87年リリース、6枚目のオリジナル・アルバム。デビューから3枚目までは、所属レーベル:フィッツビートの方針で6曲入りのミニ・アルバムだったため、フル・アルバムとしては3枚目になる。
売り上げ見込みが立ちづらい、いわば育成枠アーティスト専門だったんだよな、このレーベル。大きくブレイクしたのは彼らと聖飢魔IIくらいで、グラス・バレーも宮原学もみんな、売れ線狙う気あんまりなさそうだったし、そもそもレーベル・プロデューサーの後藤次利のソロが、ほぼ趣味全開、キレッキレのジャズ・フュージョンだったし。
日銭はたんまり入るけど、過密スケジュールでストレスMAXな歌謡曲仕事のガス抜きだったのか、はたまたレーベル立ち上げの箔づけの名義貸し、名ばかり管理職みたいなポジションだったのかも。それはそれで今度、掘り下げてみるか。
で、この時期のレベッカ、ライブハウスからホール/アリーナ・クラスに格上げされた全国ツアーに加え、テレビ・ラジオのレギュラーやら雑誌のインタビューやらグラビア撮影やら、ほぼ毎月、何らかの形でお茶の間に露出していた。ニッチなコンセプトのレーベルだったにもかかわらず、膨大な不特定多数の一般大衆にも幅広く認知が広がり、このアルバムもオリコン初登場1位、年間でも7位にランクインしている。
ソニー・グループが80年代に確立した、多角マルチメディア戦略のケーススタディのひとつとなったのが、レベッカの成功だった。それまでロック/ニューミュージック系のプロモーション活動といえば、全国各地のライブハウスを地道にコツコツ回るくらいしか手段がなかったのだけど、彼らのブレイクによって新たなメソッドが確立された。
メインターゲットを10代の少年少女に定めることで、80年代のソニーはレーベル自体のブランド確立を画策していた。若者ウケするため、「なんかカッコよくしたい」というフワッとしたビジョンのもと、あらゆる手段を講じて必要なインフラを立ち上げていった。
当時の音楽雑誌の多くは、雑談を適当にまとめたインタビュー記事と、そこら辺で適当に撮られた普段着の写真で構成されていた。そんな近所の音楽好きのお兄さん・お姉さん的な親しみやすさにフォーカスした構成は、それはそれで好感を持てなくもないのだけれど、地に足の着きすぎた身辺雑記が多く、ちょっと食い足りなさが残るものがほとんどだった。
既存メディアの枠組みでは、思い描くイメージ戦略が実現できないことを悟ったソニーは、自ら出版部門を立ち上げた。きちんとした撮影スタジオとカメラマンによる、凝ったアングル満載のグラビアと、程よくウェットな印象批評を基底としたインタビュー、そしてフワッとした比喩を忍ばせたキャッチコピーを散りばめられた『GB』『PATi・PATi』は、そこまでマニアックさを求めないライトユーザーを幅広く取り込んでいった。
草の根的な地方へのドサ回り行脚は、この時代でも有効な手段ではあったけど、物理的にも予算的にも限界があった。まだ販促費を充分にかけられない若手を後押しするため、ライブやイメージ映像で構成されたPVを作り、何本かまとめてビデオ・コンサートを催した。北海道の中途半端な田舎のライブハウスでも開催され、そこで初めて小比類巻かおるを知ったのは、もうずいぶん昔の話。
当時のテレビ歌番組はアイドルと歌謡曲が中心で、よほどヒットしていない限り、ロック/ニューミュージック系アーティストが出演する機会は少なかった。出られたとしてもぞんざいな扱いをされることが多く、それがトラウマで出演拒否するアーティストが多かったのも、この時代。
なのでソニー、当時アメリカで隆盛だったMTVを範として、アーティストPVをメインとしたテレビ番組を立ち上げた。それが伝説の「ビデオジャム」。当初はデーモン閣下がレギュラー出演してたんだよな。
オーディオ/ビジュアル系部門において、若者層に絶大な支持を得ていた親会社のイケイケな勢いも、レコード部門の躍進を後押しした。ウォークマンやらドデカホンやら電池まで、少しでも音楽と紐づけられる商品のCMタイアップを積極的に行ない、主に深夜帯に放映されていた「ビデオジャム」より、さらに多くのライトユーザーへの認知を広げた。
