好きなアルバムを自分勝手にダラダラ語る、そんなユルいコンセプトのブログです。

「Rolling Stone Magazine 500 Greatest Album Of All Time」全アルバム・レビュー:351-360位


 351位 Roxy Music 『For Your Pleasure』
(390位→396位→351位)

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 デビュー当時からキワモノ扱いで、この時点でもまだ英国ロック界で異彩を放っていたロキシーの2枚目。やっと時代が追いついたのか、安定したチャート・アクション。
 当時のアー写見ると、とりあえず目立ちたい企画モノ路線、出オチしか狙ってない一発屋なんだけど、よく持ったよな半世紀も。イーノ&フェリーのブライアン組以外は、普段どうやって食ってるのか知らんけど、なんだかんだくっついたり離れたり、程よい距離感とペースを保って活動し続けているので、多分、今後も不定期に小ツアーを行なってゆくのだろう。
 ビートやらグルーヴ感やらインプロビゼーションやら、さまざまな要素が付加されて、フォーマットが固まりつつあった「いわゆるロック」をベースとしながら、それを蹴り飛ばして独自のセンスと思いつきで再構築していたのが、初期ロキシーだったと思う。ロックンロールとヨーロピアン・ポップと電子音楽という、こうして書いてるだけでも胸やけしそうな食い合わせを無造作に投げ出している。
 歪んだ美意識とヘタウマなアンサンブルが拍車をかけることで、誰にも思いつけない、思いついたとしても実行しようと思わないサウンドは、その後のアヴァン・ポップの礎となっている。なので初期ロキシー、当時は雑にグラム呼ばわりされていたけど、音だけで言えばプログレ、個々のキャラが八方に突出したパフォーマンス集団として捉えた方がスッキリする。
 アルバム全編通して展開される、不安定で刹那で自意識過剰で思いつき優先なアンサンブルは、聴きやすさを優先したものではない。唐突に変なサックスソロやシンセ、っていうか電子オルガンが割り込んできたり、後期のムーディさとは相反する猥雑さが展開されている。まぁ大体はイーノだけど。
 ロキシーの日本人カバーがなかなか見つからなかったので、無理やり変化球でフェリーの「Tokyo Joe」。有名なのは坂本龍一+渡辺香津美による伝説のユニット:キリンのヴァージョンだけど、他の音源リリースがあったので、こっちを紹介。




 元サンディー&ザ・サンセッツのベーシストだった恩蔵隆、84年のリリース。ちょっとアカデミックで敷居の高いキリンに対し、こちらはニューロマ/テクノポップでアレンジされており、怪しげな猥雑さがうまく表現されている。ちょっと下世話なくらいがいいな、この曲は。
 前回351位はNeil Young 『Rust Never Sleeps』。今回は296位。




352位 Eminem 『The Slim Shady』
(270位→275位→352位)

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 2022年度ロックの殿堂入りにノミネートされたエミネムのメジャー・デビュー作。今回は大幅ランクダウン。
 もうリリース25年になるんだな、このアルバム。当時はちゃんと聴いてなかったけど、音楽・ビジュアル・ファッション、何でもかんでも「エミネム至高」という時代だったから、意識しなくても「My Name Is」は耳タコだった。
 四半世紀も過ぎてたら、ヒップホップの世界ではもう古典と言っていいはずなんだけど、ちゃんと最初から聴き返してみても、そんな古くささや大御所感はまったくない。ほんとにない。
 ーエミネムは最初から、ずっとエミネムだった。そう気づかされてしまうアルバムでもある。
 勢いだけのオラつきじゃなく、正統派のライムを愚直に積み上げる彼のパフォーマンスは、すでに完成の域にあった。安易な小細工を弄することもせず、ただ己の深化のみを追求し続けるエミネム。
 ちょっと持ち上げ過ぎかもしれないけど、そういうことなのだ。コレとレイテスト・トラックさえ聴いていれば、エミネムはおおよそ理解できてしまう。
 オリジネイターとして、白人ラッパーの頂点で君臨し続けるエミネム。でも、それ以降で彼以上のインパクトを持ったニューカマーが出現していない。
 シーン全体としては、それが大きな問題なのだ。
 前回352位はDire Straits 『Brothers in Arms』。今回は418位。




353位 The Cars 『The Cars』
(279位→284位→353位)

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 日本ではもっぱら84年リリースの5枚目『Heartbeat City』が代表作として、ていうかリック・オケイセクがハエになって彼女を追いかけ回す「You Might Think」PVの印象が強烈なカーズ。ランクインしているのはこのデビュー作のみで、その『Heartbeat City』やバカ売れした『Greatest Hits』は、影も形もない。
 シンセとの親和性が高いコンテンポラリー・ポップ・ロックという認識だったのだけど、21世紀アメリカではむしろ、ニューウェイヴのフィルターを通したガレージ・ポップとしての評価が高いらしい。イヤほんとはみんな「Shake it Up」好きって言いたいんだろ、スカしやがって。
 デビューから順調にセールスもポジションもランクアップしていって、これといったスランプも経験しなかった彼ら、『Greatest Hits』の次に出したオリジナル作『Door to Door』が大コケしてしまい、それでやる気なくしちゃって自然消滅したのは、80年代洋楽ファンにはわりと有名な話。その後、しばらく音沙汰なかったけど、オケイセク以外のメンバーがなぜかトッド・ラングレンを担ぎ上げてNew Carsとしてリユニオン。
 トッドが絡んでいる縁で俺も聴いたけど、一回しか聴いてねぇ。付き合いでやった感がハンパない。
 晩節を汚されたままじゃかなわん、とでも思ったのか、オケイセクがようやく重い腰を上げて、オリメンでアルバム制作したのが、2011年。その後も一時的に再結集したこともあったけど、2019年オケイセクが亡くなったため、ほんとの終止符が打たれた。
 前回353位はKanye West 『My Beautiful Dark Twisted Fantasy』。今回は17位。




354位 X-Ray Spex 『Germfree Adolescents』
(初登場)

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 初期UKパンクではまだ珍しかった、女性ヴォーカルの紅一点バンド唯一のスタジオ・アルバムが初登場。パンク・スピリッツに後押しされた初期衝動の勢いだけは天下一品、元祖ヘタウマ・バンドとしても知られる彼らだけど、アンサンブルは案外ちゃんとアレンジされており、ポップで聴きやすい。
 ヴォーカルのポリーだな、いろいろハズしてるのは。ただ、そんなアマチュアリズムの拙さという異物が引っかかりを残しており、バランスよく配置されたアンサンブルに奇妙な揺らぎを与えている。
 初期パンクに多く存在する、「ピストルズのライブに衝撃を受けて結成されたバンド」のひとつの彼ら、オーソドックスなギター・バンドにエキセントリックな女性ヴォーカルだけではインパクト弱いと思ったのか、パンクにしては珍しくサックス担当がおり、そこがひとつの武器になっている。ガチャガチャしたガレージ・ポップと案外本格的にブロウしまくるサックスとのコンビネーションは、多分思いつきだったんだろうけど、結果的に奇跡的な化学反応となっている。
 試験管をモチーフとしたポップなアルバム・アートワークは見たことある人も多いはずだけど、キワモノっぽさが災いして、日本では知名度すら低かった彼ら、90年代以降のオルタナ・シーン、LUSHや少年ナイフからリスペクトされた勢いで2枚目のスタジオ・アルバムをリリースしている。いるけど、当然のように売れなかった。そりゃそうだ。
 女ジョニー・ロットンみたいな歌い方のポリーばかりフィーチャーされがちで、その他大勢的な演奏陣の影は薄いのだけど、初期UKパンクにしては案外ちゃんとしている。おそらくEMIが相当介入したと察せられるプロデュース・ワークによって、疾走感とポップ性とのバランスが絶妙に配置されている。
 前回354位はBilly Joel 『52nd Street』。今回は圏外。




