#Singer Songwriter : Japan

好きなアルバムを自分勝手にダラダラ語る、そういったゆるいコンセプトのブログです。

20代尾崎の中間報告 - 尾崎豊 『誕生』

folder 1991年リリース、前作『街路樹』より2年ぶり、5枚目のオリジナル・アルバム。今どき2年くらいなら普通のリリース間隔だけど、この時期の尾崎は表舞台に出ることが極端に少なかったため、「待望の」「久々の」という形容詞付きで紹介されることが多かった。
 その2年の間、覚せい剤所持・逮捕による謹慎と、何かとトラブルの多かった前事務所からの移籍に絡んだブランクもあって、「尾崎っていま、何やってんの?」といった扱いだった。かつて尾崎は時代を先導していたはずだったけど、ちょっといない間に時代はずっと先に行っていたのだ。
 そういった事情もあってか、楽曲のクオリティ・詳細云々より、まずは久々の現場復帰ということで騒がれ、次にまさかの大作2枚組というインフォメーションなどが先行して報ぜられた。なので、言ってしまえば音楽的には二の次、これまでまともに論ぜられたことが少ない、何だか不遇なスタンスの作品である。
 待望していた古巣ソニーへの復帰が叶ったこと、加えて契約更改にまつわるブランク期間を持て余していた尾崎であった。まぁそんなこんなで外出できる時間も減っていたため、必然的に創作活動に向かわざるを得ず、張りきり過ぎちゃったがあまりの、まさかまさかの2枚組になってしまった次第。

 古株のファンだけじゃなく、スタッフも含めた業界内にとっても待望の復活だったのだけど、それもあって一種の祝祭的ムードもあったのだろう。いくら満を持しての復活だったとはいえ、普通の営業サイド的な対応だったら、曲数を絞ってコンパクトに1枚にまとめるよう進言するはず。普通だったらね。ただ、通常の年間計画に沿ったリリースではなかったし、せっかくならサプライズ的な演出や話題を欲していた部分もあったのだろう。
 「2枚組?イヤ〜最高っす大丈夫っすよっ」ってな感じで、ゴーサイン出しちゃったんだろうな。
 そんな前評判が盛り上がっていたおかげもあって、2枚組だというのに軽々とチャート1位を獲得しちゃっている。もちろん、営業サイドによるプロモーション攻勢、それに基づくメディア挙げてのプッシュの結果ではあるけれど、それを単なるルーティンで終わらせるのではなく、関係者各位をその気にさせてしまう熱量は、やはり時代のカリスマたる所以である。

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 チャート1位は獲得したけれど、肝心の内容・詳細を深く掘り下げたメディアはごく少数だった。
 前述の覚せい剤使用は業界内に大きな波紋を呼び、特に音楽雑誌のほとんどは、尾崎に関するニュースや記事の掲載を、まるで申し合わせたかのように取りやめていた。本来なら、音楽雑誌こそが先陣を切って、批判なり擁護なりを取り上げるべきなのに、メジャー雑誌のほとんどは沈黙を守っていた。まるで「尾崎豊」という存在を抹消するかのように。尾崎の話題を積極的に取り上げるのは、スキャンダラス性を優先した女性週刊誌や写真週刊誌ばかりだった。
 そんな中で唯一、尾崎の特集を緊急掲載したのが、邦楽メディアに本格進出して間もないロキノンだった。当時、編集長だった渋谷陽一は、声高々に「ジャーナリズムの責任放棄」云々を説き、既存メディアの不甲斐なさを痛烈かつロジカルに批判した。
 当時の渋谷陽一は尾崎の件だけじゃなく、「ミュージック・マガジン」や「パチパチ」に何かと噛みついて誌上論争を繰り広げ、相乗効果で発行部数を伸ばしていた。まぁ今にして思えば、新規事業に食い込んでゆくため、ちょっと強引な政策も必要だったのだろう。
 当時は純粋なロキノン信者だった俺は、そんな丁々発止を毎月固唾を飲んで見守っていたのだけれど。まぁ今にしてみればプロレスだよな、要するに。正直、10代だった俺から見ても、半分イチャモン的なバトルもあったわけだし。

 で、謹慎中の尾崎。同じソニー・グループであるはずの「パチパチ」が口を閉ざしちゃったのだから、その影響は計り知れず。『誕生』リリース頃にはその規制も解かれていたけれど、不倫だ独立だ契約トラブルだで、スキャンダラスな面ばかりが喧伝され、せっかく長い時間をかけて築き上げてきたカリスマ性は、大きくダダすべりしていた。
 今にして思えば、「居場所を求めて彷徨い、迷走し続ける姿」もまた、尾崎にとってのリアルな姿であったはずなのだけど、まぁ金がらみや犯罪がらみなど、何かにつけ生臭い話題ばかりが先行してしまったせいもあって、リスペクトしづらい雰囲気があった。
 いっそ開き直って私小説的に、「答えなんてない/永遠に探し続ける」とか何とか言い切ってしまえば、二流のシンガー・ソングライターとして、もう少し長く生きられたのかもしれない。でも、尾崎自身がそういった方向性を良しとしなかったし、一部のメディアや熱烈なファンもまた、そんな赤裸々な姿を潔いと崇めていたフシがある。
 カリスマゆえの悲劇だよな。

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 「尾崎信者」と揶揄された熱狂的なファンは、彼と同世代かちょっと下、いまのアラフィフ世代が中心だった。言っちゃえば俺のこと。だって、中3の春に「卒業」に出会っちゃったんだもの。多かれ少なかれ、この世代は尾崎のライフスタイルの影響下にある。就職や進学の節目を迎え、大人の階段をのぼるかのぼらないか、そこへ足を踏み出すのに躊躇したり、または踏み出さざるを得なかったりして。
 80年代後半は、尾崎だけじゃなくBOOWYやブルーハーツなど、その後の日本のロックの礎となるカリスマが次々に生まれた時代である。もちろん彼らだけが絶対的存在ではなく、カリスマ性はなくともアクが強い・押しが強い・個性が強い・クドいなど、百花繚乱である。当然、どのアーティストも一家言持っていたり持っていなかったりで、思想やコンセプト、メッセージ性も違ってくる。
 なので、この世代をたったひとつの価値観、OZAKI的視点だけで括ってしまうのは、相当無理がある。あるのだけれど、ある固有の年齢層に向けて発せられたメッセージ性・人生観の転換という点に絞れば、「尾崎豊」という現象は強い影響力を有していたのだ。
 まだ知恵も経験も少なく、何かにつけ未熟で青臭いティーンエイジャーにとって、同世代の彼の一挙手一投足は、理想像の自己投影であって反面教師であり、一部の人にとっては生きる指針でもあった。尾崎によって人生観を定義づけられた人、またレールを外れてしまった人は相当多い。
 以前もちょっと書いたけど、俺世代のオラオラ系・「昔ヤンチャしてました」系の人たちのカーステでの尾崎率・ブルハ率は相当高い。これがもうちょっと枯れちゃったりすると浜省に行き、変に日和っちゃったりするとEXILE系に行っちゃうのだけど、まぁそれは別の話。

 「10代3部作」なんて総括してしまったのは後づけであって、ソニーが最初から綿密に成長ストーリーを描いていたわけでは勿論ない。さだまさしをリスペクトしていた新進フォーク・シンガーにちょっとロック風味のサウンドの意匠をかぶせたところ、思惑以上に盛り上がっちゃったので、スタッフサイドが泥縄でくっつけた方便である。もともとは尾崎の本意とは別のところで形作られたものであって、クリエイティブ面での必然性はまったくない。
 本来なら、「尾崎豊」という将来あるアーティストにとって、「10代特有の苦悩」とは単なる通過儀礼だったはずだ。それが周囲の思惑を超える反響で「現象」化してしまい、それをまたメディアが煽るものだから、業界内外に狂信的なファンを産み出してしまう。そうなると尾崎もそんな期待に応えざるをえず、通過儀礼がいつの間にかライフワークになってしまったわけで。
 いっそビジネスと開き直って、「永遠のティーンエイジャー」を演ずるのもよし、それかもっと肩の力を抜いて、年齢相応のテーマを歌うシンガー・ソングライターへと移行してゆくのもよし。アーティストとしての寿命を考えるのなら、そんな選択肢もあったはずだ。まぁ前者だったら、多分時代の徒花として消費され、とっくの昔に消えていただろうけどね。

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 ただ二十歳を迎えた尾崎、そんな安易な自己模倣を繰り返すことは望まなかった。馴染みのファンが快く歓迎してくれる、生暖かい世界。それはそれで居心地が良かっただろうけど、でもそこは長く留まるところではないのだ。
 彼は10代の自分を清算し、決別して前へ進む途を選んだ。そしてまた、これまで着いてきてくれたファン達と共に、次のステップへ進んで行くことを目指そうとした。
 尾崎は同世代のオピニオン・リーダーとして、「共に成長しよう」と呼びかけようとした。かつて批判し乗り越える壁であったはずの「社会」や「大人」とも、闘い抗うのではなく、対等の立場でコミットしてゆく途を選ぼうとした。
 ただ、ここでひとつの疑問。
 -「人間は常に成長し続けなければならない」って、一体誰が決めた?

