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#Rock

制御不能の無邪気な怪物、そして音の礫。 - Talking Heads 『Remain in Light』

folder トーキング・ヘッズのアルバム中、最も知名度が高いのが『Remain in Light』であることに異論を唱える人は、多分少ない。スタジオ・アルバムに限定しなかったら、『Stop Making Sense』を推す意見もあるだろうけど、これまた多分、少数派だろう。
 アラフィフの俺のように『Little Creatures』から入った世代だと、『Remain in Light』は当時からすでに80年代ロックを代表する名盤扱いされていたため、別格扱いだった。MTVにもうまく馴染んだフォーク・テイストのポップ・ロック主体の『Little Creatures』に比べ、愛想のないミニマリズムで塗りつぶされた『Remain in Light』は、ちょっと敷居が高かった。
 デビュー~活動休止までを時系列で追っていくと、どんな角度・どんな視点で捉えたとしても、『Remain in Light』がひとつのターニング・ポイントとなるのは間違いない。好き/嫌いや好みの問題ではなく、『Remain in Light』をピークとして、以前/以後という座標軸ができあがってしまう。ていうか、それ以外の視点で語るのは、ちょっとこじつけが過ぎる。
 メンバー4人の思惑やポテンシャルを軽々と超え、制御不能の怪物として生み落とされた『Remain in Light』だけど、何も突然変異であんな感じになったわけではない。ディランを始祖として、ルー・リード→パティ・スミスから連綿と続く、パフォーミング・アートとしてのニューヨーク・パンクを正統に継承しているのがヘッズであり、このアルバムもまた、その時系列に組み込まれている。
 とはいえ『Remain in Light』、オーソドックスなニューヨーク・パンクのフォーマットからは大きくはみ出しており、やはり異彩を放っている。逆説的に、「既存価値の否定」という意味合いで行けば、正統なニューヨーク産のガレージ・パンクである、という見方もできる。あぁややこしや。

Heads

 テクニックよりエモーション、熟練より初期衝動を優先し、ライブハウス直送のガレージ・バンドとしてデビューしたヘッズだったけれど、早々に下積み時代のスキルを使い果たしてしまい、壁にぶち当たることになる。単発契約でそのままフェードアウトしてしまう、数多の泡沫バンドと比べ、彼らのどこに期待する要素があったのか、その辺はちょっと不明だけど、外部プロデューサーによるテコ入れを入れる、という条件で2枚目のアルバム制作の目処が立つ。
 そこでプロデューサーとして抜擢されたのが、ご存知ブライアン・イーノ。ロキシー・ミュージック脱退以降、「枠に囚われない活動」といった言葉そのままに、ボウイのベルリン3部作で重要なファクターとして存在感を示し、偏屈で理屈っぽいロバート・フリップと組んで偏屈で理屈っぽいアルバムを作り、一方で「環境音楽」というカテゴリを創造するなど、もうあちこちから引く手あまた。要は、空気の読み具合にメチャメチャ長けて、メイン/サブ・カルチャーのニッチな隙間を右往左往することに悦に入っちゃう、そんな「意識高い人」である。
 曲も書けなければ、まともに歌うことも演奏することもできない、「自称」ミュージシャン時代は、もっぱら「変な音」担当として、派手なコスチュームと言動に明け暮れていたイーノだったけど、根拠不明な確信と意識高い系の振る舞いが、逆に純正ミュージシャンらの共感を得た。決して自分で手本を示さず、あくまで傍観者の視点から、確信を突くかのように錯覚させる、暗示めいた助言やアドバイスをつぶやくことが、彼の処世術といえば処世術だった。
 しかも、その言動に決して責任を持たない。彼こそ正しく、真の「意識高い系」である。

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 テクニカル面でのプロデュース能力はひとまず置いといて、アドバイザーとしてはすこぶる有能だったイーノの導きもあって、ヘッズはバンドとしての体裁を整え、2枚目『More Songs About Buildings and Food』のリリースに至る。大して欲もなければ野心もない、学生バンドに毛が生えた程度の存在だったバンドは、ここでささやかなブレイクを果たすこととなる。
 続く3枚目『Fear of Music』で、シンプルな8ビート+ファンクのハイブリッドを完成させたヘッズは、その後、イーノとデヴィッド・バーンによる合作『Bush of Ghosts』を経て、呪術的なミニマリズムとアフロティックなビートを取り込んでゆく。フェラ・クティやキング・サニー・アデへのオマージュが強く、厳密に言えばヘッズの発明ではないのだけれど、ポスト・パンクの枠を超えてメジャー・バンドとなっていた当時の彼らとしては、かなりの野心作である。
 思わせぶりなイーノの妄言や思いつきを、いちいち真に受けていたのがバーンであり、逆にどこか醒めたスタンスを崩さなかったのが、クリス・フランツ、ティナ・ウェイマス、ジェリー・ハリスンら他メンバー3名だった。「エイモス・チュツオーラの小説からインスパイアされて云々…」といったアカデミックなウンチクを聞き流し、「なんか良さげなノリのリズム教えてもらったから、レゲエもアフロもファンクも混ぜ込んじゃって、ダンス・ポップに仕上げちゃえ♡」と、軽い気持ちで作った「おしゃべり魔女」が大ヒットしちゃったのが、お遊びバンドのトム・トム・クラブである。
 バーンだけじゃなく、こういったセンスを持った彼ら3人の存在が、実のところヘッズ・サウンドの多様性に大きく作用している。イーノの場合、半製品に絶妙な茶々を入れて完成度を高めることはできるけど、ゼロから具現化することには向いていない。
 人にはそれぞれ、役割がある。

