好きなアルバムを自分勝手にダラダラ語る、そんなユルいコンセプトのブログです。

中島みゆき

みゆき vs. ユーミンは、もう昔。 - 中島みゆき 『歌でしか言えない』

268x0w 1991年リリース、19枚目のオリジナル・アルバム。オリコン・チャートでは辛うじて1位を獲得してはいるけど、実売数は197,000枚と、なんとも微妙な成績。この時代は、80年代末から確変状態に突入したユーミンが圧倒的に強かったため、アルバム・セールスも社会的な影響においても、圧倒的に見劣りしてしまう。
 このアルバムと同時期にリリースされた『DAWN PURPLE』は、初回出荷時ですでにミリオン突破、ユーミンの新譜がどこまで記録を伸ばすかがニュースで取り上げられる、そんな時代である。日経のヒット商品番付でも顔を出していたくらいだから、こうなっちゃうともう、業界全体を巻き込んだ一大プロジェクト、ヘタなことはできない。
 そんな按配だったため、80年代初頭から喧々囂々されていた「みゆきvs. ユーミン」といった対立構造は、成り立たなくなっていた。そりゃそうだよな、戦うフィールド自体が違っちゃってるんだから。

 当時のユーミンは、単なるアーティストの枠を超えて、トレンドリーダーの一翼を担った存在になっていた。ちょうど日本の経済バブルと並走するように、ユーミンのセールスも飛躍的な右肩上がりの曲線を描いていた。
 作家の山田詠美に「電通音楽」と揶揄されていたように、この時期のユーミンのアルバムは、「作品」というより「商品」といったニュアンスで語られることが多い。膨大なフィールドワークやリサーチによって、F1層のニーズを分析・把握、クリスマス商戦を狙った各メディアへの大量出稿、「すべての男と女は恋愛してなきゃダメなのよ」的なキャッチコピーやキーワードが後押しする。
 アーティストとしての純粋な表現というよりは、「ひとり広告代理店」と化したユーミン主宰・恋愛教の布教活動といった感じ。クリスマスイブは、都心の高級ホテル最上階のディナー、カルチェの三連リングをプレゼントしなければ、人間扱いさえされない―。周到なプランニングに沿った巨大プロジェクトは、バブル景気に沸く一般庶民へ向けて、そんな刷り込みを行なったのだ。大げさに言っちゃえば、当時の日本経済を回す一翼を担っていたというか。
 ただこの頃になると、バブルも弾けて、景気もちょっと下降線に差しかかる。そんな景況とシンクロするかのように、ユーミンの作風も微妙に変化している。
 もともとユーミン、恋愛教祖としてミリオン連発する前は、『リ・インカネーション』(輪廻転生)をテーマとしたコンセプト・アルバムを作ったり、あのヒプノシスにアートワークを依頼したりなど、大衆性からかけ離れた作風の人である。大衆路線のアルバムが続いてマンネリになっちゃったのか、『DAWN PURPLE』はスピリチュアル寄り、パーソナルなテーマでまとめられている。
 この辺からユーミン、トレンドリーダーとしての気負いはなくなり、恋愛教を振りかざすことはなくなった。一介のアーティストとして長い目で見れば、それが得策だったことは、時代が証明している。あのまま行っちゃえば、時代に消費されて終わりだものね。

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 対してみゆき。
 従来のアルバム制作〜プロモーション・ツアーのローテーションに加え、夜会プロジェクトが大きな割合を占めるようになる。長年務めたオールナイトニッポンのパーソナリティを降板し、そのエネルギーを夜会制作へ振り向けた、とのことだけど、すぐにNHK-FMのミュージック・スクエアでラジオ復帰を果たし、その後も今に至るまで、マイクの前でおちゃらけ振りを披露している。過去のしがらみを捨て、心機一転の覚悟で夜会に挑んだのだろうけど、「やっぱラジオってライフワークだったんだ」と、現場を離れてから気づいたんだろうな。
 同じポジションだったはずのユーミンとは、セールス的にも大きく引き離され、贅を尽くしたライブ・パフォーマンスを横目に、みゆきはコンサートでも演劇でもない、夜会のコンセプト確立に腐心していた。近年こそ、しっかり構築されたオリジナル・ストーリーをベースに、多彩な共演者や、ユーミン顔負けのド派手な舞台演出が繰り広げられているけど、当時はまだ、コンサートとも演劇とも、どっちつかずのステージ構成だった。
 当初から茫漠としたビジョンはあったはずなのだけど、それがどうにも、思ってるような形にならない、または、何が足りなくて何が余計なのか、それを掴めずにいた、というのが正しいのかもしれない。
 もともとみゆき、そこまで器用なタイプではない。ご乱心期のサウンド面で見られた試行錯誤ぶりにも、それは顕著にあらわれている。
 机上の理論だけでは、物事は進まない。実際に体を動かし、これまでのフィールドとは違う分野の人間とディスカッションし、共に手を動かす。手間はかかるけど、そうしないと得られないものは、この世の中にはたくさんあるのだ。
 なので、迷走する期間もまた、彼女にとっては必要なプロセスだったわけで。

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 ライブ・パフォーマンス的な一過性のショウと位置づけていたのか、はたまたコンセプト自体が未完成ゆえ、みゆき自身が求めるクオリティに達していなかったのか、1989年に開催された初の夜会は、画質の悪い資料映像しか残されていない。
 当初掲げられていた「言葉の実験劇場」というコンセプトが、どこまで具現化できたかはみゆき次第だけど、その後も詳細に触れられることがないのは、きっとそういうことなのだろう。クオリティ云々より、まずは「始めた」ということが重要だった。
 そこで得た教訓、または改善点を検証し、ストーリーの肉付けに厚みを加えたのが、「夜会1990」になる。ここから映像作品として商品化されたため、見ている人も多くなる。俺自身、最初の夜会映像を見たのがこれだし。

 「夜会1990」では、みゆきの独白を主軸とした、現在と回想とが交差する散文的なストーリーが展開されている。物語と連動した楽曲があるかと思えば、場面転換として使われる場合もある。連続したストーリーに沿って進むのではなく、既存の楽曲をテーマとして着想が生まれ、それらをシームレスで繋いでいるといった構成なので、みゆき主演の短編映画をまとめて見ている感、と言えば伝わるだろうか。
 「既存の楽曲を、レコーディング時以外のアレンジで試してみたかった」という構想もあったため、不意を突く演出も盛り込まれている。カワイイ着ぐるみダンスをバックに歌われる「キツネ狩りの歌」や、自己批評とセルフ・パロディとが表裏一体化した「わかれうた」なんかは、「してやったり」と裏でほくそ笑むみゆきの表情が見えてくる。

 手探り状態でスタートした夜会は当初、通常コンサートのフォーマットをベースとして、緩やかな構成のストーリーに沿って楽曲をはめ込んで行くスタイルで製作された。なので、ステージ上には生バンドが配置され、舞台装置も極力シンプルなものに限定されている。
 このスタイルを掘り下げてゆくこともアリだったと思うし、回を重ねるごとに書き下ろしの新曲が多くなることも、自然の流れとしては十分あり得たはず。
 でもみゆき、「なんか違う」という気持ちが拭えなかったのだろう。
 コンサートでもミュージカルでも戯曲でもない、まったく別のスタイルの表現方法。
 夜会に足りないもの、それは、盤石として揺るぎない「ストーリー」、全編を貫く強い意志を持った「ものがたり」の不在だった。
 新しい形ではある。でも、充分ではない。
 それに気づいてしまったみゆき、ここまでで築き上げた夜会のコンセプトを一旦洗い直し、まったく違うメソッドを模索することになる。