 で、もうひとつ。
 - 成長し続けたとして、それが一体、何だというの?
 どちらも正解のない問いである。むしろ、そこに至るためのプロセスが重要である種類の設問である。冷静に考えればこういうのって、「結局は人それぞれ」という結果に落ち着いてしまうのだけど、きちんとした模範解答を探しあぐねていたのが、当時の尾崎である。そんな模範解答の中間報告として、持って回った言い回しやめんどくさい思想を並べ立てて、相対的な価値観を提示したのが、この『誕生』という作品集である。
 哲学・思想用語からインスパイアされた言葉は抽象的で、ごく平凡な日常を送る大多数の10代にとっては、縁のないものばかりである。シンプルな事象を複雑に描写することが、当時の尾崎が思うところの「成長」だったのだろうか。そして、それを咀嚼し理解することが、信者としての務めである、と思われていたのだ、ごく一部では。
 ただ、誰もがロジカルで完璧な論理を知りたいわけではない。我々は大学教授の講義を聴きたいわけじゃないのだ。
 理性よりまず先に、感情を揺さぶる言葉と歌、そして「あっ、これイイね」という、脊髄反射的に心惹かれてしまうメロディ。ポップ・ミュージックの世界では、それらが最も重要であるはずなのに。
 多分、そんなことは尾崎もわかっていたのだろう。わかってはいたのだけれど、そのメソッドが見つからないでいる。ここで発表されている言葉はすべて、かりそめのものばかりだ。ここで発せられる言葉の多くからは、自信を持って断言できない迷いが浮かび上がっている。
 伝えたい言葉はこれじゃない。次はもっと、伝わりやすい形を目指そう。最高傑作は次回作だ、と誰かが言ってたじゃないか。
 そのつもりだったのだけど。


誕生
誕生
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尾崎豊
ソニー・ミュージックレコーズ (1990-11-15)
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1. LOVE WAY
 アルバム・リリース直前、ほぼ前触れもなく発表されたリード・シングル。復帰第一弾ということもあって世間の注目を集め、マイナス・イメージが蔓延していたにもかかわらず、オリコン最高2位をマーク、売上的には復活をアピールした。したのだけれど、正直、戸惑うファンが多かったのも事実。取りあえず久しぶりの音源ということもあって、迷わず購入した人も多かっただろうけど、聴いてみると「何か違う」感が微妙に引っかかっていたのが、俺の私見。
 散文的に吐き出された歌詞の密度は、ひたすら濃い。確かに巷で言われているように、彼の歌の中では最も難解だし、ヘビロテするにはちょっと胃もたれする。後期尾崎にとっての代表曲ということも、うなずけるクオリティ。
 膨大な情報量を一曲に詰め込んだ、という見方もできるけど、実のところはどのセンテンスも示唆が優先し、文脈的にはかなり破綻していることに気づかされる。サウンドのハードさ、ヴォーカルの熱量によって、つい勢いで「深い言葉」と納得してしまいそうだけど、次々生まれ出てくるイメージの断片を具体化できず、乱雑にまとめてしまったが故の産物がここにある。
 フレーズひとつひとつ、言葉の刃の切れ味は凄まじい。ただ、それらの言葉はバラバラに作用してまとまったベクトルにはならず、それを自覚して苦悶にあえぐ尾崎の姿が刻み込まれている。
 そんな言葉の求心力の不足は、晩年まで尾を引くことになる。



2. KISS
 『回帰線』あたりに収録されててもおかしくない、ステレオタイプのアメリカン・ロック。そろそろグランジが台頭し始めた90年代初頭には古くさく聴こえたけど、いま聴くとその大らかさによって、時代に侵食されることを防いでいる。シンプルなものほど耐用年数が長い、という好例。
 シンプルなロックンロールにおいて、言葉の重みはあまり重要なファクターではないため、ここではむしろ「カバン抱えた企業戦士」「子供たちはイヤフォンで耳をふさいで漫画を読む」など、90年代時事風俗の空気感を味わうのも、楽しみ方のひとつ。

3. 黄昏ゆく街で
 Eddie Martinezのメロウなガット・ギターが印象的な、後期尾崎の代表的バラード。リリース当時は地味な印象としか思えなかったけど、その後のサウンド・コンセプトの軸となるシックなアンサンブルは、この年になるとしっくり馴染む。
 不倫と結婚を通過して得た、青春期とは違う恋愛観は、倦怠感と希望とがシームレスに交差する。
 かつて「I Love You」において、「何度も愛してるって聞くお前は この愛なしでは生きてさえゆけないと」と、直情的な愛をネガティヴに語った。
 しかしここでの彼女は「髪をなでると ぼんやりと僕を見つめてこう聞く ねぇ これでいいの…?」
 熱情の時間を終わりを告げ、恋愛感情よりむしろ、将来の生活を意識しなければならないことを、できるだけ第三者的な視点で活写している。
 一応シングル・カットされており、オリコン最高32位。今だったら映画やドラマの主題歌に使われて、もっと上位も狙えるのかもしれない。いやないか、今どきメディアにそんな力なんてないよな。

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4. ロザーナ
 導入部が「路地裏の少年」っぽく聴こえるけど、考えてみりゃ元をたどればBruce Springsteenか。CCR「雨を見たかい」もこんな感じだよな。どっちにしろ、8ビートにアコギ・ストロークを乗せちゃうと、どれも似たようなテイストになってしまう。なので、リスペクトということにしよう。
 歌詞の内容からいって、時期的に「不倫」というキーワードが浮かんでくるのは致し方ないとしても、でも『誕生』って主題のアルバムにこんな後ろ向きなテーマをぶち込んでしまうとは。
 偏見かもしれないけど、商売的なゲスさが浮かび上がってくる。楽曲そのものはきちんと作り込まれているので、そこがちょっと惜しい。

5. RED SHOES STORY
 再びストレートなロックンロール。オールド・タイプのロックンロールといえば、「金と女とドラッグ」と相場が決まっているけど、ここでは前事務所マザーを皮肉った、金がらみのモンキー・ビジネスを悲喜劇交えて歌っている。まぁこういった題材を取り上げること自体、取りあえず手打ちが行なわれているわけで。ほんとにシリアスに訴えるのなら、それこそ「Love Way」みたいなテイストになっちゃうし。

6. 銃声の証明
 基本、完全な主観か半径5メートル以内の知人友人の体験談を題材に歌を書いてきた尾崎だけど、ここでは自身から最も遠い立場に身を置いて、可能な限り客観的なフィクションとして完成させている。何しろ題材がテロリスト。客観を超えて荒唐無稽とでも表現すべきか。
 そのテロリストの描写があまりにステレオタイプだ、という見方もできるけど、「架空の人物を自身に憑依させる」というメソッドは、ある意味、尾崎の新境地である。こういった制作手法を発展させることができれば、アーティストとしての寿命はもう少し永らえたんじゃないかと思われ。

