多分、誰も興味ないかもしれないけど、2021年現在のフリートウッド・マックの在籍メンバー一覧。
Mick Fleetwood
John McVie
Christine McVie
Stevie Nicks
Mike Campbell
Neil Finn
厳密な意味でのオリメンは、グループ名にも冠されている上2名のみ、男臭く泥臭いブルース・バンドだった初期から一転、真ん中2名の加入によって、大衆性のあるAORポップ/ロックという、現在まで続くフォーマットが確立した。そのサウンドのイニシアチブを主に握っていたのが、スティーヴィー・ニックスと同時加入したリンジー・バッキンガムで、マックの全盛期を確立したのはこの人の功績がとてつもなくデカいのだけれど、この人がまた、何かと抉れてよじれてめんどくさい人で、加入・脱退を繰り返して、今のところは脱退中。
時系列をざっくり書いていくと、1975年加入 → 1987年脱退 → 1996年再加入 → 2018年再脱退、といった流れ。最後の脱退は、永遠のプリンセス:スティーヴィーに粗相をしでかしたらしく、彼女を宥めるため仕方なく、リーダーのフリートウッドが解雇を言い渡した、と伝えられている。お互い70過ぎた大人たちが、一体何やってんだか。
お姫様体質のスティーヴィーの扱いもまためんどくさく、「取り敢えずここは、リンジーに折れてもらう」形で事を納めたことは想像できる。さらに加えてこの2人、マック加入前まではデュオで活動しており、その時すでに男女の関係だった過去もあって、要は痴話ゲンカに周囲が巻き込まれただけなのかもしれない。数十年を経て、焼けぼっくいに火が点いたとは想像しづらいけど、まぁ正直、後期高齢者の色恋沙汰なんて、あんま想像したくない。
ちなみに、リンジー再脱退と入れ替わりで加入した下2名だけど、2018年の全米ツアーで初参加以降、グループは休止状態に入ったため、今は「なんとなく籍だけ置いてる」状態である。多分、本人たちも察してるんだろうけど、限りなくゲスト扱いに近いライブ要員だな。
マイク・キャンベルは、元トム・ペティ&ハートブレイカーズのギタリストで、ゴメン知らなかった。で、ニール・フィンとは、あのニール・フィン、80年代ヒットに詳しい人なら誰でも知ってる、あのクラウデッド・ハウスのニール・フィンである。
1986年、US最高2位をマークした「Don't Dream It's Over」というキラー・チューンを持ち、まだ充分メインで活動できるはずなのに、なんで彼がツアー・ギタリストなんて地味な立場に甘んじてるのか。マイク・キャンベルはまだわかるよ、経歴から見て、前に出るキャラじゃなさそうだし。
その辺が気になるのは俺だけじゃなかったのか、こんな記事が出ている。
かいつまんで言うと、ツアー直前に脱退したリンジーの穴を埋めるべく、最悪の事態は回避したいフリートウッドがあちこち奔走して、どうにかツアーだけでも付き合ってくれるよう請け負ってくれたのが、この2人だった、という顛末。そこそこ名が知れてるんだったら、音楽性なんて何でもよかったんだろうな、フリートウッド。
「とにかく頭数そろえて、ツアー・キャンセルにならなきゃ、万事OK」というバンド側の思惑同様、フィンの方もマックにはそれほど思い入れもないため、このままレギュラー・メンバーの座を死守しようとする素振りは見られない。普通に考えれば、クラウデッド・ハウスよりフリートウッド・マックのツアーの方がスケールは上だし、ギャラだって桁違いだけど、これまでのキャリアとはまったくリンクしない音楽性だし、それよりも何よりも、あの連中と今後も行動を共にしてゆくのは、「さすがにちょっと…」って思っただろうし。
最近になって、フリートウッドとリンジーが和解したというニュースが報じられ、それに対してフィン、彼が戻るんだったら、僕は身を引いてもいいよとコメントを寄せている。うまいこと逃げおおせたな、フィン。
もともと在籍時からずっと、メンバーに「偏屈だ」「頑固だ」「ムッツリだ」と散々けなされながら、結局はマックの活動に勤しんでしまう、そんなドM:リンジー・バッキンガム。この『Tango in the Night』だって、マックの活動休止中にコツコツ進めていたソロ・アルバムの素材をかなり流用しており、その反動が完パケ直後の脱退に繋がっていったんじゃないかと思われる。
