好きなアルバムを自分勝手にダラダラ語る、そんなユルいコンセプトのブログです。

#Singer Songwriter : Japan

21世紀のみゆきと夜会の収支バランスについて - 中島みゆき 『短篇集』

51Q3dp9+CUL 2000年リリース、みゆき28枚目のオリジナルアルバム。オリコン最高7位、トータル売り上げは188,000枚。80年代は常時30万枚以上がアベレージとなっていたみゆきだけど、90年代に入ってからはほぼこの辺のインシャルで落ち着いており、大きなアップダウンもない安定したセールスになっている。
 「地上の星」収録アルバムなので、そりゃバカ売れしたんだろうなと思われがちだけど、案外そうでもない。もはやその程度の話題では動ずることもない、逆に言えば、特に話題がなくても指名買いが多い、安定した売り上げを見込めるポジションにうまく移行した、という方が正解だろう。同世代でここまでコンスタントに、そして安定したセールスを保ってるアーティストは、そうはいない。
 デビューから長らく所属したポニーキャニオンを離れ、新たに設立されたレコード会社ヤマハ移籍の第1弾となっているけど、要はキャニオン内のフォーク/ニューミュージック部門アードバーグが業務移管した形であり、要は丸ごと買い取った、ということ。これまでマネジメント業務のみ行なっていたヤマハが、さらなる収益効率化のため、せっかくだから出版もまとめちゃおう、という大人の事情が絡んでいる。

 後世で例えられる「ご乱心期」の80年代を通過、90年代を迎えた「円熟期」のみゆきの活動は、ほぼ夜会を中心にスケジューリングされており、その間にアルバム制作と小規模ツアーを挟むことで成り立っていた。あ、あとラジオと。
 「通常のコンサートとは違う表現手段」を模索してゆくことでスタートした夜会は、公演のたびスタイルが変わっていた。既発表曲で描かれたテーマをいくつか抽出し、緩やかな散文スタイルのストーリーに沿って、シーンごとにフィットする楽曲を散りばめたひとり芝居が、初期夜会の基本コンセプトだった。
 これまで慣れ親しんできたヒット曲を違う解釈で、また長くアルバムに埋もれたままだった隠れ名曲にスポットライトを当てたりなど、ルーティンの新譜プロモーション・ツアーでは難しいことにもチャレンジできるのが、夜会のメリットだった。まさか「キツネ狩りの歌」や「わかれうた」をあんな風に演じるだなんて、作者であるみゆきしか許されないことだった。
 「コンサート」と「演劇」との融合を目指していた初期スタイルから、回を重ねるにつれて「演劇」の比重が大きくなり、明快な起承転結が形作られてゆくようになった。自然とこれまでのストックだけでは足りなくなり、ストーリーが新たな楽曲を希求し、またその逆もあって、という無限増殖のループ。ストーリーの骨子が強固になるのと比例して、次第に舞台装置も大掛かりになっていった。
 当然、ひとり芝居では追いつかなくなり、必要最小限ながら共演者も増えてゆく。最新の夜会『橋の下のアルカディア』なんて、ほぼ 中村中とのダブル主演だったし。

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 初期は既存曲のリアレンジや新解釈が多かった夜会だったけれど、通算7作目となる『2/2』からは書き下ろし楽曲がメインとなり、以後、その状態が続いている。
 それまで手持ちのカードを組み合わせてストーリーを作っていたのが、『2/2』では通用せず、まっさらな状態から創り上げなければならなくなった。それは創作者としてはひとつの成長であり、乗り越えなければならない堅牢な壁だったのだ。
 舞台で演じられるストーリーの構成要素として作られた楽曲なので、基本、ライブで演じられ味わうものである。演者やスタッフの汗と熱意、会場のリアルタイムの空気感が相まってこそ、最高の効果が得られる類の作品なのだ。
 なので、テープに記録され、アルバムにまとめるために作られたものではない。どれだけ良い楽曲だったとしても、ストーリーの脈絡を無視してそこだけフィーチャーして単体で聴いたとしても、魅力は大きく目減りしてしまうのだ。基本、劇中歌を前提として作られたモノなので、一曲単体では本意が伝わらないモノも多い。
 それでも単体で成立しそうな楽曲は、新たなアレンジでレコーディングされたり、90年代夜会の集大成と言える『日-WINGS』『月-WINGS』によって音源化されている。いるのだけれど、それらは夜会を生で見れなかった大多数のファンが補完作業的な意味合いで聴くものであって、当初から音源化を前提として制作されるオリジナルアルバムとは、ベクトルが大きく違っている。
 DVDや企画ライブ『夜会工場』にて、ビジュアルによるパッケージ化が行なわれているので、そっちを観た方がずっとわかりやすい。多分、夜会のサウンドトラックも誰かが企画しているんだろうけど、やっぱ音だけじゃ伝わらない面が多い。それにCDだったら軽く2枚組になっちゃうし、とても映像ソフトより枚数が捌けるとは思えない。

 当初、「3年でひと区切りつけるつもりだった」はずの夜会は、公演ごとにクオリティは向上し、比例してプロジェクト・スケールも大きくなっているのだけれど、立ち上げ当初から課題となっているのが、その収益性である。
 ひとつの夜会プロジェクトが終わった時点から、次のプロジェクトの準備は始まっている。アバウトな構想だけなら、もっと前から思いついていたのかもしれない。ストーリーの立ち上げと並行して、楽曲も新たに書き下ろしてアレンジとリハーサル、並行して必要な舞台装置・キャスティングの発注も行なう。さらに同時進行で会場も押さえなければならない。以前ならシアター・コクーン、近年は東京と大阪の2ヶ所だ。
 あらすじが決まって脚本も大方できあがり、何ヶ月も前から稽古が始まる。当然、演じてるうちに変更は生じるし、新たなアイディアだってどんどん取り入れる。サウンドトラックもリハーサルのたび、またプロットの変更によってアレンジやら歌詞やらも変わってくるし、まるまる差し替えのケースだってある。舞台初日が近づくにつれ、アップデートの頻度も次第に増えてゆく。
 悲鳴と怒号が飛び交うドタバタを経て、どうにか幕は上がる。毎回1ヶ月程度、それ以上は行なわない。収益を考えれば、「キャッツ」や「ライオン・キング」ばりの長期公演をやった方が得策だし、実際、それだけの集客力を持つコンテンツではあるけれど、そうなるとみゆきを始め、演者・スタッフの気力体力精神力が持たない。マンパワーへの依存度が大きい舞台公演は、劇団四季のような専業じゃないと、ロングランは難しい。

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 ジャニーズ並みにチケット入手が困難な夜会は、どの会場も共通して収容人数1000人強である。基本、演劇的要素の多い舞台のため、必然的に小規模ホールでの開催になるのは、やむを得ないところではある。
 あるのだけれど、ドームやアリーナ・クラスなど、大規模公演が可能な音楽コンサートに比べれば、コスパは非常に悪い。収益性の低さの要因のひとつである。まぁもともとみゆき、武道館クラスの会場でやったことはほとんどない。
 赤字補填策のひとつとして、ライブ会場での関連グッズ販売は大きな収益の柱となっており、みゆきも夜会も例外ではない。通常のコンサートと違って、チケット価格も比較的高額設定となっている。DVDやブルーレイ販売、近年は映画上映も行なわれていたり、あらゆる手段を講じてはいるけれど、それでも収支的には厳しいものがある。
 おそらく、みゆき/ヤマハからの持ち出しも相応にあるんじゃないかと思われる。

 ヤマハにとってみゆきは筆頭アーティストであり、一種の象徴、そしてもはや「生きる伝説」的な存在でもある。
 デビューのきっかけとなったポプコン以来、操を守るかのように、他のプロダクション移籍や独立に色目を使うこともなく、ヤマハ一筋にやってきた。コンスタントなリリーススケジュールを守ることによって、毎年確実な収益をもたらし、赤字は出さないようにやってきた。確かに夜会単体では赤字だろうけれど、CD売り上げを含めた連結決算では、充分利益貢献になっている。
 まぁ、みゆき単体で見ればの話。ただこれがもっと広い目線、ヤマハという企業全体で見れば、話は違ってくる。