355位 Black Sabbath 『Black Sabbath』
(238位→243位→355位)

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 先日、故郷バーミンガムで久しぶりに2人揃ってステージに立ったオジーとトニー・アイオミ。もともと決まっていたアイオミのショウに、たまたま体が空いてたオジーが乗っかっただけなので、その後の予定は未定。体力的にツアーは無理そうだけど、単発のイベント出演なんかは続けていくんじゃないかと思われる。
 そんなサバスのデビュー作だけど、前回より大きくランクダウン。このアルバムも当時は欧米各地で売れてるけど、やっぱ次作『Paranoid』の方がインパクト強いし有名曲もたくさん入ってるので、そっちと比べると分は悪い。
 雷雨のSEから始まるオープニングや、「Evil」やら「Wizard」といったワードセンスやら、当時のスピリチュアルな悪魔崇拝ブームに乗っかったバンドは他にもいたはずだけど、このジャンルで最も長く生き永らえているのはサバスであり、随一無二のフロンティアとして、今も君臨し続けている。80年代に入ってからちょっと息切れしたけど、コンセプトはずっとブレてないんだよなサバス。何でもそうだけど、やっぱ継続は力だ。
 アルバム邦題『Black Sabbath(黒い安息日)』もそうだけど、「The Wizard(魔法使い)」「Wicked World(悪魔の世界)」のようなシンプルな直訳には、当時の洋楽担当ディレクターの趣味とこだわりが強く反映されている。「Evil Woman」を「魔女よ、誘惑するなかれ」と意訳してしまう力技からは、文系由来のペシミスティックな詩情が漂っている。
 サバスの日本人カバーを長らく探していたのだけど、曲名「Black Sabbath」で検索したら、案外早く見つかったフラワー・トラヴェリン・バンド。内田裕也プロデュース、すっ裸でバイクを走らせるヘルス・エンジェルスのジャケ写は、いまだ異彩を放つ。




 ミュージシャンでありながら、古い日本のロックにも造詣の深いジュリアン・コープも高く評価しており、入魂の大作評論「Japrocksampler」にもジャケ写が使われている。実際、音を聴いてみると、ほぼ完コピなのだけど、考えてみればまだ無名に近かったサバスを選んだ慧眼、今のように参考になる動画もない時代、ほぼ音源のみでここまでのクオリティに仕上げてしまうのだから、当時のバンドのポテンシャル、そして内田裕也の先読み力の凄さをあらためて感じる。
 実はすごい人だったのだな内田裕也。
 前回355位はYardbirds 『Having a Rave Up』。今回は圏外。
 



356位 Dr. John 『Gris-Gris』
(143位→143位→356位)

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 ブルース界の重鎮ドクター・ジョンのデビュー作、今回は大きくランクダウン。ちなみにタイトルの「グリ・グリ」はブードゥー教の御守り・儀式という意味らしい。なるほど。
 南部ブルースにはほぼ興味のなかった俺的にもドクター・ジョン、ロックの基礎教養として、72年リリース『Gumbo』が代表作と思っていたのだけど、今回は圏外。どうやら今はこちらの方が評価高いらしい。
 80年代のロック名盤ガイドでは、セカンドラインの定番として『Gumbo』がセレクトされていた。半世紀を経て、いわば見世物小屋的なキッチュなアプローチが一周回って評価されるようになった、ということなのか。まぁ今どきいないよな、メジャーでこんな人。
 クラプトンやストーンズらUK勢によって、次第にモダンにポップに調理されつつあったブルースを、泥くさく閉鎖的な方向へ引き戻したのが、Dr.ジョンだった。スマートさとは対極の、未開地の部族の雄叫びを模した呪術的なコーラスや無愛想なダミ声ヴォーカルは、コンテンポラリーに傾倒しつつあったブルースへの警笛だった。
 ちなみに本名はMalcolm John Rebennack Jr.で、ドクター・ジョンは芸名。名前の由来は19世紀、ニューオーリンズに実在したブードゥー教司祭から取られている。なんでドクター?ってずっと思ってたけど、やっと謎が解けた。なるほど。
 他のランキングは、かつての代表作『Gumbo』が、398位→404位と来て、今回は圏外。
 多分、YMO以前の細野さんならカバーしてるんじゃね?と適当に思って調べてみたら、確かにやってた。やってたけど、全然斜め上のアプローチだった。




 73年にヒットしたニューオーリンズ・ファンク「Right Place Wrong Time」だけど、ソロではなくYMO散開後のユニットF.O.E.名義でのカバー。1984年の作品なので、ゴリゴリのエレクトロ・ファンクに仕上がっている。当時はYMOの余波が強すぎて話題にならなかったけど、今になって聴いてみると、一周回って全然クール。
 キャラメルママでやっちゃったら単なるコピーで終わってしまうところを、あえてテクノのフィルターを通した切り口でファンクを追求していたのが、このユニットであり、今こそ再評価されるべきである。そういえばJBとコラボしてたよな、F.O.E.。
 前回356位はRandy Newman 『12 Songs』。今回は圏外。




357位 Tom Waits 『Rain Dogs』
(393位→399位→357位)

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 欧米の80年代ベスト・アルバム企画では、ほぼ確実にベスト30に入ってくる、永遠の飲んだくれ詩人トム・ウェイツの代表作。85年のリリース当時はビルボード最高188位と、アメリカでは泣かず飛ばずだったけど、すでに映画俳優としての評価が知れ渡っていたヨーロッパ諸国では、そこそこ売れている。
 日本でも発売時から音楽雑誌で絶賛されており、すでに名盤の雰囲気を醸し出していた『Rain Dogs』、北海道の中途半端な田舎の高校生もちょっと背伸びして聴いてみたのだけど、あまりに無愛想な西洋チンドン屋的演奏と、酒とタバコでしゃがれたトムのヴォーカルを受け入れるには、ちょっとハードルが高すぎた。まだお子ちゃまだったのだ。
 万人向けに聴きやすく配慮されたモノではないけど、何年かに一度、静かな夜に聴くとハマってしまう、そんな音楽。そしてまた、忘れた頃に聴き直してしまう、そんな声と言葉。これまで多くのCDを手放してきた俺だけど、もう数十年も手元に残っている、数少ない1枚でもある。
 このアルバムについては、以前レビューしているので、詳しいところはこちらで。




 ちなみに去年、近所のハードオフで『Rain Dogs』の中古ヴァイナルが5000円で売っていた。即買いには躊躇する値段だったので、その時はスルーしちゃったけど、次に行った時はもうなかった。小さな後悔がまた増えた。
 他のランキングは『The Heart of Saturday Night』が335位→339位と来て、今回は圏外。『Mule Variations』が411位→416位と来て、こちらも圏外。
 多分、原田芳雄だったらライブでカバーしてそうなものだけど、ちょっと見つからなかったので、かなり意外なところで竹内まりや。2019年のシングル「旅のつづき」のカップリングとして、「Ol'55」をカバーしている。