ソロ・プロジェクトの準備とマック再始動のタイミングがぶつかっていたことから、当初、リンジーはアルバム制作に深く関わる予定ではなかった。パワー・ステーション・スタジオのジェイソン・コーサロを外部プロデューサーとして招聘するプランも挙がっていたのだけど、結局、レコーディングを仕切ったのはリンジーだった。自らジェイソンに断りを入れて引き受けたということだから、やっぱほっとけなかったんだろうな。
前回リリースの『Mirage』以降、メンバーは各自ソロ活動に勤しんでいた。基本、空気のジョン・マクヴィー以外、みんなソロ・アルバムを制作し、ツアーに出、時折、ほかのバンドにゲスト参加したりしていた。特にスティーヴィーは、ソロでもヒットを連発しており、マックの存在すら忘れているような活躍ぶりだった。
「そろそろ次回作を」と口火を切ったのが、レーベルだったのかフリートウッドだったのか、多分前者と思われるけど、それぞれのエージェントを通して打診があり、取り敢えずみんな、控えめながら賛同した。バンド運営を取り仕切るフリートウッドが、各方面の調整や段取りを整えた。
まずレコーディングに入る前、顔合わせを兼ねてミーティングを行なった。「最近どう?」とか、そんな無難な感じで。
フワッとした形で全員の合意を得、気持ちだけは再始動モードに入った。「さぁやるぞ」ってな具合に。
ただ、いつまで経っても具体的なプランが出てこない。スケジュールもスタジオも仮押さえした。スタッフだって決まったし、あとはメンバーが動き出すだけだ。
その肝心のメンバーだけど、みな動きを見せない。「多分、誰かが仕切るだろう」って。いや、あいつがきっと手を挙げる。
痺れを切らして使命感に燃えて立ち上がるのが誰なのか、みんな最初からわかりきっている。あとはただ、悠々と待つだけなのだ。
-まったくもう。
ほんとみんな、俺がいなきゃ何もできないんだから―。
とかなんとかボヤきながら、独り真っ先にスタジオに篭るリンジー。曲を書いたら「あとはいい感じにまとめといて」とリンジーに丸投げする女性2人。送られてきたデモ・テープを元に、リンジーが打ち込んだ仮クリックを忠実になぞるリズム隊。
そんな感じでレコーディングは進められた。
そんなグダグダの状況で作られたアルバムだけど、リンジーの独壇場というわけではなく、ソングライター三者三様のキャラはしっかり確立されている。各自、マックの威光に過剰に頼ることなく、それぞれ順調なキャリアを築いていたこともあって、どの曲もきちんとコンテンポラリーに沿った仕上がりとなっている。
かなりクセの強いリンジーのアレンジであっても、スティーヴィーの自由奔放さを完全にコントロールできているわけではないけど、それでも多少は意識したのか、アルバム構成から極端に浮き上がることもなく、きちんとマックの曲として成立している。
リズム隊2人はともかく、ソングライター組3名は、ソロ・キャリアも順調だったため、彼ら敵にマック再始動の必要性は薄かったはず。ただそんな中でも、彼らには「疑似家族としてのフリートウッド・マック」というホームグラウンドが必要だった、という見方もある。
当時、メンバーのほとんどがドラッグやアルコールに溺れ、スティーヴィーはアル中で施設入所、フリートウッドも自堕落な生活が祟って自己破産に追い込まれていた。イヤイヤあんた、だって相当稼いだだろ。
そんな魑魅魍魎からの誘惑を遮断するため、孤独なレコーディング・スタジオに引き篭もらざるを得なかったリンジーの心境といったらもう。まぁそれはそれで、精神拗らしちゃうわけだけど。
で、『Tango in the Night』、すごく意地悪い見方をすれば、金欠のフリートウッドを救済するために企画されたアルバムである。「アーティスティックな欲望の発露」とか「表現欲求の昂り」とかいった建て前は隅に追いやられ、「大人の事情」やら「生臭い思惑」やら「腐れ縁」やら「ビジネスライク」やらがすし詰めとなっている。
とはいえ、そんな事情を知らない不特定多数のユーザーは、久々の復活を好意的に迎え入れた。実際、しっかりプロデュースされた音からは、そんな俗っぽさは微塵も感じられない。
