好きなアルバムを自分勝手にダラダラ語る、そんなユルいコンセプトのブログです。

#Singer Songwriter : Japan

みゆきさん、過去を思いっきり振り返ってみる。 - 中島みゆき 『ララバイSINGER』

 2006年リリース、34枚目のオリジナル・アルバム。オリコン最高10位。ま、こんなものか。ただ、TOKIOの『宙船』のセルフ・カバーがちょっと話題になったはずだけど、あんまりセールスには影響しなかったみたい。
 前回も書いたように、今さらチャートで動じる御仁ではない。

 「夜会を愛する中島みゆきファン」は多いだろうけど、「夜会の中島みゆきを『最も』愛するファン」とは、一体どれだけいるのだろうか。おおよそ30年の舞台キャリアを持つパフォーマーであり、実績的には申し分ないのだけど、多分そんなにいないんじゃないかと思われる。
 夜会について深く調べていると、かつて『2/2』が映画化されていたことを、いま初めて知った。みゆきが関与しているのは原案のみ、瀬戸朝香や渡部篤郎が主要キャストとして出演しているのだけど、これまで俺が知らなかったくらいだから、ほとんど話題にもならなかったのだろう。
 『2/2』に限らず、他の演目も別キャストで上演したら、多分同じ結果になるんじゃないかと思われる。この辺が、歌と演劇との違いになる。
 工藤静香や研ナオコがみゆきの歌を歌うことに、違和感を覚える人は、おそらく少ない。極端な話、島津亜矢でもみはるでも、ある程度の感銘を与えることは可能だ。
 どれだけアレンジやリズムを変えたり、アプローチを変えたとしても、そこには表現者:中島みゆきの強いエゴが残っている。創造者としての強いアイデンティティが、フレーズなり言葉に刻まれていることで、歌い手側はその世界観に引きずられる。
 単に音符を追うだけじゃなく、パフォーマーなりの新たな解釈を吹き込むには、強力なエゴと直感、さらに洞察力が必要となる。それらを生まれつき持ち合わせるのは選ばれし者であるけれど、それを披露する機会を得る者となると、さらに限られてくる。
 柏原芳恵や桜田淳子らは、そう言った面ではバランスよく秀でていたのだけど、長く続けてゆくには、また別の才能や努力、そして時と運が必要になってくる。そう考えると、静香って最強だよな。

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 『シャングリラ』でも『リトル・トーキョー』でも何でもいいけど、夜会原作を他の演劇集団が演じたとして、まぁワイドショーでちょっと取り上げられることくらいはあるかもしれないけど、でも、ただそれだけ。よほどコアなみゆきファンでも二の足を踏むだろうし、俺も札幌で観れたとしても、多分行かない。
 みゆきが原作を書いたからといって、彼女が出演しない舞台/ミュージカルを観に行きたいかといえば、多分そうはならない。シェイクスピアやつかこうへいと違い、みゆきの書くストーリーは、観劇の直接的な動機付けにはなり得ない。
 彼女の生み出す歌は、アジア諸国を含め、あらゆるシンガーに歌われている。なのに、夜会のパフォーマンスは、みゆき自身じゃないと成立し得ない。

 前回も書いたけど、開始してからずっと年1回のペースで行なわれて夜会は、21世紀に入ってからはペースを落とし、ほぼ2年に1回の開催となっている。準備期間に余裕を持ったことによって、舞台美術や演出も年を追うごとに大掛かりになっている。
 コンサートでもミュージカルでも演劇でもない、中島みゆきオリジナルの舞台芸術として、夜会は定着した。膨大な下準備のもと、緻密に編まれたストーリー構成、相反するライブ感から生ずる舞台上のマジック、そして、商業舞台として欠かせぬエンタメ性の追求。
 以前も書いたけど、2年に1回、2〜3週間程度の興行なので、単体で採算が取れるものではない。なので、DVD発売から映画上映、夜会楽曲に絞ったコンサートなど、あらゆる手段で資本回収に走らざるを得ないのが現状だ。
 ヤマハ経営陣の最古参として、おそらく現社長より影響力が強いと思われるみゆきだから継続していられるけど、もっと昔に打ち切られていたとしても不思議はない。言っちゃえば、他のベテラン・アーティスト同様、普通の興行だけで十分食っていけるんだろうし。

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 大枠のストーリーを追うことで、より魅力が伝わる夜会楽曲は、正直、単体では存在感が大きく目減りする。そのままシングル・カットできそうな曲もあるけど、シーンの状況説明で終わる幕間の楽曲だってあるわけだし、その辺は玉石混交、まぁどのアルバムにだって言えることか。
 夜会楽曲を除いた近年のみゆきのアルバムの楽曲構成は、
 ① 書き下ろしオリジナル (過去のストック使用もあり)
 ② 他アーティストへ提供した楽曲のセルフ・カバー 
 ③ 外部オファーによるTV・映画のタイアップ曲
 に、おおよそ分別される。以前だったら、②も各アルバムに分散せず、何年かに一度、『おかえりなさい』や『回帰熱』のようにアルバム1枚にまとめていたのものだけど、そこに投入する時間も体力も、捻出するのが難しい。
 単純に歌を作り、そして歌う。もう、それだけやってればいい立場ではないのだ。
 アーティストとして、パフォーマーとして、執行役員として、ラジオ・パーソナリティとして、それぞれの関りがあり、それぞれの段取りが決まっている。そのどれもが大切な仕事であり、疎かにはできない。がむしゃらに完徹できた20代・30代とは違い、気力・体力は確実に落ちている―。
 年を追うにつれ、アルバム内のオリジナル楽曲率は減ってはいる。いるのだけれど、夜会向けの楽曲も書いているため、実際の創作ペースは昔とそれほど変わっていないはずだ。多少のスランプを迎えたこともあっただろうけど、音楽の女神(ミューズ)はその素振りを決して見せない。

 表現者としての中島みゆきは、時に暴走する時期を迎えることがある。サウンド・メイキングに迷走した80年代のご乱心期が顕著だったけれど、それも瀬尾一三に出逢ったことによって、スタジオ・ワークの試行錯誤は大幅に軽減された。
 抜群の信頼を置く瀬尾にアレンジやサウンド・コーディネートの大部分を託すことによって、純粋な創作活動に専念できるようになったみゆきだけど、それでも曲の出来不出来はある。長いキャリアの中では、「これはちょっと何だかな」という曲も、出てきたって不思議はない。何しろ人間離れしたミューズなので、凡人から見てると分からないけど、リリースしてから「やっちまったな」と後悔した曲も、公言はしてないけどあったんじゃないかと思われる。
 「舞台は魔物」とはよく言ったもので、夜会プロジェクトに没入し、時に足元が見えなくなる。原点であるはずの「歌うたい」、吟遊詩人としての中島みゆきを再確認する作業が必要になる。