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 多くのエネルギーが夜会へ注がれるため、自然、サウンド・メイキングは瀬尾一三に委ねられることになる。彼の存在なくしては、夜会もアルバム制作も、どちらも中途半端なものになったことだろう。
 『歌でしか言えない』は、みゆきにとって、初の本格的な海外レコーディングとなっている。これまでもミックスやマスタリングを海外で行なうことはあったけど、現地へ出向いてのセッションは、これが初となる。
 「みゆき自身によるサウンドへの希求が、海外のミュージシャンやスタッフのスキルを求めた」のかと思っていたのだけど、内実はもっと単純で、瀬尾がロスで他のアーティストのレコーディングにかかりきりのため、帰国のスケジュールが取れず、「じゃあ」ということでみゆきが出向いた、とのこと。案外、実務的な理由だったのね。
瀬尾の気分が乗ってたのか、はたまたみゆきのバイブレーションがあずかり知らぬ方向へ飛んじゃったのか、新機軸として、ゴスペル・コーラスを導入した楽曲が登場している。みゆきの曲で、ここまで強くソウル・テイストが打ち出されたサウンドは、後にも先にも存在しない。このスタイルのアプローチはこれ限りだったため、本人的にも瀬尾的にも、「なんか違う」と思い直したのだろう。リリースしてから気づくんだよな、いつも。
 そこまで極端な例は抜きにして、西海岸特有のボトムの太いサウンドやリズムのクリアさに出逢えたことは、みゆきにとって大きな収穫だった。そこまで音質にこだわりはなかったと思われるみゆきだけど、やはり実際のサウンドを目の当たりにしたことによって、要求レベルが格段に上がってしまう。なので、以降はロス録音が多くなる。

 このアルバム制作と並行して、新たな夜会の準備も進行する。新規巻き直しにあたり、みゆきは従来の短編集スタイルを捨て、太い幹の如く揺るがないコンセプトで貫かれた、強靭なストーリーを夜会の柱とした。
 中国の故事「邯鄲の夢」をモチーフとした「夜会VOL.3 KAN(邯鄲)TAN」。アルバム・リリース後のツアーより先に、みゆきは新たな夜会を選んだ。アルバム→ツアーのルーティンはここで崩れ、以降、90年代は夜会を中心とした活動にシフトしてゆくことになる。





1. C.Q.
 遠く、か細い声でふり絞られる、かすかな救援信号。
 一体、誰に向けられているのか。
 いや、相手は問わない。ただ、聞いてくれる者がいれば。
 そしてまた、ここに僕が、私がいるということを、世界中の誰かが気づいてさえくれれば。
 誰かを救う、または救われること、そんな大それたことはできないけど、気づいてあげること、手を挙げることくらいなら、まだできる。その意欲さえ失くしてしまうと、人はもはや人ではなくなる。
 長くラジオに携わってきたみゆきには、それが見える。リアルタイムで反応が返ってくるネット環境と違い、ラジオの場合、リアクションはすぐには返ってこない。でも、感じることはできる。
 1人のパーソナリティと、不特定多数のリスナーとの関係は、直接的ではないけれど、距離感は近く、そして深い。
 深夜のスタジオから、みゆきは言外に、こう語りかける。
 「誰かいますか?」。

2. おだやかな時代
 本文でも触れたように、大仰なゴスペル・コーラスが導入された異色ナンバー。サビだけ聴くと和田アキ子みたいだけど、正直、あそこまでのグルーブ感やパワフルさを求めるのは、さすがにお門違い。
 たまたま瀬尾がロスにいたし、ちょうどRita Coolidgeもブッキングできたし、せっかくならゴージャスにやってみる?てなノリでアレンジされたのかね。

 おだやかな時代 鳴かない獣が 好まれる時代
 標識に埋もれて 僕は愛にさえ 辿り着けない
 目をこらしても 霧の中 レールの先は見えないけど
 止まり方しか習わなかった 町の溜息を 僕は聞いている

 喧騒の70年代を過ごしてきたみゆきから見た、マニュアル世代の無気力ぶりを、多少の励ましを込めて描かれている。メイキング仕立ての大掛かりなセット使用のPVのイメージから、強い激励の歌と受け取られがちだけど、あくまでみゆきは傍観者、女神の視点で彼らを見守る。
 ちなみに初出は1986年のニュース・ステーション内の1コーナー、その主題歌として一部だけが公開され、ここで初めて完全版として音源化された、という経緯。
 当時の俺は高校2年、リアルタイムではあったけど、聴いた記憶はまったくない。報道番組や新聞をチェックする高校生が嫌いだったし、またそうはなりたくなかったのだ。いま思えば、ちょっと意固地だったよな。
 あぁ若かりし青き春の日々よ。

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3. トーキョー迷子
 シングルとして先行リリースされた、ちょっと懐かしいムード漂う、80年代初頭の歌謡曲テイストのナンバー。「あの娘」など、シングル・チャート常連だった頃のテーマと曲調は、郷愁さえ漂う。
 「男が帰ってくるの待っていたら、いつに間に5年も経っちゃった」という内容を、淡々と歌い上げている。さめざめと憐憫調に嘆くのでもなければ、開き直って笑い飛ばすのでもない。
 「そんな時代もあったよね」と言いたげな冷めた視点は、もう瑣末な愛だの恋だのに振り回されることのない、表現者としての重心の盤石さがにじみ出ている。

4. Maybe
 表現者であるみゆきの視点は、基本傍観者であり、詳細な観察者でもあるのだけれど、ここではそのスタンスとは違ったところ、がんばっている女性の背中を直接押す応援歌として描かれている。
 強くなりたい、また強くあろうとする女性を主人公に、旧態依然とした社会への孤軍奮闘ぶりを、時にミュージカル調の力強いタッチで歌い上げている。
 これまでのレパートリーの中では、大きな意味での応援歌として「ファイト!」が挙げられるけど、比喩表現を多用しないストレートな形は、これが初めて。表現者としての成長=女神の視点を獲得することによって、単なる傍観者ではいられなくなった、ということなのだろう。
 働く女性への具象的な応援歌となったため、ユーミンの守備範囲と大きくかぶってはいる。ただみゆき、その後はここだけには収まらず、あらゆる層へ抜けて包括的な慈愛を注ぐことになる。

5. 渚へ
 海外セッションによるレコーディングのため、ガラリと音色が違っている。ご乱心期にもこういったブルース・テイストのロック・ナンバーはあったけど、プロダクションが変わると、土台から音が変わってくる好例。
 アメリカ録音のメリットとしてよく語られるのが、乾燥した空気による楽器の音の響きの良さ、日本よりパワーのある120ボルトの電圧から生み出される音の太さが挙げられる。みゆきのように、生身のミュージシャン主体のレコーディングならまだ通用する話だけど、DTM主体の今となっては、主流のスタイルではなくなっているのが実情。海外はまだ需要があるけど、日本では次第にロスト・テクノロジー化しつつあるしね。
 「騙された」と頭ではわかりつつ、周囲には自嘲的に強がりを言いつつ、心のどこかではつい信じてしまう、というみゆき得意のフォーマットだけど、このパターンが使われるのも、次第に少なくなっている。
 まるでかつての自分をなぞっているような、妙な完成度の高さ。ある意味、みゆきとしてはステレオタイプの歌詞になっているため、サウンドのボトムの太さに気圧されている印象。

