好きなアルバムを自分勝手にダラダラ語る、そんなユルいコンセプトのブログです。

#Singer Songwriter : Japan

生まれてきた歌を、最もふさわしい形で。 - 中島みゆき 『いまのきもち』


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 2004年リリース32枚目のオリジナル・アルバム。厳密に言えば、アルバム用に書き下ろした新曲はなく、1989年以前にリリースされた既発曲に新解釈アレンジを施している。
 現在に至るまでほぼ30年以上、サウンド・プロデュースを行なっている瀬尾一三との共同作業が本格的に始まったのが、この年リリースの『グッバイガール』だった。すでに世に出てしまったものだし、別に以前のアレンジを否定するわけではないけど、初リリースから四半世紀以上経った音源もあって、そろそろ時代に合わせてアップデートしたい意向もあったのだろう。
 ほぼブランクも浮き沈みもなく、コンスタントに年1ペースでオリジナル・アルバムをリリースしてきたみゆき、持ち歌はそりゃもう膨大な数にのぼる。ライブのセットリストを組む時は、新旧問わず、ほぼすべての楽曲が候補となるため、組み合わせパターンはさらに天文学的数値となる。
 近年の楽曲はいじらなくて良しとしても、デビュー間もない頃のアンサンブルは、古色蒼然とした歌謡フォーク的なアレンジが多いので、そのまま世紀を跨いで再現すると、かなりショボくなってしまう。そこから少し下って、やや彩りが増した80年代のサウンドも、悲しくなってしまうくらいシンセやドラムの音が薄くて古いため、抜本的なアップコンバートが必要になる。
 根幹のメロディや言葉は古くなるものではないけれど、時代に寄せすぎたアレンジは、時を経るごと古さを増してゆく。ノウハウやテクニックがおぼつかず、安直な歌謡フォークで妥協してしまったり、発表当時とは解釈が変わってしまったり、もっと相応しい形を模索したり。
 ちょうどこの『いまのきもち』リリース前後、ライブメンバーの入れ替えが行なわれた。前例にとらわれない新たな解釈やアレンジの幅を広げるため、みゆきは瀬尾と共にライブアンサンブルの強化を図る。
 そんな新バンドの叩き台として、その後のアンサンブルのコンセプト指針として作られたのが、このアルバムだった。ほんとはみゆき、瀬尾との初期作品も候補に挙げたかったのだけど、それは遠回しに拒否されたらしい。アレンジの引き出しは多い人なので、やろうと思えばできたはずだけど、一アレンジャーとしてのプライドだったのかな。

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 デビューして間もない頃のみゆきはもっぱら弾き語り中心で、伴奏にはほぼ不干渉だった。ギターと仮歌だけのデモテープを元に、ディレクターがこしらえたオケに合わせて歌い、それでおしまい。ミックスに立ち会うこともほぼなく、歌入れが終わったら逃げるようにスタジオを出た。
 歌謡曲テイストのブラスを多用したフォーク・ポップのアレンジは、みゆきの意に叶うものではなかったと思われるけど、まだ意見できるような立場ではなかったし、そもそも伴奏自体に関心が薄かった。ユーミンや吉田美奈子らによって、フォークの文脈にとらわれない楽曲やサウンドが台頭し始めていたけど、まだ世の主流は四畳半から片足抜けたライトな抒情フォークが主流で、ヤマハ所属のみゆきもその例に漏れなかった。
 政治的なメッセージや主張がひと昔前となり、愛だの孤独だのパーソナルな主題がメインとなった70年代フォークを歌う者にとって、大切なのは細やかな心の綾、それらが織りなす丁寧な心象風景だった。シンプルなコード進行を用いて、自分の言葉で自分語りをすることで、聴衆との距離が縮まり、共感覚が心の琴線を揺らした。
 ギター、またはピアノのみの伴奏で、歌以外の要素を極力排することによって、パーソナリティはあらわとなった。余計な装飾を施すこと、変に凝ったアレンジで歌うと、それは潔くないとされた。
 デビュー間もない頃のみゆきのコンサートもまた、基本はギター一本抱えて小さな会場を回るスタイルだった。まれに小編成のバックバンドがつくこともあったけど、移動費や経費の関係もあって都内近郊に限定されていた。
 初期のライブ音源を公式に聴く機会はないのだけど、たまにYouTubeに粗悪な非合法音源が転がっていることがある。この時期に場数を踏んでステージ慣れしたのかみゆき、ピッチや発声はすでに高レベルだし、自ら爪弾いているギターも、基本のアルペジオや3フィンガーを駆使して、どうにか自力で乗り切っている。
 ストロークに力が入った時なんかは、ちょっとヨタッたりすることもあるけど、全体的には無難に収めている。あんまりテクに走りすぎても初々しさがなくなっちゃうし、伝えたいところはそこじゃない、っていうのもあるので、このくらいでよかったんじゃないかと。

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 そんな感じで2枚目『みんな去ってしまった』まで「わたし歌う人/作る人」に徹していたみゆき、盛り付けは「自分には関係ねーし」と言わんばかりに、スタジオに寄りつかなかった。そういった孤高のフォークシンガー的スタイルが、そこそこ受け入れられた時代でもあった。
 シングルセールスはお世辞にもいいとは言えなかったけど、アルバムは2枚ともオリコン30位以内にチャートインしており、そこそこの固定ファンがついていたみゆき、研ナオコに提供した「あばよ」がスマッシュヒットしたことで、ちょっとだけ注目されるようになる。当然ヤマハ的にも本腰を入れるようになり、バックバンド付きのコンサートが多くなっていった。
 ある程度スタジオ慣れしてきたこともあって、歌入れ以外ではほぼ寄り付かなかったみゆきも、3枚目『あ・り・が・と・う』からスタジオに入る時間が多くなってゆく。具体的な要望を伝えられるほど、知識も経験も少なかったけど、オケ録りに前向きになったことは確かである。
 このセッションで特筆すべきなのが、坂本龍一と吉田健の参加。まだYMOともKinKi Kidsとも出会ってなかった頃の2人、当時はリリィのバックバンド:バイバイ・セッション・バンドのメンバーとして、また他のアーティストのライブやセッションから引く手数多で、そこら中でブイブイ言わせていた。
 まだ知る人ぞ知る存在だった教授、当時から斜に構えて負けん気が強くてめんどくさくてシニカルでニヒリストで、何を考えているかわからないけど、芸大仕込みのピアノは才気煥発で業界内の人気は高かった。厨二病の先駆けだったとも称される教授、エキセントリックなエピソードには事欠かないことでも知られている。
 「今日出がけに金魚を食べてきた。まずかった」だの「スタジオでひたすらミカンを貪り食っていたけど、本番ではキレッキレのプレイをしてみせた」だの、キレッキレのアウトサイダーぶり。とはいえ、そんな教授にとっても当時のみゆきは異質だったのか、「スタジオで新曲を弾き語りしてるうち、感極まって泣きながら歌っていた」とのちに回想している。
 お互い「変な人」という印象が先立ったけど、彼との出逢いが、創作者中島みゆきにとってのターニングポイントとなったことは確かである。教授もまた、日本特有のウェットな感性が死ぬほど嫌いなはずだけど、次の『愛していると云ってくれ』にも参加しているので、何かしら認める部分はあったのだろうと察せられる。

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 ただ教授、それから間もなくYMOにかかりっきりになってしまい、みゆきとのコラボはここで一旦終了となる。どちらもクセの強い2人だから、どちらにせよ永続的な関係は難しかったことは想像できる。
 お仕着せのフォーク歌謡アレンジから始まって、次第にフォークロック的、あるいは歌謡ロック・サウンドの方向性を模索し始めたみゆき、従来のポニーキャニオンつながりから一歩踏み出し、後藤次利や萩田光雄、松任谷正隆らロック/ポップス系クリエイターとのコラボが多くなってゆく。当時、ライバルと称されていたユーミン旦那にオファーするみゆきもみゆきだけど、受ける方もよく受けたよな。奥さんに何か吹き込まれたんだろうか。
 キャリアを経るごとに知見を得、選択肢は増える。その都度、これが最適解と思いながらも、完パケした瞬間に、なんか違う感が湧き出てくる。そんな無限ループ。
 こだわり抜いたらキリがない、そんなサウンド・メイキングの沼にハマり込んだのが、黒歴史扱いとされている84年『はじめまして』から、88年『中島みゆき』まで続くご乱心の時代である。従来のイメージとはかけ離れた、ハードロックからシンセポップまで果敢にトライ&エラーを繰り返すことで、既存の中島みゆきイメージからの脱却を図っていた。
 ありとあらゆるコネを総動員し、多種多様なサウンドを模索していたため、この時期のレコーディングメンバーは百花繚乱を通り越して支離滅裂を極めている。久石譲から布袋寅泰、クリスタルキングからスティーヴィー・ワンダーまで、もう何が何だか。
 とにかくなりふり構わず、琴線に引っかかる音を模索し続けたご乱心期は、いまだ賛否両論が分かれているのだけど、創作者として必要な過程だったことは確かである。少なくとも、これらの作品をリアルタイムで聴いていた俺世代にとっては、その切実さが痛いほど伝わってくる。
 みゆき本人の意向はどうであれ、「歌姫」に「この世に二人だけ」に、俺は心揺らされ、そして虜になった。みんなには届かなかったかもしれないけど、俺にはわかる。
 当時、自分だけは思っていた同世代が数多くいた。それだけでも、この時代の作品は充分な価値がある。

