2018年に発表された完全未発表曲集『Both Directions at Once: The Lost Album』で、その年のジャズ発掘音源の話題を独占したコルトレーン。50年以上も前の音源にもかかわらず、世界各国のアルバム・チャート上位に食い込んだこともあって、新世代のファンが多く流入する結果となった。
そんな盛り上がった市場の熱気も冷めやらぬうちに、また新たな発掘音源が2019年にリリースされた。ロックの世界でもありがちだけど、ひとたび大きな鉱脈が見つかれば、同傾向の音源が畳みかけるように続々リリースされる。
今回リリースされたのは、1964年リリース『至上の愛』の半年前、カナダ製作のフランス語映画『Le chat dans le sac』のサウンドトラックのために行なわれたセッション。映画は日本未公開のため、詳細は不明だけど、文化事業の助成金を使用して作られた映画なので、多分だけどエンタメ性は薄い。ちょっと調べてみると、どうやらヌーヴェルヴァーグの影響が色濃いアバンギャルド臭が強いため、シネコンよりはアート・シアター向けの映画である。
そんな一般性の薄い作品であるため、監督も俳優も名の通った人ではない。もしかして、マニアの間では「知る人ぞ知る」ポジションなのかもしれないけど、ゴメン、そこまで映画詳しくねぇや。
当時、すでにジャズ界で頭角をあらわしていたコルトレーンだったため、マイナー映画のサントラ仕事にガチで取り組んでいたとは思えない。ギャラだって、そんなに出なかったはずだし。
このちょっと前に、帝王マイルスが『死刑台のエレベーター』のサントラを手掛けていたこともあって、それに触発されたのかもしれないけど、どちらにせよ、そんな前向きな動機じゃなかったことは、内容の微妙さからも窺える。
ひとつの小節に体力の続く限り、限界いっぱいにありったけの音を詰め込むシーツ・オブ・サウンドを提唱したのが、1959年の『Giant Steps』からで、以降は求道者然として、サキソフォン・プレイの深化を追及し続けたコルトレーン。緩急をつけたりブレス用のブランクを入れることをハナっから考えず、とにかく隙間なく音を詰め込んでゆくスタイルは、他のサックス・プレイヤーの追随を許さなかった。
ストイックなアスリートか、はたまた間が怖い漫才師の如く、オンリーワンのサウンドを獲得しつつあったコルトレーンは、その後ジャズ・シーンで独自のポジションを築いてゆく。テクニックの拙さを嘆いてドラッグに溺れ、マイルス・バンドをクビになったのは、もう遠い昔の出来事だった。
この後のコルトレーンは、カバラ思想にかぶれたりアフリカン・リズムにハマったり、多くのジャズ以外のミュージシャンから、様々なインスパイアを受けることとなる。禁欲的な使命感に絆されて、深化を止めない音楽性は、遂にはコード進行からも解き放たれ、無調の旋律=フリーの沼に足を突っ込むことになるのだけど、それはまた後の話。
代表作とされる『My Favorite Things』も『Giant Steps』も『至上の愛』も、発表当時から批評家からの評判も高く、最初から名盤扱いされていた。実際、意匠を変え構成を変えたり、50年以上経った今でも堅実に売れ続けている超ロング・セラーではあるけれど、それもあくまで、「ジャズの中では」の話。
すでにポピュラー音楽の主流の座を、ロック/ポップスに明け渡してしまっていた60年代前半、実はコルトレーンのセールスは微々たるものだった。それまでの彼の累計売上を合算したとしても、モンキーズやビートルズのアルバム1枚にも及ばないほどだった。
戦後の若者にとって、最もヒップな音楽とされていたジャズは、50年代の終焉と共に役割を終えていた。その後、他ジャンルのエッセンスを取り込むことによって、ビルドアップと蘇生を繰り返してきたけれど、現在までジャズがメイン・カルチャーとなったことはない。
超ロング・テールのエピローグとリフレインを交互に繰り返すことによって、「伝統芸能」としてのジャズは、どうにか生き長らえている。今後もし、ジャズ・シーンに新たなムーヴメントが起こったとしても、マーケットを揺るがすインパクトと新鮮味を与えることは、もはや不可能だ。
