好きなアルバムを自分勝手にダラダラ語る、そんなユルいコンセプトのブログです。

#80年代ソニー・アーティスト列伝

80年代ソニー・アーティスト列伝 その14 - 番外編 : SDオーディションと『PATi PATi』の時代


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  「良いものは売れる」とはいうけど、広く知らしめないと、売れるものも売れない。これも真理。
 作ったものを単に並べるだけではなく、より効果的な戦略やマーケティング調査を行なうことで、大衆は存在を知り、そして興味を持つ。本質だけではなく、イメージや情報を発信しなければ、その興味の段階にもたどり着けない。
 アーティストが作り、歌い演じる作品だけではなく、洗練されたモダンなイメージを前面に出すことが、他レコード会社に対するソニーの差別化戦略だった。音楽性に沿ったコンセプトに基づく、グラビア写真やPVによるビジュアル・イメージによって、オシャレでカッコいい対象に憧れる10代の少年少女のハートをガッチリ掴んでいた。
 おおよそ83年から88年くらいまで、ティーンエイジャーをメイン・ターゲットに、視覚・聴覚に訴えるイメージ戦略を推し進めていたのが、80年代のソニー(CBS・エピック)だった。当初は地道で草の根的な、アナログな手法ではあったけれど、ボディブローは確実に効果が上がる。
 CBSソニーの設立は1968年と歴史が浅く、多くの老舗レーベルと比べて所属アーティストも少なかった。そもそも設立の経緯が、社名が示すように、外資との合弁会社だったため、洋楽部門は平行輸入で事足りたけど、邦楽部門においてはほぼゼロからのスタートだった。
 邦楽のマネジメントはおろか、既存芸能プロとのコネクションも少なかったCBSソニーは、設立から10年経った81年にSD事業部を新設、新人の発掘・育成を強化してゆく。
 南沙織や山口百恵など、女性アイドル部門では70年代の早い段階から実績を残し、独自の営業戦略・方法論が確立されつつあった。ただ、ロックやポップス、ニューミュージック部門では、絶対的な稼ぎ頭を生み出せず、それは80年代まで持ち越されることとなる。
 まだ社内育成のシステムがなかった70年代、邦楽部門は主に外部からの移籍組が多くを占めていた。吉田拓郎や矢沢永吉など、すでに実績のあるアーティストを揃えていたのだけど、拓郎はフォーライフ設立で抜けてしまい、YAZAWAも海外進出に前向きなワーナーに移籍してしまったりで、みな腰掛け程度の短期間でソニーを去っている。
 実績の少ない新興レーベルのため、ベテランが在籍し続けるメリットは少ないし、引き止める手立ても、結局、情に訴えるくらいしかない。多分、他の中堅どころを引き抜いても、同じ結果になるだろうし。
 「それならもう、自分たちで足を使って汗かいて、有望な新人発掘して育てた方がイイんじゃね?」という社内の意見が多くなってくる。そんな経緯で専門事業部ができあがり、彼らが執り行なったのがSDオーデションだった。

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 厳密には79年から始まり、80年代に大きく花開いたこのオーディション、古くは尾崎豊やハウンド・ドッグ、レベッカや渡辺美里、バービーやTMなど、錚々たるメンツがこの門をくぐっている。ちなみにストリート・スライダーズや聖飢魔IIも、ここ出身である。閣下はまだわかるとして、よくオーディション受ける気になったよな、あのハリーが。
 プロ野球で言えば育成枠、契約金も給料もそれほど出せるはずもない。まだ無名だけど、伸びしろだけはたっぷりある人材を確保した。
 まずは認知度アップ、そのためにはメディアへの露出を多くする。当時、テレビの歌番組は歌謡曲中心で、ニューミュージック系はラジオや雑誌媒体を主体としていた。
 「新譜ジャーナル」や「音楽専科」など、70年代から続く邦楽専門の音楽雑誌は、主にニューミュージック/フォーク系を取り扱うことが多く、パンク〜ニューウェイヴ以降のアーティストへの対応が不十分だった。また、雑誌で取り上げられるためにはギブ・アンド・テイク、いわば広告の出稿がセットになっており、ページ数や評価の良し悪しも、要は金次第だった。
 雑誌のカラーとフィットする、ふきのとうや村下孝蔵の出稿はまだいいとして、渡辺美里やTMネットワークを同列で掲載させるには、あまりにミスマッチだし、それにダサい。まだ70年代と地続きだった80年代初頭、サブカルほど尖ってない、ポップでライトな感性を持つ雑誌メディアは存在していなかった。
 「ないんだったら、作っちゃえばいいんじゃね?」と言うのは簡単だけど、それをどうにかなしてしまったのが、ソニー・グループの守備範囲の広さ。実は持ってたんだよ出版部門。
 フォーク/ニューミュージック系に強い『GB』を既に持っていたCBSソニー出版と組んで創刊されたのが、伝説の雑誌『PATi PATi』。主にアーティスト・グラビアをメインとし、のちに総合音楽情報誌として『WHAT's IN?』も立ち上げた。
 モノクロの小さい写真と純文学タッチの印象批評、漫然としたインタビュー記事が無造作に並べられていた既存雑誌を反面教師とし、カラーグラビアをメインとしたのが『PATi PATi』だった。グラビアを効果的に見せるため、光沢のある上質紙を使い、レイアウトも丁寧に行なった。味もそっけもない新聞記事の見出しではなく、アーティストが発する生のメッセージを、シンプルにコピーライト的に演出した。
 業界慣れした熟練ライターより、アーティストの目線に近い、同世代の若手ライターを重宝した。漫然とした雑談の延長線のようなインタビュー記事とは違って、ファンとアーティストと同じ目線から書かれた言葉は、ティーン読者の共感を呼んだ。
 アーティストの言葉を無理に文章化せず、親しげな友人同士の会話として演出し、さらに親近感を強めていた。きちんとお金と時間をかけたグラビアに、それっぽいキャッチコピーを被せることで、ブランド・イメージの向上に貢献した。
 そんな『PATi PATi』マジックによって、並みのアーティストでも1.5流くらいには見映え良く演出することができる。手段はどうであれ、形から入ってクオリティが上がるんだったら、それはそれで結果オーライ。