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 伝えたい言葉は掴めているし、歌声だけで充分に魅了することはできる。でも、それだけじゃもう足りない。
 「こんなんじゃない」というのはわかっているはずなのに。「じゃあ、どうすれば?」そう自分に問うても、言葉に詰まってしまう。
 時間や予算、様々な制約を乗り越えてクオリティを追求しても、気力体力に限界はある。どこかで落としどころを見つけなければならない。
 妥協点は多々あれど、とにかく今の自分のせいいっぱいは尽くした。すでに完パケして手を離れてしまった作品をリテイクするのは、相当の覚悟が必要だ。
 みゆきと瀬尾、双方の切実な覚悟のせめぎ合いは、30年の長きに渡って続くことになる。音楽の女神はとても傲慢で、そして貪欲だ。どれほど新たな切り口や新味を用意しても、満足しきれない。
 なのでこの『いまのきもち』、決定版というよりは中間報告としてのニュアンスが、最も近い。ライブ用にコンバートしやすいよう再編成されたリアレンジは、おおむね好評ではあったけれど、実は大きな問題ではない。
 ここまで書いといてなんだけど、やはり最も大事なのはみゆきの声、みゆきの歌なのだ。瀬尾一三には申し訳ないけど、充分な吟味の上で構成されたアンサンブルも、結局は副次的な要素に過ぎない。
 歳月を重ね、経験を積んだことで、やっと思い通りに歌える歌がある。後述するけど「かもめはかもめ」のヴォーカルは、中島みゆき一世一代のベスト・パフォーマンスと断言できる。
 瀬尾もまた、このトラックでは極力エゴを抑え、歌を引き立たせるアレンジに徹した。余計な雑味は感覚を鈍らせる。きっとそう感じたのだろう。
 「歳を取るのは素敵なことです」と、かつてみゆきは「傾斜」でそう歌った。20代ですでに達観した言葉を書き連ねていた女性は、老成することで刹那な儚さを表現できるようになった。
 無為な日常と思っていながらも、継続はやはり力だ。壁にぶつかったり回り道したとしても、その過程に無駄なものなんて、何ひとつないのだ。

 ラストツアーが立ち消えとなり、新たなレコーディングの噂も聞かず、長い沈黙を守っているみゆき。
 一体いま、彼女はどこにいるのだろう。そして、何を想っているのか。
 天の岩戸はピッタリ閉じられたまま、気配を消し続けている。再び女神が顔を出すのは、一体いつになるのか。





1. あぶな坂
 オリジナルはデビュー・アルバム『私の声が聞こえますか』の一曲目に収録。民話調のドメスティックなヴォーカル、ややモダンな演歌という形容がふさわしいフォーキーな伴奏は、陰湿で土着的な歌詞の内容とフィットしていたのだけど、針を落としていきなりこの歌だから、売りづらいよな。
 張りつめた前のめりな緊張感がにじみ出ていたオリジナルに対し、もう少し楽曲の世界観と距離を置いて、リアレンジでは聴きやすさ・完成度を高めている。近年のみゆきとはかけ離れた、絶望と憐憫にまみれた寓話的な世界観は、「糸」と「ファイト!」に惹かれたにわかファンの希望をどん底に突き落とす。
 新旧どちらもだけど、朗々としたノン・エコーの歌声は、あぶな坂の無常観を的確に表現するには必要だったということか。

2. わかれうた
 みゆきにとって初めてのオリコン1位シングルであり、「恨み節」と称された初期みゆきの代名詞となっている代表曲。昔からライブでも定番曲となっており、夜会でもセルフ・パロディ的なアプローチで取り上げられている。なので、このアルバム収録曲の中では、最も再演数が多く、時代ごと・バックバンドごとに様々なヴァージョンが存在する。
 あまりに知られている曲であり、センチメンタルなフォルクローレ風のオリジナル・アレンジは、この時代にしては完成度も高い。なので、変にかけ離れたアプローチでは、「ただ変えてみただけ」で終わってしまうため、実は最もリアレンジが難しい曲でもある。
 なので、アレンジの基本構造はほぼオリジナルを踏襲している。ここで大きく変わっているのは、みゆきのヴォーカル・パフォーマンスである。効果的なところでダブル・ヴォーカルを使用して、大人の女性による魔性度に拍車がかかっている。
 サビ・パートでのシャンソン風ヴォーカルは、年齢を経ての持ち味となっている。20代じゃ、ちょっと技巧に走りすぎちゃうんだよな。

3. 怜子
 オリジナルは4枚目のアルバム『愛していると云ってくれ』の2曲目に収録。ドラム:つのだひろ、ベース:後藤次利、エレピ:坂本龍一という、当時としても濃すぎるアンサンブルで録られたオリジナルは、切迫した焦燥感、いい意味での前のめり感が凝縮されており、名演となっている。
 とにかくみんな、前に出てる。音がデカい。そんな演奏陣に煽られるように、時々みゆき、声が上ずったりしている。
 ファンからすれば、当時の張りつめた空気感がリアルだったのだけど、年月を経てみゆき、解釈が変わったのか、それとも本来の意図に戻したのか、穏やかなバラードに仕立て直している。

 ひとの不幸を 祈るようにだけは
 なりたくないと願ってきたが
 今夜 おまえの幸せぶりが
 風に追われる 私の胸に痛すぎる

 玲子の友人の立場から歌われているこの歌、オリジナルでは後段の意味合いを強める、自虐めいたタッチだったのだけど、『いまのきもち』では、すべてを受け容れ癒す「女神」の視点で歌われている。

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4. 信じ難いもの
 オリジナルは5枚目『親愛なる者へ』4曲目に収録。軽快なカントリー・ロック調アレンジはイーグルス「Take it Easy」に激似だけど、まぁもう過ぎたことだし。
 リアレンジは、テンポを落としたオルタナ・カントリー風、ギターも力強くファズがかかっている。軽みを添えていたバンジョーがなくなり、ヴォーカルも低音が強くなっている。まだ独特のがなり調になる前で、やっぱりこのくらいがちょうどいい。

 いくつになったら 大人になれるだろう
 いくつになったら 人になれるだろう

 オリジナルではこのパート、サラッと流して歌っていたのだけど、ここでは諭すように、自分に問いかけるように力強く言葉を刻んでいる。
 きっと、それを伝えたかったのだろう。ここに来て。

5. この空を飛べたら
 オリジナルは加藤登紀子に提供した曲で、その後、『おかえりなさい』でセルフカバー、その後、四半世紀を経て、再度リアレンジされた。
 実はその『おかえりなさい』ヴァージョン、これまで聴き流していた。そんなに興味がなかった。
 メロディはいいんだよなぁ、っていつも思ってはいたけど、演奏や歌がしっくり来なかった。スッと自分に入ってこなかったのだ。基本、初期みゆきの楽曲は、程度の差こそあれ、ほぼ全肯定する俺だけど、「関心がない」楽曲というのは稀だ。
 久しぶりに『いまのきもち』を聴いて、グイっと引き込まれたのが、この曲だった。ストリングスを基調としたアレンジは、適度にドラマティックで歌をジャマせず、瀬尾の的確な采配が効いている。
 20代でこの曲を書き上げたみゆきは確かに天才で、確かに慧眼だったのだけど、肉体的なポテンシャルが、この曲には追いつかなかった。それは若さとかスタミナとかの問題ではない。
 世に出されることを望まれて生まれた楽曲を、あるべき形で出してあげること。過剰なドラマ性やテクニカルではなく、ふさわしい形を選び、それをそのまま組み上げる。
 『いまのきもち』の基本コンセプトは、そういったシンプルな動機である。そのプロットの最適解となったのが、「この空を飛べたら」になる。
 あんまり言っちゃいけないけど、この曲だけは聴いてほしい。