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 80年代に入ってからのヤマハは、基盤事業である楽器販売が徐々に下降線をたどっていた。積極的な購買層である中~上流層家庭にほぼピアノが行き渡ってしまい、需要は頭打ちとなった。90年代前後から、収益の柱になるはずだったエレクトロニクス部門は、先見の明こそあったけれど、肝心の販売戦略での出遅れが後発他社のリードを許し、経営不振が長らく続いていた。バイクブームも終わってたしね。
 21世紀に入ってからは、経営合理化策として、多岐に渡っていた事業内容を一旦整理、事業内容のスリム化によって、収益構造の改善を図った。音楽部門もその例外でなく、従来の著作権管理とマネジメントに加え、出版事業をも内製することによって、利益率向上を図った。ヤマハ・レーベルの誕生の経緯である。

 レーベル立ち上げを機に、みゆきは取締役として名を連ねることになる。論功行賞的な意味合いももちろんあるだろうけど、社内では強烈な存在感を放つみゆきである。恩師である川上源一以外、誰も逆らうことはできない。
 みゆきが銀行団や弁護士と折衝したり、バランスシートと首っ引きになってる姿はあんまり想像できないし、またあんまりしたくもない。まぁそこまでガッツリ経営に関わっているわけではないだろうけど、経営陣としては率先垂範、単なる一所属アーティストではないのだから、これまでより予算の使用明細やコスト圧縮に関心が向かわざるを得ない。
 少なくとも、運営的にマイナスになるものは作れない。ポイントゲッターとしては、それなりの結果を残さないと、後進たちに示しがつかないし。

 経営判断として悪く言っちゃえば、夜会プロジェクトは金食い虫的存在であり、マイナス要因である。公演単体では完全に赤字、関連グッズ販売でリクープしなければ、収支が合わせられないのだから。
 ヤマハの企業風土として、文化事業への積極的な投資は賞賛されるところではあるけど、経営側の立場に立ってしまうと、見なければよかった面も見えてしまう。クリエィティヴな作業の遂行に雑多な要素はいらない。パトロンは金だけ出して芸術作品の完成を待つだけ、口を出してはいけないのだ。
 ブルジョアジーとプロレタリアート両面を併せ持つ途を選んだ21世紀のみゆきは、その両立を図るべく労を執ることになる。

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 ヤマハの立ち上げスタッフの一員として、「ここらでいっちょ、デカい花火を打ち上げとかないと」と思っていたかどうかは不明だけど、NHK新番組のテーマ曲のオファーは特大サイズの花火だった。「NHKが求めるみゆき像」を念頭に置きながらも、そこには収まりきれないスケール感と普遍性を内包しているのが「地上の星」である。並みのアーティストなら、一生に一度か二度、書けるかどうかのレベルの楽曲を、クライアントの意向を遥かに超えて、しかも「狙って」作っちゃうのだから、底なしのバケモノだよな、やっぱり。
 静かに、そして同時に強烈なカロリーを放つ熱に触発されたNHK側も、やたら気合いの入ったオープニング・タイトルを製作している。双方の世界観とニーズが一致して、番組も楽曲も大ヒットとなった幸運な事例である。

 90年代のみゆきのアルバムは、コンセプチュアルなものが多かった。みゆきの意識/無意識がそうさせていたのか、どのアルバムにも夜会的なメソッドが持ち込まれ、戯曲的な構成、一種の組曲的な楽曲のセレクト・配置が行なわれている。どの楽曲もみゆきの厳しい自己ジャッジを経ての産物ではあるけれど、前述したように、アルバム総体の流れをつかまないと感情移入できないものが多いのも、また事実。好きな曲だけシャッフルして聴くというスタイルには馴染まないのだ。
 ライフワークとなっている夜会ゆえ、完全に切り離して考えることはできないけど、ヤマハ移籍以降のアルバムは夜会とのリンクが少し弱まっており、楽曲単体で充分完結しているものが多くなる。
 『短編集』というタイトル通り、どこから聴いても違和感なく、あまり肩の凝らないラインナップが揃えられている。なので、逆に「地上の星」だけ妙に浮いているというパラドックス。冒頭からついついかしこまってしまう構成になっているけど、あとは結構サラッと作りましたよ的な楽曲が並んでいる。
 でも、ラストを締めくくる「ヘッドライト・テールライト」。これはここにしかハマらないよな、やっぱ。


短篇集
短篇集
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中島みゆき
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1. 地上の星
 先行シングルとしてリリースされた、言わずと知れた21世紀みゆきの代表曲。恐らく30歳以下の世代にとってのみゆきとはこの曲であり、または「糸」か「ファイト!」ということになるのだろう。
 「プロジェクトX」のプロデューサーの初期構想は、高度経済成長期の日本を支えた名もなき功労者へスポットライトを当てること、輝かしい歴史ではなく、挫折や失敗をも含めた地道な積み重ねのプロセスを、極力演出を介せず活写することだった。代表者やリーダー独りの力で成し遂げられることなど、たかが知れている。エジソンだって山中教授だって、突き詰めていけばチームの一員でしかないのだ。
 この曲のハイライトとして語り継がれているのが、古川昌義による間奏のドライヴィング・ギターソロ。荘厳なサウンド・デザインにアクセントをつけるが如く、まったりまとめ過ぎてしまった調和を突き破るかのような、派手に力強いエモーショナルなプレイを披露している。終始朗々としたヴォーカルのみゆきに拮抗するためには、このくらいの力技が必要だった。
 先日、「関ジャム」に出演した古川によると、プロデューサー瀬尾一三が数名のギタリストに個別に弾かせ、彼のプレイが最もフィットしていたため、収録に至った、とのこと。それだけ、この曲が周到に作り込まれていたことを現わすエピソードである。瀬尾一三恐るべし。

 名立たるものを追って 輝くものを追って 人は氷ばかり掴む

 どんな形にせよ、誰もが何がしかの成功をつかむため、人は汗を流し、考えを巡らせる。もしつかめたとしても、それは必ずしも永遠のものではない。
 それが本当に望むべくものだったのかどうか。もし違っていたとしても、それが本物だと信じたいのだ。
 築き上げたものが、実は別モノだったとしたら―。
 アイデンティティは、いとも簡単に崩れ去ってしまう。
 聴くたび、いつも引っかかる言葉。いつもそこで立ち止まる。



2. 帰省
 名もなき民たちへの視点は続く。企業戦士たちは、人のひしめく都会でサヴァイブしてゆくため、「機械」になることを自らに課する。前を向いて進む者にとって、感傷とは歩みを止めるものである。一度立ち止まると、次の一歩を踏み出すに、相応の努力を要する。それなら何も考えず、周りも機械だと開き直ってしまった方が楽だ。
 そんな彼らにみゆきは語りかける。サラッと押しつけがましくなく。
 
 つかの間 人を信じたら
 もう半年 がんばれる

 かつて20代のみゆきは「異国」の中で、「あたしはふるさとの中に入れない」と露悪的に歌った。もう少し感傷的な「ホームにて」で描かれた「ふるさと」は、夢破れて都会を去る者にとっての避難場所だった。
 ここでの「ふるさと」もまた、一種の逃げ場所ではあるけれど、その期間は決まっている。帰省が終わると、再びホームグラウンドに戻って戦わなければならないのだ。
 20年前は「帰る場所」だったのが、今では「ちょっと休む場所」となった。もう帰る場所は「ふるさと」ではなく、「今ここ」なのだ。
 オリジナルは由紀さおり・安田祥子姉妹に提供したもの。

3. 夢の通り道を僕は歩いている
 カントリー・フォーク調の隙間の多いサウンドは、古くからのファンにとっては聴いてても疲れないので、心地よく聴ける。みゆきのヴォーカルもサラッと脱力感が漂っており、それでいて内に秘めた説得力が前面に出ている。変にがなり立てる歌い方より、こっちの方が好きなファンも多いはずだ。
 1番では夢の通り道を「歩いている」のだけど、2番の終盤リフレインでは「追っている」に変わっている。はっきりしたビジョンが見えず、ひたすら前へ進むだけだったのが、夢の実像を捉えたことによって、目的は具体的となり、逡巡していた想いは前向きになった。
 決して「がんばれ」など鼓舞させる言葉も口調も使っていないのだけど、この力の抜けようによって前向きになってしまう、奇妙な味わいの曲。

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4. 後悔
 トップ3曲はいわば1.を主題とした連作短編といった味わいだったけれど、ここで一転して、パーソナルな男女関係を描いている。ここではいわゆる紋切型、ステレオタイプの中島みゆきが描かれている。「真夜中のフライト」や「窓のサフラン」からレトリックを推理するのはそれぞれの解釈だけれど、正直、使い古されたテクニックでもある。昔ながらのみゆき像を求めるのなら、まぁ古いファンにとっては懐かしいだろうし、「恨み節」のイメージしかない新規ファンにとってはわかりやすいんだろうけど。
 ラストの絶叫が話題となったけど、まぁそれもあんまり。
 俺的にはピンと来ないのだ。何で今さら?って感じで。