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7. LONELY ROSE
 フィクションの主観化と並んで、流麗なメロディ・ラインと何気ない情景描写の妙を丹念に織り上げること。後期尾崎の可能性として、ひとつの資金的存在となったバラード。初期アルバムにもこういったタイプの楽曲は収録されていたのだけど、一本調子なヴォーカライズがニュアンスを掻き消してしまっていたのは事実。
 ここでは緩急取り混ぜた、情感的なヴォーカル・テクニックを披露している。アクセントとして、Martinezのギターがうまくウェットな情感を演出している。

8. 置き去りの愛
 で、そのヴォーカル・テクニックが最も如何なく発揮されているのが、これ。時々、西城秀樹と錯覚してしまいそうなほどエモーショナルな歌声は、全キャリアの中でも屈指のクオリティ。歌詞においても複雑な言い回しや言葉は使用されず、非常に歌謡ロック的。前曲に続き、ギターの咽びが感情の揺れを誘発している。

9. COOKIE
 バンド・サウンドを前面に押し出したカントリー・ロックは、へヴィーなテーマが並ぶアルバムの中では小休止的なアクセントとして機能している。いるのだけれど、視点がティーンエイジャーの高さであることが、ちょっとだけ気になる。「俺のためにクッキーを焼いてくれる」彼女への想いと、大人の社会への警句めいた皮肉との対比を狙っているのだろうけど、敢えてこの時期にやることじゃない。その皮肉もかつての手法をなぞった感じだし。

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10. 永遠の胸
 CD1枚目ラストを飾るのは、スケール感あふれる王道ロック。当初、アルバム・タイトルをこれにする案も出ていたらしく、「誕生」と並ぶ「もうひとつの主題」と言い切っちゃっても良い。
 尾崎としては、これまでの紆余曲折の総括としてこの曲を書いたのだろうけど、皮肉にも人生の幕を下ろすには最適の、高いクオリティのセンテンスで埋められている。
 強烈な磁場を持つメッセージ性を内包したタイプの楽曲は、一旦ここで打ち切り、もっとフィクションや情景描写的な楽曲が多くなるはずだったのだろうけど、人間、そこまで割り切れることはできないもの。十代には十代の、そして二十代には二十代の苦悩が終始付きまとう。



11. FIRE
 CD2枚目冒頭を飾る、疾走感あふれるロック・チューン。トップのつかみとして、これでこれでOKなんだけど、「体制に逆らいながら振りかざす 俺が手にもっているのはサーベル」なんて一節が入ってるくらいなので、ちょっと陳腐さが否めない。リリース当時はこうした景気の良いサウンドが好きだったけど、いまの俺にはあまり響かない。年食ったせいだろうな、きっと。

12. レガリテート
 歌謡曲テイストの濃い旋律が、タイトなリズムによってメリハリがつけられている。プロフェッショナルなサウンドで構成されている、二十代の尾崎が目指すところの「大人の音楽」。個人的には好きなサウンド・プロダクションではある。あるのだけれど、歌詞もまた大人テイストを志向したのか、ちょっと抽象的。ドラマティックな恋愛観を直情的に表現するのではなく、ある種の規範をもって抽象的に語るのが大人だというのなら、「それはちょっと」となってしまう。言葉に足腰が入っていないのだ、要するに。

13. 虹
 なので、こういった抒情的な心象風景を淡々と綴っている姿の方が、尾崎の志向・適性には沿っている。確かに新境地的な部分はないけどね。でも、こういった曲もあった方が既存ファンはホッとするし、第一、そこまで難解なセンテンスは求めるコア・ユーザーは少数だ。一体誰だ?「進歩しなくちゃならない」って思い込ませたのは。

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14. 禁猟区
 ダルなブルースに載せて歌われるのは、自らのドラッグ体験。よくこんな歌詞がメジャーの審査に通ったもんだ、と余計な心配さえしてしまいそうになるけど、まだこういった挑発的なスタイルが許された時代だったのだ。
 ちなみに尾崎、罪は罪として受け入れて罰は受けたけど、ここでは特別、ドラッグ使用について否定的ではない。まぁ表だって肯定したり擁護したりするようなことはないけど、ドラッグ使用によって開けた新たな価値観は、それほど強烈なものだったのか、それとも継続的に使用していたのか。

15. COLD JAIL NIGHT
 重厚なメタル調リフのイントロと歌い出しが「愛の消えた街」にそっくり。拘置所での体験がベースとなった歌詞は、まぁやさぐれていること。
 しかし、釈放されて間もなくこんなテーマを歌っちゃうのだから、アウトロー精神ハンパない。「獲得した経験はもれなく使い切る」という創作姿勢は、ある意味潔い。

16. 音のない部屋
 ハードなタッチの楽曲が続いてたので、続けてこれを聴くとホッとしてしまう。「いい曲だなぁ」と思ってしまうのは、ソニー・スタッフの思惑通りなのか。うまい構成だよな。
 「二人の心はひとつ」で締めくくっているけど、ここでの二人の心は終始すれ違いが多く、どちらもあさっての方を向いている。「ひとつである」と思いたいのだ。思いたいのだけれど、でもそんな自分をまだ信じ切れずにいる尾崎がいる。



17. 風の迷路
 黄金パターンで作り込まれたメロディは、はっきり言ってベタ。ベタだけれどやっぱり、日本人にとってはばしばしツボにはまる旋律である。またいい感じに力を抜いたヴォーカル、これも上手いんだよな。
 こういった曲を聴くと、ほんとこの人、歌がうまかったんだな、と改めて思い知らされる。またメロディ・メイカーとして、もっと評価されてもよかったんじゃないかと、今さらになって思う。
 歌詞?ちょっと青臭いけど、いいじゃんわかりやすくって。

18. きっと忘れない
 オールディーズ調コーラスを使用した、サビが印象的なナンバー。このアルバムの中ではもっともポップでハッピーでファニーなムードに満ちている。
 奥さんに捧げたのか、果たして幼い息子に捧げたのか。ネットでは意見が分かれているけど、俺的に正解は両方。「家族」という単位総体に向けて尾崎は歌っており、そして自分にも言い聞かせるように「きっと」と念を押している。

19. MARRIAGE
 素直な結婚賛歌として受け止めるのが、作者の意図であるという俺の私見。素直な口調で素直な言葉を紡ぐ、そういった尾崎がここにいる。
 時代に警笛を鳴らすアジテーターとしての尾崎ももちろん真実だけど、こっちの側面ももちろん真実。ロマンティックな見方だけど、俺はこの歌、「I Love You」の続編だと思っている。

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20. 誕生
 ラストは10分を超える壮大なロック・チューン。前半はビートを強調してリズミカル、終盤の長い長いエピローグでの独白後、ドラマティックなフェード・アウト。
 息子に出会うまでの回想が、走馬灯の如くゆっくりと、それでいて強力な磁場を放ちながら物語を紡ぐ。
 荒れた生活から立ち直る希望として、新たな命への賛歌は、とても力強い。


ALL TIME BEST
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中島みゆき 『生きていてもいいですか』

folder 1980年リリース、みゆきにとって7枚目のオリジナル・アルバム。なんとオリコン最高1位をマークしており、年間チャートでも堂々17位にランクインしている。
 ついに来た。みゆきの数々のアルバムの中でも異彩を放つ、ポッカリと空いた深淵の暗黒。フォーク歌謡的なサウンドからの脱却を図ったご乱心時代の作品も、ファンの間では何かと物議を醸してはいたけど、『生きていてもいいですか』においては、その物議を醸したレベルが段違い。
 フォーク/ニューミュージック全盛の折、みゆきに限らず、山崎ハコや森田童子など、いわゆる陰鬱系のシンガー・ソングライターは数多く存在していた。いたのだけれど、このアルバムで吐露されている「救いのない漆黒の情念」、その後も長らく「根暗」のみゆきを語る際の代名詞として決定づけられたインパクトの強さなど、他のアーティストらの追随を許さぬ孤高のポジションを確立している。