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 イメージ戦略と並行して、肝心の作品普及について。
 店に置いて、それっぽいキャッチコピーつけて特典ポスターつけてBGMで流してもらう。いまと違ってSNSもないので、もっと広めるためには、ライブ実演が効果的だ。
 まだライブ経験が浅く、ワンマンでは集客も見込めない場合、何組かまとめて合同イベントを行なった。『PATi PATi』で取り上げたアーティストを中心に、誌上でイベント告知を行ない、格安の料金、または無料で招待するケースもあった。
 当時のレコード会社主催のコンサートやイベントは、いまと違って新譜リリースのプロモーション的意味合いが強かったため、予算もふんだんに使ってチケット価格の高騰を抑えていた。新人イベントの場合はマーケティング調査も兼ねており、ギャラも安く済んだため、主要都市中心に頻繁に行なわれていた。
 ファンや読者の立場からすれば、相対的に高価だったレコードをそう頻繁に買えるはずもなく、ジャケ買い・イメージ買いするのは、相当の勇気が必要だった。なので、まだ聴いたことのない複数のアーティストが入れ替わりでステージに立つ、ショーケース・スタイルのライブは、ブレイク前の先物買い的な楽しみがあり、おおむね好評だった。
 ただこの手法、移動距離の少ない都内近郊、地方なら政令指定都市クラスだと有効だけど、中小都市で行なうとなるとコストがかかりすぎる。『PATi PATi』の好調・イベントの成功によって、ソニー独自のブランド手法が確立されつつはあったのだけど、アーティストの他、関係者スタッフをゾロゾロ引き連れて、日本全国くまなく回るのは、物理的に土台ムリだった。

 代替案として、全国のラジオ局を回ってプロモ盤をばら撒き、地元のローカル番組にゲストとしてねじ込む手も使われたけど、効率は大して良くない。出演できる番組は限られるし、各レコード会社から毎日大量に送られてくるプロモ盤の山の中から、『PATi PATi』系を選んでくれる確率は、絶望的に低くなってしまう。
 音源がもっとも大事だけれど、それだけじゃ伝わらない。イメージ戦略に手応えを感じたSD事業部は、映像メディアに注力する。
 シンプルに、まずはとにかく動く姿を見せるため、ライブ映像やPVを大量に作成した。ここでもグループ企業の強み、ていうか本体がベータマックスやトリニトロンなど、次々と新たなAVアイテムを打ち出していたのが、ちょうどこの時期。最先端の技術をふんだんに、しかも格安、時には無料で使うことができたのだから、他メーカーとのクオリティ差はハンパない。
 言い方は悪いけど、湯水のように使える販促費を「未来の投資」として注ぎ込むことで、多くの映像クリエイターたちにチャンスが生まれ、裾野が広がる要因となった。まだPV制作に力を入れるアーティストも少ない黎明期だったこともあり、いま見返すと出来不出来はあるのだけど、先駆者であったことに意味がある。と思いたい。
 そうやって作られた映像をおおよそ2時間程度にまとめ、「ビデオ・コンサート」と称して、全国各地の公民館やライブハウスで行なった。要はスペシャのPV特集の上映会なのだけど、これなら地方支社のスタッフだけで賄えるし、しかも一回作っちゃえば、ダビングして全国いつでもどこでも開催可能なので、経費も大幅に抑えられる。
 俺も行ったよビデオ・コンサート。確か土曜の半ドンで、放課後にライブハウスで見た記憶がある。

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 主にクローズな場所での公開が多かったPV映像だけど、それなりにコストもかかっているので、せっかくならもっと広範囲に、『PATi PATi』読者以外にも触れられるようにしたくなる。当時のVHSなどの映像ソフトは1万円台が相場で、手軽に買えるものではなかった。なので、テレビ一択となる。
 前述したように、当時のテレビ歌番組は歌謡曲・演歌が中心だったため、よほどヒットしない限り、出演の機会はないに等しかった。さらに加えて、当時のロック/ニューミュージック系のアーティストは、出演依頼があっても辞退する傾向が強かった。
 当初は上から目線での出演依頼だったテレビ局も、80年代に入ってからはニューミュージック系の社会的影響力が大きくなったため、むしろ頭を下げてお願いするようになっていた。ただセールス実績の少ないアーティストにオファーが来るはずもなく、ましてや生放送中心の歌番組では、ビデオを流すという発想自体ががなかった。
 どんなに頑張ってもベストテンや夜ヒット出演は難しそうなので、「じゃあいっそ、深夜の割安な番組枠買い取っちゃって、自前で番組作った方がいいんじゃね?」という発想に行き着いた。すでにアメリカでは、ラジオにとって代わってMTVが主流になっており、日本でも「ミュートマJAPAN」が静かに人気を集めていた。
 そんな流れで始まったのが、ソニー系アーティストPVを専門とした番組「ビデオ・ジャム」。いま調べて初めて知ったけど、初期は北海道ローカルだったんだな。
 まだ地球でデビューしたてのデーモン木暮閣下や、同じくブレイク前のプリプリ:奥居香が司会だった。それにしても閣下、この頃からすでにキャラ完成しており、いまだまったくブレていない。その辺の徹底ぶりは尊敬に値する。
 ソニー提供によるプロモーション主体の番組なので、中高生への刷り込みの影響は、そりゃハンパない。また、グループ本体のソニー製品のCMで、アーティストをイメージキャラとして起用したり楽曲使用したり、考えられる様々なマルチメディア戦略を駆使していた。
 アーティスト側からすれば、ありとあらゆる形でグループ総出で後押ししてくれるし、ソニー的にも系列会社内で循環システムが機能してくれているため、経費もギャラも最小限に抑えられる。
 システム構築までには膨大な手間がかかり、面倒ごとは多々あるけど、一度確立してしまえば、あとは勝手に動いてくれる。ソニー邦楽部門が生み出したマルチメディア展開は、その後のビーイングやハロプロのビジネス・モデルの先駆けとなった。

