好きなアルバムを自分勝手にダラダラ語る、そんなユルいコンセプトのブログです。

#Rock : Japan

ストリート・スライダーズ 『Nasty Children』


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  マジか。スライダーズが再びステージに立つ。ただ、これが本格的な活動再開なのかどうか。
 -と、実は春頃に書き出して、大方書き終わっていたのだけど、ズルズル引き伸ばしてるうちに武道館はおろか、ライジング・サンも終わってしまった。いつの間に月日は流れ、ただいま全国ツアー真っ最中。すっかりタイミング逃してしまった結果、今に至る。
 現時点で唯一のニュースソースである公式サイトでは、ツアー詳細やグッズ物販など、ほぼ業務連絡のみで、至ってシンプル。よくあるツアーメンバーの集合写真や動画メッセージなんてのは、一切なし。相変わらずの無愛想ぶりだ。
 多くのファンからすれば、再結成自体が奇跡だったため、メンバー自ら情報発信するなんて誰も期待してなかったし、そういう意味で言えば予想通り、逆説的にファンのニーズに沿ってはいる。そんな中、饒舌とは決して言えないけど、ジェームスと蘭丸は時々、X(旧Twitter)でつぶやいていたりして、時代の変遷を感じたりするのだけど、孤高のハリーは相変わらず。逆に饒舌だったら、それはそれで、なんかイヤ。
 ここ数年、ハリーのソロでズズとジェームスが客演したり、ほぼ四半世紀ぶりにハリーと蘭丸によるJOY-POPSが再結成ツアーしたりで、徐々に再結成の機運が高まりつつあったのは確かである。ただ2020年、ハリーが肺ガンを発症して長期休養に入ったため、それどころではなくなってしまう。
 その後、体調も徐々に回復し、いつも通りのマイペースでソロ始動、どうにかスケジュール調整やら根回しやらが済んで、このタイミングでの再結成となった。いくら周りがどうこう言ったり動いたとしても、結局はハリー次第なのだ、このバンド。
 傲慢なワンマンではないけど、ハリーが「また一緒にやる」と言えば、周りはせっせと動いてしまうのだ。だって、また見たいから。
 いまのところ、ツアーファイナルは10/26大阪で、追加公演の予定はなさそう。実はメンバーの中で最もアクティブに活動しているのがジェームスで、11月からライブハウス・ツアーが予定されている。
 スライダーズ再結成以降、5月武道館から8月ライジング・サンまで中途半端なブランクがあったのだけど、この間にもジェームス、地方中心にライブハウスを巡っている。おそらく彼のツアーが先に決まってて、それ前提でスケジュール組んだんじゃないかと思われる。フロント2トップじゃなくて、ジェームスがキーパーソンだったなんて、人生ってやっぱわかんない。
 正直、ソロツアーをキャンセルしてスライダーズでやった方が、集客も収益も段違いなはずだけど、あくまでソロ活動優先という方針が徹底していることが、この活動状況から見えてくる。蘭丸あたりはおそらく、麗蘭以外は全部すっ飛ばして、スライダーズに専念したいんだろうけど。
 今後は多くのベテラン・バンド同様、各自ソロを優先、何年かに一度、スケジュール合わせて短期集中で活動し続けてゆくのだろうか。今どきは「解散」って言い切るより、「長い長い活動休止→適当な頃合いで再始動」ってパターン多いし。
 ジェームスのソロツアーが11月いっぱいまでなので、年末にまた何か動きがあるかもしれない。フェス関連で考えられるのがカウントダウン・ジャパン、またはニューイヤー・ロックフェスといったところ。
 WOWWOWが武道館生中継を仕切っていた流れから、長期密着してるかもしれないし、いろいろ妄想は尽きない。一回くらいシャレでテレビ出演、例えばMステかSONGSあたりが、ダメもとでオファーしてみるとか。もうしてるのかな。

 1990年、10枚目のスタジオ・アルバムとして、『Nasty Children』がリリースされた。特別、ヒットシングルが収録されているわけでもなく、ドラマCMのタイアップも、当然あるわけがない。
 いくつかの音楽雑誌でのインタビュー程度のプロモーションだったにもかかわらず、オリコン最高12位と、なかなかのチャートアクションを記録している。ユーミンバブル真っ只中の百花繚乱なラインナップの中、無骨な彼らのサウンドは、明らかに異色だ。よく売れたよな。
 ライブ動員も好調で、フェスに出演したらメインアクト待遇、CDセールスも安定していたのだけど、地味目な楽曲中心で構成されたこのアルバム以降、メディア露出も少なくなってゆく。おそらくハリーの意向が強く働いたのか、ライブ中心にシフトしたのも束の間、次第に活動ペースもスローダウンし、第一線からフェードアウトしてしまう。
 約5年の沈黙を経て、スライダーズは最期の力を振り絞って、2枚のスタジオ・アルバムを残す。でも、そこまでだった。

 そんな彼らの活動経緯をザックリ分けると、おおよそ3期に大別される。
 ① デビュー〜『天使たち』まで
 ② それ以降〜1度目の長期休養
 ③ 活動再開から解散まで。

 細かい線引きするとキリがないけど、ファンもメディアも、だいたいこんな印象なんじゃないかと思われる。ズズの骨折やら夜ヒット出演やらJOY-POPS始動やら蘭丸ソロ活動やら、いろいろな角度での節目はあるのだけど、厳密にしちゃうとめんどくさいしわかりづらいので、その辺は割愛。
 ① 「初期ストーンズのフォーマットを借用してるけど、むしろブルース要素の強いガレージパンク」が出発点。地道なライブ活動によってバンドの演奏レベルは向上、また各メンバーの音楽嗜好が楽曲に反映されて、ブルース一辺倒からの脱却が垣間見える。
 「粗暴な荒々しさ」っていうか、ほぼそれしか印象にない『SLIDER JOINT』から2年強で『夢遊病』に行き着いてしまった彼ら。楽曲のベーシックな部分は大きく変わってないけど、ドラッグのトリップ状態を想起させるダウナーなテイストは、のちのUS音響派に直結している。そこまではちょっと盛りすぎだけど、同時発生的にアメリカ・インディーでもその萌芽があったのは確か。
 ②  名実ともにスライダーズ黄金期。固定ファンに支えられてライブ動員もレコードセールスも増え、当初から不変だったふてぶてしいキャラが、この辺から浸透してゆく。
 外部プロデューサーやスタジオミュージシャンの積極起用によって、従来のベーシックなロックコンボにホーンやシンセが加わり、ライトユーザーにも敷居が低くなっている。2023年現在もライブ定番であり、認知度の高い「Angel Duster」「Boys Jump the Midnight」は、うっすら耳にしたことのある人も多いはず。
 この時期のネタを引っ張ると長くなるし、以前まとめて書いてるので、できればこっちを参照。




