一応、「これで最後(?)」といった名目で始まった全国ツアー『2020 ラスト・ツアー 「結果オーライ」』が、コロナ禍で中止に追い込まれたみゆき、その後3年近く、目立った活動を行なわず、沈黙が続いていた。「ツアーは再開するのか」「次の夜会はどうするのか」「新曲を出す予定はあるのか」「っていうか体の具合はどうなのか?」。声は返ってこなかった。
ほぼ年1ペースでリリースされていたスタジオ新録アルバムは途絶え、代わりにベストやライブアルバムが、ぽっかり空いた虚無を埋めた。かしこまるほどではないけど、やや距離を置いた文体のメッセージが、時々、送られてきた。
口は閉ざしていても、心まで閉ざしているわけではない。わかってはいるけれど。ここまで長い沈黙は、デビューしてから初めてのことだった。
2020年に生きるほぼすべての人が、先の読めない静かな混沌に翻弄された。普通の生活が普通じゃなくなり、すべての所作に過剰に慎重になる。そんな非日常がいつしか日常とすり替わり、何もかも後ろ向きに思うようになってゆく。
今年に入って幾分安全になったとはいえ、そうすぐに切り替えるのは難しい。歳を取れば取るほど、俯いた顔を上げるのは、体力がいるし億劫になる。
もう一度腰を上げるのは、できなくはないけど、そこへ向かうモチベがない。一旦、立ち止まると、顔を上げるのがすごく億劫になる。っていうか、もう走りだす年齢でもない。
もう「中島みゆき」という役割を背負わせなくてもいいんじゃないか。本名の「中島美雪」に戻ってフェードアウトするのは、それはそれで寂しいけど、止めることは誰にもできない。
みゆきと同じ時を過ごしてきた70年代歌手・アーティストの多くは、もう第一線から退いている。ちょっと上の世代の拓郎は「引退する」って宣言しちゃったし、陽水は生きてるんだろうけど消息不明。ユーミンとさだまさしくらいかな、今も現役感出てるのは。
名前はそこそこ知られてるけど、そこまでビッグネームじゃないクラス、地道にライブ活動を続けていた者が、外出自粛の煽りをモロに喰らっていた。ごく少数の熱心なファンに向けて小規模ライブハウスを回り、自主制作CDを手売りすることで成り立っていたアーティスト活動は、どうにも動きが取れず手詰まりになった。
息子一家とのコラボやYouTubeなど、自ら楽しんで「いまできること」をやり続けているイルカはレアケースで、そこまでバイタリティーを持つ者は少ない。「愚直に歌うこと」だけやってきた人ばかりだし。
かつてフォークという音楽は、こんな困難や逆境でこそ、傷ついた人々を鼓舞したり勇気づけたり、または寄り添って共感を呼び起こす役割を担っていた。いたのだけれど、彼らの歌はあまりに無力だ。声を上げることさえはばかれる世の中では、人前で歌うことすら許されない。
今さらギター抱えて吟遊詩人を気取っても、街ゆく人々の歩みを止める力は、彼らの歌にはもうない。発する言葉からリアルを感じ取れないのだ。
かつて拓郎は「古い船をいま動かせるのは、古い水夫じゃないだろう」と歌った。新しい水夫は多くのフォロワーを生み、彼らは前だけを見て走り続けた。
それから時を経て、彼らも歳を取った。新しい水夫はみな、古い水夫になり替わった。歌の続きが身に沁みてこうべを垂れ、そして独りごちる。
「古い水夫は知っているのサ、新しい海のこわさを」。
未曾有の脅威は、それまで培ってきたもの、これまでの積み重ねを無にしてしまう、彼らの紡ぐ言葉は歌は、誰にも届かない。
「答えは、風の中にある」。かつてディランはそう歌った。彼らが歌い始めるずっと前から、答えは出ていたのだ。これ以上、何が言える?
