75d1e96b 1999年にリリースされた、椎名林檎のデビュー・アルバム。チャート的には最高2位だったけど、恐ろしくロング・テールな売れ方をしたため、最終的にはミリオンに到達した。
 したのだけど、正直、そんなのはどうでもいい。
 そんなのは、ただの結果だ。

 俺の個人的な感覚では、70年代から台頭してきた、恋愛を絡めた身辺雑記的シンガーソングライターというのが、一般的なフィメール・シンガーのポジションだった。乱暴な言い方になるけど、ユーミンもみゆきも太田裕美も大貫妙子も、デビュー当時はこのジャンルでひと括りにされている。地道にキャリアを積み上げることによって、今ではそれぞれ、オンリーワンのジャンルとして確立してはいるけど、レコード会社の販売戦略に則ったスタート地点といった見方では、どれも大差はない。
 それが時代を経て、「男女の恋愛」を軸とした従来の世界観だけでは、情報過多となったユーザーを惹きつけることが苦しくなってきため、それに代わる新たな展開として登場したのが、渡辺美里から始まるガールズ・ポップの流れ。
 「愛だの恋だの語るのもいいけど、女の子同士の友情も大事だよねっ♡」といった、同性へ向けて「フレンドリーな共感」を喚起する「プレ応援ソング」が席巻するようになる。男女雇用機会均等法成立に伴う男女差解消の流れによって、相対的に男性の立場が弱くなっちゃったことも一因だと思われるのだけど、「ライトな恋愛観」や「男女間の友情」など、「何がなんでもラブソング至上主義」といった流れに区切りをつけたのが、美里の登場だった。
 このポジションもしばらくは彼女の独占市場だったのだけど、90年代突入後のドリカムの登場によって多様化が進行し、林檎と同時代に出てきたaiko、同じ世界観ながら、汎用性を高めた西野カナやmiwaなど、一連の流れはいまも続いている。

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 その90年代に入ってからの女性アーティスト市場は、前半がビーイング、後半は小室サウンドが主流となって、日本の音楽チャートを牽引していた。流行りものとは言っても、手練れの職人らによって周到にプロデュースされたトラックは、正直、オートチューン主流の現在のサウンドよりも質が高い。欧米のトレンドをそのまんまパクったり、往年の歌謡メロディによってベタな箇所も見受けられるけど、クオリティの高さは今でも充分通用するものだ。
 ただ、ここでの主役はプロデューサー、またはそのブレーンであって、アーティスト個人のパーソナリティは二の次に追いやられている。要するに、「誰が歌ってもいい」ということ。緻密に構築されたサウンドは、それだけで充分記名性を発揮する。ヴォーカルはいくらでも互換可能だった。

 で、長らくシンガー・ソングライターかガールズ・ポップくらいしか選択肢のなかったフィメール・シーンにおいて、これまでとは別の方向性を提示したのが、UAから始まるR&B勢の台頭だった。
 これまで女性シンガーにはあまり重視されていなかった、ソウルフルなヴォーカルやアシッド・ジャズ的サウンドへの志向が、当時のクラブ文化とのシンクロを果たしたことも、ひとつの要因だったんじゃないかと思われる。misiaやbirdなんかも、彼女が道を切り開いてくれたからこそ、道筋がついた部分もある。
 そういったフィメールR&Bサウンドの大衆化は、宇多田ヒカルの登場によって、爆発的な普及を果たすことになる。

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 で、前置きが長くなったけど、宇多田とほぼ同時期に登場したのが、林檎。
 当時の彼女もまた、既存ジャンルに当てはまらない可能性を有してはいたはずなのだけど、何の実績もないド新人をプロモートしてゆくためには、どうしても何がしかのカテゴライズが必要になる。ただ、それはあくまでレコード会社の都合によるものであって、この場合、アーティストの本意は反映されづらい。
 林檎もまた、安易なジャンル付けに反旗を翻し、EMIと一悶着の末、イギリスへ退避している。当時のフィメール・シーンにおいて、Radioheadやブランキーにインスパイアされた女の子に見合うポジションがなかったのも一因だろうけど、だからといって、安直に「オルタナ・ガール」的ポジションを作ってもらったとしても、それはそれでブーたれてたんじゃないかと思われる。年頃の女の子って、そういうもんだし。