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 実際にみゆきが公言しているように、『ララバイSINGER』はシンガー・ソングライター中島みゆきにとって、原点回帰の作品として製作された。オリジナルとタイアップ、それにセルフ・カバーによって構成されているため、リリース前から知られていた曲も多く収録されている。
 このアルバムで大きな話題となったのが、オリジナル楽曲のクオリティの高さだ。特にタイトル曲は、単純なリメイクやインスパイアに終わらず、デビュー曲をモチーフとしながら、まったく同じ世界観をまったく違う時空でシンクロさせている。
 純粋な歌うたいとして、また時間軸を超えた物語を連綿と紡ぐシャーマンとして、みゆきは存在する。物語のルーツはみゆきの中に常にあり、そしてそれは、形を変えることはあれど、突き詰めるとひとつの物語に過ぎない。

 ももクロだろうが夜会だろうが、みゆきはひとつのことしか歌っていない。
 みゆきはずっと、そこにいた。


ララバイSINGER
ララバイSINGER
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中島みゆき
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1. 桜らららら 
 もともとはデビュー・アルバム『私の声が聞こえますか』の収録候補曲だったということだから、おおよそ40年前の曲。「歌詞が1番しかできてなくて、収録を見送った」とのエピソードが残っているけど、完成品とされるこのヴァージョンを聴いても、どの辺を追加したのか、正直疑問。だって、らららら抜いたら、そんなにセンテンスないじゃないの。
 多分、1番と思われる序盤の歌詞や、ひねりがなく牧歌的なメロディは、確かにアマチュア時代の延長上にある。なので、出来がどうした、じゃないんだよな。原点に立ち返るっていうのが重要なわけだし。

2. ただ・愛のためにだけ
 岩崎宏美のシングルとして書き下ろされたナンバー。キャリア的にはほぼ同期の2人だけど、そういえばコラボってなかったし、なんかイメージが合わないよな。どちらかといえば優等生キャラのイメージが強かった岩崎宏美ゆえ、「女」「性」のテイストが強いみゆきの楽曲は、多分周りもオファーしなかったんだろうな。
 ちなみに岩崎宏美のヴァージョンを聴いてみたのだけど、まぁピッチ的には当然うまい。うまいのだけど、「岩崎宏美が歌う中島みゆき」というイメージが強い。こうして文字にして書いてみて、「アレ、なんか俺、当たり前のこと書いてるな」って気づいた。
 どうにも2人は交じり合わない様になっている、と言いたいだけ。みゆきヴァージョン?まぁ、アベレージは超えてはいる。

3. 宙船 (そらふね) 
 考えてみれば、みゆきが男性シンガー(グループ)に書き下ろした例自体がそんなになかったのだった。俺がパッと思いつくところでは、前川清に提供した「涙」、あと何かあったっけ。
 もともとはこのアルバムのメイン・トラックとして書かれた、とのことだけど、書いた後にTOKIOに渡しちゃって、それから改めてレコーディングした、という経緯があるから、ヴォーカルのタッチは荒々しく、長瀬テイストが強い。まぁ引っ張られた、ってところか。
 理屈っぽさや暗喩も少なく、ストレートで男っぽい歌詞は、裏表なく、万人に届きやすい。ただ、TOKIOに提供することが決まってから、多少の修正があったはずなので、ほんとの初期デモ・ヴァージョンも聴いてみたいところ。あるかどうかは不明だけど。

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4. あのさよならにさよならを
 ともちゃんこと華原朋美に提供したシングル曲のセルフ・カバー。当然、TKプロデュースじゃないので、方向性が迷走していた休業直前の時期だったと思われる。
 せっかくなのでYouTubeでオリジナルを聴いてみたところ、漂ってくるメンタルの不安定さゆえか、気合の入ったヴォーカルを聴くことができる。普通にバラード・シンガーとしてうまいし、表現力も充分。この路線で続けられていたら、とちょっと悔やまれる。
 みゆきヴァージョン?さっきも言ったけど、アベレージは超えてるって。でも、それだけかな。

5. Clāvis -鍵-
 やっぱ静香だな。この時点で8年ぶりのコラボだったらしいけど、みゆきも静香もお互い、きっちりツボを押さえて仕上げている。ロッカバラードに仕上げた静香ヴァージョンと、マリアッチ・テイストのみゆきヴァージョン、どっちも秀逸。
 歌詞は静香をイメージして書かれたせいもあって、変な思わせぶりもないストレートなラブ・ソング。押しの強い女を歌わせたら天下一品の静香の存在により、みゆきもこういったスタイルの歌詞を書けるようになった、とは言い過ぎかね。



6. 水
 いろいろ解釈の別れる歌。水が何を意味しているのか、をずっと問い続けている。哲学なのか形而上学か、見方によって「愛」なのか、それとも「エゴ」なのか。どれと断定できるものではない。
 ただ、ひとつ。言葉数が多いんだよな。暗示的な表現なら、もっとセンテンスをそぎ落としても良かったんじゃないか、というのは大きなお世話。昔の楽曲を引き合いに出して悪いけど、「縁」っていうプログレッシヴな曲を書いてるんだからさ。

7. あなたでなければ
 「千葉ロッテマリーンズのチェイス・ランビン内野手の応援歌の原曲」ということらしいけど、プロ野球なんてしばらくまともに見てないんで、ちょっと不明。ただ明快なサビと歌詞、ノリの良いアンサンブルは、球場で聴くと気持ちいいかもしれないな。
 
 あなたでなければイヤなんです
 あなたでなければダメなんです
 似たような人じゃなくて 代わりの人じゃなくて
 どうしてもあなたにいて欲しいんです

 ストレートな愛の告白だけど、直接届いているのかどうか。「もしダメならダメで、次行きゃいいか」という潔さと諦観が交差している。

8. 五月の陽ざし
 決してメイン・トラックにはなりそうもない、地味なピアノ・バラードだけど、細やかなメロディ・ラインと丁寧なヴォーカルが、シンガー・ソングライターとしての基本に立ち返る気概を感じさせる。
 遥か昔、渡せずじまいだった彼へのプレゼントの小箱の中には、丁寧に綿にくるまれたドングリの実がひとつ入っていた。考えてみれば、あまり知らない女の子にドングリ飲の実をプレゼントされたら、どう思うだろうか。そりゃ気持ち悪いわな、意味わかんないもの。
 こうやって書いちゃうと、エキセントリックとしか思えないストーリーさえ、きちんと体裁よくバラードに仕上げてしまうライティング・スキルの高さ。さすがみゆき。