5. MERRY-GO-ROUND
 タイトル通り、メリーゴーラウンドのSEから始まる、おとぎ話っぽさの漂うワルツ。大抵こういった曲調の場合、ソフトには聴こえるけど歌詞は結構辛辣だと相場が決まってる。「キツネ狩りの歌」なんて典型的だし。
 いつまで経っても距離が縮まることのない、堂々巡りの恋愛を、わかりやすい「恨み節」で表現していた頃のみゆきはもういない。サラッと歌い流せてしまうくらい強くなったのか、それとも超越してしまったのか。

6. 天使の階段
 「さよならの鐘」を彷彿させる鐘の音のSEから始まる、讃美歌のパロディ的なナンバー。深い深いエコーに彩られた重厚な音の塊は、まさしくウォール・オブ・サウンド。あそこまでリズミカルなわけじゃないけど、神々しさは感じられる。
 単純な言葉を組み合わせた、シンプルに歌われている曲だけど、シンプルな分だけ思わせぶりな、あらゆる解釈を許容してしまう歌詞が印象的。深く掘ったら切りがなさそうだな。
 夜会Vol.11「ウィンター・ガーデン」で使用された楽曲だけど、どんなシーン設定だったのかは不明。ていうか、これって単品発売されてなかったんだ。どうして?

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7. 過ぎゆく夏
 コード進行もヴォーカルも、もちろん歌詞もまるっきり拓郎そのもの。リスペクトなんてレベルじゃない、本人がそのまま憑依した仕上がりになっている。しかもそれが単にモノマネやコピーじゃなくって。

 過ぎゆく夏のたわむれに 君を惜しんでしまおうか

 帰らぬ者よ 袖振る者よ 熟さぬ酒を酌み交わせ

 いずれも、いつものみゆきのセンテンスにはない言い回しである。1行目こそみゆき的ロジックで、拓郎視点を通して描いているけど、2行目なんてもう、みゆき視点すら消え失せて、拓郎そのまんま。「酒を酌み交わす」なんてワードは聴いたことがない。
 この瞬間、みゆきは拓郎を自家薬籠中のものとしている。先達である拓郎さえも取り込んでしまう女の恐ろしさよ。

8. 結婚
 みゆきとしては珍しく直球勝負のタイトルだなと思ってたら、全然違ってた。世界文学全集の、例えばサマセット・モームあたりが書いた珠玉の短編と言った味わいが残る。アルバムタイトル通り、ほんとうまくできた短編といったシメ。オチを書くと面白くないので、あとは自分で聴いてみて。

9. 粉雪は忘れ薬
 5.で書き忘れたけど、こちらもリズムセクションがRuss Kunkel (D)とLee Sklar (B)という豪華メンバー。全盛期のCarole Kingを支えた2人である。そんな思い入れもあったのか、みゆきのヴォーカルも情感たっぷり、しかもベタベタになる少し手前で抑えている。終盤のフィルインから、この2人の名人芸を堪能するのもまた一興。ストリングスもドラマティックで圧倒的。ここだけ聴くだけでも価値がある。
 
 粉雪は忘れ薬 すべての心の上に積もるよ
 粉雪は忘れ薬 些細なことほど 効き目が悪い

 「深い雪がすべてを掻き消してくれる」というのは、古い歌で多用されるレトリックだけど、「雪をなめるな」という北国の格言どおり、雪かきしてる間は必死そのもので、余計なことなんて考えられるものではない。些細な粉雪だと、除雪の心配もないので、つい余計なことを考えがちである。で、気づいたころには手遅れなくらい降り積もってたりして。
 北海道の中途半端な田舎にいると、それがよくわかる。雪がロマンチックだなんてのは、南の国の寝言なのだ。

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10. Tell Me, Sister
 ちょっとゴスペル入ったアメリカン・ロックだな、と思ってたらドラムがVinnie Colautaだったという衝撃。Frank Zappaのバンドがキャリアのスタートだったことから察せられるように、バケモノのような人である。
  
 自分が嫌いだった 何もかも イヤだった

 近年のみゆきにしては珍しく、自虐的でネガティヴな独白から始まるこの歌、あっけらかんとした口調なので、最初はあまり気にならないけど、やはりこういった時の彼女の言葉は次第に重みを増してくる。
 姉的存在の年上の友人は、自分にないものすべてを持っている。持ってはいるけど「何もない」と微笑むばかり。その彼女も今はもういない。
 すべてを持ってはいても、それが彼女にとって価値のあるものだったのか。キレイだとか人に好かれるという要素は、確かに持っていれば生きやすいけれど、そこからどこへ行けばいいのか。
 彼女はもういないけど、みゆきはまだ生きている。彼女ほど持ち合わせはないかもしれないけど、生きていればいつかは持てるだろうし、それを励みに生きていける。死んでしまえばそこで終わりなのだ。
 最後にちょっとした含みを持たせるあたり、ほんとモームの短編といったところ。

11. ヘッドライト・テールライト
 ラストを飾るにふさわしい、締めの曲として有無を言わせない存在感を放っている。

 ヘッドライト・テールライト 旅はまだ 終わらない

 淡々と、でも力強く繰り返されるリフレイン。前で照らされているのは、茫漠とした夢。はるか後ろで揺蕩うのは、遠すぎる分、希望にあふれた夢。
 前向きの光は自分が前に進むために、そして後ろへ向かう光は、まだ視ぬ後進への道標として。
 その光は、前を向いて進む者に、分け隔てなく照らされる。
 英雄にも、そして名もなき民にも。




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20代尾崎の中間報告 - 尾崎豊 『誕生』

folder 1991年リリース、前作『街路樹』より2年ぶり、5枚目のオリジナル・アルバム。今どき2年くらいなら普通のリリース間隔だけど、この時期の尾崎は表舞台に出ることが極端に少なかったため、「待望の」「久々の」という形容詞付きで紹介されることが多かった。
 その2年の間、覚せい剤所持・逮捕による謹慎と、何かとトラブルの多かった前事務所からの移籍に絡んだブランクもあって、「尾崎っていま、何やってんの?」といった扱いだった。かつて尾崎は時代を先導していたはずだったけど、ちょっといない間に時代はずっと先に行っていたのだ。
 そういった事情もあってか、楽曲のクオリティ・詳細云々より、まずは久々の現場復帰ということで騒がれ、次にまさかの大作2枚組というインフォメーションなどが先行して報ぜられた。なので、言ってしまえば音楽的には二の次、これまでまともに論ぜられたことが少ない、何だか不遇なスタンスの作品である。
 待望していた古巣ソニーへの復帰が叶ったこと、加えて契約更改にまつわるブランク期間を持て余していた尾崎であった。まぁそんなこんなで外出できる時間も減っていたため、必然的に創作活動に向かわざるを得ず、張りきり過ぎちゃったがあまりの、まさかまさかの2枚組になってしまった次第。

 古株のファンだけじゃなく、スタッフも含めた業界内にとっても待望の復活だったのだけど、それもあって一種の祝祭的ムードもあったのだろう。いくら満を持しての復活だったとはいえ、普通の営業サイド的な対応だったら、曲数を絞ってコンパクトに1枚にまとめるよう進言するはず。普通だったらね。ただ、通常の年間計画に沿ったリリースではなかったし、せっかくならサプライズ的な演出や話題を欲していた部分もあったのだろう。
 「2枚組?イヤ〜最高っす大丈夫っすよっ」ってな感じで、ゴーサイン出しちゃったんだろうな。
 そんな前評判が盛り上がっていたおかげもあって、2枚組だというのに軽々とチャート1位を獲得しちゃっている。もちろん、営業サイドによるプロモーション攻勢、それに基づくメディア挙げてのプッシュの結果ではあるけれど、それを単なるルーティンで終わらせるのではなく、関係者各位をその気にさせてしまう熱量は、やはり時代のカリスマたる所以である。