6. あわせ鏡
 オリジナルは『臨月』3曲目に収録。ユーミン夫が手掛けたジャズっぽいオリジナルに対し、こちらも基本は同じアプローチ。リアレンジはLA録音で本場ミュージシャンによる演奏なので、音が太く重厚感が増している。
 オリジナルのサビは、なんかあっけらかんとしたタッチの歌い方で、歌謡曲っぽさがにじみ出ていたのだけど、四半世紀を経て声に深みが増したため、ほどよいアバズレ感が軽みを払底させている。本来はジャズ・ミュージシャンを揃えたかったのだろうけど、当時はスケジュールやコストの関係で、いつものスタジオ・ミュージシャンに頼むしかなかったと察せられる。

7. 歌姫
 オリジナルは『寒水魚』ラストを飾った、アーティスト:中島みゆきの原点であり、ひとつの完成形を象徴するメルクマール的な楽曲。当然、コアなファンの間では、ヒット曲とは別枠の代表曲として知られている。
 「わかれうた」同様、代名詞とも言える曲なので、かなり練られたオリジナルを大きく逸脱せず、基本路線はほぼ同じ。こちらもみゆきのヴォーカルにフォーカスしたアンサンブルで構成されている。
 オリジナルでは、これから創作者として生き続けてゆく穏やかな決意=殉じてゆく冷たい熱意が感じられたのだけど、リアレンジでは、すでに「歌姫」として長く生きてしまったことへの諦念、前のめりに倒れて果てる覚悟が伝わってくる。

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8. 傾斜
 オリジナルは『寒水魚』2曲目に収録、高校現代文にも掲載された、寓話性が強く、不条理な現代社会を冷徹に活写している名曲。後藤次利のベースがブイブイうなるリズムのグルーヴに対し、皮肉交じりに穏やかなみゆきのヴォーカルとのコントラストが、当時のサウンドへのこだわりの強さを象徴している。
 腰が曲がっているほどではないけど、「傾斜」を書いた時のみゆきが想定していた年齢に追いついてしまった、2004年のみゆき。

 歳を取るのはステキなことです そうじゃないですか
 忘れっぽいのはステキなことです そうじゃないですか

 サラッと自然に、自分に、そして多くの同世代に語りかけるように諭すみゆき。年月を重ね、無理に背伸びせずに歌うことができたことはいい。
 ただひとつ。仰々しいシンセ・ブラスが下品。これだけはちょっと受け入れられなかった。他のプレイはいいんだけど、ここだけなんとかならなかったのか?


9. 横恋慕
 1982年にリリースされたシングルで、オリジナル・アルバムには未収録。「悪女」の大ヒットの余波が長く続いていたこともあって、なんとこれがオリコン最高2位。ほどよい歌謡曲っぽさが有線中心で人気を博したんじゃないかと思われる。
 言っちゃ悪いけど、みゆきの作品の中では、そこまで重要な位置を占めているわけじゃないと思っていたのだけど、軽いポップス調のアレンジに悔いが残っていたのか、リアレンジではガラッと変えている。
 まさかのスタンダード・ジャズ風。シャンソンっぽさも若干加味したりして、本来の「横恋慕」、あるべき姿に収まっているのを納得してしまう。こんな見せ方があったんだ。
 多分、リアルタイムでこのアレンジだったら、シングルとしては難しかっただろうし、みゆきもまた十分に歌いこなせなかったんじゃなかろうか。なので、ここまでの期間に熟成されて、あるべき姿に収まった、と考える方が正しい。

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10. この世に二人だけ
 オリジナルは『予感』1曲目、シングルではないけどビギナー以上のファンの間では人気の高い楽曲。俺も好きだ。
 ちょっとファンクの入ったAORアレンジのオリジナルは、耳障りもいいのだけど、歌われている内容は結構ヘヴィーで、失恋した後に聴くと完膚なきまで打ちのめされる曲として、ある意味、スタンダードとなっている。ゴールデンボンバーの鬼龍院翔が推していたことで、近年もちょっと有名になった。
 「打ちのめされて脱力感に囚われた諦めの極致」みたいに、淡々と歌っていた31歳のみゆきに対し、そこから達観して、もっとラフに歌っている52歳のみゆき。もう、愛だの恋だのに振り回されず、それでいて突き放すこともせず、物語を言葉を紡ぐ役割に徹している。
 過剰な解釈を込めず、ただ思うがまま感ずるがままに歌える段階になったことで、はじめて「歌がうまい」と称される、極めて当たり前のこと。そこに至ることが難しいんだけど。


11. はじめまして
 オリジナルは『はじめまして』ラストに収録。考えてみればこのアルバム、ご乱心期の楽曲はあまりセレクトされていない。
 そもそも21世紀に入ってからのコンサートでは、この時期の楽曲がセットリストに入ることも少ないのだけど、おそらくオリジナルのアレンジも結構クセが強いので、リアレンジしづらいのかもしれない。みゆきも瀬尾も、いろいろ思うところはあるのかもしれないし、それかたまたまかもしれないし。
 で、当時から問題作とされてきた『はじめまして』、特にこのタイトル曲は、妙にポジティヴで不自然に前向きで、それでいて刹那なヤケクソさによって、「大胆なイメチェン作」という微妙な評価だった。せっかくなら、ミスチル桜井がカバーして注目された「僕たちの将来」のリメイクでもよかったんじゃね?と外野は思ってしまうのだけど。
 当時のみゆきが思うところの「ロック・ヴォーカル」は、前のめりに力み過ぎたところがあったのだけど、それは当時のアレンジ力、ミックスのメリハリの少なさもあったんじゃないか、と。このヴァージョンを聴くと、特にそう思う。
 「振り向いてくれるのを待つばかりの女」、「理不尽な男の言動を咎めず、飲み込んでしまう女」ばかりを描き続けてきたみゆきが、初めて「あんたと一度付き合わせてよ」と、前に踏み出す女を描いた。その言葉を歌うため、これまでより力強く声を張り上げたのだけど、当時はまだそのサウンドに対応する喉ができあがっていなかったのだ。
 そういう意味で言えば「はじめまして」、その後のみゆきの方向性を決定づけたる分水嶺となった曲なのだ。っていうことを、今さらながら気づいた。

12. どこにいても
 オリジナルはシングル「見返り美人」のB面としてリリース。アルバムにも未収録なので地味な扱いだけど、穏やかなR&B的アレンジのしっとりしたバラードで、地味に人気も高い。
 この曲のリアレンジも、そこまで大きな改変はなく、過去のリベンジ的なニュアンスは少ない。どちらかといえば、ライブのレパートリーのひとつとして、普遍的な主題とメロディを活かすため、21世紀に即したモダンなアレンジへのアップデートという意味合いが強い。
 
13. 土用波
 オリジナルはご乱心期の最終作、『中島みゆき』の3曲目に収録。オリジナルは北島健司のハードなギター・プレイが印象的な、ロック成分の多い歌謡ロックだったけど、リアレンジでもギターが鳴きまくっている。
 まだ若かりし頃のみゆきは、北島のギターと競り合うように怒張したヴォーカルだったけど、ここでのみゆきは余裕を持って、楽しみながら歌っているのが伝わってくる。時々、演歌っぽいこぶしが入っちゃうほど、セッションを楽しんでいる。