 楽曲詳細は後述するとして、ここで取り上げたいのは、アルバムの曲順・構成について。
 もともとこのアルバム、『親愛なる者へ』に続くオリジナル・アルバムとして制作が進められていたのだけど、ある時点からレコーディング作業が膠着状態となっていた。「当時のみゆきのメンタル面がやや不安定だった」ということが、後になって伝えられている。その原因として、プライベートでの恋愛関係の拗れやらもつれやら、はたまたもっと広範な対人関係についてなど、いろいろな説がささやかれているけれど、真相はみゆき自身の胸のうちにある。なので真偽は不明。
 ただ、リリース・スケジュールはすでに決まっていたため、その対応策としてセルフカバー・アルバム『おかえりなさい』が急遽準備された、というのは前回のレビューで述べた通り。

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 ここから察するに、遅延の要因として2つが考えられる。
 ① アルバム制作に足りるほどの楽曲が準備できなかった。曲数不足。
 ② 素材は揃っているけど、アルバム・コンセプトとのすり合わせが難航した。
 ①については、ちょっと考えづらい。これまでのレビューでも書いているけど、みゆきは特にこの時期、何度か訪れている創作力のピークに達しており、他アーティストへの楽曲提供も盛んに行なっている。なので、スランプに陥って書けなくなった、というのは考えづらい。前述の傷心によって、メンタル面での不安はあったのかもしれないけど、それをまた糧として新たな方向性の歌を書き上げてしまうのも、みゆきの特質である。
 なので②、「コンセプトが定まらなかった」、「テーマが右往左往してしまった」というのが、最も理にかなっているんじゃないかと思われる。

 レコードで聴いてみればはっきりするのだけど、A面とB面とでは明らかにテイストが違っている。もちろん1枚のアルバムにまとめられているだけあって、全体的に落ち着いたトーンではあるのだけど、陰鬱とした無常観で統一されているB面と違って、A面は一曲単体で完結している、いわば小品集的な構成になっている。
 「うらみ・ます」以外のA面曲は、以前のどのアルバムにも入れても違和感ないテーマ、従来の歌謡フォーク的なテイストでまとめられている。なので、B面と比較して、そこまでドン底の暗さというわけではない。もし全体をB面のテイストでまとめていたら、セールス的には大きく惨敗していたんじゃないかと思われる。大部分のみゆきファンは、第2第3の「わかれうた」を求めていたのだから。

 多分このアルバム、A面・B面はそれぞれ別々のセッションで製作されており、これもまた推測だけど、『おかえりなさい』レコーディングによって『生きていてもいいですか』セッションは中断を挟んでいる。そんな経緯もあって、両面のコンセプトがはっきり分かれている。
 詳細なセッション・データが公表されていないため、オフィシャルで公開されている情報を頼りにすると、大半のキーボードをプレイしているのが西本明。当時は主に浜田省吾のバンドで弾いており、その後は佐野元春や尾崎豊など、ソニー系のソロ・アーティストを中心にバッキングしている。
 で、もう1人クレジットされているのが田代真紀子。この時期のみゆきレコーディング・セッションでは常連だったギタリスト矢島賢とのちに結婚、今も矢嶋マキ名義で現役活動中のキーボーディストである。彼女がクレジットされている楽曲はB面に集中しており、このことからセッションが複数回に分けて行なわれたことが推測できる。

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 どちらのセッションが先だったのか、そこまでは調査が追い付かなかったけど、微妙にコンセプトの違うセッションを、どちらかのトーンに統一させようとしたのか、はたまた別々のアルバムとして製作しようとしたのか。それとももっと潔く、どちらかのセッションをお蔵入りにする予定だったのか。どちらにせよ、その方向性に逡巡していたことは、作業遅延から察せられる。
 「どのミュージシャンより、みゆきとの作業が最も緊張する」とコメントを残している後藤次利の尽力によって、どうにかサウンド的/音響的には統一されてはいる。いるのだけれど、特に神経すり減らしたんだろうな、このレコーディングで。

 ただ、このアルバムの中でも鬼っ子的存在である「うらみ・ます」。この曲だけは、練り上げられたアルバム構成やサウンド・メイキングなんて小細工とは、無縁のところで鳴っている。どちらのセッションからも明らかに浮いており、ていうかオフィシャル公開されるレベルを越えている。あまりに内省的/プライベート過ぎるので、ほんとは世に出しちゃいけない楽曲なのだ。「うらみ・ます」だけは、あらゆる批評やら賞賛やら酷評やらを全否定する、極個人的なところで鳴っている。
 鬱屈した暗黒の底から漏れ出る嗚咽は、みゆきにとっての「たった一人の誰か」に向けて放たれたものなのだろう。でも、それがほんとにその「誰か」に向けて届くのか。また届いたのか。
 外部に放たれた時点で、その歌はもう、自分のものではなくなる。それは聴いた者に共有され、共感を呼び、そして公共のものとなる。自分、または「たった一人の誰か」だけのものではなくなってしまうのだ。
 でもそんなこと、みゆきが最もよくわかっていたはずだ。

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 別にリリースしなくても良かったのかもしれない。あまりに個人的な言葉たちは、あまりにアクが強すぎる。
 でもみゆきは『生きていてもいいですか』にこの曲を入れた。しかも冒頭に。
 穏やかな叙情性さえ感じさせるA面とも、そして傷つき打ちひしがれたB面とも相容れない、独自の強い毒素は安易な同化を拒否している。だからこそ、リード・トラックにしかハマる場所はなかった。そこまでしてでも、みゆきはこれを世に出さなければならなかったのだ。
 その切迫感は、「アーティストとしての業」なんて浮ついた発露ではない。そこに刻まれているのは、極めて個人的な嗚咽だ。アルバムのトータリティを無視してまで、「うらみ・ます」は世に吐き出さざるを得ない楽曲だった。

 『生きていてもいいですか』リリース後、みゆきは体調を崩し、恒例となった春のツアーをすべてキャンセルすることになる。
 「あの時、無理を推してやってたら、惰性でやる感じになってしまうのが許せなかったからやめた」とは本人の弁。それほど、このアルバムが難産だったことを窺わせるコメントである。当時の記事もいくつか調べてみたのだけど、要は人前に出られる精神状態ではなかったのだろう。
 しばしの休養を経てシーンに復帰したみゆき、ここで憑き物が落ちたかのように、新たな方向性を模索するようになる。ご乱心時代というさらなる混迷と出会うことも知らずに。


生きていてもいいですか
中島みゆき
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1. うらみ・ます
 イコールみゆきの代名詞となった、オールド・ファンには今をもって、リリース当時の衝撃が語り継がれている問題作。前述したように、これまでみゆきの楽曲に興味がなかった者さえ、強引に振り向かせてしまうインパクトを有している。のっけから鳴き声交じりの嗚咽だもの。
 それまで「恨み節」やら「女の情念」やらを意識的に取り上げてきたみゆきだったけど、婉曲的な表現や比喩を巧みに駆使して、マスに届くようなテクニック・技巧を経験則に基づいて成長させていた。主に歌謡曲畑の楽曲提供者が歌いやすいよう、節回しに気を配り、状況設定も細やかで映像的だった。そういったOJT的な修練が営業努力として実り、徐々にセールスを積み上げてきたのだ。
 そんなこれまでの積み立てをチャラにして、リアルを超えて生々しい感情を剥き出しにしちゃったのが「うらみ・ます」とB面曲。負の要素のみを選んで組み上げられた言葉の羅列は、いまも燦然と漆黒の光を放つ。
 ほぼ一発録りのスタジオ・ライブでレコーディングされているため、ピッチがずれていたりブレスの乱れも見受けられる。テクニカル面だけで見れば、ヴォーカルの完成度は低い。ラストの絶叫は嗚咽交じりで、聴き手側にも相応の体力が要求される。
 でも、それがどうしたというのだ。音程がどうしたブレスがどうの、そんな低次元で語られる楽曲ではないのだ。ここで吐き出される言葉は直截的で、あらゆる解釈を無にしてしまう。

