好きなアルバムを自分勝手にダラダラ語る、そんなユルいコンセプトのブログです。

#Pop : Japan

これもひとつのハッピー・エンド - 高橋幸宏 『Life Time, Happy Time 幸福の調子』

folder 1992年のYMO再生プロジェクトは、あの伝説となった記者会見でひとつのピークを迎え、その後、緩やかな下降線をたどっていった。間もなくリリースされたアルバム『テクノドン』はそれなりのセールスを上げはしたけど、一般的に強く印象に残っているのは、豪奢な棺に収められた姿であり、やる気があるのかないのか微妙なリアクションの「モジモジくん」のコントだった。なので、当時の音楽シーンに多大な影響を与えた感は、まったくなかった。
 業界総出で盛り上げられた、そりゃもう空前の前評判に煽られて、一応、即買いしたはいいけど、なんかピンと来なくて2、3回聴いただけで、速攻売り払ってしまった『テクノドン』。近年になってアナログ再発されたこともあって、再評価の機運を盛り上げるムードが高まりつつあって―、と途中まで書いてみたけど、いやないな。
 CDバブル華やかなりし90年代までと違って、音楽メディアや業界が扇動しても、マーケットはそれほど簡単に動かなくなった。YMOの評価や歴史的位置づけが、そこそこ固まってしまった現在、「往年のファンに向けての高額ノベルティ」といったエクスキューズ以外、ニーズはそんなにないんじゃないかと思われる。
 かつて創造したテクノ・ポップというイディオムを引き継がず、果敢に現在進行形のテクノを取り込んでいたのは、強い攻めの姿勢のあらわれだと思っていたのだけど、その後の各メンバーの発言やコメントからすると、どうもそんな感じでもないっぽい。彼らが自発的に、抑えきれぬ表現衝動に突き動かされて発動したプロジェクトではなかったこともあって、消化不良と妥協と齟齬の積み重ねが、全体に暗い影を落としている。
 3人が3人とも、プレイヤーとしてコンポーザーとして、それぞれピンで成立しちゃっているので、フワッとしたお題がひとつあれば、チャチャッと1トラック仕上げてしまうのは、お茶の子さいさいである。極端な話、ザックリしたアイディアやフレーズをメンバーに伝え、あとはスタジオでいじくり回せば、それなりに形になってしまう。出来はどうであれ。
 YMOというユニットは、カッチリした民主制でもなければ、絶対的カリスマによる独裁制でもない。一応、年長者であり、言い出しっぺでもある細野さんがリーダーではあるけれど、音楽的なイニシアチブを完全掌握しているわけでもない。
 「細野さん」≠「教授」という、微妙に位相のズレたカリスマ2人の緩衝役として、「両者のパワー・バランス調整に神経をすり減らし、それでいて案外、そんな役回りが性に合っている幸宏」という相関関係が奇跡的に釣り合っていたのが、散開前までのYMOだったと言える。そんな張りつめたテンションの緩急具合は、時に『テクノデリック』、時に「トリオ・ザ・テクノ」といった風に、大きな振り幅を描いていた。
 ただ、そんな緊張緩和が永続的に続くはずもない。細くしなやかな糸も、次第に擦り減ってゆく。
 無理やり結び直したとしても、かつてのしなやかさを取り戻すことはない。そう考えると、再生YMOに大きな「バッテン」がついたのも、納得がゆく。

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 それなりのキャリアや実績を築いたバンドが解散すると、1人くらいはソロ活動がうまく行かなかったり、表舞台から消えたりするものだけど、YMOはその轍を踏まなかった稀有な例である。セールス的に大きな成果を上げることはなかったけれど、3人とも新レーベルを立ち上げたり海外アーティストとのコラボがあったりで、クリエイティブ面ではむしろYMO時代よりアクティブだった。
 3人が3人とも、「元YMO」という肩書きを振りかざすこともなければ、真っ向から否定することもなかったけれど、それまで築いた過去の業績は、未来のキャリア形成において、確実に有利に働いた。客観的に見て、新たなプロジェクトやレコード会社の移籍話ひとつ取っても、「元YMO」というブランドは、3人にとって都合の良い方向に作用したことは明らかである。下世話な話、企画書に彼らの名前があると、予算は確実に一桁違ってくる。
 散開後、真っ先に行動を起こしたのが教授だった。ていうか、もともとバンド活動に理想を求めないノマド体質だったからして、逆にYMOで5年も続いたこと自体、奇跡だった。
 映画『ラスト・エンペラー』サントラでアカデミー賞ゲット後、名実ともに「世界のサカモト」となり、現代音楽からハウスまで、はたまたイギー・ポップからユッスー・ンドゥールまで、興味が湧けば手当たり次第、あらゆる音楽性を貪り、未知の音楽への経験値を上げていった。
 細野さんは細野さんで、『銀河鉄道の夜』のサントラや、松田聖子・中森明菜への楽曲提供といった、比較的コンテンポラリーな路線と並行して、「ノン・スタンダード」と「モナド」2つの新レーベルを立ち上げ、若手アーティストの育成やプライベートな色彩の作品を発表していた。ゼビウスの音源をベースとしたメタ=テクノ・ポップ的なアルバム・リリースの傍ら、「セックス・マシーン」のカバーでJBと共演したり、実は3人の中で最も振り幅の大きい活動をしていたのが、細野さんである。
 2人ともザックリ要約しちゃったけど、深く知りたい人は自分で調べてね。細かく拾ってくと、めちゃめちゃ長文になるし、ていうか、本題とは大きくズレる。

