悟りも通り越して「なるようになるさ」と言い切ってしまう境地に達してしまうのは、いい年の取り方だよな。
 

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6. 観音橋
 昭和や大正の、幼少時代をシミュレートした寓話的世界は、倉本聰の世界観とのシンクロ率が高いので、これはさすがに、ちょっとはオファーを意識したんじゃないかと思われる。フィクションではあるけれど、記名性の高い「観音橋」をテーマとするあたり、夜会楽曲にもつうずるところはあるけれど。
 橋を渡ることが、果たして未来を左右するのか。渡らずとどまることで、何が残るというのか。そんなことを、みゆきは教えてはくれない。
 「そこまで親切じゃない」っていうより、そこを「人それぞれだから」と、それぞれ考えさせてくれるのは、違った意味での優しさである。そりゃそうさ、みゆきだって、すべての人の人生なんて、背負うことはできないし。
 
7. 自画像
 「世間が思う初期の中島みゆきの楽曲で歌われる女」をそのまんま描いた、コンパクトでありながら毒の効いた小品。サラッとこういったのを、まだ書けるのか、それともストックから引っ張り出してきたのか。まぁどっちでもいいけど、俺的には懐かしくて好きな世界観。
 誰かを応援したり慈愛に満ちてたり、そんなみゆきもいいんだけど、こういった皮肉とユーモアの効いた人間観察的な楽曲が、俺的にはスポッと収まったりする。「逃げ足いちばん 度忘れ にばん」って、すごい歌詞だよな、普通書けないよ、こんなの。
 ちなみ「自画像」って言ってるけど、大抵自画像って良くも悪くもデフォルメされてるから、言葉通り受け取っちゃいけないよ。あくまで着想ってことだから。

8. タグ・ボート(Tug・Boat)
 ピアノ・イントロが古内東子みたいだな、って思ったのが最初の感想。なので、この曲を聴くと、みゆきよりまず古内東子の顔がずっとチラついている。
 
 大いなる人々の水平線は
 大いなる船の上 甲板の高さ
 大いなる人々は
 その足よりも 低いところにあるものを 見ることはない

 かつてみゆき、主人公と共に旅する犬の目線で、大ヒット曲「空と君のあいだに」を書いた。女神のように民衆を見下ろす慈愛の目線と共に、地べたに近い視点で見上げる庶民の視点も併せ持つ。それが、詩人:中島みゆきの凄みのひとつであることに、今さら気づいた。遅ぇよ、俺。

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9. 離郷の歌
 「屋根打つ雨よりも 胸打つあの歌は 二度とは戻らない 宙の流れ」というフレーズから始まる、壮大なスケールの楽曲。倉本ドラマの世界観と合致している、というより、それすらも一部でしかない、と思わせてしまう。一節一節が強い物語性を内包しており、例えば前述の一行だけで、一曲成立してしまうくらいの言葉の重み。こんなフレーズがワルツのリズムで綴られているのだから、贅沢の極み。
 なので、何回も聴いているのに全貌をつかみ切れていない。アルバム1枚分のテーマが凝縮されているため、理解し、飲み込むのに、恐ろしく時間がかかる。
 すごい曲なんだよ、ほんと。

10. 進化樹
 「離郷の歌」が壮大なテーマを恣意的にぶん回しているとすれば、この「進化樹」はもう少し優しい。「進化」という壮大なテーマでありながら、汲み取りやすく、飲み込みやすい言葉でまとめられている。
 
 人はなんて幼いのだろう 転ばなければわからない

 「簡単に転ばなくなった」「転び方がうまくなった」ことを進化とするのなら、それもまた真理だ。でも、それを「進化だ」と胸を張って言い切れるのか。
 聴く者だけでは泣き、みゆきもまた、自身にそう問うている。



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みゆきさん、過去を思いっきり振り返ってみる。 - 中島みゆき 『ララバイSINGER』

