folder 新型コロナに伴う緊急事態宣言のあおりで、3月のあたまから、休日も家で過ごすことが多くなった。もともとインドア派なので、音楽と本と映画があれば、そこまでストレスが溜まる方ではないのだけど、やはり気持ちもめげてくる。
 それならそれで、「せっかくだから」と、これまで詳しくなかった音楽ジャンルに手を広げてみよう、と試みた。近年のアーティストだと、テーム・インパラがちょっと惹かれたな。
 そこからいきなり飛躍するけど、ちあきなおみもまた、巡り巡って出逢った1人である。テーム・インパラ界隈とちあきなおみか。どこでどう繋がったんだろう?自分でも謎だ。

 マッチこと近藤真彦がデビューして間もない頃、歌番組の収録で一緒になった年上の女性歌手のパフォーマンスを見て、思わずこうつぶやいた。
 「あのおばさん、歌うまいねぇ」。
 しんと静まりかえったスタジオにその声は響き、周囲のスタッフは凍りついた。気まずい沈黙の後、蒼白となったジャニー喜多川に引きずられて、マッチは彼女の楽屋へ謝罪に向かった。
 彼女の名は美空ひばり。ポッと出の新人なら、そこでもう人生終了だったはずだけど、「若い人が素直にわたしの歌を褒めてくれて嬉しい」というひばりの言葉で、その件は落着した。
 若き日のマッチ豪快伝説として、よく語られるエピソードであるけれど、むしろ、歌に無頓着だった10代の若造の心をも揺り動かしてしまう、ひばりの歌唱力を象徴するできごとでもある。単にピッチやテンポが正確なだけじゃない、理屈抜きで心臓を鷲づかみにする声、そして歌唱は確実にあるのだ。
 こういった心揺さぶられる体験とは、出逢いがしらの偶然が多くを占めるため、何がしかの縁がなければ、巡り合うものではない。歌番組収録に参加していたことで、マッチはひばりに出会い、そして俺は…、まぁそんな大それた縁はない。
 何年かに一度、そんな機会が訪れる。好きとか嫌いとは別の次元で、一気に心を持っていかれる、そんな歌、そんな声―。
 前にも一度書いたけど、犬の散歩中、iTunesをシャッフルして聴いていると、エイミー・ワインハウスの「A Song for You」が流れてきた。その歌い出しから世界に引き込まれた俺は、曲が終わるまで、道のど真ん中で立ちすくんでしまった。それから家に帰るまで、俺は延々、「A Song for You」をリピートし続けた。
 ちなみに、その前はタワレコの試聴機で聴いたcoccoの「強く儚い者たち」だった。あの時も、試聴機の前で動けなくなり、曲が終わったと同時にCDつかんでレジに直行したもの。

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 で、ちあきなおみに取り憑かれてからしばらく、テーム・インパラ方面はお休みして、日本の歌謡曲からシティ・ポップ、マイナーからメジャーどころまで、広く深く掘り進んでいった。そのほとんどは時代のあだ花、2度と聴く気が起きないモノも多かったけど、興味を引く曲やアーティストもいくつかあった。
 山本達彦や山口百恵のアルバム収録曲など、ライトでメロウでポップな方向性の楽曲で一喜一憂するあたりまでは良かったのだけど、どこかのタイミングで道を踏みはずしたか、次第にダークでアングラで陰鬱したモノを求めるようになっていった。普段の俺の趣味嗜好では手をつけようとしない、ガセネタや村八分がプレイリストに入ってきた。
 インドアな生活が続いたことによる閉塞感が、より深みへ深みへと誘い、遂に浅川マキにたどり着いた時点で、ハッと思い直して踏みとどまった。俺がマキに手をつけた時、それはメンタルがやられている時である。以前もあったんだよ、仕事でもプライベートでも追い詰められて、『Darkness』しか受けつけなかった頃が。
 打ちひしがれてやさぐれたオーラを放つマキの歌は、強烈なエゴがゴロリと剥き出しで投げ出されており、決して万人向けのモノではない。そこからにじみ出るアクは、ちあきなおみやエイミー同様、俺の心臓を鷲づかみする力を持っているけど、不安のどん底に突き落とす。
 赤裸々な自己への対峙を迫る性質を持つマキの歌を聴くには、それなりの覚悟と体調管理が必要になる。いやホントだよ、軽々しい気持ちで聴く類の音楽ではない。
 ちゃんとマキを聴く機会を後に回すことにして、ラインナップをすべてリセットした。陰鬱なムードを振り払うため、昔からよく聴きなじんだ、自分の血となり肉となった音楽に、セットリストを入れ替えた。
 テーム・インパラもまぁいいんだけど、結局、スッと身に馴染むのは、10代から繰り返し聴いてきた音楽、そして20代に巡り逢った音楽なんだな、という実感によって、どうにかメンタルも復活した。久しぶりにコステロ聴いたら、すごく救われたんだよ。