 ただ、どんな優秀なシステムも、過剰に消費されると、鮮度は落ちる。80年代末期、平成に入るとソニーの勢いに翳りが見え始める。
 ソニーの場合、SDオーディションに合格しても、すぐデビューできるわけではなく、ある程度の育成期間が設けられていた。発声レッスンや楽曲コンペ、アンサンブルの強化など、何らかのスキルアップを得るまで、デビューは据え置きにされた。
 それが平成に入るか入らないかの頃、『イカ天』を始めとするバンドブームが台頭してきた。ブランキーやたま、BEGINなど、こういったポテンシャルの高いバンドを世に出した功績は評価に値するけど、正直、ピンよりキリの方が無数にいたことも、また事実。
 番組出演のために結成し、ノリとウケ狙いでやってたら変に人気が出ちゃって、あれよあれよと勝ち抜いてイカ天キング、そのままメジャー・デビューする者もいた。大して下積みもなく、持ち歌だってそんなにあるはずもないのに、なぜか武道館でライブできちゃったり、もうバブル絶好調。
 とにかく、楽器を持って歌ってキャラが立っていれば、ブームの追い風で売れる時代だった。各レコード会社のディレクターは、大小問わず全国津々浦々のライブハウスを回って、目ぼしいバンドの青田買いを行なっていた。
 本来ならソニーが行なっていたように、それなりの育成期間が必要なのだけど、何しろブームのまっただ中、スピードが優先された。演奏の多少の拙さは若さとフレッシュさで押し切るとして、箸にも棒にもかからないレベルだと、ヴォーカル以外はスタジオ・ミュージシャンに切り替えた。とにかく形にしてレコード・デビューさせるまでが、彼らディレクターの仕事だった。

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 多くのベテラン・アーティストを擁する老舗メーカーに対し、ソニーは積極的に新人を登用していった。視覚聴覚に訴えるビジュアル戦略、系列グループ活用によるマルチメディア展開によって、寡占状態のマーケットに風穴を開けた。
 ただ、システマティックに構築されたヒット・システムが主流になったことによって、ソニーがひとつの権威となってしまったのは皮肉だった。サブ・カルチャーであったものがメイン・カルチャーに押し上げられると、打倒される側に立たされる。
 綿密なマーケティングの上、商品としてパッケージングされたソニー・ブランドに対し、初期衝動をそのまま真空パックした、勢い優先のラフなサウンドのバンドブーム勢は、稚拙ではあったけれど、妙な熱気が強い求心力を生んだ。ほぼ5年で世代交代したティーンエイジャーの関心は、すでにイカ天バンドに向かっていた。
 10年前と比べて大所帯となっていたソニーも、ただ受け身の姿勢でいたわけではなく、ブームで頭角をあらわしていたXやTHE BOOMと契約し、ヒットに導いていた。ただ、両者ともインディーズ時代からそれなりの実績を残しており、メジャー加入はあくまで流通だけの問題だった。
 彼らはソニーじゃなくても、充分成功できるポテンシャルの持ち主だった。たまたま声をかけてくれて、条件が良かったのがソニーだっただけで、極端な話、ソニーじゃなくてもよかったのだ。
 その後、90年代に入ってからも、マルチメディアとグループ系列を駆使した営業戦略は続けられ、ドリカムのブレイクなど、一定の結果は残すのだけど、彼らの場合、リーダー中村正人のプロデュース力に拠る部分が大きい。レーベル内のアーティストとの交流もほとんどなく、ソニー在籍時の彼らは独自路線を貫いていた。
 彼らもまた、ソニーじゃなくてもよかったのだ。

 そう考えると、ソニーが真の意味でクリエイティヴな制作集団だったのは、ほんの5年程度だった、ということになる。短い期間ではあったけれど、メジャーの手法に囚われない独自のメソッドは、当時のティーンエイジャーのハートをガッチリ掴んだし、この頃にデビューして、未だ活動し続けているアーティストも数多い。
 21世紀になってからもSDオーディションは続けられ、King Gnuや岡崎体育など、個性的なアーティストを輩出している。いるのだけれど、あの頃のような熱気は感じられない。
 よく知らない新人だけど、ソニーが推してるんだから大丈夫と思わせてしまう、レーベル買いを喚起させるあの熱気は、もう戻ってこないのだろうか。
 -多分ないな。あれはあの時代、あのメンツ、あの状況だったからこそ、可能だったのだ。









80年代ソニー・アーティスト列伝 その13 - 南佳孝 『冒険王』

o0800078910666905383 1984年リリース9枚目のオリジナル・アルバム。いまも昔も変わらず、頑固なほど自身のサウンド・ポリシーにこだわってる人なので、レーベル・カラーの強い80年代ソニーにひと括りしてしまうには、ちょっとムリがある。ただこのアルバムでは、時代のトレンドだったMIDIサウンドをバリバリ使用しているせいもあって、結果的に当時のソニー色が強い。
 いきなり話は飛ぶけど、スピードワゴン小沢による、近年のJポップに対する発言が、ちょっとした波紋を呼んだ。
 -『砂糖が甘い』みたいな歌詞で、みんな『ああ、分かる。だよね』って言ってる。当たり前すぎることを詩で書き過ぎて、それをみんな共感してるっていう。
 -だから、『砂糖が甘い』みたいな歌詞を書いて、若者が『分かる』って言うのは、チャンチャラおかしいね」。
 あまりに的確すぎて、わかりみ深い。「そうなんだよ、俺が思ってたのはまさしくソレ、よくぞ言ってくれた」。激しく同意した人も多かったらしい。
 いつからだろうか、行間を読む歌が少なくなっていた。いや歌だけじゃないな、これ。小説なんかも、余白がただの余白になっちゃってる。作者の暗示する意図や婉曲的な表現は、好まれなくなっていた。
 対象レベルを思いっきり引き下げて、「3歳児でもわかるような表現じゃないと、伝わらない」と勝手に気を回しすぎた結果が、いまのJポップの現状だ、と小沢は暴いたのだった。こういう発言って、内部からは出ないよな。第三者だから言えたんであって。
 余計な比喩や言い回しは抜きにして、とにかく反復し続ければ、想いはきっと伝わる。「100万回のアイラブユー」。アイラブユーがゲシュタルト崩壊しちゃってる。

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 とはいえ、昔だってくっだらねぇ歌詞はあった。すべてがすべて、昔は良かったとは言わない。変に回りくどい表現より、ストレートな物言いがいい場合もある。
 飛び抜けた歌唱力や表現力があるのなら、歌詞はできるだけシンプルな方がよい。普遍性を持つスタンダードは、大抵簡潔な表現だ。
 極端な話、シンガーの力量次第で、歌詞の優劣は大きな問題ではなくなる。テクニックと素養に恵まれれば、ドレミファソラシドさえ、ひとつの歌として成立してしまう。
 そんなシンガーのポテンシャルに頼らず、歌詞単体をひとつの作品として成立させようと試みていたのが、松本隆だった。
 はっぴいえんどでは、英米由来のロックサウンドに日本語を違和感なく乗せることに神経を注いだ。その試みはある程度、完成への道筋をつけることができたけど、その前にバンドは空中分解した。松本にとって歌詞は大きな割合を占めてはいたけど、他のメンバーにとっては決してそうではなかった、ということだ。