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 チャート1位は獲得したけれど、肝心の内容・詳細を深く掘り下げたメディアはごく少数だった。
 前述の覚せい剤使用は業界内に大きな波紋を呼び、特に音楽雑誌のほとんどは、尾崎に関するニュースや記事の掲載を、まるで申し合わせたかのように取りやめていた。本来なら、音楽雑誌こそが先陣を切って、批判なり擁護なりを取り上げるべきなのに、メジャー雑誌のほとんどは沈黙を守っていた。まるで「尾崎豊」という存在を抹消するかのように。尾崎の話題を積極的に取り上げるのは、スキャンダラス性を優先した女性週刊誌や写真週刊誌ばかりだった。
 そんな中で唯一、尾崎の特集を緊急掲載したのが、邦楽メディアに本格進出して間もないロキノンだった。当時、編集長だった渋谷陽一は、声高々に「ジャーナリズムの責任放棄」云々を説き、既存メディアの不甲斐なさを痛烈かつロジカルに批判した。
 当時の渋谷陽一は尾崎の件だけじゃなく、「ミュージック・マガジン」や「パチパチ」に何かと噛みついて誌上論争を繰り広げ、相乗効果で発行部数を伸ばしていた。まぁ今にして思えば、新規事業に食い込んでゆくため、ちょっと強引な政策も必要だったのだろう。
 当時は純粋なロキノン信者だった俺は、そんな丁々発止を毎月固唾を飲んで見守っていたのだけれど。まぁ今にしてみればプロレスだよな、要するに。正直、10代だった俺から見ても、半分イチャモン的なバトルもあったわけだし。

 で、謹慎中の尾崎。同じソニー・グループであるはずの「パチパチ」が口を閉ざしちゃったのだから、その影響は計り知れず。『誕生』リリース頃にはその規制も解かれていたけれど、不倫だ独立だ契約トラブルだで、スキャンダラスな面ばかりが喧伝され、せっかく長い時間をかけて築き上げてきたカリスマ性は、大きくダダすべりしていた。
 今にして思えば、「居場所を求めて彷徨い、迷走し続ける姿」もまた、尾崎にとってのリアルな姿であったはずなのだけど、まぁ金がらみや犯罪がらみなど、何かにつけ生臭い話題ばかりが先行してしまったせいもあって、リスペクトしづらい雰囲気があった。
 いっそ開き直って私小説的に、「答えなんてない/永遠に探し続ける」とか何とか言い切ってしまえば、二流のシンガー・ソングライターとして、もう少し長く生きられたのかもしれない。でも、尾崎自身がそういった方向性を良しとしなかったし、一部のメディアや熱烈なファンもまた、そんな赤裸々な姿を潔いと崇めていたフシがある。
 カリスマゆえの悲劇だよな。

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 「尾崎信者」と揶揄された熱狂的なファンは、彼と同世代かちょっと下、いまのアラフィフ世代が中心だった。言っちゃえば俺のこと。だって、中3の春に「卒業」に出会っちゃったんだもの。多かれ少なかれ、この世代は尾崎のライフスタイルの影響下にある。就職や進学の節目を迎え、大人の階段をのぼるかのぼらないか、そこへ足を踏み出すのに躊躇したり、または踏み出さざるを得なかったりして。
 80年代後半は、尾崎だけじゃなくBOOWYやブルーハーツなど、その後の日本のロックの礎となるカリスマが次々に生まれた時代である。もちろん彼らだけが絶対的存在ではなく、カリスマ性はなくともアクが強い・押しが強い・個性が強い・クドいなど、百花繚乱である。当然、どのアーティストも一家言持っていたり持っていなかったりで、思想やコンセプト、メッセージ性も違ってくる。
 なので、この世代をたったひとつの価値観、OZAKI的視点だけで括ってしまうのは、相当無理がある。あるのだけれど、ある固有の年齢層に向けて発せられたメッセージ性・人生観の転換という点に絞れば、「尾崎豊」という現象は強い影響力を有していたのだ。
 まだ知恵も経験も少なく、何かにつけ未熟で青臭いティーンエイジャーにとって、同世代の彼の一挙手一投足は、理想像の自己投影であって反面教師であり、一部の人にとっては生きる指針でもあった。尾崎によって人生観を定義づけられた人、またレールを外れてしまった人は相当多い。
 以前もちょっと書いたけど、俺世代のオラオラ系・「昔ヤンチャしてました」系の人たちのカーステでの尾崎率・ブルハ率は相当高い。これがもうちょっと枯れちゃったりすると浜省に行き、変に日和っちゃったりするとEXILE系に行っちゃうのだけど、まぁそれは別の話。

 「10代3部作」なんて総括してしまったのは後づけであって、ソニーが最初から綿密に成長ストーリーを描いていたわけでは勿論ない。さだまさしをリスペクトしていた新進フォーク・シンガーにちょっとロック風味のサウンドの意匠をかぶせたところ、思惑以上に盛り上がっちゃったので、スタッフサイドが泥縄でくっつけた方便である。もともとは尾崎の本意とは別のところで形作られたものであって、クリエイティブ面での必然性はまったくない。
 本来なら、「尾崎豊」という将来あるアーティストにとって、「10代特有の苦悩」とは単なる通過儀礼だったはずだ。それが周囲の思惑を超える反響で「現象」化してしまい、それをまたメディアが煽るものだから、業界内外に狂信的なファンを産み出してしまう。そうなると尾崎もそんな期待に応えざるをえず、通過儀礼がいつの間にかライフワークになってしまったわけで。
 いっそビジネスと開き直って、「永遠のティーンエイジャー」を演ずるのもよし、それかもっと肩の力を抜いて、年齢相応のテーマを歌うシンガー・ソングライターへと移行してゆくのもよし。アーティストとしての寿命を考えるのなら、そんな選択肢もあったはずだ。まぁ前者だったら、多分時代の徒花として消費され、とっくの昔に消えていただろうけどね。

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 ただ二十歳を迎えた尾崎、そんな安易な自己模倣を繰り返すことは望まなかった。馴染みのファンが快く歓迎してくれる、生暖かい世界。それはそれで居心地が良かっただろうけど、でもそこは長く留まるところではないのだ。
 彼は10代の自分を清算し、決別して前へ進む途を選んだ。そしてまた、これまで着いてきてくれたファン達と共に、次のステップへ進んで行くことを目指そうとした。
 尾崎は同世代のオピニオン・リーダーとして、「共に成長しよう」と呼びかけようとした。かつて批判し乗り越える壁であったはずの「社会」や「大人」とも、闘い抗うのではなく、対等の立場でコミットしてゆく途を選ぼうとした。
 ただ、ここでひとつの疑問。
 -「人間は常に成長し続けなければならない」って、一体誰が決めた?

 で、もうひとつ。
 - 成長し続けたとして、それが一体、何だというの?
 どちらも正解のない問いである。むしろ、そこに至るためのプロセスが重要である種類の設問である。冷静に考えればこういうのって、「結局は人それぞれ」という結果に落ち着いてしまうのだけど、きちんとした模範解答を探しあぐねていたのが、当時の尾崎である。そんな模範解答の中間報告として、持って回った言い回しやめんどくさい思想を並べ立てて、相対的な価値観を提示したのが、この『誕生』という作品集である。
 哲学・思想用語からインスパイアされた言葉は抽象的で、ごく平凡な日常を送る大多数の10代にとっては、縁のないものばかりである。シンプルな事象を複雑に描写することが、当時の尾崎が思うところの「成長」だったのだろうか。そして、それを咀嚼し理解することが、信者としての務めである、と思われていたのだ、ごく一部では。
 ただ、誰もがロジカルで完璧な論理を知りたいわけではない。我々は大学教授の講義を聴きたいわけじゃないのだ。
 理性よりまず先に、感情を揺さぶる言葉と歌、そして「あっ、これイイね」という、脊髄反射的に心惹かれてしまうメロディ。ポップ・ミュージックの世界では、それらが最も重要であるはずなのに。
 多分、そんなことは尾崎もわかっていたのだろう。わかってはいたのだけれど、そのメソッドが見つからないでいる。ここで発表されている言葉はすべて、かりそめのものばかりだ。ここで発せられる言葉の多くからは、自信を持って断言できない迷いが浮かび上がっている。
 伝えたい言葉はこれじゃない。次はもっと、伝わりやすい形を目指そう。最高傑作は次回作だ、と誰かが言ってたじゃないか。
 そのつもりだったのだけど。


誕生
誕生
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尾崎豊
ソニー・ミュージックレコーズ (1990-11-15)
売り上げランキング: 34,016



