好きなアルバムを自分勝手にダラダラ語る、そんなユルいコンセプトのブログです。

Joni Mitchell

ジョニ・ミッチェルが3位?え、ちょっとなに言ってるかわかんない。 - Joni Mitchell 『Blue』

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 聴いてみたよ、『Blue』。これまで意図的に避けてきてたけど、話題になったんで聴いてみた。
 先日、2020年度版が更新された、ローリング・ストーン誌「500 Greatest Albums of All Time」にて、大方の予想を裏切って、ていうか誰も気に留めていなかったにもかかわらず、堂々の3位。
 もともと玄人筋に評判の良かったアルバムで、初版の2003年版でも30位にチャート・インしている。流行り廃りに囚われない硬派老舗雑誌の沽券が窺え、ビギナー/マニア双方納得でき、信頼できるランキングではあったのだけれど、イヤこれはちょっとポジション的に高すぎる。
 1位の『What’s Going On』、2位の『Pet Sounds』はまぁわかるとして、スティーヴィー・ワンダーやビートルズを抑えての3位だもの。まず「誰?」という印象が先立っても不思議はない。
 こういったランキングのアンケートの際、定番のアルバムの中に1つくらい、みんなが選びそうにない、ちょっと地味なモノを入れちゃうことがよくあるけど、その最大公約数が『Blue』だったということなのだろう。

 1位 Marvin Gaye 『What's Going On』 1971
 2位 The Beach Boys 『Pet Sounds』 1966
 3位 Joni Mitchell 『Blue』 1971
 4位 Stevie Wonder 『Songs in the Key of Life』 1976
 5位  The Beatles 『Abbey Road』 1969
 6位  Nirvana 『Nevermind』 1991
 7位  Fleetwood Mac 『Rumours』 1977
 8位  Prince and the Revolution 『Purple Rain』 1984
 9位  Bob Dylan 『Blood on the Tracks』 1975
 10位  Lauryn Hill 『The Miseducation of Lauryn Hill』 1998

 以上がベスト10。あくまで平均値なので、万人を納得させるのは、とても難しい。そりゃみんな、「アレが入ってない」「コレはどうした」、突っ込みどころはあるだろうけど、後世に与えた影響や当時のセールスを鑑みても、まぁまぁ納得の行くランキング。
 この中ではニルヴァーナとローリン・ヒルが新しめだけど、これらも既に四半世紀前、もはや歴史だ。あと、当時バカ売れしたけど、何でコレが入ってるのか、多くの日本人がピンと来ないのが、フリートウッド・マック。イデオロギーやメッセージ性の入ったロックがダサくなった70年代後半という時代にうまくフィットした以外、特筆するところが見当たらないのだけど、これが中流アメリカンの感性なんだろうか。
 また別の視点、当世のポリティカルな見方をすれば、マックのような男女混成グループ、それとローリン・ヒルのような黒人女性がランキング上位になるよう配慮した、加えて投票者の選考基準も、その辺が考慮されたんじゃないか、と。先日のアカデミー賞選考基準でも、マイノリティやLGBTにも配慮したキャスティング云々で紛糾したように、アメリカのエンタメ業界は、何かとデリケートになっている。
 そんな配慮や忖度も含めて、「自立した女性」枠として、ジョニがチャート上位にランクインしているのはわかるんだけど、「イヤでもちょっと高くね?」と思ってるファンは俺だけじゃないはず。彼女同様、セールス・知名度共に大きなものではないけれど、ミュージシャンズ・ミュージシャン、いわゆる玄人ウケするアーティストにヴァン・モリソンがいるけど、彼の最高位は『Astral Weeks』の60位。高すぎでも低すぎもでもなく、絶妙のポジションだ。
 すでにキャリアのピークを過ぎ、熱狂的なファンはそこまでいないと思われるヴァンもジョニも、ベスト100位に1作くらい入っていれば、「良心的なランキングだな」の一言で済む話なのだけど、『Blue』のポジションはちょっと引っかかる。それとも、俺が知らないだけで、世間では「ジョニ・ミッチェル」という存在がエモい、と持て囃されているのだろうか。

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 ここまで書いてきて、まるで俺が「ジョニは嫌いだ『Blue』は駄作だ」と言ってるみたいだけど、そういうことではない。このブログでも、彼女のアルバムは何枚も取り上げてきているし、決してヘビロテしてるわけではないけど、『Court & Spark』と『Hejira』は忘れえぬ心のベスト30だ。イヤ50くらいかな。
 で、『Blue』はこれまで全然聴いてないわけではなく、おそらく俺が初めて買った彼女のアルバムである。「おそらく」と言うのは、当時、そこまでハマらなくてすぐ売っ払っちゃったから。
 俺が初めてレンタルして聴いたアルバムは『Dog Eat Dog』で、ファンとしてはだいぶ後続である。そこから遡って、並行してリアルタイムでリリースされたアルバムを聴いてきて、現在に至る。
 一番聴き倒したのが前述の2枚、フュージョン期のアルバム群だった。英詞の細かなニュアンスはわからないけど、百戦錬磨のミュージシャンたちを従えて、時に厳しく、時に手玉に取ったり懇ろになったりしながら、絶妙のアンサンブルを作り上げてゆくその姿は、凛としたものだった。実際に見たわけじゃないけどさ。
 ただ、フォーク期のサウンドとなると、どうにも受け付けない。前も他のレビューで書いたけど、初期のローラ・ニーロ同様、どうにもピンと来ない。
 一般的に、シンプルなバンド・セット、またはギターやピアノ1本による弾き語りスタイルは、余計な虚飾や演出を排しているため、音楽に対しての真摯な姿勢が強く出るとされている。過剰なアレンジがない分だけ、ごまかしのない楽曲の良さ、強いメッセージ性の照射が浮き出てくる。
 で、そんなスタイルが共通している初期のこの2人だけど、イヤわかるんだよ、切実なメッセージや表現欲求のほとばしりは。理性では制御しきれないパッションの放出や感情の澱が生々しく、それでいて静謐な音の礫。
 逆に言えば、その高まりが激しければ激しいほど、何か触れちゃいけないものを見た感が、男の俺からすれば、距離を感じているのかもしれない。多分、そう思っている男性は俺だけじゃないはずで―、と途中まで書いたのだけど、考えてみれば、世代の違いもあるのかね。俺よりもっと若い世代からすれば、そういったこだわりも少ないだろうし、そういっためんどくさい聴き方しないだろうし。