-自分たちにふさわしい環境がないのなら、いっそ作っちゃえばいい。
そんな清々しいくらい「ど」ストレートな動機のもと、80年代のソニーはありとあらゆるインフラを整え、そしてその戦略がどれも相応の成果を得ている。音楽ビジネスが発展途上だった、そしてユーザーがスレていなかった時代の話である。
レベッカがデビューした頃は、まだスタンダードな手法が確立されていたわけではなく、いろいろ試行錯誤•暗中模索の段階だった。彼らをはじめ、尾崎豊や渡辺美里で得た成功事例をもとに、少しずつ整備されマニュアル化されて、のちの世代に受け継がれていった。
彼ら自身、また制作チームがどれくらい成長ビジョンを持っていたのか。まだ充分に確立されていなかった音楽ビジネスが未知数だったため、目先の自転車操業的なサイクルでしか考えていなかったことは想像できる。
「レコード・デビューして全国のデカいホールをソールドアウトにして、テレビ・ラジオに多数出演して音楽雑誌の表紙を飾る」。バンドの性格によって多少の違いはあれど、おおよそ多くのアーティストにとって、これらが暫定的な到達目標として設定されていた。
まぁ本人たちもスタッフも、「志だけは大きく」と思っていたのかハッタリだったのか、「運良けりゃ実現するかも?」的なビジョンだったんじゃないかと思われる。迷走していたベクトルを集約させるためには、誰かが大風呂敷を広げなければならなかったのだ。
「フレンズ」の大ヒットによって、ブレイクまでの最短距離の道筋をつけたレベッカのサクセス・ストーリーは、ひとつのロールモデルとなった。客席との距離も近く、天井も低いライブハウスからスタートした彼らは、あっちへぶつかりこっちでつまづいたりしながら、着実に歩みを進めていった。当時の邦楽アーティスト・サクセスの終着点となっていた武道館公演も、87年は6日連続開催できるまでになった。
アルバムを出せばチャート1位は当たり前、人気ランキングでも上位に必ず入っていた。セールスやトレンドリーダーとしてのポジションは、この時点でピークに達していた。
ただ、バカ売れしたからといって、いきなり絵に描いたようようなセレブスター・ライフを送れるわけではない。清志郎がRC初の武道館ライブ終演後、銭湯の時間に間に合わず風呂に入れなかった、というのは有名なエピソードだ。
ライブ以外にもスケジュールが埋まって忙しくなり、何となく「売れてる」ことは実感できる。街を歩けば自分達の曲が聴こえるようになり、レコード店でもいい位置にディスプレイされるようになった。あまりいい顔をしていなかった家族にも認められ、なぜだか親類も増えた。時に知らない人から、握手やサインを求められるようになる。
RCより多くのレコードを売っていたレベッカは、そこそこの報酬を得てはいた。いたのだけれど、過密スケジュールゆえ、金を使う暇がなかった。
特にフロントマンであり、多くの作詞を手がけていたNOKKOと、作曲担当の土橋安騎夫の負担はハンパなかった。レコーディングに間に合わせるため、作った曲を深夜3時に電話口でNOKKOに聴かせて歌詞を書かせたり、またはその逆、NOKKOが考えたメロディやフレーズを電話で土橋に聞かせて楽曲構成してもらったり、年中綱渡り状態が続いていた。
アルバムがミリオン超えたりシングルのタイアップが取れたり、いくらライブチケットが秒で完売したとしても、それらはただの数字だ。バンドメンバーのQOLにフィードバックしていたかといえば、それもちょっと怪しい。
そんなの考えるヒマがないくらい、あらゆる予定が詰め込まれていた。多分、ライブの後に家風呂に入ることはできただろうけど、でもそれだけだった。
「次は何がしたい」「何が欲しい」と考えられる余裕が奪われていた。
それが、トップの宿命。そんな時代だった。
前作『Time』リリース以降も、レベッカは立ち止まることを許されなかった。当時のセオリーに則り、アルバム・リリースに伴う全国ツアーやプロモーションはみっちり詰め込まれた。