 もともとイーグルスがカバー・ヒットさせて世に知られるようになった曲であり、まりやのヴァージョンもイーグルスのアレンジに準じているのだけれど、心なしか声はトムに寄せて低音気味、思ってたより相性は良い。
 前回357位はRolling Stones 『Between the Buttons』。今回は圏外。




358位 Sonic Youth 『Goo』
(初登場)

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 171位『Daydream Nation』の次にリリースされた、メジャー移籍第一弾のアルバムが初登場。日本では『Goo』から知れ渡ったこともあって、ちょっと違和感あるけど、インディー色が強い作品が評価されるのは、この手のバンドではよくあること。
 90年代以降の彼らのアートワークはどれも傑作揃いで、音は知らなくてもアルバム・ジャケットは結構知られているはず。コレと『Dirty 』、『Washing Machine』のTシャツは、さんざん目にしたもんな。
 おそらくビースティーズと並び、90年代文系ロック/ポップ・カルチャーを先導していた彼ら、バンド単体だけじゃなく、いろいろ包括したトータル・イメージ戦略を担う、優秀なブレーンを擁していた。いい意味で天衣無縫だったサーストン・ムーアに対し、古女房キム・ゴードンがバンド運営を取り仕切ってたから、うまく回ってたんだよな。まぁ、もうずいぶん前に別れちゃったんだけど。
 古参ファンも納得できる程度にイキリ倒しつつ、ビギナーにもそこそこ間口の広い、インディー臭を残したままメジャー展開を続けた彼らは、世界各国のフェスから引っ張りだこだった。ごくごく一部のインディー原理主義者からは、お決まりのアンチな意見もあったはずだけど、その声は小さなものだった。
 オルタナ界のおしどり夫婦と称されたサーストンとキム、他のメンバーもそれぞれ方々で活動し続けている。おそらく再結成する雰囲気はなさそうだし、またそんな芸風でもないので、このままマイペースでやり続けてったら、なんかの偶然でどっかで顔合わせるんじゃね?という適当な展望っていうか願望。
 前回358位はMiles Davis 『Sketches of Spain』。今回は圏外。




359位 Big Star 『Radio City』
(399位→405位→359位)

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 70年代初期アメリカのパワーポップ・バンドとして、今も多くのリスペクト受けているビッグ・スター2枚目のアルバムが大きくランクアップ。個人的には285位『Third/Sister Lovers』より、こっちのギターの音色の方が好きだ。
 前回も書いたのだけど、南部メンフィスという地縁もあってか、なぜかソウルの名門スタックスからデビューしちゃった彼ら。主にオーティスやモダン・ブルースを扱っていたレーベため、ロックの営業ルートを持っているはずもなく、デビュー作同様、こちらも燦々たるセールスに終わってしまう。
 そんな感じで「会社ガチャ」にハズれちゃった彼ら、とにかくメジャー契約が欲しくて焦っちゃったんだろうな。何でもよかったんだろうか。
 ていうかスタックス、彼ら在籍時は業績右肩下がりだったはずなんだけどな。オーティスやサム&デイヴら稼ぎ頭は不在で、ディスコ全盛のご時勢に乗り遅れた印象だったし。
 と、マイナスなイメージばかり書いてるけど、実際に音を聴いてみると、後世で評価された甘く親しみやすいメロディに加え、丁寧に仕上げられたサウンドのクオリティの高さに気づかされる。メンフィスの名門Ardent Studiosでレコーディングされたこともあって、音の分離も良く、ボトムもしっかり利いている。
 名曲「O My Soul」のオープニング、幾重にも織りなされるアイディアをふんだんに盛り込んだ、複雑だけど、めちゃめちゃポップなイントロ。完コピ不能なチルトンのギター・ソロは、多くのキッズの心を鷲掴みにし、また多くのフォロワーを生んだ事実に納得してしまう。
 前回359位はElton John 『Honky Chateau』。今回は251位。




360位 Funkadelic 『One Nation Under a Groove』
(176位→177位→360位)

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 体感的にPファンク、90年代はバック・カタログが軒並み再発され、加えて未発表アイテムも続々発掘されて盛り上がりを見せていた。その後も各メンバーがソロやユニットで来日するたび、リマスター盤が発売されて話題が切れなかったのだけど、21世紀に入るとみんな高齢化で腰が重くなったり発掘ネタもなくなったりして、目新しい企画も少なくなった。
 その90年代のメーカー主導キャンペーンに乗せられた俺、一応、代表的なアルバムは押さえてはいる。いるのだけれど、ファンカもパーラもジョージ・クリントンもブーツィーも、実はいまだに馴染めないでいる。
 でもなぜか、90年代以降のブーツィーだけは受け入れちゃうんだよな俺。ミュージシャンというよりはもはや芸人、若手に担がれ半ば介護されながらフロントに立ち続ける彼の佇まいからは、独特の美学とプライドが垣間見えてくる。
 どれだけヨレヨレになっても、ギンギラなコスチュームと星型サングラスだけはであり、またはずさないのは、終生変わらぬ彼のこだわりであり、また同時に彼の本体でもあるのだ。インスタやってるから見てみ、めっちゃ笑えるから。
 ダンス/ディスコ成分の多かったパーラに対し、サイケ/ロックの要素が強かったファンカは、セールス的にちょっと出遅れていたのだけど、この8枚目でようやくタイトル曲がシングル・ヒットして、これが代表作となっている。どっちのバンドもメンバーほぼ変わんないのは、周知の事実。
 武藤 = グレート・ムタみたいなもんだよな。または綾小路翔 = DJ OZMA。自分で言ってなんだけど、いちいち例え古いんだよな。
 前回360位はBuzzcocks 『Singles Going Steady』。今回は250位。



