folder 1980年リリース、みゆきにとって7枚目のオリジナル・アルバム。なんとオリコン最高1位をマークしており、年間チャートでも堂々17位にランクインしている。
 ついに来た。みゆきの数々のアルバムの中でも異彩を放つ、ポッカリと空いた深淵の暗黒。フォーク歌謡的なサウンドからの脱却を図ったご乱心時代の作品も、ファンの間では何かと物議を醸してはいたけど、『生きていてもいいですか』においては、その物議を醸したレベルが段違い。
 フォーク/ニューミュージック全盛の折、みゆきに限らず、山崎ハコや森田童子など、いわゆる陰鬱系のシンガー・ソングライターは数多く存在していた。いたのだけれど、このアルバムで吐露されている「救いのない漆黒の情念」、その後も長らく「根暗」のみゆきを語る際の代名詞として決定づけられたインパクトの強さなど、他のアーティストらの追随を許さぬ孤高のポジションを確立している。

 楽曲詳細は後述するとして、ここで取り上げたいのは、アルバムの曲順・構成について。
 もともとこのアルバム、『親愛なる者へ』に続くオリジナル・アルバムとして制作が進められていたのだけど、ある時点からレコーディング作業が膠着状態となっていた。「当時のみゆきのメンタル面がやや不安定だった」ということが、後になって伝えられている。その原因として、プライベートでの恋愛関係の拗れやらもつれやら、はたまたもっと広範な対人関係についてなど、いろいろな説がささやかれているけれど、真相はみゆき自身の胸のうちにある。なので真偽は不明。
 ただ、リリース・スケジュールはすでに決まっていたため、その対応策としてセルフカバー・アルバム『おかえりなさい』が急遽準備された、というのは前回のレビューで述べた通り。

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 ここから察するに、遅延の要因として2つが考えられる。
 ① アルバム制作に足りるほどの楽曲が準備できなかった。曲数不足。
 ② 素材は揃っているけど、アルバム・コンセプトとのすり合わせが難航した。
 ①については、ちょっと考えづらい。これまでのレビューでも書いているけど、みゆきは特にこの時期、何度か訪れている創作力のピークに達しており、他アーティストへの楽曲提供も盛んに行なっている。なので、スランプに陥って書けなくなった、というのは考えづらい。前述の傷心によって、メンタル面での不安はあったのかもしれないけど、それをまた糧として新たな方向性の歌を書き上げてしまうのも、みゆきの特質である。
 なので②、「コンセプトが定まらなかった」、「テーマが右往左往してしまった」というのが、最も理にかなっているんじゃないかと思われる。

 レコードで聴いてみればはっきりするのだけど、A面とB面とでは明らかにテイストが違っている。もちろん1枚のアルバムにまとめられているだけあって、全体的に落ち着いたトーンではあるのだけど、陰鬱とした無常観で統一されているB面と違って、A面は一曲単体で完結している、いわば小品集的な構成になっている。
 「うらみ・ます」以外のA面曲は、以前のどのアルバムにも入れても違和感ないテーマ、従来の歌謡フォーク的なテイストでまとめられている。なので、B面と比較して、そこまでドン底の暗さというわけではない。もし全体をB面のテイストでまとめていたら、セールス的には大きく惨敗していたんじゃないかと思われる。大部分のみゆきファンは、第2第3の「わかれうた」を求めていたのだから。

 多分このアルバム、A面・B面はそれぞれ別々のセッションで製作されており、これもまた推測だけど、『おかえりなさい』レコーディングによって『生きていてもいいですか』セッションは中断を挟んでいる。そんな経緯もあって、両面のコンセプトがはっきり分かれている。
 詳細なセッション・データが公表されていないため、オフィシャルで公開されている情報を頼りにすると、大半のキーボードをプレイしているのが西本明。当時は主に浜田省吾のバンドで弾いており、その後は佐野元春や尾崎豊など、ソニー系のソロ・アーティストを中心にバッキングしている。
 で、もう1人クレジットされているのが田代真紀子。この時期のみゆきレコーディング・セッションでは常連だったギタリスト矢島賢とのちに結婚、今も矢嶋マキ名義で現役活動中のキーボーディストである。彼女がクレジットされている楽曲はB面に集中しており、このことからセッションが複数回に分けて行なわれたことが推測できる。