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 ローラと並んでジョニとよく比較されていたのがキャロル・キングであるけれど、2人と比べて彼女の場合、ちょっと立ち位置が違ってくる。もともとオールディーズ時代から職業作曲家として自立していたキャロル、発表された作品に共通しているのは、万人向けの最大公約数を考えて作られている点だ。
 第三者のパフォーマーを想定しての創作スタイルが染み込んだ彼女ゆえ、どれだけ自身の感情を剥き出しで吐露しようとも、そこには、わかりやすいフックとサビが介在する。共感を受け入れやすい歌詞やパフォーマンスは、多くの支持を受け、『つづれおり』は大衆性とアーティストエゴが共存した作品となった。
 ちなみに前述ランキングでも25位に入っている。うん、納得できる。
 ジョニもローラも、扱うテーマはパーソナルなものが多く、一部の共感は産むだろうけど、万人向けのものではない。ある種、個人的な恋愛観にフォーカスを当てているため、それは普遍的なものであるのかもしれないけど、でもそれだけじゃ、広く行き渡らせることは難しい。
 2人とも、キャロルほどの一般性を獲得することはなかったけれど、そもそも「女性シンガー・ソングライター」という共通項以外、3人とも音楽性も生き様もバラバラなので、考えてみれば、比較する方が逆に乱暴ではある。2人とも、チャート・アクションなんてまるで考えていなかっただろうし。

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 で、話は戻って『Blue』。キャロル無双だった70年代初頭のシンガー・ソングライター事情ではあったけれど、ジョニもまた、キャロルほどではないにせよ、CSNYやジェイムス・テイラーらとの交流もあって、知名度はそこそこあったらしい。
 激動の60年代が夢破れる形で幕を閉じ、「歌で世界を変えられる」という想いで集っていた者たちは、絶望の末、ひっそり離散していった。70年代に入り、生き残った者たちは、ごく小さなコミュニティの中で、それぞれ独り私的なテーマへ向かうことになる。
 それは聴き手の側も、同じ想いだったのだろう。「歌は世に連れるけど、世は絶対歌に連れない」。かつて山下達郎も、そう言っていた。
 そんな、右を向いても左を向いても弾き語りシンガーだらけの中、当時から才女と崇められていたジョニもまた、プライベートな恋愛観を歌ったアルバムを制作する。それが『Blue』だった。
 「自我をさらけ出すことがシリアスである」といった風潮もあって、シンプルかつダウナーな世界観が滲み出ている。そういった視点で見れば、基本構造は『つづれおり』と変わらないのだけど、むせ返るほどのパーソナリティは、高揚感とは真逆のものだ。
 1971年リリース当時はビルボード最高15位、本国カナダでは9位、イギリスではなんと3位にチャート・インしている。それだけ自己探求/自分探しに膠着していた若者が、当時は多かったのだろう。
 ただ、そんなネガティヴな先入観を抜きにして、まっさらの状態で聴いてみると、歌と並んで高く評価されたギター・プレイの方に耳が行く。シンプルなアルペジオも注意深く聴いてみると、どこか位相のズレた違和感が残る。
 「曲ごとにあらゆる変速チューニングを試していた」というマニアックな探求振りが、ここでは如何なく発揮されている。単に聴き流してしまうメンヘラの独白とは違って、高度にひねりを加えた歌とバッキングが、ジョニの持ち味である。
 ―歌で世界を変えることは、ちょっと難しいし興味もないけど、自分と近しい周りの人を変えることくらいはできる。
 その近しい範囲が、当時はちょっと広かっただけの話で。

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 なので、2020年現在、『Blue』が注目を浴びることは、果たしていい時代になったと言い切れるのかどうか。単なる再評価ではなく、純粋な音楽クオリティ以外の不穏な力が働いているのではないか。
 人生も50を過ぎると、そんな穿ったことを思ったりする。
 あぁ、我ながらめんどくせぇ。




1. All I Want
 当時付き合っていたジェイムス・テイラーがギターを弾いており、ジョニはアパラチアン・ダルシマーなる不可思議な楽器を手にしている。サウンドだけ聴いてるとメンヘラっぽい弾き語りでどこか不安定、どこか壊れてる風情が漂っているのだけど、和訳を読んでみると、そのまんまだった。
 「好き」と呟いてすぐ「ちょっと嫌い」とスネてみたり、「あなたと一緒に楽しみたいの」と想いながら、それが届くことはない。2人で互いを高め合う関係でいたいけど、私はあなたに尽くしたい。そうよ、どうせ私は孤独が好きなの。
 一見めんどくさそうだけど、こういう女性って、ある種の男は惹かれちゃうんで、男が切れることないんだよな。恒久的な関係築くのは、ちょっど難しいけど。