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 で、幸宏。
 良い言い方で天衣無縫、悪く言っちゃえば傲慢この上ない2人のカリスマの板挟みに合って、文字通り、身も心もすり減らしたのが彼だった。橋渡し役と言えば聞こえはいいけど、体のいいサンドバッグみたいなもので、5年に渡るジャブの応酬は、確実に彼の精神を蝕んだ。
 基本、控えめで自分の意見をゴリ押しせず、なんとなく気心の知れたメンツを中心に、ほどほどの距離感を保つのが、いわば彼の処世術だった。これは何も幸宏だけではなく、当時の東京人の特性と共通する。
 身ひとつで田舎から上京してきた地方出身者と違い、都内が実家なら、そんなに生活の心配もいらない。ていうか、都内が実家で学生時代からバンド活動ができるというのは、つまりはそういうことである。
 楽器が買えて大きな音で演奏できる環境は、中高校生が努力して得られるものではない。医者や経営者、または大地主の子息による、同じ趣味を持った緩やかなコミュニティからの派生で、日本のミュージック・シーンの一面は形成されていった。
 カリスマティックなコンポーザー:加藤和彦が多くを仕切っていたミカ・バンド時代の幸宏は、いわばバンドの1ピースに過ぎなかった。強く進言することもなく、与えられた役割をきっちりこなす。
 バンドと違うコンセプトでやりたいのなら、ソロでやればいい。自分から事を荒立てるのは好きじゃないし、意見をゴリ押しするのは、ちょっと気恥ずかしい。
 そんなゆるく穏やかな東京人が集うコミュニティにも、異彩を放つ者がいないわけではない。ちょっと違う感性・違う見方をする者は、時に孤立し、時に同好の士として意気投合したりする。
 そんなカリスマを2人も抱えていたのが、YMOだった。当時から何を考えているのかわからないけど、先見の明はズバ抜けていた、ミステリアスな細野さんと、同じく何を考えているのかわからないけど、理屈っぽくてエゴの強い教授。
 当時から洒脱なセンスと育ちの良さが際立っていた幸宏もまた、一般人の視点からすれば、充分カリスマティックではあるのだけれど、この2人に比べれば、キャラの強さはちょっと落ちる。ていうか、一歩引いちゃうんだよな。
 周辺スタッフからすれば、最も聞き分け良さそうな幸宏に進言することが多くなり、バンドの調整弁とならざるを得ない。四方八方丸く収めなくちゃ、という気持ちが先立ってしまい、自分のことは後回しになってしまう。
 あくせくせず、飄々とした表情の裏は、常に泣き顔だった。YMOで得たポジションや収益の代償は、それなりに高くついたという事なのだろう。
 YMOから解放されてからは心機一転、テント・レーベルを立ち上げたり映画で主演したみたり、あれこれ手を尽くしたけど、どれも消化不良気味で終わっている。密度の濃い5年間をリセットするには、やはり同程度の歳月が必要だったのだ。

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 EMI移籍第1弾としてリリースされた『Ego』にて、それまでの膿をある程度出し切ることに成功し、幸宏はのちに「恋愛3部作」と称されるコンテンポラリー寄りの作品群に着手することになる。
 神経症が完治したわけではない。ただ、病との向き合い方、無理せず長く付き合ってゆく心づもりを体得した、という事なのだろう。大きな意味で、人はそれを「大人になった」と呼ぶ。
 鬱屈した想いを主観で吐露するのではなく、客観で語る。大局的な視点とは、突き詰めれば神同然になってしまうけど、そこまで大袈裟なものではない。
 もっと地に足のついた、古典的なストーリーを軸とした、傷つき、疲れ切った大人の男を主人公としたメタ・フィクション。ハッピー・エンドで終わるとは限らない、迷走なら迷走のまま、なんとなく終着点の見えてしまったコスモポリタンへ向けた自虐、そして、ささやかなエール。
 ごく普通のラブ・ストーリーのフォーマットを用いながら、きちんと言葉を追うと、聴いた後にほのかな苦味が残る。陳腐な言葉と物語でお茶を濁さず、それでいて広範な大衆性を意識できる存在として、EMIにとって高橋幸宏は理想の素材だったと言える。
 恋愛3部作は玉置浩二をロール・モデルとしており、意識してそっち方面へ寄せるよう心がけていた、という発言が残っている。そこに加えて、徳永英明や小田和正のエッセンスも入れたんじゃないかと思われる。
 要は都会的センスを持ち合わせた男性アーティスト全般、東京または地方中核都市で、仕事にプライベートに充実した、または充実させたいと願っているホワイト・カラーをターゲットにしたマーケティング戦略に則っている。

 で、何を言いたいのかというと、この時期の幸宏もまた、ポスト・ユーミン戦略の一環だったんじゃないか、と。EMIに限らず、当時のレコード会社はユーミンの対抗馬作りを模索していた。
 岡村孝子はそこそこ成長株だったはずなのだけど、絶対神:ユーミンの前では屈せざるを得なかった。杏里や今井美樹も、作品クオリティ的には健闘したのだけど、初回出荷でミリオン叩き出しちゃう力技に対抗できる術を持たなかった。
 難攻不落のユーミン一強体制に一矢でも報いるため、各メーカーはあらゆる手段を講じていた。真っ向勝負で新進女性アーティストをぶつけるのと並行して、同傾向の男性アーティストもまた、それまでのキャリアとはちょっぴり意匠を変えて、ポスト・ユーミンとしてコーディネートされた。
 リスクマネジメントの視点で言えば、この戦略はそのままEMIにも当てはまってくる。ユーミン無双が「永続的なものではない」と仮定すると、やはりポスト・ユーミンの存在は必要となってくるし、むしろその可能性は高くなる。
 EMI内におけるポスト・ユーミン戦略の中で、大人目線から恋愛教を語れる男性アーティストとなると、確かに幸宏が適任だったと思われる。当時の所属アーティスト・ラインナップを振り返ってみると、元BOOWY2名とYAZAWA、あとはRCと、ロック勢が多くを占め、ポップス系でセールスを見込めそうな者が、いそうで案外いなかった。
 単発のプロジェクトでは世間への浸透力が薄いため、コンスタントに3枚続けて同コンセプトのアルバムを制作したのも、そう考えれば納得がゆく。もともとセンチメンタリズムを持ち合わせていた人なので、その部分をクローズアップして大衆向けにコーディネートした、というのが正確な言い方だけど。