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 『Remain in Light』制作の準備段階ではイーノ、スケジュールの都合上、不参加を表明していた。イーノの過干渉でストレスフルとなっていたバンド内人間関係を考慮してか、バーンもメンバーのみの製作を了承する。
 『Fear of Music』で手応えを掴んだファンク/ミニマル・ビートの沼にさらに一歩踏み込み、リハーサルではワン・コードを基調とした長時間セッションが繰り返し行なわれている。現行の最新リマスター・エディションでは、当時の未発表セッションがボーナス・トラックとして収録されており、現場の雰囲気を感じ取ることができる。
 決してテクニカルを売りにしたバンドではないため、強烈なグルーヴ感を生み出すほどではないけど、ポスト・パンクから見たアフロ・ファンクのフェイク/リスペクトというアプローチは、案外前例がなく、強い記名性を放っている。
 そうなると、新しもの好きの鼻が嗅ぎつけてくる。ひょんなきっかけでデモ・テープを耳にしたイーノがしゃしゃり出てくるのを止められる者はいなかった。
 既存ロックの「破壊」という意味合いで、ファンクのリズムを借用したPILやポップ・グループと違って、ヘッズの場合、彼らよりはずっと、ミュージシャン・シップに溢れていた。初期衝動のみで、既存のロックを「破壊したつもり」になって、その後を手持ち無沙汰に過ごすのではなく、基本の4ピース・ロックに他ジャンルの要素を取り込んでゆく。
 「破壊」の後、空虚な高笑いを放つ輩には目もくれず、ただ愚直に異ジャンルの音楽性を取り込み、完成度を高めてゆく彼らの姿勢は、ロック・バンドの理想形である。安直な自己模倣を拒み、常に「その先」を追い求めるその姿は、真の意味でのプログレッシヴである。
 なんか持ち上げ過ぎちゃったけど、この時期のヘッズの勢いは、それだけ突出していた。あぁ、リアルタイムで聴きたかった。

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 イーノにそそのかされて、暴走に拍車がかかったバーンと、不本意ながらその煽りで火事場のクソ力を引き出されたメンバー3名の異様なテンションの高まりによって、ベーシック・トラックが完成する。そこでイーノが、テープを切った貼ったの鬼編集を加え、流浪のギター芸人:エイドリアン・ブリューをぶっ込んだり、そんなカオスな経緯の末、『Remain in Light』は完パケに至る。この時期のブリューって、イーノやロバート・フリップにいいように使われてたよな、「変な音」担当として。
 そこで産み落とされたのは、バンド自身では制御不能の怪物だった。狂騒状態のセッション/スタジオ・ワークを経て排出されたのは、彼らのポテンシャルを遥かに超えた、カテゴライズ不能の音の礫だった。
 テープ編集と人力セッションとが混在して編み出された呪術的ビートは、冷徹でありながら、強烈な中毒性と強制的な代謝を促す。張り詰めたミニマリズムは、強迫的な緊張感を誘発し、ヴォーカルは神経をすり減らしながら、嗚咽と見紛う雄叫びを上げる。その声は弱々しくかすれ、そして時に裏返る。
 強力にブーストされた暴力的なリズムに対し、線の細いヴォーカルは翻弄されながらも、一歩手前で踏みとどまり、ミスマッチな存在感を示す。本来、このようなリズム・メインのサウンドでは、グルーヴに飲み込まれない声質、またはシンクロするリズム感が必須なのだけど、ヘッズはそんな予定調和へNONを突きつける。
 強烈なミスマッチを対峙させることで、ヘッズとイーノは80年代の音楽シーンに深い傷痕を刻みつけた。
 その痕跡はいまだ尾を引き、多かれ少なかれ彼らの足かせとなっている。





1. Born Under Punches (The Heat Goes On) 
 1曲目からこんなインパクト充分なアフロ・ファンクをぶっ込んじゃうあたり、仕上がりにかなりの自信があったことのだろう。リズムとノイズとエフェクトを一緒くたに混ぜ込んでいながら、ちゃんと分離も良くてディテールも明快だし、それでいて妙なグルーヴ感があるし。
 このアルバムのどの曲でも言えることだけど、全篇バーンは狂言回しのようなポジションに徹しており、リズムに飲み込まれまいと必死に足掻くその様が、妙にリアル。ヒット・チャートやキャッチ―さもまるで無視していながら、それでいてきちんと商業音楽にまとめ上げてしまうイーノの手腕は、悔しいけど見事。



2. Crosseyed and Painless
 ほぼ終始ワンコードで展開される、こちらはロックなギターがフィーチャーされているので、もう少し開かれた音作りなのかね。いや、間奏のブリューの変なギター・シンセは、やっぱ未知のスパイスとして機能している。
 乱れ飛ぶパーカッションとシンセ・エフェクトがサウンドのメインではあるけれど、ちょっと深く聴き込むと、手数は少ないけどポイントを突いたティナのベース・プレイに耳が行ってしまったりする。バカテクという感じでもないんだけど、ツボを得たシンコペーションはいいアクセントとして作用している。

3. The Great Curve
 またまた延々と連なるパーカッション、またまたワンコード・ファンクの無限ループ。レコードで言えばA面ラストだけど、全篇こればっかり。ここまで畳みかけられると、いやでも虜になる。ていうか、ここまでダメ押ししないと伝わらない音なのだ。
 流暢とは言えぬ朴訥なバーンのヴォーカルに対し、やたらソウルフルなノナ・ヘンドリックスのコーラスとは相性が合わなさそうだけど、これもリズムの洪水によるグルーヴ感が成せる技。このリズムがないと、多分噛み合わない。
 「象の雄叫び」と評されたブリューのギター・プレイは、やはりいつ聴いてもカッチリ音世界にハマっている。もともとはこれが「素」なんだから、ボロクソに言われながらクリムゾンやることなかったのに。ブリューの世間のニーズは、ここにあったはずなのに、当時は気づかなかったのかね。