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2. My Old Man
 弾き語りによるピアノ・バラード。ピアノなんだけど、ピアノのメロディとは微妙にずれる、ギター譜を見ながら弾いてるような、ルーティンとは違う譜割りが、人にはちょっと気持ち悪く感ずるかもしれない。
 「正式な婚姻届けに縛られなくても、私たちは愛し合ってるのよ」という自由恋愛賛歌である反面、それはすでに過ぎ去った過去であることを、切々と歌うジョニ。重いよな、こういう関係って。

3. Little Green
 かつて、ジョニは若くして結婚し、そして女の子を産んだ。ただ、まだ無名のフォーク・シンガーだった彼女に子供を育てることはできず、養子縁組にて手放すことになる。
 オープンGのギターで爪弾かれる調べは、淡々としていながら、時々、熱を帯びる。『Blue』の収録曲の中で、最もプライベートなテーマを持つ「Little Green」。優しく諭すように言葉を紡ぐジョニの歌声は、他の曲と比べてとても穏やかだ。

4. Carey
 スティーヴン・スティルス参加、このアルバムの中では最もアクティヴでポップなナンバー。ピンと張りつめた緊張感が続くセッションの中、共同作業が息抜きとなったのか、自ら重ねたコーラス&ダブル・ヴォーカルも軽やか。
 そういう意味で考えれば、比較的ノーマルなメロディがジョニにしては凡庸に聴こえるのかもしれない。もっと予測不能じゃないと、彼女らしくない。でも、シングル・リリースされてるんだよな。人気あったのかね。

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5. Blue
 レコードで言えばA面ラスト、取り敢えずラストを飾るタイトル・チューンは、アルバムのトーンを象徴する重厚なピアノ・バラード。重い。ひたすら重い。
 かつて恋心を寄せていたシンガー・ソングライター:デヴィッド・ブルーのことを歌った、とされており、本人は否定しているようだけど、その辺はまぁ濁しちゃっても良かったんじゃないかと思う。あまりに私的なその重さは、当時の多くの文系男子・女子の共感を呼び、そして彼らはそれぞれ、物思いに耽ったのだろうか。
 誰もが、『Blue』に憑りつかれていた。そんな時代だったのだ。

6. California
 「Carry」に続き、シングル・カットされた(比較的)ポップ・チューン。かつてのカリフォルニアへの郷愁を駆り立てる、ノスタルジックなペダル・スティールと、時にリズミカルなジェイムス・テイラーのギター・プレイ。歌だけじゃなく、そういったアクセント的なプレイも、出しゃばり過ぎずに抑制が効いてて、多分、この中では一番好きな曲。



7. This Flight Tonight
 アコギのストロークが美しい、ややジャズっぽさの芽生えが窺えるナンバー。ジョニの場合、いつも思うのだけど、こういったストローク・プレイで低音の鳴らせ方がとても巧いのだ。反響させ過ぎでダンゴにならず、弦一本一本をきちんと分離して鳴らし、それでいてきれいにハーモニーさせる技術。やっぱ重度のギターオタクなんだろうな。
 ただ、ギターを深く知ることが目的ではなく、あくまで曲を作り、歌うことが重要であり、テクニックを磨くことに重きを置いてはいない。最初っから、そこが一貫しているのが、彼女の凄みなのだ。

8. River
 「ジングルベル」からインスパイアされた、ジョニ初期の楽曲の中で最も有名で、数多くカバーされたクリスマス・ソング。「Happy Christmas」とは対照的に、孤独で裕綱クリスマス。
 誰もが、家族と友人と恋人と過ごすわけではない。独りで過ごす時もある。それを切々と呟いているのだけど、考えてみれば21世紀に入って「個」の時代が進み、それもまた日常になった。コロナ禍が進んで「孤独」が日常となると、この曲もまたリアリティを失ってしまうのかもしれない。
 それはそれで、悲しいことではあるけれど。

9. A Case of You
 グラハム・ナッシュとの別れを歌った、という説もあれば、レナード・コーエンのことだ、という説も飛び交う、当時のジョニ周辺の混沌とした男女関係が歌われている。ただここでジョニは、歌詞の中でシェイクスピアをサラッと引用したりで、生々しさは取り払われ、文学的な味わいが加味されている。
 数多くのカバー曲が存在するのだけれど、珍しいところでは殿下ことプリンスのヴァージョン。殿下としては珍しくトリビュート企画に参加しており、ほぼストレートなピアノ・バラードのスタイルでカバーしている。ちょっと甘いんだけど、こちらも必聴。



10. The Last Time I Saw Richard
 ラストのピアノバラードは、最初の夫チャックとの短い蜜月を歌った、とされている。つまりは、「Little Green」との深いリンクによって、アルバムは幕を閉じる。そういう視点で見れば、非常に個人的なアルバムである。
 ここでパーソナルな部分、いわば弱みをさらけ出してしまったことで、ジョニのその後の作品は、ストレートな感情吐露が少なくなってゆく。言葉も大事だけれど、むしろサウンド・アプローチの方へ重点を置くようになってゆく。



 ちなみに、次回がレビュー400回目。通常企画とはまた違ったものを考え中。



強い虚脱感、そして、純粋なカルマ。 - Joni Mitchell 『Night Ride Home』

folder ジョニ・ミッチェルが紹介される際、高確率でくっついてくるのが「才女」というフレーズである。本業の音楽だけじゃなく、写真や絵画など、あらゆる表現活動を行なっていることは、わりとよく知られている。
 特に絵画においては、本業を上回る情熱を注いでいる。自らアルバム・アートワークの多くは手掛けており、不定期で個展も開催されていることから、画家としての評価は高いとされている。
 マイルス・デイヴィスやロン・ウッドなど、サブカルチャーとしての絵画を手がけるアーティストはそこそこいるのだけど、水彩画から線描画、本格的な油彩画まで、メインカルチャーとして幅広く手掛けているのは、思いつくところでは彼女しかいない。ミュージシャン引退後のキャプテン・ビーフハートの後半生は画家だったらしいけど、そんなに有名な作品もない。チラッとググってみたけど、サウンド同様、アバンギャルド臭がちょっと強い。あと100年くらいしたら、再評価されるかもしれないけど。