 アクは強いしとっつきづらいし、話しかけてもロクな返事が返ってきた試しがない。とはいえ、まったく浮世離れしてるわけでもなく、おそるおそる頼んでみれば、大抵のことはやってくれる。
 表情は計りづらいけど、案外悪い気はしてなさそう。まぁ相当気は使うけど。
 そんなスライダーズだったけど、この『Nasty Children』前後あたりから、様子が変わってくる。ズズ骨折による最初の活動休止以降、蘭丸のソロ活動が活発になったあたりから、多彩なコンテンポラリー王道路線のレールからはずれ、粗野で朴訥なサウンドへ回帰してゆく。
 周囲の提案を受け入れて、一応付き合ってはみたけど、やっぱ性に合わないのを自覚したのか。もともとハリー、メジャーデビューに前向きじゃなかったし。

 書き下ろした曲をメンバーに聴かせ、アンサンブルを揃える。ライブでやってみて反応見ながら、またリハで、いろいろ直したり削ったり足したり。そうやって少しずつ、レパートリーを増やしてゆく。
 できるだけライブのテンションそのままで、レコーディングに挑む。客前じゃないため、調子合わせるのでまたひと苦労だけど、現場でまたいろいろ試したり。
 完パケした素材をもとに、またライブで調整してみたりアドリブかましたり。初期のスライダーズは、そんな好循環ループが成立していた。手間も時間もかかるけど、結局のところ、それが一番効率がいい。
 人気も知名度も上がってゆくに従って、ライブ本数も会場もスケールアップしてゆく。本人たちの知らないうちにスケジュールがどんどん埋められ、余裕がなくなってくる。
 ふとした合間にギターをいじる余裕も少なくなり、制作ペースも落ちてくる。とはいえ、アルバムのリリーススケジュールは決まっているため、スタジオ入りするギリギリまで苦心惨憺し、どうにかこうにかひねり出す。
 スタジオ入りしてもできてない場合もあり、そうなると、いろいろ妥協せざるを得ない。ライブやリハで試すプロセスはすっ飛ばされ、充分練り上げられないまま、録って出しが当たり前になる。
 楽曲のクオリティが落ちたわけではない。たとえハリーがちょっとスランプだったとしても、そこはバンドの強み、どうにか形にはなる。
 ただ、ハリーが頭の中で描いていた仕上がりとは、微妙に違ってくる。いくら気心知れているメンバーとはいえ、本当のところは誰もわからない。みんな自分のことでさえ、隅々までわかってるとは言い切れないのに。

 前作『Screw Driver』以降、スライダーズのリリース・ペースは落ち、主にライブ主体の活動にシフトしてゆく。アルバムリリース→プロモーションツアーの円環ループを、おそらく自らの意思で断ち切った彼らはその後、ひたすらステージに立ち続けた。
 エピックとのリリース契約もあるから、いくらかはスタジオに入って音合わせしたり、デモ作成くらいはしていたのだろうけど、思うような形にならなかったのかもしれない。幅は広がったけど、深みが足りない。または、その逆かもしれないし。
 で、『Nasty Children』。長期休養に入ること前提で作られたのか、素っ気なく先祖返りしたような楽曲で占められている。
 以前のような引きの強いキラーチューンはなく、ロックコンボの原点に返ったシンプル・イズ・ベスト。キャリアを重ね、いろいろ潜り抜けた後でしか出せない熟練の深みはある。あるのだけれど。
 ハリーが抱えている闇はもっと深く、もっと暗かったのかもしれない。




1. COME OUT ON THE RUN 
 軽快なリフから始まるオープニング・チューン。キャッチーで覚えやすいメロディだし勢いもあるけど、重厚なリズムがどっしり地に足をつけて、浮わついた感を抑えている。
 少し前だったら高揚感あるサビメロで盛り上げてブーストかけるところだけど、手前で踏みとどまっている。
 求めている音は、そういうんじゃない。そういうことなのだろう。

2. CANCEL
 やや荒ぶったハリーのヴォーカルが印象に残る、こちらもネチッこいギターの音が煽るブルース・ロック。ライトユーザーへの配慮なんてカケラもない。

3. IT'S ALRIGHT BABY
 「多彩なアルバム構成?何それ?」的なワンパターンのブルース・ロック。前曲より、こっちの方が南部っぽさが強い。
 よく言えば様式美を追求した、シンプルなロックンロールではあるけど、単純な原点回帰ではない。キャリアを重ねたことで、デビュー時とはテクニックも解釈の仕方も違っている。
 伝統芸とはいえ、保守的ではない。単なるルーティンでは出せない音の厚みと重さは、ベテランならではの味。

4. FRIENDS
 ここでちょっとペースダウン。テンポゆるめでしっとりした、でもちゃんとロックンロールとして成立しているナンバー。
 切ないしっとり感は「ありったけのコイン」っぽい得意のアプローチだけど、ここではもっとカラッとした無常感、「歌はただの歌」という刹那さに満ちている。一時、ハリーの描く歌詞が深読みされたり意味性を深掘りする風潮があったのだけど、そういうめんどくさい外部の雑音を一笑に付してしまう潔さが、全編に流れている。 

5. LOVE YOU DARLIN'
 「レゲエ・ビートを取り入れたロック」じゃなくて、ロックバンドがプレイするルーツ・レゲエ。空虚でありながら重いリズムは、異様な存在感を放っている。
 日本のアーティストがレゲエにアプローチする際、大方はゆるく享楽的なビートにフォーカスする場合が多いのだけど、彼らの場合、当然だけどそんな陽キャな側面は見られない。通常セオリーである8ビートやファンクではなく、質感の違うリズムを選んだ必然が見えてくる。

6. THE LONGEST NIGHT
 ほぼ3コードで押し通した、シンプル極まりないロックンロール。ほんと愛想はないけど、この時期の彼らの本質に最も肉薄している。
 解釈のしようがないベタな歌詞や凝った捻りのない演奏など、結局、ハリーが志向していたのは、こういったサウンドだったんじゃなかろうか。偉大なるワンパターンを繰り返すことで、幅より深みを目指す。
 ひたすら愚直に基本パターンを繰り返す演奏。その円環の果てには、理想のサウンドが見えてくるのかもしれない。

7. ROCKN'ROLL SISTER
 そんなトラディショナルなルーツロックの深みに足を踏み入れながらも、現世との橋渡し的な役割を担っていたのが蘭丸だった。積極的に新たなアプローチをバンドに持ち込み、スライダーズがカビの生えたブルースもどきバンドに陥らなかったのは、明らかに彼の功績である。
 あるのだけれど、でも正直、彼のヴォーカル・ナンバーは…。歯切れ悪い物言いになってしまうけど、まぁそういうことだ。ハリーのちょっとひと息タイム的に、アルバム・ライブで一曲程度なら、まぁ。っていうところ。これ以上、言わせるなよ。

8. 安物ワイン 
 このアルバムの中ではメロディも明確で、『Bad Influence』あたりに入っていても違和感ないキャッチーなナンバー。歌詞は深読みしようがないくらい不器用な男のラブストーリーだけど、サウンドの素っ気なさと合わせるなら、このくらいベタでいい。
 無理やりシングル切ったら、そこそこ好評だったんじゃないかと思うのだけど、もうシングル・リリースなんて興味なかったんだろうな、この時期。ジャケット撮影したりPV作ったりで時間取られるより、ライブがしたい。そんな心境だったのだろう。