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 大人の「痛い恋愛」路線も軌道に乗り、そこそこタイアップも取れてセールス的にも安定した、とされているのが、この時期の幸宏である。EMIが目論んでいたほどのビッグ・セールスには及ばなかったけど、変に気負わず無理をせず、都会を生きるホワイト・カラーを対象とした戦略は、幸宏自身のメンタル・ケアにも幾分か作用した。
 鬱の人に「ガンバレ」と声をかけるのが逆効果であるように、幸宏もまた、声高に励ましたり、背中を押すわけではない。時にネガティブに呟きながら、「ダメだなぁ僕」と肩を落とす。
 共感を押しつけたりはしないけど、その姿・スタイル・生き方は、思わぬところから共感を呼ぶ。癒し成分の多い幸宏の声質は、そういう意味ではかなり得をしている。
 ―時々、すべてを投げ出して、リセットしたい衝動に駆られる。でも、そこへ一歩踏み出す勇気なんてない。今の自分の置かれた環境・ポジションに折り合いをつけて、どうにか1日を乗り切って行くしかないのだ。
 あまり展望の見えぬ生き方ではあるけれど、でも後ろ向きではない。そこに踏みとどまっているうちは、まだ後退ではないのだ。





1. 元気ならうれしいね
 アルバム発売前に先行リリースされたリード・シングル。クノール・カップスープCMとのタイアップが話題となって、オリコン最高82位。あれ、思ってたより全然低いな。ただ、1992年当時のシングル・セールスは、10位までがミリオン超えなので、そう考えると決して低い数字ではない。まぁEMIの皮算用は大きくはずれちゃったけど。
 なので、幸宏のことを詳しく知らなくても、聴いたことある人は案外多いんじゃないかと思われる。当時の牧瀬里穂が凛々しくて可愛くて、その辺の印象が強い名CMでもあった。
 デジタル臭の薄い、跳ねたリズム・パターンを基調に、オーガニックなアコースティック・テイストでまとめられたサウンドをバックに、緩い脱力感のヴォーカルの幸宏。思えば、この辺から再生YMO関連で周囲がざわついていた頃だから、こういった肩の力が抜けるセッションは、精神衛生のバランス的にも作用していたんじゃないかと思われる。

 人が言うほど 僕は不幸じゃない
 こんなに君のこと 想えるから

 ホンワカしたメロディに載せて、サラッと重い心情吐露してしまうのが、やはり幸宏の持ち味。つい自己投影してしまうアラサー男子の穏やかな叫びを代弁してしまっている。
 「愛はちょっと 不思議なんだ」で締めるところに、ほんの少しの救いを感じさせる。



2. 男において
 で、この時期の幸宏の代弁者、または「もう一人の幸宏」と言い切っちゃっていい存在だったのが、鈴木慶一。当時、ムーンライダーズもEMI所属であったため、かなり密な間柄だった。
 互いに近づくことによって、互いの精神状態も侵食し合って、特に慶一の言葉は才気走っていた。ズバッと本質をえぐり出すわけじゃないけど、ジワジワ傷口を広げ蝕んでゆく、それでいてクセになってしまう遅効性の刺激は、多くのアラサー男子を悶絶させた。
 ステレオタイプの「男」を演じるため、いろいろ失ってきた。「こうであるべき」なんてのに意味はないのに、体面やしがらみなんかを考えると、「男」であることは楽ではある。
 ただ、そんな自分が時折、とても窮屈で泣き出したくなってくる。もう少し勇気があって、もっと素直になったら、自分自身も、そして、君も好きになれるかもしれない。
 ユーミンなら、同じ主題を流麗な比喩やプロットで飾り立てるけど、慶一はシンプルな言葉に重層的な意味を込める。その辺が最大公約数じゃないんだよな。俺は好きだけど。

3. 素敵な人
 アルバムと同時リリースされた、2枚目のシングル・カット。オリコン最高74位と、あれ、1.よりチャート・アクションいいんだ。ラジオではちょっと流れてたかもしれないけど、タイアップもないので、あまり印象に残っていない。
 ピリッとしたスパイスは効いているけど、おおむねコンテンポラリー・サウンドの枠をはみ出ない、そんな職人:森雪之丞による大人のラブ・ソング。

 夢は風になって 明日は今日になって
 人を好きになって、君は君になった

 慶一が書くと、もう少し陰影がつくのだけど、ちょっと刺激が強すぎる。ある程度のセールを見込むのなら、この程度の文学性が行き渡りやすい。

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4. Follow You Down
 海外ドラマ『Friends』の挿入歌でおなじみ、アメリカのポップ・デュオ:レンブランツのカバー。って書いてみたけど、彼らの存在知らなかったし、しかも海外ドラマちゃんと見たことないしで、俺にとっては未知の存在だった。
 なので、オリジナルをYouTubeで聴いてみたのだけど、ほぼまるっきり同じアレンジだった。アレンジもリズムも特別ひねりがなく、違いといえばヴォーカルくらい。当たり前か。
 なので、純粋に「歌ってみた」かったんだろうな。この人の洋楽カバーは、大抵ストレートなアプローチなので、特段珍しいことではない。
 
5. Good Days、Bad Days
 アルバム・ジャケットのポートレイトにて、玄関の掃き掃除の手を止めて、虚空を見つめる幸宏。そんな彼がつぶやくように、かつ丁寧に言葉を紡ぐ。

 砂の国の争いや 汚れた星を嘆くけど
 僕には 君さえ救えない

 悩み過ぎて拗れすぎて、あらぬ方向まで想いが巡ってしまうけど、大事なことは、いつもすぐそこにあるんだ。ていうか、足元さえおぼつかない者が、どうして世界を、そして愛する女を救うことができる?
 でも、僕には空を見上げ、涙をこぼすことくらいしかできない。情けない男の真骨頂が、ここにある。刺さるよなぁ。

6. Fathers
 亡き父親へのストレートな憧憬と思慕が交差する、まっとうな男のラブ・ソング。酸いも甘いも孤独も葛藤もすべて飲み込んで、常に動ぜず変わらぬ横顔を見せる父の面影。
 こういう歌を正面切って歌えるようになったこと、それはやはり「大人になる」ということなのだろう。