 2006年リリース、34枚目のオリジナル・アルバム。オリコン最高10位。ま、こんなものか。ただ、TOKIOの『宙船』のセルフ・カバーがちょっと話題になったはずだけど、あんまりセールスには影響しなかったみたい。
 前回も書いたように、今さらチャートで動じる御仁ではない。

 「夜会を愛する中島みゆきファン」は多いだろうけど、「夜会の中島みゆきを『最も』愛するファン」とは、一体どれだけいるのだろうか。おおよそ30年の舞台キャリアを持つパフォーマーであり、実績的には申し分ないのだけど、多分そんなにいないんじゃないかと思われる。
 夜会について深く調べていると、かつて『2/2』が映画化されていたことを、いま初めて知った。みゆきが関与しているのは原案のみ、瀬戸朝香や渡部篤郎が主要キャストとして出演しているのだけど、これまで俺が知らなかったくらいだから、ほとんど話題にもならなかったのだろう。
 『2/2』に限らず、他の演目も別キャストで上演したら、多分同じ結果になるんじゃないかと思われる。この辺が、歌と演劇との違いになる。
 工藤静香や研ナオコがみゆきの歌を歌うことに、違和感を覚える人は、おそらく少ない。極端な話、島津亜矢でもみはるでも、ある程度の感銘を与えることは可能だ。
 どれだけアレンジやリズムを変えたり、アプローチを変えたとしても、そこには表現者:中島みゆきの強いエゴが残っている。創造者としての強いアイデンティティが、フレーズなり言葉に刻まれていることで、歌い手側はその世界観に引きずられる。
 単に音符を追うだけじゃなく、パフォーマーなりの新たな解釈を吹き込むには、強力なエゴと直感、さらに洞察力が必要となる。それらを生まれつき持ち合わせるのは選ばれし者であるけれど、それを披露する機会を得る者となると、さらに限られてくる。
 柏原芳恵や桜田淳子らは、そう言った面ではバランスよく秀でていたのだけど、長く続けてゆくには、また別の才能や努力、そして時と運が必要になってくる。そう考えると、静香って最強だよな。

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 『シャングリラ』でも『リトル・トーキョー』でも何でもいいけど、夜会原作を他の演劇集団が演じたとして、まぁワイドショーでちょっと取り上げられることくらいはあるかもしれないけど、でも、ただそれだけ。よほどコアなみゆきファンでも二の足を踏むだろうし、俺も札幌で観れたとしても、多分行かない。
 みゆきが原作を書いたからといって、彼女が出演しない舞台/ミュージカルを観に行きたいかといえば、多分そうはならない。シェイクスピアやつかこうへいと違い、みゆきの書くストーリーは、観劇の直接的な動機付けにはなり得ない。
 彼女の生み出す歌は、アジア諸国を含め、あらゆるシンガーに歌われている。なのに、夜会のパフォーマンスは、みゆき自身じゃないと成立し得ない。

 前回も書いたけど、開始してからずっと年1回のペースで行なわれて夜会は、21世紀に入ってからはペースを落とし、ほぼ2年に1回の開催となっている。準備期間に余裕を持ったことによって、舞台美術や演出も年を追うごとに大掛かりになっている。
 コンサートでもミュージカルでも演劇でもない、中島みゆきオリジナルの舞台芸術として、夜会は定着した。膨大な下準備のもと、緻密に編まれたストーリー構成、相反するライブ感から生ずる舞台上のマジック、そして、商業舞台として欠かせぬエンタメ性の追求。
 以前も書いたけど、2年に1回、2〜3週間程度の興行なので、単体で採算が取れるものではない。なので、DVD発売から映画上映、夜会楽曲に絞ったコンサートなど、あらゆる手段で資本回収に走らざるを得ないのが現状だ。
 ヤマハ経営陣の最古参として、おそらく現社長より影響力が強いと思われるみゆきだから継続していられるけど、もっと昔に打ち切られていたとしても不思議はない。言っちゃえば、他のベテラン・アーティスト同様、普通の興行だけで十分食っていけるんだろうし。