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 緊急事態宣言も解除になり、徐々に生活も落ち着いてきたところで、改めてちあきなおみを聴き直した。すっごい廻り道になったけど、やはりちゃんと向き合わなければならない。それくらい、心臓鷲づかみのインパクトは強烈だったのだ。
 普段、歌謡曲はおろか、音楽自体あまり聴かない者でさえ、彼女の歌だけは別格としていたりする。ゴリゴリのジャズ・ファンからごく普通の主婦まで、そのファン層はどこまでも広く、そして深い。
 引退してもう四半世紀を過ぎているけど、いまだ復帰を望む声は多い。数年前、ボックス・セットがバカ売れしていたことが話題になったりで、カリスマティックな人気があることは、周辺情報として知ってはいた。いたのだけれど、当時は自ら進んで聴こうという気にはならなかった。
 当時の俺にとっては、歌謡曲というジャンル自体、わざわざ掘り起こすほどの価値は見出せなかった。さらに「ちあきなおみ=演歌っぽい人」という先入観もあったおかげで、もっとハッキリ言ってしまうと、まるで興味がなかった。ロックなりソウルなりファンクなりジャズなり、さらに深く多く聴いておきたいジャンルはいっぱいあったし。

 『あまぐも』というアルバムを聴いてみようと思ったのは、別に俺が演歌に惹かれたわけではない。もっとはっきり言ってしまうと、ちあきなおみ目当てでもなかった。
 『あまぐも』は、フォーク・シンガー:河島英五がレコードA面、同じくフォーク・シンガー:友川かずきによるB面書き下ろし楽曲をちあきなおみが歌い、ブレイク前のゴダイゴが演奏を務めるという、こうして並べてみると、何とも食い合わせのよろしくないメンツによって製作された。一見してミスマッチ感がハンパないけど、もの珍しさ/話のネタとして聴いてみるのも、案外アリかもしれない。そんなお気楽な動機だった。
 歌謡曲とフォークとの接点は案外古く、吉田拓郎が森進一に「襟裳岬」を提供したり、中島みゆきが研ナオコに「あばよ」を書き下ろしたりなど、そこそこ前例がある。ちあきなおみも『あまぐも』以前、みゆきから「ルージュ」を提供されたりしている。
 アクの強いメンツによる作品がどんな内容なのか、まったく想像がつかないけど、少なくとも「演歌ど真ん中」な感じではないだろう。ゴダイゴによる演奏ということだから、日本的な情緒ベッタリなサウンドでもないだろうし。
 で、聴いてみた。そしたら心臓を鷲づかみにされてしまった、という次第。