それらはすでに、誰かが通ってきた道をなぞっているに過ぎないのだ。それほどジャズは、多くのアーティストによって、解体/再構成を繰り返してきた。
まぁ、これはジャズに限らず、どのジャンルにも言えることだけど。
話は戻って1964年、ブルーノートやプレスティッジ、インパルスなど、まだ余力の残っていた独立系レーベルの使命感に支えられて、どうにかこうにかジャズはその命脈を保っていた。レコード売上はロック/ポップスに及ぶべくもなかったけれど、欧米を中心としたツアー回りや客演など、細々した仕事は、まだ山ほどあった。なので、レコーディング契約がなかったとしても、アーティスト自身はどうにかこうにか食える環境にあった。
著作権収入や印税配分が大ざっぱで、音楽ビジネスが未整備だった60年代、純粋なレコード売り上げで食えているアーティストはごく限られていた。彼らの収入源は、当日に手渡しされるステージ・ギャラが主だったものだった。さらに加えて、アーティストの知名度や集客力によって、相場も違っていた。
知名度の指標となるのが、リーダー・アルバムを出していること、または、有名アーティストとの共演歴やセッション参加歴だった。この辺は現在とあんまり変わりがない。そりゃ興行主の方だって、何かしら箔付けがあった方が集客しやすいだろうし。
インパルス時代のコルトレーンともなれば、集客力はジャズ界でもトップ・クラスだったろうし、それに伴って、ギャラのランクも高かったはず。とはいえ、冷静に考えてみると、60年代という時代背景を考慮すると、案外そうでもなかったことは想像できる。
数々の有名なライブ・レコーディングが行なわれ、一流アーティストの登竜門として、ヴィレッジ・ヴァンガードやファイヴ・スポットといった名門ジャズ・クラブがある。さぞ豪華な設備やキャパを想像してしまいがちだけど、その多くは飲食フロアも併設した中規模ライブハウスであり、何百人・何千人を収容できるサイズではない。そんな収容力のあるホールがジャズ・コンサートに貸し出されるはずもなく、その多くはクラシックに独占されていた。
さらに、公民権運動の盛り上がりによって、人種問題が一触即発状態だった当時のアメリカ、特に差別の激しい南部においては、黒人ジャズ・ミュージシャンが演奏できる場所は、ごく限られていた。演奏するのも観に行くのも命がけ、というのが常態化していたのが、この時代だったのだ。
収容数が限られたステージで多くの集客を捌くためには、公演数を増やすしかない。コルトレーンに限らず、当時のジャズ・ミュージシャンの昼夜2回公演が多いのは、そんな理由もある。
で、『Blue World』。
収録されているのは既発曲のリテイクが中心で、新曲は入っていない。一応、タイトル曲が書き下ろし扱いになってはいるけど、こちらも既発曲をベースにアレンジされたものらしく、去年の『Both Directions at Once』ほどのインパクトはない。
ただ、「名門ヴァン・ゲルダー・スタジオでのセッション音源」というのは、大きなセールス・ポイントとなってはいる。ブートから直接盤起こししたような劣悪なライブ音源じゃなく、きちんと管理保存されていたスタジオ・ライブというのが、マニアの購買意欲のツボをうまくくすぐっている。
さらにそのセッションが行なわれたのが『至上の愛』の前だったことも、大多数の保守モダン・ジャズ・ファンの注目を集めている。これが翌年、1965年に入ると、フリー・ジャズに感化された『Ascension』がリリースされ、次第にアンサンブルは崩壊、カオスを極めた独演会の様相を呈してくる。ワビサビも情緒もへったくれもない、過剰なブロウが主体となるサックス独演会は、そりゃジャズ考古学的には貴重だけれど、万人向けの代物ではない。
そんなわけで、シチュエーション的にもタイミング的にも、ちょうど良い頃合いだったことが、この音源の価値を高めている、と言える。4ビート以外は認めない守旧派にとっては、安心し堪能できるアルバムである。