 うらみます あんたのことを 死ぬまで

 歌の中の女は、軽い気持ちで弄んだ男を心底恨む。震え声で奏でられる旋律は行き場を失い、最後に漆黒の闇に飲み込まれる。
 ただ「恨む」という感情は、即ち愛情の裏返しでもある。恨みはするけれど、嫌いになったのではない。遊ばれていたことを最後まで気づかず、どこか浮かれていた自分を呪うのだ。いや途中から、または最初から分かっていたのかもしれない。でも浮かれ気分に酔いしれる自分を抑えきれなかったのだ。
 心底嫌いになったのなら、思い出すことすら嫌悪するはずなのに。
 なのにみゆき、自身の命をすり減らしてまで、男のことを思い焦がれる。
 そんなことはわかっている。わかってはいるのだけれど、でも気づきたくないのだ。

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2. 泣きたい夜に
 本文でも書いたように、ここからはもう少し穏やかなナンバーが続く。最初か最後にしか居場所のない「うらみ・ます」を抜きにして考えると、実質上これがA面トップと捉えてよいのかもしれない。でも曲調としては地味だよな。やっぱ2曲目で正解か。
 繊細なメロディを奏でるピアノと軽やかなマンドリンとのアンサンブルは、荒涼とした冒頭のムードを一掃する。研ナオコにハマりそうな歌謡曲セオリーのベタなメロディは、初期のどのアルバムに入れても遜色ないくらい、互換性が高い。後半に入ってから徐々に盛り上がるバンド・セットも、ブルース・タッチのヴォーカルとの相性は抜群。いやほんと研ナオコだよな、これって。
 でも肝心の、主役みゆきの声が暗い影を落とす。いつものアルバムならもっとアッケラカンと歌うところを、ここでは負のオーラが澱のように底で淀んでいる。「うらみ・ます」でのあからさまな世界的憎悪は、ここでも深く影を落としている。

 泣きたい夜にひとりはいけない

 そういたわってくれる「誰か」を欲するみゆき。でも、そんな「誰か」とはもう縁を切ってしまった。「子供の頃に好きだった歌を歌ってくれる」誰かもいない。
 そんな「誰か」なんていない。そんなことはわかっていながら、でもみゆきは丁寧に歌う。その声は、すでに泣き疲れてひどくしゃがれている。

3. キツネ狩りの歌
 能天気なピッコロ・トランペットによって奏でられるファンファーレ。2.まで余韻として残っていた「うらみ・ます」の重い空気を吹き飛ばす、みゆき風大人のお伽話。でも、歌われている内容は皮肉めいた暗喩に満ちており、どこか奇妙な明暗を落とす。
 軽快なアルペジオによる爽やかな叙情派フォーク・サウンドは、このアルバムの流れでは躁病的に映る。なので、A面はノン・コンセプトの小品集なのだ。
 昔聴いた時は、単なる寓話として受け止めていたけど、後になって、様々な暗喩を含んだ解釈を知るようになった。最終的な部分は結局、人それぞれになってしまうけど、大方の意見のように、70年代過激派の醜い内ゲバを描いたというのが、俺的には納得の落としどころ。

 キツネ狩りにゆくなら 気をつけておゆきよ
 ねえ グラスあげているのがキツネだったりするから ねえ

 志を共にした仲間であるはずなのに、実はスパイが紛れ込んでいることを知ってからは、互いに疑心暗鬼になり、みんながみんな、素知らぬ顔で互いの腹の内を探っている。そんなトラジコメディを冷笑多めに描いている。
 同じ情景を感傷的に歌ったのが「時代」であり、さらに直接的に切り込んだのが「世情」。何年もして回顧的に振り返ったのが「ローリング」と、みゆきにとっては時々思い出したかのように取り上げられる永遠のテーマでもある。
 ある意味、深刻なメッセージを込めた楽曲であるはずなのに、そんな周囲の小難しい解釈を笑い飛ばすかのように、夜会ではコーラス2名にピンクのウサギのぬいぐるみを着せ、キュートな振り付けを添えて歌詞そのまんま楽しげに歌わせてしまう。まるで深読みし過ぎて斜め上を見た評論家連中をあざ笑うかのように。

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4. 蕎麦屋
 もはや一心同体と言っても大げさじゃないくらい長い付き合いとなった、フォトグラファー田村仁とのとある日をモチーフに書き上げた、シンプルなアコギ弾き語りで紡がれる純正フォーク・ナンバー。みゆきのことだから多少の脚色はあれど、特別核となる出来事もなく、飾り立てもない日常。何てことのない蕎麦屋での会話が、素朴に訥々と語られる。

 あのね、わかんない奴もいるさって
 あんまり突然云うから 泣きたくなるんだ

 男と女の間に真の友情が成立するのかどうか、それを考えるとちょっと長いのでちょっと置いとくとして、この一節で、この距離感を活写できたのは、表現者としてピークにあったみゆきの観察眼の鋭さによるものが大きい。
 古い言葉で言えば「友達以上恋人未満」なのだけど、それともまたニュアンスが違う。少なくとも、両者の間に恋愛感情は介在していない。もしそれがあったのなら、そっと肩を抱いたり手を添えたりするのが自然だろうから。そういった距離感とは別のところで、この蕎麦屋的世界観は成立している。
 ―別に、どうしても蕎麦が食いたかったわけじゃない。ただ何となく、顔を合わせる理由が蕎麦屋だった、というだけだ。ほら、とんがらしかけ過ぎだってば。
 同じ友情でも、これが女同士だったらまた違ってくる。男との距離感が2次元的、対等な平面での位置関係だったとしたら、女性の場合は3次元、上下での位置関係が生まれてくる。
 「共感」の姿勢で向き合いながら、あれこれ根掘り葉掘り聞き出して、そして別れてから独り、ひそかにほくそ笑む。舌の根も乾かぬうち、他の女との話のネタにしたり、今だったらラインで拡散したりして。下に見ることによって、「共感」は「憐憫」や「嘲笑」に姿を変える。なので、女性同士の友情も同様、定義しづらいのだ。
 腹を割って話そうにも、言葉が見つからない。無理やり聞き出すつもりもない。どうせ口から出るのは、取りとめのないグチばかり。
 そんなことはわかってる。わかっているからなおさら、言葉は必要なくなる。ただ黙々と蕎麦をすすり、時々思い出したようなあいつのバカ話。それだけでいいのだ。
 ここまでがレコードではA面。B面で展開される世界観は、様相がガラッと変わる。

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5. 船を出すのなら9月
 様々な解釈を孕む、暗示めいた韻文が執拗に繰り返される。船がどこへ向かうのか、そして夏の終わりに何があったのか。明言されているものは何もない。初期のみゆきの楽曲の中では、「世情」と匹敵するほど難解で形而上学的な歌詞は、様々な解釈を産む。
 適わなかった恋は宙ぶらりんとなり、届くはずもない想いが綴られる。
 ―もうすべては終わってしまった。
 その声が誰にも届かなかったとして、でも、そんなことはもうどうでもよいのだろう。やるせない無常観は、みゆきの声を神経質に震わせる。
 この言葉たちはじっくり練り上げられたものなのか、それとも衝動的に趣くまま吐き出されたものなのか。いずれにせよ、ここで紡がれる言葉の重みは、気軽に聴き流されることを頑なに拒否している。「聴くなら真剣に向き合え」と。
 その言葉の求心力は、サウンドにも及んでいる。A面までは比較的、シンプルなフォーク寄りのアレンジだったのが、ここでは歌詞のバイアスに負けないハード・サウンドで飾り立てられている。時代性から鑑みて、Journeyをモチーフとしたアメリカン・ハード・プログレ的なアンサンブルが、打ちひしがれたみゆきのヴォーカルを盛り立てている。それくらい徹底しないことには、この言霊をねじ伏せることはできない。
 投げやりな喪失感から逃れるように、船は港を出る準備を始めている。それは9月。
 でも、ほんとに船は港を出るのか。そして、みゆき自身がそこまで待てるのか。
 もしかすると、そこまで躰が持たないかもしれない。