4. Once in a Lifetime
 アフロ・ファンクとエレクトロの融合。シャーマニックなバーンのヴォーカル。ほぼ素材コラージュのような方法論で制作された『Bush oh Ghosts』から進化して、アフリカン・リズムを咀嚼してヘッズのメロウな部分をちょっと足して創り上げられたのが、コレ。
 シングル・カットもされて、今ではほぼ彼らの代名詞的な有名曲でありながら、当時のUSでは100位前後とパッとしなかった。UKでは最高14位にチャート・インしており、この辺は英米の嗜好の違いが見て取れる。いや、いい悪いじゃなくてね。
 今回初めて知ったのだけど、なぜかロバート・パーマーがギターとパーカッションで参加している。コーラス参加とかならまだわかるけど、なんでギター?贅沢な、っていうか、もったいない使い方だよな。



5. Houses in Motion
 パーカッションがあまり前面に出ておらず、バーンのダブル・ヴォーカルとオリエンタルなギター・リフが主役の、メロディとコードは従来のヘッズを踏襲している。ここでもまた、ブリューの象の雄叫びが聴こえる。
 ボウイ成分がちょっと強いかな。彼なら多分、こんな感じになるんじゃないか、と何となく思う。

6. Seen and Not Seen
 ダウナーなヴォーカルを抜いたら、あらアンビエント・テクノ。リズム・メインのわかりやすいアフロティックではなく、漆黒の密林を想起させる、底知れぬ闇が広がっている。
 思わせぶりな散文的な暗示をつぶやくバーンは、ひたすら俯き加減で言葉を探り、そして紡ぐ。

7. Listening Wind
 漆黒の密林は、まだ続く。闇夜を切り裂く猛禽類の雄叫びは、どこから響くのか。
 ブリューもイーノも、ここではシャーマニックなバーンに跪く。ここまでずっと張り詰めた緊張感を維持しており、ここでもサウンドは妖しげな獣の芳香に満ちているのだけど、バーンは静かに狂い、そして正気を保とうとする。
 少なくとも、ここでのバーンの声は、これまでと比べて最も「素」だ。

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8. The Overload
 裏ジャケのグラマン戦闘機を思わせる、静かなプロペラ音。執拗なリズムは嘘のように引き、虚無感にあふれるダークで重い空間。救いの見えぬ深淵は、ポップでライトな80年代とは相反し、けっして交じり合おうとしない。
 能天気なアメリカ人:ブリューの出番もなく、ここではイーノの存在感も薄い。これがヘッズの素顔だとしたら、それはちょっと斜め上過ぎるしペシミズムが強すぎる。
 ちょっとはブリューの爪のアカでも煎じて飲めばよかったのだろうかね。肩が凝っちゃうよ。






ポップ馬鹿トーナメント:イギリス代表(シード枠) - XTC 『Big Express』

folder 一般的にXTCといえば、アンディ・パートリッジのワンマン・バンドという印象が強い。アルバム2、3枚くらい持ってるファンだったらともかく、せいぜい『Skylarking』くらいしかまともに聴いたことのないライトなファンだったら、まず他のメンバーの名前は出てこない。
 80年代ロック史において、名勝負数え歌のひとつとされている「『Skylarking』製作時のアンディ VS. プロデューサー:トッド・ラングレンとの確執」によって、双方の知名度は爆上がりした。ただ、あくまでクローズアップされたのはこの2人であり、他のメンバー:コリン・ムールディングとデイヴ・グレゴリーが注目されたわけではない。
 どの社会においても言えることだけど、際立って注目されるのは、口が立つ奴か声がデカい奴である。必要不可欠な存在ではあっても、縁の下で支える役割にスポットライトが当たることは、そんなに多くはないのだ。
 メインのソングライターでありリード・ヴォーカルであり、口が立って声もそこそこデカい、そんなアンディの存在感が圧倒的ではあるけれど、「XTC=アンディ」というのは早計である。XTCという集団は、全員平等な民主制ではないけれど、かといってアンディが独裁をふるっているわけでもない。
 『Big Express』でも『White Music』でもなんでもいいけど、レコーディング・クレジットを見てみると、確かにアンディ作の楽曲は多い。ただ、すべての作詞・作曲を手掛けているわけではなく、どのアルバムでもアンディ作品は7割程度で、残り3割はコリンのペンによるものである。
 アルバムの印税配分を考慮して、1曲か2曲程度、他メンバーによる楽曲を入れるのはよくある話だけど、XTCの場合、ちょっと事情が違ってくる。単なる埋め草楽曲と違って、コリン作品は「がんばれナイジェル」や「King for a Day」などシングル・カットされた曲も多く、ファンに知られている代表曲もそこそこあったりする。
 バンド内に複数のソングライターがいる場合、当初は似た音楽性でスタートしても、キャリアを重ねるにつれて趣味嗜好が変わってくることが多い。よく言う「音楽性の相違」で、うまく続けば「多彩なジャンル/バリエーション豊富な音楽集団」に成長するのだけど、最悪ケンカ別れというケースもあったりする。
 アンディとコリンの場合だと、これまたちょっと特殊で、互いの作品から触発されリスペクトされ続け、しまいにはどっちがどっちか見分けがつかない、「どっちもXTC」という境地にたどり着いている。よほどのコアなマニアでもない限り、曲を聴いただけでどっちの作品か、判別するのはとても難しい。そういう俺も、「自信ない」ことに自信がある。
 アンディがコリンを侵食したのか、はたまたその逆か。それとも、2人のパーソナリティが有機的な融合を果たし、「XTC」という、第3のヴァーチャル・ソングライターが、2人の自動書記として作用したか。
 恐ろしくシンクロ率の高い似た者同士。それがアンディとコリンの関係性である。