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9. とろ
 ラジオの時の声質をそのまんま持ってきた、近年では親しみやすいメロディとサビを持ったナンバー。とはいえ演奏はしっかりしており、アンサンブルもきちんと考えられて配置されている。
 単にほんわかした歌と思ってはいけない。みゆきがこんな風におふざけで歌うときは、大抵悲しい歌だ。いつもの調子で歌ったら泣き出してしまうのを、実は心の中で必死に抑えている。
 ただ単に、巻き舌で「とぉ~ろっ」て言いたかっただけかもしれないけど。

10. お月さまほしい
 みゆきは昔から「月」をテーマとして扱うことが多く、この曲も月夜を舞台にしており、様々な解釈が飛び交っている。BL風味が取り沙汰されることが多いけど、いやいや、そうじゃないって。
 俺の勝手な解釈で行くと、この曲は「空と君のあいだに」の続編。犬の視点で呼んでみると、スッキリする。

11. 重き荷を負いて
 最初に聴いた時から、強いインパクトだった。「がんばってから死にたいな」というフレーズは異質でありながら、心の抉れにすっぽり収まった。
 かつてみゆきは「傾斜」で、日増しに厳しくなる登り坂を歌った。

 「悲しい記憶の数ばかり 飽和の量より増えたなら
 忘れるよりほか ないじゃありませんか」

 あれから四半世紀経ち、みゆきも老婆に近い年齢となった。忘れるわけにはいかない。放り出すわけにもいかないのだ。
 俺がこの曲を初めて聴いたのが37歳だったけど、自分に響くようになったのは、40過ぎてからだった。ストレートで無骨だけど、染み渡ってくる。演歌って、こんな感じなんだろうか。

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12. ララバイSINGER
 ファンの間でも大きな話題となったタイトル曲。なぜこの時期、この曲調・このテーマを選んだのか。結局のところは、みゆきしかわからない。
 シンプルに考えれば、ララバイ=子守歌だけど、誰に向けて歌っているのか。誰か他人か、それとも自分か。

 歌ってもらえるあてがなければ 人は自ら歌びとになる
 どんなにひどい雨の中でも 自分の声は聞こえるからね

 とても人を眠りにつかせようと歌う内容ではなく、ていうか、むしろ寝かしつける気なんて、まるでない。まぁ「アザミ嬢のララバイ」だって、そんなのは皆無だったけど。
 歌人にならざるを得ない絶望的な孤独、そしてそれをどこか望んでる自分。
 気の狂いそうな絶望の中でも、自分のために歌うことくらいはできる。
 もしそれができなくなれば―。
 まぁ寝るか、そろそろ。「もうおやすみ」って言ってるし。



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逢えない相手が逢いに来る 逢えない相手が逢いに来る。 - 中島みゆき 『真夜中の動物園』

folder 2010年リリース、37枚目のオリジナル・アルバム。この当時のオリコン最高5位は、決してバカ売れというレベルではないけれど、だからどうしたというわけでもない。何が何でもチャートのトップをねらった風でもない。
 この時期のオリコン・チャートは、EXILEやらAKBやらジャニーズやらの独壇場であり、みゆき世代が出しゃばるフィールドではなくなっていた。
 いや、そんな時期はずっと昔に過ぎ去っていた。大御所と呼ばれて久しく、そんな些事にこだわるポジションではない。
 数少ない顧客囲い込みに汲々するほど、切羽詰まった立場でもない。同世代は、ほぼリタイアしているか宗旨替え、はたまた過去の再生産で食いつなぐかしている。
 そしてみゆきはずっと変わらず、ほぼ年1ペースで、オリジナル・アルバムをリリースし続けている。創作意欲だけじゃなく、それを可能とするポジションであり続けているのは、もうみゆきだけになった。
 パーソナルな恋愛を綴っていたかつてと違い、みゆきの言葉にささくれは見えなくなった。吐き出すような嗚咽混じりの心情吐露は、内向きの棘と化して自身を傷つけた。
 満身創痍になりながら、それを業として受け止め、前を向き、凛として歩みを止めないその様は、ぼんやりした空虚を抱える多くの若者らの共感を呼んだ。みゆきがみゆき自身のために歌ったはずなのに、その言葉たちは彼らの空虚にすっぽりはまり、強い自己投影を喚起させた。
 キャリアを重ねるにつれ、その負のオーラは減っていった。内向きだった視点は外へ、そして高みに上り、毀誉褒貶に囚われない女神として、色恋沙汰に捉われない、普遍的なテーマを取り扱うようになった。
 その境目となったのが、夜会プロジェクトだったと言える。

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 もう少し遡れば、いまも続く瀬尾一三とのパートナー・シップが始まったことも、作風の変化に大きく影響した。どれだけ奇矯なアプローチやリクエストにも、あ・うんの呼吸でサラッと応じてしまう瀬尾のプロデュース・ワークは、80年代のご乱心期に拘泥していたみゆきが探し求めていたものだった。瀬尾がチームに加わったことによって、みゆきは長く構想段階で止まっていた夜会プロジェクトに本腰を入れることになる。
 毎年末(近年は1年おき)に行なわれる夜会の公演期間は、おおよそ2~3週間程度。目に見える実働はそれほど長期ではないけれど、準備期間を含めれば、そこにかける労働力は膨大になる。
 実作業に当たる関係者スタッフはもちろんのこと、みゆき自身も原案から楽曲制作、演出にも深く関わっているため、投入されるエネルギー量はハンパない。その年の夜会が執り行なわれている最中に、すでに次の夜会のラフ・スケッチは描かれているのだ。いや、いろんな候補案が同時進行しているのかもしれないし。
 じゃあこれまで行なわれた夜会のラインナップって、どんなんなってるのかしら、と調べてみると、これが案外少なかった。まとまったストーリー構成ではない初期夜会を除き、起承転結に沿った作品は12本である。
 再演や再構成モノをはずし、純粋な書き下ろし作品となると、こんな風になる。