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7. Pursuit Of Happiness
 アルファ時代を思わせる、全篇英語詞のドライな質感だな、と思っていたら、作詞はステーィヴ・ジャンセン。幸宏が声をかけると、すぐ馳せ参じちゃうジャンセン。美しき師弟愛だよな。
 ちなみにこの時期のジャンセン、Japan解散後は、元メンバーとくっついたり離れたりを繰り返していたけど、遂にフロントマンであり、同時に実兄であるデヴィッド・シルヴィアンの説得に成功し、再結成Japan(なんやかや諸般の事情があってRain Tree Crowに名称変更)始動となるのだけど、始まった途端にまたなんやかやあって、アルバム1枚で活動停止、ちょっとへこんでいた頃である。
 それぞれ経緯は違うけど、師匠・弟子とも、近い時期に再結成騒動に巻き込まれていた、というオチ。あそこの兄も、何かとめんどくさそうだもんな。同時期にロバート・フリップともつるんでたし。

8. Happy Children
 何となくスタジオで空き時間ができて、何となく機材いじってたら、面白い音があったんでループさせて、あれこれいじくり回してたら案外出来がよかったんで、ならマンドリンも入れちゃえ、ってな感じで仕上がっちゃった曲。タイトル通り、ゆったり和んでしまうサウンドなので、最適なインタールード。

9. MIS
 はるばる大英帝国から駆け付けたスティーヴ・ジャンセンに対抗意識を燃やしたのかどうかは知らないけど、日本からの門下生代表:高野寛とのコラボ。クラフトワークを意識したこともあって、まんまテクノ・ポップ。
 こじれて屈折した恋愛観が描かれた歌詞は、オーソドックスなラブ・ソングのような歌い方では合わず、強いエフェクトをかけたドライな質感が似合う。皮肉の強い言葉の端々に、ストレスが見え隠れする。

10. しあわせになろうよ
 幸せにするから「ついて来いよ」と言うのではなく、「だから許してよ」と言ってしまうのが、やはり幸宏流。でも、言えるだけまだいい。泣いて時をやり過ごすだけのアラサー男子は、斜に構えず、一歩踏み出すことも大事だよ、と教えてくれた曲。
 もう少し力強さを加えたらヒットするんだろうけど、でもそれじゃ長渕みたいになっちゃうか。

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11. 幸福の調子
 ラストは、アルバムのサブ・タイトルとなったミディアム・バラード。ここまで慶一と森雪之丞に手伝ってもらっていた歌詞も、ここは単独クレジットとなっている。
 アルバム全体に通底したテーマという想いがあったのか、平易な言葉をストレートに、無理に技巧を凝らしたり比喩を織り交ぜたりすることもない、純粋なメッセージ。誰かに押し付けたりすることもなく、無理な共感を得ようともしないけど、でもちょっとは気づいてほしい。
 すごく自分を卑下しているかのような口振りだけど、「そんなことないよ」と言ってあげたい。そしてまた、言ってもらいたい。
 でも、誰でもいいわけじゃない。そんな風に思ってもらいたいのは君なんだ、と。
 いくつになっても、頭ポンポンされたい気持ち。そんなのは、誰だってある。表立って言えないけどね。






初期PSY・Sの歌詞について。 - PSY・S 『PIC-NIC』

folder 1985年当時、最新鋭のマシン・スペックを誇ったフェアライトCMIを武器に、日本のテクノ・ポップ界の片隅でひっそりリリースされたデビュー作『Different View』から1年強、『テッチー』や『What’s IN?』界隈でちょっと盛り上がりを見せた、2枚目のオリジナル・アルバム。プロデュースは前回同様、ムーンライダーズ:岡田徹と松浦雅也の共同名義、参加ミュージシャンもほぼ同じなので、いわば姉妹作的な位置づけである。
 『Different View』が、デビュー以前に書き溜めたストック曲中心だったのに対し、『PIC-NIC』は新たに書き下ろした曲ばかりなので、若干マスを意識したメロディ・ラインが多くなっている。CMタイアップが2曲含まれていることもあって、「おもちゃ箱をひっくり返した」ような雑多なサウンド・アプローチは、大衆に分かりやすい「ピコピコ・テクノ」の要素を含んでいたりする。
 YMO散開からすでに久しく、MIDI機材の劇的な進歩に伴い、露骨にピコピコしたモノフォニック・シンセの音色を聴くことは少なくなった。良質なFM音源の台頭によって、生楽器とのギャップが少なくなりつつあった中、初期のPSY・Sは古き良きテクノ・ポップを継承したユニットだった。
 超絶テクニックやバンド・グルーヴでカタルシスを得る、一般的なミュージシャンと違って、松浦はロジックの積み重ねによって快感を得るタイプだった。ジャストなリズムをミリセコンド単位でシミュレートし、パラメーター調整に一喜一憂する、言ってしまえば「ディープなシンセおたく」が、当時の松浦のパブリック・イメージだった。
 そこからストレートにシンセ道を極めてしまうと、クラフトワークや冨田勲方面に行ってしまい、挙句の果てにタンジェリン・ドリームや喜太郎の彼方に行き着いてしまい、そうなるともう帰還不能である。ただ借金してまで個人輸入でフェアライトを購入した松浦、実家が裕福でもなければ、太いパトロンがいるわけでもなかったため、日銭を稼いで減価償却してゆく必要があった。
 霞を食うような音楽では食ってくことすらままならないし、もともとそこまでスノッブでもない。自分のサウンド・ポリシーを歪曲させない程度のポピュラー・ミュージックと対峙し具現化するためには、ワンクッション置いた橋渡しの存在、創作意欲を掻き立てる触媒が必要だった。それが、チャカだった。
 彼女もまた、アマチュア時代はジャズ・ヴォーカル/ソウル・ファンク主体で、ポップスを歌うことはおろか、そもそも日本語で歌う経験が少なかった。互いに未知のジャンルである「ポップス」を共通言語とすることで、絶妙な化学反応への期待、またどっちへ転ぶか見当のつかないスリリングな体験が、接点のない2人を引き合わせた。