 東京人のナイーブな感性から紡ぎ出される松本の歌詞は、紋切り型の歌謡曲の歌詞とは一線を画していた。アイドル歌謡ではあまり用いられていなかった婉曲的な比喩や、散文めいていながら映像を想起させるストーリー性は、彼が好んでいたヌーヴェルヴァーグ映画の手法とシンクロしていた。
 ただ、旧態依然とした歌謡界ゆえ、最初から彼のスタイルが受け入れられたわけではない。これまでになかった表現スタイルは、ある者にとってはひどく新鮮に映ったけど、まどろっこし過ぎて敬遠される者の方が多かった。
 太田裕美「木綿のハンカチーフ」がヒットしたことをきっかけに、評価は少しずつ上向き始める。その後も試行錯誤を繰り返し、松田聖子の一連の作品によって、松本は歌謡界の一角にポジションを確立する。

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 80年代前半の松本隆は、メインである聖子プロジェクトと並行して、膨大な量の作品を書き下ろしている。その守備範囲は幅広く、イモ欽トリオから森進一まで、そりゃもう節操がない仕事ぶり。いや待てよ、もとはと言えば、細野さんや大滝経由の依頼だから、節操ないのは彼らの方か。金沢明子「イエロー・サブマリン音頭」も手掛けてたよな、この頃って。
 で、基本は職業作詞家である松本、オファーによってテーマや主題は変わってはくるけど、通底に流れるテイストは昔から大きく変化していない。
 他人の温もりを感じ取れるギリギリの距離感を保ちながら、空気を通して伝わってくる感情の揺らぎ。その微かな揺れを、何気ない仕草や表情として写し取る。時に位相や視点を変えることもあるけど、パーソナルの距離感を変えることはない。
 「映画的」とも評される物語の断片は、緩やかなストーリーを形作る。墨流しのようなモノクロ映画が「はっぴいえんど」だったすれば、丹念に淡い色を重ねたカラー映画が「太田裕美」だった、と言える。

 南佳孝は、最初から自分の色を持ったアーティストだった。松本とは、同じ学年で同じ東京育ち、似たような環境で育ったこともあって、2人の価値観は重なり合う部分が多かった。
 音楽より詩作に重きを置いた松本と、ロックに捉われない感受性でオリジナリティを育てていた南。音楽への向き合い方こそ違ってはいたけれど、物の見方や姿勢は東京人共通のものだった。
 程よい距離感と軽いペシミズム。興味のある方向へは、ちょっとだけ歩みを早める。声高に訴えたり、出しゃばったりすることは、ちょっと恥ずかしい。
 熱くなりすぎず、かといって、すべてを斜め見するほど、クールにはなり切れない。
 心のうちは、軽く熱を帯びている。
 -微熱少年。

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 微熱少年からの視点、または微熱少年としての思考というのが、2人の共通認識である。それはいまも一貫して変わらない。
 時代を駆け抜ける同士である2人は、かつてガッツリ向き合って『摩天楼のヒロイン』を創り上げた。丹念に作られたコンセプト・アルバムで象徴的なのは、そのジャケットだ。
 純白のスーツでダンディにキメる24歳の南佳孝。縁取るように添えられた、鮮烈なライト・ブルーの影。そして、左胸に淡く浮かぶ、ロゼ・ワインのような彩りのバラが一輪。
 このアルバムの実質的な主役は松本隆だ。「はっぴいえんど以後」の余韻を残す、松本の言葉に色彩はない。それを象徴するかのように、南の背後は松本のオフホワイトで塗りつぶされている。
 これがデビュー作だった南のカラーは、とても遠慮がちだ。本来の彼の色であるパステル・カラーも、白い背景とスーツに大きく侵食されている。
 松本のモノクロームが強く、南のカラーは打ち消されてしまっている。今でこそ先進性が再評価されてはいるけど、当時は意図が伝わらなかった。セールスは、お世辞にも良いとは言えなかった。

 そんなデビュー・アルバムの不発以降、2人は距離を置くことになる。まったく決裂したわけではなく、その後も松本は南のために詞を書き続けた。ただし、『摩天楼のヒロイン』のように、プロデューサーとして深く関わるのではなく、あくまでいち作詞家として。
 その後の南は、テーマとしてのコンセプチュアルな方法論ではなく、サウンド・プロダクトでの個性確立を志向するようになる。もともと素養としてあったジャズやラテン・テイストをフィーチャーした、AOR構造のソフト・サウンディングは、都会生活者の渇いた心を癒すBGMとして作用した。
 サウンドやコンセプトに合わせて、時に松本以外の作詞家を起用する事で、テーマの幅は広がり、シティ・ポップの筆頭として評価を確立していった。

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 そんなこんなで、それぞれが自分なりのカラーを固めた頃合いで、2人は再び手を組む。それが『冒険王』だ。
 『冒険王』では、松本が久し振りにスタジオに詰め、総合プロデュースを行なっている。この時期、ほぼ作詞家専業だった彼がレコーディングの現場に出向いたのは、かなり珍しいことだった。
 経験を積んだことで、2人とも表現テクニックは向上していた。当初、モノクロームでしか描けなかった松本は、主に女性アーティストを手がけることによって、柔らかく淡い色を使うことを覚えた。南もまた、デビュー時の曖昧な色使いではなく、「ここには、この色」と、強いこだわりを表に出すようになっていた。
 彼らが創り上げたのは、これまでとは違うビビットな色、強い色調を用いた「かつての未来」だった。それはまだ「微熱少年」以前、2人がまだ小学生だった頃。高度経済成長の最中にあった60年代、まだ見ぬ未来は、常に肯定的だった。
 彼らが思い描く未来は、鮮やかな極彩色の希望だった。12色のクレヨンや絵の具で、彼らはまだ見ぬ数十年後の世界を夢想しながら、拙く描いていた。
 レトロ・フューチャーの先駆けとも言える『冒険王』の世界には、かつて「こうなったらいいな」と願う少年達の無邪気な想いが描かれている。往年の挿絵画家、小松崎茂によるビビットなアートワークは、2人によって構築されたおもちゃ箱的世界観を反映している。
 陰影が強く重厚感のある小松崎の油彩画とは対照的に、2人が描く未来は、淡い色調のパステル画だ。あくまでこれまで獲得してきた技術やテクニック、そして手法を用いて、「かつての未来」を描く。少年時代の未来、そして現実の未来とも違う、ヴァーチャルな世界観が、『冒険王』のテーマとなっている。
 なので、シングル・ヒットした「スタンダード・ナンバー」は、このアルバムから大きく浮いている。全然違うコンセプトで作られたから仕方ないけど、セールス考えると入れざるを得なかったんだろうな。そこは大人の判断だ。