「恨み節」やら「根暗」やら「粘着質」やら、かつてはネガティヴなイメージで評されることの多かったみゆきだけど、そんな印象で語られることは稀になった。いまだテレビの懐メロ特集だと、数少ない初期テレビ出演映像の「わかれうた」が流れることが多いけど、それもサラッと流される。
普遍的な男女のつながりを描いた「糸」、都会に押しつぶされそうな小羊たちをそっと後押しする「ファイト!」、かつて日本経済を大きく押し上げたサラリーマンたちの応援歌として定着した「地上の星」。
21世紀の中島みゆきのパブリックイメージは、おおよそこんな感じだ。神経質に爪を噛んで丑の刻参りに耽る彼女は、もういないのだ。イヤちょっと盛り過ぎたか。
ステレオタイプなフォーク/ニューミュージックからの脱却、より広範な音楽性の獲得を目指し、結果的に迷走して袋小路に突き当たったご乱心期を経て、みゆきに大きなターニングポイントが訪れる。現在も続くサウンドプロデューサー:瀬尾一三とのコラボレーション、そして「夜会」プロジェクトの始動を機に、歌詞の技法に変化があらわれる。
歌詞とサウンド、そして声質との最適解を追求していたのが、ご乱心期のセルフプロデュースであり、そこで気づかされた乖離のギャップを埋めることが、当時の彼女の試練だった。引き出しが多く共通のセンスを持つ瀬尾にアレンジを委ねたことで、アーティスト:中島みゆきはサウンドの試行錯誤から解放された。
当初は既発曲のリアレンジを中心に、緩やかな心象スケッチに沿って選曲されていた「夜会」も、回を重ねるにつれ、重層的な構造へと進化してゆく。中国古典や日本神話をモチーフとしたストーリー展開は、よりテーマに肉薄した歌詞を希求してゆく。
シンプルなラブソングはどの時代でもニーズがあり、創作者にとっては普遍的なテーマのひとつではある。ただ、人生それだけではない。
歳を重ね経験を積み、主観でも客観でも多くの恋愛模様を経てきたみゆきが、そのような心境の変化を受け入れるのは、ある意味、自然の流れである。どちらにせよ、作風または見方が変わるタイミングでもあったのだろう。
パーソナルな男女間の憂いや想いを描いた曲からは、一歩引いた距離感が出るようになった。人は一生、恋をする生き物ではあるけれど、恋だけに生きてるわけじゃない。そんな達観によって、生々しさは薄れていった。
一方通行になりがちな「恋」ではなく、大局的な視点による「愛情」を描くようになったことで、歌の世界観は確実に広がった。他人から見れば些細な痴話喧嘩や恨みつらみも、一種のスパイスとして見ればいいけど、そんなネガティヴな感情をメインとした曲は減っていった。
見返りを求めない慈愛をベースとしたテーマが多くなることで、かつての刺さくれ立った言葉の棘は鳴りを潜めた。共感を得やすく曖昧な比喩が減ったため、これまでのみゆきのファン層にはない、普通の陽キャの女の子らも、抵抗なく「糸」や「時代」を聴いたりする。
案外身近なところで、世界は変わっている。
いや、みゆきは何も変わってない。
-世界が違って見える。
そういうことなのだろう。
-時代が、中島みゆきの歌を求めている。
ヤマハの『世界が違って見える日』特設サイトを開くと、まずこんな言葉が飛び込んでくる。
-こころに寄り添う「愛」と「勇気」、そして「希望」の歌”がここに誕生。
簡潔でわかりやすい、深読み不要・ど直球のメッセージは、スレたファンからすると、ちょっと気恥ずかしくもある。まるで90年代少年ジャンプみたいなキャッチコピーは、みゆき自身が書いたものではないのは当然として、よくゴーサイン出したよな広報。もうちょっとひねってもよかったんじゃね?とも思ってしまう。