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 河島英五と友川かずきとでは、見た目のイメージも音楽性も違ってはいるけど、根底の部分で重なり合う部分は多い。2人とも唯一無二の個性を持ち、自分の言葉と文法を持つアーティストであることは、誰もが認めるところ。
 ミリオン・ヒットを連発したり、大々的なアリーナ・ツアーを行なうほどの人気はないけど、どの時代においても、2人の歌を求める者は、確実にいる。次の年には忘れられてしまう、安直な使い捨ての歌ではなく、細く長く語り継がれる歌を、しつこくしつこく歌い続けている。
 安易に時代におもねることなく、語るべき言葉と物がたりを持っている。また逆に、悩んだり迷走していることを包み隠さず、それもまた歌にしてしまう。耳ざわりの良いライトな言葉より、不器用な言葉を朴訥に、それでいて、聴き手の心に永く留まる歌を紡ぎ続ける。
 美辞麗句や明快なキャッチ・コピーとは無縁の言葉たちは、安直な理解を拒む。だからといって、わかりやすくかみ砕いて伝えるなんてことはしないし、またできない。わかる奴は勝手にわかるだろうし、わからん奴はわからんまま、ほっときゃいい。
 損な生き方ではあるけれど、今さら変えようもない。ないので、ひたすら我が道を突き進む―。
 コンプライアンスや協調性が重んじられようになった昨今、こんな無頼派のアーティストは少なくなった。アングラ界隈だと、まだその残滓があるのかもしれないけど、表舞台に出る可能性は、極めて少なくなった。彼らに向けて開かれた門戸は、もうずいぶん前に朽ち果ててしまったのだ。
 昭和の時代は、そんなはみ出し者にもまだ寛容だった。どこかアバウトで、いろいろ理不尽なことも多かったけど、社会のルールからはずれた者でも生きてゆける、糊しろみたいな部分が残されていたことで、一種のガス抜きとなっていた。

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 そういった視点で見ると、ちあきなおみもまた、そんな糊しろに近いところにいた歌手だった。演歌からムード歌謡まで幅広く歌いこなし、歌謡界でも一目置かれる存在であり続けてはいたけど、決して王道を貫いていたわけではない。
 「喝采」でレコード大賞授賞後は、紋切り型の歌謡曲に捉われず、ポップスから演歌、当時はまだ少数派だったニュー・ミュージック系のシンガー・ソングライターによる楽曲を歌い続けた。晩年はシャンソンやジャズ、ポルトガル民謡にまで手を伸ばしたり、その貪欲さは計り知れない。
 レコード会社的にも世間のニーズも、手堅い演歌や歌謡曲を求めていただろうけど、歌に殉ずる者の業として、ひとつのイメージに固着されることを拒んだ。お決まりの常套句やメロドラマで構成される、わかりやすい楽曲をお仕着せで歌うには、あまりに生真面目すぎたのだろう。
 歌手:ちあきなおみのポテンシャルをフルに引き出すためには、楽曲そのものが高い熱量を持っていなければならない。予定調和で終わらない、強靭な言葉と物がたり性、さらに言えば、歌い手の生き様をも巻き込むコアと対峙することができなければ、真価は発揮できない。

 不器用な生き方しかできない男たちの歌を、不器用な生き方の女が歌う。無愛想な言葉と旋律を丁寧にほどき、その歌に相応しい歌唱を添えることで、彩りは豊穣となる。
 時にクレバーに、時にヴォーカルに振り回されながら、歌に言葉に寄り添う演奏は、楽曲の輪郭をくっきり浮かび上がらせる。リズム・セクションもキーボードも、自分の音・自分の文法を持っている。確信を持って放たれる音は、歌に負けることはない。
 『あまぐも』で放たれた歌や言葉、旋律と演奏は、どれもそれぞれアクは強く、簡単に混じり合うものではない。それでいながら、時代からはみ出す一歩手前、糊しろでギリギリ踏みとどまっている情念たちが、ちあきなおみを中心軸とした世界観を形作っている。
 「モンキー・マジック」や「銀河鉄道999」で見せる、コマーシャルで万人向けのゴダイゴは、ここにはいない。ミッキー吉野率いる、愛想のない職人スタジオ・ミュージシャン集団による一触即発の演奏が、ここでは展開されている。
 不器用な男2人が不器用な女に、無粋で飾り気のない言葉と旋律を投げかける。ほんとは狂おしいくらい、互いが好きでたまらないのに、愛情の裏返しで、ひどく無愛想になってしまう。
 互いにわかっていながら、認めたくありながら、認めたくもなく。あぁめんどくさい。
 歌の中の世界でしか直情的になれない、そんな不器用な男たちと女ひとり。「歌でなら言える」と思いながらも、すべてを伝えきれない―。
 でも、男たちにそんな堂々巡りを想わせてしまうのも、ちあきなおみの高い歌唱力、そして女としての性なのかもしれない。結局のところ、男はいつも、女に振り回される。