生きること。それは日々を告白してゆくことだろう。 - 尾崎豊 『LAST TEENAGE APPEARANCE』

41X9OKg2CzL._AC_ 「二十歳を迎えるまでに、アルバム3部作を完結させる」と、誰が言い出しっぺだったのかはともかく、どうにか誕生日を迎える前に、3枚目のアルバム『壊れた扉から』は完パケした。「大きな達成感が本人とスタッフに訪れた」と言いたいところだけど、当時はまだ全国ツアーの真っ最中、センチメンタルな感慨に浸っている余裕はなかった。
 10代の少年による、10代のやり切れぬ想いや葛藤を瑞々しく活写したことで、『十七歳の地図』『回帰線』『壊れた扉から』と続く3部作は、日本の音楽史に深い痕跡を残した。一歩間違えれば、厨二病の稚拙な独白で終わってしまうところを、きちんとした大人のプロフェッショナルがサポートしたことで、彼の歌は市場に流通するレベルに仕上げられ、最終的にはお茶の間にも広く行き渡ることとなった。
 10代なかばの少年にとって、「憤り」や「反抗」というのは普遍的なテーマであって、なにも尾崎特有のものではない。彼が人より秀でていたのは、どのテーマにおいても、短編小説のごとく起承転結をつけられるストーリーテリング能力、そして卓越した歌唱の表現力に他ならない。
 そんな10代のやり切れぬ想いや怒り、言語化できないジレンマを、彼らと同世代の少年が丹念に描写した。そしてその言葉は、同世代の共感を呼び、また大人たちを感服させた。
 職業作家では描けない彼の歌は、ソニー主導によるビジュアル戦略が大きな相乗効果を生み出し、シングル「卒業」以降、爆発的に広まった。悩み多き繊細な少年の叫び、そして脆くはかない憂いを漂わせた彼のスナップ・ショットは、カリスマティックな求心力を生み出した。
 ちょっとご本人には失礼かもしれないけど、これが例えば加藤諒みたいな顔で歌われたとしたら、おそらくここまでの波及効果はなかったと思われる。それは尾崎本人もまた、自覚していることだった。
 古来より、アウトロー役はちょっと捻ねて無愛想なのがセオリーであり、尾崎豊もまた、そんなステレオタイプのアンチ・ヒーローを自ら演じていた。スタッフによるコーディネートのもと、ティーンエイジャーの共感を呼ぶ作品や発言、またパフォーマンスを演じることで、徐々にファン層を広げていった。

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 もがき足掻き苦しみ吐き出していた10代が終わり、「さて、そこから」。
 似たような行程を経てきた先達として思い浮かぶのが浜田省吾だけど、彼もまたシフト・チェンジには相応の苦労を要した。
 尾崎同様、不都合な真実や不条理な現実に強い違和感を覚え、それをストレートな口調で表現した彼の歌は、多くの若者の共感を呼び、着実にファンを増やしていった。ただ尾崎と大きく違っていたのは、発信する立場だった。
 2人に共通するのは、ぼんやりした不安と茫漠な不満とが交差する、10~20代の若い世代からの支持だった。同じ目線でリアルな不満を吐き出す尾崎に対し、彼らとひと回り年齢の違う浜省の目線は、次第に乖離が目立つようになってゆく。
 声無き声の代弁者として言葉を紡ぎ、その真摯な姿勢には嘘は感じられなかったし、それはファンのニーズと噛み合ってはいたのだけれど、浜省自身が、そんなジレンマに悩まされつつあった。金も地位もそこそこ得た30過ぎの男が、いくら社会や体制に不満をぶつけても、白々しく思えてしまう。
 それは浜省本人だけではなく、ブレイク前からついてきたファンも抱えていた問題だった。みんながみんな、社会に不満を持ったまま、大人になったわけではない。
 浜省より成功し、大金を手にした者だっていたかもしれない。家庭も仕事も大事だし、何かと人間関係のしがらみにも付き合っていかなければならない。彼らもまた、歳を取ったのだ。
 そんな双方のギクシャクに一旦区切りをつけたのが、アルバム『J.BOY』だったんじゃないか、と今にして思う。少年時代の回想や、現実逃避したくなる日常との葛藤、強いメッセージ性よりプライベートな心情を主題とした楽曲が多くを占めており、それは疾走するばかりだった青年時代との訣別と総括を意味していた。
 このアルバムを機に、浜省の作風は年齢相応のシチュエーションに変化してゆく。そしてまた、ファンの受け止め方も同様だった。浜省とファンとの成長過程がシンクロしつつあったのだ。
 当初はそれほどうまく行かなかった。35歳なら35歳、40歳なら40歳に根づいた言葉やテーマを、どんな語彙や文法、またサウンドで表現すればいいのか―。
 明確な答えが見つからないまま、浜省の活動は一時トーン・ダウンする。自身の年齢とテーマに折り合いをつけられるようになるまで、相応の時間が必要だった。

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 尾崎に話を戻すと、「若者の代弁者」としてカリスマティックな人気を集めていたのは、あくまで彼の一面に過ぎない。アジテーターでもオーガナイザーでもない、「多様性のあるシンガー・ソングライター」というのが、彼の本質である。
 尾崎がソングライターとして優れていたのは、直截なメッセージや主張を、ただ思いついたまま投げ出すのではなく、時に高度な暗喩、時に平易な言葉の組み合わせを、テーマに応じて書き分けることができた点にある。どんな主題においても、最適な文法・話法を選択することで、ユーザーそれぞれの主観や実体験と重ね合わせること、また、実体験でなかったとしても、間接的に共感できる余地を生み出すことができた。
 例を挙げると、「ダンスホール」や「I Love You」のような、ある種の寓話性を含んだフィクショナブルな世界観は、説得力のあるヴォーカルによって、より伝わりやすく、そして強い仲間意識を生み出す。「自分のことを歌っている」、または「自分の考えと重なり合う部分が多い」と思わせることは、カリスマの持って生まれた資質である。
 そう考えると、リアルタイムを知らない世代から、「Oh My Little Girl」や「Forget-me-not」の人気が高い理由が見えてくる。若い世代にとっての「尾崎豊」とは、「美しく繊細な楽曲を歌うシンガー」であって、今ならセンシティヴな「15の夜」や「卒業」の世界観にはピンと来ないのだ。

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 10代を総括した全国ツアーを完遂したはいいけど、問題はそれ以降。その後の具体的なビジョンは何もなく、ほぼ白紙の状態だった。それは尾崎だけじゃなく、周囲のスタッフもまた同様だった。
 とにかく毎日が年末進行の状態で、あと先考える余裕が生まれたのは、すべてのプロジェクトが終わってからのことだった。分別ある大人のブレーンやら関係者やら事情通やらが右往左往してる中、誰もPDCAサイクルを考えてなかった、というのもちょっと信じ難いけど、まぁスターダムまっしぐら・イケイケ状態の尾崎に忠心するのが難しい状況だったことは、否定できない。
 その後の活動方針も何もなく、ふんわり大人になってしまった尾崎。あまりに宙ぶらりんだったこともあって、その後は精神的な路頭に迷うことになるのだけれど、ついに最後まで行き先を決められなかった、という悲劇-。
 一般的な社会通念に置き換えて考えると、この時点での尾崎は「まだ二十歳」になったばかり、少年とは言えない程度の年齢であって、大人と認識されることは少ない。無理な背伸びをして、10代を卒業しようと、もがき足掻く必要性なんて、どこにもないはずだった。
 ちなみに当時の浜省は、レイテスト・アルバムであった『J.BOY』リリースに合わせたツアーで全国を回っていた。自分なりに青春時代にケリをつけた彼は、ツアー終了後、しばしの沈黙に入ることになる。
 それに先立つように、尾崎もまたツアー終了を機に、無期限の休養期間に入った。単なる静養なら、ハワイあたりのコンドミニアムでゆったりバカンスでもしてればよかったんだろうけど、まぁ「まだ二十歳」だし、もっと刺激も欲しいし遊びたいわな。
 デビューからずっと闇雲に突っ走ってきて、やっとひと休みできるようになったはいいけど、ハイパー・テンションの後の虚脱感が、メンタルをダウナーに引きつけたのだろう。そこで悪い遊び覚えちゃったことが尾を引いて、のちのキャリアに大きく影響することになってしまうのだけど。

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 その闇雲に突っ走ってきた克明な記録として、「LAST TEENAGE APPEARANCE」はリリースされた。ファンやソニーの意向はどうであれ、これで区切りはつけたのだから、シフト・チェンジするには、このタイミングしかなかったはずなのだ。
 無理に声を張り上げたり叫ぶことなく、シンプルなラブ・ソングや日常の心象風景を丹念に描くだけでよかった。無理にファンと共に背伸びしようとせず、「まだ二十歳」の青年の等身大を見せればよかったはずなのに―。まぁ、それが一番難しいんだろうけど。
 でも、早逝するよりは、生き続ける方がずっといい。死して伝説を残したって、本人にとっては、何の足しにもならないのだ。
 これ以降の尾崎の作風は、次第に混迷を極めてゆく。やたら哲学的な言葉、また独りよがりな主観が強まってゆく。言葉に込めるパッション自体は衰えていないけど、その情熱が誰に向けられているのか、ひどく曖昧なのだ。
 そのベクトルは次第に範囲を狭め、袋小路に突き当たった。「誰も理解してくれない」から「理解なんかされなくたっていい」。報われることのない徒労が無情感にとって代わり、そして尾崎は絶望の淵に堕ちた。
 もしかしてその先に、また別の道が開けていたのかもしれない。反面、「そんなものはない」とわかってはいながら、突き進むしかなかったのか。
 -なんて残酷な結末だろう。