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6. 永久欠番
 リリースされた当時からいち早く、ファンの間でも名曲認定され、中学国語の教科書にも採用されるくらい話題になった、みゆきの死生観がストレートに描かれた曲。

 どんな記念碑 メモリアルも 雨風にけずられて崩れ
 人は忘れられて 代わりなどいくらでもあるだろう
 だれか思い出すだろうか ここに生きてた私を

 「永久欠番」の10年前、みゆきは老いというテーマで「傾斜」を書いた。

 歳を取るのは素敵なことです そうじゃないですか
 忘れっぽいのは 素敵なことです そうじゃないですか
 悲しい記憶の数ばかり 飽和の量より増えたなら 
 忘れるより ほか ないじゃありませんか

 この時、みゆき30歳。傍観者として描いた老後から10年、人生折り返しを経て、死というものがより身近になった。
 第三者としてでなく、当事者としてのリアルな目線、そして死生観。
 その後も折を見て、みゆきは思い出すかのように、このテーマに挑むことになる。

7. 笑ってよエンジェル
 オリエンタルなメロディが郷愁を誘う、懐かしさと親しみを感じさせる小品。前作『夜を往け』からのシングル・カット「with」のB面に収録されたのが初出で、このアルバムの中では最も先に世に出た楽曲でもある。
 ここではアルバム用に新たなアレンジで収録されており、ややハード目なサウンドだった前作のテイストはうまく払底されている。
 他愛ない言葉遊びを1曲分に仕立てた感じなので、深読みすることもない。同じ言葉遊びでも、「世迷い言」よりもっと軽くてポップ。ひと息つける曲としての役割を果たしている。

8. た・わ・わ
 直裁的なサビの歌詞が衝撃的だった、同性への強いジェラシーを活写したレゲエ調ポップ。「熱病」同様、ビート優先の曲なので、名詞の羅列が多く、みゆきとしてはラフなタッチになっている。
 どこまで作為的だったのか不明だけど、ここで描かれている女性、いわゆるイイ女っていうのが、すごいステレオタイプ。絵に描いたようなボディコン女性をイメージしてしまい、なんかリアリティに欠ける。もっと深読みすると、行間に何か浮き出てくるかもしれないけど、そんな感じもなさそう。
 ドラマや映画に出てくる紋切り型の美人より、ほんとに怖いのは清楚の仮面をかぶったメス。そっちの方がもっとゲスいのだけど。

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9. サッポロSNOWY
 『臨月』あたりに入ってても違和感なさそうな、とても切ない直球バラード。辛いこと・悲しいことを覆い隠すメタファーとして、みゆきは雪をテーマとして取り上げることが多いけど、ここでは珍しくロマンチックな、優しげな降り方。
 家や林を容赦なくなぎ倒す吹雪は、人命にもかかわってくるけど、ここで降る雪は感傷的。「暖かな雪」とは反語表現だけど、一周回って温もりを感じさせる。

10. 南三条
 Bruce Springsteen みたいなサウンドだよな、と思ってクレジットを見たら、ロス・セッションの楽曲だった。どうりで大味なアメリカン・ロック・テイストだと思った。ディストーション・ギターとキラキラしたシンセ、ソウルフルなコーラスとテンション高いサックスのブロウ。そんなバッキングに煽られてか、みゆきのヴォーカルも床に根を生やしたような安定感、太さが強調されている。
 当初からこういったアレンジを想定していたのか、比較的明快なストーリー仕立てとなっており、映像を想起させる言葉遣いが多用されている。当然フィクションなんだろうけど、普段多用されるレトリックや比喩が少なく、行間も詰まっているので、これ以上、解釈のしようがない。
 ファンやユーザーの思い入れの余地が少ないぶん、聴き流してしまう内容なのだ。重厚なサウンドとバランスを取って、敢えて言葉は軽く明快にしたのでは、とは深く考えすぎかな。

11. 炎と水
 で、ここまで比較的、ビギナーにも広く門戸を開いた「親しみやすい中島みゆき」を象徴した楽曲が続いたのだけど、ラストは、それらをすべてちゃぶ台返ししてしまう、長年のファンさえ置いてきぼりにしてしまう、そんな難解曲。ここまで観念的な歌詞は、「世情」以来なんじゃないだろうかというくらい、ヘビィな味わいに満ちている。
 単純に受け取ると、「炎の男と水の女、真逆でありながら惹かれ合わずにはいられない」。そんなジレンマや業を描いているのだけど、まるでギリシア神話のごとくドラマティックな筆致が、安易な解釈や理解を拒んでいる。
 みゆき自身、この曲についてはなかなか手こずるのか、ステージでは一度も披露したことがない。「うらみ・ます」同様、なかなか稀有なケースである。この曲だけで、夜会のシノプシス1本くらいの重量なので、今後、再演されることは難しいと想われる。






ご乱心突入前に獲得した、女神の視点 - 中島みゆき『臨月』

20121123213306 本来『生きていてもいいですか』は、いつも通りの恨み節を連ねた、それをちょっと深く掘り下げたアルバムになるはずだった。
 キャリアを重ねるにつれ、ヤマハお仕着せのフォーク歌謡的なアレンジに疑問を呈するようになっていたみゆき。スタジオに入ってただ歌うだけしかしなかった初期とは違い、レコーディングにおけるアレンジやバンド・アンサンブルの重要性を実感するようになっていた。
 同じフォーク/ニュー・ミュージック村のオフコースや松山千春は、いち早くロック的サウンドやアレンジを導入していた。インパクトの強いロック・サウンドと抒情的なフォーク・メロディとの融合が不慣れなせいもあって、曲によっては取って付け足したようなアレンジの曲もなくはなかったけど、世間的には概ね好評を期していた。
 そういった世間の流れをみゆきも無視することができず、『親愛なる者へ』あたりから、レコーディング・メンバーの刷新を図っている。きちんと手をかけて作り上げた歌と言葉を、より多くの人に届けるためには、ある程度のデコレーション、耳触りの良いアレンジは必要である。間違ってはいない。

 ただ、そんな細やかな配慮や戦略をすべて吹っ飛ばしてしまったのが、「うらみ・ます」や「エレーン」、「異国」などのダウナー系の楽曲だった。周りのものを片っぱしから傷つけまくる言葉は鋭く尖り、前述の聴きやすいアレンジをことごとく拒絶した。
 みゆきのダークサイドから吐き出された、絶望的な袋小路と諦念の円環構造は、彼女自身さえも振り回した。中途半端な技巧や小技を使うことを拒み、簡素なアレンジとむき出しの絶唱以外は受け付けなかった。
 楽曲の世界観が憑依したみゆきに為す術はなく、ただただ振り回され続けた。強烈なネガティブの磁場を持つ楽曲群は、みゆきをとことんまで追い詰め、後には何も残らないくらい、あらゆるものを搾取しまくった。
 その後しばらく、みゆきは虚脱状態に陥る。定例の全国ツアーをキャンセルしたのも、この頃である。