1. あまぐも
 歌謡曲のアルバムという括りが惜しいくらい、充実したアンサンブル。控えめながら自己主張の強いリズム・パート、そして適宜に差し込まれるミッキー吉野のしなやかなエレピの調べ。マレーナ・ショウと差し替えてもしっくり来るくらい、それほど洗練され、バタ臭いプレイ。
 1番のサビ頭「ふり向けない」は未練さながらにしっとり、そして2番の同じメロディ・パート「立ち尽くす」では、振り絞るように、それでいてしなやかなアプローチで歌い分けている。河島英五のサジェスチョンではなく、歌にとって相応しいのが、これだったのだろう。

2. 仕事仲間
 酒を飲みながら昔の仕事仲間を懐かしむ、かなり演歌寄りの楽曲。フュージョン・テイストのバッキングからは湿っぽさは漂ってこないのだけど、やはりある程度の湿度を持つちあきなおみの声、そしてシンコペーションを巧みに操る歌唱が、センチメンタルを助長させる。
 聴いていて思うのは、過去の盟友を懐かしみはするけど、もう会うことがないことを、作者は悟っている。ある意味、河島英五の私小説的な内容だろうけど、考えてみれば彼の歌はほとんど全部私小説であるし、またそれを取り込んだちあきなおみにとってもまた、同様だ。

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3. 涙のしみあと
 ゴダイゴの漢気が最も強く浮き出た、ブルース・タッチのバラード。いやいや気合入ってるわミッキー吉野。ミッキーが煽ったのか、それともちあきなおみに煽られたのか、そんなのはどっちでもいいか。張りつめた緊張感がいい方向へ作用した、ヴォーカル&インストゥルメントの奇跡的な融合。
 ちあきなおみの歌唱スタイルの特性として、「コブシの無さ」が挙げられている。演歌の人ならこういった場合、コブシぶん回しでくどくなってしまうことが多々あるけど、ブルース成分の多いちあきのスタイルだと、過剰なドメスティック性が程よく薄まり、演歌アレルギーの人も聴きやすい。
 大風呂敷を広げる男と、擦れているように見えながら純な女。ただ信じて尽くすしか知らない女の背を眺めながら、男はタバコをふかす。
 「そんなに悲しい女だったのか」。それはもしかして、男自身に向けられた言葉なのかもしれない。

4. 想影
 鬼気迫る歌唱を見せた「涙のしみあと」の後でバランスを取ったのか、少しライトな歌謡曲テイストの楽曲。普通にシングル・カットしても良さげなクオリティだと思うのだけど、当時はこういった浮遊感あるシャレオツなサウンドは、ちあきなおみの固定客層には求められていなかったのかね。

5. 義弟
 河島英五による提供曲というより、ちあきなおみがカバーしたとしか思えない、河島テイスト満載の朴訥な演歌フォーク。かなり基本フォーマットに沿った演歌なのだけど、そこはやはりミッキー吉野、すごくわかりづらいけど、楽曲コンセプトとは関係ない電子音エフェクトを混ぜ込んでいる。どこで自己主張してるんだよ、ミッキー。
 こういった曲調で八代亜紀が歌うと、それはそれでハマるのだろうけど、歌に没入し過ぎてクドくなるのが、ちょっと鼻につく。無理なコブシを乱発せず、物がたりを語り伝えるちあきなおみのスタイルの方が、曲のニュアンスをきちんと伝えていたりする。