9. PANORAMA
 ラス前にフッと力を抜いたロッカバラード。おおよそスライダーズ、以前はサイケやファンク・テイストの楽曲があったり、辛うじて「多彩」と形容できる瞬間もあったのだけど、もうこの辺からはロックンロールとバラードの2本立てしかない。
 朗々としたヴォーカルとカラッとしたリズム、無骨だけど憂いのあるギター。たったそれだけだけど、これらが合わさると…、やっぱモノクローム。彩りを求める人たちじゃないけど。

10. DON'T WAIT TOO LONG
 ラストはちょっと趣が違って、このアルバムの中ではポップ寄り。ギターの音も心なしか浮遊感あるし、リズムも軽やか。
 この時代においても、決して新しい音ではなかった。ユーミン・バブルやバンドブームが華やかだった反面、こういったアウト・オブ・デイトな音楽にも、確実な需要があった。
 ヒット曲を否定する気はないけど、こういう音もないと、風通しが悪くなる。





甲斐バンド 『シークレット・ギグ』


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  最初の解散から3年後にリリースされた、甲斐バンド6枚目のライブ・アルバム。すでに解散していたとはいえ、ネームバリューはまだ充分あったはずだけど、オリコン最高31位と地味目のセールスに終わっている。
 メンバー4人がそれぞれ制作したミニ・アルバムをまとめたラスト作『REPEAT & FADE』から始まった解散プロジェクトは、当時のミュージシャンのステイタスだった武道館5日連続公演でファイナルを迎え、足掛け12年の歴史に終止符を打った。打ったのだけど、その2日後、マスコミや業界関係者、応募総数24万通の中から選ばれた幸運なファンら1500人を招待して、ごく小規模のライブ・パーティが開催された。
 甲斐バンドとして、“ほんと”の「最後」の『最後』となった演奏を収録したのが、この『シークレット・ギグ』。その後、事あるごとに何度も再結成するとは夢にも思ってなかった俺は、その貴重な音源を何度も繰り返し聴き込んだのだった。まだウブだったんだよな、当時の俺。
 会場となった黒澤フィルムスタジオは、名称から察しがつくように、主に映画やTVドラマの収録に使用されており、コンサート会場として使われた例はなかった。調べてみると、この少し後にユニコーンがPV収録しているのだけど、それ以外の使用例は見当たらない。
 大掛かりな舞台装置と緻密に構成されたアンサンブルを柱とした、大規模ステージでの甲斐バンドは、最後の武道館で終止符を打った。前を向いて突っ走り、決して後ろを振り向かなかったバンドのフィナーレとして、最後にたった一度だけ、原点を振り返るー。
 バンドの原点をテーマとして据えるなら、本来は最初にステージに立った福岡のライブハウス「照和」を会場とするべきだったのだけど、すでに時代の役割を終えて閉店していた。いわばその代替案として候補のひとつに挙がっていたのが、都内からアクセスしやすい黒澤フィルムスタジオだった。
 ちなみにこの「照和」、78年に一旦閉店してから91年に営業を再開している。その後、(多分) 再再再結成(くらい)した甲斐バンドは2010年、デビュー35周年を記念して、3日間5回のライブステージを敢行している。彼ら的にも「収まり悪い」って感じてたんだろうな、長らく。

 確かに「きれいなバンド・ストーリー」としてまとめるなら、「照和」をラストに持ってくるのが正解なのだけど、当時の彼らの勢いからして、正味60席程度のライブ喫茶を会場に選ぶのは現実的ではない。東京から遠いし狭いし、いくら盛ったって音響クオリティは望むべくもないし。
 いわば「照和」の代替案としてスタートしたのが、黒澤フィルムスタジオ・プランだった。その後も類例を見ない立食パーティ形式も、言っちゃえば後付けだけど、結果的には良い方向へ作用した。
 普段とは勝手が違う会場の仕様、客席もステージも全員フォーマル・スタイルという異質のライブ空間を演出・記録するためには、映像撮影スタジオは当時の最適解だったのでは、といまにして思う。もし「照和」で撮影できていたとしても、当時の機材・技術スペックでは、ざっくりした記録用以上のクオリティには仕上がらなかったろうし。
 もともと映像前提の企画だったにもかかわらず、ちょっと忘れかけた頃にこの音源が先に出たきり、長らく映像が発表されることはなかった。解散プロジェクトの記録映画として制作された『HERE WE COME THE 4 SOUNDS』でその一部が収録されていたため、いつか完全版がリリースされることが待望されていた。
 2008年のDVD『DIRTY WORK』にて拡大版が収録されはしたけど、完全版ではない上、他ライブ映像との抱き合わせだった。なんでこんなはしょった形で、しかもお得な詰め合わせ形式でリリースしてしまったのか。
 ぶっちゃけた話、「どうせコアなファンしか買わねぇんだから、完全版で単体リリースした方がよかったんじゃね?」とボヤきたくなってしまう。安直な企画盤乱発するくらいなら、映像アーカイブ整理しとこうよ。そっちの方が需要多いはずだし。
 なぜ、20年の長きに渡って、映像素材が手つかずのままだったのか。あくまで推測だけど、もっと早い段階で何らかの形、タイミング的には解散から1年後あたりで、映画orテレビでの映像公開→ビデオ発売という素案があったんじゃないか、と。
 ゲストの権利関係や、メンバーのスケジュール調整が進まなかったりその他もろもろで、映像プロジェクトが進まなかったんじゃないか、という仮説。そんなこんなで3年引っ張ったけど見通し立たなかったため、比較的軽微な作業で進められる音源リリースをもって、フェードアウトしちゃったんじゃないか、と。
 もうひとつの可能性として、前述『HERE WE COME THE 4 SOUNDS』を予告編として、CD/ビデオ同時発売もアリだったんじゃね?というのも。83年リリースのライブ『Big Gig』が同様の販売形態だったため、前例がなかったわけではない。
 ちなみにこの『Big Gig』、現在の東京都庁建設前空き地で行なわれ、TVとFMでも特番が組まれている。しかもそのメディア素材すべてがミックス違いという、過剰に力入れ過ぎた企画なのだけど、そんな意気込みがお茶の間やライトユーザーには届かなかった。そりゃそうだよな。
 そんな『Big Gig』の前例が逆に仇となって、同時発売に二の足踏んじゃったのかもしれない。