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 そんな事情もあったので、ここでしばらく立ち止まっても良かったのだ。
 これまでの音楽的成長を全部すっ飛ばしてしまう、そんな強烈な破壊力を持つ楽曲たち。「世に出てしまった楽曲は、もう自分だけのものではない。聴き手それぞれのものだ」とかつてみゆきは言っていたけれど、それらはあまりに生々しく、プライベートの痕跡が露わになっていた。とても共有できる内容ではない。それらはみゆきの内面に、あまりに迫り過ぎる。
 これ以上は先にも後にも進むことのできない、絶望の袋小路。光はあったとしてもほんの僅か、そしてその光は、決してこちらに届くことはないのだ。

 人前に立つことから一旦離れ、クールダウンすること。まったくの別キャラクターでラジオのマイクの前に座り、とことん無内容におちゃらけること。正反対でありながら、どちらも素顔のみゆきである。健康な精神状態を回復するためには、どちらの作業も必要だったのだ。
 この時期のみゆきは、主に恋愛を中心としたプライベート面でもいろいろあったようで、当時の週刊誌があることないことを書き飛ばしている。いわゆる関係者の証言、事情通が匿名で憶測を語るばかりで、ほとんど裏付けが取れていない記事ばかりだけど、噂に上るような色恋沙汰は、ちょくちょくあったと思われる。まだ20代のうら若き乙女だもの、そりゃ、いろいろあったって不思議はない。
 過密スケジュールによる多忙が要因となって、すれ違いが生じる。そうなると、どの恋愛も長くは続かず、孤独な日常を過ごすことが多くなる。
 ただ、どれだけ満たされた日々が続こうと、表現者とは基本、孤独だ。
 そんなことは、みゆきが一番わかっていたわけで。

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 『臨月』のレコーディングは『生きていてもいいですか』セッション終了からそれほど間を置かず、比較的早い段階から進められた。もともとストックやテーマは山ほどある人なので、素材には事欠かない。ある意味、厄落とし的にチャチャッと済ませたかったのだろう。
 ただ、レコーディングは難航する。のちに「制作に10ヶ月かかったから、『臨月』ってタイトルにした」とコメントを残しており、当時の苦心惨憺ぶりが窺える。
 ツアーの合間を縫って断続的にスタジオに入る、というのが、当時のみゆきのレコーディング・スタイルだった。今でこそ、瀬尾一三が一括してレコーディングを取り仕切っているけど、この頃は曲調やスケジュールに応じて、複数のアレンジャーを使い分けることも珍しくなかった。
 ただ長期ツアーもなく、レコーディングに集中できる環境にありながら、納得ゆくテイクが作れず、作業はたびたび中断する。『臨月』では総勢4人のアレンジャーが参加しており、単純に考えて、最低4回のセッションが行なわれている。いるのだけれど、多分、満足な形になっていないセッションや、世に出ていない没テイクなんかも相当数あったんじゃなかと思われる。
 一気呵成に吐き出した『生きていてもいいですか』とは対照的に、一聴してまとまっており、肩の力を抜いてサラッと作りました的に思われている『臨月』だけど、いやいや産みの苦しみはこちらの方が大きい。

 先行シングル扱いだった「ひとり上手」のリリースが80年10月、で、アルバムが発売されたのはそこからほぼ半年後の81年3月、大きくブランクが開いている。ヤマハからのリリース要請もあって、当時のみゆきは一定のスパンでシングルを切らなければならない立場にあった。従来の歌謡フォークの延長線上にあるサウンドは手慣れたものだったので、この曲を軸に構成していけば、アルバム制作もスムーズに行けたはずなのだけど、そうはうまく事は運ばなかった。
 本来の自分のペースに戻すためには、机上であれこれ考えててもしょうがない。実際に音を出し、合わせてみるのが最も効果的である。アイドリング期間が長く続くレコーディングは、みゆきにとってはある意味苦行ではあったけれど、独りで試行錯誤するよりは、精神衛生的にも気が楽だった。
 「歌」と「言葉」を支えるサウンド、それは互いにせめぎ合うのではなく、どちらも対等のスタンスで引き立て合うことが、最も望ましい。みゆきはセッションを通して、そのメソッドを探しあぐねていた。単に素材をポンと投げ出すのではなく、もう少し距離を置いた、「商品」としての完成度を追い求めて。

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 アーティストが直情的に想いのたけを無造作に吐き出すことによって、「生の叫び」は強い求心力を発し、時に熱狂的な信者を生み出す。しかし、そのさらけ出す熱量は、信者だけに作用するのではなく、アーティスト自身をも焼き尽くし、次第に疲弊させてゆく。そして感動に打ち震える信者は、その次を期待する。さらに強い刺激、もっと赤裸々な内面を求めて。
 習慣性の強いドラッグと同じで、強い刺激への欲求は次第にエスカレートしてゆく。刺激のインフレ度合いは留まるところを知らず、遂には自我をも侵食し、そして燃え尽きる。後には何も残らないことを確認した信者は、次の刺激を求めてその場を去る。その割り切りぶりは、とてもドライなものだ。
 燃え尽きる一歩手前でみゆきは踏みとどまり、そして別の道を歩むことを選んだ。いちアーティストとして、作品の完成度を高める目的なら、完全燃焼しても悔いはなかったかもしれないけど、『生きていてもいいですか』で繰り広げられる世界観は、シンガーソングライターのものではない。ごく普通のアラサー女性「中島美雪」の極私的な叫びは、作品というにはあまりに普遍性に欠けている。そこを追い込んでいっても、作品としては破綻の道しか残されていない。

 『臨月』でのみゆきの作家性は、冷静な観察者としての視点を獲得しようとする過程にある。虚実ない交ぜの体験談を連綿と綴るのではなく、もっと引いた目線に立って、まとまりのある短編小説的な作風に変化しようとしている。
 「中島美雪」の心情吐露が『生きていてもいいですか』だったとすると、ここからのみゆきはプロのソングライター「中島みゆき」としてのメソッド獲得のドキュメンタリーとして見ることができる。
 言葉のナイフの鋭利さは、今までと変わらない。ただ、これまでは直裁的な憎悪や恨みを、皮肉や自虐を交えて叩きつけていただけだったのが、ここでは作家的視点、対象との距離を明らかにしている。
 平易な言葉で綴られた、日常風景の狭間に覗く言葉のあや、または心情の行き違い。ナイフの切っ先はそっと静かに、微笑を交えながら、深く身体に沈む。
 刺されたことさえ、気づかないかもしれない。一聴して、その歌たちは耳触りが良い。でも確実に、そこに込められた言葉たちは、胸中の琴線を震わせる。



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中島みゆき
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1. あした天気になれ
 オリコン最高25位を記録したシングル。当時、主に井上陽水を手掛けていた星勝によるロック・アレンジはビート感が強く、ギター・リフも重厚。言葉とうまく拮抗している。トーキング・モジュレーターっぽいヴォーカルのエフェクト処理が、隠し味的なアクセントとして機能している。
 全編的に自虐的な歌詞はネガティヴに取られがちだけど、最後を「あした天気になれ」で締めることによって、『生きていてもいいですか』ショックからの脱却を図ろうとしている。絶望だけを弄んでいたって、ソングライターとしての幅は広がらないのだ。
 そんな絶望の向こうへ進もうとするみゆきの声は、ここでは終始震えがち。それは先へ向かうことへの恐れ、そして気負いだ。