ただ難を言えば、各パートのアドリブ・ソロも、既発テイクと大きな違いがなく、作品自体のレア度は薄い。事前情報もない状態で聴くと、有名曲のテイク違いを集めたコンピレーションと勘違いしてしまいそうである。
既発アルバムの「ボーナス・トラックをひとつにまとめた」、または「ボックス・セットのアウトテイク集だけ分売しました」的なアルバムだよ、と言っちゃうと身もフタもないな。だって、ホントそんなアルバムなんだもの。
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1. Naima (Take 1)
ご存じ初出は『Giant Steps』。もう何度も演奏しているだけあって、アンサンブルもこなれたものだけど、マッコイ・タイナーのピアノ・プレイが少し多めにフィーチャーされている。テイク1ということもあって、コルトレーン的には肩慣らし程度のソロ・プレイ。
2. Village Blues (Take 2)
こちらも初出は1961年『Coltrane Jazz』。発表当時とリズム・セクションが違うため、当然、解釈も違ってくる。原曲はメロウなブルースといった印象だけど、ここでのテイクはちょっと無骨ささえ伝わってくる。
3. Blue World
不穏さを漂わせる、のちの暴走振りを予見させるコルトレーンの嘶き、クレバーでありながら不安定なコーディングのマッコイのプレイ。次第に演奏は熱を帯びてくる。原曲とされる「Out of this World」は、そんな暴走振りが過熱して14分に及ぶ尺になっているのだけど、ここはサントラ仕様を意識したのか、6分程度で収めている。普及型/汎用コルトレーン・サウンドといったところか。
4. Village Blues (Take 1)
なぜか3テイクも収録されているこの曲。それほど思い入れがあったのか、それともアイディアが湧き出て仕方なかったのか、はたまたクライアントの意向が強かったのか。発掘モノのアルバムではよくありがちだけど、そこまで執心するほどの違いはない。
5. Village Blues (Take 3)
ややピッチを上げたスタートから、ちょっとソフトに、ていうかやや力の抜けたコルトレーンのプレイ。逆にエルヴィン・ジョーンズのスネアがバシャバシャ力が入っている。まぁこういったアプローチもアリか。映像とのマッチングを考えて、ちょっと違った風にやってみたのかもしれない。
6. Like Sonny
巨人ソニー・ロリンズに捧げられた曲。レジェンド級のプレイヤーでありながら、変な大御所感を振りかざすこともなく、小難しい理論やテーゼに縛られず、思うがまま・あるがままのプレイでもって、多くのファンを魅了してしまうソニー。
そんな人生もあったんじゃないか、と時に人は思うとこともある。そんなコルトレーンの本心が垣間見える、穏やかな曲。
7. Traneing In
ジミー・ギャリソンのベース・ソロから始まり、それが結構長い間続く。サックス・プレイヤーのリーダー作としては、あんまり例がない。こういった予測不能なアプローチもまたコルトレーンの神秘性だし、3分弱も間を持たせてしまうギャリソンのポテンシャルも、レベルの高さを窺わせる。
この後、マッコイのピアノ・ソロが2分続き、ようやくコルトレーン登場。8分程度の力でアドリブを吹きまくり、そのままやりっ放しで行くと思いきや、どうにかテーマまで強引に持ち込んで終了。
8. Naima (Take 2)
ややバタバタした印象のナイーマ。この曲はやはりベタでメロウなタッチがよく似合う。
ちなみに出来心で、末期のナイーマがどんな風になってるのかと、66年『Live From Village Vanguard』収録の15分ヴァージョンを聴いてみた。出だしこそナイーマだけど、中盤以降はまったく別モノ。
―聴かなきゃ良かったな。
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