1. LOVE WAY
 アルバム・リリース直前、ほぼ前触れもなく発表されたリード・シングル。復帰第一弾ということもあって世間の注目を集め、マイナス・イメージが蔓延していたにもかかわらず、オリコン最高2位をマーク、売上的には復活をアピールした。したのだけれど、正直、戸惑うファンが多かったのも事実。取りあえず久しぶりの音源ということもあって、迷わず購入した人も多かっただろうけど、聴いてみると「何か違う」感が微妙に引っかかっていたのが、俺の私見。
 散文的に吐き出された歌詞の密度は、ひたすら濃い。確かに巷で言われているように、彼の歌の中では最も難解だし、ヘビロテするにはちょっと胃もたれする。後期尾崎にとっての代表曲ということも、うなずけるクオリティ。
 膨大な情報量を一曲に詰め込んだ、という見方もできるけど、実のところはどのセンテンスも示唆が優先し、文脈的にはかなり破綻していることに気づかされる。サウンドのハードさ、ヴォーカルの熱量によって、つい勢いで「深い言葉」と納得してしまいそうだけど、次々生まれ出てくるイメージの断片を具体化できず、乱雑にまとめてしまったが故の産物がここにある。
 フレーズひとつひとつ、言葉の刃の切れ味は凄まじい。ただ、それらの言葉はバラバラに作用してまとまったベクトルにはならず、それを自覚して苦悶にあえぐ尾崎の姿が刻み込まれている。
 そんな言葉の求心力の不足は、晩年まで尾を引くことになる。



2. KISS
 『回帰線』あたりに収録されててもおかしくない、ステレオタイプのアメリカン・ロック。そろそろグランジが台頭し始めた90年代初頭には古くさく聴こえたけど、いま聴くとその大らかさによって、時代に侵食されることを防いでいる。シンプルなものほど耐用年数が長い、という好例。
 シンプルなロックンロールにおいて、言葉の重みはあまり重要なファクターではないため、ここではむしろ「カバン抱えた企業戦士」「子供たちはイヤフォンで耳をふさいで漫画を読む」など、90年代時事風俗の空気感を味わうのも、楽しみ方のひとつ。

3. 黄昏ゆく街で
 Eddie Martinezのメロウなガット・ギターが印象的な、後期尾崎の代表的バラード。リリース当時は地味な印象としか思えなかったけど、その後のサウンド・コンセプトの軸となるシックなアンサンブルは、この年になるとしっくり馴染む。
 不倫と結婚を通過して得た、青春期とは違う恋愛観は、倦怠感と希望とがシームレスに交差する。
 かつて「I Love You」において、「何度も愛してるって聞くお前は この愛なしでは生きてさえゆけないと」と、直情的な愛をネガティヴに語った。
 しかしここでの彼女は「髪をなでると ぼんやりと僕を見つめてこう聞く ねぇ これでいいの…?」
 熱情の時間を終わりを告げ、恋愛感情よりむしろ、将来の生活を意識しなければならないことを、できるだけ第三者的な視点で活写している。
 一応シングル・カットされており、オリコン最高32位。今だったら映画やドラマの主題歌に使われて、もっと上位も狙えるのかもしれない。いやないか、今どきメディアにそんな力なんてないよな。

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4. ロザーナ
 導入部が「路地裏の少年」っぽく聴こえるけど、考えてみりゃ元をたどればBruce Springsteenか。CCR「雨を見たかい」もこんな感じだよな。どっちにしろ、8ビートにアコギ・ストロークを乗せちゃうと、どれも似たようなテイストになってしまう。なので、リスペクトということにしよう。
 歌詞の内容からいって、時期的に「不倫」というキーワードが浮かんでくるのは致し方ないとしても、でも『誕生』って主題のアルバムにこんな後ろ向きなテーマをぶち込んでしまうとは。
 偏見かもしれないけど、商売的なゲスさが浮かび上がってくる。楽曲そのものはきちんと作り込まれているので、そこがちょっと惜しい。

5. RED SHOES STORY
 再びストレートなロックンロール。オールド・タイプのロックンロールといえば、「金と女とドラッグ」と相場が決まっているけど、ここでは前事務所マザーを皮肉った、金がらみのモンキー・ビジネスを悲喜劇交えて歌っている。まぁこういった題材を取り上げること自体、取りあえず手打ちが行なわれているわけで。ほんとにシリアスに訴えるのなら、それこそ「Love Way」みたいなテイストになっちゃうし。

6. 銃声の証明
 基本、完全な主観か半径5メートル以内の知人友人の体験談を題材に歌を書いてきた尾崎だけど、ここでは自身から最も遠い立場に身を置いて、可能な限り客観的なフィクションとして完成させている。何しろ題材がテロリスト。客観を超えて荒唐無稽とでも表現すべきか。
 そのテロリストの描写があまりにステレオタイプだ、という見方もできるけど、「架空の人物を自身に憑依させる」というメソッドは、ある意味、尾崎の新境地である。こういった制作手法を発展させることができれば、アーティストとしての寿命はもう少し永らえたんじゃないかと思われ。

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7. LONELY ROSE
 フィクションの主観化と並んで、流麗なメロディ・ラインと何気ない情景描写の妙を丹念に織り上げること。後期尾崎の可能性として、ひとつの資金的存在となったバラード。初期アルバムにもこういったタイプの楽曲は収録されていたのだけど、一本調子なヴォーカライズがニュアンスを掻き消してしまっていたのは事実。
 ここでは緩急取り混ぜた、情感的なヴォーカル・テクニックを披露している。アクセントとして、Martinezのギターがうまくウェットな情感を演出している。

8. 置き去りの愛
 で、そのヴォーカル・テクニックが最も如何なく発揮されているのが、これ。時々、西城秀樹と錯覚してしまいそうなほどエモーショナルな歌声は、全キャリアの中でも屈指のクオリティ。歌詞においても複雑な言い回しや言葉は使用されず、非常に歌謡ロック的。前曲に続き、ギターの咽びが感情の揺れを誘発している。

9. COOKIE
 バンド・サウンドを前面に押し出したカントリー・ロックは、へヴィーなテーマが並ぶアルバムの中では小休止的なアクセントとして機能している。いるのだけれど、視点がティーンエイジャーの高さであることが、ちょっとだけ気になる。「俺のためにクッキーを焼いてくれる」彼女への想いと、大人の社会への警句めいた皮肉との対比を狙っているのだろうけど、敢えてこの時期にやることじゃない。その皮肉もかつての手法をなぞった感じだし。

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10. 永遠の胸
 CD1枚目ラストを飾るのは、スケール感あふれる王道ロック。当初、アルバム・タイトルをこれにする案も出ていたらしく、「誕生」と並ぶ「もうひとつの主題」と言い切っちゃっても良い。
 尾崎としては、これまでの紆余曲折の総括としてこの曲を書いたのだろうけど、皮肉にも人生の幕を下ろすには最適の、高いクオリティのセンテンスで埋められている。
 強烈な磁場を持つメッセージ性を内包したタイプの楽曲は、一旦ここで打ち切り、もっとフィクションや情景描写的な楽曲が多くなるはずだったのだろうけど、人間、そこまで割り切れることはできないもの。十代には十代の、そして二十代には二十代の苦悩が終始付きまとう。



11. FIRE
 CD2枚目冒頭を飾る、疾走感あふれるロック・チューン。トップのつかみとして、これでこれでOKなんだけど、「体制に逆らいながら振りかざす 俺が手にもっているのはサーベル」なんて一節が入ってるくらいなので、ちょっと陳腐さが否めない。リリース当時はこうした景気の良いサウンドが好きだったけど、いまの俺にはあまり響かない。年食ったせいだろうな、きっと。

12. レガリテート
 歌謡曲テイストの濃い旋律が、タイトなリズムによってメリハリがつけられている。プロフェッショナルなサウンドで構成されている、二十代の尾崎が目指すところの「大人の音楽」。個人的には好きなサウンド・プロダクションではある。あるのだけれど、歌詞もまた大人テイストを志向したのか、ちょっと抽象的。ドラマティックな恋愛観を直情的に表現するのではなく、ある種の規範をもって抽象的に語るのが大人だというのなら、「それはちょっと」となってしまう。言葉に足腰が入っていないのだ、要するに。

13. 虹
 なので、こういった抒情的な心象風景を淡々と綴っている姿の方が、尾崎の志向・適性には沿っている。確かに新境地的な部分はないけどね。でも、こういった曲もあった方が既存ファンはホッとするし、第一、そこまで難解なセンテンスは求めるコア・ユーザーは少数だ。一体誰だ?「進歩しなくちゃならない」って思い込ませたのは。