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 「キャッチーで、ちょっぴりエキセントリックなパワー・ポップ」でシーンに登場したXTCは、その後、スタジオワークに力を入れる反面、アンディの神経症悪化によってライブ活動から撤退、それに伴って音楽性も変化してゆく。ライブでの再現を前提としないサウンド・メイキングによって、緻密に構築されたアンサンブルは、強いアーティスト・エゴと未知のレコーディング・テクニックで満たされていた。
 多くのエピゴーネンとフォロワーを生み出した、XTCサウンドを生み出すキー・パーソンとなったのが、エンジニア:ヒュー・パジャムと、プロデューサー:スティーヴ・リリーホワイトだった。無尽蔵に湧き出るアイディアの賜物である、ゲート・エコーやデッドに寄ったイコライジングは、後進のポスト・ニューウェイヴ・アーティストらに大きな影響を与えた。
 外部との接触を極力シャットアウトすることで純度を高めていったサウンド・アプローチとは対照的に、シーンとコミットする機会は減ってゆく。ライブ・シーンやTVメディアへの露出が少なくなったことで、時代の潮流からは遠ざかり、彼らは独自の変化を遂げてゆく。
 当時、アンディの神経症は一時的なものと思われており、多少のブランクを置いてメンタルが回復すれば、再度ステージ復帰もあり得る―、というのが、バンドを含め周辺スタッフの予想だった。アンディ自身も、以前ほどの集中的なライブ・ツアーまでじゃないにしても、単発的なお披露目ライブくらいなら、そのうちできるはず、と思ってたんじゃないだろうか。
 ―そんなこんなで30年あまり。いまだアンディ、人前でのパフォーマンスには及び腰である。インタビューなら饒舌なのにね。

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 ライブ活動再開の展望が見えぬ中、アーティストというよりパフォーマー気質であったテリー・チェンバーズの脱退を止めることは、誰にもできなかった。キャリアとしては中堅クラスであったけれど、同世代アーティストやバンドと比べてセールス実績は芳しくなかったのが彼らの置かれた現状であり、テリーが見切りをつけるのも仕方がなかった。
 すでにワールドワイドな成功を収めていたポリスやマッドネスほどではないにしても、そこそこ名前の知られたポジションであった彼らクラスのバンドにとって、ライブ・ツアーとはレコード・プロモーションの一環であり、避けては通れないミッションだった。とにかく場数を踏んで露出を増やし、ラジオでオンエアしてもらうことが、ヒットへの最短ルートだった。
 80年代前半といえば、デュラン・デュランやカルチャー・クラブ、スパンダー・バレエらUKポップ勢が続々、ビルボードにチャートインしていた時代である。「イギリス発」というだけでアベレージが上がるご時勢ではあったのだけど、あいにくビジュアル面で特に秀でたメンバーがいなかったXTC、彼らには何の影響もなかった。
 のちに「第2次ブリティッシュ・インヴェイジョン」と称されるこの時代、ポップでキャッチーで見映えが良ければ、そこそこのバンドでも注目を集められたはずなのだけど、彼らの場合、見映えも冴えなければキャッチーでもない、ポップではあるけれど、それがちょっと屈折してわかりづらい、ときてる。「じゃあ中身で勝負だ」と言わんばかりに、大量に曲を書いてはスタジオに籠り、ひたすらクオリティ上げに没頭する。
 ただ、作ったはいいけど作りっぱなし。自ら積極的に外部発信するわけでもない。既存ファンやニューウェイヴ界隈では話題にはなるけど、大きな広がりを見せるはずもない。
 ―良いモノを作っていれば、評価される。至極まっとうな論理ではある。
 逆に考えれば、「多くの人に評価されたモノが、良いモノ」である。ゆえに、「評価=セールス」が十分でなければ、それは正しくない。とはいえ、ある程度広範に行き渡らなかったら、評価そのものが成立し得ない。
 商業音楽のパラドックスである。

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 1983年にリリースされた『Mummer』レコーディング途中にテリーが脱退を表明、3人で残りの作業を引き継ぎ、どうにかアルバムは完成させた。前述したように、プレイヤー気質のテリーが抜けても、クリエイティブ面で大きな影響はなかった。
 そんなこんなでメンバー減員となり、純粋に3名体制で製作された最初のアルバムが、この『Big Express』である。レコーディングに時間をかけただけじゃなく、プリプロもしつこく行ない、万全の態勢でスタジオ入りしたにもかかわらず、さらに試行錯誤と右往左往を繰り返して仕上げたアルバムとなっている。
 時代的に、デジタル機材を駆使したレコーディングが主流となり、ここでも一部、リン・ドラムが使用されていたりする反面、メロトロンなんて前時代的なモノも担ぎ出されており、アナログな職人技も随所に盛り込まれている。ややビート感を抑え、ポップス・テイストを強調した『Mummer』のチャート・アクションが地味だった反省を踏まえてか、『Big Express』は原点のギター・ポップをベースに、ヴァーチャルなライブ感を演出したミックスとなっている。
 それだけ細部まで作り込み、人的/時間的にもたっぷりコストをかけたにもかかわらず、結果はUKチャート最高38位と、まことに中途半端なセールスで終わっている。『Mummer』よりはちょっと上がったけど、ターニング・ポイントとなった前々作『English Settlement』には及ばなかった。