互いのメンバーへの罵詈雑言は絶えなくとも、ほぼ家族同然の腐れ縁だけあって、リンジー主導のもと、それぞれが役割をキッチリこなしている。多くのベテラン勢が、80年代の打ち込みサウンドのトレンドに乗っかろうとして、うまくすり合わせができず、中途半端な出来の作品を量産していた中、『Tango in the Night』は若手シンセ・ポップにも引けを取らないクオリティに仕上がっている。
リリース時点ではロートル扱いされていたこともあって、ロキノンの広告を見てもそんなに関心はなかったのだけど、バーチャル感を先取りした「Big Love」のPV、さらに緻密に作り込まれた音像の異色さは、結構な衝撃だった。くっきりメリハリがあって、音の粒が際立ったミックスのアプローチは、職人技が光っていた。
会心の仕上がりとなったアルバムを完成させ、リンジーは脱退を表明、その後の世界ツアー参加をキャンセルする。もともと大のレコーディング・オタク/宅録マニアの彼にとって、「生産性の薄いライブには魅力を感じなかった」ていうのが表向きだけど、もうイヤになったんだろうな、マックの連中とツルむの。
かつて共に愛を育んでいたはずの自称歌姫は、今じゃ増長してワガママいい放題だし、もう1人の澄まし顔した歌姫だって、強くは言ってこないけど、スティーヴィーと同じくらいエゴの塊だし、リーダーは八方美人で丸く収めることしか考えてないし、最古参のベースは空気だし。変な気遣いで神経すり減らすより、「それならいっそ、独りでやる方が気楽だよな」って思ってしまっても仕方ない。
ただリンジー、スペック的にはソロで充分やっていけるんだけど、そんな偏執的な作り込みが仇となって、自身のソロでは小さくまとまり過ぎてる感が否めない。「何だこいつら、好き勝手ばっかやりやがって」ってぼやきながら、マックのメンバーを取りまとめている時の方が、結果的にいい仕事となっている。彼のスペックを最大限に発揮できるのは、適度なストレスがかかるマックにおいてなのだ。
多分、認めたくないんだろうけど、それは本人が一番よくわかっているはず。
なので、多分また戻ってくるよリンジー。
どうせみんな、そう思ってるから。
1. Big Love
リード・シングルとしてリリースされ、US5位・UK9位と好調なスタートを切った、おそらくインスタで「Dreams」がバズるまでは、彼らのレパートリーではわりと知られていた楽曲。各メンバーが延々と引きの画像でフィーチャーされてゆくPVの映像テクニックは、スタジオ芸術の粋を追求しまくったリンジーのビジョンにも適っていた。
何となくイメージで、メインと掛け合いの女性ヴォーカル(っていうか吐息)は、長らくスティーヴィーと思い込んでいたのだけど、実際はリンジー自身の声をサンプリング変調させたものだったことを、いま初めて知った。実際にスティーヴィーのパートもレコーディングはしたらしいのだけど、どこでどう思い直したかリンジー、彼女のトラックを消去して自分で歌い直した、とのこと。なんかよぉわからんけど、クオリティの追求だったのか、それとも「俺の方がもっとセクシーに歌える」ってムキになったのか。まぁ面倒なカップルだこと。
バンドのアルバムのオープニングだというのに、生音感やグルーヴ感といった曖昧な要素を徹底的に排除し、フェアライト制御によってクリエイターのビジョンを隅々まで反映させることに拘ったサウンドは、いま聴いても古さをあまり感じさせない。アフリカン・リズムからインスパイアされたポリリズミック・ビートを基調としながら、モザイク様に各パーツを当てはめ、さらにメリハリを強調したミックスは、リンジーのセンスに依るところが大きい。あ、そんなだからファジーなスティーヴィーのヴォーカルがジャマだったってことか。
2. Seven Wonders
この時期のスティーヴィーは3枚目のソロ・アルバム『Rock a Little』がUS12位と好調で、それに伴う全米ツアーもあって多忙を極めていた。なので、マックの活動再開に最も消極的だったのが彼女であり、他のアルバムと比べてメイン・ヴォーカル曲は少ない。