1991 KAN(邯鄲)TAN
1992 金環蝕
1993 花の色はうつりにけりないたづらにわが身世にふるながめせし間に
1994 シャングリラ
1995  2/2
1996 問う女
1998 海嘯
2000 ウィンター・ガーデン
2004  24時着 0時発
2008 〜夜物語〜元祖・今晩屋
2014 橋の下のアルカディア
2019 リトル・トーキョー

 おおよそ30年で12本。商業演劇には詳しくないので、この興行ペースが多いのか少ないのかはちょっと不明だけど、この他にもアルバム制作や楽曲提供も行なったりしてのコレだから、普通に考えればかなりの多作である。
 思えば『East Asia』くらいまで、夜会とは、あくまでみゆきのサブ・プロジェクトという位置付けだった。
 「コンサートでもない、演劇でもない、ミュージカルでもない、言葉の実験劇場」という前例のないコンセプトは、良く言えば無限の可能性を秘めている感はあるけど、返して言えば初期衝動のまま突っ走った感が強かった。継続的なプロジェクトになるのかどうか、それもまた「やってみて決めていこう」という、フレキシブルなものだった。

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 「やり遂げることに意味がある」的な初期の夜会は、いわば通常コンサートの幕間劇を拡大したようなものだった。
 緩やかなストーリー構成に沿ったひとり芝居、そして、アクセントのようにシーンをつなぐ楽曲たち。説明的なモノローグや演技ではなく、これまで書いてきた歌たちの世界観がそれぞれに語りだし、その相乗効果で新たな価値観を創造する―、みゆきの描いたビジョンは、そういったものだったはずだ。
 だったのだけど、その試みは、思っていた以上に化学反応をもたらさなかった。歌は歌であり、芝居は芝居。演劇パートは独りよがりとなり、新たなアプローチでリアレンジされた歌たちも、目新しさはあったけど、でもただそれだけだった。
 みゆき自身、実際に演じてみて軌道修正が必要と感じたのか、3回目 『KAN(邯鄲)TAN』以降は、起承転結を持ったストーリーを柱として立てている。敢えて制約を設けず、散文的なユルいステージ進行は、基本シンガーであるみゆきとの相性が良くなかった。これがコンボ・スタイルなら、予測不能なジャム・セッションに発展できるのだけど、まぁ狙ってたのはソコじゃないだろうし。
 次に問題となったのが、肝心の楽曲ラインナップだった。強い世界観をもったストーリーを新たに作ると、これまでの既発表曲だけで構成するには、何かと無理が生じてくるようになった。
 そもそも、すでに単体で成立してしまっている楽曲たちをストーリー仕立てで並べること自体に無理がある。それでも強引に新たな世界観でまとめるのなら、そりゃあもう、長大かつ重厚な物語、さらに多くのキャストや舞台装置が必要になる。
 もしほんとにやろうとするならば、それこそ採算度外視、しかも一般的な2時間のステージで収まるものではない。無理やり収めたとしても、多分とっ散らかったモノになるだろうし、どちらにせよ現実的なプランではない。
 そんな事情もあってかどうか、7回目の夜会『2/2』では、既発表曲の割合が激減、ほぼ20曲以上が書き下ろしオリジナルで構成されていた。その後も、再演・再々演によってストーリーに修正が施された、さらに新曲が追加されたり削られたりなどしている。なので、この『2/2』の関連楽曲は、膨大な量にのぼる。
 強烈な吸引力とイマジネーションを必要とする、そんな物語の貪欲な力は、悠然たる女神:みゆきさえをも振り回し、そして翻弄させた。『2/2』の世界観にせっつかれるように、彼女は物語が希求する楽曲を書き続けた。

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 その後、夜会のために生み出された歌たちは、それぞれのストーリー/コンセプトにフィットするよう、その世界観に沿って書き上げられた。言葉と歌とがチグハグだった初期とは見ちがえり、その後の夜会はスムーズで違和感ない舞台進行となった。一般的な商業舞台とも引けを取らず、動員数・クオリティとも、国内有数のコンテンツとなった。
 ただこれらの夜会楽曲、いわば壮大な組曲の一構成要素として生まれてきたため、単体での存在感が希薄であることも、また事実である。1シーンの心理描写を演技で説明せず、メロディを介したモノローグで表現するために作られたものが多いため、夜会未見のユーザーにとっては、そこだけ切り取られても、ちょっと分かりづらい。
 せっかく生み出した歌たちを独り立ちさせようと、みゆきは不定期に夜会楽曲をスタジオ・レコーディングし直し、新たな命を吹き込んでいる。
 「歌を自由にしてあげようとはじめた夜会だが、オリジナル曲は物語の場面に閉じ込められてしまった。それらを一曲の楽曲としても(翼で羽ばたくように)自由に聴いてほしかった」(『10wings』リリース時のコメント)。
 単なる劇中歌としてではなく、キッチリしたイントロと間奏、そしてアウトロをくっつけて体裁が整えられ、他の書き下ろし曲と並べられる。ひとつのアルバムの構成曲として、それらは新たな表情を浮き上がらせる―。
 でも、
 やっぱ、なんか違う。
 大きなリンゴから切り分けられた1ピースは、いくら切り口を揃えても、他のリンゴと重なり合うことはない。どこかいびつで、どこか味わいが違ってくる。
 夜会から育ったリンゴの味は、他の畑のリンゴとは、決して交じり合わないのだ。

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 『真夜中の動物園』は、この時期にしては珍しく、夜会楽曲を入れず、ほぼ書き下ろし新曲で構成されている。すごく厳密に言えば、楽曲提供やセルフ・カバーは入っているけど、シンガー・ソングライター:中島みゆきとして書いた楽曲をメインとしている。
 一応、フワッとではあるけど、「動物」をテーマとした楽曲が中心となっており、ユルいコンセプト・アルバムといった見方もできるけど、でも動物と全然関係ない曲も含まれている。何となく叩き台として、「動物がテーマ!」って設定してはみたけれど、いろいろ足したり削ったりしてみた末、こんな感じで収まっちゃったのだろう。
 なので、どの曲も相互的な関連性はなく、一話完結の独立した世界観で構成されている。要するに、「いつものみゆきのアルバム」ということなのだけど、その「いつも」が久しぶりと感じてしまうのは、やっぱ夜会楽曲の影響なんだろうな。
 俺的には夜会楽曲、「好きでも嫌いでもない」といった程度のもので、要はあんまり思い入れも少ない。あってもなくてもいいけど、でもやっぱ、いつものリンゴ畑の味を求めてしまう。