 黒澤フィルムスタジオ収録から間もなく、最後の武道館ライブを収録した『Party』がリリースされた。6/29ライブ終了→7/31発売だから、入念な前準備があったにしても、相当の突貫作業があったと予想される。
 感動の余韻冷めやらぬうちに、怒涛の人海戦術で『Party』は店頭に並べられ、オリコン最高4位と、スタジオ作品と遜色ないセールスを記録した。LPとシングルEPの袋詰めだけでも充分な手間なのに加え、特製ギターピックを表ジャケットに1枚1枚貼り付ける作業は、パン工場のライン作業にも匹敵する苦行だったことだろう。
 その後も『HERE WE COME THE 4 SOUNDS』の編集やら何やら、細かな付随作業はあったのだけど、それと並行して甲斐よしひろがソロ活動準備に入ってしまう。バンド末期からすでに「ポスト甲斐バンド」的なサウンド・アプローチに傾いていた彼にとって、目線の先はもうずっと先にあった。
 潔いほど前向きだったゆえ、過去の栄光を懐かしむ言葉を放つには、まだ早すぎた。幕は下りてしまったけど、ノスタルジーと言い切るには、まだ生々しかったー。
 それから時を経て、1989年。甲斐をはじめ、他メンバーのソロ活動も順調だった頃に『シークレット・ギグ』はリリースされた。
 一応リリースはされたけど、メンバー誰も積極的ではなく、目立ったプロモーションは行なわれなかった。フロントマンである甲斐が取材を受けていたかもしれないけど、そんな前のめりではなかったはず。
 無理にこじつければデビュー15周年と言い切ることもできたかもしれないけど、それもちょっと強引過ぎた。要するに、エラい中途半端なタイミング。
 ゲストを招いてのデュエットもあるし、カメラ配置や照明プランの兼ね合いもあって、まったくのノープランだったとは思えないけど、ある程度融通のきく、フワッとしたセットリストに基づいて、ライブは進められた。往年のナイトクラブの再現を狙ったシチュエーションでありながら、カバー曲やゲストとのデュエットも織り交ぜたりして、彼らにしては肩の力が抜けたラフなムードが伝わってくる。
 とはいえ冗長なインプロやMCがあるわけでもなく、どの曲もきっちりした事前リハの上、吟味された構成で演奏されている。その辺は妥協しないし、アドリブかますタイプじゃないんだよな、このバンド。
 このライブに限った話ではないけど、NY3部作以降の楽曲はレコード音源と大差ないため、意外性はそんなにない。まだライブ優先だった初期と違い、末期はレコーディングで練られたアンサンブルの再現となっていたため、ライブ用リアレンジの余地が少なくなっていたせいもある。
 70年代ロック/フォークの定番であるニール・ヤングはまだ予想の範囲として、一貫してストーンズ派とされていた裏をかいてのビートルズ、接点が見えずまったくノーマークだった柳ジョージ&レイニーウッドなど、カバーの人選も多岐に渡っている。「Helpless」はともかく、「Two of Us」のカバーは古今東西かなりレアだし、そういう意味においても範囲は広い。
 オリジナルのアレンジがシンプルだった初〜中期の楽曲の方が、解釈のスキルが上がったこと、単純に演奏回数が多かったことでヴァージョン・アップしていたりして、聴きどころは多い。後期楽曲も打ち込み主体の楽曲ではなく、バンド・アレンジと相性の良い「キラー・ストリート」を選ぶあたりは、ライブのコンセプトとを考慮したはず。
 多くのサポート・ミュージシャンに支えられているとはいえ、ライブバンドとしてのポテンシャルが落ちていたわけではない。単純な洋楽コピーを超えて、まだ日本には根づいていなかった「ハードボイルド」という視点コンセプトを加えたことで、バンドのオリジナリティは強靭さを増していった。そのドライな質感をサウンドで表現するためには、相応のテクニックを有する職人の才覚が必要だったわけで。
 この時点での甲斐バンドは、緻密なスタジオワーク/肉感的なライブ・パフォーマンスとも、高い水準に達していた。「キャリアのピークで潔く散る」という選択肢以外に、2、3年ほど活動休止してリフレッシュの上、再結集するのもアリだったんじゃなかろうか。
 まぁ当時のスタッフも、そんなプランで踏みとどまらせようとしたのだろうし、頑なに首を縦に降らなかった甲斐の覚悟も想像できる。「その先」を見て聴いてみたかった気はするけど。
 なので、このアルバムも『Party』同様、あまりブランクを置かずにリリースしていれば、また評価も変わっていたのでは、と勝手に思う。まぁ年内だったら『HERE WE COME THE 4 SOUNDS』とかぶるし、そこを外したとしても、年明けてすぐに甲斐のソロデビューが控えているし、そんなこんなでタイミングを逸した末、3年後となったわけだけど、微妙な今さら感は否めない。
 『シークレット・ギグ』がリリースされた89年、ロック/ポップスのバリエーションが一巡した海外では、やたら枚数の多いボックス・セットや未発表ライブの発掘など、アーカイブ・ビジネスが確立しつつあった。対して、歴史もリスナー層もまだ充分育っていなかった日本では、まだ時期尚早だったし、ノウハウを持つ者もいなかった。現在進行形で消費する/させることで、いっぱいいっぱいだったし。あ、1人いたわ、大滝詠一。
 3年なんて中途半端じゃなく、頃合い見て10年くらい経ってからの方が、その後の扱いも違ってたんじゃないだろうか。今後再発するんだったら、やっぱCD/Blu-rayのセット売りしかないな。もちろん完全版で。




1. キラー・ストリート
 実質的に甲斐バンド最後のアルバム『Love Minus Zero』収録曲からスタート。実際のライブでもオープニングナンバーとなっている。
 前述したように、ほぼCD音源と同じアレンジ・構成なので、そんなに意外性はない。ただ、この時期の日本のメジャーなロックバンドで、ファンク・テイストを盛り込みながら、こういった洗練されたスタイルのサウンドは、唯一無二だったんじゃないか、と思う。
 土着的なスワンプか、クラプトン・リスペクトなブルースの二択しかなかったファンク+ロックから一皮むけた、甲斐言うところのハードボイルド・ロックの完成形。ひとつの到達点というべきサウンドなので、再構築するには時間が足りなかった。

2. SLEEPY CITY
 『Gold』に収録されていた、ちょっとマイルドなストーンズタイプのロックチューン。全体的にポップ路線に傾倒した時期の作品なので、ディスコグラフィーの中ではやや地味めの扱いだけど、コンテンポラリー=王道を志向していると言う視点で見ると、バラエティ感もあって飽きないアルバムでもある。
 おそらく極力『Party』とかぶらないように選曲されているんだろうけど、ライブではやっぱ地味なんだよな、この曲に限らずだけど。

3. 東京の冷たい壁にもたれて
 実質的なデビュー・アルバム『英雄と悪漢』収録、初期の人気ナンバー。初めて聴いた時は気づかなかったけど、イントロがゾンビーズ「ふたりのシーズン」そっくりだな。歳を経るごとに気づくことって多い。
 一夜のアバンチュールを真に受けた、未練タラタラな男は、まだ都会に馴染めず虚ろな表情を隠しきれなかった。それから12年を経て、強靭な精神と肉体を獲得した男の声から、曖昧な響きは聴こえない。
 人はそれを、成熟と呼ぶ。