 一応、ジョニのファンの間では、画家としての作品も一定の評価を得ている。彼女の表現活動を知り尽くしたいため、また世俗の些事に煩わされぬよう、多少値が張っても購入する固定ファンの存在が、アーティスト:ジョニ・ミッチェルを支えている。
 これは何となくのイメージだけど、世代からいってジョニのコア・ユーザーは50代以上、可処分所得が多い層が中心と思われる。ストーンズやスティーリー・ダンのライブ・チケットのプレミア価格に難色を示さない、100ドル単位は誤差と捉える富裕層の存在が、ジョニのカリスマ性を維持していると言ってもいい。
 じゃあ、ミュージシャン:ジョニ・ミッチェルというバイアスを取っ払い、純粋な画家:ジョニ・ミッチェルの評価とは、一体どんなものなのか。音楽業界側からの絶賛・礼賛のレビューは数多くあれど、美術業界側からのそれについては、あんまり目にしたことがない。ていうか、今回探してみたけど、見当たらなかった。
 画壇において、ジョニの評価はどういうものなのか、またどんなポジションにあるのか。工藤静香や片岡鶴太郎同様、芸能人の余技程度の扱いなんだろうか。ちょっと調べてみた。

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 こう言うとき便利なのが、前回のジョニのレビューで触れたオフィシャル・サイト。そこでまとめられた膨大なアーカイブは、音楽作品だけにとどまらず、絵画や写真も年代別に整理されている。ジョニ、または周辺スタッフの強いこだわりが反映してか、一種の博物学・文化事業を思わせるディテールのこだわり振りとなっている。
 絵画作品は「Paintings」のカテゴリでまとめられており、作品ひとつひとつに短い紹介文が添付されている。クロノジカルに分類されることによって、技術や手法、さらに作風の変遷がわかりやすいように構成されている。
 60年代の作品はもっぱらスケッチ的、親しい友人・知人に向けてササッと描いた素描画が中心となっている。変則チューニングを多用した当時のフォーク・サウンドを反映するかのように、シンプルな描写やタッチが特徴。この時期はまだ趣味の範疇で、マスへの公開を前提としたものではない。
 フォーク路線から一転して、ジャズ/フュージョン系を志向した70年代になると、表現活動のベクトル変化の影響もあって、しっかり手をかけた油彩画が多くなってくる。音楽だけではなく、写真や絵画など、表現活動全般に本腰を入れるようになったのが、ちょうどこの頃、ジャコ・パストリアスとの運命的な出逢いとほぼ一致する。
 以前も書いたけどジョニ、その時々のパートナーによって、方向性やテンションがガラリと変化する人である。もう少し正確に言えばジョニ、有能なアーティストやクリエイターを惹きつける一種のフェロモンを常に放っている。強烈なインスピレーションとセクシャリティとに絡め取られた男どもを、ちぎっては投げ、ちぎっては投げしながら、自身のクリエイティヴィティに取り込んでしまう。才能なりスキルなりをすっかり搾り取られた挙句、ある男は捨てられ、またある男は零落のあと、命を落とす。そんな男どもの屍をものともせず、我が道をただひたすら突き進む、それがジョニ・ミッチェルとして生きるための業である。
 で、話を戻して80年代。ジャコとの別離、さらにはジャズ・レジェンド:チャールズ・ミンガスとの共演でジャズ/フュージョン路線がひと段落して、大きな転機を迎えることになる。この時期から、音楽作品のリリース・ペースはグッと落ちるのだけど、逆に画業のウェイトの方が多くなってゆく。
 ちょうどバブルに差し掛かった80年代後半、絵の個展開催のため、ジョニは来日を果たしている。音楽活動はまったく関係なく、完全に画家として。ミュージシャンの余技としてではなく、独立して商業ペースに載せられるようになったこと、また、成果主義に強く傾倒した音楽業界への不信感が、ミュージシャン<画家という傾向を強めていった。

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 画壇での評価や絵の優劣について、俺は詳しくない。ただ、なにがしかの権威による箔付けによって、高い評判を得、それに見合った実勢価格がつけられることはわかる。それは創作物全般に言えることであって。価格がすべてとは言わないけど、どれだけの評価なのかの目安はつく。
 で、結局のところ、ジョニの作品って、正直いくらなの?という話になる。例えば、サイト内のこの作品だと、どうやら35,000ドルで売りに出されている。他のオークション・サイトを見ると、だいたいが3,000ドル前後となっている。いずれもプリントではなく原画の相場であり、日本円で言えば30万から350万くらい。あまりにもザックリし過ぎて、適正価格がさっぱりわからない。
 これが個展などの販売なら、もっと価格は跳ね上がるのだろうけど、それもミュージシャン:ジョニ・ミッチェルのファンが購入する確率が高いだろうから、純粋に絵画としてのクオリティの対価というには、ちょっと微妙な気もする。画家:ジョニ・ミッチェルは知ってるけど、曲は聴いたことがない、という人が購入するのは、かなりのレアケースだと思われる。