 EMIとの軋轢が露骨に現れているのが、デビュー曲であり、このアルバムにも収録されている「幸福論」。シングルとアルバムで、ミックスやエディットが違っているのはよくあることだけど、この曲においては、アレンジのアプローチ自体がまるで違った、全然別の曲に仕上げられている。
 先行リリースされたシングル・ヴァージョンは、不思議ちゃん系のガーリー・ポップでまとめられている。ノホホンとした牧歌調のメロディにもマッチしているので、違和感もない。
 不満を含んだ鋭い眼光で前方を睨み、ミント・グリーンのギターを抱える、不揃いな前髪パッツンの林檎。あからさまに「無理やりやらされてる感」を見せるその表情から伝わってくるのは、頑なな拒絶だ。
 サブカル=メンヘラ系のステレオタイプ。
 レコード会社としては、明快でわかりやすいキャラ付けのため、何かと販促展開しやすい。
 でも売れねぇよな、これじゃ。
 あまりにありきたりすぎて、彼女の本質は見えてこない。

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 対して、アルバム・ヴァージョンの「悦楽編」。
 ここでのオルタナ調オイパンク・アレンジによって、当時の林檎の本質が生々しく表現されている。骨格となる歌詞やメロディはそのままだけど、轟音ディストーション・ギターとコンプで潰れまくったヴォーカルとバスドラが、牧歌的で和やかな世界観を完膚なきまでぶち壊している。モッシュやダイブに最適化された音の渦は、聴く者のダークな感情を逆撫でし、猟奇的なカタルシスへと導く。
 そこにあるのはガーリーな「共感」ではない。あるのは、生のまま投げ出された「混沌」だ。

 前述したように、従来のJポップの流れから出てきたサウンドではない。ていうか、そのJポップの定石からは、ことごとく外れまくっている。
 「ここでキスして」は比較的正統な激情ロッカバラードになっているけど、他のトラックはどれもゴツゴツした仕上がりで、耳ざわりの良い感触ではない。
 多感な十代少女の言葉の礫は、従来ガールズ・ポップや歌謡曲のような均整の取れたものではなく、文法は破綻している。詩情的なフレーズがあったかと思えば、そこに被さるように、他愛ない言葉遊び、語感を優先したゴロ合わせが続いたりする。
 その言葉たちの塊はいびつだけど、他者の修正が入るのを頑なに拒絶している。すべては選ばれるべくして選ばれた言葉たちなのだ。
 爛熟期に入った世紀末だったからこそ、世に出れた音楽だったとも思う。プラマイ10年違ってたら、もっと体裁よくプロデュースされたか、時代の徒花で終わってたんじゃないか、とは俺の独断。いずれにせよ、このままの形で作られることはなかっただろう。
 決して多くのリスナーにアピールできる、間口の広いアルバムではない。ないのだけれど、従来Jポップだけじゃ満足できなかった層、また野外フェスの勃興に伴ってオルタナ・サウンドが一般リスナーの耳に届きやすくなったことも含め、林檎を受け入れる土壌が出来上がってたんじゃないのかな、と思う。
 じゃないと、普通に考えてミリオン行くようなアルバムじゃないし。