冒険王
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南佳孝
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1. オズの自転車乗り
 ちょっと控えめなスペクター・サウンドに、レトロな電子音と50年代ポップス風コーラス。きらびやかな未来感を表現した3分間の魔法。ヴォーカル・スタイルはいつもの南佳孝だけど、清水信之のアレンジがアーバンっぽさをほど良く打ち消している。

2. 80時間風船旅行
 スウィング・ビートに乗って軽やかに駆け巡るオーボエの音色は、古き良きハリウッド映画を想起させる。ベーシック・リズムは丁寧に作られているため、MIDI黎明期の打ち込みとはいえ、十分にグルーヴしている。
 他意のない歌詞はどこまでも素直で前向き、なので南のヴォーカルもメロディも、ここでは優し気な表情を見せている。

3. 素敵なパメラ
 またまた舞台は変わって、今度は60年代ポップ・ソウル。のちにシングル・カットもされた、キュートなポップ・チューン。混じり気なしのステレオタイプのラブ・ソングでありながら、サラッと「付き合えばすぐわかるさ 男の値打ちがね」という一節を滑る込ませる松本のセンスがたまらない。大滝詠一だったら、照れて歌えないんだろうな、こういうフレーズって。
 こんな言葉をサラッと口にできてしまうのが、大人なんだろうな。中途半端な田舎の高校生は、そんな風に思っていたのだった。

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4. COME BACK
 全篇英語詞、なのでこれだけ松本詞ではない。ビートを強調したソフト・ファンク。エフェクトを強くかけた南のヴォーカルは、ちょっとSFっぽい。1分程度の幕間的商品。

5. PEACE
 60年代末と思われる学生運動の情景が描かれているけど、あくまで傍観者的な視点。緩やかなレゲエ・ビートなので、のどかささえ感じられる。ゴダールやコルトレーンなど、時代を象徴するワードもどこか緩やか。みんながみんな、ゲバ棒持って火炎瓶振り回してたんじゃないんだよ、ということなのだろう。
 微熱少年は、そんなことで熱くなったりはしないのだ。

6. 浮かぶ飛行島
 SFマニアにはお馴染み、昭和初期に活躍した小説家、海野十三の代表小説からインスパイアされた、ミステリアスさ漂うナンバー。ジャケット・アートワークのイメージには、最も近い。ここでは南も少年のような声を聴かせ、松本もジュブナイル的な冒険譚を淡々と表現している。

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7. 火星の月
 ほんの1分足らずのピアノ・バラードだけど、松本隆的宇宙が色濃く反映されている。
 
 火星に ふたつの月がのぼるよ
 俺は 最後の煙草 くゆらし
 運河には 朽ち果てた 宇宙船
 気味の写真 胸に抱いて 眠るよ

 舞台が宇宙なだけで、松本の技が炸裂している。受けて立つように、南もまたいつものタッチでアーバン・テイストを醸し出している。

8. 宇宙遊泳
 南があまり使用しない、残響の長いドラムが、無音である宇宙の深遠さを表現している。ヴォーカルのタッチは、いつもの南。レトロSFっぽい暴走した電子音は、ちょっと安直かな。まぁマンガっぽくていいのか、これはこれで。でも、スティール・ドラムは案外ハマってる。
 壮大なテーマを歌っているにもかかわらず、南が歌うと世界は初期村上春樹テイストになってしまう。やれやれ。僕は宇宙で射精した。

9. 真紅の魔都
 このアルバムの中でも人気の高い、疾走感あふれるデジタル・ファンク。やっぱソニーだから、大沢誉志幸っぽいのかな、と思ってたら、レコーディングにはPINKのメンバーが参加していた。そりゃ似るわ。
 アーバンなサウンドに戯画調の歌詞とのミスマッチ感が、逆に個性を際立たせている。この路線でもう何曲かやってほしかったな。

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10. スタンダード・ナンバー
 薬師丸ひろ子のヴァージョンが有名だけど、当時はこちらも結構な確率で耳にすることが多かった。強いアタックのピアノ、ジャジーなホーン・セクション、やたらグルーヴィーなベース・ライン。でも、どのパートも決して熱くなり過ぎないクールさを保っている。
 映画主題歌ということもあって、松本にしては珍しく、ストーリー性が明快で映像喚起力が強い。作詞家としては最も脂の乗っていた時期なので、このアルバムでは封印していたレトリックや断定的なフレーズを多用している。

 愛ってよくわからないけど 傷つく感じがいいね
 泣くなんて馬鹿だな 肩をすくめながら
 本気になりそうな 俺なのさ

 どのフレーズもゾクゾクしてしまう。あぁ、全部書き出したい。



11. 黄金時代
 古き良きラグタイムに乗せて、『摩天楼のヒロイン』のリベンジといったテイストの歌詞。ダンディを突き抜けてもはやコミック的なシチュエーションは、肩の力が抜けてしまう。控えめなシンセが古色蒼然をうまく打ち消している。

12. 冒険王
 この レコーディング中、一通の訃報が2人の心を突き動かした。
 冒険家、植村直己。享年43歳。世界初のマッキンリー冬期単独登頂を果たしたのち、連絡が途絶える。いまだ遺体は発見されていない。
 ここで歌われる冒険王の舞台は、植村の冬山ではなく、アマゾンを思わせる密林のジャングルだけど、未知を追い求める姿勢に変わりはない。2人にとってのヒーローが植村だった、と単純には言えないけど、製作途中にあった『冒険王』への影響があったことは確かである。
 ラストを飾るのは、植村に捧げられた荘厳なストリングス・バラード。ギミックもエフェクトもない、正攻法のナンバー。
 