2. あなたが海を見ているうちに
 抒情フォーク調サウンドによる、短編小説的にまとめられた小品。散文的なイメージを羅列するのではなく、緩やかな起承転結を軸にして、映像的な試みが見られる。一歩間違えれば演歌になってしまいそうな様式美的空間を、土着的恨み節にならないギリギリのラインを攻めている。

3. あわせ鏡
 ストイックに抑制されたリズム・メインのアレンジは、松任谷正隆によるもの。リリース当時はユーミン・みゆきの派閥争いが盛り上がっていた頃で、よくオファーを受けたよな、いわば敵陣だもの。頼んだみゆきもみゆきだし。
 
 グラスの中に 自分の背中が ふいに見える夜は
 あわせ鏡を両手で砕く 夢が血を流す

 つくり笑いとつくり言葉で あたいドレスを飾るのよ
 袖のほつれたシャツはイヤなの あたい似合うから

 鈴木茂によるブルース系の泣きのギターとは対照的に、ヴォーカルは乾き、あっけらかんとしている。そりゃそうだ、こんな救いのない歌、鬱々とした表情で歌われたら、こっちの気が滅入ってしまう。
 1.同様、自虐的な内容だけど、ここには前向きな意思や希望はない。むしろ、破滅に向かう過程を自嘲しており、浮かび上がることは求めていない。
 研ナオコっぽいヴォーカルのタッチだし、メロディも歌謡曲だよなぁ、と思ってググってみたら、やっぱり彼女にカバーされていた。ちなみに後年、セルフ・カバー集『いまのきもち』で再演されているけど、そこではもっと研ナオコに寄ったヴォーカル・スタイルになっている。

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4. ひとり上手
 オリコン最高6位を記録した、軽いフォーク・ポップ・スタイルの親しみやすいナンバー。「ベスト・テン」のラインナップの中でも違和感ない、口ずさみやすいメロディは、初期の代表作となる。さり気なく使われているダブル・ヴォーカルは、通底音として流れるアコギのカウンター・メロディと程よく呼応している。

 雨のように素直に あの人と私は流れて
 雨のように愛して サヨナラの海へ流れ着いた

 なんだ?このフレーズ。サラッと書いておきながら、あらゆる解釈を可能とするストーリー性が凝縮されている。自虐的な「ひとり上手」というコピー・ライティングが先行しているけど、ストーリーテリングの卓越さにこそ、この曲の凄味がある。

5. 雪
 早逝した実父を悼んで書かれた、プライベートな側面の強いピアノ・バラード。薄くかぶせられたストリングスが控えめに奏でられ、やや感情的に声を震わすみゆき。これが前作のテンションで歌われたら、もっと過剰な絶唱になるのだろうけど、感情の昂ぶりはその一歩手前で抑えられている。
 
6. バス通り
 ここからレコードではB面。軽いシティ・ポップなアレンジをバックに、流暢なメロディが奏でられる。いつもよりキーが高めに設定され、サビの部分なんかはちょっと高音が苦しそう。肩も凝らないライト&メロウは、オープニングにも最適。

 昔の女を 誰かと噂するのなら
 辺りの景色に 気をつけてからするものよ
 まさか すぐ後ろのウィンドウの陰で
 いま 言われている私が
 涙を流して 座っていることなんて
 あなたは 夢にも思ってないみたいね

 まるでストーカーめいた話をサラッと歌っており、ここだけ抜き出すと怖い歌かと思われてしまうけど、実際は、たまたまバス待ちで喫茶店に入ったところ、昔の男と居合わせてしまう。向こうが気づかないうちに店を出たいけど、外は雨だしバスも来ない。
 みゆきに気づかないまま、男は店を出る。今の彼女と雨の中、肩を並べて駆け抜ける姿を見て、一方的な恋の終わりに気づく。叶わぬ恋心を象徴したガラスの指輪とは、もともと壊れやすいもの。決して成就することはない。そんなことは、最初からわかっていたはずなのに。
 ストーリーテラーとしてのみゆきの側面が強く出ている。

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7. 友情
 『臨月』収録曲の中で、最も鋭い切れ味を持つ、救いのない厭世観が綴られている。
 裏切られた友情から始まる、限りない人間不信、そして自己嫌悪。すべてを投げ出して世間から隔絶してしまうほど、強く開き直れない自分。どこかで人の温もりをもとめてしまう、そして信じたい自分。
 ただ、それを認められる自分も、またここにいる。やけっぱちな自暴自棄に走るのではなく、そういった弱さが自分の中にあることを認め、どうにか折り合いをつけながらやっていこうとする自分=みゆき。以前なら見せなかった側面である。

 救われない魂は 傷ついた自分のことじゃなく
 救われない魂は 傷つけ返そうとしている自分だ

 達観するほど悟っているわけではない。でも、言葉として発することによって、少しだけ前向きにはなれる。そんなみゆきの決意表明が、ここでに刻まれている。

8. 成人世代
 時代風俗の批評眼とライトな皮肉が交差する、シティ・ポップ調アレンジのライトなナンバー。
『生きていてもいいですか』で描かれた厭世観を一歩引いた視点で描き、ライト&メロウ・サウンドで聴きやすくコーティングするのが、『臨月』の初期サウンド・コンセプトだったと推察すると、この曲を含むB面楽曲中心に、アルバムは構成されたのだと思う。とっ散らかってバラエティ色豊かなA面に対し、B面の方がまとまりがあるし。
 
9. 夜曲
 感傷的なハーモニカで幕を開ける、しっとりしたバラード。ラストという配置や曲調、歌うたいとして生きてゆく決意のあらわれから、次作『寒水魚』収録「歌姫」とのリンクを連想させる。
 感情の爆発やねじれた厭世観を刻み込む歌もあるけど、ほんとに歌いたいのは、聴き手の感情の琴線を震わせる歌。誰かを傷つけたり傷つけられるのではなく、そういった想いもすべて包み込んで受け入れる、女神の視点。
 そのメソッドを獲得するため、ここに至るためには、一度、情念の澱を吐き出さなければならなかった。不完全なアルバムではあるけれど、この境地に至ることができたことで、みゆきのソングライティングはパーソナルな視点からの脱却を果たす。






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21世紀のみゆきと夜会の収支バランスについて - 中島みゆき 『短篇集』

51Q3dp9+CUL 2000年リリース、みゆき28枚目のオリジナルアルバム。オリコン最高7位、トータル売り上げは188,000枚。80年代は常時30万枚以上がアベレージとなっていたみゆきだけど、90年代に入ってからはほぼこの辺のインシャルで落ち着いており、大きなアップダウンもない安定したセールスになっている。
 「地上の星」収録アルバムなので、そりゃバカ売れしたんだろうなと思われがちだけど、案外そうでもない。もはやその程度の話題では動ずることもない、逆に言えば、特に話題がなくても指名買いが多い、安定した売り上げを見込めるポジションにうまく移行した、という方が正解だろう。同世代でここまでコンスタントに、そして安定したセールスを保ってるアーティストは、そうはいない。
 デビューから長らく所属したポニーキャニオンを離れ、新たに設立されたレコード会社ヤマハ移籍の第1弾となっているけど、要はキャニオン内のフォーク/ニューミュージック部門アードバーグが業務移管した形であり、要は丸ごと買い取った、ということ。これまでマネジメント業務のみ行なっていたヤマハが、さらなる収益効率化のため、せっかくだから出版もまとめちゃおう、という大人の事情が絡んでいる。