6. エレーン
 後藤次利作によるインタールードを経て紡がれる、ゆったりした4ビート。はっきりしたモデルを明らかにしないみゆきとしては珍しく、実在した人物にまつわる実際に起きた事件をモチーフに描かれている。後にみゆき執筆による短編集『女歌』でも、彼女のことは再度取り上げており、モチーフ以上の強いインスパイアを受けたことが窺える。
 当時、みゆきは生活の拠点をまだ札幌に置いており、仕事のたびに上京するというサイクルを繰り返していた。東京はあくまで仕事を行なう場所であって、そこで日常を営むことは考えになかったのだろう。そんな行ったり来たりがルーティンとなっていたみゆき、東京での定宿としていたホテルで起こった殺人事件を、傍観者を超えた立場から活写している。
 
 エレーン 生きていてもいいですかと 誰も問いたい
 エレーン その答を誰もが知ってるから 誰も問えない

 アルバムの主題であり、表現者としての業が吐き出した言葉。
 「うらみ・ます」は印象としてはネガティヴではあるけれど、「うらみます あんたのことを 死ぬまで」と、棄てられた男への負の情念が、皮肉にも生き続ける原動力となっていた。どんな理由であれ、「捨てきれない情」はマイナスのオーラへと昇華して、強いパワーをもたらす。ただここでは、そんな負の力は下向きへ作用する。だって、もう終わってしまっているのだから。
 蔑まれる生業につき、陰ながら人に嘲笑される生活。それは亡くなった後も変わらない。たかが1人、出稼ぎの娼婦が亡くなっただけじゃないか。誰も悲しまない、ほとんどの人は知ることもない、そんな都会の片隅で起こった小さなざわめき。
 ほぼ顔見知り程度だったはずのエレーン。みゆきの人生にとって、彼女は特別重要な存在ではなかったはずだ。多分、それは今でも変わらない。変わらないのだけど。
 ひとつ道を踏み外せば、誰もがみな、彼女の生き方をなぞったかもしれない。たまたま自分は日本人で、そして運が良いことに表現者となったけれど、人生なんてどうなるかわかったものじゃない。
 人に伝える術を持たない、名前さえほんとかどうか定かではない異国の女性に、どこに生きる希望があるというのか。

 けれど どんな噂より
 けれど お前のどんなつくり笑いより、私は
 笑わずにはいられない 淋しさだけは 真実だったと思う

 淋しげな横顔だけが真実だなんて、あまりにも無情すぎる。
 そして、ふと気づく。わたし自身にとっても、ここは異国だ、と。

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7. 異国
 そう、エレーンは明らかに異国の民であったけれど、みゆき自身もまた、どこにも居場所がないことに気づいたのだった。自分を受け入れる者がいなければ、そこは誰にとっても異国だ。
 誰でもよいわけではない。みゆきが渇望しているのは、「たったひとりの誰か」なのだ。その「誰か」から拒まれ、時を同じくして、顔見知りの外国人娼婦が不本意な形でこの世を去る。マイナスのシンクロニシティが一気にみゆきに降りかかり、そして―。
 アイデンティティの崩壊は、みゆきの暴走という形を取って、作品として結実した。
 人生をゼロサム的思考で例えると、この時期のみゆきは大幅なマイナスである。ただしこの時期を含めた80年代初頭の作品は、どれも鋭い刃のごとき切れ味を持っている。表現者としてアーティストとしては、大幅な飛躍をなし得たのも、この時期である。
 いいこともあれば、悪いことだってある。そう思い込んで、人はみな飲み込みながら生きている。そんなことはわかっている。頭ではわかっているのだけれど、納得はできない。理屈ではねじ伏せられない、情念はここでも燻り続ける。
 ―あいつに拒絶されたら、どこに行けばいい?
 「人生」に拒絶されたエレーンは、異議申し立てする機会すら与えられず、不遇の死を遂げた。わざわざ日本に来たりせず、自国でゆったり過ごしていられればよかったのに。でも、エレーンもまた「くにはどこかと」自問し続けた。いわば、私だってエレーンと同族だ。人生に拒否されるのも、あいつに拒否されるのも、いまの私にとっては等価だ。
 「まだありません」と俯きながら、みゆきは探し続ける。異国ではない、ほんとの死に場所を。でも、そんな所はどこにだってないのだ。
 数多いみゆきのレパートリーの中では数少ない、いまだステージで披露されたことのない楽曲である。当時のみゆきにとってはあまりに重すぎる命題だったし、今のみゆきにとっても、歌う情景が思い浮かばない。
 いつか歌う日が来るのだろうか。その日が来るのを待つのは、あまりに酷だろうか。


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1曲ごとの独立した世界観が強いよね - 中島みゆき『夜を往け』

folder 1990年リリース、18枚目のオリジナル・アルバム。オリコン最高3位、17万枚という売り上げは、この時期のみゆきのアベレージに沿っており、本人的にもヤマハ的にも、またファンとしてもほぼ予想通りの成績。固定層をしっかりつかんでいたので、これだけあれば充分なのだ。
 本来なら年末リリースが恒例だったところを、初の試みとなる「夜会」の準備が不慣れなせいもあって順調に捗らず、すべてのスケジュールに大きな影響が出てしまう。ヤマハ的にもポニーキャニオン的にもリリース・スケジュールはすでに組み込まれており、単なるリリース延期では済まされない。この頃から既にみゆきはヤマハの屋台骨を支える役目を担っていたため、「何も出すものがない」というわけにはいかなかったのだ。
 そんなこんなで「とにかく何かリリースしなくちゃ」といった事情によって、苦肉の策として制作されたセルフカバー・アルバム『回帰熱』をリリース、どうにか窮地を凌ぐ。そのプロモーションを行なう余裕もなく、まるで年末進行の勢いで初の夜会公演全20回を完走、普通なら達成感の余韻に浸りたいところだけど、またまたそんな余裕もなくレコーディングを再開、そしてついにリリースされたのが、この『夜を往け』だった、という次第。あぁせわしない。

 一度世に出てしまった作品は、その時点で作者の手を離れ、受け取る人それぞれのものになる―。
 かつて、みゆきはそんな意味合いの言葉を残した。
 どれだけ自分がメッセージや主張を込めようとも、受け止め方というのは人それぞれである。もっと突っ込んで言えば、最初から先入観でガチガチに縛るのは、むしろ作品のためにならず、それは作者の傲慢に過ぎない。それを「作品やファンに対する責任放棄」という見方もあるけれど、そんな意見さえみゆきは真っ向から否定せず、ラジオから流れる奇声で笑い飛ばす。それが彼女の美学なのだろう。ケセラセラ。
 ―とは言ってもどの作品も、一旦は身を削り、奥底から搾り出すように、産みの苦しみを経て創り上げた、いわゆる子供達である。それらを体内から出してしまった途端、「はいサヨナラ」というのも、ちょっと酷だしドライすぎる。
 「過去を振り返らず前だけを見る」というのはカッコいい生き方ではあるけれど、人間、誰でもそこまで割り切れないんじゃないだろうか。そういったモノも全部含めて自分なんだろうし。

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 すっかり時の人になってしまったにもかかわらず、相も変わらずこぢんまりしたバンドを従え、世界中の中規模程度のホールを廻り続けるBob Dylan。もはや永遠に続くんじゃないかと思われるNever Ending Tour、今さら金だ名誉だで浮き足立つようなキャリアや年齢でもない。
 歌いたい歌を唄い、そしてその歌を求める者がいるのなら、どんな小さな場所にでも出向く。
 もはや「伝えたい」事柄があるわけでもない。歌うことがすでに業となり、それは身体の一部となっている。
 緻密な構成で完全パッケージ化された大方のベテラン・アーティストのライブと違って、Dylanの場合、その日によって何の予告もなく大幅にセットリストを変えたりすることで有名である。「Like a Rolling Stone」も「Knockin’ on Heaven’s Door」も、ステージではほぼ原形を止めぬほどアレンジされたりで、気分次第やりたい放題である。
 そういった行為は普通、マンネリ化を防ぐために行なわれるものだけど、Dylanの場合だと、ちょっと事情が違ってくる。彼の場合、レコードに定着した音源を完成形とするのではなく、常に本来の収まるべき形を探しあぐねているのだ。
 「記録として定着したものが完成形である」という考え方自体が偏ったものであって、そもそも何らかの媒体に記録されたものはかりそめのものである。その時は「これで完璧だ」と思ったとしても、時代が変われば解釈も変わる。その時の自分とは、通過点でしかないのだ。
 終わることのない探求と好奇心。
 完成形とはある意味相対的なものであって、決して絶対にはなり得ない。そんなことはDylanもわかっている。
 そしてまた、観客もわかっていることである。変化し続けるDylan、理想のサウンドを追い求めるDylan。
 いや、もうそんな次元も超越してしまっているのかもしれない。ミュージシャンであるということは、常にステージに立って歌い続けること―。
 ただ、それだけなのだろう。