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6. 夕焼け
 レコードで言えば、これがA面ラスト、情緒たっぷりのツイン・ギターが印象的な、誰が聴いても名曲の予感がしてしまうストレートなバラード。
 この曲の歌詞は、どこを切り取っても名フレーズ。回りくどい言葉や比喩もなく、混じりけなしの直球の言葉は、どんなうつむき加減の者でも、顔を上げて空を仰いでしまう。「人生応援ソング」って言っちゃうと途端に安っぽくなるけど、そんな風に強く背中を押してくれる歌である。
 日なたより日かげ、昼より夜に生きることが似合う女が、ここでは夕焼けに向かって鼓舞するように歌い上げている。
 「俺もお前を追いかけて 遠くの山を 越えていこう」



7. 普通じゃない
 で、ここからがレコードB面。数年前、ナイナイ岡村によって再注目を浴びたシンガー・ソングライター:友川かずきの世界が、覚醒した巫女となったちあきなおみによって語られる。
 冒頭から「あたしに子どもを産ませた人」だもの、もうここからタイトル通り、普通じゃない。寂しさに打ちひしがれた男に情けをかけたつもりが、身籠ってしまった途端、周囲の視線は手のひらを返したように冷たくなる。自己憐憫と自虐に捉われ、嗚咽混じりの毒を振りまく女。
 そんな女が憑依したかの如く、狂乱の歌唱、そしてハードなギターの歪み。

8. 視角い故里
 「私この頃 ちょっとノイローゼ気味で」と語るように、ほんとにノイローゼを患う女が正常を装うとして、どこか綻びが見えてしまう、そんな歌唱の冥利が最も込められている楽曲。神経質に早口になるところ、危うい平衡感覚が時々崩れそうで崩れない、そんなスリル感が全篇に満ちている。
 こういったクセのある曲だと、ゴダイゴも気合い入ってるんだろうな、というテンションが伝わってくるし、ちあきなおみのポテンシャルも存分に発揮されている。

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9. 男と女の狂騒曲
 そう、望まぬ妊娠で故郷を追われ、あてもなく都会に出てきたはいいけれど、次第に孤独にさいなまれてノイローゼを患うようになる。ちあきなおみを投影した、情念の濃いひとりの女の独白、そして生き様は、ここまでつながっている。
 友川かずきが『あまぐも』のオファーを受け、ライブハウスで歌う彼女を観に行ったところ、ジャニスのカバーを歌っていたことから、インスピレーションを受けた、というエピソードがある。ここでのちあきなおみは、そんな友川の想いを投影した姿を見せている。
 「はぐくむ夢のわびしさよ 神様 お許しくだされな」
 病んだ男と病んだ女が寄り添いながら、深みに堕ちてゆくさまを、皮肉交じりのトラジコメディとして描く、友川の底意地の悪さ、そしてちあきなおみの憑依性とが、うまく交じり合っている。
 よく頑張ってるぞ、ゴダイゴ。

10. マッチ売りの少女
 堕ちるところまで堕ちてしまえば、もうどうなったって変わりゃしない。暗い街角に佇み、声がかかるのを待つ女。男の顔は木枯らし色、男の性は堕落色。
 救いも何もありやしない。歌で救われることはないし、また救えもしない。世の中は無常だ。
 どん底の行き詰まりの吹き溜まり。時代の糊しろに追いやられ、嵐が過ぎ去るのをじっと待つ。でも、嵐なんてほんとはない。誰も、糊しろに注意なんて止めやしない。

11. 夜へ急ぐ人
 紅白での「おいでおいで」のパフォーマンスが伝説となった、ジャニスが憑依したかのようなロッカバラード。シングルと違ってリズム重視のフュージョン・テイストのアルバム・ヴァージョンでは、「濃い」ちあきのヴォーカルがちょっとマイルドになっている。
 堕ちるところまで堕ちた女は、遂に自分の心の深い闇の声を聞くところまで追い詰められる。その声は果てして福音か、それとも邪悪な囁きなのか。それを書かずして、曲は終わる。
 世の中への呪詛をかき集めたような悪意の言葉たちは、文脈を無視した現代詩のごとく、一度耳にしただけでは意味を読み解くのは難しい。シャーマン的気質を持つちあきなおみにとっては、そんなのどうでもいいのかもしれないけど。