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 どちらのセッションが先だったのか、そこまでは調査が追い付かなかったけど、微妙にコンセプトの違うセッションを、どちらかのトーンに統一させようとしたのか、はたまた別々のアルバムとして製作しようとしたのか。それとももっと潔く、どちらかのセッションをお蔵入りにする予定だったのか。どちらにせよ、その方向性に逡巡していたことは、作業遅延から察せられる。
 「どのミュージシャンより、みゆきとの作業が最も緊張する」とコメントを残している後藤次利の尽力によって、どうにかサウンド的/音響的には統一されてはいる。いるのだけれど、特に神経すり減らしたんだろうな、このレコーディングで。

 ただ、このアルバムの中でも鬼っ子的存在である「うらみ・ます」。この曲だけは、練り上げられたアルバム構成やサウンド・メイキングなんて小細工とは、無縁のところで鳴っている。どちらのセッションからも明らかに浮いており、ていうかオフィシャル公開されるレベルを越えている。あまりに内省的/プライベート過ぎるので、ほんとは世に出しちゃいけない楽曲なのだ。「うらみ・ます」だけは、あらゆる批評やら賞賛やら酷評やらを全否定する、極個人的なところで鳴っている。
 鬱屈した暗黒の底から漏れ出る嗚咽は、みゆきにとっての「たった一人の誰か」に向けて放たれたものなのだろう。でも、それがほんとにその「誰か」に向けて届くのか。また届いたのか。
 外部に放たれた時点で、その歌はもう、自分のものではなくなる。それは聴いた者に共有され、共感を呼び、そして公共のものとなる。自分、または「たった一人の誰か」だけのものではなくなってしまうのだ。
 でもそんなこと、みゆきが最もよくわかっていたはずだ。

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 別にリリースしなくても良かったのかもしれない。あまりに個人的な言葉たちは、あまりにアクが強すぎる。
 でもみゆきは『生きていてもいいですか』にこの曲を入れた。しかも冒頭に。
 穏やかな叙情性さえ感じさせるA面とも、そして傷つき打ちひしがれたB面とも相容れない、独自の強い毒素は安易な同化を拒否している。だからこそ、リード・トラックにしかハマる場所はなかった。そこまでしてでも、みゆきはこれを世に出さなければならなかったのだ。
 その切迫感は、「アーティストとしての業」なんて浮ついた発露ではない。そこに刻まれているのは、極めて個人的な嗚咽だ。アルバムのトータリティを無視してまで、「うらみ・ます」は世に吐き出さざるを得ない楽曲だった。

 『生きていてもいいですか』リリース後、みゆきは体調を崩し、恒例となった春のツアーをすべてキャンセルすることになる。
 「あの時、無理を推してやってたら、惰性でやる感じになってしまうのが許せなかったからやめた」とは本人の弁。それほど、このアルバムが難産だったことを窺わせるコメントである。当時の記事もいくつか調べてみたのだけど、要は人前に出られる精神状態ではなかったのだろう。
 しばしの休養を経てシーンに復帰したみゆき、ここで憑き物が落ちたかのように、新たな方向性を模索するようになる。ご乱心時代というさらなる混迷と出会うことも知らずに。


生きていてもいいですか
中島みゆき
ヤマハミュージックコミュニケーションズ (2001-03-28)
売り上げランキング: 2,723



1. うらみ・ます
 イコールみゆきの代名詞となった、オールド・ファンには今をもって、リリース当時の衝撃が語り継がれている問題作。前述したように、これまでみゆきの楽曲に興味がなかった者さえ、強引に振り向かせてしまうインパクトを有している。のっけから鳴き声交じりの嗚咽だもの。
 それまで「恨み節」やら「女の情念」やらを意識的に取り上げてきたみゆきだったけど、婉曲的な表現や比喩を巧みに駆使して、マスに届くようなテクニック・技巧を経験則に基づいて成長させていた。主に歌謡曲畑の楽曲提供者が歌いやすいよう、節回しに気を配り、状況設定も細やかで映像的だった。そういったOJT的な修練が営業努力として実り、徐々にセールスを積み上げてきたのだ。
 そんなこれまでの積み立てをチャラにして、リアルを超えて生々しい感情を剥き出しにしちゃったのが「うらみ・ます」とB面曲。負の要素のみを選んで組み上げられた言葉の羅列は、いまも燦然と漆黒の光を放つ。
 ほぼ一発録りのスタジオ・ライブでレコーディングされているため、ピッチがずれていたりブレスの乱れも見受けられる。テクニカル面だけで見れば、ヴォーカルの完成度は低い。ラストの絶叫は嗚咽交じりで、聴き手側にも相応の体力が要求される。
 でも、それがどうしたというのだ。音程がどうしたブレスがどうの、そんな低次元で語られる楽曲ではないのだ。ここで吐き出される言葉は直截的で、あらゆる解釈を無にしてしまう。