4. ジャンキーズ・ロックン・ロール
 ホンキートンク・スタイルで泥臭い、タイトル通りの直球ロックンロール。下世話一歩手前で踏みとどまるアンサンブルは、初期エアロスミスを彷彿させる。
 ライブで盛り上げやすく遊びも入れやすい、いろいろと便利なチューンではあるけど、ライブのメインとするには、クセが足りない。こういったサウンドを突き詰めてゆく方向性もあるにはあったけど、彼らが目指していたのはそこじゃなかった。

5. HELPLESS
 海外ではディランと肩を並べる知名度・ポジションであるにもかかわらず、日本ではイマイチ知られていない、そんなニール・ヤングの代表曲を弾き語りスタイルでカバー。アレンジが「天国の扉」っぽいけど、こういう曲って、どうしてもこんな感じに落ち着いてしまうのはやむを得ない。
 アルバムのプロモーション・ツアーという性質上、これまでのライブは持ち歌中心だったけど、いわばアンオフィシャルな場であるがゆえ、ここではプライベートな顔で好きな歌を披露している。冒険するシーンは当然ないけど、演奏はきっちり仕上がっている。

6. 港からやって来た女
 このライブのハイライトであり、いまだベスト・バウトと語り継がれている、「今夜最高のクイーン」中島みゆきが登場。薄手のパーティドレスに真紅のローヒールで颯爽と登場、クリスタルのエレキギターをかき鳴らしながら、堂々としたヴォーカルを聴かせている。
 このみゆきのテイクについてはさんざん語り尽くされているので、今さらつけ加えることもないけど、敢えて言うならアレンジのボトムアップ感が飛び抜けている。全般的に音圧薄めだった初出スタジオ音源に比べ、気迫のこもった演奏ぶり。
 冷静に考えれば現実感希薄な世界観にリアリティを与えるには、やはりアタック強めの音の壁が必須だった、ということか。っていうか、これくらいじゃないとみゆきには勝てないし。

7. 青い瞳のステラ、1962年 夏
 おそらく観客の多くが「こんな曲あったっけ?」と、少し戸惑ってしまったと思われる、柳ジョージ&レイニーウッドのカバー。1980年にリリースされたシングルだけど、それほどヒットしたわけでもなく、俺も知らなかった。カバー曲のみのソロアルバム「翼あるもの」でもそうだったように、甲斐は隠れ名曲を察知する能力がおそろしく高い。
 カバーの方を先に聴いてるため、ちょっとひいき目になってしまうけど、ハスキーな声質で雰囲気あるけどやや押し弱めなオリジナルより、ザラっとした質感を持つ甲斐のヴォーカルに引き寄せられてしまう。真摯なロックバンドの終焉を飾る、ひと息抜いた一コマとして、アレンジも演奏もヴォーカルも申し分ないんだけど、シティポップ的な軽やかさは、オリジナルが優っている。

8. ランデヴー
 『破れたハートを売り物に』に収録されたロックチューン。一聴すると普通のロックサウンドで、演奏もオーソドックスなんだけど、メロディの譜割りが独特で、ちょっと引き込まれてしまう。
 この時代あたりから歌謡ロック・テイストが薄くなり、キャッチーで覚えやすいメロディラインは後退してゆく。そんな曲調の変化を促したのが、ハードボイルドを志向した、ドライで現実味の薄い歌詞世界。
 まだステレオタイプな書き割り感がにじみ出てはいるけど、これ以降、カタカナ多用のフェイクさは薄れ、逆に起承転結がはっきりしたストーリー性が前に出てくるようになる。「カンナの花の香り甘く漂い」と歌い出す日本語のロックは、新たな切り口だった。

9. TWO OF US
 最後に選んだカバー曲は、ストーンズじゃなくてビートルズだったのは、意外っちゃ意外。ロックの危うく儚い側面を体現するため、わかりやすいストーンズをモデルケースとしていたのだけど、キャラが認知されて以降は、あまり言わなくなった。
 ロックバンド的なアプローチとしては、ポール・マッカートニーよりジョン・レノン楽曲を聴きたかった気もするけど、多分、やりやすかったのかね。全国ツアー〜武道館ファイナルと来て、そんなに音合わせする時間もなさそうだったし。
 なので、選曲的には意外なところついてるけど、演奏プレイは比較的完コピに近い。

10. 悪いうわさ
 オリジナルは3枚目『ガラスの動物園』なので、1976年のリリース。ほぼミック・テイラー期ストーンズのパクリみたいな演奏と歌謡ロックなメロディが貧相に感じられるオリジナルから10年後、音圧も演奏力も、そして甲斐のヴォーカルも段違いにレベルが上がっている。
 同郷の先輩バンド:チューリップとの差別化を明確にするため、ストーンズのダーティなスタイル取り込みに加え、サウンドもまたロック色の濃いアプローチとして、オリジナルはなんと8分調。ギターソロもなかなかの長尺で、その奮闘ぶりは伝わってはくるのだけど、とにかくリズム・セクションを小さく絞ったミックスがたたって、楽曲の良さがスポイルされている。
 ここでのヴァージョンはギター・パートもタイトに的確に絞られ、もちろん音圧も充分。ソロ・パートをどうにか埋めるため、苦心惨憺の結果だったギター・プレイも、リラックスかつ引き出しが多くなっている。

11. 25時の追跡
 ある意味、ラスト・アルバム『REPEAT & FADE』のメイントラックである、ギター大森によるインスト・チューン。実際のライブではもう少し前に演奏されているのだけど、CDではラス前に移動されている。
 アルバム構成的に、ラスト曲のインタールードに適しているため、ベストな編集だったんじゃないかと思う。当時、常夏リゾートの象徴だった高中正義とは対照的に、タイトル通り、人気の少ない深夜のハイウェイを想起させる硬質な響きは、バンドの影の部分を具現化していた。
 ちなみに後年、甲斐が歌詞を後付けしてヴォーカルを入れているのだけど、逆にその雄弁さが暗闇を薄れさせている。影を形容するのに、多くの言葉は必要ないのだ。

12. 破れたハートを売り物に
 実際のライブでも、これがラスト。メンバー全員楽器を持たず一列に並び、ユニゾン・コーラスで歌い切って幕を閉じる。
 テープ演奏が続く中、1人また1人、手を振りながらステージを降りてゆく演出は、潔さを信条とした彼らにとってふさわしかった。変にウェットなメッセージを残すこともなく、いつもと変わらぬテンションでステージに立ち、そして、散る。
 最後であるはずなのに、『Hero』も『安奈』もない。でも、確実にファンのニーズを捉えている。