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 大枠のストーリーを追うことで、より魅力が伝わる夜会楽曲は、正直、単体では存在感が大きく目減りする。そのままシングル・カットできそうな曲もあるけど、シーンの状況説明で終わる幕間の楽曲だってあるわけだし、その辺は玉石混交、まぁどのアルバムにだって言えることか。
 夜会楽曲を除いた近年のみゆきのアルバムの楽曲構成は、
 ① 書き下ろしオリジナル (過去のストック使用もあり)
 ② 他アーティストへ提供した楽曲のセルフ・カバー 
 ③ 外部オファーによるTV・映画のタイアップ曲
 に、おおよそ分別される。以前だったら、②も各アルバムに分散せず、何年かに一度、『おかえりなさい』や『回帰熱』のようにアルバム1枚にまとめていたのものだけど、そこに投入する時間も体力も、捻出するのが難しい。
 単純に歌を作り、そして歌う。もう、それだけやってればいい立場ではないのだ。
 アーティストとして、パフォーマーとして、執行役員として、ラジオ・パーソナリティとして、それぞれの関りがあり、それぞれの段取りが決まっている。そのどれもが大切な仕事であり、疎かにはできない。がむしゃらに完徹できた20代・30代とは違い、気力・体力は確実に落ちている―。
 年を追うにつれ、アルバム内のオリジナル楽曲率は減ってはいる。いるのだけれど、夜会向けの楽曲も書いているため、実際の創作ペースは昔とそれほど変わっていないはずだ。多少のスランプを迎えたこともあっただろうけど、音楽の女神(ミューズ)はその素振りを決して見せない。

 表現者としての中島みゆきは、時に暴走する時期を迎えることがある。サウンド・メイキングに迷走した80年代のご乱心期が顕著だったけれど、それも瀬尾一三に出逢ったことによって、スタジオ・ワークの試行錯誤は大幅に軽減された。
 抜群の信頼を置く瀬尾にアレンジやサウンド・コーディネートの大部分を託すことによって、純粋な創作活動に専念できるようになったみゆきだけど、それでも曲の出来不出来はある。長いキャリアの中では、「これはちょっと何だかな」という曲も、出てきたって不思議はない。何しろ人間離れしたミューズなので、凡人から見てると分からないけど、リリースしてから「やっちまったな」と後悔した曲も、公言はしてないけどあったんじゃないかと思われる。
 「舞台は魔物」とはよく言ったもので、夜会プロジェクトに没入し、時に足元が見えなくなる。原点であるはずの「歌うたい」、吟遊詩人としての中島みゆきを再確認する作業が必要になる。

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 実際にみゆきが公言しているように、『ララバイSINGER』はシンガー・ソングライター中島みゆきにとって、原点回帰の作品として製作された。オリジナルとタイアップ、それにセルフ・カバーによって構成されているため、リリース前から知られていた曲も多く収録されている。
 このアルバムで大きな話題となったのが、オリジナル楽曲のクオリティの高さだ。特にタイトル曲は、単純なリメイクやインスパイアに終わらず、デビュー曲をモチーフとしながら、まったく同じ世界観をまったく違う時空でシンクロさせている。
 純粋な歌うたいとして、また時間軸を超えた物語を連綿と紡ぐシャーマンとして、みゆきは存在する。物語のルーツはみゆきの中に常にあり、そしてそれは、形を変えることはあれど、突き詰めるとひとつの物語に過ぎない。

 ももクロだろうが夜会だろうが、みゆきはひとつのことしか歌っていない。
 みゆきはずっと、そこにいた。


ララバイSINGER
ララバイSINGER
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中島みゆき
ヤマハミュージックコミュニケーションズ (2006-11-22)
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1. 桜らららら 
 もともとはデビュー・アルバム『私の声が聞こえますか』の収録候補曲だったということだから、おおよそ40年前の曲。「歌詞が1番しかできてなくて、収録を見送った」とのエピソードが残っているけど、完成品とされるこのヴァージョンを聴いても、どの辺を追加したのか、正直疑問。だって、らららら抜いたら、そんなにセンテンスないじゃないの。
 多分、1番と思われる序盤の歌詞や、ひねりがなく牧歌的なメロディは、確かにアマチュア時代の延長上にある。なので、出来がどうした、じゃないんだよな。原点に立ち返るっていうのが重要なわけだし。