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14. 禁猟区
 ダルなブルースに載せて歌われるのは、自らのドラッグ体験。よくこんな歌詞がメジャーの審査に通ったもんだ、と余計な心配さえしてしまいそうになるけど、まだこういった挑発的なスタイルが許された時代だったのだ。
 ちなみに尾崎、罪は罪として受け入れて罰は受けたけど、ここでは特別、ドラッグ使用について否定的ではない。まぁ表だって肯定したり擁護したりするようなことはないけど、ドラッグ使用によって開けた新たな価値観は、それほど強烈なものだったのか、それとも継続的に使用していたのか。

15. COLD JAIL NIGHT
 重厚なメタル調リフのイントロと歌い出しが「愛の消えた街」にそっくり。拘置所での体験がベースとなった歌詞は、まぁやさぐれていること。
 しかし、釈放されて間もなくこんなテーマを歌っちゃうのだから、アウトロー精神ハンパない。「獲得した経験はもれなく使い切る」という創作姿勢は、ある意味潔い。

16. 音のない部屋
 ハードなタッチの楽曲が続いてたので、続けてこれを聴くとホッとしてしまう。「いい曲だなぁ」と思ってしまうのは、ソニー・スタッフの思惑通りなのか。うまい構成だよな。
 「二人の心はひとつ」で締めくくっているけど、ここでの二人の心は終始すれ違いが多く、どちらもあさっての方を向いている。「ひとつである」と思いたいのだ。思いたいのだけれど、でもそんな自分をまだ信じ切れずにいる尾崎がいる。



17. 風の迷路
 黄金パターンで作り込まれたメロディは、はっきり言ってベタ。ベタだけれどやっぱり、日本人にとってはばしばしツボにはまる旋律である。またいい感じに力を抜いたヴォーカル、これも上手いんだよな。
 こういった曲を聴くと、ほんとこの人、歌がうまかったんだな、と改めて思い知らされる。またメロディ・メイカーとして、もっと評価されてもよかったんじゃないかと、今さらになって思う。
 歌詞?ちょっと青臭いけど、いいじゃんわかりやすくって。

18. きっと忘れない
 オールディーズ調コーラスを使用した、サビが印象的なナンバー。このアルバムの中ではもっともポップでハッピーでファニーなムードに満ちている。
 奥さんに捧げたのか、果たして幼い息子に捧げたのか。ネットでは意見が分かれているけど、俺的に正解は両方。「家族」という単位総体に向けて尾崎は歌っており、そして自分にも言い聞かせるように「きっと」と念を押している。

19. MARRIAGE
 素直な結婚賛歌として受け止めるのが、作者の意図であるという俺の私見。素直な口調で素直な言葉を紡ぐ、そういった尾崎がここにいる。
 時代に警笛を鳴らすアジテーターとしての尾崎ももちろん真実だけど、こっちの側面ももちろん真実。ロマンティックな見方だけど、俺はこの歌、「I Love You」の続編だと思っている。

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20. 誕生
 ラストは10分を超える壮大なロック・チューン。前半はビートを強調してリズミカル、終盤の長い長いエピローグでの独白後、ドラマティックなフェード・アウト。
 息子に出会うまでの回想が、走馬灯の如くゆっくりと、それでいて強力な磁場を放ちながら物語を紡ぐ。
 荒れた生活から立ち直る希望として、新たな命への賛歌は、とても力強い。


ALL TIME BEST
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中島みゆき 『生きていてもいいですか』

folder 1980年リリース、みゆきにとって7枚目のオリジナル・アルバム。なんとオリコン最高1位をマークしており、年間チャートでも堂々17位にランクインしている。
 ついに来た。みゆきの数々のアルバムの中でも異彩を放つ、ポッカリと空いた深淵の暗黒。フォーク歌謡的なサウンドからの脱却を図ったご乱心時代の作品も、ファンの間では何かと物議を醸してはいたけど、『生きていてもいいですか』においては、その物議を醸したレベルが段違い。
 フォーク/ニューミュージック全盛の折、みゆきに限らず、山崎ハコや森田童子など、いわゆる陰鬱系のシンガー・ソングライターは数多く存在していた。いたのだけれど、このアルバムで吐露されている「救いのない漆黒の情念」、その後も長らく「根暗」のみゆきを語る際の代名詞として決定づけられたインパクトの強さなど、他のアーティストらの追随を許さぬ孤高のポジションを確立している。

 楽曲詳細は後述するとして、ここで取り上げたいのは、アルバムの曲順・構成について。
 もともとこのアルバム、『親愛なる者へ』に続くオリジナル・アルバムとして制作が進められていたのだけど、ある時点からレコーディング作業が膠着状態となっていた。「当時のみゆきのメンタル面がやや不安定だった」ということが、後になって伝えられている。その原因として、プライベートでの恋愛関係の拗れやらもつれやら、はたまたもっと広範な対人関係についてなど、いろいろな説がささやかれているけれど、真相はみゆき自身の胸のうちにある。なので真偽は不明。
 ただ、リリース・スケジュールはすでに決まっていたため、その対応策としてセルフカバー・アルバム『おかえりなさい』が急遽準備された、というのは前回のレビューで述べた通り。

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 ここから察するに、遅延の要因として2つが考えられる。
 ① アルバム制作に足りるほどの楽曲が準備できなかった。曲数不足。
 ② 素材は揃っているけど、アルバム・コンセプトとのすり合わせが難航した。
 ①については、ちょっと考えづらい。これまでのレビューでも書いているけど、みゆきは特にこの時期、何度か訪れている創作力のピークに達しており、他アーティストへの楽曲提供も盛んに行なっている。なので、スランプに陥って書けなくなった、というのは考えづらい。前述の傷心によって、メンタル面での不安はあったのかもしれないけど、それをまた糧として新たな方向性の歌を書き上げてしまうのも、みゆきの特質である。
 なので②、「コンセプトが定まらなかった」、「テーマが右往左往してしまった」というのが、最も理にかなっているんじゃないかと思われる。

 レコードで聴いてみればはっきりするのだけど、A面とB面とでは明らかにテイストが違っている。もちろん1枚のアルバムにまとめられているだけあって、全体的に落ち着いたトーンではあるのだけど、陰鬱とした無常観で統一されているB面と違って、A面は一曲単体で完結している、いわば小品集的な構成になっている。
 「うらみ・ます」以外のA面曲は、以前のどのアルバムにも入れても違和感ないテーマ、従来の歌謡フォーク的なテイストでまとめられている。なので、B面と比較して、そこまでドン底の暗さというわけではない。もし全体をB面のテイストでまとめていたら、セールス的には大きく惨敗していたんじゃないかと思われる。大部分のみゆきファンは、第2第3の「わかれうた」を求めていたのだから。

 多分このアルバム、A面・B面はそれぞれ別々のセッションで製作されており、これもまた推測だけど、『おかえりなさい』レコーディングによって『生きていてもいいですか』セッションは中断を挟んでいる。そんな経緯もあって、両面のコンセプトがはっきり分かれている。
 詳細なセッション・データが公表されていないため、オフィシャルで公開されている情報を頼りにすると、大半のキーボードをプレイしているのが西本明。当時は主に浜田省吾のバンドで弾いており、その後は佐野元春や尾崎豊など、ソニー系のソロ・アーティストを中心にバッキングしている。
 で、もう1人クレジットされているのが田代真紀子。この時期のみゆきレコーディング・セッションでは常連だったギタリスト矢島賢とのちに結婚、今も矢嶋マキ名義で現役活動中のキーボーディストである。彼女がクレジットされている楽曲はB面に集中しており、このことからセッションが複数回に分けて行なわれたことが推測できる。

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 どちらのセッションが先だったのか、そこまでは調査が追い付かなかったけど、微妙にコンセプトの違うセッションを、どちらかのトーンに統一させようとしたのか、はたまた別々のアルバムとして製作しようとしたのか。それとももっと潔く、どちらかのセッションをお蔵入りにする予定だったのか。どちらにせよ、その方向性に逡巡していたことは、作業遅延から察せられる。
 「どのミュージシャンより、みゆきとの作業が最も緊張する」とコメントを残している後藤次利の尽力によって、どうにかサウンド的/音響的には統一されてはいる。いるのだけれど、特に神経すり減らしたんだろうな、このレコーディングで。