 うらみます あんたのことを 死ぬまで

 歌の中の女は、軽い気持ちで弄んだ男を心底恨む。震え声で奏でられる旋律は行き場を失い、最後に漆黒の闇に飲み込まれる。
 ただ「恨む」という感情は、即ち愛情の裏返しでもある。恨みはするけれど、嫌いになったのではない。遊ばれていたことを最後まで気づかず、どこか浮かれていた自分を呪うのだ。いや途中から、または最初から分かっていたのかもしれない。でも浮かれ気分に酔いしれる自分を抑えきれなかったのだ。
 心底嫌いになったのなら、思い出すことすら嫌悪するはずなのに。
 なのにみゆき、自身の命をすり減らしてまで、男のことを思い焦がれる。
 そんなことはわかっている。わかってはいるのだけれど、でも気づきたくないのだ。

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2. 泣きたい夜に
 本文でも書いたように、ここからはもう少し穏やかなナンバーが続く。最初か最後にしか居場所のない「うらみ・ます」を抜きにして考えると、実質上これがA面トップと捉えてよいのかもしれない。でも曲調としては地味だよな。やっぱ2曲目で正解か。
 繊細なメロディを奏でるピアノと軽やかなマンドリンとのアンサンブルは、荒涼とした冒頭のムードを一掃する。研ナオコにハマりそうな歌謡曲セオリーのベタなメロディは、初期のどのアルバムに入れても遜色ないくらい、互換性が高い。後半に入ってから徐々に盛り上がるバンド・セットも、ブルース・タッチのヴォーカルとの相性は抜群。いやほんと研ナオコだよな、これって。
 でも肝心の、主役みゆきの声が暗い影を落とす。いつものアルバムならもっとアッケラカンと歌うところを、ここでは負のオーラが澱のように底で淀んでいる。「うらみ・ます」でのあからさまな世界的憎悪は、ここでも深く影を落としている。

 泣きたい夜にひとりはいけない

 そういたわってくれる「誰か」を欲するみゆき。でも、そんな「誰か」とはもう縁を切ってしまった。「子供の頃に好きだった歌を歌ってくれる」誰かもいない。
 そんな「誰か」なんていない。そんなことはわかっていながら、でもみゆきは丁寧に歌う。その声は、すでに泣き疲れてひどくしゃがれている。

3. キツネ狩りの歌
 能天気なピッコロ・トランペットによって奏でられるファンファーレ。2.まで余韻として残っていた「うらみ・ます」の重い空気を吹き飛ばす、みゆき風大人のお伽話。でも、歌われている内容は皮肉めいた暗喩に満ちており、どこか奇妙な明暗を落とす。
 軽快なアルペジオによる爽やかな叙情派フォーク・サウンドは、このアルバムの流れでは躁病的に映る。なので、A面はノン・コンセプトの小品集なのだ。
 昔聴いた時は、単なる寓話として受け止めていたけど、後になって、様々な暗喩を含んだ解釈を知るようになった。最終的な部分は結局、人それぞれになってしまうけど、大方の意見のように、70年代過激派の醜い内ゲバを描いたというのが、俺的には納得の落としどころ。

 キツネ狩りにゆくなら 気をつけておゆきよ
 ねえ グラスあげているのがキツネだったりするから ねえ

 志を共にした仲間であるはずなのに、実はスパイが紛れ込んでいることを知ってからは、互いに疑心暗鬼になり、みんながみんな、素知らぬ顔で互いの腹の内を探っている。そんなトラジコメディを冷笑多めに描いている。
 同じ情景を感傷的に歌ったのが「時代」であり、さらに直接的に切り込んだのが「世情」。何年もして回顧的に振り返ったのが「ローリング」と、みゆきにとっては時々思い出したかのように取り上げられる永遠のテーマでもある。
 ある意味、深刻なメッセージを込めた楽曲であるはずなのに、そんな周囲の小難しい解釈を笑い飛ばすかのように、夜会ではコーラス2名にピンクのウサギのぬいぐるみを着せ、キュートな振り付けを添えて歌詞そのまんま楽しげに歌わせてしまう。まるで深読みし過ぎて斜め上を見た評論家連中をあざ笑うかのように。