真夜中の動物園
真夜中の動物園
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中島みゆき
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1. 今日以来
 ずっと思っていたのだけど、これって曲調といいテーマといい、吉田拓郎「今日までそして明日から」からのインスパイア、またはアンサー・ソングなんじゃないだろうか。ザックリしたバンド・アンサンブルや歌い方も、拓郎リスペクトっぽい。
 「私は今日まで生きてみました」と、かつて拓郎は歌った。「時には誰かをあざ笑って 時には誰かにおびやかされ」
 40年近く経って、みゆきは歌う。

 「失敗ばかりの人生でした やることなすこと ヘマばかり
 後悔ばかりの人生でした 迷惑ばかりを散らかしました」

 40年経っても、人はそんなに変われない。結局、同じ失敗ばかりを繰り返す堂々巡り。
 「わからないまま生きて行く 明日からの そんな私です」
 わかりはしないけど、でも生きて行くしかない。拓郎はそう言っている。
 そして、みゆき。

 「もう愛します 今日以来
 愛されたがりは罪作り
 もう愛します 今日以来
 愛したがりになれるかな」

 最後が疑問形、それか希望。これだけ人生を重ねたって、強く言い切れない自分がいる。
 人なんて、そんなに変わらない。所詮、人もまた動物だもの。
 みゆきはそう言っている。

2. 真夜中の動物園
 終業ベルと共にスタートする、荘厳としたタイトル・ナンバー。

 「逢えない相手に逢えるまで 逢えない相手が逢いに来る」

 「夜」同様、みゆきにとっては永遠のライフワークとも言えるテーマを、正面から歌っている。アップテンポ時の力づくでもなく、かといって近年のバラード・スタイルとも違う、そう、80年代以前のご乱心期前のスタイルに近い。
 呪術的なカノン形式のダブル/トリプル・ヴォーカルは、漆黒の闇を浮き立たせる。
 
 「誰だい ヒトなんか呼んだのは
 流氷に座ってる
 あれは シロクマの親代わりだったヒトさ」

 この曲が発表されるちょっと前、ドイツの動物園で母熊から育児放棄されたホッキョクグマの人工飼育が世界的なニュースとなった。飼育係トーマス・デルフラインの献身的な介護により、子熊クヌートは無事成長したが、『真夜中の動物園』リリース後の2011年、池に落ちて溺死した。なお、トーマスは先立つ2008年、心臓発作で亡くなっている。
 時期的に、このエピソードからインスパイアされて製作されたものとされており、実際その通りなんだろうけど、何かと一筋縄ではいかない曲である。
 動物園とヒト、それらを象徴しているもの、または暗示しているものは何なのか?深読みしようと思えば、どこまでもできてしまう。

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3. まるで高速電車のようにあたしたちは擦れ違う
 ダブル・ヴォーカルの上、ハーモナイザーを強くかけた歌声、投げかけるようなスタイルは、流麗さとは別次元にある。アコースティック・セット中心のコンパクトな演奏がラフなヴォーカル・スタイルとマッチしている。

 「笑うことも 泣くことも その場限りのあたしたちだけど
 思うことも しゃべることも その場限りのあたしたちだけど」

 刹那的なメッセージはそこまで深読みするほどの濃さはない。なので、俺的な解釈だけど、俺世代よりもっと下、それこそモノノフ世代に向けて書かれたんじゃないか、と。何となく、ギャルっぽい歌い方って見方もできるし。

4. ハリネズミだって恋をする
 昔から文学でも音楽でも、「ヤマアラシ(ハリネズミ)のジレンマ」というのはアーティストにとって格好の素材であり、実際、手垢がつきまくっているので、今さら新たなアプローチというのは難しい。どうしても悲観的なアプローチになりかねないところを、ここではみゆき、カラッとしたラテン・スタイルのアレンジで過剰な悲壮感を回避している。
 まぁでも、みゆきがやる歌じゃないよな、このテーマって。

5. 小さき負傷者たちの為に
 回りくどい比喩や暗喩もなく、この上なくストレートなプロテスト・ソング。
 
 「言葉しか持たない命よりも 言葉しかない命どもが
 そんなに偉いか 確かに偉いか 本当に偉いか 遥かに偉いか」

 その言葉は、みゆき自身にブーメランとして返ってくる。自分はどっちの側だろうか。
 誰もが傷つかない言葉なんて、あるはずがない。あったとしても、それは誰の心にも響かない。そしてその言葉は、みゆき自身の心に最も深く刺さる。
 これからも誰かを傷つけるかもしれない。でも、言葉を持たない者のため、自分のために、これからも歌い続ける。そんな決意表明が、強く刻まれている。

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6. 夢だもの
 サビメロがはっきりした、ちょっと歌謡曲っぽいテイストのポップ・チューン。アウトロがちょっぴりスペクター・サウンドっぽいのも、どこかしら80年代。
 こじらせ女子の妄想が連綿と描かれ、ちょっとコミカルな歌い方なのは、真剣に歌っちゃうと泣いてしまうから、というのは聴き手側の妄想。こういったストレートな恋愛モノは、近年では貴重となった。

7. サメの歌
 ソリッドな歌謡ロッカバラード。サメの泳ぎを表現しているのか、演奏も躍動感があってライブ向き。

 「可笑しいことに なまものは後ろへ進めない
 なりふりを構いもせず 前へ向くようできている
 サメよ サメよ 落とし物の多い人生だけど」

 いちいち振り返るヒマもなく、こんなところまで来てしまった。とにかくがむしゃらに、前へ前へ進むしかない人生。多かれ少なかれ、誰だってそうだ。
 「人が落としていったモノを、ずっと後から拾い集めてゆく」。
 かつて、みゆきは言っていた。いまもそうなんだろうか。

8. ごまめの歯ぎしり
 「ごまめは小さなカタクチイワシを素干しにしたもので、この句では実力のない者のたとえとして使われている。 実力のない者が、やたらと憤慨して悔しがったり、いきりたつことをいう。 また、その行為が無駄であるということのたとえにも使われる」(故事ことわざ辞典より)
 知らない言葉だったので、一応。普段使うことわざじゃないよな。
 シャッフル・ビートに投げやりなヴォーカル、自虐的な歌詞ということで、「サーチライト」を連想する人も多いと思われる。
 人生も恋愛も何もかも、うがった見方とはすっぱな視点。皮肉と自虐にまみれた生き方に、満足してるはずがない。でも、どこにも行けない。そんなこじれた若さを活写した歌詞。
 昔は、これが中島みゆきの真骨頂だった。やろうと思えば、これくらいのはいつだって書ける。古いファンにとっても、すごく居心地がいいんだよ。
 でも、今はそれだけじゃない。みゆきはそう言っている。