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 Dylanに倣った訳ではないだろうけど、みゆきもコンサートにおいて別アレンジを披露していた時期もあった。まだ知名度も少なくバックバンドを雇い入れることもできず、ギター1本弾き語りでドサ廻りを続けた期間は別として、80年代に入ってからロック志向の強まった、いわゆるご乱心期は結構実験的なサウンドを試したりもしている。いわゆる従来モードの中島みゆきの自己否定、新規巻き直し的モードに突入していたのだけど、それでいながら固定ファン層への配慮も考えなければならなかったため、迷走具合が露わになっていた部分もある。

 大半のリスナーにとってコンサートへ行くのは年に一度か二度くらいであって、よほどの追っかけか政令指定都市在住でもない限り、そう頻繁に行けるものではない。ライブハウス規模のアーティストならまだしも、みゆきクラスになるとチケット争奪が高倍率となって、入手することだけでもひと苦労である。ファンクラブに入ってても、なかなか難しいのだ。
 それでもどうにか、やっとの思いで入手したチケットを握り締めてコンサートに参加したはいいけど、自身にとって思い入れのある楽曲が、まったく別のアレンジで演奏されるのを聴いて、ファンはどう思うだろうか。
 「新たな一面を見れた」と喜ぶ者もいれば、保守的な考えの持ち主なら「なんか違う」感を引きずる者もいるだろう。多分、後者の方が多いんじゃないかと思われる。インプロビゼーションやアドリブを見せ場として演出するバンドならまだしも、特にみゆきのような、思い入れの強いファンが多いソロ・シンガーの場合だと、あまり歓迎されない方が多い。

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 クリエイティヴィティを優先するのなら、ユーザーへの配慮よりクオリティを重視するのだけれど、アーティストとはいえ人気商売、そこまでは割り切れないものである。ご乱心時代でも、シングルは比較的まともな歌謡曲調のサウンドが多かったし、ヤマハを背負って立つ立場にいるからには、そこまで好き勝手もできないのだ。何だかんだ言っても日本的なメンタルのみゆき、何年かに一度、コンサートに参加してきてくれるファンは裏切れない。「中島みゆき」というエンタテインメント人格は、自分独りで勝手にいじれないのだ。
 とは言っても、アーティスティックな自分を押し殺して人気商売に徹すること。それだって、簡単に割り切れるものではない。湧き出てくる楽曲たちを操作することはできないのだ。売れ線であろうとなかろうと、それらは自らが産み落とした子ども達なのだから。
 じゃあどうすれば?

 一般的なリサイタルという形式ではなく、大枠のストーリーの構成要素のひとつとして、各シーンにふさわしい楽曲をはめ込む方式。そうすれば、ステージ進行としては自然だし、楽曲の新たな解釈も可能だ。これまでのマテリアルで足りなければ、そこの部分だけ新曲を入れることもできる。
 「コンサートでもない、演劇でもない、ミュージカルでもない、言葉の実験劇場」。
 そんなコンセプトを掲げて初開催となったのが、1989年の「夜会」である。文章から見てわかるように、ほぼ手探りの状態で立ち上げたプロジェクトのため、よく言えば実験的、意地悪く言えばどっちつかず的なスタイルで、見切り発車で始まったのだった。現在のようなカッチリ構成されたストーリー仕立てではなく、従来コンサートの延長線上、ほぼ既発曲のみせ構成され、曲間をオリジナル寸劇やエピソードで繋ぐという、多分みゆき的には黒歴史と化した仕上がりとなった。なので、この最初の夜会は資料映像以外にはまともな記録が残っておらず、アーカイヴでもあまりお目にかからない。
 コンサート・スタイルが強く出た公演だったため、後年のような演劇的要素は薄い。バンド・メンバーもステージ上に立って、時には寸劇に参加したりもして、ゆる~い演出である。ミュージカルと言えるほどのダンス・シーンもなければ、起承転結が明確な演劇でもない。コンサート臭は強いけど、これまでとは明らかにちょっと違う。
 そう言った既存スタイルからの脱却という点において、初の「夜会」のコンセプトは正解である。まぁみゆき的には恥ずかしいんだろうけど。

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 で、『夜を往け』。
 「夜会」準備と並行してのレコーディング作業だったため、断続的なスケジュールゆえ、曲調の統一感はあまりない。ただ、タッグを組んで今回で3作目となる瀬尾一三とのコラボが馴染んできたせいもあって、サウンドのトーンバランスに違和感は少ない。主題はほぼ全部、見事にバラバラだけどね。古典浄瑠璃から着想を得たモノもあれば、後の「夜会」的メソッドにつながるモノもある。
 ご乱心期のみゆきのアルバム制作は、アルバムのトーンを統一するため、コンセプトほど凝り固まったものではないけれど、絶対的なみゆき視点を通してのネガティヴな描写でまとめられていた。しかし瀬尾と組んでからのみゆき、いやどっちかと言えば「夜会」後のみゆきは、そのような統一感を「夜会」の主題に昇華させ、対してアルバムにおいては各章が独立した世界観を持つ短編集的な趣きで制作に挑んでいる。

 その「夜会」メソッドの方向性がまだ定まっておらず、「コンサートでもなければ演劇でもない、じゃあ何なの?」といった自問に確かな答えが見つかっていなかった時期である。「夜会」のフォーマットが次第に固まってきて、レコーディング作品としてうまくフィードバックされた最初の成果が『East Asia』なのだけど、そこに至るまでの過渡期にあたるのが、ちょうどこの時期である。
 あるのだけれど、アーカイヴの蓄積をチャラにして、新たな表現手段を模索していながらも、どの曲の主題も単体でアルバム1枚作れるほどの情報量と重厚さを有しているため、ちゃんと聴こうとする場合は、きちんとコンディションを整えておかないと返り討ちに逢ってしまうアルバムでもある。なので、正直一見さんにはちょっと敷居が高いアルバムであるのかもしれない。
 まぁあまり肩ひじ張ってると疲れちゃうので、好きな曲だけ選んで聴いてもいいんだけどね。別に頭から律儀に聴かずとも、好きな曲だけシャッフルして聴く方がすんなり入りやすいのが、このアルバムの特徴である。
 あ、でもそれってみゆきのアルバム全般に言えることか。


夜を往け
夜を往け
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中島みゆき
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1. 夜を往け
 アメリカン・ブルースなイントロに続く、大陸系の大味なギターロック。サビで連呼されるタイトル自体が直訳っぽいので、うまくスライドすればSheryl Crowの先取り的な展開もできたかもしれない。まぁ全曲これだったら、さすがに違和感ありまくりだけど。
 ラストのサビ前のシャウトはハードロック的なイディオムから来るものだけど、当たり前だけどこういった発声法は喉を痛めるため、長く続けられるものではない。勢いにまかせた唱法というのはこの時代まで。サウンドに重きを置いてるおかげなのか、言葉の使い方もどこか大味。「夢のかけら」だの「あの日の夢のようだ」だの、練り方がちょっと足りなさげ。でも、「ファイト!!」あたりのイメージが強いライト・リスナーには食いつきいいんだろうな。

2. ふたつの炎
 なので、次に来るこの曲の重厚な世界観が引き立つ、という見方もある。みゆきの場合、アルバム制作ごとに楽曲制作するというスタイルではなく、ほぼ日常的に楽曲の断片やらを紡ぐことが生活の一部となっている。この曲のメロディ・ラインや言葉の使い方など、新たなマテリアルではなく、70~80年代のストックなんじゃないかと思われる。
 都合の良い女と口先だけで体裁の良い男との関係性は、「恨み節」と称された頃の世界観と合致している。ある意味、中島みゆきのパブリック・イメージを象徴しているような楽曲ではある。ヴォーカル・スタイルも未練を引きずった感が強いしね。