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 デビューから解散まで、ほぼ一貫してサウンドの特異性/変遷がクローズアップされていたPSY・Sは、歌詞について言及されることは少なかった。チャカがアルバム内で2、3曲手掛けることはあったけど、その多くは外注に頼っていた。
 ヴォーカリストであるチャカが作詞を手掛けるのが自然なはずだけど、彼女が書いた作品は案外少なく、ほぼ9割は外部作詞家へ委託している。作詞に興味を持てなかったのか、はたまた書いても書いても松浦がことごとくボツ扱いにしたのか。
 ジャズ・スタンダードやソウル・ナンバーを歌ってきた経歴から想像するに、歌いたい楽曲の解釈を深め、自分なりの色づけを施して発信することが、ヴォーカリスト:チャカのアイデンティティだった。楽曲にふさわしいアプローチやパフォーマンスをコーディネートするのと、一からクリエイティブするのとは、まったく別の工程である。
 初期のPSY・Sは、もっぱら松浦主導で楽曲制作やレコーディングが行なわれていたため、チャカのパーソナリティはそれほど強く打ち出されていない。ていうか、この時期のチャカは、限りなくフィーチャリングに近い形の正規メンバーであり、いわばお客様状態、当事者意識もそんなに感じられない。
 思うに、キッチュな音楽性が詰まっていた初期PSY・Sは、伸びしろがたっぷりあった反面、ブレイクする展望もまた未知数だった。同じベクトルを持っていた英国Yazooや日本のメニューに共通しているように、PSY・Sもまた短期間限定のユニットで終わってしまう可能性が強かった。
 メンバーのキャラクターや純粋な楽曲クオリティではなく、いわばフェアライトという飛び道具で注目を浴びたユニットだったため、当初は企画モノ臭が拭えなかったことは否定できない。こういったスタイル先行のユニットが、あまりブランクも空けずコンスタントに活動継続できたのは、実は地味にすごいことなのだ。
 これまでとはちょっと毛色の違うオファーに、興味本位で顔を出してみた、というのが、当時のチャカのスタンスだったと思われる。スタジオ・ブースからの指示に合わせて歌い、終わったら速攻帰宅、ミックスなんかは松浦にお任せ、ほぼ丸投げ。短命に終わる可能性もあったことから、当時からすでに、次のビジョンを考えていたのかもしれない。

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 初期2枚の作詞の多くを手掛けていたのは、ミュージシャン/作詞家/時々歯科医のサエキけんぞうだった。当時はインターンやパール兄弟立ち上げと重なって、サエキ自身も何かと忙しかったはずだけど、業界内からの評判の良さなりしがらみやら何やらで、うしろ髪ひかれ隊からPSY・Sまで、幅広い(っていうか手あたり次第)ジャンルの作詞提供を行なっている。
 大量生産型の陳腐なラブ・ストーリーを基調とした、既存の職業作家による言葉は、松浦の描く世界観と相性が合わなかった。ポストYMO/テクノを通過したサウンドに、古い文法で書かれた紋切り型のドラマツルギーは、一周時代を回った今なら、それはそれでネタとしてアリだけど、80年代当時は「ダサい」の一言で片づけられた。
 テクニックや語彙の豊富さには劣ってはいたけど、松浦やチャカと同じ空気を吸い、同じような音楽を聴いてきた同世代のサエキとは波長が合い、コンセプトの理解・意思疎通も互いにスムーズに運んだ。
 「普通でありながら普通じゃない」。そんなちょっと位相のズレた彼の世界観は、フェアライトのドライな質感とうまくシンクロした。ロック/ポップスではあまり使われることのないワードを用いながら、ありふれた日常や心象風景を語り、そこに生じる微妙なギャップや不条理感をすくい取るサエキのメソッドは、松浦に限らず、多くのポスト・パンク世代からの支持を得た。
 「新たなサウンドには、新たな言葉を―」。
 松浦がそう言ったのか、それとも岡田徹が言ったのかどうかは不明だけど、使い古されたドラマツルギーや大上段なメッセージを含まないサエキの言葉は、松浦のサウンド/チャカの声との相性が良かった。

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 『Different view』では、ほぼヴォーカルに専念していたチャカが唯一日本語で書いたのが、「私は流行、あなたは世間」。一節を抜き出してみる。

 色あせた ひとつぶの涙の
 残された意味もわからない間に
 脱ぎ捨てたコートの ポケットに
 いつの日か私も 消えてゆく

 強く印象に残るキャッチコピーを兼ねたタイトルに対して、描かれる情景はごく凡庸である。インパクトの強い言葉を使っているわけでもなければ、さして技巧を凝らしているわけでもない。
 ただ、デビュー前まで彼女が歌い続けてきたジャズやソウルのスタンダードの多くで、周りくどい比喩や表現は使われていない。目にした情景を素直に、想いを直截な言葉であらわすことは、彼女にとって自然な行為だった。
 自分で作り上げた歌詞の世界観に没入し過ぎず、精緻に組み上げられた松浦のデジタル・サウンドというフィルターを通すことで、適度な距離感が生まれる。作者の一方的な価値観を押し付けず、聴き手側の解釈を多様化させることで、多くのスタンダード・ナンバーは長く歌い聴き継がれる名曲となった。
 で、本業:パール兄弟/副業:作詞家/時々歯科医インターンであったサエキ。バンドで語る言葉と、オファーに応じて他人に語らせる言葉との境界線があるのかどうかは不明だけど、早い段階から自分なりの文法を確立してきた人である。もしかして、個性確立のため、相当な陰の努力をしていたのかもしれないけど、そんな素振りは見せず、サラッとやってのけてしまうのは、汗っぽさを嫌う彼ら世代の特徴なのかもしれない。
 初期PSY・Sの代表作とされる「Another Diary」で、サエキはチャカにこう語らせている。

 ドーナツ色の瞳で
 ブランコに揺られてるあのころ
 思わぬ告白に クシャミして始まる
 恋の甘ずっぱい お伽噺は見せられない

 こうやって文章にすると、ベタなアイドル・ソングそのまんまではある。もしかして、「うしろ髪ひかれ隊向けに書いた歌詞と間違って入稿しちゃったんじゃね?」と邪推してしまうけど、これがチャカによって歌われると、ピタッとハマる不思議。
 おニャン子クラブが「ドーナツ色の瞳」と歌うとツッコミどころ満載だけど、松浦のサウンドでチャカが同じ言葉を歌うと…、まぁやっぱりヘンだけど、とっ散らかったテクノ・ポップというフィルターを通すと、「心地よい不条理」なんてものに変化する。やっぱイメージって大事だな。
 普通に歌うだけでレベル爆上げとなるチャカのヴォーカルに対比するように、敢えて隙間の多いシーケンス・ベースのデジタル・ポップを配置することで、ヴォーカル&インストゥルメンタルのコントラストがさらに際立つ。声とサウンド、その2つの要素で充分成立してしまっているので、歌詞は極力イメージ喚起優先に、バックグラウンドが透けて見えるドラマ性は余計となる。
 ―無機質でありながら有機的、ロジカルでありながらエモーショナル。
 それが、初期PSY・Sのざっくりしたコンセプトだった。
 言葉と音、そして声との強いキャラクターがうまく対峙しながら融和し、シンセ・ポップの進化を予見していたのが、『Different View』であり、その路線を確立したのが『PIC・NIC』だった。小さなコミューンで頭を寄せ合いながら作られたそのサウンドは、同世代のアーティストをも引き寄せ、そして少しずつ大きな輪となってゆく。