2. ただ・愛のためにだけ
 岩崎宏美のシングルとして書き下ろされたナンバー。キャリア的にはほぼ同期の2人だけど、そういえばコラボってなかったし、なんかイメージが合わないよな。どちらかといえば優等生キャラのイメージが強かった岩崎宏美ゆえ、「女」「性」のテイストが強いみゆきの楽曲は、多分周りもオファーしなかったんだろうな。
 ちなみに岩崎宏美のヴァージョンを聴いてみたのだけど、まぁピッチ的には当然うまい。うまいのだけど、「岩崎宏美が歌う中島みゆき」というイメージが強い。こうして文字にして書いてみて、「アレ、なんか俺、当たり前のこと書いてるな」って気づいた。
 どうにも2人は交じり合わない様になっている、と言いたいだけ。みゆきヴァージョン?まぁ、アベレージは超えてはいる。

3. 宙船 (そらふね) 
 考えてみれば、みゆきが男性シンガー(グループ)に書き下ろした例自体がそんなになかったのだった。俺がパッと思いつくところでは、前川清に提供した「涙」、あと何かあったっけ。
 もともとはこのアルバムのメイン・トラックとして書かれた、とのことだけど、書いた後にTOKIOに渡しちゃって、それから改めてレコーディングした、という経緯があるから、ヴォーカルのタッチは荒々しく、長瀬テイストが強い。まぁ引っ張られた、ってところか。
 理屈っぽさや暗喩も少なく、ストレートで男っぽい歌詞は、裏表なく、万人に届きやすい。ただ、TOKIOに提供することが決まってから、多少の修正があったはずなので、ほんとの初期デモ・ヴァージョンも聴いてみたいところ。あるかどうかは不明だけど。

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4. あのさよならにさよならを
 ともちゃんこと華原朋美に提供したシングル曲のセルフ・カバー。当然、TKプロデュースじゃないので、方向性が迷走していた休業直前の時期だったと思われる。
 せっかくなのでYouTubeでオリジナルを聴いてみたところ、漂ってくるメンタルの不安定さゆえか、気合の入ったヴォーカルを聴くことができる。普通にバラード・シンガーとしてうまいし、表現力も充分。この路線で続けられていたら、とちょっと悔やまれる。
 みゆきヴァージョン?さっきも言ったけど、アベレージは超えてるって。でも、それだけかな。

5. Clāvis -鍵-
 やっぱ静香だな。この時点で8年ぶりのコラボだったらしいけど、みゆきも静香もお互い、きっちりツボを押さえて仕上げている。ロッカバラードに仕上げた静香ヴァージョンと、マリアッチ・テイストのみゆきヴァージョン、どっちも秀逸。
 歌詞は静香をイメージして書かれたせいもあって、変な思わせぶりもないストレートなラブ・ソング。押しの強い女を歌わせたら天下一品の静香の存在により、みゆきもこういったスタイルの歌詞を書けるようになった、とは言い過ぎかね。



6. 水
 いろいろ解釈の別れる歌。水が何を意味しているのか、をずっと問い続けている。哲学なのか形而上学か、見方によって「愛」なのか、それとも「エゴ」なのか。どれと断定できるものではない。
 ただ、ひとつ。言葉数が多いんだよな。暗示的な表現なら、もっとセンテンスをそぎ落としても良かったんじゃないか、というのは大きなお世話。昔の楽曲を引き合いに出して悪いけど、「縁」っていうプログレッシヴな曲を書いてるんだからさ。

7. あなたでなければ
 「千葉ロッテマリーンズのチェイス・ランビン内野手の応援歌の原曲」ということらしいけど、プロ野球なんてしばらくまともに見てないんで、ちょっと不明。ただ明快なサビと歌詞、ノリの良いアンサンブルは、球場で聴くと気持ちいいかもしれないな。
 