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4. 蕎麦屋
 もはや一心同体と言っても大げさじゃないくらい長い付き合いとなった、フォトグラファー田村仁とのとある日をモチーフに書き上げた、シンプルなアコギ弾き語りで紡がれる純正フォーク・ナンバー。みゆきのことだから多少の脚色はあれど、特別核となる出来事もなく、飾り立てもない日常。何てことのない蕎麦屋での会話が、素朴に訥々と語られる。

 あのね、わかんない奴もいるさって
 あんまり突然云うから 泣きたくなるんだ

 男と女の間に真の友情が成立するのかどうか、それを考えるとちょっと長いのでちょっと置いとくとして、この一節で、この距離感を活写できたのは、表現者としてピークにあったみゆきの観察眼の鋭さによるものが大きい。
 古い言葉で言えば「友達以上恋人未満」なのだけど、それともまたニュアンスが違う。少なくとも、両者の間に恋愛感情は介在していない。もしそれがあったのなら、そっと肩を抱いたり手を添えたりするのが自然だろうから。そういった距離感とは別のところで、この蕎麦屋的世界観は成立している。
 ―別に、どうしても蕎麦が食いたかったわけじゃない。ただ何となく、顔を合わせる理由が蕎麦屋だった、というだけだ。ほら、とんがらしかけ過ぎだってば。
 同じ友情でも、これが女同士だったらまた違ってくる。男との距離感が2次元的、対等な平面での位置関係だったとしたら、女性の場合は3次元、上下での位置関係が生まれてくる。
 「共感」の姿勢で向き合いながら、あれこれ根掘り葉掘り聞き出して、そして別れてから独り、ひそかにほくそ笑む。舌の根も乾かぬうち、他の女との話のネタにしたり、今だったらラインで拡散したりして。下に見ることによって、「共感」は「憐憫」や「嘲笑」に姿を変える。なので、女性同士の友情も同様、定義しづらいのだ。
 腹を割って話そうにも、言葉が見つからない。無理やり聞き出すつもりもない。どうせ口から出るのは、取りとめのないグチばかり。
 そんなことはわかってる。わかっているからなおさら、言葉は必要なくなる。ただ黙々と蕎麦をすすり、時々思い出したようなあいつのバカ話。それだけでいいのだ。
 ここまでがレコードではA面。B面で展開される世界観は、様相がガラッと変わる。

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5. 船を出すのなら9月
 様々な解釈を孕む、暗示めいた韻文が執拗に繰り返される。船がどこへ向かうのか、そして夏の終わりに何があったのか。明言されているものは何もない。初期のみゆきの楽曲の中では、「世情」と匹敵するほど難解で形而上学的な歌詞は、様々な解釈を産む。
 適わなかった恋は宙ぶらりんとなり、届くはずもない想いが綴られる。
 ―もうすべては終わってしまった。
 その声が誰にも届かなかったとして、でも、そんなことはもうどうでもよいのだろう。やるせない無常観は、みゆきの声を神経質に震わせる。
 この言葉たちはじっくり練り上げられたものなのか、それとも衝動的に趣くまま吐き出されたものなのか。いずれにせよ、ここで紡がれる言葉の重みは、気軽に聴き流されることを頑なに拒否している。「聴くなら真剣に向き合え」と。
 その言葉の求心力は、サウンドにも及んでいる。A面までは比較的、シンプルなフォーク寄りのアレンジだったのが、ここでは歌詞のバイアスに負けないハード・サウンドで飾り立てられている。時代性から鑑みて、Journeyをモチーフとしたアメリカン・ハード・プログレ的なアンサンブルが、打ちひしがれたみゆきのヴォーカルを盛り立てている。それくらい徹底しないことには、この言霊をねじ伏せることはできない。
 投げやりな喪失感から逃れるように、船は港を出る準備を始めている。それは9月。
 でも、ほんとに船は港を出るのか。そして、みゆき自身がそこまで待てるのか。
 もしかすると、そこまで躰が持たないかもしれない。