1. 卒業
 凄まじい歓声から始まる、当時最大のヒット曲。「I Love You」でも「Oh My Little Girl」でもなく、このアルバム・リリース時の尾崎のキラー・チューンといえばこれだった。
 「やたら熱い歌を歌う男がいる」という噂が草の根的に広まり始めた頃、日比谷野外音楽堂で催されたイベント「アトミック・カフェ」に出演した尾崎は、あまりの興奮で7メートルの高さの照明台から飛び降り、左足を骨折してしまう。それ以降のスケジュールはすべてキャンセルとなり、ブレイクのタイミングを一旦逸してしまう。
 その事件から半年後、ほぼ突然リリースされた「卒業」は、同時多発的にティーンエイジャーの心を鷲づかみにした。俺もまたその一人だった。
 当時は過激な言動ばかりがクローズアップされ、それはいまも変わらないのだけど、もう30年を経てフラットな視点で歌詞を読んでみると、直截なメッセージよりむしろ、丹念に描かれた高校生の何気ない日常描写の秀逸さに惹かれたりする。

 校舎の影 芝生の上 吸い込まれる空
 幻とリアルな気持ち 感じていた

 リアルな将来がイメージできない、虚ろ気な高校生の心象風景を、19歳の少年がここまで瑞々しく描いている。むしろそっちの面を評価してほしい。

2. 彼
 このライブが収録されたのが1985年11月15日の代々木オリンピックプールで、『壊れた扉から』がリリースされたのが同年11月28日なので、オーディエンスにとっては新曲であり、そんなせいもあって「卒業」ほどの熱気は少ない。そう思えば納得。
 スタジオ・ヴァージョンよりジャズっぽさの強いアルト・サックスが印象的で、尾崎のヴォーカルも最初抑え気味。と思ってたらサビで絶叫するところはやっぱり尾崎。バック・メンバーが適度にレスポンス入れてるんだから、ちょっと休めばいいのに、と思ってしまう俺はもう純粋じゃないんだな。
 比較的第三者目線で描かれた、うまくまとめた短編小説の味わいがあるけれど、そんなまとまり加減がちょっと鼻について受け付けなかったりする。まだ若いんだから、そんな小さくまとまらなくたっていいだろうに、とアラフィフ目線だとそう感じてしまう。

3. Driving All Night
 こちらも『壊れた扉から』収録。ライブ映えする軽快なロック・ナンバーなので、一気にブーストがかかる。
 メロディもアレンジもブルース・スプリングスティーンへのリスペクトが強く、粗さは目立つけど、そこはライブの勢いで押し切っている。いま冷静に歌詞だけ読んでみると、当時は感じなかった直訳っぽさが結構露骨である。
 刹那的でネガティヴな、先行きの見えない若者の焦燥感を描かせたら、この時期の尾崎に並ぶ者はいなかった。切迫した想いをダイレクトに、作為の感じられない言葉の礫は、いまも混じり気はない。

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4. Bow!
 「十七歳の地図」が象徴しているように、尾崎のボキャブラリーには中上健次の影響が色濃く降りているのだけれど、この曲でも「鉄を喰え 餓えた狼よ 死んでも豚には 食いつくな」というフレーズなんかは、初期中上作品からインスパイアされたシチュエーションである。
 当時の中高校生は真面目で読書家で、普通にこういった文学作品がバックボーンにあったのだ。そうだよな、俺も高校生の時、バタイユからジャン・ジュネとか、片っ端から読んでたもんな。今じゃすっかり読まなくなったけど、読書が教養の一要素であった時代が確実にあったのだ、俺世代くらいまでは。
 
5. 街の風景
 オリジナルはデビュー作『十七歳の地図』のオープニング。ここではテンポを落とし、中盤の歌詞も追加されて、10分の大作となっている。軽快なポップ・フォークだったアレンジも、当時流行っていたポリスにインスパイアされたギターとドラムが前面に出たライブ仕様にビルドアップしている。
 そんな重厚感に合わせて、ヴォーカル・スタイルもやたら肩に力が入っており、血管も切れそうな勢いである。俺的には軽く語り掛けるようなオリジナルのヴォーカルの方が好きなのだけど、まぁライブで聴いたらハート持ってかれるんだろうな。
 デビュー前に書かれた歌詞は、想いが先走って未整理なところも見受けられるし、常套句でまとめてしまっている箇所もあって、テクニック面では決して巧いとは言い難いのだけど、この時期・この年代にしか書けなかった蒼さと未熟さとが、結局は良い方向へ作用している。

6. ダンスホール
 ソニーのオーディションで初披露されたという伝説を持つ、いまだシングル・カットはされていないけど、幅広いファンに根強い人気を持つバラード。こうやって書いてると尾崎、キラー・チューンばっかりだな。71曲しか書いてないのに。
 15、6の少年が思いっきり背伸びして想像して、思いのたけと寓話とをない交ぜにして書き上げた。いま目を通してみると、ステレオタイプな描写も見受けられるけど、中高校生が書いた詞としては、充分だと思う。

 次の水割り手にして 訳もないのに乾杯
 「こんなものよ」とほほ笑んだのは たしかに 作り笑いさ

 耳年増の想像による若書きだけど、これはなかなか書けないよな。

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7. 存在
 主観・客観問わず、ネガティヴな視点が多かった尾崎の曲の中で、これは比較的ポジティヴ寄りの応援歌であり、ラブ・ソング。相手にとってはちょっと重く感じてしまう真実の愛を、高らかに歌い上げる尾崎の姿は、とてもエネルギッシュでいて、それでいて儚ささえ漂わせている。
 21世紀以降に生まれた人間にとって、多くの尾崎の楽曲の世界観は現実離れしており、一種のファンタジーとなっていることが、この曲に象徴されている。「反抗」や「真実の愛」というメッセージや、「盗んだバイクで走り出す」「校舎の窓ガラス壊して回った」という衝動を、彼らは現実として受け止められないのだ。
 尾崎の楽曲の多くは、その生き様やライフ・スタイル、エピソードという予備知識がないと、共感しづらい。本文でも書いたように、シンプルなラブ・ソングがロング・セラーを記録し続けているのは、そんな事情もある。
 単にラジオから流れてきただけだと、この曲も40歳以下にとっては、ちょっと共感しづらい。

8. Scrambling Rock'n'Roll
 オケが「Born to Run」そっくり、って今なら言っちゃってもいいだろう。それくらい、80年代のスプリングスティーンは日本の音楽業界にも大きな影響を与えていた。
 この曲もストレートなメッセージ性が前面に出たロック・チューンなのだけど、むしろそんなサビ以外の歌詞パートに耳が行ってしまう。ぶっちゃけてしまえば、全篇あれこれ手を尽くした口説き文句の羅列なのだけど、アラフィフにとっては、その熱さが羨ましかったりもする。

9. 十七歳の地図
 熱く重く無鉄砲さが漂う2分のMCの後、続けて歌われる代表曲。ネガティブで破壊的な言葉の羅列の先に輝く、微かで、しかし確かな光。歌っている情景は殺伐だけど、決してそれだけじゃない、ということを、尾崎は全身全霊で教えてくれた。
 これだけは確かだ。

10. 路上のルール
 言いたいこと伝えたいことを、単に拳を振り上げて嘆くのではなく、きちんと伝える技術と想いが重なり合うことで、説得力は増し、そして作品としてのクオリティも高くなる。変に技巧的ではなく、かといってあざとさもない。デビュー3作目で、尾崎は見違えるほどの成長を手にした。しかし、それはあまりにキャパを超えた成長でもあった。
 