 あなたでなければイヤなんです
 あなたでなければダメなんです
 似たような人じゃなくて 代わりの人じゃなくて
 どうしてもあなたにいて欲しいんです

 ストレートな愛の告白だけど、直接届いているのかどうか。「もしダメならダメで、次行きゃいいか」という潔さと諦観が交差している。

8. 五月の陽ざし
 決してメイン・トラックにはなりそうもない、地味なピアノ・バラードだけど、細やかなメロディ・ラインと丁寧なヴォーカルが、シンガー・ソングライターとしての基本に立ち返る気概を感じさせる。
 遥か昔、渡せずじまいだった彼へのプレゼントの小箱の中には、丁寧に綿にくるまれたドングリの実がひとつ入っていた。考えてみれば、あまり知らない女の子にドングリ飲の実をプレゼントされたら、どう思うだろうか。そりゃ気持ち悪いわな、意味わかんないもの。
 こうやって書いちゃうと、エキセントリックとしか思えないストーリーさえ、きちんと体裁よくバラードに仕上げてしまうライティング・スキルの高さ。さすがみゆき。

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9. とろ
 ラジオの時の声質をそのまんま持ってきた、近年では親しみやすいメロディとサビを持ったナンバー。とはいえ演奏はしっかりしており、アンサンブルもきちんと考えられて配置されている。
 単にほんわかした歌と思ってはいけない。みゆきがこんな風におふざけで歌うときは、大抵悲しい歌だ。いつもの調子で歌ったら泣き出してしまうのを、実は心の中で必死に抑えている。
 ただ単に、巻き舌で「とぉ~ろっ」て言いたかっただけかもしれないけど。

10. お月さまほしい
 みゆきは昔から「月」をテーマとして扱うことが多く、この曲も月夜を舞台にしており、様々な解釈が飛び交っている。BL風味が取り沙汰されることが多いけど、いやいや、そうじゃないって。
 俺の勝手な解釈で行くと、この曲は「空と君のあいだに」の続編。犬の視点で呼んでみると、スッキリする。

11. 重き荷を負いて
 最初に聴いた時から、強いインパクトだった。「がんばってから死にたいな」というフレーズは異質でありながら、心の抉れにすっぽり収まった。
 かつてみゆきは「傾斜」で、日増しに厳しくなる登り坂を歌った。

 「悲しい記憶の数ばかり 飽和の量より増えたなら
 忘れるよりほか ないじゃありませんか」

 あれから四半世紀経ち、みゆきも老婆に近い年齢となった。忘れるわけにはいかない。放り出すわけにもいかないのだ。
 俺がこの曲を初めて聴いたのが37歳だったけど、自分に響くようになったのは、40過ぎてからだった。ストレートで無骨だけど、染み渡ってくる。演歌って、こんな感じなんだろうか。

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12. ララバイSINGER
 ファンの間でも大きな話題となったタイトル曲。なぜこの時期、この曲調・このテーマを選んだのか。結局のところは、みゆきしかわからない。
 シンプルに考えれば、ララバイ=子守歌だけど、誰に向けて歌っているのか。誰か他人か、それとも自分か。

 歌ってもらえるあてがなければ 人は自ら歌びとになる
 どんなにひどい雨の中でも 自分の声は聞こえるからね

 とても人を眠りにつかせようと歌う内容ではなく、ていうか、むしろ寝かしつける気なんて、まるでない。まぁ「アザミ嬢のララバイ」だって、そんなのは皆無だったけど。
 歌人にならざるを得ない絶望的な孤独、そしてそれをどこか望んでる自分。
 気の狂いそうな絶望の中でも、自分のために歌うことくらいはできる。
 もしそれができなくなれば―。
 まぁ寝るか、そろそろ。「もうおやすみ」って言ってるし。



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Singles 2000
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中島みゆき
ヤマハミュージックコミュニケーションズ (2002-04-17)
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北海道の中途半端な田舎に住むアラフィフ男。不定期で音楽ブログ『俺の好きなアルバムたち』更新中。今年は久しぶりに古本屋めぐりにハマってるところ。
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