売れた後は何を目指せばいいの? その先には、何があるの? - レベッカ 『Poison』


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  87年リリース、6枚目のオリジナル・アルバム。デビューから3枚目までは、所属レーベル:フィッツビートの方針で6曲入りのミニ・アルバムだったため、フル・アルバムとしては3枚目になる。
 売り上げ見込みが立ちづらい、いわば育成枠アーティスト専門だったんだよな、このレーベル。大きくブレイクしたのは彼らと聖飢魔IIくらいで、グラス・バレーも宮原学もみんな、売れ線狙う気あんまりなさそうだったし、そもそもレーベル・プロデューサーの後藤次利のソロが、ほぼ趣味全開、キレッキレのジャズ・フュージョンだったし。
 日銭はたんまり入るけど、過密スケジュールでストレスMAXな歌謡曲仕事のガス抜きだったのか、はたまたレーベル立ち上げの箔づけの名義貸し、名ばかり管理職みたいなポジションだったのかも。それはそれで今度、掘り下げてみるか。
 で、この時期のレベッカ、ライブハウスからホール/アリーナ・クラスに格上げされた全国ツアーに加え、テレビ・ラジオのレギュラーやら雑誌のインタビューやらグラビア撮影やら、ほぼ毎月、何らかの形でお茶の間に露出していた。ニッチなコンセプトのレーベルだったにもかかわらず、膨大な不特定多数の一般大衆にも幅広く認知が広がり、このアルバムもオリコン初登場1位、年間でも7位にランクインしている。
 ソニー・グループが80年代に確立した、多角マルチメディア戦略のケーススタディのひとつとなったのが、レベッカの成功だった。それまでロック/ニューミュージック系のプロモーション活動といえば、全国各地のライブハウスを地道にコツコツ回るくらいしか手段がなかったのだけど、彼らのブレイクによって新たなメソッドが確立された。
 メインターゲットを10代の少年少女に定めることで、80年代のソニーはレーベル自体のブランド確立を画策していた。若者ウケするため、「なんかカッコよくしたい」というフワッとしたビジョンのもと、あらゆる手段を講じて必要なインフラを立ち上げていった。
 当時の音楽雑誌の多くは、雑談を適当にまとめたインタビュー記事と、そこら辺で適当に撮られた普段着の写真で構成されていた。そんな近所の音楽好きのお兄さん・お姉さん的な親しみやすさにフォーカスした構成は、それはそれで好感を持てなくもないのだけれど、地に足の着きすぎた身辺雑記が多く、ちょっと食い足りなさが残るものがほとんどだった。
 既存メディアの枠組みでは、思い描くイメージ戦略が実現できないことを悟ったソニーは、自ら出版部門を立ち上げた。きちんとした撮影スタジオとカメラマンによる、凝ったアングル満載のグラビアと、程よくウェットな印象批評を基底としたインタビュー、そしてフワッとした比喩を忍ばせたキャッチコピーを散りばめられた『GB』『PATi・PATi』は、そこまでマニアックさを求めないライトユーザーを幅広く取り込んでいった。
 草の根的な地方へのドサ回り行脚は、この時代でも有効な手段ではあったけど、物理的にも予算的にも限界があった。まだ販促費を充分にかけられない若手を後押しするため、ライブやイメージ映像で構成されたPVを作り、何本かまとめてビデオ・コンサートを催した。北海道の中途半端な田舎のライブハウスでも開催され、そこで初めて小比類巻かおるを知ったのは、もうずいぶん昔の話。
 当時のテレビ歌番組はアイドルと歌謡曲が中心で、よほどヒットしていない限り、ロック/ニューミュージック系アーティストが出演する機会は少なかった。出られたとしてもぞんざいな扱いをされることが多く、それがトラウマで出演拒否するアーティストが多かったのも、この時代。
 なのでソニー、当時アメリカで隆盛だったMTVを範として、アーティストPVをメインとしたテレビ番組を立ち上げた。それが伝説の「ビデオジャム」。当初はデーモン閣下がレギュラー出演してたんだよな。
 オーディオ/ビジュアル系部門において、若者層に絶大な支持を得ていた親会社のイケイケな勢いも、レコード部門の躍進を後押しした。ウォークマンやらドデカホンやら電池まで、少しでも音楽と紐づけられる商品のCMタイアップを積極的に行ない、主に深夜帯に放映されていた「ビデオジャム」より、さらに多くのライトユーザーへの認知を広げた。
 -自分たちにふさわしい環境がないのなら、いっそ作っちゃえばいい。
 そんな清々しいくらい「ど」ストレートな動機のもと、80年代のソニーはありとあらゆるインフラを整え、そしてその戦略がどれも相応の成果を得ている。音楽ビジネスが発展途上だった、そしてユーザーがスレていなかった時代の話である。

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 レベッカがデビューした頃は、まだスタンダードな手法が確立されていたわけではなく、いろいろ試行錯誤•暗中模索の段階だった。彼らをはじめ、尾崎豊や渡辺美里で得た成功事例をもとに、少しずつ整備されマニュアル化されて、のちの世代に受け継がれていった。
 彼ら自身、また制作チームがどれくらい成長ビジョンを持っていたのか。まだ充分に確立されていなかった音楽ビジネスが未知数だったため、目先の自転車操業的なサイクルでしか考えていなかったことは想像できる。
 「レコード・デビューして全国のデカいホールをソールドアウトにして、テレビ・ラジオに多数出演して音楽雑誌の表紙を飾る」。バンドの性格によって多少の違いはあれど、おおよそ多くのアーティストにとって、これらが暫定的な到達目標として設定されていた。
 まぁ本人たちもスタッフも、「志だけは大きく」と思っていたのかハッタリだったのか、「運良けりゃ実現するかも?」的なビジョンだったんじゃないかと思われる。迷走していたベクトルを集約させるためには、誰かが大風呂敷を広げなければならなかったのだ。
 「フレンズ」の大ヒットによって、ブレイクまでの最短距離の道筋をつけたレベッカのサクセス・ストーリーは、ひとつのロールモデルとなった。客席との距離も近く、天井も低いライブハウスからスタートした彼らは、あっちへぶつかりこっちでつまづいたりしながら、着実に歩みを進めていった。当時の邦楽アーティスト・サクセスの終着点となっていた武道館公演も、87年は6日連続開催できるまでになった。
 アルバムを出せばチャート1位は当たり前、人気ランキングでも上位に必ず入っていた。セールスやトレンドリーダーとしてのポジションは、この時点でピークに達していた。
 ただ、バカ売れしたからといって、いきなり絵に描いたようようなセレブスター・ライフを送れるわけではない。清志郎がRC初の武道館ライブ終演後、銭湯の時間に間に合わず風呂に入れなかった、というのは有名なエピソードだ。
 ライブ以外にもスケジュールが埋まって忙しくなり、何となく「売れてる」ことは実感できる。街を歩けば自分達の曲が聴こえるようになり、レコード店でもいい位置にディスプレイされるようになった。あまりいい顔をしていなかった家族にも認められ、なぜだか親類も増えた。時に知らない人から、握手やサインを求められるようになる。
 RCより多くのレコードを売っていたレベッカは、そこそこの報酬を得てはいた。いたのだけれど、過密スケジュールゆえ、金を使う暇がなかった。
 特にフロントマンであり、多くの作詞を手がけていたNOKKOと、作曲担当の土橋安騎夫の負担はハンパなかった。レコーディングに間に合わせるため、作った曲を深夜3時に電話口でNOKKOに聴かせて歌詞を書かせたり、またはその逆、NOKKOが考えたメロディやフレーズを電話で土橋に聞かせて楽曲構成してもらったり、年中綱渡り状態が続いていた。
 アルバムがミリオン超えたりシングルのタイアップが取れたり、いくらライブチケットが秒で完売したとしても、それらはただの数字だ。バンドメンバーのQOLにフィードバックしていたかといえば、それもちょっと怪しい。
 そんなの考えるヒマがないくらい、あらゆる予定が詰め込まれていた。多分、ライブの後に家風呂に入ることはできただろうけど、でもそれだけだった。
 「次は何がしたい」「何が欲しい」と考えられる余裕が奪われていた。
 それが、トップの宿命。そんな時代だった。