言葉とはどれも表裏一体であり、使い方次第によって、それは至言にもなるし暴力にもなる。自身の表現にとてもシビアで、清濁どちらも心得ているみゆきゆえ、意図なく安直な言葉を許したわけではないはずだ。
静かな混乱に翻弄された時代において、声を荒げたり拳を振り回しても、誰にも響かない。人はひとりでは、そんなに強くない。
むやみに優しい言葉が欲しいわけではないけど、ただ寄り添ってくれてさえいれば、それだけで十分救われる。程よい距離感で、ただ見て、ただ想ってくれるだけでいい。
なにかを解決できるわけでもなく、具体的な道筋を示してくれるわけでもない。ただ慈愛の笑みを浮かべて、新たに書いた歌を携えて、中島みゆきは天の岩戸を開けた。
MEGAMI 受け入れる性
MEGAMI 暖める性
見返り無用の笑みをあげよう
35年前、みゆきはそう歌った。わけ隔てない愛を歌うため、女神となる覚悟を決めたのが、その時だ。
ただ微笑み続け、新たな歌を紡ぎ続けることを生業とする覚悟は、いまも続いている。ずっと続いている。
想いの強い言葉は口に出した瞬間から、次第に薄くなる。みゆきの言葉は古びず、ずっと後になってからも刺さる。
女神の奏でる言葉は強さとしなやかさを持つ。それを人は、言霊と呼ぶ。
1. 俱に
ずっと沈黙を守っていた2022年、突然、TVドラマ『PICU 小児集中治療室』主題歌としてリリースされた先行シングル。まだ先行き不透明な時期、ほぼタイムリーに心に寄りそうタイトルとテーマは、ドラマの世界観とも世情ともフィットしていた。
もともとドラマ用に書き下ろした曲ではなく、アルバム制作中にオファーがあって、たまたまドラマに合いそうな曲ということで選ばれたらしい。ドラマが希求したのか、はたまたみゆきがドラマの世界観を染め上げたのか。
言い訳無用の力強く、時に柔和な笑みを垣間見せるみゆきのヴォーカルは、程よい緩急によって、結構ゴージャス感あふれるバッキングに溶け込んでいる。深読み不要の前向きな歌詞は、俺のような古参ファンには直球過ぎてまばゆ過ぎたりもする。でも、いまのみゆきに求められているのは、こういった歌だ。
2. 島より
2021年、工藤静香に提供した楽曲のセルフカバー。当初、タイトルを見て『Dr. コトー』用の書き下ろし?と思ったのだけど、全然違った。効果的に二胡を用いたオリエンタルなアレンジは、ドラマに向いてると思ったんだけどな。
遠い島国をモチーフとしたテーマは、初期の『夜会』と通ずるものがあり、これ広げていけば、舞台1本できるんじゃね?と思わせてしまうくらい濃密だけど、おそらくこういった素案って、いっぱいあったんだろうな。いろいろ厳選した結果、ボツになった脚本も数々あるだろうし。
なるようになるものね 恋人たちは
遠回りしてもなお 宿命ならば
私だけじゃなかっただけのことね
かつてのふられ歌・恨み節みたいな口調は、懐かしさすら感じてしまう。執着から離れ、諦念が先立つことで、生々しさは薄れている。
愛なんて、その程度のものだ。そう言いたげに、みゆきは優しく諭す。
3. 十年
遡ること2007年、クミコへの提供曲。一応、オリジナル・ヴァージョンも聴いてみたのだけど、ジャジーR&B的なアレンジが心地よい。スタンダードなシャンソン歌手と思っていたのだけど、案外攻めてるな。
みゆきヴァージョンはもう少しコンテンポラリー寄り、モダンなワルツ調で、かつての加藤登紀子を連想させる。心地よい脱力感が、歌詞の世界観とマッチしている。
近年にしては珍しく、緩やかな起承転結のあるラブストーリーで、短編小説のようにきれいにまとめている。十年ぶりに再会した元恋人との回想を軸に、みゆきは一歩引いた視点で「こんなこともあったね」と綴る。
新しい恋人との幸福を祝う彼女は、はたして独りなのか。そのあたりを濁すのが、大人の女なのだ。