 君を愛してる 分かるだろう
 もしも帰らなければ 忘れてくれよ
 忘れてくれよ

 忘れられるわけ、ないじゃないか。「愛してる」なんて言われたら、なおさら。
 「忘れてくれよ」のリフレインは、未練のかたまりだ。
 -でも、それが男なんだよ。2人とも、そう言いたいのさ。



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80年代ソニー・アーティスト列伝 その12 - 太田裕美 『I do, You do』

idoyoudo 80年代のソニー・グループといえば、レベッカやハウンド・ドッグ、尾崎豊からTMネットワークに至るまで、来たるバンド・ブーム前夜の日本のロック/ポップス・シーンを一手に引き受けていたイメージが強いけど、70年代は女性アイドルがメインのレコード会社だった。
 総合レコード・メーカーとしては最後発だった、CBSソニーの70年代所属アーティストのラインナップを見てみると、ロック/ニューミュージックの看板アーティストと言えるのは、吉田拓郎や矢沢永吉くらい。いずれも他社から移籍してきた者ばかりで、生え抜きアーティストの存在感はわずかなものだった。
 五輪真弓は「恋人よ」がヒットするまでは通好みのポジションだったし、ふきのとうは、さらに限られたフォーク村での人気にとどまっていた。試行錯誤の途中にあった浜田省吾がブレイクするのは80年代に入ってからだし、シティ・ポップの先駆けだった南佳孝は、もともと大衆的ヒットとは無縁の音楽性だった。

 70年代のCBSソニーを支えていたのは、彼らアーティストではなく、もっと芸能寄りの女性アイドルたちだった。同じ70年代ラインナップを見ると、キラ星のようなメンツが並んでいる。
 創業時は浅田美代子や天地真理に始まり、その後も南沙織やキャンディーズ、山口百恵など、それぞれ一時代を築き上げた旬のアイドルたちが、切れ目なく輩出されている。年を追うに従って、アイドル育成のノウハウが蓄積され、他社とはひと味違ったコンセプト、例えば雑誌グラビアやジャケット撮影ひとつにおいても、アイドル定番の貼り付けたような営業スマイルではなく、篠山紀信によるアーティスティックな写真を起用するなど、従来のセオリーをはずすことで、他社との差別化を図っていた。80年代から始まったとされるソニーのビジュアル戦略は、実は早い段階から試行されていた。
 フォーク/ニューミュージック系のアーティストは、すでに他社の青田買いによって、有望な新人には大抵手がつけられていた。新参者だったソニーが他社との優位性を図るには、育成期間もそれほどかからず、メディア露出によって即効果の出やすいアイドル系に力を入れざるを得なかった、といった事情もある。

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 もともとナベプロ主宰のスクールメイツで、後にキャンディーズとしてデビューする面々と同期だった太田裕美は、ソニー通常の育成ラインに沿えば、オーソドックスなアイドルとしてデビューするはずだった。だったのだけど、ナベプロ的にはキャンディーズをプッシュして行きたい、という意向もあって、また、初期のディレクター白川隆三が主に洋楽を手がけていたこともあって、シンガー・ソングライターとアイドル、そのハイブリッド・スタイルでのデビューとなった。
 その白川のインタビューによると、ちょうど小坂明子が「あなた」で鮮烈なデビューを飾っていたことから、「ピアノによる弾き語り女性シンガー」という世間の新たなニーズに応えた、とのこと。ちょうど近くにいた太田裕美がピアノが弾けたから、という偶然の出逢いは、単なる偶然というより時代の要請でもあった。
 アイドルで通用するルックスを持ち、しかも自作自演もできるとなれば、まだどこも手をつけていない分野だった。戦略的に言って、その選択は的を射ていた。

 そんな隙間を狙った戦略が実を結んだのが、代表曲の「木綿のハンカチーフ」で、その後も基本は松本隆と白川によるアーティスト戦略に沿って、スマッシュ・ヒットを重ねていった。
 この分野においては、竹内まりやが出てくるまで、彼女の独壇場だった。アーティストとアイドル、両面バランス良く対処できる女性歌手は、なかなか現れなかったのだ。
 ただ、そのバランス感覚は、のちのち仇となる。悪く言っちゃえば、どっちつかずの状態ゆえ大きな爆発力を生むことはなく、ポジション的には終始、トップグループの2番手か3番手という位置にあった。
 たまにバラエティに出たりはするけど、イメージ戦略の都合上、当時のアイドルの定番であるグラビアやコント出演は、極力抑えられた。アーティストというポジションでは、「隣りのお姉さん」的な親しみやすさは薄かったため、当時の青少年から見れば敷居が高すぎ、妄想を掻き立てずらかった。
 とはいえ、「アーティスト」と名乗っているわりには、ほとんどの楽曲は外部委託、アルバムでも自作曲はほんの1〜2曲といった具合だった。今でこそ、「アーティストは作詞作曲ができてこそ一人前」という空気でもなくなったけど、ニューミュージック全盛時は、最低でも作詞は自分で行なうのが当たり前とされ、単に歌うだけなのは、歌謡曲の人間とカテゴライズされていた。
 そんなわけで、当時の太田のポジションは、「自称アーティストを名乗るアイドル」といった具合である。双方のおいしいとこ取りを狙ったにもかかわらず、どっちのカテゴリでも着地点が見出せなかったのは、時代を先取りしすぎた不幸でもある。
 アイドルの解釈の多様性が広がって、森高千里が登場できるようになるまでには、もう少し待たなければならなかった。

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 今も昔も変わらないけど、女性アイドルの賞味期限はとても短い。どれだけトップグループを維持しようと、歳を取ればバトンタッチしなければならない。代わりの新人はいくらでも出てくるし、そりゃ新しい方が鮮度も違ってくるので、次第にかわい子ちゃん路線は通用しなくなる。
 個人差はあるけど、一般的にその賞味期限は3〜5年、それを過ぎると、路線変更を余儀なくされる。そりゃやってる方だって、いくつになってもミニスカ・ドレスやビキニ・スタイルで営業スマイルばっかりだと、ウンザリしてくるだろうし。
 大抵は芸能界引退、ごく少数は女優へ転身する者もいたけど、トップグループ組で最も多かったのが、大人の歌手への転向だった。処女性を前面に出したマスコット的存在から、もう少し年齢に即した「大人びた恋愛」をテーマにすることによって、コンテンポラリーな歌謡曲へとスライドしていくのが、セオリーとされていた。