 当時、同じレーベルのカルチャー・クラブやヒューマン・リーグにはまったく歯が立たず、次第に立場も悪くなってゆくXTC、当初はアンディに同情的だったヴァージンもサジを投げたのか、初回プレス枚数も減り、広告の出稿量も目に見えて減らされてゆく。ただこれ、彼らが営業部門と折り合いが悪く、プロモーションに消極的だったことも一因なので、ヴァージンばかりのせいとは言いがたい。前にも書いたけど、この時期のアンディ、口を開けばヴァージンの悪口ばっか言ってたもんな。
 ―良いモノを作っていれば、いつかは認められる。実際、手を抜いた部分もなく、細部までこだわり抜いて作られては、いる。
 丁寧な録音テクニックとイコライジングによってサウンドのボトムは太く、音圧の強いギター・ポップとして端正に仕上げられている。そう考えると、U2やエコバニなんかと比べて、ヒット性は高いはずなんだよな。
 じゃあ、なんでU2ほどブレイクできなかったのか、といえば、これがちょっとはっきりしない。ちょっとややこしいコード進行、鼻唄にしづらいメロディ・ライン、にじみ出てくる性格の屈折具合…、などなど、挙げればキリがない。
 でも、いま挙げたこれらって、実は英国人ならごく普通の感性であり、アンディだけが突出しているわけではない。それら全部兼ね備えたモリッシーもいることだし、その辺、英国人はとても寛容だ。
 彼らのような密室ポップを形容する場合、よく使われるのが「おもちゃ箱をひっくり返したようなサウンド」というもので、「バラエティに富んだ内容」という、ポジティブなイメージで使用されることが多い。ただそれって、ネガティヴに言えば「まとまりがない」「散漫」と同義であり、マスに訴求するには、ちょっと弱い。
 『Big Express』で結果が残せなかったことにより、ヴァージンは彼らの活動スタイルに強く干渉してくるようになる。いわば最後通牒だった、とも言い換えられる。
 スタジオワークに入る前に楽曲はすべて用意し、ヘッド・アレンジもあらかた済ませておく。1枚のアルバムにまとめるにあたり、カッチリしたトータル・コンセプトやストーリー性は必要ないけど、とっ散らかった印象を避けるため、アレンジや曲調には、ある程度の統一性を持たせる。
 英国はスタジオ代も高いし、彼らのために長期間予約を入れるのは、コスパ的に良くない。むしろ短期集中でアメリカのスタジオを押さえた方が、彼らも作業に集中できるし、採算も取れる。
 ちょうどコネのあるスタジオがあって、そこには、なかなか腕の立つハウス・プロデューサーがいる。スタジオ経費から宿泊代まで、コミコミで格安で引き受けてくれるらしく、ヴァージン的には願ったりだ。
 そんな彼の名は、トッド・ラングレン。ニューヨーク近郊に立つべアズヴィル・スタジオにて、XTCは『Skylarking』を制作することになる。





1. Wake Up
 軽快なギター・フレーズが左右にパンするのが印象的な、のっけからスピード感にあふれた真正ギター・ポップ・チューン。そんなイントロの印象が強いこの曲だけど、アタック音中心でボトムをバッサリカットしたスネアの響き、3分あたりで奏でられるシンセ・プレイが、すごく気持ち良かったりする。
 実はコリン作であるこの曲、デモ・ヴァージョンが2002年リリースのコンピレーション『Coat of Many Cupboards』で聴くことができるのだけど、そちらではもうちょっとテンポを落とし、中期ビートルズっぽいアプローチになっている。

2. All You Pretty Girls
 お次はアンディ作、当時はこれがリード・シングルとして先行リリースされた。
 旧き良き大英帝国の船乗りを主題としており、「新しいおもちゃ」リン・ドラムをあれこれいじくり回して、旧き良きケルト風味のエフェクトやらコーラスやらをぶち込んでいる。どれもひとつひとつは食い合わせが悪そうだけど、そこを強引にポップに仕上げてしまうのが、やはりアンディ流。かなり練り込んだよな、これって。
 デモ・ヴァージョンは奇妙なレゲエ・テイストをベースに、ややゴシックっぽいコーラスやエフェクトが飛び交って、こりゃ食い合わせが悪い。でも、これがどうやったら、あんなポップに仕上がるんだ?謎だ。



3. Shake You Donkey Up
 ハイパー・アクティヴなオルタナ・カントリ―とでも言えばいいのか、英国人のくせして上っ面でロカビリーの真似事をしてみました的な、何とも形容しがたいサウンド。テレビの西部劇ドラマに面白半分で劇伴つけたら、多分こんな感じになる。
 しっかしアンディ、フィドルは入れるわロデオ・ボーイみたいな掛け声は入れるわ、まぁふざけてる。真面目にやってるとはとても思えないけど、でもアプローチとしては面白いし、悔しいけど完成度も高いときてる。

4. Seagulls Screaming Kiss Her Kiss Her
 そういえば90年代に、日本にこんな名前のバンドがいたよな、と思い出して調べてみると、もうとっくの昔に解散してた。音は聴いたことない。
 この時期の彼らにしてはとてもまともな、とっても真っ当なポップ・ソング。『Oranges and Lemons』に入ってても、全然違和感ない。この路線のXTC、俺はすごく好きなのだけど、まぁ売れるスタイルではない。もう5年くらい遅かったら、シングル・カットの可能性もあったかも。

5. This World Over
 核戦争で荒廃した世界を描いた、チマチマした世界観をうろついている彼らにしては、珍しくシリアスで壮大なテーマを取り上げている。なんだどうした、そういうのはプログレの仕事だろ。
 コード進行もまともだし、構成も均整がとれてるし、ちゃんとドラマティックに歌いかけるシーンまで用意されている。U2っぽさがうまく表現されているけど、でもそんなの誰も求めちゃいない。もっと世捨て人っぽく、小さくまとまらなきゃ、あんたら。世界の行く末なんて、大して興味ないんだろ?