 70年代のジャズ/フュージョン路線から一転、ひと回り以上年下のラリー・クラインと付き合い始めたのを機に、大衆性を強めたコンテンポラリー・サウンドを志向し始めたのが、ゲフィン時代だった。ヒット・チャートの音楽と並べても遜色ない、間口の広い高級AOR路線がこの時代である。
 ハイパー・テクノポップで一世を風靡したトーマス・ドルビーを引っ張り出してきたり、アーティスティックな視点を失わずに商業的成功を成し遂げた、ある意味ジョニの理想形スタンスに最も近かったピーター・ガブリエルとデュエットしたりして。
 ただ音楽制作に対して生真面目だったジョニ、シンセ・ポップやパワー・ポップ的なアプローチをいくら導入したとしても、肝心のメロディやフレーズのキャッチ―さが欠けている。マドンナやホイットニー・ヒューストンとは、そもそも立ち位置が全然違ってるわけだし。
 また、ジョニを聴くユーザーが、そういった方向性を求めていたかといえば、そんなわけでもなかった。ジョニに心酔している原理主義者ならともかく、この頃の大多数のファンは、ジョニの歌と変則ギター・プレイを中軸とした緻密なアンサンブル、時に大胆で予測不能のインタープレイに惹かれていたわけだし。
 ガブリエルやケイト・ブッシュをモデルケースとした、きちんと芸術性を保持しつつ、多くの一般大衆が思うところの「高尚な音楽」をテクニカルに表現した高級AORを志向していたのが、ゲフィン時代のジョニである。大きなセールスに結びつかなかったのは、アーティスト・イメージの演出不足や、ヒット曲に不可欠なある種の下世話さが足りなかったことなど、まぁ理由はいろいろ。
 目に見える売り上げ成果がなく、しかも高級AORへのニーズが薄いことを悟ったジョニ、その後、音楽活動のインターバルは長くなり、反比例して画業に注ぐ熱量は高まってゆく。それがこの、『Night Ride Home』あたりからである。

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 このアルバムを最後に、ジョニはゲフィンと契約解消し、古巣リプリーズへ移籍する。『Night Ride Home』、またその後リリースされた『Turbulent Indigo』『Taming the Tiger』に共通するのが、解脱したかのごとく、脂の抜けたサウンド・アプローチである。
 シンセ機材の使用は最小限に抑えられ、生音を主体とした、骨太でありながら水面のごとく静謐な音楽。俗世間とは隔絶された、ヒットする/しないはもはや関係ない音楽。
 ―彼岸で鳴っている音。
 揶揄でも皮肉でもない、そんな形容がぴったりなサウンドで統一された『Night Ride Home』は、マドンナともケイト・ブッシュとも、はたまた工藤静香ともまったく別の次元で鳴っている。ギリギリの緊張感で培われた完成度は、従来のジョニのファンでさえ、ちょっと敷居が高く感じてしまう。
 安易な流し聴きを許さない、それ相応の覚悟を聴き手にも求める、そんな音楽である。
 辛うじてエンタメ性を残していた前作までと比して、『Night Ride Home』のサウンドは、恐ろしく共感性が薄い。ストイックに研ぎ澄まされ、鋭利に磨かれた結果、音の純度は高い。「鳴らしたい」音ではなく、「こうあるべき」音しか入れなかった―、そんなところだろう。
 収益を得ることを前提とした商業音楽に背を向け、純粋なクオリティのみを追求した結果、『Night Ride Home』には、ジョニのある強い確信が、剥き出しとなってあらわれている。
 そこにあるのは、強い虚脱感、そして、アーティストとしての純粋なカルマだ。


Night Ride Home
Night Ride Home
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Joni Mitchell
Geffen Records (1991-03-05)
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1. Night Ride Home
 とは言っても、ジョニのアコギ・プレイが大きくフィーチャーされたフォーク・タッチの楽曲は、やはり強い吸引力を放つ。ヒット・チャートに入ることはガン無視だけど、彼女なりにリラックスして、聴きやすさとセッションの心地よさ、そんな空気感がうまくプロデュースされている。
 ちなみにずーっとバックで泣いている夜更けの虫の声、そこまでしつこく引っ張る必要はないと思う。

2. Passion Play (When All the Slaves Are Free) 
 前曲から続く、ほぼ同じタイプのフォーク・タッチのナンバー。ていうか、レコードで言えばA面は、ほぼ全篇こんなアレンジが続くのだけど。組曲として捉えれば納得できるかな。ドローンっぽく響くラリー・クラインのベース・プレイが前面にフィーチャーされている。
 前作までだったら、もっとビートを効かせたアレンジになっていたんじゃないかと思われるけど、もうそういったのはやめちゃったんだな。

3. Cherokee Louise
 今回のジョニのギター・プレイは強めのストロークが特徴となっており、時にまったりしがちな空気感を切り裂くようなインパクトを与えている。この辺はアーティストとしての本能、バランスが働くんだろうな。
 ジョニのレコーディングではほぼ常連のウェイン・ショーターが、センチメンタルなプレイで花を添えている。70年代で幾度もセッションを重ねた2人だけど、かつての緊迫したプレイとは、まったくの別物。お互い寄り添いながら、相手をおもんばかる協調性にあふれている。



4. The Windfall (Everything for Nothing) 
 ポエトリー・リーディングのようなモノローグからスタートする、これまでよりはちょっと凝った構成、不思議な味わいのあるチューン。ここに入れるより、むしろ前作『Chalk Mark in a Rain Storm』のテイストに近い。アルバム通して聴くのなら、やはりこういった躍動感のある曲がひとつやふたつ、あったっていい。

5. Slouching Towards Bethlehem
 20世紀初頭に活躍したアイルランドの詩人W.B.イェイツ作「The Second Coming」にインスパイアされて書かれたフォーク・チューン。そういえば、ウォーターボーイズのマイク・スコットも、イェイツに捧げるアルバムを作っていたし、日本人にはわからない創作意欲を掻き立てる何かがあるのかしら。
 アフロ・テイストながら、決して泥臭い方面に行かないカリウタのリズム・アプローチが、ちょっと気に入っている。こういう強者を惹きつけるキャラクターを持つ女、それがジョニ・ミッチェル。