4. 乱世
人によって、捉え方は違う。「どんな時代も乱れていた」と思う人もあれば、「いや今が一番至福の時だ」と思う人もいるだろう。世論が「乱世だ」と唱えれば、みんなその気になってしまう。要はその人次第だ。
みゆきもまた、今がそうだと断定しているわけではない。乱世に翻弄される人を客観的に描いているだけだ。心の持ち方次第・視点次第で変わる。
DNAに問う 何処まで遠く運べというの
DNAに次ぐ 突然変異に気をつけるんだね
夜空を埋める大宇宙から微細なDNAまでを主題にしてしまう、みゆきの視点はまさに女神だ。
5. 体温
引退したはずの吉田拓郎がギター&コーラスで参加したことで、大きな話題を呼んだ曲。実際は引退前のレコーディングなので、そこまで騒ぐことではない。「最後のゲスト参加」って言う方が正確だけど、この人、ずいぶん昔から「ライブ引退する」とか言ってたから、どこまで本気だか。キンキあたりに担がれたら、また出てくるんじゃないか、ってみんな思ってる。
悩み事なら砂の数 砂にまみれて探すのは
行方知れずの願いのカケラ 透明すぎて見つからない
こういった歌をサラッとドライに歌い切れてしまうことが、年を取った人間の特権だと思う。でも言ってることは辛辣極まりないので、実際に言われたら、直立不動してしまう。
歌だったら、こんな風に言える。結局のところ、ただの歌だ。深刻に捉え過ぎちゃいけない。
6. 童話
メロディックハードなアレンジの、いわゆる警句的なフレーズを積み重ねた、静かな怒りを思わせる楽曲。「子供たちに何んと言えばいいのだろうか」と問いかけ、そこで終わってしまう。
ちょっとモヤっと感が残るのだけど、その前に「童話は童話 世界は世界」と綴っていることから、フィクションの世界であることを暗示させている。ドラマと現実、歌とリアルを混同させてはならない。
7. 噤
終わりなき旅と先行きの見えぬ展望から、そこはかとない無常観を漂わせる、シンプルな言葉を慎重に組み立てた歌詞は、実はわずかに前を向いている。
明けない夜がないように、果てしない道のりも、やがて終わりを告げる。立ち止まったところが生きる場所であり、そして横たわる場所でもある。
人は、死に場所を求めて歩き続ける。でも、それはみんな同じだ。いつかは死ぬことがわかっているからこそ、人はいま頑張れる。
8. 心月
「つき」と読ませる、メランコリックなハードロックチューン。シャーマン/巫女として、ある種の憑依を受け入れたみゆきのヴォーカルは力強く、且つ繊細さを秘めている。
序盤、重くドライブするギターは、突如覚醒して悲鳴を上げる。「ここブチ切れてください」というみゆきの要望、声と音の礫のぶつけ合いは、愚直でありながら、リアルな戦慄を思わせる。それこそが、プロ同士のつばぜり合いなのだ。
9. 天女の話
重い警告や暗示だけではなく、ホッと一息つかせる寓話を入れることで、アルバムにメリハリがつく。何もみゆき、アジテーターになりたいわけではない。彼女が似合うのはむしろ、炭鉱のカナリアだ。
心象スケッチを丁寧にまとめた、短編小説的な味わいは、実は難しい。フィクションをフィクションとして描くはずなのに、細かなリアルを入れないと成立しないのだ。そのリアルもまた、実体験ではなく又聞きだったりほぼ想像だったりするのだけれど。
あえておどけた歌い方によって、悲壮さをうまく中和している。みゆきがシリアスに描くには、ちょっと合わないテーマでもある。
10. 夢の京
『世界が違って見える日』の主題は、トップの「倶に」に始まり、そしてラストのこの曲で円環を成す。地球上に生を受けたもの全てを受け入れる、超ど級の慈愛の前にでは、揶揄も皮肉も無意味だ。