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 前作『Time』リリース以降も、レベッカは立ち止まることを許されなかった。当時のセオリーに則り、アルバム・リリースに伴う全国ツアーやプロモーションはみっちり詰め込まれた。
 この時期に武道館6日連続公演を行ない、無数のテレビ・ラジオ出演、音楽雑誌以外からも数々の取材オファーを受けている。その隙間を縫ってレコーディングも断続的に行なわれ、きちんとリリースも絶やさず続いている。
 2月にリミックス・シングル「CHEAP HIPPIES 」、4月にシングル「Monotone Boy」と続き、5月にリミックス・アルバム『Remix Rebecca』と続いている。クリエイター土橋の負担はとんでもないものだったことは予想できる。
 これが大滝詠一だったら、発売延期になっても周りも「しゃあねぇや」って思うだろうし、また実際何度もやってるんだけど、レベッカとなるとシャレが通じない。決算間近の年末にリリース設定されていることから察せられるように、大きな期待と社運がかかっているのだ彼らには。
 実際にアルバムを聴いてみると、仕上がったサウンドから煮詰まり具合は感じられない。盤石の演奏陣と希代の女性ロック・ヴォーカリストによるアンサンブルは、当時の世界レベルに充分達している。
 フェアライトやヤマハDX7に代表される、80年代シンセをメインとしたサウンドの多くは、まだ発展途上のスペックゆえ、チープな音色が嘲笑されることも多々あるのだけど、レベッカの音はそういった線の細さは感じられない。もともとはレベッカ、シンセをメインとしたバンドではなく、ニューウェイヴ以降のポスト・パンク/ガレージがベースとなっているため、ギター・バンドとしてのボトムが盤石なことによる。
 最初にブレイクしたのが「ラブ イズ Cash」だったこともあって、「NOKKO=和製マドンナ」と称されることが多かったけど、バンド全体としてはむしろ、同じ「女性ヴォーカル:男性プレイヤー」という構造を持つブロンディを範としている。キャラ的にはNOKKO、セックス・アピールを前面に出した初期マドンナより、デボラ・ハリーの方がキャラ的にもヴォーカル・スタイル的にも近い。
 マドンナやシンディ・ローパーらのダンス・ポップからインスパイアされたレベッカ・サウンドは、すでに完成の域に達し、本来なら円熟の段階に向かうべきだった。言っちゃ悪いけど、これ以降は過去の自分達の焼き直しでよかったのだ、バンドの精神衛生的にも営業的にも。

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 営業的にもクリエイティヴ的にもピークを迎えたことで目標を見失い、過去のアップデートで対応せざるを得なかった、っていうかクソ忙しい中、結果として「円熟したレベッカ・サウンド」を提示したのが、この『Poison』である。丁寧にプロデュースされたアンサンブルは、インスト単体でも充分成立するクオリティに達している。このインスト・ナンバー、おそらくヴォーカル録り間に合わなかったんだろうな。
 言葉を司るNOKKOの負担もまた、加速度的に増大していた。バンド以外の仕事も多く、創作活動に集中する余裕がなかった。スタジオで最後まで粘って歌詞を書くことも多々あったはずだ。
 「女性をメインとしたロック/ポップ・バンドは、そこまで深い内容の歌詞を求められていない」という誤解が長らくあった。内容やストーリーより、語感を重視していたこともあって、過剰な意味性を避けるのが、暗黙の了解とされていた。
 そんな中、10代のリアルな心象風景をポップなサウンドとシンクロさせたのが、レベッカだった。親子や友人との絆をシリアスなタッチで描いた「フレンズ」は、彼らの出世作となり、時代を超えて今もなお歌い継がれている。
 今まで前例がなかっただけで、実はニーズがあった = そのニーズにうまくハマる作品を最初に明確な形にしたのが、レベッカだった。同じ目線の少女によるリアルな言葉は、10代の少年少女らの共感を強く惹きつけた。
 ただ、アウトプットしてゆくだけでは言葉も細る。身を削るように言葉を綴ってゆく行為は、消耗に拍車がかかる。
 20代半ばのロック少女のボキャブラリーが、そんなに幅広いはずもない。これまでの経験だけで書けるのは、せいぜいアルバム1枚分程度だ。
 見よう見まねで書いてきたポップ・ソングの歌詞も、次第にネタも切れるしテーマも重複してくるし、それよりも何よりも、自分の中でハードルは上がる。
 安直な言葉は軽くなるし、他人には響かない。響いたとしても、それをわかって世に出してしまう自分が許せない。「締め切りに間に合わないから」と言い訳するのは、死ぬことよりもっと辛い。
 重くハードなストーリー展開の「Moon」、多少のフィクションはあるはずだけど、これが普通にヒットチャートに入っていたのだから、当時のアーティスト・パワーの強さが窺える。普通ならネガティヴ過ぎてリテイクされそうなものだけど、それを押し通せるだけの勢いが、当時の彼らにはあった。
 この後、レベッカは長い活動休止に入る。NOKKOだけではなく、メンバーらもまた、限界を迎えていたのだ。




1. POISON MIND
 ライブ映えするオープニング・チューン。シンプルなコード進行とパワフルな演奏、そして水を得た魚のように、縦横無尽飛び回るNOKKO。
 いわば王道、ステレオタイプなライブバンド:レベッカを象徴するロック・ナンバー。シンディ・ローパー成分も多く投入されているけど、イヤここまでのクオリティだったら、むしろ逆だと思いたい。
 長らく洋楽のコピーであることを自認していた日本のロックが、言葉・サウンドともにオリジナリティを発揮できるようになったことを象徴する曲。

2. MOON
 アルバムから2枚目のシングル・カットで、オリコン最高20位。もっと売れてると思ってたんだけど、案外伸びなかったんだな。カラオケではみんな歌ってたよ、情感込めて。
 今では死語となった「不良少女」や「スケ番」というワードが通用していた80年代。ドロップアウトしたティーンエイジャーを描いた歌は、それまでも存在していた。ただ、その多くは「少年/ツッパリ」目線で書かれたものがほとんどで、「少女」の側で書かれたものはほぼ無かった。
 明菜「少女A」が雰囲気的には近いんだけど、あれは明菜自身の言葉じゃなくプロ作詞家の言葉なので、またちょっと違う。あそこで書かれた世界は、「ちょっと拗ねた女の子の不満」を大人目線で、お茶の間にもわかりやすく嚙み砕いて描いたものであり、ニュアンスは微妙に違う。
 社会のルールに馴染めず、万引きや家出でドロップアウトした少女の行く末を、NOKKOはクレバーかつ力強く歌う。情緒的な歌と言葉を支える演奏は、精密なデジタル・ファンクでありながら、ある種の熱を帯びている。
 「MOON」のストーリーは完全なノンフィクションではないだろうけど、リアタイで聴いた当時のティーンエイジャーはみな、ヒリヒリ痛痒い言葉を真摯に受け止めた。多くの少女は多かれ少なかれ、この曲の主人公に自己を投影した。だからカラオケでしょっちゅう聴いたんだな。





3. 真夏の雨
 「NERVOUS BUT GLAMOROUS」のカップリングとしてシングル・カットされた、後期レベッカのバラードでは人気の高い曲。夕立明けの濡れた空気の匂い、そして少女の揺らぐ憂いとがフラッシュバックする、虚ろな情景を見事に描き切っている。
 カットアップした断片をモザイク様に組み合わせた、散文スタイルの歌詞は技巧的ではないけど、触れれば壊れるワードセンスとソウルフルなヴォーカル・スタイルとのギャップが、少女の世界観を引き立たせる。
 ストーリー性を放棄した言葉の綾は、何をしても満たされない少女の抑圧、そして不安/不満を、ほどほどウェットに、かつクレバーにまとめている。多分、松本隆が同じテーマを扱ったら、もう少し整理した起承転結になるのだろうけど、でも彼にこの目線の高さは出せない。それは、まだ少女の面影を残していた、当時のNOKKOの特権なのだ。