 今夜もともる街の明かりに 俺は自分のため息に微笑み
 お前の笑顔を探している

 ここが到達点であるべきだったのだ。それ以降、無理に成長なんかせず、自己増殖だけでよかったはずなのに。

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11. 15の夜
 アラフォー世代以上には確実にアンセムとなっているけど、それ以降の世代にとっては、「めちゃイケ」の曲という認識しかされていない、確実に代表曲のはずなのに、そんな世代間ギャップのおかげで肩身の狭い曲。
 多少のデフォルメはあるけど、ほぼ尾崎自身の実体験に基づいて書かれた曲なので、いわばプライベートな作品ではある。実際に同様の体験をした者はごく限られるはずなのだけど、こういった内的衝動の共有範囲は、思いのほか広かった。
 こうやって書いてると、やはり俺は『十七歳の地図』が一番好きなのだ、ということに気づかされる。どの曲も客観であったとしても、決して悪い見方はできない。
 だって、それは当時の俺を否定することと同義だから。

12. I LOVE YOU
 歓声がひときわ大きくなる、当時から人気の高かった名バラード。スタジオ・ヴァージョンの時点ですでに完成されているため、ライブでもアレンジはほぼそのまんま、歌い方もまんまである。
 どのパートを抜き出しても、これ以外はあり得ない言葉と世界観。十代の頃、ここまで熱く切ない恋愛をしたはずはないのに、時空を超えてなぜだか共感してしまう、そんな歌。
 とんでもなくスケールのデカいビギナーズ・ラック。いつか尾崎豊というアイコンが忘れられたとしても、この曲だけは確実に残る。



13. シェリー
 いま聴くと、むせ返るほどの赤裸々な心情吐露が、ちょっと疲れてしまう。多分、早熟だった尾崎はこの曲を書いた頃から、10代を卒業した「その後」を、ぼんやりではあるけれど見据えていたのだろう。
 自分と、そしてファンもまた成長「しなければならない」or「するべきなのか」と。それは自ら先導しなければならないのか、またはファンの間で自然発生的に行なわれるものなのだろうか。
 自分の歌は、10代にとっては単なる通過儀礼であり、自分は常に変わることなく、新たな10代に向けてメッセージを発信しなければならないのか―。
 そんな錯綜した想いを、ファンに向けて、または自問自答するように、尾崎は歌う。
 ある意味、それは切実に追い詰められた若者の告白でもある。






80年代みゆきのライブ・アーカイヴをどうにかしよう。 - 中島みゆき 『歌暦』

494 中島みゆきはこれまで6枚のライブ・アルバムをリリースしているのだけど、その多くは2000年代以降にリリースされたものである。その2000年代までは、年に一度のアルバム制作と夜会を併行し続けていたのだけど、2010年代に入ってからは、活動ペースが次第に落ちてゆく。
 夜会も1年ごととなり、これまで別枠と捉えられていた夜会楽曲が、オリジナル・アルバムに収録されることも多くなった。ヤマハのリリース・スケジュールとみゆきの創作ペースが噛み合わなくなった事情もあるのか、近年はライブ・アルバムが短い感覚でリリースされている。
 ただ普通に考えれば、みゆきの年代であれだけ旺盛な創作意欲を維持し続けていたことは、むしろ賞賛に値する。ヤマハの看板アーティストとして、また経営陣の一人として、毎年何かしらのアイテム・リリースが必要という判断のもと、例えば今年はベスト・アルバム『ここにいるよ』が控えていたりする。
 今世紀に入ってからベスト4枚・ライブ5枚か。オリジナルが平均2年で1枚ペースだから、みゆきクラスのアーティストとしては、かなりのハイペースだ。
 で、80年代は30代、90年代は40代だったみゆき。シングルのコンピレーションはリリースしているけど、いわゆるベスト・アルバムの類は一切リリースしていない。ポニー・キャニオン企画による、グレー・ゾーンのカセット企画なんかは時々出ていたけど、あれだって本人が監修していたとは思えないし、大人の事情によるところが多分大きい。
 かなり初期の段階から、みゆきは「レコーディング作品とライブ・パフォーマンスとは別物」という意識があったらしく、ギター弾き語りの時代から、レコーディングしていない未発表曲を歌ったり、また既発表曲も違うアレンジを試したりしている。ただ、ライブはあくまで一過性のものというポリシーのもと、それをわざわざ録音して発表するという考えには至らなかった。
 もしかしてサウンド・チェック用など、音質は問わない「記録として」のカセット音源くらいは残っているのかもしれないけど、それが公開される見込みは、多分なさそうである。映像ソフト未発売の夜会も記録映像は残っているらしいけど、多分これも無理。そんなのいっぱいあるんだろうな、ヤマハの倉庫に。

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 80年代以降はほとんどテレビに出ることもなかったため、みゆきの動く姿を拝むことは、至難の技だった。時々、貴重映像としてオンエアされる「コッキーポップ」や「ミュージック・フェア」出演も、ほとんどは70年代のものであり、80年代の映像素材はほぼ皆無と言っていい。この前の「ミュージック・フェア」の「ホームにて」は、初見だったので、ちょっと驚いたけどね。
 この当時、唯一、たった1曲だけど、甲斐バンドの解散ライブに客演した映像が発表され、俺を含め年季の入ったみゆきファンは狂喜乱舞した。
 1986年の解散プロジェクトのドキュメント映画『HERE WE COME THE 4 SOUNDS』にて、みゆきは「今夜の最高のクイーン」と甲斐自身のアナウンスを受け、クリスタルのエレキ・ギターを抱えて舞台に登場する。1986年といえば『36.5℃』制作期、プロデューサー:甲斐よしひろの指名を受けてのゲスト出演だった。そこでデュエットで歌われた「港からやってきた女」は、双方のファンにとって、歴史に残る名演として記憶されている。



 当時の甲斐バンドといえば、マッチョな肉体性を伴うボトムの太いサウンドと、ハードボイルドな大人の男性を描いた詩情、そして、魅惑と激情のフェロモンを放つヴォーカリスト:甲斐のカリスマ性、それらのすべてが有機的にシンクロして、唯一無二のポジションを築いていた。個人的に甲斐バンドのファンだったこともあって、第三者からすればちょっと盛り過ぎかもしれないけど、まぁほぼこの通りなので、「いいからNY3部作聴いてみろよ」としか言いようがない。
 熱狂的なファンが多い彼らの最後のライブという状況で、交流があることは広く知られてはいたけど、いわゆるアウェイの中、みゆきは堂々とした歌いっぷりを見せている。
 活動末期になってからのファンだった俺にとって、「港からやってきた女」のオリジナルといえば、このテイクである。なので、後追いでオリジナルのステジオ・テイクを聴いたのだけど、正直、音もショボくて引き込まれることはなかった。
 この曲はその後も、ソロや再結成・再々結成・再々々結成時にも演奏されているのだけど、どれもみゆきとのテイクには及ばない。最初っからあのインパクトを受けちゃうと、どれも当たりは弱く感じてしまう。そう思ってしまうのは、多分俺だけじゃないはずだ。

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 90年代は夜会が本格的に始動し、併せて映像ソフトも発売されるようになった。そんなわけで、これ以降は不定期ながら、北は北海道から南は沖縄まで、そうそう家を空けることができないファンも、自宅で鑑賞できる環境が整った。
 40代という働き盛りだったこともあって、90年代以降はドラマのカメオ出演やCM出演など、さらに気軽にお茶の間でも触れる機会が増えている。オールナイトかコンサート以外では、現状を知り得なかった80年代と比べれば、かなり恵まれた環境だ。シングルのタイアップも多くなって、知名度やセールスの爆上げにも、それらは大きく貢献した。
 21世紀になってからは、夜会やコンサートの開催ペースがややゆったりとなったため、人前に出ることは徐々に減っていったけど、前述したように、ライブ作品のリリースが増えていった。夜会で歌うみゆきもまぁいいけど、俺のように、ちゃんとバック・バンドを従えたライブのみゆきを見たい/聴きたいファンにとって、ほんといい時代になった。今後、状況が整ってくれば、オンライン・ライブ開催でスマホで視聴も、もしかして現実になるかもしれない。
 ただ、80年代ご乱心期からずっと聴いている、俺のような年季の入ったファンがほんとに求めているのは、リアルタイムで聴き始めた頃の音源なのだ。近年のライブ作品でも、この時期の楽曲は必ずレパートリーに入っており、演奏レベルもみゆきのパフォーマンスも円熟の域に達している。いるのだけれど、でも。
 いまのメンバーには申し訳ないんだけど、でもそうじゃないんだよな。古いファンのめんどくさい要望としては、まだ未完成で模索している過程の時期の音源を聴きたいのだ。
 街から街へ、ギター1本抱えて訥々と弾き語ったデビュー時から、バック・バンドがつくようになってから音数も増え、次第にアンサンブルやバンド・アレンジに関心が向くようになった、その成長過程。ファンの間では、やはりこの80年代のライブ音源が聴きたいという意見が多い。
 たまにファン有志による隠し撮り音源がYouTubeにアップされており、俺も時々チェックしたりするのだけど、まぁ限りなくグレーに近いブツのため、再度聴こうと思っても、削除済になっていることが多い。ヤマハの著作権・肖像権管理は、ジャニーズ並みに厳しいのだ。