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 「ちょっとメンヘラ入ったエキセントリックな文学少女的アーティスト」というスタイルは、何も林檎が初めてというわけではない。遡ればNicoやKate Bushらがここに該当するし、日本でも森田童子や戸川純など、決してマスに遡求するほどではないけど、どの時代でも少数のニーズがあるポジションである。
 なので、林檎も戸川純と同じくくりで捉えられがちだけど、ちゃんと聴いてみると、各々の世界観のベクトルはまるで違っていることに気づかされる。
 奇矯なパフォーマンスや言動が特徴的な戸川純のインスピレーションの原点は、青春期までの抑圧やコンプレックスに端を発する。彼女が吐き出す言葉から浮かび上がってくるのは、従来の文学少女的な心情吐露、「私を見て、いやそんな見ないで」という承認欲求と被害妄想とがグチャグチャに入り交じった昭和の女の情念だ。
 社会のルールや慣習に従わされ、抑圧を溜め込んだ昭和の少年少女たち。その抑圧は常にリミットぎりぎり、今にも爆発しそうなほど肥大しているけど、悲しいことに、そのリミッターの力はあまりに強い。もしかすると、ただ強いと思い込んでいるだけなのかもしれないけど。
 今で言うリア充たちの青春を斜め上から蔑みながら、それでいて、彼らのような生き方を求める自分も確かにいる。
 かといって、そんな環境には絶対馴染めないこともわかっている。結局、いるべき場所はここしかないのだ。別にここが居心地いいわけじゃないのに―。
 そんな少年少女たちの虚ろな想いの反動、昭和的情念のビッグバンを体現していたのが、当時の戸川純だった。
 引きつった微笑を浮かべながら、時に金切声でシャウトし、時に不器用によじれたダンスを見せる彼女の一挙一動は、最初こそ物珍しさで注目を浴びていたけれど、次第に老若男女を問わず自然と受け入れられるようになった。
 その頂点と言えるのが、『釣りバカ日誌』のレギュラー獲得。芸能界的ポジションで言えば、スゴロクの上がり的なポジションである。
 彼女が受け入れられた理由は明白だ。
 誰しもが多かれ少なかれ、戸川純的な要素を持っていたから。心のどこかにみな、戸川純が潜んでいるのだ。
 でも、それは誰にも見られたくない。

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 対して林檎。
 この人もまた、大正~昭和のエログロ・ナンセンスに惹かれて、いまだビジュアル・イメージはその系譜をたどっているけど、その歌詞からは、戸川純のような情念はあまり感じられない。戸川純からにじみ出ていた生理的な雌の臭いも、林檎からは漂ってこない。その質感は極めてドライだ。
 前述したように、突発的な言葉遊びとゴロ合わせ、多感な十代の目線から活写された風景描写から見えてくるのは、オーソドックスなひとりの女の子の素直な雑感だ。その作風はむしろ、桑田佳祐との親和性の方が高い。
 ただそれが、十代少女によくありがちな、ちょっとだけ目線がひねているだけで。
 そのねじれ具合は、世紀末の少年少女たちの「共感」を喚起する。誰もが林檎的な部分を心の奥に、大切にしまい込んでいるから。

 なので林檎、戸川純の系譜を辿っているのわけではない。
 むしろ、戸川純へのリスペクトが強いのは、鳥居みゆきだろう。


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1. 正しい街
 デビュー直前に制作された、記念すべき1曲目。彼女のこれまで、そしてこれからを形成した故郷福岡の情景、恋人との別離を詩情あふれるタッチで描いている。思えば、これが一番正統な文学的歌詞なのかもしれない。他の歌詞は結構やりたい放題だし。
 プロデューサー亀田誠二のディレクションが良く取り沙汰されており、実際、ここでの奔放かつ計算されたベースラインは、今を持ってグルーヴ感たっぷり。
ただ最も驚くべきなのは、完パケテイクとデモテープとが、ほとんど変わっていないこと。ちょっとしたオカズ以外、曲も歌詞もそのまんま、すでに完成されている。
 安易に手をつけようがなかった、というのが改めてわかる名曲。


2. 歌舞伎町の女王
 当時のインタビューで自ら「新宿系」と揶揄するきっかけとなった、レトロ歌謡曲チックなシングル曲。この当時の林檎は歌舞伎町に足を踏み入れたことがなく、ほぼ想像で描かれたフィクションなのだけど、まぁ歌詞聴いてりゃわかるか、そんなの。
 あまりに荒唐無稽だし。ベタな寓話的なストーリー展開を、これまたべらんめぇ調で歌ってるのが、アバズレ感を強調している。
 ベースの亀田の名演は定評があるけど、ここでの主役はやっぱり林檎。自らドラムも叩いているのだけれど、これがまぁヤケクソ半分のドッスンバッタンな轟音ビート。そこから一転、間奏ののん気な口笛。
 ここでそう来たか、と当時は思ったもの。