4. TENSION LIVING WITH MUSCLE
 パワー・ポップな曲調から、「のんきなスクールライフを適当にノリで描いただけ」と勝手に思っていたのだけど、ちゃんと歌詞を読みながら聴いてみると、全然違った。陽キャやカースト上位とは縁のない、地味な帰宅部らの届かぬ叫びを、NOKKOが丹念に拾い上げている。
 ぽっちゃり振りを先生に指摘された男の子と、クラスに馴染めない女の子。大人に理解を得られないストレスを抱える彼らの叫びを、NOKKOはシンパシーを込めて綴る。「ガンバレ」と励ましたりせず、ただ、歌にするだけ。
 それだけでいい。NOKKOはわかってる。
 気にかけてくれるだけでもいい。傷つきやすい少年少女らにとって、理解者であるNOKKOがこっちを見てくれるだけで充分だったのだ。

5. DEAD SLEEP (Instrumental)
 OMDやトーマス・ドルビーらのUKシンセ・ポップに、ちょっと斜めなプログレ・テイストを足した、そんな亜空間なインスト・チューン。ものすごく気合いを入れて作ったわけじゃなさそうだし、もしかして歌入れが間に合わなかっただけかもしれないけど、結果的にはNOKKO抜きでも充分成立しており、良質のアンビエント・テクノに仕上がっている。
 こういうのをサラッと作れてしまうポテンシャルは、思いつきのフレーズの順列組み合わせとパクリで構成された、他の同時代バンドとの違いが歴然。同時代のフュージョン・バンド:スクエアと肩を並べる完成度を誇っている。

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6. KILLING ME WITH YOUR VOICE
 俺的には「シングル切ってもよかったんじゃね?」と思ってしまう、地味だけど洋楽テイストの濃いアッパー・チューン。マドンナ「Open Your Heart」からインスパイアされてるんだろうけど、いい意味で日本仕様にカスタマイズされている。
 ここでのNOKKOの歌詞は、オーソドックスな王道ラブ・ソングなのだけど、メロディ・アレンジとも高いクオリティで作られているため、シンプルな言葉のパワーが炸裂している。変な小細工なしでも充分勝負できる、そんな無双状態のレベッカのピーク・ハイが、ここで展開されている。

7. NERVOUS BUT GLAMOROUS
 変拍子と転調が縦横無尽に駆け巡り、普通なら演奏もヴォーカルも破綻するはずなのだけど、力技とセンスの両輪でポップに仕上げられた、実はかなり複雑な曲。レベッカ楽器隊のバカテク具合、横綱相撲ぶりを聴くことができる。
 親会社ソニーのミニコンポ「リバティ」とのタイアップが先に決まっており、シングル・カットも念頭に入れて製作されていたはずだけど、よくこんな変則デジタル・ファンク作ったよな。同時代のPINKあたりに刺激されたと察せられるけど、セールス考えるとかなり無謀なチャレンジだ。
 オリコン最高7位は、この頃の彼らとしてはやや低め、それでもベスト10入りしているので、アベレージはどうにかクリア、といったところ。CMソングでありながら、ボーダーぎりぎりのマニアックとキャッチ―な大衆性との両立は、当時の彼らが自らに課したミッションのひとつだった




8. CHERRY SHUFFLE
 時事ネタをあちこち取り混ぜた、ライブ映えするタイプのポップ・ロック。『Wild & Honey』期のアウトテイクみたいなシンプルなアレンジは、アドリブ・パートでいろいろ広げやすそう。
 一般大衆のニーズとして、こういったピリッと辛めの社会批評を混ぜ込んだ、でも肩の凝らないサウンドが最もツボだと思われるし、実際、彼らもNOKKO的にも、この程度ならいくらでも量産できたのだろうけど、そこに留まるわけにはいかなかった。
 愚直にまじめな、彼らの志は高すぎたのだ。

9. TROUBLE OF LOVE
 ラス前のひと休みといったところ、アンニュイなポップ・バラード。CHARAっぽいよなと思ったけど、こっちの方が全然先か。時代的に、ヴァネッサ・パラディからインスパイアされたのかと思って調べてみると、こちらもレベッカが先だった。こっちが本家だったのか?
 いわばインターバルみたいな曲だけど、ロック・スタイルばかりクローズアップされていたNOKKOの別の側面、歌い上げず脱力したヴォーカル・スタイルは、その後のソロで開花することになる。

10. OLIVE
 歌詞中の相手が男なのか女なのか、見方によってどちらでも解釈可能な、広い意味でのラブ・ソング。
 束縛から逃れて暮らす2人、明るい未来が見えたのはほんのわずかで、日が経つにつれ、不安の方がむしろ膨らんでくる。願いを叶えることをゴールとしてはいけない。その後も人は生きていくものなのだ。
 単なるハッピーエンドだけじゃなく、その後の揺れ動く不安もキッチリ書き切ることで、レベッカは王道であることに背を向けた。ただ、そこに触れたことで、新たな切り口を見失ってしまった、とも言える。







80年代ジュリーの軌跡:その2 - 沢田研二 『Bad Tuning』


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  1980年明けて早々、ジュリーはニューウェーヴなテクノポップ「TOKIO」をリリースし、ヌルい歌謡界に強烈なインパクトを残した。次に何をしでかすかわからない、先の読めない俺様路線は日を追うごとに過激さを増していった。
 同世代のGS卒業組の多くが、俳優またはミュージシャン専業に流れてゆく中、彼はメインストリームにとどまり続け、それでいて、どのカテゴリにも属さないオンリーワンのポジションを確立していた。もう少し器用に、それとなくフェードアウトしていって、安定したディナー歌手路線へ行くのも可能だったはずなのに、ジュリーはいつまでも尖った姿勢を崩さなかった。ある意味、いま現在だってそうだ。
 音楽史的に1980年といえば、YMOやらシティ・ポップやらアイドル系やらが主流だったようになっているけど、実際は歌謡曲がまだまだ覇権を握っている時代だった。年間チャートを見てみると、「ダンシング・オールナイト」や「異邦人」など、ロック/ニューミュージック系のアーティストが上位にランクインしている反面、ベスト10圏内に五木ひろしや「別れても好きな人」も当たり前の顔で入っている。
 当時小学生だった俺も、普通に「与作」や「北酒場」歌えたもんな。テレビの歌謡番組が絶大な影響力を持っていた、はるか遠い昔の日常だ。
 もう2、3年経つとアイドル勢の存在感が増してきて、購買層の世代交代が爆速で進んでゆくのだけど、この時点ではまだ新旧世代が入り乱れている状況だった。さだまさしと八代亜紀とノーランズが同じベスト30位以内で入り乱れている、なんていうかもう、群雄割拠。
 そんなカオスな状況なので、実はこの時代、ジュリーだけが突出して浮いていたわけではない。いま以上に奇をてらった一発屋や企画モノが、あの手この手で目立とうと一旗あげようとしていたため、彼のキャラクターもまた普通にお茶の間に受け入れられていた。
 80年代に移ったとはいえ、当時はまだ70年代のエピローグの残り香が終わりきれずに漂っていた。歌謡曲に代表される旧態依然のメインカルチャーが鎮座してはいたけど、グロテスクななアングラ/サブカルチャーが、三面記事で紹介されることも多々あった。山海塾やスターリンも芸能ゴシップ的に、興味本位で取り上げられてたもんな。