とはいえ、パフォーマーとしてヴォーカリストとして、フロントマン3名の中で最も脂がのっていたのは彼女であり、この曲での存在感の強さっていったら、そりゃあもう。レコーディングに参加する時間も少なく、この曲だって、スティーヴィーが送りつけたデモ・デープをリンジーが鬼アレンジでどうにか形にし、不機嫌な態度丸出しでヴォーカル録りしたものだけど、それなのにちゃんと形になっている。
良く言えばオルタナ・カントリーっぽいラフさ、悪く言っちゃえば投げやりなパフォーマンスだけど、お行儀よく作り込まれたリンジー・サウンドとの落差が絶妙なコントラストとして作用し、スティーヴィーのキャラを際立たせている。結局、リンジーが振り回された形になってるけど、でも彼ってそういうキャラだから。
3. Everywhere
バンド内民主主義を反映してか、次のメイン・ヴォーカルはクリスティン・マクヴィー。クセの強い2名からの流れを中和するかのような、毒気のない正調ポップス。
個性のみで構成されている2名のアクを強力脱臭する、彼女の健全な声質とメロディは、逆にあざとさも見え隠れするけど、まぁ2人に対抗するためには、そのくらいの腹黒さも必要だよな。一見、清楚っぽいキャラの方が手を出すと危険なように、スティーヴィーとは対極の意味での「魔性」が、クリスティンにはある。
4. Caroline
この時期、スティングやピーター・ガブリエルなど、意識高い系のクリエイターたちはこぞって、アフロ・ビート/リズムと西欧ポップとの融合に取り組んでいた。そんな彼ら同様、意識高い系であり、さらに加えて偏屈でもあるリンジー、このアルバムでも呪術感を緻密にシミュレートした楽曲をいくつかリリースしている。
こういうのって多分、70年代のポール・サイモンあたりがルーツと思われるのだけど、そんな黎明期の手探り感・手習い的なアプローチから、「実験のための実験」的なニュアンスが薄まってきたのが、80年代のこの辺りからだった。単なるキワモノではなく、ソフィスティケートされたコンテンポラリー・ポップとして、アフロティックなリズム・アプローチが普及しつつあった。
ほぼリンジーのソロと言えるこの曲も、インダストリアルな音色のパーカッションをポリリズミックに、それでいてパワステ仕様の残響処理を施したり、何かと芸は細かい。いま思えば、かなりマニアックなサウンド・アプローチであり、商業性のバランスを加味しつつ守りに入らない彼の姿勢は、もっと評価されてもいいはずなのだけど。
5. Tango in the Night
1や4同様、もともとはリンジーのソロ・アルバムとして製作された楽曲で、マック再始動によって『Tango in the Night』にコンバートされたタイトル・チューン。重いディストーション・ギターやシンクラヴィアで作られた琴の音色によるリフが入っていたり、テンションMAXのリンジーが超ロング・トーンを披露していたり、こうやって書いてると支離滅裂でまとまりがなさそうだけど、強引な力技によってひと固まりにされており、全体的にカロリーは高い。
並のクリエイターなら、もうちょっと薄めて引き伸ばして、3曲分くらいのアイディアになるはずだけど、思いついたことを全部詰め込んでしまったがゆえ、顔も含めてサウンドもヴォーカルもすべてが濃い。多忙なスティーヴィーはここでは参加しておらず、それもあってか、リンジーのヴォーカルに歯止めがかからなかったんじゃないかと思われる。
6. Mystified
「リンジーのエキセントリックなサウンド」or「存在自体がエキセントリックなスティーヴィー」の楽曲の間に、胸焼け感の箸休めとして配置されている、クリスティンの流麗でたおやかなポップス。トラック・メイクはもちろんリンジーだけど、自分メインの時のような奇妙な音やミックスは少なく、至ってストレートなアプローチ。間奏のギターの音色に少しだけ歪んだエゴが出てるけど、あくまでスパイス程度のため、全体の雰囲気を壊すほどにはなっていない。
この曲単体で聴くと、そのクセのなさゆえ印象に残りづらいんだけど、カルビ丼とあんかけ焼きそばのつなぎでわかめスープを入れてくるように、彼女の曲もこのアルバムの中ではいいアクセントになっている。ヌルいポップスにだって、ちゃんと役割はあるのだ。