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6. Come in from the Cold
 シンプルなフォーク・タッチのチューンと思われがちだけど、薄くシンセが載せられており、ある意味、ゲフィン時代のジョニの完成形と言い切っちゃっても差し支えない楽曲。
 思えばジョニ、キャリアの中で最も躓きかけたのが、前々作の『Dog Eat Dog』だった。従来の音楽性とMIDI機材とのハイブリッドを模索し、それは消化不良で終わってしまったのだけど、そんな試行錯誤を経てひとつの結論に達したのが、このようなアプローチ。無理にシンセを前面にフィーチャーするのではなく、ベースのリズムをしっかり構築して、その上にスパイスとしてサイドに寄せるやり方。
 時間はかかったけど、実際にやってみて、体を動かし、そして黙考する。それが彼女のやり方なのだ。

7. Nothing Can Be Done
 で、そんな方法論を推し進め、ゲフィンの要請だったのかジョニの出来心だったのか、コンテンポラリー寄りに仕上げられたのが、この曲。多分、シングル向けの曲が欲しいという双方の思惑が一致したのか、男性ヴォーカルとのデュエット仕様。でも、相手はDavid Baerwaldという無名のアーティスト。前作ピーター・ガブリエルと比べると、どうしても格落ち感が否めない。それでかシングル・カットは見送り。

8. The Only Joy in Town
 レコードで言えばB面にあたる6.からの流れは、ややコンテンポラリー寄りのサウンド・メイキングで構成されている。普通、逆だろ。A面をキャッチ―にするのが常道なのに、そんなにメジャーにへそ曲げちゃったのかね。
 ここでジョニがプレイしている、ソプラノ・サックスの音色は、オムニコードという楽器で代用されているのだけど、こんな感じの楽器。日本製の電子楽器だけど、まぁ普通は知らんわな。案外、世界中に愛用者がいるらしく、ブライアン・イーノやマイ・モーニング・ジャケット、アーケイド・ファイアなど様々。トイ・ピアノ的な使い方なのかね。

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9. Ray's Dad's Cadillac
 『Mingus』あたりに入っていそうなジャズ・チューンを、力技で80年代サウンドにねじ伏せたようなナンバー。もしくは「Big Yellow Taxi」のアンサー・ソング的な。コンテンポラリーの文法を使いながら、楽曲的にはいびつだけど、アプローチとしては前向き。ショーターのサックスが入っているけど、そこまで目立ったプレイではなく、むしろ抑え気味。無理に入れなくても良かったんじゃね?

10. Two Grey Rooms
 もともとは『Wild Things Run Fast』セッションでオケとメロディが書かれた、長い構想の下、仕上げられたラスト・チューン。夭折したドイツ人映像作家/俳優Rainer Werner Fassbinder、同性愛者抑圧の象徴だったドイツ刑法175条からインスパイアされて、一気に歌詞が書き上げられた。
 そんな重っ苦しい主題はわからずとも、荘厳としたピアノとストリングスに彩られた流麗なサウンドは、充分にコンテンポラリー/スタンダードとして昇華している。シリアスな主題を和らげるかのように、サウンドはどこまでも心地よい。



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ステゴロ勝負のような音楽 - Joni Mitchell 『Hejira』

folder 1976年リリース、8枚目のオリジナル・アルバム。US13位UK9位を記録、アメリカではゴールド・ディスクを獲得している。決してポップともキャッチーとも言えない、こんな愛想のない音楽がトップ10近くまで売れてしまう、そんな時代だったのだパンク襲来以前のアメリカって。
 60年代の狂騒の残り香がひと息ついて、まだサタデー・ナイト・フィーバーもない空白の時期、小難しい理屈をこねた音楽に取って代わって、あんまり深く考えないメロディアスなロックが主流になっていた。EaglesとFleetwood Macがトップ争いを繰り広げていた、そんな時代である。
 ただ、時代の趨勢とは一面的なものではない。もう少し繊細に作られた、Steely Danのようなジャズ・フュージョン/クロスオーバー系のサウンドに人気が集まっていたのも事実。
 そんな流れもあって、Joni の音楽もまた、そこそこ受け入れられる土壌があった。シングル・ヒットを狙ったアーティスト以外にも、ちゃんと居場所があった時代の話である。

 フォーク路線でデビューしたはずのJoni の音楽性が、次第にジャズに傾倒していったのは、伝説的なベーシストJaco Pastoriusとのロマンスが契機になった、とされている。
 出るべくして世に出た、若く才能あふれるミュージシャンとの熱愛。出逢うべくして出逢った2人は、仕事でもプライベートでもかけがえのないパートナーとなる。
 主にリズム楽器だったベースというポジションを、フロントでも通用するリード楽器の地位に押し上げたのは、才気煥発なJacoの功績が大きい。ジャズ・ベーシストの第一人者としてはCharles Mingusが有名だけど、彼の場合、プレイヤーとしてよりはむしろコンポーザー的な評価の方が高い。純粋なベース・プレイのテクニカル面だけで見れば、Jaco に軍配があがる。
 Joniもまた天才肌のミュージシャンであり、同時にアーティストである。なので、仲睦まじく和気あいあいといったムードは、望むべくもない。
 共鳴する部分と反発し合う部分、その絶妙なバランスが、セッションでは化学反応をもたらす。例えて言えば、真剣を用いた居合い切りの試合の如く、ギリギリの緊張感の中で行なわれるつば迫り合い。
 そんな真剣勝負、時にイチャイチャもしながら、2人のコラボレーションは数々の傑作を生み出した。