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6. The Everyday Story of Smalltown
 なので、世界の終末を嘆く彼らより、小さなど田舎のどうでもいい日常を描く彼らの方が、ファンとしては愛着があるし、またニーズも多い。牧歌的な風景を切り裂くがごとく、猛烈な黒煙を吐いて突進する蒸気機関車。変に社会派気取って嘆くふりするより、こういった彼らの方が、よっぽどサマになる。

7. I Bought Myself a Liarbird
 ぎくしゃくしたリズムとせわしない転調がめまぐるしい、とっ散らかった印象をとっ散らかったまま完パケにした、まことに「らしい」ポップ・チューン。デモ・ヴァージョンはジャジーなテイストとオルタナっぽさが相まって、これはこれでいいのだけど、もっとメリハリをつけていびつな感じを完成形としたのは、なかなかやるじゃん、アンディ。

8. Reign of Blows
 インチキなブルース・ハープがフィーチャーされているけど、全然ブルースっぽくない、しかもちゃんとしたロックでもない。ギターの音色もフレーズも確実にロックっぽいのだけど、どこかフェイクっぽい。
 こんな感じの曲をいくつかまとめてライブで聴いてみたかったけど、かなわぬ夢だったな。あ、いいよ、今さらやらなくたって。

9. You're the Wish You Are I Had
 『Help!』までのビートルズがそのまま成長したら、こんな感じになったんだろうな。彼らにしてはまともなビートルズ・リスペクトなギター・ポップ。単なるビート・ポップのアップデートではなく、ポスト・ニューウェイヴのフィルターを通しているため、メロディも古臭くなっていない。
 これもスタジオじゃなく、ライブで練り上げていたら臨場感がプラスされたのだろうけど。いや、それじゃ面白くないか。単なる二流のパワー・ポップで終わってしまう。

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10. I Remember the Sun
 中期ビートルズにがっつり寄せたサビのフレーズは、やっぱりコリンが手掛けたものだった。さすがに俺も、これくらいは判別がつく。
 アンディに比べればずっとまともで、端正な楽曲だけど、その辺はグループ内のバランスだよな。どっちも破天荒だったら、空中分解しちゃうし。

11. Train Running Low on Soul Coal
 最後はアンディ、リン・ドラムのスペックを最大限駆使して、騒々しい操車場のイメージ化に成功している。丁寧に重ねられたギターのフレーズ、やたら堂々としたヴォーカライズなど、この曲だけ聴けばコンテンポラリーなアプローチとして、うまくコーディネートすればヒットも夢じゃなかったはず。
 でもね、こういった曲に似合うビジュアルは、やっぱりボノやロバート・スミスなんだよな。おでこの広い丸眼鏡ヅラで歌われても、感情移入しづらいし、映えない。それもあって、あんまり露出したくなかったのかね。







なんとなく忘れられてるけど、実はラスト・アルバム。 - Steely Dan 『Everything Must Go』

folder 2003年リリース、ウォルター・ベッカー最後の参加作として、またスティーリー・ダンとしても事実上のラスト・アルバム。リリース当時はみな「これが最後」と思うはずもなく、それもあってか、前作『Two Against Nature』ほどの注目を集めることはなかった。
 「20年ぶりの復活作」という触れ込みで、大々的にプロモーション攻勢がかけられ、本国USではプラチナ獲得、加えてグラミー授賞というオマケもついた前作と比べて、『Everything Must Go』は影の薄いポジションに甘んじている。ベッカー逝去の際も、遺作であるにもかかわらず、圧倒的な『Aja』と『Gaucho』推しによって隅に追いやられ、いまだ地味な扱いである。
 US9位・UK21位というセールス実績は、決して低いものではないのだけれど、世間的には「記録」よりは「記憶」、加えて累計売上でも圧倒的に末期2作のインパクトが強い。そんな2トップが、いわばダンの代名詞となっていることもあって、逆に言えば『Everything Must Go』だけが、不当な扱いを受けているわけではない。
 すごく乱暴な偏見で言い切ってしまうと、『Aja』『Gaucho』以外で知られているダンの作品といえば、せいぜい「Do it Again」くらいのもので、その他の作品の知名度は圧倒的に劣る。そんな俺も、「『Katy Lied』と『Royal Scam』、先にリリースされたのはどっち?」って聞かれたら、即答できない。答えられなくても誰も困らないので、別に覚える必要もない。

 末期ダンのエピソードとして語り継がれているのは、主にレコーディングにまつわるものが多い。終わりの見えぬリテイクの嵐、次々と首をすげ替えられるセッション・ミュージシャンたち、膨大に積み上げられたまま、手つかずの未編集テープ群。
 ミキサー卓の前を定位置として陣取り、OKテイクのテープを切っては貼り、繋いではやり直しの無限ループ。深い霞の奥に潜む最適解を求めて、フェイゲンとベッカー、そして実質「第3のメンバー」と称されたプロデューサー:ゲイリー・カッツらによって共有される、居心地の悪い沈黙。
 作品クオリティの追求のため、それらは必要不可欠な工程ではあれど、その積み重ねは確実に強いストレスを生む。膠着した人間関係は次第に崩壊の過程をたどり、そしてほんの僅かな綻びから「パンッ」と弾ける。
 発展的解消とはお世辞にも言えぬ、グダグダのフェード・アウトを迎え、ちゃんとした公式声明もなく、スティーリー・ダンはその幕を閉じた。ここまでが、いわば第1期。