3. 丸の内サディスティック
 とっ散らかった言語感覚が最もとんがった形で現れた、これも初期の名曲。率直な感想として、ギターが入ってないのに、ここまでカッコよくロックができる、グルーヴできるんだ、ということに驚いた。ここから俺の林檎熱が始まった。
 ランニング・ベースと叩きつけながらも流麗な鍵盤。そこに絡んでくるファンキーなピアニカ。これ以降、林檎自身、様々な形でリアレンジを挑んでいるけど、初期型ほどの完成度はまだ見られない。それだけすごすぎるのだ。
 歌詞?まぁゴロ合わせだから、真剣に取らなくてもよい。



4. 幸福論 (悦楽編)
 本文参照。言いたいことは言っちゃったし。
 ちなみにライブでは、トラメガを使ってがなり立てることが多い。アジテーションを思わせるそのスタイルは、まさに批評的。


5. 茜さす 帰路照らされど・・・
 ここで正統派バラード。「こういうのもできちゃうんだよね」といった軽いタッチでサラッと作ってしまったけど、メチャメチャ名曲に仕上がっちゃった、って感じが伝わってくる。当時の彼女なら、きっとこんな曲はいくらでもできたんじゃないかと思われる。神がかっているとも言えるし、一時のPrince的なオーラすら感じる。タイプはまったく違うけど。
 秋の夕暮れの田舎道を連想させる、それでいて、遥か彼方のアイルランドの少女のささやきも同時に聴こえてくる、「切なさ」というのをどこまでもリアルに描いた名曲。十代の女の子ってすごいよな、こういったのを気負いなく作れちゃうんだから。

6. シドと白昼夢
 実はリアルタイムでは、ほぼ飛ばしていた曲。なんかしっくり来ない。EDMを使うのは世紀末のアーティストとしてはもちろんアリだけど、どうもピンと来なかった。「尽くす女」が主人公だからだろうか?ライブでは楽しそうだけどね。

7. 積木遊び
 なので、5.から直でつなげて聴いていたのが、これ。こちらも言葉遊びから曲に発展したような、ていうかお前、「ジャクソン夫人」って言いたいだけだろっ、と突っ込みたくなってしまう、でも好きな曲。
 そうだよな、何となくシンセのプリセットで琴の音で遊んでて、しばらく遊んでたらパッと「ジャクソン夫人」って思いついただけだよな。



8. ここでキスして。
 オリコン・チャートは最高10位だったけど、息の長い売れ方をしたため、最終的には30万枚の大ヒットとなった、椎名林檎の名を世に知らしめたシングル・カット曲。
 俺的にはここでの林檎は「よそ行き」であり、一般リスナーにもわかりやすい形で提示された佳曲だと思っているのだけど、ストレートな感情を効果的に表現するために、ロッカバラードに仕上げた亀田誠治の尽力は大きい。
彼のキャリアの中でも、ベスト・ワークに入る名曲。名曲ばっかりだな。

9. 同じ夜
 その後もたびたびコラボすることになる斉藤ネコのバイオリンが叙情を誘う、椎名林檎のセンチメンタルな一面を活写した、こちらもファンの間では人気の高いバラード。中二病的な歌詞はメンヘラ臭がほのかに漂うけど、ある意味、これも林檎の本質だと思えば、ついつい聴き入ってしまう。
 不安定なメロディは聴きやすくはないけど、どこか親しみを感じてしまうのは、誰もが心の中に破綻した部分を持っているから。

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10. 警告
 Nirvana系のステレオタイプなオルタナ・サウンドは、このアルバムの中で最もロック的なサウンドで埋め尽くされている。
 いや実は俺、これも当時は飛ばして聴いていた。個人的な意見として、俺が求める林檎は類型的なロック・サウンドではなかったのだ。こういったステレオタイプを茶化しながら、飄々とした感じでオリジナリティを追求してゆく姿勢が好きだったんで。
 
11. モルヒネ
 なので、9.に続いて聴いてたのが、これ。
 ラストはポップなアコースティック・ナンバー。後半になって音が増えてくけど、前半のとぼけた感じがいい。
 タイトルから察せられるように、言葉遊びを遊び尽くしたラリってるような歌詞は、まぁこれも深読みする必要もなく。この辺が戸川純との大きな違い。戸川純だったら、ここに「意味」が入ってしまうだろうし、特別なかったとしても、マニアは強引に「解釈」しちゃうんだろうな。




私と放電
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