売れた後は何を目指せばいいの? その先には、何があるの? - レベッカ 『Poison』


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  87年リリース、6枚目のオリジナル・アルバム。デビューから3枚目までは、所属レーベル:フィッツビートの方針で6曲入りのミニ・アルバムだったため、フル・アルバムとしては3枚目になる。
 売り上げ見込みが立ちづらい、いわば育成枠アーティスト専門だったんだよな、このレーベル。大きくブレイクしたのは彼らと聖飢魔IIくらいで、グラス・バレーも宮原学もみんな、売れ線狙う気あんまりなさそうだったし、そもそもレーベル・プロデューサーの後藤次利のソロが、ほぼ趣味全開、キレッキレのジャズ・フュージョンだったし。
 日銭はたんまり入るけど、過密スケジュールでストレスMAXな歌謡曲仕事のガス抜きだったのか、はたまたレーベル立ち上げの箔づけの名義貸し、名ばかり管理職みたいなポジションだったのかも。それはそれで今度、掘り下げてみるか。
 で、この時期のレベッカ、ライブハウスからホール/アリーナ・クラスに格上げされた全国ツアーに加え、テレビ・ラジオのレギュラーやら雑誌のインタビューやらグラビア撮影やら、ほぼ毎月、何らかの形でお茶の間に露出していた。ニッチなコンセプトのレーベルだったにもかかわらず、膨大な不特定多数の一般大衆にも幅広く認知が広がり、このアルバムもオリコン初登場1位、年間でも7位にランクインしている。
 ソニー・グループが80年代に確立した、多角マルチメディア戦略のケーススタディのひとつとなったのが、レベッカの成功だった。それまでロック/ニューミュージック系のプロモーション活動といえば、全国各地のライブハウスを地道にコツコツ回るくらいしか手段がなかったのだけど、彼らのブレイクによって新たなメソッドが確立された。
 メインターゲットを10代の少年少女に定めることで、80年代のソニーはレーベル自体のブランド確立を画策していた。若者ウケするため、「なんかカッコよくしたい」というフワッとしたビジョンのもと、あらゆる手段を講じて必要なインフラを立ち上げていった。
 当時の音楽雑誌の多くは、雑談を適当にまとめたインタビュー記事と、そこら辺で適当に撮られた普段着の写真で構成されていた。そんな近所の音楽好きのお兄さん・お姉さん的な親しみやすさにフォーカスした構成は、それはそれで好感を持てなくもないのだけれど、地に足の着きすぎた身辺雑記が多く、ちょっと食い足りなさが残るものがほとんどだった。
 既存メディアの枠組みでは、思い描くイメージ戦略が実現できないことを悟ったソニーは、自ら出版部門を立ち上げた。きちんとした撮影スタジオとカメラマンによる、凝ったアングル満載のグラビアと、程よくウェットな印象批評を基底としたインタビュー、そしてフワッとした比喩を忍ばせたキャッチコピーを散りばめられた『GB』『PATi・PATi』は、そこまでマニアックさを求めないライトユーザーを幅広く取り込んでいった。
 草の根的な地方へのドサ回り行脚は、この時代でも有効な手段ではあったけど、物理的にも予算的にも限界があった。まだ販促費を充分にかけられない若手を後押しするため、ライブやイメージ映像で構成されたPVを作り、何本かまとめてビデオ・コンサートを催した。北海道の中途半端な田舎のライブハウスでも開催され、そこで初めて小比類巻かおるを知ったのは、もうずいぶん昔の話。
 当時のテレビ歌番組はアイドルと歌謡曲が中心で、よほどヒットしていない限り、ロック/ニューミュージック系アーティストが出演する機会は少なかった。出られたとしてもぞんざいな扱いをされることが多く、それがトラウマで出演拒否するアーティストが多かったのも、この時代。
 なのでソニー、当時アメリカで隆盛だったMTVを範として、アーティストPVをメインとしたテレビ番組を立ち上げた。それが伝説の「ビデオジャム」。当初はデーモン閣下がレギュラー出演してたんだよな。
 オーディオ/ビジュアル系部門において、若者層に絶大な支持を得ていた親会社のイケイケな勢いも、レコード部門の躍進を後押しした。ウォークマンやらドデカホンやら電池まで、少しでも音楽と紐づけられる商品のCMタイアップを積極的に行ない、主に深夜帯に放映されていた「ビデオジャム」より、さらに多くのライトユーザーへの認知を広げた。
 -自分たちにふさわしい環境がないのなら、いっそ作っちゃえばいい。
 そんな清々しいくらい「ど」ストレートな動機のもと、80年代のソニーはありとあらゆるインフラを整え、そしてその戦略がどれも相応の成果を得ている。音楽ビジネスが発展途上だった、そしてユーザーがスレていなかった時代の話である。

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 レベッカがデビューした頃は、まだスタンダードな手法が確立されていたわけではなく、いろいろ試行錯誤•暗中模索の段階だった。彼らをはじめ、尾崎豊や渡辺美里で得た成功事例をもとに、少しずつ整備されマニュアル化されて、のちの世代に受け継がれていった。
 彼ら自身、また制作チームがどれくらい成長ビジョンを持っていたのか。まだ充分に確立されていなかった音楽ビジネスが未知数だったため、目先の自転車操業的なサイクルでしか考えていなかったことは想像できる。
 「レコード・デビューして全国のデカいホールをソールドアウトにして、テレビ・ラジオに多数出演して音楽雑誌の表紙を飾る」。バンドの性格によって多少の違いはあれど、おおよそ多くのアーティストにとって、これらが暫定的な到達目標として設定されていた。
 まぁ本人たちもスタッフも、「志だけは大きく」と思っていたのかハッタリだったのか、「運良けりゃ実現するかも?」的なビジョンだったんじゃないかと思われる。迷走していたベクトルを集約させるためには、誰かが大風呂敷を広げなければならなかったのだ。
 「フレンズ」の大ヒットによって、ブレイクまでの最短距離の道筋をつけたレベッカのサクセス・ストーリーは、ひとつのロールモデルとなった。客席との距離も近く、天井も低いライブハウスからスタートした彼らは、あっちへぶつかりこっちでつまづいたりしながら、着実に歩みを進めていった。当時の邦楽アーティスト・サクセスの終着点となっていた武道館公演も、87年は6日連続開催できるまでになった。
 アルバムを出せばチャート1位は当たり前、人気ランキングでも上位に必ず入っていた。セールスやトレンドリーダーとしてのポジションは、この時点でピークに達していた。
 ただ、バカ売れしたからといって、いきなり絵に描いたようようなセレブスター・ライフを送れるわけではない。清志郎がRC初の武道館ライブ終演後、銭湯の時間に間に合わず風呂に入れなかった、というのは有名なエピソードだ。
 ライブ以外にもスケジュールが埋まって忙しくなり、何となく「売れてる」ことは実感できる。街を歩けば自分達の曲が聴こえるようになり、レコード店でもいい位置にディスプレイされるようになった。あまりいい顔をしていなかった家族にも認められ、なぜだか親類も増えた。時に知らない人から、握手やサインを求められるようになる。
 RCより多くのレコードを売っていたレベッカは、そこそこの報酬を得てはいた。いたのだけれど、過密スケジュールゆえ、金を使う暇がなかった。
 特にフロントマンであり、多くの作詞を手がけていたNOKKOと、作曲担当の土橋安騎夫の負担はハンパなかった。レコーディングに間に合わせるため、作った曲を深夜3時に電話口でNOKKOに聴かせて歌詞を書かせたり、またはその逆、NOKKOが考えたメロディやフレーズを電話で土橋に聞かせて楽曲構成してもらったり、年中綱渡り状態が続いていた。
 アルバムがミリオン超えたりシングルのタイアップが取れたり、いくらライブチケットが秒で完売したとしても、それらはただの数字だ。バンドメンバーのQOLにフィードバックしていたかといえば、それもちょっと怪しい。
 そんなの考えるヒマがないくらい、あらゆる予定が詰め込まれていた。多分、ライブの後に家風呂に入ることはできただろうけど、でもそれだけだった。
 「次は何がしたい」「何が欲しい」と考えられる余裕が奪われていた。
 それが、トップの宿命。そんな時代だった。