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 数々の歴史的名盤を生み出す代償として、ベッカーは重度のアルコール中毒を病み、フェイゲンもまたプライベートな問題を抱え、再び腰を上げるまでには、およそ10年の歳月が必要だった。ソロ・アルバム『Kamakiriad』制作のため、フェイゲンがベッカーに声をかけることでタッグが復活し、そのままダン再結成へとプロジェクトは移行する。
 ただ大方の予想と大きくはずれ、再結成ダンはライブ活動からスタートした。一度聞いただけでは、ちょっとなに言ってるかわかんない、ぶっ飛んだ近未来的コンセプト・アルバム『Kamakiriad』でウォーミング・アップを済ませ、「次はいよいよ、ダン名義の本格的なスタジオ作品か?」と誰もが思っていたにもかかわらず、まったく音沙汰なしだった。
 80年代に入ってから顕著となった、往年のグループの再結成といえば、その多くはレコード会社主導でコーディネートされたものだった。グループ解散後、パッとしないアーティスト側と、ある程度、評価の定まった銘柄に投資したいレコード会社側、双方の思惑をすり合わせるため、有象無象の自称コーディネーターやブローカーが暗躍した時代である。
 大々的にグループ復活を謳い、ニュー・アルバムをリリースしてワールド・ツアー、勢いの冷めやらぬうちにライブ・アルバムかビデオのリリース―、ここまでが一連の流れだった。こういったシステムを作ったのは、多分ストーンズが最初だったと思う。
 ダンの場合、どの段階からエージェントが絡んだのか、またレコード会社のA&Rが接触してきたのかは不明だけど、アルバム制作をスタートとしなかったことは、結果的に正解だった。フェイゲン主導の『Kamakiriad』ならまだしも、正式な再結成アナウンスを経てニュー・アルバム制作ともなれば、あの終わりなきスタジオ・ワークが繰り返されることは目に見えていた。

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 結果的に再結成のプロローグという位置づけとなった『Kamakiriad』を経て、フェイゲンとベッカーはスタジオを後にすると、その後しばらく欧米を中心にマイペースなライブ活動を続けた。単発のシングル・リリースもなければ、スタジオ入りした情報もなく、彼らはひたすらアリーナ・クラスの大会場を小まめに回り、そして多くの収益を得た。
 活動再開を喜んだ世界中のファンは、「きっと」「近い将来」リリースされる「であろう」新生スティーリー・ダンのニュー・アルバムを、首を長くして待ち望んだ。そんなファンの心境を知らぬはずはないのに、彼らは我関せずといった風にステージに立ち続け、スタジオ入りするのを先延ばしにした。
 音源リリースを前提としない再結成は、彼らの心理的負担やプレッシャーの軽減に大きく作用した。彼らの立場に立ってみれば、緻密にこだわり抜いた渾身のスタジオ作品で酷評されるよりは、すでに確立したネーム・バリューをぶら下げて、世界各地で喝采を浴びる方を選ぶに決まってる。往々にして再結成アルバムというのは、リスクが高いのだ。
 思えば『Gaucho』も『Aja』も、アナログ・レコーディング技術が頂点に達した時代の産物である。アーティスト単体だけではなく、ゲイリー・カッツを始めとした制作チーム、そして優秀なプレイヤーをふんだんに使うことができる環境。それらすべてのタイミングが奇跡的にシンクロしたことによって、作品クオリティとして結実した。
 いくら新:ダンの期待値が高く、それなりのバジェットが組まれていたとしても、20年前と同じ環境は望むべくもない。アナログ・レコーディング可能なスタジオ自体がほとんど残されていないし、もし仮にあったとしても、以前と同じメソッドで作業できるほどの時間も予算もない。
 かといって、ライブのテンションで一発録り強行するタイプの音楽性でもない。作業効率を重視して、従来の生音セッションからプロトゥールスへ移行するのも、またちょっと違うし。
 ていうか、それって、もうスティーリー・ダンじゃなくなるし。

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 そんな試行錯誤があったのかどうかは不明だけど、新:ダンはなかなか新作アルバムに取りかかる気配を見せなかった。2人とも壮年に差し掛かり、かつてのような集中力を維持することが困難になってきたこと、報われることの少ないスタジオ・ワークより、1日2時間前後のステージで喝采を浴びる方が、精神衛生上のメリットが大きかった。
 かつて創造に注いでいた労力は、アーカイブの忠実な再現に向けられた。テイク3のギター・ソロの3小節目を、テイク21と継ぎ直しては戻したり、といった悶々とした作業より、イントロだけでオーディエンスが狂喜乱舞する「Hey Nineteen」のライブ演奏の方が、彼らとしてはカタルシスを得ることができた。
 そんな風に自然に培われたバンド・グルーヴとアンサンブルの妙が徐々にバンド内のテンションを上げ、その時点での新:ダンのマイルストーンとして制作されたのが、『Two Against Nature』だった。曲ごとにセッション・ミュージシャンを取っ替え引っ替えし、無数のテイクから数フレーズだけ抜き出して張り合わせる、言ってしまえば非効率的だった既存の手法を取らず、固定メンバーによるコンパクトなセッションを、あまりいじらずにまとめることで、平均的に高いクオリティの演奏となっている。
 『Two Against Nature』と『Everything Must Go』に共通しているのは、プレイヤビリティの尊重であり、返して言えば、旧:ダン3トップ独裁体制の崩壊である。旧:ダン・サウンドのコンセプト面を司っていた、フェイゲン:ベッカー:カッツのエゴは大きく後退し、各プレイヤーによる自由な解釈に委ねられているパートも多い。
 旧:ダンの魅力のひとつだった、アンチ・ポピュラーなコード進行や、無国籍性・時代性を超越したサウンド・アプローチは不変だけど、偏執的なアーティスト・エゴやパーソナリティは薄められている。末期2作がカスタム・オーダーメイドとすれば、新:ダンによる2作は、「忠実に再現された汎用タイプ」と例えれば、何となく理解してくれるんじゃないかと思われる。