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9. 鷹の歌
 かなり肩に力の入った、スケール感の大きいバラード。「フジテレビ開局55周年記念スペシャル・ドラマ『東京にオリンピックを呼んだ男』の主題歌として使用された」とwikiにはある。
 いや直球ストレートでいいんだけど、いわゆる「メディアが求める中島みゆき」「重厚感あふれるドラマ・映画のラストシーンに効果的に流れる楽曲」って感じなので、正直おなかいっぱい。ただでさえ近年の「糸」尽くしでファンは食傷気味なので、こういったバラードはあんまり受け付けなくなっている。

10. 負けんもんね
 アレンジのクレジットから見て、多分、1.と同じセッションでレコーディングされたと思われる、一応のラスト・ナンバー。ここで拓郎テイストはさらに強くなり、ていうか拓郎をみゆきが取り込んで、ハイブリッド化している。なんか笑っちゃうくらいノリにノッたみゆきのヴォーカルが印象的。転調の「ンがっ」とか「ンなっ」って力が有り余ってしまうところに、周到な計算と予測不能のライブ感がにじみ出ている。
 多分、拓郎なら「負けんもんね」とは言わないけど、みゆきなら言える。優劣ではなく、これが男と女の違いなんじゃないのかな、と思う。

11. 雪傘
 ここからはボーナス・トラック。別に海外仕様とかじゃないのに、CDでわざわざ明記するのは珍しい。みゆきとヤマハとの間で、何かしら駆け引きがあったのかしら。
 オリジナルは工藤静香、2008年リリースのシングルのカップリング。みゆきのセルフ・カバーの場合、大抵はオリジナルよりクオリティが高いことが多いのだけど、静香の場合になると、その評価は逆転する。
 俺的な好みもあるけど、ほとんどの静香提供曲は静香ヴォーカルの方に分がある。まぁクライアントに合わせてるわけだから、当たり前っちゃ当たり前なんだけど。なんでか「黄砂に吹かれて」も静香の方が好きなんだよな、俺。



12. 愛だけを残せ
 続くボーナス・トラックは、2009年の映画『ゼロの焦点』の主題歌。41枚目のシングルとして先行リリースされており、オリコン最高15位をマーク。9.のようにこぶしを握り締めて高く掲げている風ではないけど、これもまた「みんなが望む中島みゆき」の女神の面を強く出している。
 いい曲ではある。警句的フレーズは万人の心に刺さり、印象を残す。
 でも、それは決して深くは刺さらない。
 古くからのファンは、えぐり取るような言葉の棘を知ってしまっている。そういうことだ。



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みゆきさん、プロとしてのスタートを切る。 - 中島みゆき 『あ・り・が・と・う』

folder 1977年リリース、3枚目のオリジナル・アルバム。あまりパッとしなかった前作『みんな去ってしまった』からセールスは大きく飛躍、21万枚を売り上げてオリコン最高6位、年間でも26位にチャート・インしている。
 レコーディングのイロハもわからず、スタッフ丸投げでオケができあがっていた初期2作と違い、ここでは初めて前向きにスタジオ・ワークに参加している。とはいえ、アンサンブルに細かい指示を出すとか、コンソールをいじるほどではもちろんなく、アレンジャーを介して、抽象的な要望を伝える程度。そりゃそうだわな。
 もともと不満はあった。特別これといった理想像はなかったけど、あまりに歌謡曲に寄り過ぎたアレンジは、みゆきが望んだものではなかった。ムード歌謡っぽいシングル「時代」のアレンジにも、納得いってなかったらしいし。
 当時のレコーディング・スタジオは閉鎖的で、特に技術職であるエンジニアは、徒弟制度がまだ残っていた時代。デビューしたてのフォーク・シンガー、しかも女性がおいそれと口を出せる環境ではなかった。

 ほぼ同世代のユーミンは、キャラメル・ママ人脈の豪華なスタジオ・ミュージシャンを揃え、当時としてはかなり垢抜けたサウンドを構築していた。まぁこれは極端な例で、ほとんどの女性アーティストの作品は、もっと安直に作られていた。
 当時としてはハイソなレーベル・ポリシーだったアルファと違って、ヤマハのサウンド・ポリシーは保守的だった。アルファ村井邦彦のような、確固たるサウンド志向を持ったリーダーがいなかったため、洗練さでは明らかに見劣りしていた。
 すでにシンガー・ソングライターとしては、ほぼ完成されていたみゆきだったけど、この時点ではまだ「作って歌うだけの人」だった。アマチュア時代は、ほぼギター弾き語りスタイルだったみゆき、バック・バンドをつけての演奏に馴染むまでには、相応の時間を要することになる。
 ギターで弾き語ったデモ・テープをディレクターに渡し、オケを作ってもらう。気にいる・気に入らないは、この際、問題ではない。ていうか、みゆき自身でも、そのアレンジが楽曲に相応しいのかどうか、判断がつかないのだ。
 オケが出来上がると連絡が入り、スタジオへ向かう。準備は整っている。デモと比べて、多少メロディやキーが違ってても、今さら「直してくれ」とは言いづらい。なので、ディレクターに言われた通り、歌を吹き込む。
 何回かテイクを重ねると、OKが出る。ピッチを合わせることは難しくない。オケに対しテンポも合っている。
 -でも、なんか違う。
 何が違うのか、人に伝えるのはとても難しい。なので、言えずじまい―。
 そんなモヤモヤを抱えたまま、作業は進められてゆく。多少の直しとダビングが施され、レコードは完成、そしていつの間にリリースされる。
 モヤモヤは解消されることなく、また次に持ち越されてゆく。自分で作って自分で歌っているはずなのに、自分の歌という感覚が薄い。なので、深く想い入れが持てない。
 -以下、無限ループ。