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 今だから言ってしまうけど、87年の札幌公演に友人と行った際、俺もウォークマンで隠し録りを試したことがある。北海道の中途半端な田舎の高校生が初めて行ったコンサートで、荷物チェックにめちゃめちゃビビり、足首に縛ってズボンの中に隠して入場した。
 今は亡き厚生年金会館大ホールの2階席から、はるか遠くに見える生みゆきの姿に興奮しつつ、周囲の大人の目線にビビりながら、シャツの下にウォークマンを忍ばせたのだった。いま思えばビビり過ぎだってば。
 当時の大ホールでのライブ・スタイルは、あまりスタンディングという文化がなく、ラスト近くまでほぼ座りっぱなしだったことが、うっすら記憶に残っている。『36.5℃』と『中島みゆき』の間に行なわれたツアーだったため、ロック・テイストの強いアレンジだったはずなのだけど、ほぼ総立ちになるシーンはなかった。
 初ライブ参加というバイアスを抜きにして、パフォーマンス自体は盛り上がっていたと思うのだけど、観衆の反応はほぼ手拍子ばかりで、温度差があるように思えた。フォーク/ニュー・ミュージック時代のファンが多く、舞台上のテンションと溝があったのかね、というのが、後で思った印象。
 何の曲かはド忘れしたけど、終盤の盛り上がるシーンで、テンション爆上げとなっていた俺と友人は立ち上がったのだけど、周囲の大人は不動の姿勢で手拍子を崩さなかった。なんでそんな冷静なんだよ、あんたら。
 終演となり、テンションが治まらなかった俺たち2人は、肩を組んでみゆきの歌を大声で歌いながら、大通公園を歩き、札幌駅まで向かったのだった。こうやって書いてると、すげぇこっ恥ずかしい過去だな。まぁ絵に書いたような青春だ。
 帰りの電車の中、あの感動をもう一度といった想いで、録音したばかりのテープを巻き戻し、ヘッドフォンを2人で分けて再生してみた。オチは想像ついたと思うけど、服の擦れや手拍子でかき消され、まるで聴けたものではなかった。
 激しいロック・ナンバーはどうにか雰囲気は掴めるけど、音は割れまくってるし、興奮した俺たちの話し声の方がよく聴こえる始末。2度と聴き返す気にはなれず、俺たちは記憶の中のみゆきについて、到着まで語り合ったのだった。
 ちなみにこの日、俺の高校は1学期の終業式だった。適当な理由で休みは申請していたのだけど、ひょんなことからサボりがバレてしまい、担任からめちゃめちゃ怒られたことが、最後のオチとなる。
 うん、絵に描いたような青春だな。

 で、この半年前にリリースされたのが、初のライブ・アルバム『歌暦』。俺が聴いた生みゆきと時期が近い音源なので、声質はほぼ変わらなかったはずである。
 ただ俺が参戦したツアー「SUPPIN Vol.1」とは違い、ここに収録された「歌暦Page86 -恋歌-」は、通常ツアーとは趣向を違えたスペシャル・コンサートであるため、選曲やアレンジを違えている。アルバムごとにプロデューサーを替えプレイヤーも替え、様々なアプローチを試していた時代なので、昔の曲でも全然違うアレンジになっていることも、多々あったらしい。
 で、何で今回、『歌暦』について書こうと思ったのかといえば、最近、ブックオフで入手したこの本がきっかけだった。




 もうずいぶん前に廃刊となったフォーク/ニュー・ミュージックのアーティストをフィーチャーしていた音楽雑誌『GB』のみゆき記事を再構成した本で、80年からのインタビューやレビューが極力、当時の空気感を損なわぬ形で収録されている。正直、序盤のこすぎじゅんいちによるインタビューは、半分雑談なのでつまらんし、夜会中心の話題となる90年代もそんなに興味はないのだけど、80年代の記事やインタビューは、まだ充分に検証されていない当時のライブ・レポートがあったりして、コアなマニアとしては興味深い。
 1984年の秋ツアー『月光の宴』では、シティ・ポップにリ・アレンジされた「小石のように」が歌われている。ジャズ・コンボ編成で歌われる「ミルク32」なんかは、夜会でも同様のアプローチがあったし、最近でも満島ひかりが同スタイルでカバーしてたよな。特筆しておきたいのが、リズムが立ったロック・アレンジの「波の上」。う〜ん、どんな感じだ?想像つかねぇや。85年ツアー『のぅさんきゅう』では、自らアコギをかき鳴らして歌われる「世情」。いやぁー、聴きてぇっ。
 取り敢えず、俺的に気になった箇所だけの抜粋だけど、多分、ここに書かれている以外のアプローチも、いろいろ試されていたと思われるのだ、この時期は。特に『歌暦Page86 -恋歌』のような、アルバム・プロモーションの絡まないコンサートの特別感演出として、未発表曲やリ・アレンジを試したりなんかして。
 近年はみゆきに限らず、どのライブ・セットもパッケージ化が進んでおり、プログラミング機材の都合もあって、突発的なアレンジや曲目の変更は難しくなっている。それは時代の流れで致し方ないことなのだけど、アナログ機材が主体だった80年代は、突発的・衝動的な思いつきをすぐ試すことができ、またそれが受け入れられた幸福な時代だったのだ。

 なので、このCDに収められている曲たちも、またかりそめの姿でしかないのだ。90年代以降の作品やリ・アレンジは、きちんと記録に残され、そして発表されているため、ファンの間でも体験の共有が可能である。
 でも、80年代の活動の詳細は、オフィシャルなディスコグラフィー以外は、このようなメディアのアーカイヴでしか知りようがないのが現状である。ていうか、この本だって絶版扱いだし、
 ちょっと大げさな話だけど、今後のみゆき作品の総括を本気で行なってゆくのなら、アーカイヴの整理と検証、そして公開は必須である。もちろん、みゆきの意向が最優先なのだけど、それに対してヤマハがどれだけ本気で取り組んでくれるのかが、今後にかかっている。
 今後もずっと「糸」と「ファイト!」で食いつないでゆくのか、それとも得難い文化遺産としての位置づけをしっかり行なってゆくのか。資料は散逸されてゆくし、当時を知る関係者も徐々に少なくなってゆくので、うかうかしてはいられない。




1. 片想'86
 ジャケットに描かれているように、冒頭、赤襦袢の出で立ちでステージに立った裸足のみゆき。
 「今年のあたしは、こんな年でした」。そんな言葉の後に歌われたのが、これ。
 初出は1979年のアルバム『親愛なる者へ』のB面1曲目。ギター弾き語りによるオープニングから、徐々にアンサンブルが加わってフォーク・ロックになってゆく。
 7年前はもっと自分に言い聞かせるように、弱っていた心を隠せていなかったみゆきだけど、ここでは力強く、それでいながら丁寧に、ほどほどの距離感を取って歌い上げている。

2. 狼になりたい
 前曲のアウトロに続いて、歌われるのはキラー・チューン。最近もマツコ・デラックスが推していたこともあって、多分、今後も地道な支持を受け続けるのだろう。「糸」や「ファイト!」と違って、あまり前向きじゃないテーマの楽曲として、そのポジションは不動だ。
 オリジナルは弾き語りパートに突然挿入される、力強いギターのフレーズとのコントラストが印象的だったのだけど、ここではほぼ全面豪快なバンド・アンサンブルで構成されている。その音圧に負けないみゆきのヴォーカルのパワーもまた、特筆されるところ。近年のように張り上げない声でありながら、エンジニアの尽力もあって、クリアな音質。ある意味、パワー面でのステージ・パフォーマンスはこの時がピークだったという意見もある。
 この時期の歌詞全般に言えることだけど、比喩・暗喩にしてもそんなに親切ではない。「空と君のあいだに」が飼い犬の視点で書かれた、というエピソードは有名だし、確かにそう思えばそんな解釈になる。わかりやすくていいのだけど、じゃあわかりやすいだけでいいのか?と思ってしまうのが、年期の入ったみゆきファンなのだ。
 「狼」が何を象徴しているのか、様々な解釈が存在する。マツコの視点と俺の視点、他のファンの視点だって、それぞれ微妙に違ってはいるはずだ。
 みゆきがいつも言うように、「歌が世に出てしまった時点で、その歌は聴く人それぞれのものになる」のだ。まぁわざわざそれを体系的に口にするのも、ちょっとヤボだけどね。