この時期に武道館6日連続公演を行ない、無数のテレビ・ラジオ出演、音楽雑誌以外からも数々の取材オファーを受けている。その隙間を縫ってレコーディングも断続的に行なわれ、きちんとリリースも絶やさず続いている。
2月にリミックス・シングル「CHEAP HIPPIES 」、4月にシングル「Monotone Boy」と続き、5月にリミックス・アルバム『Remix Rebecca』と続いている。クリエイター土橋の負担はとんでもないものだったことは予想できる。
これが大滝詠一だったら、発売延期になっても周りも「しゃあねぇや」って思うだろうし、また実際何度もやってるんだけど、レベッカとなるとシャレが通じない。決算間近の年末にリリース設定されていることから察せられるように、大きな期待と社運がかかっているのだ彼らには。
実際にアルバムを聴いてみると、仕上がったサウンドから煮詰まり具合は感じられない。盤石の演奏陣と希代の女性ロック・ヴォーカリストによるアンサンブルは、当時の世界レベルに充分達している。
フェアライトやヤマハDX7に代表される、80年代シンセをメインとしたサウンドの多くは、まだ発展途上のスペックゆえ、チープな音色が嘲笑されることも多々あるのだけど、レベッカの音はそういった線の細さは感じられない。もともとはレベッカ、シンセをメインとしたバンドではなく、ニューウェイヴ以降のポスト・パンク/ガレージがベースとなっているため、ギター・バンドとしてのボトムが盤石なことによる。
最初にブレイクしたのが「ラブ イズ Cash」だったこともあって、「NOKKO=和製マドンナ」と称されることが多かったけど、バンド全体としてはむしろ、同じ「女性ヴォーカル:男性プレイヤー」という構造を持つブロンディを範としている。キャラ的にはNOKKO、セックス・アピールを前面に出した初期マドンナより、デボラ・ハリーの方がキャラ的にもヴォーカル・スタイル的にも近い。
マドンナやシンディ・ローパーらのダンス・ポップからインスパイアされたレベッカ・サウンドは、すでに完成の域に達し、本来なら円熟の段階に向かうべきだった。言っちゃ悪いけど、これ以降は過去の自分達の焼き直しでよかったのだ、バンドの精神衛生的にも営業的にも。
営業的にもクリエイティヴ的にもピークを迎えたことで目標を見失い、過去のアップデートで対応せざるを得なかった、っていうかクソ忙しい中、結果として「円熟したレベッカ・サウンド」を提示したのが、この『Poison』である。丁寧にプロデュースされたアンサンブルは、インスト単体でも充分成立するクオリティに達している。このインスト・ナンバー、おそらくヴォーカル録り間に合わなかったんだろうな。
言葉を司るNOKKOの負担もまた、加速度的に増大していた。バンド以外の仕事も多く、創作活動に集中する余裕がなかった。スタジオで最後まで粘って歌詞を書くことも多々あったはずだ。
「女性をメインとしたロック/ポップ・バンドは、そこまで深い内容の歌詞を求められていない」という誤解が長らくあった。内容やストーリーより、語感を重視していたこともあって、過剰な意味性を避けるのが、暗黙の了解とされていた。
そんな中、10代のリアルな心象風景をポップなサウンドとシンクロさせたのが、レベッカだった。親子や友人との絆をシリアスなタッチで描いた「フレンズ」は、彼らの出世作となり、時代を超えて今もなお歌い継がれている。
今まで前例がなかっただけで、実はニーズがあった = そのニーズにうまくハマる作品を最初に明確な形にしたのが、レベッカだった。同じ目線の少女によるリアルな言葉は、10代の少年少女らの共感を強く惹きつけた。
ただ、アウトプットしてゆくだけでは言葉も細る。身を削るように言葉を綴ってゆく行為は、消耗に拍車がかかる。
20代半ばのロック少女のボキャブラリーが、そんなに幅広いはずもない。これまでの経験だけで書けるのは、せいぜいアルバム1枚分程度だ。
見よう見まねで書いてきたポップ・ソングの歌詞も、次第にネタも切れるしテーマも重複してくるし、それよりも何よりも、自分の中でハードルは上がる。
安直な言葉は軽くなるし、他人には響かない。響いたとしても、それをわかって世に出してしまう自分が許せない。「締め切りに間に合わないから」と言い訳するのは、死ぬことよりもっと辛い。