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 当時のフォーク・シンガーのコンサートは、ソロ弾き語りスタイルが主体だった。パーマネントなバンド形式ではコスパが悪いため、ギター担いで独りドサ回りというのが、多くのシンガーが通ってきた道だった。
 みゆきもまた、デビューしてしばらくは、単身で地方の小ホールやライブ・ハウスを廻っている。ただ、移動距離の少ない関東圏内では、時々バック・バンドを伴ってのコンサートも行なっていたらしい。
 当時のみゆきのバックを務めていたのが、「エジソンと発明王」というユニット。いかにも軽音フォークっぽいネーミングが、どこか微笑ましくさえ感じてしまう。谷山浩子っぽいよな、イメージ的に。
 初期2枚のアルバムで演奏クレジットされている彼らだけど、多少でも俺が知っているのはベースの長岡道夫くらいで、他のメンバーは聞いたことない名前だし、検索しても情報が出てこない。言っちゃ悪いけど、みんな芽が出ず、裏方のままフェード・アウトしていったミュージシャンたちと思われる。
 ファースト『私の声が聞こえますか』とセカンド『みんな去ってしまった』で、同じエジソン名義ながら、構成メンバーが変わっていることから、どうやら非常にフレキシブルな形態だったことが窺える。固定したバンド・ユニットではなく、コンサートやレコーディングごとに招集されたミュージシャンたちの総称が「エジソンと発明王」という、何ともやっつけ的なネーミング。まぁシブ楽器隊みたいなものか。

 しょっぱなから「時代」と「アザミ嬢のララバイ」という、並みのアーティストなら役満級の楽曲を、すでに2曲も書いてしまったみゆき。ただ、ポプコン・グランプリの威光が通じたのも束の間、次第に扱いは地味になってゆく。
 ある意味、自虐的とも受け取れる2枚目タイトル『みんな去ってしまった』を地でゆくかのように、急激に増えたファンは急激に去ってゆく。悪く言えば歌謡フォーク的だったみゆきの歌は、もう古くなっていた。すでに時代のトレンドは、フォークからニュー・ミュージックへと移行していた。
 土着的かつファミリー体質のヤマハゆえ、旧スタイルのみゆきを切り捨てることこそなかったけど、その後のみゆきの成長戦略を打ち出せずにいた。旧世代フォークの誰も彼も、不器用ながらロックやポップスのエッセンスを取り込み、生き残りを図っていた。ただ、ヤマハ同様、販売委託していたポニー・キャニオンにも、そのノウハウはなかった。キャニオンがフィールドとしていたのは、歌謡曲の世界だった。
 歌謡曲畑のアレンジャー起用はそのあらわれだし、並行して始められた研ナオコへの楽曲提供も、その一環だった。どちらかが望んだわけではなく、いわば成り行きで受けたオファーではあったけれど、この出逢いが互いにとって、キャリアのひとつの節目になったことは間違いない。

9

 研とのコラボレーションを手始めとして、その後、みゆきはちあきなおみや日吉ミミなど、主に大人の歌謡曲歌手への楽曲提供を行なうようになる。職業作家としてはまだ駆け出しだったため、コンペに敗れたり大幅に書き直したりなど、順風満帆とまでは行かないにしても、打率はそこそこ高かった。
 自分以外の歌い手を想定しての楽曲製作を通して、みゆきは言葉の表現テクニックを学ぶことになる。
 みゆきというフィルターを通して、又は第三者の歌い手を通して世界観を表現するためには、ある種の翻訳作業が必須となる。独りよがりの言葉では、大衆の耳を惹きつけることはできない。
 自身の過去の体験だけではネタも尽きてくるし、誰々っぽい感じの歌で書き続けても、すぐに底の浅さが露呈する。毎日刺激的なイベントばかりの人生なんてのは、ありえない。新しい歌を書き続けるために必要なのは、新たな経験ではなく、オリジナルの視点だ。
 拙い実体験や情景描写が主だった初期と比べ、『あ・り・が・と・う』からは、他者との意思疎通、または齟齬をテーマとした楽曲が増えてゆく。郷愁や疎外感は変わらぬテーマであることに変わりはないけど、歌謡曲のフォーマットをモチーフにすることによって、共感しやすい具象性が強くなっている。
 借りものではない、リアルな言葉は曖昧な音には馴染まない。深層から掘り出された言葉は、じっくり練り上げた音を希求する。
 エジソンたちの音は、もう必要ない。

140510-13

 アマチュア時代の蓄えで作られた初期2枚は、原石としての輝きを秘めている。秘めてはいるのだけど、結局のところは素人の延長線上に過ぎない。周囲のプロがどうにか形に仕上げた、アマチュアの習作だ。このままで行けば、多くのポプコン・アーティスト同様、泡沫的な存在としてフェード・アウトしていった可能性もある。
 『あ・り・が・と・う』を作るにあたり、みゆきはエジソンたちとの関係を解消、新たなメンツをスタジオに集め、積極的にサウンド作りに参加することになる。基本はみゆきのギターと歌を軸にしているため、アレンジといっても控えめなものである。ただ、歌はジャマしない程度、そしてベタな歌謡曲臭さはなくなった。下世話なホーン・アレンジは、みゆきの声にはあんまり合わないしね。
 しかし、参加メンツの濃さといったらもう。教授に吉田健だもの、なんでオファー受けたんだろ、この2人。


あ・り・が・と・う
あ・り・が・と・う
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1. 遍路
 空間的なプログレ感満載のイントロからして、これまでの歌謡フォーク調とは一線を画したアレンジ。聴くたびにいつもサイモン&ガーファンクルの「ボクサー」を連想してしまうのは、きっと俺だけじゃないはず。
 花をくれた人は体を壊して長期入院、ラブレターを送った相手には公衆の面前で読み上げられて恥をかく。その後もヒモ同然にたかられるわ軽口のお世辞を真に受けてしまうわで、恋愛であまりいい思いをしていない様を、淡々と綴る。重苦しく歌うとシャレにならない重い遍歴を、浮遊感漂うサウンドで包み込んでいる。このコントラストは正解だったんじゃないかと思う。

 帰ろうと言う 急ごうと言う
 うなずく私は 帰り道も
 とうになくしたのを 知っている

 行き止まりもあれば、回り道もある。でも、振り返る道はないこと、また戻る気もないことも、同時に示唆している。
 それでもまだ、信じていたい。そう思わずにはいられない。その気持ちが切れると、人は生きることさえやめてしまう。

2. 店の名はライフ
 北大正門近くに実在したという、喫茶店「ライフ」をモチーフとしたスローなカントリー・タッチのバラード。やはり教授のプレイが光る光る。多分、そんなにやる気もなかったんだろうけど、でもきちんとみゆきの新たな側面を浮き立たせるプレイとして成立してしまっている。才気煥発って、この当時の教授のためにあるような言葉だよな。
 ちょっと息を抜いたみゆきのヴォーカルも、一聴するとあっけらかんとしてるけど、案外細やかなテクニックも披露している。テーマに合わせて歌い方も変えるフォーク・シンガーなんて、そんなにいなかった。