 後世で例えられる「ご乱心期」の80年代を通過、90年代を迎えた「円熟期」のみゆきの活動は、ほぼ夜会を中心にスケジューリングされており、その間にアルバム制作と小規模ツアーを挟むことで成り立っていた。あ、あとラジオと。
 「通常のコンサートとは違う表現手段」を模索してゆくことでスタートした夜会は、公演のたびスタイルが変わっていた。既発表曲で描かれたテーマをいくつか抽出し、緩やかな散文スタイルのストーリーに沿って、シーンごとにフィットする楽曲を散りばめたひとり芝居が、初期夜会の基本コンセプトだった。
 これまで慣れ親しんできたヒット曲を違う解釈で、また長くアルバムに埋もれたままだった隠れ名曲にスポットライトを当てたりなど、ルーティンの新譜プロモーション・ツアーでは難しいことにもチャレンジできるのが、夜会のメリットだった。まさか「キツネ狩りの歌」や「わかれうた」をあんな風に演じるだなんて、作者であるみゆきしか許されないことだった。
 「コンサート」と「演劇」との融合を目指していた初期スタイルから、回を重ねるにつれて「演劇」の比重が大きくなり、明快な起承転結が形作られてゆくようになった。自然とこれまでのストックだけでは足りなくなり、ストーリーが新たな楽曲を希求し、またその逆もあって、という無限増殖のループ。ストーリーの骨子が強固になるのと比例して、次第に舞台装置も大掛かりになっていった。
 当然、ひとり芝居では追いつかなくなり、必要最小限ながら共演者も増えてゆく。最新の夜会『橋の下のアルカディア』なんて、ほぼ 中村中とのダブル主演だったし。

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 初期は既存曲のリアレンジや新解釈が多かった夜会だったけれど、通算7作目となる『2/2』からは書き下ろし楽曲がメインとなり、以後、その状態が続いている。
 それまで手持ちのカードを組み合わせてストーリーを作っていたのが、『2/2』では通用せず、まっさらな状態から創り上げなければならなくなった。それは創作者としてはひとつの成長であり、乗り越えなければならない堅牢な壁だったのだ。
 舞台で演じられるストーリーの構成要素として作られた楽曲なので、基本、ライブで演じられ味わうものである。演者やスタッフの汗と熱意、会場のリアルタイムの空気感が相まってこそ、最高の効果が得られる類の作品なのだ。
 なので、テープに記録され、アルバムにまとめるために作られたものではない。どれだけ良い楽曲だったとしても、ストーリーの脈絡を無視してそこだけフィーチャーして単体で聴いたとしても、魅力は大きく目減りしてしまうのだ。基本、劇中歌を前提として作られたモノなので、一曲単体では本意が伝わらないモノも多い。
 それでも単体で成立しそうな楽曲は、新たなアレンジでレコーディングされたり、90年代夜会の集大成と言える『日-WINGS』『月-WINGS』によって音源化されている。いるのだけれど、それらは夜会を生で見れなかった大多数のファンが補完作業的な意味合いで聴くものであって、当初から音源化を前提として制作されるオリジナルアルバムとは、ベクトルが大きく違っている。
 DVDや企画ライブ『夜会工場』にて、ビジュアルによるパッケージ化が行なわれているので、そっちを観た方がずっとわかりやすい。多分、夜会のサウンドトラックも誰かが企画しているんだろうけど、やっぱ音だけじゃ伝わらない面が多い。それにCDだったら軽く2枚組になっちゃうし、とても映像ソフトより枚数が捌けるとは思えない。

 当初、「3年でひと区切りつけるつもりだった」はずの夜会は、公演ごとにクオリティは向上し、比例してプロジェクト・スケールも大きくなっているのだけれど、立ち上げ当初から課題となっているのが、その収益性である。
 ひとつの夜会プロジェクトが終わった時点から、次のプロジェクトの準備は始まっている。アバウトな構想だけなら、もっと前から思いついていたのかもしれない。ストーリーの立ち上げと並行して、楽曲も新たに書き下ろしてアレンジとリハーサル、並行して必要な舞台装置・キャスティングの発注も行なう。さらに同時進行で会場も押さえなければならない。以前ならシアター・コクーン、近年は東京と大阪の2ヶ所だ。
 あらすじが決まって脚本も大方できあがり、何ヶ月も前から稽古が始まる。当然、演じてるうちに変更は生じるし、新たなアイディアだってどんどん取り入れる。サウンドトラックもリハーサルのたび、またプロットの変更によってアレンジやら歌詞やらも変わってくるし、まるまる差し替えのケースだってある。舞台初日が近づくにつれ、アップデートの頻度も次第に増えてゆく。
 悲鳴と怒号が飛び交うドタバタを経て、どうにか幕は上がる。毎回1ヶ月程度、それ以上は行なわない。収益を考えれば、「キャッツ」や「ライオン・キング」ばりの長期公演をやった方が得策だし、実際、それだけの集客力を持つコンテンツではあるけれど、そうなるとみゆきを始め、演者・スタッフの気力体力精神力が持たない。マンパワーへの依存度が大きい舞台公演は、劇団四季のような専業じゃないと、ロングランは難しい。

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 ジャニーズ並みにチケット入手が困難な夜会は、どの会場も共通して収容人数1000人強である。基本、演劇的要素の多い舞台のため、必然的に小規模ホールでの開催になるのは、やむを得ないところではある。
 あるのだけれど、ドームやアリーナ・クラスなど、大規模公演が可能な音楽コンサートに比べれば、コスパは非常に悪い。収益性の低さの要因のひとつである。まぁもともとみゆき、武道館クラスの会場でやったことはほとんどない。
 赤字補填策のひとつとして、ライブ会場での関連グッズ販売は大きな収益の柱となっており、みゆきも夜会も例外ではない。通常のコンサートと違って、チケット価格も比較的高額設定となっている。DVDやブルーレイ販売、近年は映画上映も行なわれていたり、あらゆる手段を講じてはいるけれど、それでも収支的には厳しいものがある。
 おそらく、みゆき/ヤマハからの持ち出しも相応にあるんじゃないかと思われる。

 ヤマハにとってみゆきは筆頭アーティストであり、一種の象徴、そしてもはや「生きる伝説」的な存在でもある。
 デビューのきっかけとなったポプコン以来、操を守るかのように、他のプロダクション移籍や独立に色目を使うこともなく、ヤマハ一筋にやってきた。コンスタントなリリーススケジュールを守ることによって、毎年確実な収益をもたらし、赤字は出さないようにやってきた。確かに夜会単体では赤字だろうけれど、CD売り上げを含めた連結決算では、充分利益貢献になっている。
 まぁ、みゆき単体で見ればの話。ただこれがもっと広い目線、ヤマハという企業全体で見れば、話は違ってくる。