重くハードなストーリー展開の「Moon」、多少のフィクションはあるはずだけど、これが普通にヒットチャートに入っていたのだから、当時のアーティスト・パワーの強さが窺える。普通ならネガティヴ過ぎてリテイクされそうなものだけど、それを押し通せるだけの勢いが、当時の彼らにはあった。
この後、レベッカは長い活動休止に入る。NOKKOだけではなく、メンバーらもまた、限界を迎えていたのだ。
1. POISON MIND
ライブ映えするオープニング・チューン。シンプルなコード進行とパワフルな演奏、そして水を得た魚のように、縦横無尽飛び回るNOKKO。
いわば王道、ステレオタイプなライブバンド:レベッカを象徴するロック・ナンバー。シンディ・ローパー成分も多く投入されているけど、イヤここまでのクオリティだったら、むしろ逆だと思いたい。
長らく洋楽のコピーであることを自認していた日本のロックが、言葉・サウンドともにオリジナリティを発揮できるようになったことを象徴する曲。
2. MOON
アルバムから2枚目のシングル・カットで、オリコン最高20位。もっと売れてると思ってたんだけど、案外伸びなかったんだな。カラオケではみんな歌ってたよ、情感込めて。
今では死語となった「不良少女」や「スケ番」というワードが通用していた80年代。ドロップアウトしたティーンエイジャーを描いた歌は、それまでも存在していた。ただ、その多くは「少年/ツッパリ」目線で書かれたものがほとんどで、「少女」の側で書かれたものはほぼ無かった。
明菜「少女A」が雰囲気的には近いんだけど、あれは明菜自身の言葉じゃなくプロ作詞家の言葉なので、またちょっと違う。あそこで書かれた世界は、「ちょっと拗ねた女の子の不満」を大人目線で、お茶の間にもわかりやすく嚙み砕いて描いたものであり、ニュアンスは微妙に違う。
社会のルールに馴染めず、万引きや家出でドロップアウトした少女の行く末を、NOKKOはクレバーかつ力強く歌う。情緒的な歌と言葉を支える演奏は、精密なデジタル・ファンクでありながら、ある種の熱を帯びている。
「MOON」のストーリーは完全なノンフィクションではないだろうけど、リアタイで聴いた当時のティーンエイジャーはみな、ヒリヒリ痛痒い言葉を真摯に受け止めた。多くの少女は多かれ少なかれ、この曲の主人公に自己を投影した。だからカラオケでしょっちゅう聴いたんだな。
3. 真夏の雨
「NERVOUS BUT GLAMOROUS」のカップリングとしてシングル・カットされた、後期レベッカのバラードでは人気の高い曲。夕立明けの濡れた空気の匂い、そして少女の揺らぐ憂いとがフラッシュバックする、虚ろな情景を見事に描き切っている。
カットアップした断片をモザイク様に組み合わせた、散文スタイルの歌詞は技巧的ではないけど、触れれば壊れるワードセンスとソウルフルなヴォーカル・スタイルとのギャップが、少女の世界観を引き立たせる。
ストーリー性を放棄した言葉の綾は、何をしても満たされない少女の抑圧、そして不安/不満を、ほどほどウェットに、かつクレバーにまとめている。多分、松本隆が同じテーマを扱ったら、もう少し整理した起承転結になるのだろうけど、でも彼にこの目線の高さは出せない。それは、まだ少女の面影を残していた、当時のNOKKOの特権なのだ。
4. TENSION LIVING WITH MUSCLE
パワー・ポップな曲調から、「のんきなスクールライフを適当にノリで描いただけ」と勝手に思っていたのだけど、ちゃんと歌詞を読みながら聴いてみると、全然違った。陽キャやカースト上位とは縁のない、地味な帰宅部らの届かぬ叫びを、NOKKOが丹念に拾い上げている。
ぽっちゃり振りを先生に指摘された男の子と、クラスに馴染めない女の子。大人に理解を得られないストレスを抱える彼らの叫びを、NOKKOはシンパシーを込めて綴る。「ガンバレ」と励ましたりせず、ただ、歌にするだけ。
それだけでいい。NOKKOはわかってる。