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 いまも世界中のアーティストからリスペクトされ、才女の名を欲しいままにするJoni。音楽だけにとどまらない才能への賞賛、それは確かに間違ってはいないのだけど、反面、誤解されている面も多い。
 若いうちから創作面で頭角をあらわし、David Crosby に見出されてデビューの運びとなったのは知られるところだけれど、クリエイティヴな活動を長く続けるには、また別のスキルが必要となる。単なるひらめきや工夫だけでは、早晩ネタ切れに陥り、先細りになってしまう。
 「天才」の定義として、よく言われるように、「努力する才能」を持つこともまた、条件のひとつである。外部の刺激を貪欲に吸収し、咀嚼して定着させる。インプットした情報を整理する、または整理するためにアウトプットする。その無限ループ。
 それが修練なのか快楽なのか。多分、両方だろう。決して生まれ持った才覚だけで続けてきたのではない。アーティストであり続けることは、何かしらのプラクティスが常について回る。
 そんなJoniの飽くなき探究心が強くあらわれているのが、唯一無二のギター・プレイである。ギターおたくのハシリとも言える彼女は、試行錯誤を繰り返しながら、これまで50を超える変則チューニングを創り出している。特にこの『Hejira』では、曲ごとに調律を変えており、通常のチューニングでは困難なメロディ、ストロークひとつでも奇妙な響きを奏でている。
 現時点で最後の来日公演となっている、1994年奈良東大寺で行なわれたイベント「あおによし」でも、彼女のコードワークは注目を集め、共演した布袋寅泰が手元をガン見していた、というエピソードも残っている。プロ目線で見ると、とんでもないセオリー外しの組み合わせなんだろうな。

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 そんなJoni の書いた楽曲だけど、基本構造はシンプルで、特別技巧を凝らしたものではない。余計な音はそぎ落とされ、一片のムダもない。なので、音符だけ追ってゆくと、ひどく簡素なものになってしまう。
 Joni 自身、楽曲の完成度には重きを置いていないらしい。歌い演奏する者によって、解釈は様々だ。どれが完成したものだなんて、本人にだってわかりはしない。
 ただ、他者とのセッションによって解釈が混じり合い、思いもよらぬ展開に気づかされることがある。頭の中だけで考えたって、想像の範疇というのは限界がある。脊髄反射でなければ気づかないことは、いくらだってあるのだ。
 Joniが求めるリアクションゆえ、当然、パートナーにも相応のレベルが求められる。天才のイマジネーションを喚起させるためには、同レベルの天才を引っ張ってくるしかないのだ。
 ただ、これまでのロック/フォークの人脈では、ある程度、展開が読めてしまう。いくらフリーに演奏してくれと言っても、結局はポピュラーの範疇でまとまってしまう。循環コードや黄金進行ではない、不定形な旋律やアンサンブルを、彼女は求めていた。
 なので、異ジャンルのジャズ/フュージョンへ活路を求めたのは、なかば必然だった。しかも、息も絶え絶えだった旧世代のモダン・ジャズではなく、ロックやファンクをも吸収した、若い世代の音を。

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 それまでのJoniの音楽的文脈にはなかった、Jacoという異物。彼の繰り出す音は、彼女が求めるビジョンと重なり合う部分が多かった。意思疎通に齟齬をきたすこともなく、ただ感覚にまかせて音を出し合うだけ。音楽を媒介とした、理想的な対話の瞬間だ。
 なので、『Hejira』のサウンドの中心はJoniとJaco、ていうかほとんど2人の音しか入っていない。他の音はほんの味つけ程度、まるで精進料理みたいなサウンドである。アサイラムもよく許可したよな、こんな無愛想な音。
 まるで薄氷を踏むような、一歩間違えれば破綻してしまいそうなセッション。コンポーザーでもあるJoniのバランス感覚もあって、どうにかギリギリの位置で、ポピュラー商品として成立している。

 その後、『Don Juan's Reckless Daughter 』、『Mingus』『Shadows and Light 』と2人のコラボは続くのだけど、長くは続かない。天才同士の確執というかエゴというか、それとも愛情のもつれというか。同じ天才とはいえ、スタンスがまったく違っていたことも、2人の行き先を分かつ要因となった。
 Joni とJacoとの決定的な違い。
 彼女はアーティストであり、彼はミュージシャンだった。
 創り上げる過程に携わったり、また壊すことはできるけど、ゼロから立ち上げるのは不得手だったのが、Jacoの天性 だった。数々のリーダー・アルバムやプロジェクトを残してはいるけど、そのどれもがテクニック優先、トリッキーなプレイが大きくフィーチャーされるばかりで、バンドやユニットとしての必然性が見えてこない。
 これは好みもあるだろうけど、俺的にはJoniとの共演を始め、自らイニシアチブを取ることのないWeather Report など、サイドマンとしての彼を聴くことの方が多い。
 持ち前の直感や嗅覚が鋭すぎるがゆえ、努力や研鑽する必要があまりなかったことも、その後の行く末を思えば、不幸だったと言える。テクニカル面での修練はあっただろうけど、その方向性がクリエイティビティ、また協調性へ向くことは、ついぞなかった。
 Weather Reportを脱退し、そしてJoni と別れてからのJacoは迷走し、錯乱の末、遂には浮浪者同然の生活にまで落ちぶれる。その末路は、とても悲惨なものだった。
 顔見知りのアーティストのライブ観覧中、飛び入り出演しようとしたところ、警備員に取り押さえられ、退場させられる。失意の中、泥酔状態でナイトクラブに入ったところ、ここでもガードマンに取り押さえられ、乱闘騒ぎを起こす。その際、コンクリートに頭部を強打、脳挫傷による意識不明の重体に陥った。昏睡状態のまま意識が戻ることはなく、家族同意のもと生命維持装置がはずされ、亡くなった。
 享年35歳。あまりにも早すぎる、天才の死。それはとてもあっけないものだった。
 -なんでこんなことになっちゃったんだろう?
 本人が一番、そう聞きたかっただろうな。