1. Woman・S
 コレでならどうだ!と言わんばかりの凝ったリズム・アレンジでスタートするパワー・ポップ。やはり初期だけあってサウンドの主張が強いけど、徐々にチャカのパーソナリティが前面に出てきている。
 ギターやベースの味付けは多少あるけど、「シンセ機材一台でここまでできるんだ」という見本市的なサウンド・プロダクションが、ちょっと前に出過ぎちゃってるのかね、いま聴いてみると。タテノリのリズム・パターンじゃなくて、ジャジーなヨコノリのテイストだったら、アシッド・ジャズのハシリという路線もあったんじゃないか、と今にして思う。



2. Everyday
 プロデューサーの岡田徹もそうだけど、窪田晴男(g)も安部王子(g)も、基本はロック畑の人のため、ソウル/ファンクの要素は基礎知識程度で、そこまで深く応用が利くわけではない。そう考えると、このセッションのメンツで唯一、ブラコン的な要素を持つのはチャカくらいで、そのパーソナリティが強く出ているのが、この曲。
 ここはやはり自分のフィールドと捉えたのか、ヴォーカルのノリがまず違う。そんな中でもハード・ロック的なギターがサンプリングされていたりして、遊びの部分がうまく抽出されている。「何でもありまっせ」的に全部詰め込むのではなく、こういったファンク風味に絞ったアレンジの方が、チャカのヴォーカルは活きる。

3. コペルニクス
 メランコリックな郷愁を誘う、そんなイントロとメロディに、やたらキレまくったギター・ソロをオフ気味にかぶせている、そんな対比が印象的なポップ・バラード。

 もしも誰かのセリフが
 癪にさわっているなら
 朝の寝ぼけたベッドで
 猫になってるその子と会いましょう

 比較的ひねりのない素直なメロディ・ラインに、こんな言葉を乗せてしまう、この頃のサエキの言語感覚の切れっぷり。疎外感とほのかな孤独、厭世観をサラッと軽く描き、さらに余計な感情を乗せずに歌いきってしまうチャカのヴォーカル。
 
 もしか言葉を持たずに
 生きてゆけたらどうする?
 すぐに夕焼け見ながら
 からだ寄せあい彼方に駈けてゆく

 単に突き放すのではなく、こんな前向きな逃げ道もちゃんと用意してくれる。単に自虐を嘆くのではないところが、ある一定の距離を置いた「言葉」へのリスペクトを感じさせる。

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4. Ready For Your Love
 恐らくデビュー前のプレイテックスのスタイルをモチーフとした、ファンク寄りのダンス・チューン。チャカのカウントで始まるヴァーチャル・セッション風のシンプルなダンス・ポップは聴いてて心地良いし、このアルバムの中では最も古びて聴こえないトラックでもある。
 要は松浦色が薄い=あんまりフェアライト見本市的なカラーが薄い、ということなのだけど、まぁチャカのソロだもんな、これじゃ。前述したように、もっとヴォーカルに艶を出せばアシッド・ジャズになるのだけど、そっち方面は行きたくなかったのかね。まぁ当時のソニーだから、ブラコン色は弱いのだけど。

5. BRAND-NEW MENU (Brand-New Folk Rock Version)
 セイコー腕時計ALBAのCMソングとして、当時テレビで耳にした人も多いはず。わかりやすいテクノ・ポップとして、万人向けに作られている。テレビで流れたシングル・ヴァージョンは、これでもかと言うくらいダメ押しのデジタルっぽさが強かったけど、アルバム・ヴァージョンはアコギのストロークが全面にフィーチャーされ、ちょっとテクノ風味を薄めている。何回も聴いたのはアルバムの方だけど、初PSY・S体験として、インパクトが強いのはシングルの方、というのが俺の私見。



6. Another Diary
 同じくALBAのCMソング。「ねぇ~おさななじみだねぇ~」という歌い出しは、そういえば日本のポップ・ソングではあんまりない言葉の選び方だよな、と、ずっと思っていた。センチな言葉だけど、ベタに聴こえないヴォーカルと文脈、これが初期PSY・Sの特色であり、そこが最も強くあらわれているのは、この曲なんじゃないか、と。
 3分半あたりのコーダのファンキーなフェイクに、チャカのあふれ出る歌への想いが込められている。ほんとはここまでハジけたいのに、リミッターをかけられている。この方向性も、今にして思えばアリだったんじゃないかと。

7. May Song
 「サウンド・ストリート」のマンスリー・ソングでかかっていたこともあって、古いファンにとってはなじみの深い曲。ドラムがあってギター・ソロがあって、ポリ・シンセがあってエフェクト的なリズム・パターンがあって…、という整然とした配列は、作る方のこだわりなのだろうけど、変にメリハリがつきすぎて、サウンド見本市的に聴こえてしまう。そこがやや古臭く聴こえちゃうんだろうな。
 間奏のカントリーっぽいギター・ソロは、岡田徹あたりが窪田晴男にサジェスチョンして弾かせたんだろうけど、まぁそこだけはちょっと破綻があって面白くはある。

8. Down The Slope
 なので、こういったチャカのヴォーカル映えをフィーチャーした楽曲の方が、賞味期限が長くて今も普通に聴けちゃったりする。まぁ松浦のビジョンとは微妙に違っちゃので、PSY・Sらしさは抜けちゃうわけだけど。
 変にファンキーに、リズム優先のトラックにすると、PSY・Sのオリジナリティが主張できなくなってしまうので、中~後期はポップ>ファンキーという図式になってゆく。