気にかけてくれるだけでもいい。傷つきやすい少年少女らにとって、理解者であるNOKKOがこっちを見てくれるだけで充分だったのだ。
5. DEAD SLEEP (Instrumental)
OMDやトーマス・ドルビーらのUKシンセ・ポップに、ちょっと斜めなプログレ・テイストを足した、そんな亜空間なインスト・チューン。ものすごく気合いを入れて作ったわけじゃなさそうだし、もしかして歌入れが間に合わなかっただけかもしれないけど、結果的にはNOKKO抜きでも充分成立しており、良質のアンビエント・テクノに仕上がっている。
こういうのをサラッと作れてしまうポテンシャルは、思いつきのフレーズの順列組み合わせとパクリで構成された、他の同時代バンドとの違いが歴然。同時代のフュージョン・バンド:スクエアと肩を並べる完成度を誇っている。
6. KILLING ME WITH YOUR VOICE
俺的には「シングル切ってもよかったんじゃね?」と思ってしまう、地味だけど洋楽テイストの濃いアッパー・チューン。マドンナ「Open Your Heart」からインスパイアされてるんだろうけど、いい意味で日本仕様にカスタマイズされている。
ここでのNOKKOの歌詞は、オーソドックスな王道ラブ・ソングなのだけど、メロディ・アレンジとも高いクオリティで作られているため、シンプルな言葉のパワーが炸裂している。変な小細工なしでも充分勝負できる、そんな無双状態のレベッカのピーク・ハイが、ここで展開されている。
7. NERVOUS BUT GLAMOROUS
変拍子と転調が縦横無尽に駆け巡り、普通なら演奏もヴォーカルも破綻するはずなのだけど、力技とセンスの両輪でポップに仕上げられた、実はかなり複雑な曲。レベッカ楽器隊のバカテク具合、横綱相撲ぶりを聴くことができる。
親会社ソニーのミニコンポ「リバティ」とのタイアップが先に決まっており、シングル・カットも念頭に入れて製作されていたはずだけど、よくこんな変則デジタル・ファンク作ったよな。同時代のPINKあたりに刺激されたと察せられるけど、セールス考えるとかなり無謀なチャレンジだ。
オリコン最高7位は、この頃の彼らとしてはやや低め、それでもベスト10入りしているので、アベレージはどうにかクリア、といったところ。CMソングでありながら、ボーダーぎりぎりのマニアックとキャッチ―な大衆性との両立は、当時の彼らが自らに課したミッションのひとつだった
8. CHERRY SHUFFLE
時事ネタをあちこち取り混ぜた、ライブ映えするタイプのポップ・ロック。『Wild & Honey』期のアウトテイクみたいなシンプルなアレンジは、アドリブ・パートでいろいろ広げやすそう。
一般大衆のニーズとして、こういったピリッと辛めの社会批評を混ぜ込んだ、でも肩の凝らないサウンドが最もツボだと思われるし、実際、彼らもNOKKO的にも、この程度ならいくらでも量産できたのだろうけど、そこに留まるわけにはいかなかった。
愚直にまじめな、彼らの志は高すぎたのだ。
9. TROUBLE OF LOVE
ラス前のひと休みといったところ、アンニュイなポップ・バラード。CHARAっぽいよなと思ったけど、こっちの方が全然先か。時代的に、ヴァネッサ・パラディからインスパイアされたのかと思って調べてみると、こちらもレベッカが先だった。こっちが本家だったのか?
いわばインターバルみたいな曲だけど、ロック・スタイルばかりクローズアップされていたNOKKOの別の側面、歌い上げず脱力したヴォーカル・スタイルは、その後のソロで開花することになる。
10. OLIVE
歌詞中の相手が男なのか女なのか、見方によってどちらでも解釈可能な、広い意味でのラブ・ソング。
束縛から逃れて暮らす2人、明るい未来が見えたのはほんのわずかで、日が経つにつれ、不安の方がむしろ膨らんでくる。願いを叶えることをゴールとしてはいけない。その後も人は生きていくものなのだ。
単なるハッピーエンドだけじゃなく、その後の揺れ動く不安もキッチリ書き切ることで、レベッカは王道であることに背を向けた。ただ、そこに触れたことで、新たな切り口を見失ってしまった、とも言える。