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 前作『Time』リリース以降も、レベッカは立ち止まることを許されなかった。当時のセオリーに則り、アルバム・リリースに伴う全国ツアーやプロモーションはみっちり詰め込まれた。
 この時期に武道館6日連続公演を行ない、無数のテレビ・ラジオ出演、音楽雑誌以外からも数々の取材オファーを受けている。その隙間を縫ってレコーディングも断続的に行なわれ、きちんとリリースも絶やさず続いている。
 2月にリミックス・シングル「CHEAP HIPPIES 」、4月にシングル「Monotone Boy」と続き、5月にリミックス・アルバム『Remix Rebecca』と続いている。クリエイター土橋の負担はとんでもないものだったことは予想できる。
 これが大滝詠一だったら、発売延期になっても周りも「しゃあねぇや」って思うだろうし、また実際何度もやってるんだけど、レベッカとなるとシャレが通じない。決算間近の年末にリリース設定されていることから察せられるように、大きな期待と社運がかかっているのだ彼らには。
 実際にアルバムを聴いてみると、仕上がったサウンドから煮詰まり具合は感じられない。盤石の演奏陣と希代の女性ロック・ヴォーカリストによるアンサンブルは、当時の世界レベルに充分達している。
 フェアライトやヤマハDX7に代表される、80年代シンセをメインとしたサウンドの多くは、まだ発展途上のスペックゆえ、チープな音色が嘲笑されることも多々あるのだけど、レベッカの音はそういった線の細さは感じられない。もともとはレベッカ、シンセをメインとしたバンドではなく、ニューウェイヴ以降のポスト・パンク/ガレージがベースとなっているため、ギター・バンドとしてのボトムが盤石なことによる。
 最初にブレイクしたのが「ラブ イズ Cash」だったこともあって、「NOKKO=和製マドンナ」と称されることが多かったけど、バンド全体としてはむしろ、同じ「女性ヴォーカル:男性プレイヤー」という構造を持つブロンディを範としている。キャラ的にはNOKKO、セックス・アピールを前面に出した初期マドンナより、デボラ・ハリーの方がキャラ的にもヴォーカル・スタイル的にも近い。
 マドンナやシンディ・ローパーらのダンス・ポップからインスパイアされたレベッカ・サウンドは、すでに完成の域に達し、本来なら円熟の段階に向かうべきだった。言っちゃ悪いけど、これ以降は過去の自分達の焼き直しでよかったのだ、バンドの精神衛生的にも営業的にも。

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 営業的にもクリエイティヴ的にもピークを迎えたことで目標を見失い、過去のアップデートで対応せざるを得なかった、っていうかクソ忙しい中、結果として「円熟したレベッカ・サウンド」を提示したのが、この『Poison』である。丁寧にプロデュースされたアンサンブルは、インスト単体でも充分成立するクオリティに達している。このインスト・ナンバー、おそらくヴォーカル録り間に合わなかったんだろうな。
 言葉を司るNOKKOの負担もまた、加速度的に増大していた。バンド以外の仕事も多く、創作活動に集中する余裕がなかった。スタジオで最後まで粘って歌詞を書くことも多々あったはずだ。
 「女性をメインとしたロック/ポップ・バンドは、そこまで深い内容の歌詞を求められていない」という誤解が長らくあった。内容やストーリーより、語感を重視していたこともあって、過剰な意味性を避けるのが、暗黙の了解とされていた。
 そんな中、10代のリアルな心象風景をポップなサウンドとシンクロさせたのが、レベッカだった。親子や友人との絆をシリアスなタッチで描いた「フレンズ」は、彼らの出世作となり、時代を超えて今もなお歌い継がれている。
 今まで前例がなかっただけで、実はニーズがあった = そのニーズにうまくハマる作品を最初に明確な形にしたのが、レベッカだった。同じ目線の少女によるリアルな言葉は、10代の少年少女らの共感を強く惹きつけた。
 ただ、アウトプットしてゆくだけでは言葉も細る。身を削るように言葉を綴ってゆく行為は、消耗に拍車がかかる。
 20代半ばのロック少女のボキャブラリーが、そんなに幅広いはずもない。これまでの経験だけで書けるのは、せいぜいアルバム1枚分程度だ。
 見よう見まねで書いてきたポップ・ソングの歌詞も、次第にネタも切れるしテーマも重複してくるし、それよりも何よりも、自分の中でハードルは上がる。
 安直な言葉は軽くなるし、他人には響かない。響いたとしても、それをわかって世に出してしまう自分が許せない。「締め切りに間に合わないから」と言い訳するのは、死ぬことよりもっと辛い。
 重くハードなストーリー展開の「Moon」、多少のフィクションはあるはずだけど、これが普通にヒットチャートに入っていたのだから、当時のアーティスト・パワーの強さが窺える。普通ならネガティヴ過ぎてリテイクされそうなものだけど、それを押し通せるだけの勢いが、当時の彼らにはあった。
 この後、レベッカは長い活動休止に入る。NOKKOだけではなく、メンバーらもまた、限界を迎えていたのだ。




1. POISON MIND
 ライブ映えするオープニング・チューン。シンプルなコード進行とパワフルな演奏、そして水を得た魚のように、縦横無尽飛び回るNOKKO。
 いわば王道、ステレオタイプなライブバンド:レベッカを象徴するロック・ナンバー。シンディ・ローパー成分も多く投入されているけど、イヤここまでのクオリティだったら、むしろ逆だと思いたい。
 長らく洋楽のコピーであることを自認していた日本のロックが、言葉・サウンドともにオリジナリティを発揮できるようになったことを象徴する曲。