6. エレーン
 後藤次利作によるインタールードを経て紡がれる、ゆったりした4ビート。はっきりしたモデルを明らかにしないみゆきとしては珍しく、実在した人物にまつわる実際に起きた事件をモチーフに描かれている。後にみゆき執筆による短編集『女歌』でも、彼女のことは再度取り上げており、モチーフ以上の強いインスパイアを受けたことが窺える。
 当時、みゆきは生活の拠点をまだ札幌に置いており、仕事のたびに上京するというサイクルを繰り返していた。東京はあくまで仕事を行なう場所であって、そこで日常を営むことは考えになかったのだろう。そんな行ったり来たりがルーティンとなっていたみゆき、東京での定宿としていたホテルで起こった殺人事件を、傍観者を超えた立場から活写している。
 
 エレーン 生きていてもいいですかと 誰も問いたい
 エレーン その答を誰もが知ってるから 誰も問えない

 アルバムの主題であり、表現者としての業が吐き出した言葉。
 「うらみ・ます」は印象としてはネガティヴではあるけれど、「うらみます あんたのことを 死ぬまで」と、棄てられた男への負の情念が、皮肉にも生き続ける原動力となっていた。どんな理由であれ、「捨てきれない情」はマイナスのオーラへと昇華して、強いパワーをもたらす。ただここでは、そんな負の力は下向きへ作用する。だって、もう終わってしまっているのだから。
 蔑まれる生業につき、陰ながら人に嘲笑される生活。それは亡くなった後も変わらない。たかが1人、出稼ぎの娼婦が亡くなっただけじゃないか。誰も悲しまない、ほとんどの人は知ることもない、そんな都会の片隅で起こった小さなざわめき。
 ほぼ顔見知り程度だったはずのエレーン。みゆきの人生にとって、彼女は特別重要な存在ではなかったはずだ。多分、それは今でも変わらない。変わらないのだけど。
 ひとつ道を踏み外せば、誰もがみな、彼女の生き方をなぞったかもしれない。たまたま自分は日本人で、そして運が良いことに表現者となったけれど、人生なんてどうなるかわかったものじゃない。
 人に伝える術を持たない、名前さえほんとかどうか定かではない異国の女性に、どこに生きる希望があるというのか。

 けれど どんな噂より
 けれど お前のどんなつくり笑いより、私は
 笑わずにはいられない 淋しさだけは 真実だったと思う

 淋しげな横顔だけが真実だなんて、あまりにも無情すぎる。
 そして、ふと気づく。わたし自身にとっても、ここは異国だ、と。

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7. 異国
 そう、エレーンは明らかに異国の民であったけれど、みゆき自身もまた、どこにも居場所がないことに気づいたのだった。自分を受け入れる者がいなければ、そこは誰にとっても異国だ。
 誰でもよいわけではない。みゆきが渇望しているのは、「たったひとりの誰か」なのだ。その「誰か」から拒まれ、時を同じくして、顔見知りの外国人娼婦が不本意な形でこの世を去る。マイナスのシンクロニシティが一気にみゆきに降りかかり、そして―。
 アイデンティティの崩壊は、みゆきの暴走という形を取って、作品として結実した。
 人生をゼロサム的思考で例えると、この時期のみゆきは大幅なマイナスである。ただしこの時期を含めた80年代初頭の作品は、どれも鋭い刃のごとき切れ味を持っている。表現者としてアーティストとしては、大幅な飛躍をなし得たのも、この時期である。
 いいこともあれば、悪いことだってある。そう思い込んで、人はみな飲み込みながら生きている。そんなことはわかっている。頭ではわかっているのだけれど、納得はできない。理屈ではねじ伏せられない、情念はここでも燻り続ける。
 ―あいつに拒絶されたら、どこに行けばいい?
 「人生」に拒絶されたエレーンは、異議申し立てする機会すら与えられず、不遇の死を遂げた。わざわざ日本に来たりせず、自国でゆったり過ごしていられればよかったのに。でも、エレーンもまた「くにはどこかと」自問し続けた。いわば、私だってエレーンと同族だ。人生に拒否されるのも、あいつに拒否されるのも、いまの私にとっては等価だ。
 「まだありません」と俯きながら、みゆきは探し続ける。異国ではない、ほんとの死に場所を。でも、そんな所はどこにだってないのだ。
 数多いみゆきのレパートリーの中では数少ない、いまだステージで披露されたことのない楽曲である。当時のみゆきにとってはあまりに重すぎる命題だったし、今のみゆきにとっても、歌う情景が思い浮かばない。
 いつか歌う日が来るのだろうか。その日が来るのを待つのは、あまりに酷だろうか。


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