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9. ジェラシー "BLUE"
 で、この曲は珍しくオーソドックスなバラード。ポップもファンキーもロックもほぼない、当時の渡辺美里が歌ってもおかしくない、ちゃんとしたバラード。「ちゃんと」ってした言い方はおかしいけど。
 こういった曲ではちょっとチャカの弱点が出てしまって、これが英語詞ならもっときれいに聴こえるんだろうけど、日本語だと一本調子に聴こえてしまう。松浦にしてはサウンドも変に凝ってないし、素直なメロディとアレンジなのだけど、チャカのヴォーカルが負けちゃってるのが、ちょっと惜しい。

10. Old-Fashioned Me
 ブロウ・モンキーズなど、UKポップのキャッチ―な部分をうまく取り込んだサウンド・アプローチが好きなのだけど、やっぱチャカがちょっと、な。自分で書いた歌詞なのに、どうもうまく歌いこなせていない。自分で書く言葉を歌うのが恥ずかしかったのかもしれない。



 ホントはこの後の時代、松尾由紀夫が作詞担当の時代も書いたのだけど、思ったより長くなったので、ここで一旦切る。前回もそうだったけど、PSY・Sを語ると、いつもどうしても長くなる。
 なぜだ?






「『浪漫飛行』目当てで買ったのに、全っ然違うじゃないのっ!」(当時の20代OL談) - 米米クラブ 『米米CLUB』

Folder そこまでディープな信者じゃなかった俺から見ても、1995年以降の米米クラブは混沌としていた。苦楽を共にした初期メンは脱退するわ正体不明のサポート・メンバーが入れ替わり立ち替わりして、収拾がつかない状態になっていた。
 結成10周年ベストとしてリリースされた『Decade』をピークに、その後は人気も緩やかな右肩下がりが止まらず、そんな状況から目をそらすように、各メンバーのソロ活動が活発化していった。右手と左手とで何をやっているのか、わかりもしないし関心もない、別な意味で混沌としていた初期の彼らの姿はもはや見られず、終わったグループ感が漂っていた。
 とはいえ、全盛期ほどではないにせよ、コンスタントにライブやレコーディングは行なっていたし、CMタイアップやらFMのパワー・プレイやらで、彼らの曲を聴く機会はまだ多かった。もうぶっちぎりのトップを走る勢いはないけど、それでも先頭グループから脱落するほどでもない―、そんな中間管理職みたいなポジションが、彼らの置かれた現状だった。
 「堅実さ」とか「安定感」とは無縁の存在だったはずの米米は、次第に守りの姿勢に入りつつあった。メンバー大量増員やゴージャス化するライブ演出など、あちこちで攻めの姿勢は見られたのだけど、それらの策が肝心の音楽クオリティに反映されなかったことが、バンド終焉の一因だったと言える。

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 お茶の間向けに強力脱臭され、最大公約数のマス・イメージを想定して構築された末期の米米は、ひとつの見方として、コンサバティヴ路線の完成形だったとも言える。カールスモーキー、っていうかフロントマン石井竜也をクローズアップして、彼のヴォーカル・パフォーマンスとメロディ・センスが最も映えるスタイルを追求してゆくと、まぁ誰がプロデュースしてもこんな感じになるんじゃないか、と今にして思う。
 「君がいるだけで」で発揮された、流麗なメロディを中心とする、スマートなエンタテイメント路線は、不特定多数のニーズを掴むためには、最も効率良くシンプルなコンセプトだった。そのコンセプトの純化のため、ジェームズ小野田のファンク・テイストや、キュートな淫靡さを漂わせるシュークリームシュの歌謡ポップ、そして彼らが自虐するところのソーリー曲は、ことごとく排除されていった。
 どんなことにも当てはまることだけど、ひとつ上のステージへ進む際、捨てなければならないものが、何かといろいろ出てくる。過去のしがらみなり男女関係の精算なり、まぁ人それぞれだけど、前に進むために振り捨てなければならない過去は、誰にだってひとつやふたつはある。
 末期の米米の選択が正しかったのかどうかはさておき、果たしてその選択が彼らの望むものだったかといえば、単純なYes/Noで測り切れるものではない。バンドの終焉が先延ばしになるか/早まるかの違いであって、行き着くところは結局のところ、多分同じだった。
 ベストとは言えないけど、ベターな選択だったんじゃね?としか、外野からでは推しはかりようがない。肝心なところは、当事者たちにしかわからない。

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 彼らのキャリアをセールス面のみで区切るとすれば、単純に「君がいるだけで」以前/以降になるけど、バンド内テンションのピークがどの辺だったのか、どこから下り坂になったのかとなると、ファンの間でも議論が紛糾する。それこそ「君がいるだけで」以降という意見もあれば、もっと遡って博多めぐみが抜けてから、という意見もある。
 ある意味、カルト映画として名高い『REX』に魂を売り渡してから、という意見もなかなか捨てがたい。「カールスモーキーが取り巻きに持ち上げられて、映画やアートにうつつを抜かしてから」というのも、見方として間違っていない。
 『Octave』以降、セールス・知名度と反比例するように、ジェームス小野田の存在感は薄くなっていった。シュークリームシュを押しのけて、新参パフォーマンス・チームの露出が増え、ステージ演出もスマートに洗練されていった。
 最大公約数のニーズに応じるためには、最も大衆に支持された「君がいるだけで」タイプの楽曲じゃないと、広く伝わりづらい。アバンギャルドもエロネタも寸劇もゴッチャに詰め込むのではなく、今後のリリースは「君がいるだけで」タイプを中心に―。
 おおよそ、こんな感じで周囲スタッフに吹き込まれたんだろうけど、まぁ言ってることは間違ってない。いつの間にソニーの屋台骨を支えるポジションに祭り上げられ、関連するスタッフも増えて巨大プロジェクトと化した米米を維持するためには、そうすることが最善だった。
 営業戦略的に、ヒット商品の二番煎じ・三番煎じ、または拡大再生産を目論むのは常道であるけれど、そんなに長く続くものではない。「君がいるだけで」と「浪漫飛行」と「sûre danse」の順列組み合わせで続けてきたコンサバ路線も、次第に新鮮味は薄れ、またグループ内のゴタゴタも相まって、わかりやすいくらいに下降線をたどって行く。