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 手を抜くわけでなく、時代のニーズに応じつつクオリティも維持しつつとなれば、この手法が新:ダンの最適解だった、と今にして思う。順列組み合わせを目的としたマテリアル収集でしかなかった旧:ダンのバンド・セッションを経て、新:ダンで得たバンドの一体感は、スタジオ仙人と揶揄されていたフェイゲン:ベッカー両名にとって、新鮮な体験だった。
 長い長いキャリアを経て、やっと居心地の良い環境を獲得したことでテンション上がっちゃったのか、『Everything Must Go』は前作からわずか3年のインターバルでリリースされた。この間にワールド・ツアーを敢行し、さらにその合間を縫って、数々の取材やらイベントやらも出席しているので、ベテラン・バンドとしては驚異的なハイ・ペースである。
 内容的には『Two Against Nature』の続編のようなもので、正直、そんなに大差はない。この2枚のトラックをシャッフルして聴いても、多分、気づく人はそんなにいないはず。
 際立つほどキャッチーなキラー・チューンや、迫真のインプロビゼーションが収録されているわけではないけど、プレイヤー側がそんなに気負ってないこともあって、聴く側としても気楽に聴くことができる。ムダをそぎ落としてゆくのではなく、最初からある程度の帰結点を想定して形作られているので、コスパ的にも優秀である。
 いい意味でシステム化された新:ダンのレコーディング・プロセスの確立によって、その後もコンスタントにスタジオ新録アルバムがリリースされるのでは、とファンの期待はふくらんだ。今さら「Peg」「Black Cow」クラスの楽曲は望むべくもないけど、少なくとも大コケする作品を作ることもないだろう。3割程度の打率でコツコツ続けてもらえれば、それでもう充分だ。

 ―と思っていたのだけど、これ以降、フェイゲンとベッカーが揃ってスタジオに入ることはなかった。もしかしてリハーサルくらいはやってたかもしれないけど、世に出せるほどの作品を生み出すには至らなかった。
 そして、それはもう2度と巡ってこなかった。





1. The Last Mall
 アタック音の強いドライな質感のドラミングを得意とするキース・カーロックがグルーヴ・マスターを務め、それに引っ張られてかフェイゲンのヴォーカルも力強い。まぁ声は出ている。
 やたらフィーチャーされるベッカーのギター・プレイは賛否両論あるけど、俺的にはあんまり好きじゃない。手数は多いんだけど、あんまり印象に残らないというか、旧:ダンのプレイをなぞってるだけっていうか。
 逆に言えば、他のパートはきちんと仕事をしている印象。あ、そんな役回りなのか、ベッカー。

2. Things I Miss the Most
 ブルース・ベースのギター・プレイがやっぱウザい、それでもヴォーカル的にはアルバム中ベストの仕上がりという、何とも評価しづらいナンバー。わかりやすいダン流メロディなので、旧:ダン信者にも評判は良さそうだけど、「それならオリジナル聴いた方がいいや」という意見はちょっとひねくれ過ぎ。

3. Blues Beach
 ピアノ・パートが大きくフィーチャーされ、対してベッカーの存在感は薄いので、その分、「らしさ」が強く浮き出たシングル・カット・チューン。今さらシングル・ヒットを狙うとは思えないけど、ちょっとはキャッチ―な面を意識したんだろうな。でも、もっとソリッドに仕上げてもよかったんじゃね?付け足したような女性ヴォーカルのパートは、あんまりグッと来ない。

4. Godwhacker
 やや不穏な香りの漂う16ビート。ここまでと風合いの違う、それでいて新機軸の兆しも窺えるダン特有の世界観。ちょっとファンク・テイストが強めのダン楽曲が好きな俺としては、このアルバム中のベスト・トラック。恐らく、同じ想いのファンも多いんじゃないかと思われ。



5. Slang of Ages
 ここに来て、ベッカーによるヴォーカル曲。ここまで強引なベッカー推しは、一体なにがあった。どこかのレビューで「リンゴ・スターっぽい」というコメントを見たけど、そこまで味があるわけではない。でも、なんかクセになる。そんな声質。そして歌い方。
 でもこれ、別にフェイゲンが歌っても別に良かったんじゃね?といつも思う。ホーン・セクションも健闘してはいるんだけど、やっぱブレッカー兄弟と比べちゃうと、見劣りしちゃうのは致し方ないか。

6. Green Book
 ここまでやたらベッカー推し、ソロイスト推しなアレンジが多かったけど、ここに来てやっとバンドらしいグルーヴが堪能できるナンバーの登場。ちょっとフェイゲン・ソロっぽさが強いけど、鍵盤のアレンジ・センスなんかはまだまだ衰え知らず。
 足したり引いたりするのではなく、あるべき音を最小限に置くことができるのは、彼ならでは。



7. Pixeleen
 「FM」のベーシック・トラックのピッチをちょっぴり上げて、キャロリン・レオンハートとデュエットすると、こんな感じに仕上がる。R&Bでもスムース・ジャズでもない、スティーリー・ダンとしか形容しがたいオリジナリティ。ヒットの方程式からははずれているけど、やっぱ俺、この世界観は大好きなことに今さらながら気づいた。

8. Lunch with Gina
 彼らにしてはスタジオ・セッション感を強く打ち出したトラック。軽快な16ビート、ホーン・プレイに肉薄したフェイゲンのシンセ・ソロ、各パートが隙あらばぶっ込んでくるアドリブ・パートなど、やたらバッキングの聴きどころが多い。この辺は新:ダンの可能性が見られる。

9. Everything Must Go
 「閉店売り尽くし」という意味を持つ、タイトル・チューンにしてラスト・トラック。Walt Weiskopf(t.sax)によるジャジー・ソロに続き、漂白脱臭されたスロウ・ブルースからは、感傷的な香りが漂う。
 リズム・アプローチにひねりがないためか、凡庸なAORに聴こえてしまうけど、この後の沈黙を思えば、それもまだ許せるか。ていうか、ダン・ナンバーを素直にストレートに解釈して演奏すると、こんな感じになっちゃうんだな。
 多くのフォロワーが求めて得難いモノ、それが彼らの持つオリジナリティ、「毒」であるのか。






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北海道の中途半端な田舎に住むアラフィフ男。不定期で音楽ブログ『俺の好きなアルバムたち』更新中。今年は久しぶりに古本屋めぐりにハマってるところ。
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