 店の名はライフ 三階は屋根裏
 あやしげな 運命論の行き止まり
 二階では 徹夜で続く恋愛論
 抜け道は左 安梯子

 深読みすればキリがないけど、割とストレートに当時の状況を描写している。北大近くにあった藤女子大に通っていたみゆき、北大とも交流があったわけで、ピークは過ぎたけど、何かと物騒な時代だった。その後も「世情」や「ローリング」など、この時代を題材とした楽曲を世に問う機会がたびたび訪れる。そういえば、最近はないな。

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3. まつりばやし
 デビュー直前に亡くなったみゆきの父を主題とした、切ない感情を抑制して綴った楽曲。北海道民なら、ローカルCMで流れたことを記憶している人も多い。まつりの後の静けさや寂しさを、詞・曲とも重くなり過ぎずにサラッとまとめている。これがエジソン演奏だったら、もっとドロッとしたバラードに仕上げられていただろう。

 肩にまつわる 夏の終わりの 風の中
 まつりばやしが 今年も近づいてくる

 もうこれだけで、この曲すべての感情や情景が凝縮されている。去年までのまつりは、もう来ない。遠くから聞こえてくるまつりばやしは、いつもどこか切なさを含む。

4. 女なんてものに
 女性の立場の弱さについて、以前はどこか直接的な表現を避けていた(または書く術がなかった)みゆき、ここではきっぱり直接的な言葉で、男に対して意思表示を明確にあらわしている。これも歌謡界への楽曲提供を重ねた成果だろう。
 ひねりの少ない歌詞は、ダイレクトでインパクトが強い。アレンジもフォーク成分はほぼ皆無、純然たる歌謡曲といってもいいくらい。なので、もしかしてちあきなおみに書いたけどボツになった曲?と勘ぐってしまう。なのでこれ、ちあきなおみヴァージョンで聴いてみたいところ。もう無理だけど。

5. 朝焼け
 なので、教授が参加したボサノヴァ・タッチのこっちの歌詞の方が、洗練された仕上がりになっている。同じ歌謡曲タッチながら、教授のエレピが入るだけでアレンジの柱がしっかり立っている。アンサンブルに満足しているのか、みゆきのヴォーカルも余裕ありげ。つまんないオケを、情感たっぷりのヴォーカルで無理やりボトムアップすることもないので、艶立ちが違っている。
 サビのメロディが桜田淳子っぽいなと思ってたら、後年になってカバーしていた。

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6. ホームにて
 シンプルなアルペジオ主体の地味な小品ながら、ファンの間では根強い人気を誇る楽曲。「時代」や「わかれうた」のように誰でも知ってる名曲とは対極にある、自分だけがひそかに愛聴していると思ってたけど、その「自分だけ」の数がかなりの数にのぼるため、ファン投票すればかなりの上位に入ると思われる。
 穏やかな郷愁と憧憬を交えた、都会の喧騒に疲れた女性を描いているのだけど、シンプルな設定な分だけ、様々な解釈が成されている楽曲として、いまもいろいろな主張や意見が飛び交っている。「中島みゆき ホームにて」で検索すると、それぞれ思い思いの「ホームにて」が語られていて、なかなか興味深い。
 
 「ふるさと行きのキップ」を「空色の乗車券」と表現しているように、東京と比べて田舎の空は高く、とても青い。ふるさとでは、見上げれば青い空が見えていたけど、都会の空はいつも白っぽく、ビル街に切り取られて狭い。
 都会では、足元ばかり見がちだ。ふるさとの空なんて、どこにもない。でも、ふるさと行きの汽車がとても青く、かつての空の色を思い出した。ふるさとは遥か向こうだけど、この汽車はつながっている。そう思うと、キップさえ青く透き通って見える-。

 この曲を聴くと、そんな情景を思い描いてしまう俺なのだった。
 
7. 勝手にしやがれ
 淡々と紡がれるカントリー・タッチのゆるいメロディで歌われるのは、へそ曲がりの自己中女の独白。どうしようもなく好きなんだけど、でも面と向かえば素直になれず、ついついひねた言動を放ち、で、あとでちょっと後悔。「あんたのわがままが欲しい」とか言ってるけど、でもほんとは、わがままをきいてもらってるのは、自分のほうだった、と。別れてから気づいても遅いんだけどね。でも、変われないんだよな。

8. サーチライト
 昔の刑事ドラマのBGMに合いそうな、ちょっと気だるいムードのブルース。やたらノリのいいホーンがアクセントとなって、心地よいB級感を演出している。フラれて嫉妬に狂う女の情念は重いのだけど、軽快なブルース・サウンドがうまく中和している。
 同じメソッドで書かれたのが「わかれうた」であり、なので、この曲はプロトタイプと言ってもよい。

ダウンロード

9. 時は流れて
 ラストは7分に及ぶ長尺バラード。曲調やテーマによって、様々な表情を見せてきたみゆきだけど、ここではかなりの部分をさらけ出している。ヴォーカル・スタイルも、きっとこれがみゆきの素なのだろう。若干上ずり気味に、時々言葉を詰まらせる場面もあったりして、自己演出の部分はほとんどない。
 恋愛体質という言葉ができる前、70年代のみゆきはかなりこじらせた恋愛体質だったことは、この曲から窺える。常に誰か対象がいなければ、落ち着かない。それは、素の「中島美雪」だけでなく、アーティスト「中島みゆき」も同様だ。常に誰かに恋い焦がれていなければ、歌を作ることができない、と。
 この恋愛体質によるソング・ライティングはしばらく続く。それは精神的な安定とともに、アーティストとして生きていゆくための術でもあった。ただ、そんな生き方は日々の活力でもあったけれど、同時に心を削る作業でもあった。そんなやり方は、いつまでも続かない。
 張りつめた糸のテンションはピークに達し、そしてみゆきはもっと赤裸々な歌を吐露することで、そのメソッドを一旦捨てることになる。
 その歌は―、
 「うらみ・ます」。



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北海道の中途半端な田舎に住む、そろそろアラフィフ男。不定期で音楽ブログ『俺の好きなアルバムたち』更新中。ただでさえ時間ないのに、また新しい音楽ブログ『80年代の歌謡曲のアルバムをちゃんと聴いてみる』を始めてしまい、どうしようかと思案中。
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