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 壊すためには、構築しなくてはならない。Joniにとっては、どっちも同等であり、そして突き詰めて考えれば、どっちも同じ行為なのだ。
 彼女は感性の赴くまま、曲を書き言葉を書き、そしてギターをつま弾いた。自身と作品に深みを持たせるため、そして欲望に忠実であらんがため、数々の男性と恋に落ちた。インプットとアウトプット。どちらも同じものだ。
 アーティストJoniは、Jacoの天性を取り込むことによって、クリエイティブ面の幅を広げ、そして深化させた。
 対してJacoは、彼女から何を受け取ったのか。その後の不遇を想うと、結局は搾取されるだけの男だったのか。
 解釈は人それぞれだ。
 受け取った荷物は、手に負えぬほどの怪物だったのか、それとも気づかずに通り過ぎてしまったのか。
 いなくなってしまった今、それは誰にもわからない。





1. Coyote
 カナダでは79位にチャートインしたシングル・カット・チューン。トーキング・スタイルで矢継ぎ早に繰り出される言葉と対照的に、メロディアスな一面も見せるキャッチーさを備えている。彩りを添える程度のパーカッション以外は、2人の真剣勝負。The Bandの『Last Waltz』でこの曲がプレイされており、うら若きSteven Tylerを彷彿させる彼女の姿を認めることができる。聴くとわかってもらえるはずだけど、音数は少ない方が、この曲は映える。



(Last Waltz)



2. Amelia
 Jacoに匹敵するもうひとりの天才が、Larry Carlton。このセットも少人数で構成されており、Victor Feldmanのビブラフォン以外は、ほぼ2人のセッション。ステゴロのような1.の緊張感とは対照的に、ここではゆったり親和的なムードが漂う演奏になっている。ツーといえばカー、そんな感じで息の合った対話。
 ちなみにタイトルのAmeliaとは、赤道上世界一周旅行中、消息を絶った女性飛行士Amelia Earhartを指し、彼女に捧げられている。女性の地位向上に尽力したことと、ミステリアスな死によって、アメリカでは偉人的な扱いになっているらしい。マーケティング分析分野において、「ナンバー1でなくても切り口を変えればナンバー1になりうる」ことを「アメリア・イアハート効果」と形容する。それくらいメジャーな存在。

3. Furry Sings the Blues
 3曲目ではじめて、ギター・ベース・ドラムという普通のスタイルでのプレイ。凡庸ではないけれど、着実に安定したリズムの中で歌いつま弾くJoni。ここでの異物は、あのNeil Young。ハーモニカでの参加だけど、アクの強いプレイ。1.同様、言葉数の多いトーキング・スタイルのヴォーカルだけど、アクの強さに引っ張られてブルース・シンガーが憑依する。まぁそれがテーマの曲だけど。
 天才を凌駕するためには、破天荒なキャラクターじゃないと太刀打ちできないことを証明した演奏。

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4. A Strange Boy
 「Amelia」と同じセッションでレコーディングされた、こちらはもう少し2人の拮抗ぶりが窺えるナンバー。Carltonのオカズプレイが堪能できる。

5. Hejira
 再び、Jacoとのセッション。今度はクラリネットが少し入るくらいで、ほぼ2人の世界。フレットレス・ベース特有のハーモニクスの音色は、太くどこまでも深い。基本のメロディはシンプルなので、やはり演奏が際立って聴こえる。この時点での到達点となる、コンビネーションの理想形。

6. Song for Sharon
 フォーク時代の痕跡を残す、メロディ中心に構成されたナンバー。3.のメンバーでレコーディングされ、加えてJoniにしては珍しく女性コーラスまで入っている。他のセッションと比べると大幅にリラックスしているので、上質なAORとしても堪能できる。

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7. Black Crow
 Joni、Jaco、Carltonが揃った、アルバム一番の山場。三人三様、持てる技のすべてを出しての真剣勝負。みんなテンションが高い。激しさのあまり、ロックっぽいフレーズを連発するCarlton、「Whole Lotta Love」みたいになっちゃってるJoniのストローク・プレイ、ハーモニクス・プレイ連発のJaco。みんな好き放題にやりながら、奇跡的にまとまっている。よく4分台に収めたよな。



8. Blue Motel Room
 ステゴロのような掴み合いの後は、ちょっとまったりジャジーなバラード。Carltonもここではあんまり本気出していない。曲調からして、フル・スロットルでのプレイは似合わない。普通のオーソドックスなチューンゆえ、あんまりJoniっぽさはないけど、レアグルーヴ好きなら反応するんじゃないかと思う。

9. Refuge of the Roads
 少人数による緊迫したセッションは一旦終了、メロディ主体のアンサンブルにJacoを放り込んだことによって、オーソドックスな楽曲に適度なアクセントがついた成功事例。これ以上のしつこさだと、歌を食ってしまう。ここでのJoniは歌を聴かせたいのだ。
 最後は存在感をアピールするかのように、Jacoのソロで幕。





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北海道の中途半端な田舎に住むアラフィフ男。不定期で音楽ブログ『俺の好きなアルバムたち』更新中。今年は久しぶりに古本屋めぐりにハマってるところ。
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