 パラシュート背負ってカラコン入れて、本人いわく「のちにタケちゃんマンにパクられた」電飾つけたド派手なコスチュームで挑んだ「TOKIO」は、80年明けて間もないお茶の間に強烈なインパクトを残した。スーパーマンのカリカチュアとリスペクトとパロディが入り混じった糸井重里の歌詞もまた、マンガチックなキャラクター造形に一役買い、幅広いお茶の間層に充分アピールした。
 セールスにどこまで意識的だったのかは不明だけど、スターであることにはずっとこだわり続けていたジュリーゆえ、その裏付けとなるランキングや売上枚数は、常に気にかけていたと思われる。78年にレコード大賞を獲得していたことで、歌謡曲歌手としてはいわゆる「上がり」の状況ではあったけれど、アーティスト:ジュリーとしてのスタートは、80年代に入ってからとなる。
 で、80年の元旦にリリースされた「TOKIO」だけど、当然制作はその前なので、厳密には80年代の作品ではない。前年11月にこの曲を含んだ同名アルバム『TOKIO』がリリースされており、レコーディングされたのはおそらく夏頃と思われる。あんまり重箱の隅突つきたくないけど、リアルな80年代の空気感が反映されるのは、次作『Bad Tuning』以降からとなる。
 全然関係ないけど、80年代洋楽の重要アルバムには必ずランクインしているClash 『London Calling』もPink Floyd 『The Wall』も、リリース自体は79年末だったりする。ほんと関係ない余談だけど。

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 多くの芸能人の例に漏れず、この時期のジュリーも過密スケジュールの中で動いていた。ライブやレコーディング主体の音楽活動だけじゃなく、映画やテレビ出演も普通に行なっていた。
 一日にいくつもテレビ局をハシゴしたり、コンサートだって昼夜2回公演が当たり前。ちょっとした隙間に取材や打ち合わせが入り、夜もスポンサーや業界人との接待があったり、ほぼ24時間「沢田研二orジュリー」でいなければならない。
 そんな年中鉄火場状態の中でもジュリー、年にシングル3〜4枚、オリジナル・アルバムも1〜2枚、全国ツアーも年1ペースで必ず行なっている。そりゃ休みは欲しかっただろうけど、でも芸能人でトップであり続けるためには、それが当たり前の時代だったのだ。
 ちょっと気を緩めたら、すぐ先頭集団から引き離されてしまう。みんながみんな全力疾走ゆえ、足を止めるわけにはいかないのだ。
 その80年の全国ツアー日程を見ると、特に7月はとんでもないスケジューリング。1〜5日は北海道を回り、8日名古屋→9日金沢→10・11日で神戸・京都と南下して九州に下り、そこから折り返して北上、21日から4日間、大阪でファイナル。移動日以外、余裕もなく、ほぼ1ヶ月で日本縦断させられる罰ゲーム振り。
 この80年のツアーで特筆すべき点として、バックバンドの一新が挙げられる。長年行動を共にしていた井上堯之バンドは1月24日に解散し、新たに結成されたオールウェイズが後を引き継ぐこととなった。
 前身バンドPYGから、ほぼすべてのレコーディング/ライブでサポートを担っていた井上の存在は大きく、ジュリーとしても苦渋の決断だった。方向性の違いの溝は埋まらず、ほんとに険悪になる前に発展的解消することによって、八方丸く収まった。
 「過激さを増してゆくジュリーのビジュアル路線に、井上をはじめとしたメンバーたちが着いてゆけなくなった」というのが通説となっているけど、ほんとのところは、本人たちにしか知り得ないことだ。ただ、70年代ロックをベースとした井上バンドのアンサンブルが、ジュリーや制作スタッフが求めていたUKニューウェイヴ/ニュー・ロマンティック志向と噛み合わなかったことが、パートナーシップ解消の要因のひとつではある。

 時系列を整理すると、井上バンドが1月末に解散が決まっており、その前からオールウェイズ結成の段取りは進んでいた。バンドの人選は、80年代に向けてイメチェンを図りたいジュリー自身と、プロデューサー加瀬邦彦の意向が大きく働いている。
 泉谷しげるのバックを務めていた吉田健をバンマスに据え、さらに制作チームの意向を汲んで、柴山和彦・西平彰が召集されている。これがのちのエキゾティックスの母体となる。
 引継ぎ作業は極力スムーズに行なわれたはずだけど、相変わらずジュリーは多忙だし、いくら吉田健周辺で揃えたとはいえ、そうすぐに打ち解けるはずもない。事前に決まっていた4月からの全国ツアーで、オールウェイズが初お披露目となったのだけど、さすがにストレスでやられちゃったのかジュリー、開始間もなく胃潰瘍を患い、1ヶ月ほど入院療養する事態となってしまう。
 そこまで気心知れず、音合わせやリハーサルも充分行なえないまま、ほぼぶっつけ本番で鍛えていくしかなかったのだけど、そんな思惑通り行くはずもない。仲間うちのライブハウス程度ならともかく、ジュリーのハコは主に1000〜2000人のホール・クラスで、不慣れなメンバーが緊張しまくるのも無理はない。さらにPA設備も満足にない時代、ファンのラウドな嬌声は自分のプレイする音も聴き取れず、いくらバカテクでも呼吸を合わせるのは至難の業だ。
 ニューウェイヴ以降のサウンドも飲み込んだ、それなりに現場対応スキルの高いメンツを揃えてはいるのだけれど、あれこれ重なって環境は劣悪だった。それでもフロントマンとして、極上のエンタメを提供しなければならない。そんな責任感の重圧が、一回休みという顛末となった。

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 そんなしっちゃかめっちゃかな状況ゆえ、『Bad Tuning』がスタジオ&ライブ録音を織り交ぜた変則的な構成になったのは、致し方なかった。営業的に考えれば、スタジオとライブと2枚に分けた方が、リリース・スケジュールも埋めやすいし、ジュリーも余裕を持った仕事ができたはずなのに。
 多くの歌謡曲歌手同様、ジュリーもまた、70年代~80年代初頭までは、ほぼ年1ペースでライブ・アルバムをリリースしている。リリース契約を効率よく消化できるアイテムとして、低コストで製作できるライブ・アルバムや、キラー・チューン以外は適当に取り繕ったベスト・アルバムを市場に放つことで、リリースのブランクを最小限に抑えていた。
 この80年は、ていうかこれ以降、毎年恒例だったライブ・アルバムは制作されなくなる。ジュリーに限らず、この頃くらいから、安直なリサイタル完全収録アルバムのニーズが減った、ということなのだろう。
 数回程度の単発ライブにも大型ツアーにも共通して、レコード会社が主催・協賛となっている場合、多くはニュー・アルバムのプロモーションが主目的となる。ライブのみの音源も多い米米や清志郎は別として、ほとんどはアルバム発売後に収録曲中心にセットリストを組むのがセオリーである。
 で『Bad Tuning』、録音クレジットを見ると、5/24横浜スタジアムと5/31大阪万博会場の音源が使用されている。で、アルバム発売が7/21。当時のアルバム製作状況がどうだったのかは不明だけど、普通に考えても、制作進行はかなり切羽詰まっていたことは察せられる。
 多分、制作チームは早い段階からスタジオ録音に見切りをつけていたと思われる。従来の井上バンドだったら、最悪楽曲さえ揃っていれば、ジュリーがいなくてもチャチャッと最終オケまで作っておくことも可能だったはずだけど、急造のオールウェイズにそれを求めるのは、ちょっとムズい。
 で、ツアー回ってるうちにアンサンブルもどうにかこなれてきて、頃合いを見て短期集中でスタジオに入る手筈だったのだろうけど、あいにくジュリーがダウンしてしまった。すべての段取りは、これで崩れてしまう。
 どうにかブランクはひと月程度で抑えられたけど、他の仕事も詰まっていたため、レコーディングを最優先するわけにはいかない。でも、リリース・スケジュールはそう簡単に動かせない。さぁ、どうする。
 もしかして、ひと通りのスタジオ録音は行なわれたのかもしれないけど、互いに不慣れな状況ゆえ、出来不出来が激しかったのかもしれない。それならいっそ、ラフな部分もあるけど、勢いはあるライブ音源に差し替えた方が、と判断したんじゃなかろうか。
 ちなみにこのアルバム、ほかにも何かと不明な点が多い。クレジットには、上記2ヶ所のライブ音源に加え、リハーサル・スタジオやなぜか大阪のホテルのルーム・ナンバーも明記されている。セッティングする余裕もなく、空いた時間に無理やりテレコ持ち込んで録ったんだろうか。
 「とにかく、どうにか形にして帳尻合わせちまえ」的な勢いは、確かに感じられる。こういった不埒な熱気、近年は感じられなくなっちゃったな。