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 デビュー以来、長らく色モノ扱いされていた彼らが、音楽面で注目を集めるようになったのが、『Go Funk』である。テンションぶっちぎりのライブの評価は高かったけど、アルバムになると変にかしこまって魅力が伝わりづらかった彼らにとって、起死回生となった作品として知られている。
 実際、このアルバムはすごく良くできており、ファンクやスカ、バラードから小ネタまで、バランス良くひとつのショウとして構成されている。「Kome Kome War」から「Time Stop」から「宴」まで、てんでバラバラなタイプの楽曲が無理なく詰め込まれ、各メンバーの見せ場もしっかりあるし、コンテンポラリーとアングラとの狭間でうまく均衡している。
 総立ちノリノリファンクの後に失笑混じりの小芝居、続けてベタな官能バラード、と言った具合に、擬似ライブ的な構成、「何でも揃えてまっせ奥さん」といった淫靡なバラエティ感こそが、本来の彼らの魅力である。コンサバ路線というのは、あくまでライブ・パフォーマンスの構成要素のひとつであって、二の線ばっかり前面に出しても、彼らの魅力は半分も伝わってこない。
 今でこそキラー・チューンである「浪漫飛行」が収録されていたにもかかわらず、この前作『Komeguny』が思ってたより売れなかったのは、全編スカしたシンセ・ポップ路線でまとめてしまったところが大きい。ポップな要素だけでは、バンドの全体像を見据えることはできないし、同じテイストばかりでは「浪漫飛行」も埋没してしまう。
 『Octave』以降も同様で、スカしたコンサバ路線一本では、全体像を探る以前に食傷気味になってしまう。大トロばっかり食べてても、寿司を堪能したとは言えないのだ。

 そんなコンサバ路線一辺倒へ進む米米の体制に、Nonを突きつけたのが演奏チームだった―、というのを、ちょっと意外と思う人もいるかもしれない。少なくとも後期の路線、音楽的にはちゃんとしている。まっとうなミュージシャンなら、「ポイのポイのポイ」よりも「愛はふしぎさ」を誇りに思うはずである。
 初期ライブの大きな柱であったディープ・ファンクの割合は減ったけど、コンサバ系の源流である、ベタな歌謡テイストのポップ性はまだ残っていた。判で押したようなポップ・テイストに辟易した部分もあっただろうけど、体裁の整った楽曲のレコーディングは、まっとうなミュージシャンのスキルを最大限発揮できるはずだった。
 整然としたアンサンブルを追求してゆくことがミュージシャンとしての条件であるならば、米米の場合、そういった方向性を望んでいなかった、ということになる。ていうか、10年以上一緒にやってるんだもの、オーソドックスなスタイル求めるんだったら、とっくの昔に脱退してるって。
 思うに、音楽的にはあんまり知識のないカールスモーキーがイニシアチブを握っていたこと、サウンド・メイキングにあんまり口出しできなかったことが、逆に米米サウンドの確立につながったという見方もできる。ソウル・ファンクからロックにスカ、カールスモーキーのテイストに合わせたシャンソンや歌謡曲など、あらゆるジャンルの音楽をぶち込んで、ちょっと不細工ではあるけれど、ライブのテンションで乗り切っちまえ、という勢いがあったのが、中期までの米米だった。

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 ムーディーなAOR系ライト・サウンドでスカす反面、くっだらねぇエロ小芝居の伴奏もやってしまう幅の広さが、米米演奏チームのポテンシャルの高さをあらわしている。どっちに優劣をつけるのではなく、彼らの中では「君がいるだけで」も「愛の歯ブラシセット」も等価なのだ。
 「俺色に染まれ」のコード進行やらリズム・アンサンブルがどうした、というより、「ポイのポイのポイ」がいいのか、それとも「ポポイのポイポイ」の方がいいのか―、そんな事に大きな時間を割き、時につかみ合いになるほどのめり込む姿勢こそが、本来の米米であったはずなのだ。
 そんな彼らの一面、くっだらねぇソーリー曲だけを寄せ集めて作られたのが、この『米米CLUB』というアルバムである。コンサバ系だけを集めたベスト『K2C』の3ヶ月後に発売され、そのあまりの落差で新規ファンを困惑させ、反面、古参ファンを狂喜乱舞させた伝説のアルバムである。
 「君がいるだけで」と「ホテルくちびる」が等価であるというのはちょっと強引だろうけど、長年ライブで練り上げて完成度を高め、ファンに愛されたのはどっちかといえば、問答無用で後者になってしまう。いい意味でも悪い意味でも、ファンの度肝を抜くこと、自分たちが面白がることを続けてきたのが、すなわち彼らの歩んできた道であって。
 そんなウンコ曲路線の割合が減ってゆき、なんか普通のポップス・バンドになっちゃったことで、米米のアイデンティティは変容した。遊べる余地も少なくなったため、ジョブリンとリョージはバンドを去った。
 メンバーの誰も彼らを引き止めることはできなかった。アイデンティティであったウンコ曲をないがしろにしたバチが当たり、米米は一気に終息へ向かうこととなる。





1. 愛の歯ブラシセット
2. We are 米米CLUB
3. あたいのレディーキラー
4. 東京 Bay Side Club



5. 東京ドンピカ
6. 二人のアンブレラ
7. オイオイオイ マドロスさん
8. I LOVE YOU
9. パリジェンヌ ホレジェンヌ
10. スーダラ節~赤いシュプール
11. インサートデザート
12. ホテルくちびる



13. AWA
14. 私こしひかり
15. ポイのポイのポイ



―一応、いつも通り曲紹介書いてみたけど、なんか細かく解説するのもバカらしくなってきたので、やっぱやめた。
 めんどくさいことは考えず、まずは全部聴いてみて。






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北海道の中途半端な田舎に住むアラフィフ男。不定期で音楽ブログ『俺の好きなアルバムたち』更新中。今年は久しぶりに古本屋めぐりにハマってるところ。
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