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 80年代に入ってからのヤマハは、基盤事業である楽器販売が徐々に下降線をたどっていた。積極的な購買層である中~上流層家庭にほぼピアノが行き渡ってしまい、需要は頭打ちとなった。90年代前後から、収益の柱になるはずだったエレクトロニクス部門は、先見の明こそあったけれど、肝心の販売戦略での出遅れが後発他社のリードを許し、経営不振が長らく続いていた。バイクブームも終わってたしね。
 21世紀に入ってからは、経営合理化策として、多岐に渡っていた事業内容を一旦整理、事業内容のスリム化によって、収益構造の改善を図った。音楽部門もその例外でなく、従来の著作権管理とマネジメントに加え、出版事業をも内製することによって、利益率向上を図った。ヤマハ・レーベルの誕生の経緯である。

 レーベル立ち上げを機に、みゆきは取締役として名を連ねることになる。論功行賞的な意味合いももちろんあるだろうけど、社内では強烈な存在感を放つみゆきである。恩師である川上源一以外、誰も逆らうことはできない。
 みゆきが銀行団や弁護士と折衝したり、バランスシートと首っ引きになってる姿はあんまり想像できないし、またあんまりしたくもない。まぁそこまでガッツリ経営に関わっているわけではないだろうけど、経営陣としては率先垂範、単なる一所属アーティストではないのだから、これまでより予算の使用明細やコスト圧縮に関心が向かわざるを得ない。
 少なくとも、運営的にマイナスになるものは作れない。ポイントゲッターとしては、それなりの結果を残さないと、後進たちに示しがつかないし。

 経営判断として悪く言っちゃえば、夜会プロジェクトは金食い虫的存在であり、マイナス要因である。公演単体では完全に赤字、関連グッズ販売でリクープしなければ、収支が合わせられないのだから。
 ヤマハの企業風土として、文化事業への積極的な投資は賞賛されるところではあるけど、経営側の立場に立ってしまうと、見なければよかった面も見えてしまう。クリエィティヴな作業の遂行に雑多な要素はいらない。パトロンは金だけ出して芸術作品の完成を待つだけ、口を出してはいけないのだ。
 ブルジョアジーとプロレタリアート両面を併せ持つ途を選んだ21世紀のみゆきは、その両立を図るべく労を執ることになる。

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 ヤマハの立ち上げスタッフの一員として、「ここらでいっちょ、デカい花火を打ち上げとかないと」と思っていたかどうかは不明だけど、NHK新番組のテーマ曲のオファーは特大サイズの花火だった。「NHKが求めるみゆき像」を念頭に置きながらも、そこには収まりきれないスケール感と普遍性を内包しているのが「地上の星」である。並みのアーティストなら、一生に一度か二度、書けるかどうかのレベルの楽曲を、クライアントの意向を遥かに超えて、しかも「狙って」作っちゃうのだから、底なしのバケモノだよな、やっぱり。
 静かに、そして同時に強烈なカロリーを放つ熱に触発されたNHK側も、やたら気合いの入ったオープニング・タイトルを製作している。双方の世界観とニーズが一致して、番組も楽曲も大ヒットとなった幸運な事例である。

 90年代のみゆきのアルバムは、コンセプチュアルなものが多かった。みゆきの意識/無意識がそうさせていたのか、どのアルバムにも夜会的なメソッドが持ち込まれ、戯曲的な構成、一種の組曲的な楽曲のセレクト・配置が行なわれている。どの楽曲もみゆきの厳しい自己ジャッジを経ての産物ではあるけれど、前述したように、アルバム総体の流れをつかまないと感情移入できないものが多いのも、また事実。好きな曲だけシャッフルして聴くというスタイルには馴染まないのだ。
 ライフワークとなっている夜会ゆえ、完全に切り離して考えることはできないけど、ヤマハ移籍以降のアルバムは夜会とのリンクが少し弱まっており、楽曲単体で充分完結しているものが多くなる。
 『短編集』というタイトル通り、どこから聴いても違和感なく、あまり肩の凝らないラインナップが揃えられている。なので、逆に「地上の星」だけ妙に浮いているというパラドックス。冒頭からついついかしこまってしまう構成になっているけど、あとは結構サラッと作りましたよ的な楽曲が並んでいる。
 でも、ラストを締めくくる「ヘッドライト・テールライト」。これはここにしかハマらないよな、やっぱ。


短篇集
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中島みゆき
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1. 地上の星
 先行シングルとしてリリースされた、言わずと知れた21世紀みゆきの代表曲。恐らく30歳以下の世代にとってのみゆきとはこの曲であり、または「糸」か「ファイト!」ということになるのだろう。
 「プロジェクトX」のプロデューサーの初期構想は、高度経済成長期の日本を支えた名もなき功労者へスポットライトを当てること、輝かしい歴史ではなく、挫折や失敗をも含めた地道な積み重ねのプロセスを、極力演出を介せず活写することだった。代表者やリーダー独りの力で成し遂げられることなど、たかが知れている。エジソンだって山中教授だって、突き詰めていけばチームの一員でしかないのだ。
 この曲のハイライトとして語り継がれているのが、古川昌義による間奏のドライヴィング・ギターソロ。荘厳なサウンド・デザインにアクセントをつけるが如く、まったりまとめ過ぎてしまった調和を突き破るかのような、派手に力強いエモーショナルなプレイを披露している。終始朗々としたヴォーカルのみゆきに拮抗するためには、このくらいの力技が必要だった。
 先日、「関ジャム」に出演した古川によると、プロデューサー瀬尾一三が数名のギタリストに個別に弾かせ、彼のプレイが最もフィットしていたため、収録に至った、とのこと。それだけ、この曲が周到に作り込まれていたことを現わすエピソードである。瀬尾一三恐るべし。

 名立たるものを追って 輝くものを追って 人は氷ばかり掴む

 どんな形にせよ、誰もが何がしかの成功をつかむため、人は汗を流し、考えを巡らせる。もしつかめたとしても、それは必ずしも永遠のものではない。
 それが本当に望むべくものだったのかどうか。もし違っていたとしても、それが本物だと信じたいのだ。
 築き上げたものが、実は別モノだったとしたら―。
 アイデンティティは、いとも簡単に崩れ去ってしまう。
 聴くたび、いつも引っかかる言葉。いつもそこで立ち止まる。



2. 帰省
 名もなき民たちへの視点は続く。企業戦士たちは、人のひしめく都会でサヴァイブしてゆくため、「機械」になることを自らに課する。前を向いて進む者にとって、感傷とは歩みを止めるものである。一度立ち止まると、次の一歩を踏み出すに、相応の努力を要する。それなら何も考えず、周りも機械だと開き直ってしまった方が楽だ。
 そんな彼らにみゆきは語りかける。サラッと押しつけがましくなく。
 
 つかの間 人を信じたら
 もう半年 がんばれる

 かつて20代のみゆきは「異国」の中で、「あたしはふるさとの中に入れない」と露悪的に歌った。もう少し感傷的な「ホームにて」で描かれた「ふるさと」は、夢破れて都会を去る者にとっての避難場所だった。
 ここでの「ふるさと」もまた、一種の逃げ場所ではあるけれど、その期間は決まっている。帰省が終わると、再びホームグラウンドに戻って戦わなければならないのだ。
 20年前は「帰る場所」だったのが、今では「ちょっと休む場所」となった。もう帰る場所は「ふるさと」ではなく、「今ここ」なのだ。
 オリジナルは由紀さおり・安田祥子姉妹に提供したもの。