 で、デビュー以来の松本隆-筒美京平コンビによる青春路線から、イメージ・チェンジを試みていた太田裕美が巡り合ったのが、大滝詠一だった。
 まだロンバケのヒット前だった彼から「さらばシベリア鉄道」を譲り受け、それが小ヒットにつながった。アイドル的には賞味期限が切れ、アーティストとしては迷走中、セールスも低迷していた彼女にとって、それは大きな転機となった。
 歌詞を書いたのは松本隆だったけど、シンガー大滝詠一を想定して書かれた言葉は力強く、アイドル的な世界観とは一線を画していた。
 続いて松本-大滝コンビによって制作された「恋のハーフ・ムーン」は、太田裕美のイメージを保ちつつ、彼の特性であるオールディーズ風味を交えた、キャッチーなポップ・チューンだった。こちらも大きなヒットにはならなかったけど、おおむね評判は良く、アーティスティック路線へのスムーズな移行は、これで問題ないはずだった。
 実際、それはうまく行きかけていたのだけど。

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 1982年、太田裕美は活動休止を宣言し、単身ニューヨークへと留学してしまう。徐々に仕事はフェード・アウトしていたのだろうけど、ファンや世間からすれば、それは突然のできごとだった。年齢的にアイドル仕事は無くなっていたので、旧来の清純派イメージを保持したまま、アーティスト活動へシフトして行くのが、自然な流れのはずだったのだけど。
 帰国後にリリースされた復帰第一弾『Far East』は、レコードA面をニューヨーク・サイド、B面を日本サイドに分けて制作された。ニューヨーク在住のソングライター・コンビによる、コンテンポラリー寄りのロック・サウンドは、従来の歌謡フォーク的なウェット感を一掃した。
 また日本サイドでは、まだ知る人ぞ知る存在だったテクノ・ポップ・バンド「チャクラ」のリーダー板倉文を大々的に起用、まだお茶の間には浸透していなかったニューウェイヴ・テイストの楽曲は、古参ファンの度肝を抜いた。
 とはいえ、従来イメージの面影を残すかのように、従来の歌謡フォーク的楽曲も収録されていたため、大きな混乱には至らなかった。少なくとも『Far East』では、アーティスト路線へのソフト・ランディングは成功したように思われた。
 問題はその次だ。
 ここから太田裕美は覚醒する。

 わずか半年のインターバルでリリースされた『I do, You do あなたらしく、わたしらしく』は、前作の日本サイドで展開されたテクノ・ポップ・サウンドがフル稼動している。『Far East』はいわば、試運転と世間の動向をリサーチするためのアルバムであり、ほんとにやりたかったのは、こういったサウンドだったのだ。
 当時、聖子プロジェクトで頭角を現し、ライト・ポップなシンセ使いとして脂の乗っていた大村雅朗が全面参加、ここではラテンやレゲエなど、多彩なリズム・アプローチを駆使しつつ、最新MIDI機材のスペックを最大限まで引き出したテクノ・サウンドで遊びまくっている。
 「しっとり落ち着いた大人の歌手」然としていた大滝作品とは一転して、これまで築き上げたキャリアをチャラにしてしまった、一周回って大人可愛いアイドル唱法は、オモチャ箱をひっくり返したようにとっ散らかったサウンドとマッチしている。いわば、のちのガールズ・ポップの原点と言える。
 徹底的にフィクショナブルな空間構築のため、重要なファクターとなったのが、初めて起用された作詞家山本みき子が持ち込んだ世界観だった。書き出してみると、捉えどころのない無意味なフレーズの羅列だけど、死角から突拍子もなく飛び込んでくるその言葉たちは、発語の快感に基づいた言語感覚に紐付けされ、未曽有のイマジネーションを喚起させる。のちに作家に転身して「銀色夏生」と名乗ることになる山本の、どこから飛んでくるかわからない千本ノックのような言葉の礫は、作曲家太田裕美の能力を覚醒させる。
 『Far East』同様、『I do, You do』でも、従来ファン取り込みのための印象派バラードも収録されているのだけど、それはもはや付け足しでしかない。太田-銀色によるコラボが残した最高傑作「満月の夜 君んちへ行ったよ」の前では、無難なバラードは霞んでしまう。
 強烈な無意味、強力なオリジナリティは、いま聴いてもインパクト十分。何かよくわかんないけど、聴いてて楽しい。踊りたくなってくる。
 これだけで、もう成功だ。

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 「大人になる」とは「丸くなる」こと、「フォーマルを装う」というのは、今も昔もあんまり変わらない。「成長する」ということは、「窮屈さを甘んじて受け入れる」ことと、ある意味では同義である。
 でも、単に世間に流されて、上記の感じで大人になっても、いいことなんて何もない。どうせ大人になるのなら、違う道だってあるはずだし、それならそれで自分で選びたい。
 そんな風に思ったか思わなかったか、とにかく世間の思惑の斜め上を行った彼女のイメチェンは、かすかではあるけれど、確実に衝撃を残した。現役アイドルも霞んでしまう、ファニーでポップな甘いヴォーカルは、それまでかしこまっていた太田裕美像のアンチテーゼとして、また無理にフォーマルに収まろうとする大人の歌手への痛烈な批評となった。

 その後も太田裕美の覚醒は治まらず、『I do, You do』で手応えをつかんだテクノ・ポップ路線をさらに深化、ご乱心時代の総決算となる快作『Tamatebako』 をリリースする。ただ残念なことに、イメージ・チェンジに着いていけなかった従来ファンは離れたことによって、セールスは低迷する。
 シンセ機材のスペックを丁寧にアップデートすれば、今の時代にも通用する極上のポップ・アルバムなのだけど、主力ユーザーになるはずの「TECHII」や「POP IND'S」読者が彼女の動向をつかんでいなかったこと、また、本来なら買い支えるはずの従来ファンが離れてしまったことが、彼女にとっての不幸だった。
 考えてみれば、中島みゆきの「ご乱心」だって相当なものだったけど、ファン離れはそれほど起きず、熱心に買い支えていたのだ。そう考えると、薄情なもんだよな太田裕美ファンって。
 この路線が志半ばで終わってしまったのか、それとも十分やり切った結果なのかはわかりかねるけど、イメージ定着にはもう1、2作は続けて欲しかった、とは今になって思う。もうちょっと続けていれば、「TECHII」読者も気づいてくれただろうし、「PATi PATi」創刊にも滑り込めて、ビジュアル展開が面白かったんじゃないかと。