 ただ、このアルバムの中でも鬼っ子的存在である「うらみ・ます」。この曲だけは、練り上げられたアルバム構成やサウンド・メイキングなんて小細工とは、無縁のところで鳴っている。どちらのセッションからも明らかに浮いており、ていうかオフィシャル公開されるレベルを越えている。あまりに内省的/プライベート過ぎるので、ほんとは世に出しちゃいけない楽曲なのだ。「うらみ・ます」だけは、あらゆる批評やら賞賛やら酷評やらを全否定する、極個人的なところで鳴っている。
 鬱屈した暗黒の底から漏れ出る嗚咽は、みゆきにとっての「たった一人の誰か」に向けて放たれたものなのだろう。でも、それがほんとにその「誰か」に向けて届くのか。また届いたのか。
 外部に放たれた時点で、その歌はもう、自分のものではなくなる。それは聴いた者に共有され、共感を呼び、そして公共のものとなる。自分、または「たった一人の誰か」だけのものではなくなってしまうのだ。
 でもそんなこと、みゆきが最もよくわかっていたはずだ。

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 別にリリースしなくても良かったのかもしれない。あまりに個人的な言葉たちは、あまりにアクが強すぎる。
 でもみゆきは『生きていてもいいですか』にこの曲を入れた。しかも冒頭に。
 穏やかな叙情性さえ感じさせるA面とも、そして傷つき打ちひしがれたB面とも相容れない、独自の強い毒素は安易な同化を拒否している。だからこそ、リード・トラックにしかハマる場所はなかった。そこまでしてでも、みゆきはこれを世に出さなければならなかったのだ。
 その切迫感は、「アーティストとしての業」なんて浮ついた発露ではない。そこに刻まれているのは、極めて個人的な嗚咽だ。アルバムのトータリティを無視してまで、「うらみ・ます」は世に吐き出さざるを得ない楽曲だった。

 『生きていてもいいですか』リリース後、みゆきは体調を崩し、恒例となった春のツアーをすべてキャンセルすることになる。
 「あの時、無理を推してやってたら、惰性でやる感じになってしまうのが許せなかったからやめた」とは本人の弁。それほど、このアルバムが難産だったことを窺わせるコメントである。当時の記事もいくつか調べてみたのだけど、要は人前に出られる精神状態ではなかったのだろう。
 しばしの休養を経てシーンに復帰したみゆき、ここで憑き物が落ちたかのように、新たな方向性を模索するようになる。ご乱心時代というさらなる混迷と出会うことも知らずに。


生きていてもいいですか
中島みゆき
ヤマハミュージックコミュニケーションズ (2001-03-28)
売り上げランキング: 2,723



1. うらみ・ます
 イコールみゆきの代名詞となった、オールド・ファンには今をもって、リリース当時の衝撃が語り継がれている問題作。前述したように、これまでみゆきの楽曲に興味がなかった者さえ、強引に振り向かせてしまうインパクトを有している。のっけから鳴き声交じりの嗚咽だもの。
 それまで「恨み節」やら「女の情念」やらを意識的に取り上げてきたみゆきだったけど、婉曲的な表現や比喩を巧みに駆使して、マスに届くようなテクニック・技巧を経験則に基づいて成長させていた。主に歌謡曲畑の楽曲提供者が歌いやすいよう、節回しに気を配り、状況設定も細やかで映像的だった。そういったOJT的な修練が営業努力として実り、徐々にセールスを積み上げてきたのだ。
 そんなこれまでの積み立てをチャラにして、リアルを超えて生々しい感情を剥き出しにしちゃったのが「うらみ・ます」とB面曲。負の要素のみを選んで組み上げられた言葉の羅列は、いまも燦然と漆黒の光を放つ。
 ほぼ一発録りのスタジオ・ライブでレコーディングされているため、ピッチがずれていたりブレスの乱れも見受けられる。テクニカル面だけで見れば、ヴォーカルの完成度は低い。ラストの絶叫は嗚咽交じりで、聴き手側にも相応の体力が要求される。
 でも、それがどうしたというのだ。音程がどうしたブレスがどうの、そんな低次元で語られる楽曲ではないのだ。ここで吐き出される言葉は直截的で、あらゆる解釈を無にしてしまう。

 うらみます あんたのことを 死ぬまで

 歌の中の女は、軽い気持ちで弄んだ男を心底恨む。震え声で奏でられる旋律は行き場を失い、最後に漆黒の闇に飲み込まれる。
 ただ「恨む」という感情は、即ち愛情の裏返しでもある。恨みはするけれど、嫌いになったのではない。遊ばれていたことを最後まで気づかず、どこか浮かれていた自分を呪うのだ。いや途中から、または最初から分かっていたのかもしれない。でも浮かれ気分に酔いしれる自分を抑えきれなかったのだ。
 心底嫌いになったのなら、思い出すことすら嫌悪するはずなのに。
 なのにみゆき、自身の命をすり減らしてまで、男のことを思い焦がれる。
 そんなことはわかっている。わかってはいるのだけれど、でも気づきたくないのだ。

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2. 泣きたい夜に
 本文でも書いたように、ここからはもう少し穏やかなナンバーが続く。最初か最後にしか居場所のない「うらみ・ます」を抜きにして考えると、実質上これがA面トップと捉えてよいのかもしれない。でも曲調としては地味だよな。やっぱ2曲目で正解か。
 繊細なメロディを奏でるピアノと軽やかなマンドリンとのアンサンブルは、荒涼とした冒頭のムードを一掃する。研ナオコにハマりそうな歌謡曲セオリーのベタなメロディは、初期のどのアルバムに入れても遜色ないくらい、互換性が高い。後半に入ってから徐々に盛り上がるバンド・セットも、ブルース・タッチのヴォーカルとの相性は抜群。いやほんと研ナオコだよな、これって。
 でも肝心の、主役みゆきの声が暗い影を落とす。いつものアルバムならもっとアッケラカンと歌うところを、ここでは負のオーラが澱のように底で淀んでいる。「うらみ・ます」でのあからさまな世界的憎悪は、ここでも深く影を落としている。

 泣きたい夜にひとりはいけない

 そういたわってくれる「誰か」を欲するみゆき。でも、そんな「誰か」とはもう縁を切ってしまった。「子供の頃に好きだった歌を歌ってくれる」誰かもいない。
 そんな「誰か」なんていない。そんなことはわかっていながら、でもみゆきは丁寧に歌う。その声は、すでに泣き疲れてひどくしゃがれている。

3. キツネ狩りの歌
 能天気なピッコロ・トランペットによって奏でられるファンファーレ。2.まで余韻として残っていた「うらみ・ます」の重い空気を吹き飛ばす、みゆき風大人のお伽話。でも、歌われている内容は皮肉めいた暗喩に満ちており、どこか奇妙な明暗を落とす。
 軽快なアルペジオによる爽やかな叙情派フォーク・サウンドは、このアルバムの流れでは躁病的に映る。なので、A面はノン・コンセプトの小品集なのだ。
 昔聴いた時は、単なる寓話として受け止めていたけど、後になって、様々な暗喩を含んだ解釈を知るようになった。最終的な部分は結局、人それぞれになってしまうけど、大方の意見のように、70年代過激派の醜い内ゲバを描いたというのが、俺的には納得の落としどころ。

 キツネ狩りにゆくなら 気をつけておゆきよ
 ねえ グラスあげているのがキツネだったりするから ねえ

 志を共にした仲間であるはずなのに、実はスパイが紛れ込んでいることを知ってからは、互いに疑心暗鬼になり、みんながみんな、素知らぬ顔で互いの腹の内を探っている。そんなトラジコメディを冷笑多めに描いている。
 同じ情景を感傷的に歌ったのが「時代」であり、さらに直接的に切り込んだのが「世情」。何年もして回顧的に振り返ったのが「ローリング」と、みゆきにとっては時々思い出したかのように取り上げられる永遠のテーマでもある。
 ある意味、深刻なメッセージを込めた楽曲であるはずなのに、そんな周囲の小難しい解釈を笑い飛ばすかのように、夜会ではコーラス2名にピンクのウサギのぬいぐるみを着せ、キュートな振り付けを添えて歌詞そのまんま楽しげに歌わせてしまう。まるで深読みし過ぎて斜め上を見た評論家連中をあざ笑うかのように。

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4. 蕎麦屋
 もはや一心同体と言っても大げさじゃないくらい長い付き合いとなった、フォトグラファー田村仁とのとある日をモチーフに書き上げた、シンプルなアコギ弾き語りで紡がれる純正フォーク・ナンバー。みゆきのことだから多少の脚色はあれど、特別核となる出来事もなく、飾り立てもない日常。何てことのない蕎麦屋での会話が、素朴に訥々と語られる。