7. Little Lies
US最高4位をマークした、3枚目のシングル・カット。ここまでヌルい癒しのポップス担当だったクリスティンだけど、この曲ではややボトムの太いヴォーカルによるパワー・シンセ・ポップとして仕上げられている。ここで初めて、フロントマン3名によるメイン&サイド・ヴォーカルとコーラスがフィーチャーされており、やっとバンドらしいサウンドが展開されている。
呪詛のようなスティーヴィーのサイド・ヴォーカルは、そこだけ抜き出して夜聴いたら、うなされること間違いなし。ここでもリンジーは「ヴォーカルもサウンドのパーツの一つ」として捉え、立体的なミックスを施しているけど、それがここではうまくハマっている。
8. Family Man
シンディ・ローパーみたいなイントロから始まる、リンジーにしてはクセの少ないまともなポップ・チューン。エキセントリックなタイプのアーティストが売れ線志向のアレンジに走ると、チグハグで玉砕することが多々あるのだけれど、この曲は数々のトラップをうまく回避して、MTVで流れてても遜色ない仕上がりとなっている。
しかしアコギの弾き方っていうか、聴かせ方がうまいよな、リンジーって。テクニシャンっていうわけじゃないんだけど、サウンド・クリエイターとして、適切なポイントに適度なサイズのフレーズをはめ込む技術は、ジャンルは全然違うけど、プリンスと同じ匂いを感じさせる。
9. Welcome to the Room... Sara
久しぶりにスティーヴィーがメインのトラック。アバズレ度・投げやり度はさらに増し、敢えて無頼に振る舞うことによって、唯一無二の存在感をアピールしている。
アレンジは至ってオーソドックス、同時代のスターシップやハートみたいな大味なアメリカン・ロックだけど、歌ってる内容はちょっと深刻。コカイン中毒で苦しんでいたスティーヴィーが、リハビリのため入所していた施設での回想をテーマとしており、いわば私小説的な歌詞が綴られている。
そんなプライベートさえ、エンタテインメントとしてさらけ出してしまうところに、彼女の性根の太さ、そして魔性を感じさせる。
10. Isn't It Midnight
どんな名盤アルバムでも、終盤近くになると、ちょっと気の抜けた楽曲が入ってくるのがセオリーで、これも単純なギター・リフをくっつけて隙間をシンセで埋めたような、いわばごく普通の楽曲。産業ロックのお手本のようなアレンジで、そんなに特筆することもない。
そりゃ二流のバンドと比べると、マックの方がずっとキッチリ作っているんだけど、そんなリンジーに対する期待値が大きい分、「もうひと捻りしても良かったんじゃね?」と思ってしまう。ただ、あんまり高カロリーの楽曲ばっかり詰め込んでも、それはそれで食傷してしまうため、どうしてもこのようなペース・ダウンは必要になってくる。
11. When I See You Again
「魔性だアバズレだビッチだ」と、このアルバムではネガティヴなイメージが先行していたスティーヴィーだけど、ここでは表層的なキャラに頼らず、パフォーマーとしてのポテンシャルを最大限に引き出したリンジーとのコラボレーションが、最も良い形で結実している。こういうのだってできるんだよ、だって魔女だもん。
何かと腐れ縁のリンジーなら、彼女が最も映えるポイントはわかっていたはずだし、全トラックこんな感じでもよかったんじゃないかと思ってしまう。ただ、スケジュールが噛み合わなかった、または極力顔を見たくなかったのか。
12. You and I, Part II
ラストはリンジーとクリスティンによる、これまたオーソドックスなポップ・チューン。スティーヴィーとは正反対の声質ゆえ、同じようなアプローチのアレンジはミスマッチ感ハンパないので、こういったコンテンポラリー寄りのサウンドにせざるを得ないのだろう。
あっさりして後味の残らない、スターシップみたいなサウンドだけど、考えてみればAOR/産業ポップは、マックの方が先達だったわけで。リンジーやTOTOが確立したフォーマットを流用したのが、スターシップだったんだよな。
そういえば、ちゃんと聴いたことなかったな、スターシップ。これを機に、ちゃんと聴いてみようか(多分聴かない)。