2. MOON
 アルバムから2枚目のシングル・カットで、オリコン最高20位。もっと売れてると思ってたんだけど、案外伸びなかったんだな。カラオケではみんな歌ってたよ、情感込めて。
 今では死語となった「不良少女」や「スケ番」というワードが通用していた80年代。ドロップアウトしたティーンエイジャーを描いた歌は、それまでも存在していた。ただ、その多くは「少年/ツッパリ」目線で書かれたものがほとんどで、「少女」の側で書かれたものはほぼ無かった。
 明菜「少女A」が雰囲気的には近いんだけど、あれは明菜自身の言葉じゃなくプロ作詞家の言葉なので、またちょっと違う。あそこで書かれた世界は、「ちょっと拗ねた女の子の不満」を大人目線で、お茶の間にもわかりやすく嚙み砕いて描いたものであり、ニュアンスは微妙に違う。
 社会のルールに馴染めず、万引きや家出でドロップアウトした少女の行く末を、NOKKOはクレバーかつ力強く歌う。情緒的な歌と言葉を支える演奏は、精密なデジタル・ファンクでありながら、ある種の熱を帯びている。
 「MOON」のストーリーは完全なノンフィクションではないだろうけど、リアタイで聴いた当時のティーンエイジャーはみな、ヒリヒリ痛痒い言葉を真摯に受け止めた。多くの少女は多かれ少なかれ、この曲の主人公に自己を投影した。だからカラオケでしょっちゅう聴いたんだな。





3. 真夏の雨
 「NERVOUS BUT GLAMOROUS」のカップリングとしてシングル・カットされた、後期レベッカのバラードでは人気の高い曲。夕立明けの濡れた空気の匂い、そして少女の揺らぐ憂いとがフラッシュバックする、虚ろな情景を見事に描き切っている。
 カットアップした断片をモザイク様に組み合わせた、散文スタイルの歌詞は技巧的ではないけど、触れれば壊れるワードセンスとソウルフルなヴォーカル・スタイルとのギャップが、少女の世界観を引き立たせる。
 ストーリー性を放棄した言葉の綾は、何をしても満たされない少女の抑圧、そして不安/不満を、ほどほどウェットに、かつクレバーにまとめている。多分、松本隆が同じテーマを扱ったら、もう少し整理した起承転結になるのだろうけど、でも彼にこの目線の高さは出せない。それは、まだ少女の面影を残していた、当時のNOKKOの特権なのだ。

4. TENSION LIVING WITH MUSCLE
 パワー・ポップな曲調から、「のんきなスクールライフを適当にノリで描いただけ」と勝手に思っていたのだけど、ちゃんと歌詞を読みながら聴いてみると、全然違った。陽キャやカースト上位とは縁のない、地味な帰宅部らの届かぬ叫びを、NOKKOが丹念に拾い上げている。
 ぽっちゃり振りを先生に指摘された男の子と、クラスに馴染めない女の子。大人に理解を得られないストレスを抱える彼らの叫びを、NOKKOはシンパシーを込めて綴る。「ガンバレ」と励ましたりせず、ただ、歌にするだけ。
 それだけでいい。NOKKOはわかってる。
 気にかけてくれるだけでもいい。傷つきやすい少年少女らにとって、理解者であるNOKKOがこっちを見てくれるだけで充分だったのだ。

5. DEAD SLEEP (Instrumental)
 OMDやトーマス・ドルビーらのUKシンセ・ポップに、ちょっと斜めなプログレ・テイストを足した、そんな亜空間なインスト・チューン。ものすごく気合いを入れて作ったわけじゃなさそうだし、もしかして歌入れが間に合わなかっただけかもしれないけど、結果的にはNOKKO抜きでも充分成立しており、良質のアンビエント・テクノに仕上がっている。
 こういうのをサラッと作れてしまうポテンシャルは、思いつきのフレーズの順列組み合わせとパクリで構成された、他の同時代バンドとの違いが歴然。同時代のフュージョン・バンド:スクエアと肩を並べる完成度を誇っている。

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6. KILLING ME WITH YOUR VOICE
 俺的には「シングル切ってもよかったんじゃね?」と思ってしまう、地味だけど洋楽テイストの濃いアッパー・チューン。マドンナ「Open Your Heart」からインスパイアされてるんだろうけど、いい意味で日本仕様にカスタマイズされている。
 ここでのNOKKOの歌詞は、オーソドックスな王道ラブ・ソングなのだけど、メロディ・アレンジとも高いクオリティで作られているため、シンプルな言葉のパワーが炸裂している。変な小細工なしでも充分勝負できる、そんな無双状態のレベッカのピーク・ハイが、ここで展開されている。

7. NERVOUS BUT GLAMOROUS
 変拍子と転調が縦横無尽に駆け巡り、普通なら演奏もヴォーカルも破綻するはずなのだけど、力技とセンスの両輪でポップに仕上げられた、実はかなり複雑な曲。レベッカ楽器隊のバカテク具合、横綱相撲ぶりを聴くことができる。
 親会社ソニーのミニコンポ「リバティ」とのタイアップが先に決まっており、シングル・カットも念頭に入れて製作されていたはずだけど、よくこんな変則デジタル・ファンク作ったよな。同時代のPINKあたりに刺激されたと察せられるけど、セールス考えるとかなり無謀なチャレンジだ。
 オリコン最高7位は、この頃の彼らとしてはやや低め、それでもベスト10入りしているので、アベレージはどうにかクリア、といったところ。CMソングでありながら、ボーダーぎりぎりのマニアックとキャッチ―な大衆性との両立は、当時の彼らが自らに課したミッションのひとつだった




8. CHERRY SHUFFLE
 時事ネタをあちこち取り混ぜた、ライブ映えするタイプのポップ・ロック。『Wild & Honey』期のアウトテイクみたいなシンプルなアレンジは、アドリブ・パートでいろいろ広げやすそう。
 一般大衆のニーズとして、こういったピリッと辛めの社会批評を混ぜ込んだ、でも肩の凝らないサウンドが最もツボだと思われるし、実際、彼らもNOKKO的にも、この程度ならいくらでも量産できたのだろうけど、そこに留まるわけにはいかなかった。
 愚直にまじめな、彼らの志は高すぎたのだ。

9. TROUBLE OF LOVE
 ラス前のひと休みといったところ、アンニュイなポップ・バラード。CHARAっぽいよなと思ったけど、こっちの方が全然先か。時代的に、ヴァネッサ・パラディからインスパイアされたのかと思って調べてみると、こちらもレベッカが先だった。こっちが本家だったのか?
 いわばインターバルみたいな曲だけど、ロック・スタイルばかりクローズアップされていたNOKKOの別の側面、歌い上げず脱力したヴォーカル・スタイルは、その後のソロで開花することになる。

10. OLIVE
 歌詞中の相手が男なのか女なのか、見方によってどちらでも解釈可能な、広い意味でのラブ・ソング。
 束縛から逃れて暮らす2人、明るい未来が見えたのはほんのわずかで、日が経つにつれ、不安の方がむしろ膨らんでくる。願いを叶えることをゴールとしてはいけない。その後も人は生きていくものなのだ。
 単なるハッピーエンドだけじゃなく、その後の揺れ動く不安もキッチリ書き切ることで、レベッカは王道であることに背を向けた。ただ、そこに触れたことで、新たな切り口を見失ってしまった、とも言える。







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北海道の中途半端な田舎に住むアラフィフ男。不定期で音楽ブログ『俺の好きなアルバムたち』更新中。今年は久しぶりに古本屋めぐりにハマってるところ。
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