1. 恋のバッド・チューニング
 4/21に先行シングルカットされた30枚目のシングル。なので、こちらはスタジオ録音。作詞:糸井重里=作曲:加瀬邦彦と、前作「TOKIO」と同じ布陣で挑んだにもかかわらず、オリコンでは最高13位、ベスト10入りは逃している。ただその「TOKIO」も、実は最高8位止まりだったため、取り敢えず平均値はクリアしている。
 「TOKIO」同様、随所でチープな音色のシンセを効果的に使ってはいるのだけど、こっちの方がロックテイストは強い。アレンジャー:後藤次利の仕切りで、スタジオ・ミュージシャン中心に作られているため、きちんとした職人の仕事で収まっている。
 バウ・ワウ・ワウやブロンディからインスパイアされた、ちょっとラフなガレージ・ポップは、ジュリーのビジョンに適っていたんじゃないかと思われる。オールウェイズのサウンド・コンセプトの叩き台として、その後のキャリアの指針となった重要曲でもある。

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2. どうして朝
 ここからオールウェイズ演奏によるライブ・ヴァージョン。のちに「スシ食いねェ!」や「ロンリーチャプリン」も手掛ける岡田冨美子:作詞、鈴木キサブロー:作曲、両者ともジュリーとは初手合わせとなる。
 歌謡テイストの少ないストレートなロック・チューンに仕上げられており、アンサンブルはこなれている。ただ演奏スタイルは70年代っぽさが強く出ており、ニューウェイヴ臭は薄い。井上バンドでも充分まかなえるサウンドではあるけど、でも練り上げる時間がなかったから、こうするしかなかったんだろうな。
 「したくないことしたくない」
 「コペルニクスよ あんたがあんたが憎い」
 「エジソン ニュートン 考えて考えてくれ」
 大風呂敷広げるトリックスターとしてのジュリーの特徴を見事に捉えた、ていうかジュリーじゃないとサマにならない歌詞世界は、もっと評価されてもいいんじゃないかと思う。

3. WOMAN WOMAN
 前曲に引き続いて演奏される、やや歌謡テイストの入ったロックンロール。制作も再び岡田=鈴木コンビによるもの。
 全体的に「Honky Tonk Women」っぽいメロやギターリフだけど、この頃の日本のロック界は、ストーンズ神話がまだ強かったことが窺える。結成してまだ日も浅かったため、ライブでは破綻しないことを最優先し、こういったシンプルなアレンジになったのだろうけど、スタジオだったらもうちょっとリズムに凝ったりしたんだろうか。その辺がちょっと気になる。
 
4. PRETENDER
 初参加となる宇崎竜童が作曲、当時はプラスチックスにいた島武実:作詞による、エモーショナルなバラード。激しいロックチューンから正統派バラードまでこなせる引き出しの多さ、そして、どう転んだってセクシーになってしまう声質は、ジュリーの魅力の中でも大きな割合を占める。
 オールウェイズによる演奏なので、こちらもライブだけど、観衆の気配が薄い臨場感のなさと演奏の音の悪さから、どうやらリハーサル・スタジオで録音されたものと思われる。ジュリーのヴォーカルも変な響きだし、当時はこれがベストテイクという判断だったのだろうか。

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5. マダムX
 再び普通のライブ・テイク。作詞の浅野裕子は女優・モデルを経て、作詞・エッセイストと、幅広く活動していたらしい。ちなみに作曲は後藤次利。この頃からフックの効いたメロディを作っている。
 「自分の歌だけど嫌い」と公言して憚らない「OH!ギャル」みたいな歌詞だけど、いわゆるセミプロ作詞家の手による世紀末的な散文は、常に既存の価値観をひっくり返したいと目論んでいたジュリーの思惑と、結果的にシンクロしている。

6. アンドロメダ
 岡田=鈴木コンビによる、キャッチ―なロック・チューン。正直、「恋のバッド・チューニング」よりもシングル向きだったんじゃね?と思ってしまう。
 ジュリー特有のキザなダンディズムとデカダン風味、それを彩るAメロ・サビもすごくいいんだけど。70年代なら、間違いなくシングル候補だったんだろうな。それがちょっと惜しい。




7. 世紀末ブルース
 「恋のバッド・チューニング」のB面が初出だったため、こちらはスタジオ録音。旧知の大野克夫が作曲を手掛けているため、ジュリーのキーとツボを押さえた歌謡ロック。
 ライブでは、極力シングルを歌いたくなかったジュリーゆえ、こういった盛り上がる曲は必要で、その役目を十分果たしている。大風呂敷広げた態度のデカい歌詞もまた、虚構としてのスター・ジュリーを巧みに描いている。




8. みんないい娘
 「恋のバッド・チューニング」と同じプロダクトでレコーディングされた、こちらもスタジオ録音。糸井:加瀬コンビによるミディアムなパワー・ポップ。
 シングルとしてはちょっとインパクト弱いけど、親しみやすいメロディは口ずさみやすく、ほのかなGSテイストも感じたりする。こういう良質な曲がこんな地味なポジションで収録されているので、ジュリーのアルバムは侮れない。シングルだけ押さえておけばいいシンガーではないのだ。

9. お月さん万才!
 ちょっとミステリアス、またはオリエンタルな風味も漂うイントロに導かれる、セクシャルなバラード。アルバム・コンセプトとはちょっとはずれているけど、これも切ない美メロが耳を惹く。
 感傷的なギターソロやストリングスなど、退廃的なムードが郷愁を誘うのだけど、ジュリーはもっとずっと先を見据えていた。この路線は手堅くはあるけど、求めているのは違う世界なのだ。

10. 今夜の雨はいい奴
 ラストは直球の感傷的なバラード。イヤくさいほどキザなんだけど、ここまで聴き進めてきて、改めて感じてしまうのは、ジュリーのヴォーカルの巧さ。ピッチやリズム感ではなく、ハミングするだけで空気に彩りを与えてしまう存在感。シンプルな演奏であるからこそ、彼の底知れぬポテンシャルが浮き出ている。






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北海道の中途半端な田舎に住むアラフィフ男。不定期で音楽ブログ『俺の好きなアルバムたち』更新中。今年は久しぶりに古本屋めぐりにハマってるところ。
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