 あのね、わかんない奴もいるさって
 あんまり突然云うから 泣きたくなるんだ

 男と女の間に真の友情が成立するのかどうか、それを考えるとちょっと長いのでちょっと置いとくとして、この一節で、この距離感を活写できたのは、表現者としてピークにあったみゆきの観察眼の鋭さによるものが大きい。
 古い言葉で言えば「友達以上恋人未満」なのだけど、それともまたニュアンスが違う。少なくとも、両者の間に恋愛感情は介在していない。もしそれがあったのなら、そっと肩を抱いたり手を添えたりするのが自然だろうから。そういった距離感とは別のところで、この蕎麦屋的世界観は成立している。
 ―別に、どうしても蕎麦が食いたかったわけじゃない。ただ何となく、顔を合わせる理由が蕎麦屋だった、というだけだ。ほら、とんがらしかけ過ぎだってば。
 同じ友情でも、これが女同士だったらまた違ってくる。男との距離感が2次元的、対等な平面での位置関係だったとしたら、女性の場合は3次元、上下での位置関係が生まれてくる。
 「共感」の姿勢で向き合いながら、あれこれ根掘り葉掘り聞き出して、そして別れてから独り、ひそかにほくそ笑む。舌の根も乾かぬうち、他の女との話のネタにしたり、今だったらラインで拡散したりして。下に見ることによって、「共感」は「憐憫」や「嘲笑」に姿を変える。なので、女性同士の友情も同様、定義しづらいのだ。
 腹を割って話そうにも、言葉が見つからない。無理やり聞き出すつもりもない。どうせ口から出るのは、取りとめのないグチばかり。
 そんなことはわかってる。わかっているからなおさら、言葉は必要なくなる。ただ黙々と蕎麦をすすり、時々思い出したようなあいつのバカ話。それだけでいいのだ。
 ここまでがレコードではA面。B面で展開される世界観は、様相がガラッと変わる。

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5. 船を出すのなら9月
 様々な解釈を孕む、暗示めいた韻文が執拗に繰り返される。船がどこへ向かうのか、そして夏の終わりに何があったのか。明言されているものは何もない。初期のみゆきの楽曲の中では、「世情」と匹敵するほど難解で形而上学的な歌詞は、様々な解釈を産む。
 適わなかった恋は宙ぶらりんとなり、届くはずもない想いが綴られる。
 ―もうすべては終わってしまった。
 その声が誰にも届かなかったとして、でも、そんなことはもうどうでもよいのだろう。やるせない無常観は、みゆきの声を神経質に震わせる。
 この言葉たちはじっくり練り上げられたものなのか、それとも衝動的に趣くまま吐き出されたものなのか。いずれにせよ、ここで紡がれる言葉の重みは、気軽に聴き流されることを頑なに拒否している。「聴くなら真剣に向き合え」と。
 その言葉の求心力は、サウンドにも及んでいる。A面までは比較的、シンプルなフォーク寄りのアレンジだったのが、ここでは歌詞のバイアスに負けないハード・サウンドで飾り立てられている。時代性から鑑みて、Journeyをモチーフとしたアメリカン・ハード・プログレ的なアンサンブルが、打ちひしがれたみゆきのヴォーカルを盛り立てている。それくらい徹底しないことには、この言霊をねじ伏せることはできない。
 投げやりな喪失感から逃れるように、船は港を出る準備を始めている。それは9月。
 でも、ほんとに船は港を出るのか。そして、みゆき自身がそこまで待てるのか。
 もしかすると、そこまで躰が持たないかもしれない。

6. エレーン
 後藤次利作によるインタールードを経て紡がれる、ゆったりした4ビート。はっきりしたモデルを明らかにしないみゆきとしては珍しく、実在した人物にまつわる実際に起きた事件をモチーフに描かれている。後にみゆき執筆による短編集『女歌』でも、彼女のことは再度取り上げており、モチーフ以上の強いインスパイアを受けたことが窺える。
 当時、みゆきは生活の拠点をまだ札幌に置いており、仕事のたびに上京するというサイクルを繰り返していた。東京はあくまで仕事を行なう場所であって、そこで日常を営むことは考えになかったのだろう。そんな行ったり来たりがルーティンとなっていたみゆき、東京での定宿としていたホテルで起こった殺人事件を、傍観者を超えた立場から活写している。
 
 エレーン 生きていてもいいですかと 誰も問いたい
 エレーン その答を誰もが知ってるから 誰も問えない

 アルバムの主題であり、表現者としての業が吐き出した言葉。
 「うらみ・ます」は印象としてはネガティヴではあるけれど、「うらみます あんたのことを 死ぬまで」と、棄てられた男への負の情念が、皮肉にも生き続ける原動力となっていた。どんな理由であれ、「捨てきれない情」はマイナスのオーラへと昇華して、強いパワーをもたらす。ただここでは、そんな負の力は下向きへ作用する。だって、もう終わってしまっているのだから。
 蔑まれる生業につき、陰ながら人に嘲笑される生活。それは亡くなった後も変わらない。たかが1人、出稼ぎの娼婦が亡くなっただけじゃないか。誰も悲しまない、ほとんどの人は知ることもない、そんな都会の片隅で起こった小さなざわめき。
 ほぼ顔見知り程度だったはずのエレーン。みゆきの人生にとって、彼女は特別重要な存在ではなかったはずだ。多分、それは今でも変わらない。変わらないのだけど。
 ひとつ道を踏み外せば、誰もがみな、彼女の生き方をなぞったかもしれない。たまたま自分は日本人で、そして運が良いことに表現者となったけれど、人生なんてどうなるかわかったものじゃない。
 人に伝える術を持たない、名前さえほんとかどうか定かではない異国の女性に、どこに生きる希望があるというのか。

 けれど どんな噂より
 けれど お前のどんなつくり笑いより、私は
 笑わずにはいられない 淋しさだけは 真実だったと思う

 淋しげな横顔だけが真実だなんて、あまりにも無情すぎる。
 そして、ふと気づく。わたし自身にとっても、ここは異国だ、と。

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7. 異国
 そう、エレーンは明らかに異国の民であったけれど、みゆき自身もまた、どこにも居場所がないことに気づいたのだった。自分を受け入れる者がいなければ、そこは誰にとっても異国だ。
 誰でもよいわけではない。みゆきが渇望しているのは、「たったひとりの誰か」なのだ。その「誰か」から拒まれ、時を同じくして、顔見知りの外国人娼婦が不本意な形でこの世を去る。マイナスのシンクロニシティが一気にみゆきに降りかかり、そして―。
 アイデンティティの崩壊は、みゆきの暴走という形を取って、作品として結実した。
 人生をゼロサム的思考で例えると、この時期のみゆきは大幅なマイナスである。ただしこの時期を含めた80年代初頭の作品は、どれも鋭い刃のごとき切れ味を持っている。表現者としてアーティストとしては、大幅な飛躍をなし得たのも、この時期である。
 いいこともあれば、悪いことだってある。そう思い込んで、人はみな飲み込みながら生きている。そんなことはわかっている。頭ではわかっているのだけれど、納得はできない。理屈ではねじ伏せられない、情念はここでも燻り続ける。
 ―あいつに拒絶されたら、どこに行けばいい?
 「人生」に拒絶されたエレーンは、異議申し立てする機会すら与えられず、不遇の死を遂げた。わざわざ日本に来たりせず、自国でゆったり過ごしていられればよかったのに。でも、エレーンもまた「くにはどこかと」自問し続けた。いわば、私だってエレーンと同族だ。人生に拒否されるのも、あいつに拒否されるのも、いまの私にとっては等価だ。
 「まだありません」と俯きながら、みゆきは探し続ける。異国ではない、ほんとの死に場所を。でも、そんな所はどこにだってないのだ。
 数多いみゆきのレパートリーの中では数少ない、いまだステージで披露されたことのない楽曲である。当時のみゆきにとってはあまりに重すぎる命題だったし、今のみゆきにとっても、歌う情景が思い浮かばない。
 いつか歌う日が来るのだろうか。その日が来るのを待つのは、あまりに酷だろうか。


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北海道の中途半端な田舎に住む、そろそろアラフィフ男。ほぼ週1のペースで音楽ブログ更新中。節操ない聴き方と思われてるけど、自分の中では一貫してるつもり。 最近は蔵書の整理がてら、古い本を再読中。ジョン・アーヴィングから始まって、フィッツジェラルドやゾラ、モームなど、いわゆる古典の復習中。いつになったら終わることやら。新刊読めねぇや。
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