3. 3分後に捨ててもいい
 その「恨み節」と並行してのみゆきのパブリックな印象として、「歌謡界との密接なリンク・相性の良さ」が挙げられるのだけれど、これなんかはその典型。古き良き歌謡曲的ヨナ抜きメロディ、テンポの良いサビなど、時代が違えば研ナオコに歌ってもらいたい楽曲でもある。
 
 3分後に捨ててもいいから 今だけ傍にいて

 「恨み節」時代なら、粘着的なタッチで搾り出すように歌い上げていたのだけど、ここでのみゆきはもっとアッケラカンに、それでいて強い女としての凄味さえ感じられる。

 恋と寂しさの違いなんて 誰がわかるのかしら

 これが負け惜しみ的に聴こえないのが、ご乱心期を通過した後のみゆきのしたたかさである。

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4. あした
 シングル・リリースから1年半経ってからのアルバム収録なので、リリース当時は今さら感がちょっとあったけど、90年代みゆきの代表曲のひとつとして、そして俺の中のみゆきのベスト10に常に入る鉄板ナンバー。当時KDDIのCMで流れた際、楽曲と映像とのリンクが絶妙で、しばらくヘビロテ化していたことを思い出す。
 そう思ってるのは俺だけではないらしく、リリースから4半世紀経った今でもカラオケ界隈では根強い人気を誇っており、そう考えると当時のオリコン最高18位はちょっと低すぎるぞと言いたい。
 
 もしも明日 私たちが 何もかも失くして
 ただの心しか持たない やせた猫になっても

 抱きしめれば2人は なお遠くなるみたい
 許し合えば2人は なおわからなくなるみたいだ

 何もかも 愛を追い越してく
 どしゃ降りの 一車線の人生

 説明的な言葉は何もない。「やせた猫」?「一車線の人生」?様々な解釈はあれど、みゆきは決して説明しない。解釈なんて人それぞれだ。ただ、それぞれの言霊の力は強く、そしてズシンと響く。
 こういった曲を時々サラッと歌ってくれるから、我々はみゆきから目を離せないのだ。



5. 新曾根崎心中
 みゆきとしては珍しく、年下の男を諭す成熟した女性の立場から描いた、何かとエロティシィズムを想起させる楽曲。近松門左衛門の曾根崎心中からインスパイアされたのだろうけど、男女の心中を題材としてイマジネーションを膨らませていると思われる。男と女の情念を具現化しているためかサウンドもハードで、こういったネチッこいギター・ソロはやっぱり今剛だよな。

6. 君の昔を
 こちらもアルバム制作時より少し前、ご乱心期の『miss M.』っぽいテイストが漂う楽曲。フックの利いたサビが歌謡曲と相性が良さげなので、この辺も誰かカバーしてくれないかな。近年、みゆきのカバーと言えば工藤静香と相場が決まってるっぽいのだけど、彼女には合わなそう。案外、一青窈あたりが歌ってくれたら合いそうなんだけどね。
 対象を愛しすぎるがあまり、自分と逢う前の昔の彼の姿、そして過去にすら嫉妬を覚える女。口調こそ軽やかで淡々としてるけど、その裏で唇を噛みしめていることを象徴するかのように、ギターの響きはカン高くヒステリックだ。

7. 遠雷
 イントロがまるで永ちゃんの「Somebody’s Night」。と思ったら歌い方も女永ちゃんだった。
 この時期になると「恨み節」「色恋沙汰」的な楽曲は少なくなっており、恋焦がれて狂い悶える女の情念を見せることは稀となっている。以前はこういった曲のオンパレードだったのだけど、旧来のパブリック・イメージはやはりこんなものなのか。
 「このままでいいじゃないか」という男のセリフから始まるように、歌詞世界はどこか第三者的、短編小説のような冷静さを感じ取ってしまう。感情移入が過ぎると情念ばかりが前に出て、肝心の言葉は霞んでしまう。言葉を引き立たせるため、ヴォーカルは少し息を抜いている。
 「ガレージの車には違う口紅がある」。これじゃネガティヴなユーミンみたいじゃないの。もっと違うフレーズがほしかった。

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8. ふたりは
 このアルバムだけではなく、これまでのみゆきの楽曲パターンにはなかった実験作。俺的にはリリース当時、演劇的な空間設定がちょっと苦手で、この曲は飛ばして聴いていた。今も正直、それほど聴きたくなる曲ではない。考えてみればそうだよな、日常的に聴きたくなる、BGMにしたくなるような楽曲ではない。
 リリース当時は20歳前後だったせいもあって、こういった世界観がピンと来ず、なんでこんなテーマなんだろう?と避けていたのだけど、アラフィフになってから久しぶりに聴いてみて、ついでに世良正則とデュエットした『10 Wings』ヴァージョンも合わせて聴いてみて、俺なりに思ったひとつの結論。
「あ、これって「恨み節」の反対の世界観の「その後」じゃね?」

 70~80年代のみゆきが描く恋愛観は、総じてアンハッピーエンド的展開のものが多かったのだけど、ひとつの仮定として、もしその恋愛が実を結んだとしたら?
 例えば、誰にも祝福されず報われない愛を、周囲の反対を押し切って駆け落ち同然に「異国」へ2人旅立ち、そして共に暮らす。力を合わせて苦難を乗り越えた絆を強く、最初のうちはうまく行く。でも、過去の何もかもを捨てて一緒になった2人、その閉じられた世界は、長く続けば続くほど、居心地の良いものではなくなってゆく。
 当初の甘い蜜月はどこへやら、登場人物2名の空間は次第に荒んでゆく―。

 強烈にデフォルメされた悲劇的なフィクションは、突き抜けると寓話的な様相を呈する。重い主題は、軽やかなシャンソン・タッチによって陰鬱さを薄めている。ここでのヴァージョンは習作的な響きとなっており、世良正則のワイルドネスが添加されることによって完成形を見る。

9. 北の国の習い
 で、こちらの寓話はもっと軽やかに、ついつい口ずさんじゃったりしそうな民謡タッチのメロディなのだけど、歌詞は結構毒が散りばめられているので注意。北の国の女はすぐ離婚するだの男を見捨てるだの吹雪の夜に閉じ込められて排気ガスで窒息死するだの、ネガティヴな事象をカラッとした口調で寓話的に紡ぎだしている。こういったのもみゆきの真骨頂である。「キツネ狩りの歌」の続編的な扱いとなっている。

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10. With
 高らかに反戦と掲げているわけではないけれど、大きな母性からの視点をもって、せめて目の前の「君」と一緒にいたいことを表明した、男女の色恋沙汰を超越した地点で描かれた楽曲。8.同様、時代や空間設定が曖昧で寓話的なので、散文的な歌詞ではあるけれど、普遍性を持った言葉の塊が投げ出されている。サウンドもメロディもヴォーカルもすごく優しく丁寧なのだけど、言葉は相変わらず何の説明もなく、ゴロンと投げ出されたままだ。
 程よい距離感の慈愛に満ちあふれた言葉たちはどれも魅力的で、全部は書ききれないけど、

 誰だって 旅くらい ひとりでもできるさ
 でも、 ひとりきり泣けても
 ひとりきり 笑うことはできない

 この言葉に一番心打たれた、当時20歳の俺。その頃の感受性は、たぶん今もそんなに変わらないのだろう。




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北海道の中途半端な田舎に住む、そろそろアラフィフ男。ほぼ週1のペースで音楽ブログ更新中。節操ない聴き方と思われてるけど、自分の中では一貫してるつもり。 最近は蔵書の整理がてら、古い本を再読中。ジョン・アーヴィングから始まって、フィッツジェラルドやゾラ、モームなど、いわゆる古典の復習中。いつになったら終わることやら。新刊読めねぇや。
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