3. 悪女
 このアルバム・リリース時点では最大のヒット曲だった、そして今もみゆきにとっての代表曲。しつこいようだけど、「糸」じゃないはずなんだけどな、代表曲は。いま思えば淫靡な解釈もできる楽曲なので、老若男女幅広く共感するには、ちょっと難しいのかね。
 シングル:ゆったりしたフォーク・ロック
 アルバム:淫靡なスロー・ファンク
 ライブ:なんかスプリングスティーンっぽい大味なスタジアム・ロック
 もともとみゆき、シングルのアレンジがお気に召さず、『寒水魚』収録にリベンジしたわけだけど、ここでまたガラッと違ったアプローチを取っている。この3つのヴァージョンについては昔からファンの間でも意見が分かれているのだけど、最近の俺的には①シングル②アルバム③ライブの順。昔はシングル以外受け付けなかったのだけど、最近は一周回って、ちょっとダウナーなアルバムのアレンジも好きになってきた。
 でもゴメン、やっぱライブ・ヴァージョンはいまだピンとこない。

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4. HALF
 実際のライブでは、前曲から「勝手にしやがれ」~「髪を洗う女」と続いているのだけど、収録時間の関係もあってか、そこはカットされている。いつか完全版を望みたいところだ。
 レイテスト・アルバム『36.5℃』からで、いわばここが序盤のピークにあたるところ。感情をあらわに激しいヴォーカルのみゆきに煽られてか、バンドのテンションも一気に上がっている。まだ若き斎藤英夫の長い長いギター・ソロが、一世一代の名演。
 ちゃんと歌詞を感じて聴いていると、「片想」からここまでが、一編の恋愛模様として完結していることがわかる。そこまで詳細に書くとめんどくさいので、あとは自分で聴いて感じてみて。

5. 鳥になって
 ここでシーン・チェンジとなり、バンドは一旦休憩、みゆきの弾き語りパートとなる。
 『寒水魚』ではストリングスがメインとなっていたけど、ここではみゆきの繊細なギターと歌のみ。幻想的なムード演出という意味で、悠々たるストリングスの調べは効果的だったのだけど、こうしてネイキッドなスタイルで歌われると、やはりヴォーカルの力の凄みに改めて気づかされる。
 ライブではこの曲に続き、アコースティックで歌われる「孤独の肖像」だったらしいのだけど、これも未収録。やっぱ完全版が聴きたいな。みんなでヤマハにお願いしてみよう。

6. クリスマスソングを唄うように
 アマチュア時代に作られた、この時点ではほぼ唯一のクリスマス・ソング。ちゃんと調べてないけど、多分、これ以降も主題としてはないはずなので、いまも唯一かな。
 デビュー前に作られたものなので、サビメロやフレーズは習作レベル、ありふれたものなのだけど、「クリスマスを理由に 雪を理由に 云えない想いを 御伽噺」なんてフレーズをすでに書いているのだから、その早熟振りが窺える。
 これに続いて「まつりばやし」「不良」と続くのだけど、そこもばっさりカット。

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7. 阿呆鳥
 「弾き語りで歌っていた頃のファンにとって、いまのあたしは不思議に思うかもしれない。迷ったりとかしたけど、でもあたしは、ただ正直になりたいの。だから、好きな歌を歌いたい」
 いつものトーンと違う、素顔のみゆきによる、そんなMC。サウンド・アプローチの変化は古いファンを戸惑わせたけど、でも、その時その時の自分が歌うと、こういった風になる。それは、わかってほしい。
 妖し気なムードを醸し出す歌謡ブルース・ロックは、強力なシンセ・ポップにビルドアップされている。
 
 悪い夢を見て 泣くなんて
 いい年をして することじゃない
 いつも通り あたし通り
 続けるさ バカ笑い

 研ナオコが歌えばすっぽりハマる歌詞とメロディだけど、みゆきの声なら確かに、分厚いバンド・サウンドの方がしっくりくる。流行りのサウンドに振り回されるのではなく、楽曲に最適のアプローチを追及していったら、このスタイルが最もフィットするんだ、ということを言いたかったんだろうか。

8. 最悪
 『36.5℃』収録のハード・ロック・チューン。リリースされたばかりなので、アレンジもほぼまんま。

 それは星の中を歩き回って 帰りついた夜でなくてはならない
 決して雨が コートの中にまで降っていたりしてはならない

 こういったさり気なく、それでいてスケール感の大きい書き出しって、「地上の星」と似た構図だよな、って思った。ただそれだけだけど。

9. F.O.
 続いて「36.5℃」より。シンセ・ベースがリードするデジ・ロック。打ち込み感がハンパなく、さっきまでのしっとりした弾き語り空間は一掃される。そのギャップこそが、80年代みゆきの真骨頂だったと言えるし、それがのちの夜会のベースにもなったのだろう。

 男はロマンチスト 憧れを追いかける生き物
 女は夢のないことばかり 無理に言わせる魔物

 想えば、この曲を十代に聴いてしまったことで、俺の恋愛観は決まってしまったんじゃないか、と今にして思う。
 この後に「テキーラを飲みほして」があったのだけど、割愛されている。

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10. この世に二人だけ
 「この曲を最後に歌いたかった」というMCに続いて歌われた、『予感』収録のスロー・ナンバー。近年もステージで取り上げることが多く、みゆき自身も気に入っているのだろう。地味なんだけど気になってしまう、決してベスト10に入ることはなさそうだけど、年期の入ったファンなら確実に25~30位以内には入れてしまう、そんな立ち位置の曲である。
 アレンジ自体はオリジナルとほぼ違いはないのだけど、淡々と歌っていた『予感』ヴァージョンとは違って、ここでのヴォーカルはもっと語りかけるように、切々と歌い上げている。その後のライブでもほぼこの解釈なので、数年経ってヴァージョン最適化したのだろう。

11. 縁
 前曲でラストだと思っていたのだけど、実際のライブでは、これが本編ラスト。教えてくれた人、ありがとう。
 ラストはプログレみたいに長大なイントロだったオリジナルとはまた違って、ピアノからのスタート。ややエスニック・テイストのパーカッションや鈴の音が、オリエンタルなムードを演出している。
 圧巻は、オフ・マイクによるヴォーカル・パフォーマンス。純正な音楽コンサート仕様ではない、両国国技館の空気を響かせるみゆきのポテンシャルが、克明に記録されている。
 
12. 見返り美人
 本編が終わって、ここからはアンコール・シーンがノー・カットで収録されている。メンバー紹介の後に歌われた、ひとつ前のシングル。ちょっと声が枯れてきているのか、低音パートがやや苦しげなのがリアル。

13. やまねこ
 アッパーなチューンはまだ続く。これは当時の最新シングル。ある意味、ご乱心期と言われる時期の頂点とも言える、歌詞・メロディ・サウンド。その時点の最高の英知と感覚が、惜しみなく注ぎ込まれている。
 なんとなく、工藤静香が歌ったらハマるんじゃね?と思って調べてみると、アラやっぱり歌ってたわ。でも、思ってたのとちょっと違う。このオリジナル・オケで歌って欲しかったな。



14. 波の上
 シングル「あの娘」のB面という、ものすごく地味な扱いだったにもかかわらず、当時から隠れ名曲として評価の高かった小品。コンサートもほんと終盤のため、みゆきの声もかすれ、詰まるシーンも多くなる。涙声になるところを、観衆が励ましたりして、その臨場感が感動を呼ぶ。
 「こんばんは、中島です」。
 最後にそう言い残し、ステージは幕を閉じる。ANNのエンディングも、そんなかんじだったよな。





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北海道の中途半端な田舎に住むアラフィフ男。不定期で音楽ブログ『俺の好きなアルバムたち』更新中。今年は久しぶりに古本屋めぐりにハマってるところ。
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