I do,You do あなたらしく、わたしらしく
太田裕美
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1. 満月の夜 君んちへ行ったよ
 チョッパー・ベースとシモンズによるベーシック・リズムをバックに、エスニック・ドラムによる怪しげなムードを醸し出しながら、銀色によるシュール・ネタのような無意味性の凝縮は、太田裕美のヴォーカルすら別世界へ導く。

 満月の夜 君んちへ行ったよ
 満月の夜 君んちへ行ったよ
 なのに 君んちは 丸い丸い月の中に
 君んちは ぷかりぷかり 浮いてしまってて

 清純派アイドルが書いた、アルバム用の自作詞よりもぶっ飛んだ言葉たちは、メロディやアレンジの可能性を開放する。ほぼタイトル連呼のサビとAメロだけで構成されたメロディを包むアレンジには、Human LeagueやOMDらUKダンス/ニューウェイヴの影響が色濃く反映されている。
 自身で書いたメロディだから、いわば当たり前ではあるけど、注目すべきなのは歌のうまさ。単なるピッチの合わせだけじゃなく、リズム・パートとメロディ・パートでの歌い分けは、やはりベテランならではの表現力の豊かさ。



2. 葉桜のハイウェイ
 チャクラ板倉によるミディアム・ポップ。タイトルからしてメロディからして、従来タイプの楽曲だけど、ほぼDX7によるシーケンス・リズムやテクノポップ風エフェクトは、やっぱりソニーだけあってレベルが高い仕上がり。
 やっぱり注目してしまうのは、銀色による、日本のロック/ポップスでは、まず使われることがなかった、独特の言語感覚。「早く帰って お風呂に入ろう」「今日も世界は みかん晴れ」なんて、普通思いつかないよな。皮膚感覚に基づいた言葉を書く女性アーティストの出現は、ドリカム吉田美和まで待たなければならない。あ、そういえば彼女もソニーか。
 その銀色の言葉を自分の言葉として吸収し、こんな大人カワイイ楽曲として歌いこなしてしまう太田裕美の底力といったらもう。ヴォーカル録りしててテンションが上がったのか、アイドル顔負けのフェイクも入れている。

3. お墓通りあたり
 いきなり木魚の音からスタート。そこから導かれるように、オリエンタルなピアノの調べ。なんだこれ。チャイナ風メロディから紡ぎだされる、印象的なフレーズ。
 「たばこ屋はいつも 角にあるね」「三叉路はいつも 風が来るね」。思わせぶりでいて実は無意味な空間はシュールで、どことなくつげ義春の世界を思わせる。

 そんな風に 誰かときっと すれ違ってしまうんだね

 突然、こんなフレーズを滑り込ませちゃうのだから、油断がならない。アレンジと言葉、そして歌とが絶妙のバランスで拮抗している。



4. ガラスの週末
 普通に80年代アイドルに提供できそうな、完成度の高いポップ・ソング。完成度が高いというのは「うまくまとまっている」ということで、冒頭3曲のインパクトと比べると、ちょっと霞んでしまう。でも考えてみれば、このくらいテクノ度を薄めてやった方が、一般性はあったのかな。このままバックトラック使い回して南野陽子が歌っても、違和感なさそうだし。
 あ、彼女もソニーか、そういえば。

5. こ・こ・に・い・る・よ
 複雑な変拍子と転調が交互にやって来る、大陸的な雄大さを思わせる正攻法のバラード。ニューミュージック時代とは違って一皮むけた、品格の高さを思わせる。でもね、これだけ録音レベルが低く、こもったような音がクオリティを損なっているのだけど、これって俺のCDだけ?

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6. 移り気なマイ・ボーイ
 コケティッシュな大人の女性じゃないと歌いこなせない、一周回ってアイドルを演じてみました的な、はじけたアイドル・ポップ。キョンキョンより早かったんだな、批評性を感じさせるアイドル・ソングって。ファズ・ギターをフィーチャーしたバンド・サウンドと、チャイナ・テイストのエフェクト。確かにキョンキョンが歌ってても違和感ないよな。
 キョンキョンはビクターだった。ちょっと惜しい。じゃあ渡辺美奈代だな。

7. パスしな!
 シンセ奏者として全面参加している川島裕二作曲による、レゲエ風味のテクノ・ポップ。ダブっぽいリズムとコンプをかけたヴォーカル、ラテンっぽいエフェクトは南国テイスト満載。
 アイドル・テイスト全開のファニー・ヴォイスで歌われるのは、シュールでキュートで実は無意味で刹那的な銀色ワールド。意味なんてあるもんか、ノリがイイからそれでいいでしょ。

8. ロンリィ・ピーポーIII
 名前だけは聞いたことがあった、シンガー・ソングライター下田逸郎による、大人の恋愛模様を描いたトレンディな空間。前作『Far East』からの連作で、アイドルを卒業した女性シンガーにはぴったりの世界観だけど、銀色夏生のシュールリアリスティックな文体と比べると、あまりにオーソドックスで分が悪い。
 歌詞の平凡さとは対照的に、板倉アレンジによるサウンドは凝りに凝りまくっている。琴の音色をエフェクト的に使ったオリエンタル・サウンドは、東洋音階に凝っていたと思われる太田のメロディ・ラインとの相性も良い。アウトロはちょっとカオスだけど。

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9. ロンリィ・ピーポーII
 なぜかIIIの後のII。8.のプロローグ的なモノかと思ったけど、歌詞には特別関連性はなさそう。多分、あんまり深い意味はないんだろうな。「福生ストラット」みたいなもんか。
 シングルとしても発売されており、多少はそれ向けにかしこまったのか、作曲は岡本一生・亀井登志夫の歌謡曲畑によるもの。なので、8.ほどの破壊力は薄い。

10. 33回転のパーティー
 ラストは正攻法。アーティストとしての顔を強く押し出してきたけど、アイドルとして活動してきたことは、誇らしい過去でもある。大人のアイドルとして何を歌って行くのか、その理想形のひとつが、この珠玉バラード。






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北海道の中途半端な田舎に住むアラフィフ男。不定期で音楽ブログ『俺の好きなアルバムたち』更新中。今年は久しぶりに古本屋めぐりにハマってるところ。
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