3. 夢の通り道を僕は歩いている
 カントリー・フォーク調の隙間の多いサウンドは、古くからのファンにとっては聴いてても疲れないので、心地よく聴ける。みゆきのヴォーカルもサラッと脱力感が漂っており、それでいて内に秘めた説得力が前面に出ている。変にがなり立てる歌い方より、こっちの方が好きなファンも多いはずだ。
 1番では夢の通り道を「歩いている」のだけど、2番の終盤リフレインでは「追っている」に変わっている。はっきりしたビジョンが見えず、ひたすら前へ進むだけだったのが、夢の実像を捉えたことによって、目的は具体的となり、逡巡していた想いは前向きになった。
 決して「がんばれ」など鼓舞させる言葉も口調も使っていないのだけど、この力の抜けようによって前向きになってしまう、奇妙な味わいの曲。

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4. 後悔
 トップ3曲はいわば1.を主題とした連作短編といった味わいだったけれど、ここで一転して、パーソナルな男女関係を描いている。ここではいわゆる紋切型、ステレオタイプの中島みゆきが描かれている。「真夜中のフライト」や「窓のサフラン」からレトリックを推理するのはそれぞれの解釈だけれど、正直、使い古されたテクニックでもある。昔ながらのみゆき像を求めるのなら、まぁ古いファンにとっては懐かしいだろうし、「恨み節」のイメージしかない新規ファンにとってはわかりやすいんだろうけど。
 ラストの絶叫が話題となったけど、まぁそれもあんまり。
 俺的にはピンと来ないのだ。何で今さら?って感じで。

5. MERRY-GO-ROUND
 タイトル通り、メリーゴーラウンドのSEから始まる、おとぎ話っぽさの漂うワルツ。大抵こういった曲調の場合、ソフトには聴こえるけど歌詞は結構辛辣だと相場が決まってる。「キツネ狩りの歌」なんて典型的だし。
 いつまで経っても距離が縮まることのない、堂々巡りの恋愛を、わかりやすい「恨み節」で表現していた頃のみゆきはもういない。サラッと歌い流せてしまうくらい強くなったのか、それとも超越してしまったのか。

6. 天使の階段
 「さよならの鐘」を彷彿させる鐘の音のSEから始まる、讃美歌のパロディ的なナンバー。深い深いエコーに彩られた重厚な音の塊は、まさしくウォール・オブ・サウンド。あそこまでリズミカルなわけじゃないけど、神々しさは感じられる。
 単純な言葉を組み合わせた、シンプルに歌われている曲だけど、シンプルな分だけ思わせぶりな、あらゆる解釈を許容してしまう歌詞が印象的。深く掘ったら切りがなさそうだな。
 夜会Vol.11「ウィンター・ガーデン」で使用された楽曲だけど、どんなシーン設定だったのかは不明。ていうか、これって単品発売されてなかったんだ。どうして?

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7. 過ぎゆく夏
 コード進行もヴォーカルも、もちろん歌詞もまるっきり拓郎そのもの。リスペクトなんてレベルじゃない、本人がそのまま憑依した仕上がりになっている。しかもそれが単にモノマネやコピーじゃなくって。

 過ぎゆく夏のたわむれに 君を惜しんでしまおうか

 帰らぬ者よ 袖振る者よ 熟さぬ酒を酌み交わせ

 いずれも、いつものみゆきのセンテンスにはない言い回しである。1行目こそみゆき的ロジックで、拓郎視点を通して描いているけど、2行目なんてもう、みゆき視点すら消え失せて、拓郎そのまんま。「酒を酌み交わす」なんてワードは聴いたことがない。
 この瞬間、みゆきは拓郎を自家薬籠中のものとしている。先達である拓郎さえも取り込んでしまう女の恐ろしさよ。

8. 結婚
 みゆきとしては珍しく直球勝負のタイトルだなと思ってたら、全然違ってた。世界文学全集の、例えばサマセット・モームあたりが書いた珠玉の短編と言った味わいが残る。アルバムタイトル通り、ほんとうまくできた短編といったシメ。オチを書くと面白くないので、あとは自分で聴いてみて。

9. 粉雪は忘れ薬
 5.で書き忘れたけど、こちらもリズムセクションがRuss Kunkel (D)とLee Sklar (B)という豪華メンバー。全盛期のCarole Kingを支えた2人である。そんな思い入れもあったのか、みゆきのヴォーカルも情感たっぷり、しかもベタベタになる少し手前で抑えている。終盤のフィルインから、この2人の名人芸を堪能するのもまた一興。ストリングスもドラマティックで圧倒的。ここだけ聴くだけでも価値がある。
 
 粉雪は忘れ薬 すべての心の上に積もるよ
 粉雪は忘れ薬 些細なことほど 効き目が悪い

 「深い雪がすべてを掻き消してくれる」というのは、古い歌で多用されるレトリックだけど、「雪をなめるな」という北国の格言どおり、雪かきしてる間は必死そのもので、余計なことなんて考えられるものではない。些細な粉雪だと、除雪の心配もないので、つい余計なことを考えがちである。で、気づいたころには手遅れなくらい降り積もってたりして。
 北海道の中途半端な田舎にいると、それがよくわかる。雪がロマンチックだなんてのは、南の国の寝言なのだ。

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10. Tell Me, Sister
 ちょっとゴスペル入ったアメリカン・ロックだな、と思ってたらドラムがVinnie Colautaだったという衝撃。Frank Zappaのバンドがキャリアのスタートだったことから察せられるように、バケモノのような人である。
  
 自分が嫌いだった 何もかも イヤだった

 近年のみゆきにしては珍しく、自虐的でネガティヴな独白から始まるこの歌、あっけらかんとした口調なので、最初はあまり気にならないけど、やはりこういった時の彼女の言葉は次第に重みを増してくる。
 姉的存在の年上の友人は、自分にないものすべてを持っている。持ってはいるけど「何もない」と微笑むばかり。その彼女も今はもういない。
 すべてを持ってはいても、それが彼女にとって価値のあるものだったのか。キレイだとか人に好かれるという要素は、確かに持っていれば生きやすいけれど、そこからどこへ行けばいいのか。
 彼女はもういないけど、みゆきはまだ生きている。彼女ほど持ち合わせはないかもしれないけど、生きていればいつかは持てるだろうし、それを励みに生きていける。死んでしまえばそこで終わりなのだ。
 最後にちょっとした含みを持たせるあたり、ほんとモームの短編といったところ。

11. ヘッドライト・テールライト
 ラストを飾るにふさわしい、締めの曲として有無を言わせない存在感を放っている。

 ヘッドライト・テールライト 旅はまだ 終わらない

 淡々と、でも力強く繰り返されるリフレイン。前で照らされているのは、茫漠とした夢。はるか後ろで揺蕩うのは、遠すぎる分、希望にあふれた夢。
 前向きの光は自分が前に進むために、そして後ろへ向かう光は、まだ視ぬ後進への道標として。
 その光は、前を向いて進む者に、分け隔てなく照らされる。
 英雄にも、そして名もなき民にも。




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北海道の中途半端な田舎に住む、そろそろアラフィフ男。ほぼ週1のペースで音楽ブログ更新中。節操ない聴き方と思われてるけど、自分の中では一貫してるつもり。 最近は蔵書の整理がてら、古い本を再読中。ジョン・アーヴィングから始まって、フィッツジェラルドやゾラ、モームなど、いわゆる古典の復習中。いつになったら終わることやら。新刊読めねぇや。
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